第5話

目に光が戻り、情報の波が押し寄せる。


シュラは脳に雪崩れ込む不可解の山と必死に格闘していた。




月追の神殿、その本殿で真実を知り、涙を切るように天井を仰いで、それから




「それから……勿忘草か」




だが、それではこんな場所にいる理由が説明できない。




(海、だよなあこれ。そんで、木ってこんな生え方するのか?)




シュラの眼前に映るは本や詩でよく聞いた透き通る大海。


水色を蒼で濾した様に見えるそれは、この世のものとは思えない。


辺りを見回してもどこまでも広がるそれは、終わりなど到底無いように地平、あるいは水平の彼方に渡っている。


そんなある意味絶景とも言える蒼海に旗を立てるが如く、そびえ立つ大樹が一本。


神都の大時計塔、とまではいかずとも普通の樹木では考えられないほど太く長く、海水に晒されているにも関わらずその葉は青々と繁っている。


そしてシュラの思考の混迷を煽る最たる要因は、それらのどれでもなく




「なんで俺は海の上に立ってるのかね」




その一言に尽きた。


上下を白で揃えられた隊服に合わせる様に、黒を下地に白い線が引かれたコンバットブーツが踏み締めているのは地面ではなく海面だった。




(波が全く無い。小手で均した様な静けさ、どう考えても普通じゃねえな)




シュラは恐る恐るしゃがみ、グローブを着けていない右の手で海水を掬う。


一切の抵抗無く手のひらで作った窪みに溜まる水に、不自然な点はない。




(一定以上の重量に反応して固まるのか?いや、それにしては作られる波紋の形がおかしいな。


だとすると…………こんなわけのわからん物事は大抵魔法が関係してるんだが)




全部魔法のせい、とすれば大抵の事象に説明はつく。たとえ魔法そのものの原理が説明できなくても。


しかしその考えを根底に話を進めるには、思考に一つのわだかまりが生じている。


シュラが今いる場所、大海のど真ん中にはあるべきものが存在していなかった。


それは人だとか、地面だとか、人工物ではない。




「希想が、無い。これっぽっちも」




耳無し、魔法不能者は活性状態にない希想セレンを知覚することは出来ない。


普通の人間は生まれてすぐ、もしくは母体にいるときから希想を体内で循環させ生命の安定を図り、物心がつく頃には自分の周囲を漂う砂粒よりも小さい何かとして希想を知覚する。


だが、人並外れた五感を持つシュラには非活性状態の希想をかろうじて認識することが出来ていた。


目が、耳が、鼻が、それぞれがわずかに違和感を伝えていた。そこに何かがあると。一つ一つは微細な情報であっても合わせればうっすらとその何かの存在は浮かび上がってくる。




しかしシュラが立つこの海の世界には、なんの違和感も無い。


まるで、本来そうあるべきかのように、希想という不純物を取り除かれた大気はよく澄み渡り、五感に不和を伝えない。


右手を軽く振り水を切れば、水滴は何にぶつかることもなく海へと還る。


無垢なる自然である。




「参ったな。手詰まりだ」




ここがどこだかわからない上に、帰る手立ても見当がつかない。


助けなど望むべくもなく、手元にある物資はあまりにも頼りない。


端的に言えば、絶体絶命だった。




「とりあえず……歩くか」




唯一の救いがあるとすれば、彼はそんな経験は初めてではなかったということか。








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どこまでも広がる水平を歩き続けながら、シュラは片時も思考を休ませることなく脱出、あるいは帰還の手立てを探っていた。




(気温は二十度前後、空は快晴。


気候自体は普通だが…。神殿にいた時は夜だったはずだ。地球の反対側まで飛ばされたってのか?


いや、そんな魔法はあり得ねえ。何から何まで異常すぎる。そんな魔法が存在してたなら歴世管理機関が黙ってねえはずだ。


あの場には俺とリラの二人しか居なかったはずだ。


リラは体外放射の魔法は使えない、だとすると第三者がいたのか?いや、それも考えづらいか。場所が場所だ。潜り込むのなんざ不可能に近い。


天井に魔法を仕込む技術なんて聞いたことも無い。神殿で神隠しなんざたちの悪い冗談にも程があるぞ。




そういや…随分時間が経ったはずだが…リラ、怒ってそうだな)








歩き始めてから二時間、シュラがそんなことを考えている間に、ついに世界が動き出す。


海の上だと言うのに、その鳴動する大地は感覚器官にその存在を強く訴える。


立っているのが困難なほどの大揺れが収まった後に残ったのは、遥か遠くから段々と近付く轟音。


穏やかそのものだった大海は、やがて意思を持ったように波立ち、"シュラめがけて"押し寄せる。




「はあ!?くそっ…!」




脈絡無く襲い来る大自然、見れば地平と地平を結ぶ様に大波が出来上がり、シュラを追いたてるように怒濤を成していた。


海そのものが猛るさまは、到底一人の人間に向けられていいものではない。


心の中で舌打ちし走り出したシュラだが、いくら人並外れた脚力を持ってしても大津波から逃れる術はない。




形作られた水流は小さな人間一人を苦もなく飲み込み、果てへ誘う。








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(厄日だ)




仰向けに倒れたまま目を覚ましたシュラが最初に考えたのはそんなことだった。


ずぶ濡れになった隊服がたっぷりと水を吸い、立ち上がる気は起きなかった。


眼前に広がるのは雲一つ無い青い空、背中に伝わる感触は水とはまた違う何かだった。




「クソッタレの国の命令で命懸けて、その結果国に命狙われるとかアホらしいにも程がある」




半眼のまま、空にぶつけるように不満が口をついて漏れる。


ここには誰もいない。


命を狙う刺客も、石を投げてくる民衆も、守るべき家族も。


七年間張り詰めていた緊張の糸は、ここに来て緩みきっていた。




「小心者のバカ共のせいでなんで俺らが辛い思いしなきゃならねえんだ」




気を許せる弟妹達の前ですら、いや、だからこそこぼすことの出来なかった愚痴の嵐が堰を切って止めどなく吹き荒れる。




老獪な為政者や、頭の堅い軍人を相手に一時も油断できない日々。


この世の終わりのような魔法が入り乱れる戦場で片足を引きずりながら息を殺して歩いた思い出。


心に傷を負った弟妹達の笑顔を取り戻すために苦悩する毎日。


そんなものは、ここには無い。




誰もいない、何も無い世界で、人は取り繕うことは出来ない。


剥き出しの感情が傾いた日に照らされ、ちりちりと焼ける様だった。






「なあ、姉さん……。本当にわかるのかな、俺なんかに」






力無い独白に応える者は、この世界には、
























「うるっさいのう」








いた。








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頭上からかかった声に飛び起きたシュラは、今まで自分が何の上で寝転んでいたかようやく知ることになる。


それは氷、もしくは結晶。


なんの変化も見られなかった海のこの一角に、絶海の小島と呼ぶにはあまりにも小さい半径二メートルも無い氷晶で出来たかりそめの陸地。


その限られた面積を、縁という縁にありとあらゆる宝飾が施された巨大な椅子が半分ほど占めている。


さしものシュラも呆気に取られ、条件反射で腿のホルスターから取り出していたナイフを氷晶へ落としてしまう。




華美な椅子には、背中預ける者が一人。




社交の場で幾人もの美形を見てきたシュラですら目を疑う程の美貌。


目に少しかかる透き通る蒼い前髪、長い睫毛が覆う空色の瞳、艶やかな唇。目鼻立ちの完璧なバランス、あどけなさをほとんど残していない、ほとんど大人の女性と言って差し支えないその顔立ちは、美を追求する者達からすれば嫉妬と羨望の対象に他ならないだろう。


その鋭く尖った耳は神に愛された証だが、二物も三物も与えた神を咎める声があってもおかしくはない。


身体の膨らみを隠す黒いエプロンドレスは一切の余計な装飾が削ぎ落とされており、化粧っ毛の無い相貌と相まってある種神々しささえ漂わせていた。


肩とふくらはぎの先はそれぞれ大胆にも露出されており、魔性と言うに相応しい蠱惑的な色を醸している。


暴力の様な美、そのものに、シュラは固まっていた。


控えめに言えば、見とれてしまっていた。




「……む?」




右肘を椅子の手すりに置き頬杖を突くその存在は、姿勢はそのままに少しだけ小首を傾げる。


それだけの仕草でも随分と様になっていて、見るものをどぎまぎさせる。




「そこの銀の者、もしかして…私の言葉が届いていないのか」




そこでようやくシュラは我に帰り強ばっていた身体の力を抜く。


頭髪をねずみ色だの鉄の色だの言われるのは日常だが『銀』と評されるのは二十年近く生きて初めての経験だった。


だがこの場に自分以外の人間は見当たらず、別人に声をかけたという訳でもないだろうと思い、シュラは随分と久々に感じる会話へ言を進める。




「あ、ああ…悪い。少し動転していた。こんな場所で人に会うとは思っていなかったのでな」




「ふむ、それは私も同じだが…。


一向に気付かれずそのまま愚痴を聞かされるとは思っていなかったぞ」




子供の様に口を尖らせ眉をハの字に不機嫌さをアピールするが、どう見ても本心ではない様だった。


その空色の目が爛々と輝いている。隠しきれない喜び、それが何に起因するものなのかは判然としないが、相対して嫌な気分になる類いのものではなかった。


警戒するのも馬鹿らしくなり、シュラはため息を堪えながらどっかりと氷晶の上に座りあぐらを組むが、目の前に白磁を思わせる素足が並ぶ事を失念していた。結局、ばつが悪そうに立ち上がり腕を組んで立つ彼を、不思議そうに眺める視線が残るだけだった。








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「私の名はステイリア。


ステイリア・ローザだ。その銀に免じて特別にステラと呼ぶことを許そう」




「…………………ステイ…リ、ア?


いや、それは……」




それは神都の名ではないか。


たまたま同じなのか?いや、娘に都と同じ名を付ける親などいるのか?


シュラの頭の中ではまた更に増えた謎の種が根を張り脳を刺激する。


考えることは嫌いじゃないが、どれほどの好物だろうと山ほど与えられては誰だって困るはずだ。




「私の名がどうかしたのか?


良い名だろう。数ある誇りの一つだ」




今度は自信たっぷりの表情に腕を組み胸を張る。


表情が山の天気の様にころころと変わる。そのどれもが圧倒する美貌によって形成されているため、気後れを覚えるのは避けられないが。


打てば響くその反応は、静かな水面の様だとシュラは観察していた。




「確かに良い名だ。偉そうだ」




「ふふん。そうだろう。………ん?」




弓なりに反らんばかりの背を戻し、今度は怪訝そうに目を細める。


本当に色んな顔を惜しげもなく披露してくれる、そうシュラは思い、少し意地の悪い笑みを浮かべる。




「俺はシュラだ。よろしく、ステイリア」




「ス・テ・ラ!だ。折角この私がそう呼ぶことを許可してやってるというのに。


有り難みを感じぬか、有り難みを」




会話を楽しむなどいつ以来だろう。


今度は眉を吊り上げて怒るステイリアを見て、シュラは素直に微笑ましいと感じてしまう。


誰もいない、何もない世界だからこそわかってしまう。


彼女には、おおよそ悪意と呼べるものがない。


尊大な口調に微塵も嫌味を感じさせないのも、それゆえだろうか。


打算の乗らない自分の言葉を聞いたのはいつぶりか。


この七年間で新たに築いた人脈の中で心を許せるまでに至った相手は片手の指で足りる程だ。


それでも自分の中では多い方だと思っていた。


それなのに、初対面のはずの彼女にまるで警戒できない。


敵意を向けられない。




「いいか?貴様にはまず敬意というものがまるで感じられん。語尾に敬愛するステラ様と付けるようにしろ」




「わかった、ステイリア」




「ぬぬぐぐぐ…」




それは多分、彼女の無垢ゆえだろう。


生まれたばかりの赤子を憎む者がいないように、不純が一切混じらない魂に悪感情を抱くことはとても難しい。


そんな人間が存在することがシュラにはとてもではないが信じられない。


だがこうして目の前で唸りながら半眼をぶつけてくる彼女は紛れもない本物である。




「して、貴様は何と呼べば良いのだ?


そのシュラというのも愛称か何かだろう?」




蒼い髪が少しだけ揺れ、ステイリアは先程までシュラが浮かべていた様な黒い笑みを浮かべる。あわよくば自分も仕返ししてやろうとでも考えているのだろうか。


あまりにもわかりやすいその態度はシュラからしてみれば噴飯ものだったが、百戦錬磨の表情筋は主の意思無く動くことはない。




「俺はシュラだ。それ以上もそれ以下もないぞ」




「…そうか、残念だ……」




(すげえ落ち込んでやがる……なんで本当の事言ってるのに罪悪感に見舞われてるんだ俺は…)




何とも飽きが来ない。


生来、あまり人と話すことが得意ではなかったシュラが、いつまでも話していられると思ったのは彼女で二人目だ。


もうしばらく遊んでいようかと思いかけ、今の自分が置かれている状況を思い出し、冷や水を浴びせられた様な気分になる。


こんなことをしている場合ではないのだ。




「なあ…ステイリア。


俺は気付いたらこの場所に飛ばされてたんだが、もとの場所に帰る方法とか知らないか?」




「…………………」




「あの、ステイリアさん?」




「………」




「す、ステラ…?」




「…なんだ」




面倒くさい…!、とシュラは胸中で叫び顔にはおくびにも出さないよう努める。


図抜けた美人でなければ許されないような態度かもしれなかったが、そもそもシュラにも非(?)はあるので、気を取り直し会話を続ける努力に骨身を惜しまない。




「ここからもとの場所へ帰る方法とか、ご存じないかなって」




「………夜になればわかる」




「本当か!よかった…これで手がかり無しだったらどうしようかと」




「……」




喜ぶシュラとは対照的にステイリアはつまらなさげだ。


腰まで落ちる蒼い長髪の先を指でくるくると巻いてはほどいている。




そもそも彼女はどういう存在なのだろう。


この世界の住人なのだろうか。


それとも自分と同じようにどこからか飛ばされて来たのか。


喋るだけ喋って肝心なことは名前以外何もわかっていない。


視線を左右に振るが見渡せど蒼海が広がるばかりだ。




「……なあ、シュラ」




「ん?どうした」




「話を、せぬか?」




話ならずっとしていただろう、とシュラは言いかけ、先程までは大して中身の無いものばかりだったなと思い直し、何を話の種にしようかと考えを巡らせる。




「お前の話をしてほしい」




考えている間に相手側から要望が出される。


シュラとしてはステイリアの事をもっと知るために話を膨らませようとしていたのだが出鼻を挫かれたようだ。




「俺の話、か。聞いても面白くないと思うが」




「聞きたいのだ。ダメか?」




そんな上目遣いで断れる男などどの世界にも存在しない。


随分と狡い切り札を持っている、とシュラは諦め、語りだす。








「━━━━━━━」




語り出しは、七年より前から。


死にかけているところを拾われたこと。大切な人達がいたこと。


大切にされていたこと。




「……━━━━━━━━━」




不思議を知ったこと。


夢を与えられたこと。


未来を与えられたこと。


生きる意味を教えられたこと。






「━━」






奪われたこと。


失ったこと。


泣いたこと。




それから七年、ずっと笑えなかったこと。


そして、もとの場所に帰れば破滅の運命が待っていること。


全部を包み隠さず、心情そのままに語る。


途中、ステイリアに促され、その素足の横に並ぶように大椅子の前脚に背を預けあぐらをかき、果てなき海に想いをこぼした。


憎しみも、悲しみも、怒りも。




悲惨を絵に描いたような重苦しいシュラの昔語りを、ステイリアは黙って聞いていた。


同情を口にするでもなく、その瞳はシュラと同じ方を向いている。


夕日が水平に沈んでいく様はどこか象徴的だった。




長い語りも遂には終わり、自嘲のような笑みを浮かべるシュラが小さく口を開く。




「もう、涙も出やしねえ」




昔を思い出す度に心は滅多刺しにされ、荒れ狂った感情は要らぬ思いを刺激する。


夢枕にイリスやシスター、ワイズや死んだ弟妹達が立った朝には、胃の内容物を全て洗面台にぶちまける事から一日が始まる。


それなのに、なぜかこの場ではすんなりと話すことが出来た。


ささくれ立った心は変わらないはずなのに、辛い想いは重石の様に胸に沈んでいるのに、不思議と不快ではなかった。




「それは違うぞ、シュラ」




「……何が違うってんだ」




不意の言葉に、少しぶっきらぼうな返しになってしまった、とシュラはわずかに頭を振り、胸中で自省する。


そんな様子を聡く眇めたステイリアは、大人びた笑みを彼に見られないよう一瞬だけ浮かべ、瞬きと共にそれを消す。






「涙とは、言葉に、行動にしてもらえなかった感情が溢れて零れるものだ。


お前の感情は、しかとこの大きな海が受け止めてくれたのだから。


……それでも泣きたいというのなら。


星よりも大きい私の心で抱きしめてやる」






シュラは彼女を無垢だと評していたが、今その考えは少しずつ揺らいでいた。


これは、何も知らぬがゆえの透明さではないのだろう。


その逆、抱えきれぬ想いを、感情を知っているからこそ、その色は如何なる濁りも受け入れる。


やがて溶けて、混じり合うまで、寄り添って、色を同じにする。


正しくあるのは、人の行いには難しい。


強くあるのは、人の身体には難しい。


優しくあるのは、人の心には難しい。


それでも、そうありたいと願う人の傍に居続けるのが、彼女の在り方だった。








黄昏た世界が、少しずつ黒に沈んでいく。




夜空の星々が天を覆い尽くすまで、二人の間に言葉は無かった。








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「……一つ、お前に謝らなければならない事がある」




月の無い天球に囲まれ、星空と水平の境目を追うように見ていた二人の長い静寂はその一言で終わりを告げる。


夜のもとにある海は水面に反射した星々をちりばめ、天を落としたかの様だ。


どれだけ地上が暗くても、天体が明るくともこうはならない。




先に口を開いたステイリアは、しかしその先を口にするのを憚られたのか、眉間に薄く皺を寄せそれ以上続きを話そうとしない。


急かすでもなく背を向け待っていたシュラだが、その空白の時間を持ってして、一つの確信に至る。


考えたくはない可能性だったが、今さらだろう。


うつむくステイリアに優しく言い聞かせるように、シュラは前を向いたまま話しかける。






「本当は知らないんだろう」




「…………」




「帰り方」




「………ああ。私は……知らない。どうやって来たのかも、わからない」




なんとなく気が付いていた。


彼女の反応は正直すぎるのだ。


嘘と欺瞞に満ちた世界で数多の謀略に晒されてきたシュラでなくとも違和感を覚えざるを得ないほどには。


透明だから、嘘ですら透けてしまう。




だがシュラにそのことを責める気は欠片も無い。


相次いだ凶事凶報に心乱される中で、彼女と居た時間はとても安らかなものだった。


目を伏せ両手を膝の上で握る彼女を糾弾することなどとても出来ない。




「でも、なんでそんな嘘ついたんだ?」




「それは………」




言葉に詰まり視線を右往左往するステイリア。出会ったばかりにも関わらず、シュラは背の後ろで返答に困る彼女の姿を珍しいとまで感じていた。


それほど言いづらい内容なのだろうか。あまり自分の事を話したがらない彼女を詰問する様な真似はしたくない。




「あー……。言いたくないなら言わなくていいぞ?別にどうしても知りたいわけじゃ……」




「………………ったから」




椅子に座るステイリアと、地べたにあぐらを組むシュラでは視点の高さが違う。


それでも、二人を見つめる水平線と星々からすれば誤差とすら呼べないだろう。


そんな、少し離れた距離。同じ視線の向きのままステイリアは両手を胸の前で握り合わせ、祈るように、懺悔する様に長い睫毛を伏せる。




「……知らないと言えば。お前がどこかへ行ってしまうと、思ったから……」




「………あー……そうか」




聞いてみれば、何てことのない理由。


得心がいったシュラは、大椅子の前脚に後頭部をあて、降り注ぐ星を瞳に映す。


神都で見るからにそれより随分と明るく、数が多く見える。


よく見れば象る星座も全く違うもので、ますます遠い場所に来たものだと浸ることになった。




「いつからいるんだ?……ここに」




「…………夜を数えて、もうすぐ三十万だ」




その途方も無い数字は、この満天の星空の下でなければ到底受け入れられなかっただろう。


それは数百の年。自分にとっては絶景と言える目の前に広がるそれらを、彼女はとうに見飽きていてるのかもしれない、とシュラは言い様の無い寂しさを身につまされる。




「……この世界に来てから数日して、微かに残っていた希想を使って命を凍らせた。


心までは凍らなかったのは、失敗だったが。


この椅子に座ったまま、終わりを選ぼうかと思っていたところで…………、シュラ、お前が現れたのだ」




「……」




「幻でも見ているのかと、自分の目を疑った。無意識の内に氷は溶け、長らく忘れていた自分の声を聞いた。


……ずっと話していたいと思った。ここに居て欲しいと願った。


だから、…………嘘をついた」




今にも泣き出してしまいそうな震える声音には、沢山の感情がこもっているのだろう。


それは多分、彼女にしかわからない。


人の心などわかるはずがない。


同調する振りは出来ても、真に理解したと感じるほど遠退いていくものだ。




だからシュラは、先ほど彼女がそうしてくれたように、ただ言葉を受け止める。


理解なんて出来るはずが無いのだから、それでも理解してあげたいと願うことに意味は無いのかも知れなくても、傍で聞いていよう。




笑ってほしかった。


彼を大切に思う人々がそう願っていた様に、彼もまた誰かにそう願っていた。




「私は………」




「なあ、ステラ」




シュラはゆっくりと立ち上がり、ステイリアに背を向けたまま、両手の指を絡め一つ伸びをする。


言葉を遮られたステイリアは、そんな彼の様子を少し寂しげに見つめる。


ついに去ってしまう、と彼女の胸中は張り裂けそうな幻痛で満ちる。


仕方の無いことだろう。嘘をついて、自分の都合に付き合わせたのだから。


今度こそこぼれ落ちかけた涙は、すんでの所で止まることとなる。


ずぶ濡れの白い背中からかかった声は、どんな空よりも澄んでいた。




「行くぞ、一緒に」




「……え…?」




「帰るんだよ。これ以上こんなとこにいる訳にはいかねえ。お前を独りにさせるつもりも一切無え。


その椅子引き摺ってでも、この世界から引っ張り出してやる」




それはあまりにも眩しく強い、命の輝き。


諦めることを知らない無限の意思。


羨ましい、とステイリアは素直にそう思った。


見てみたいと、感じていた。


彼が恨めしそうに語った世界を、嘲笑った世界を、それでも帰りたいと願う場所を。


永い眠りから目覚めたばかりで見る夢物語など、冗談のようだ。


溢れた感情のままに、立ち上がろうとしたステイリアは、その時、それを悟った。




「どうした?ステラ。日が昇るのを待つ気はないぞ」




夢は、夢でしかない。


叶うことなどありはしないし、どれだけ夢想したところで覚めるものだ。


ならば、今見ている悪夢はなんなのだろうか。




「…シュラ。


さっき言ったことを、…覚えているか?」




風も波も無い静かなこの世界だからこそ、シュラにはそれが嫌でもわかってしまい、慌てて彼女へ向き直る。




(音が弱くなっている…………?脈が、呼吸が)




それは鋭敏な聴覚を持つ彼だからこそ、わかってしまう残酷な現実。


彼女の心臓の音が微かに、だが確実に弱くなりつつある。


呼吸は浅く、脈は拍動の速さを落とそうとしている。




(なんで…急に、こんな?


考えろ……!


夜になったことで何が変わった?何百年も凍っていた弊害か?身体自体は健康そのものだ、空腹だとか病気だとかそんな様子は"視えない"し"聞こえない"。それにしたって脈絡がまるで無い。この、唐突に燃料が切れたような弱り様……)




ぐったりと背もたれに身体を預ける彼女の左手をそっと取り、手首に指をあてその脈を確かめる。


焦りの渦中にあるシュラの瞳は忙しなく動き、やがてステイリアのある部分に留まる。


それは、昼間は美しく輝いていたはずの蒼い髪。


光沢を失ったそれは見る影もない。




希想セレン……?


……そうだ、こいつは普通の人間だ。


だとしたら…………!)




なぜ今まで気が付かなかったのだろうかと、奥歯を割らんとするほど悔しさを噛み締める。


人は生まれながらに希想と共にある。


幼い頃から身体の中を巡り、命を支え、活動を支える。


それはつまり、希想に対しての生命活動の大きな依存。


この例に漏れるのは耳無しと揶揄される魔法不能者だけであり、強弱こそあれどこの定めから逃れる術はない。


人々にとって希想が存在しないこの世界は、大気が限りなく薄まっているようなものだった。




(自分の時を凍らせたのはそれも理由だったのか……?


俺が来たせいで、ステラは…?いや、そんなこと考えてる場合じゃねえ。


………そうだ、まだここに来て日が経ってない俺の身体ならどこかに…)




耳無しは希想を纏うことが出来ない、というのは通説であるが、希想と完全に無縁という訳でもない。


普通の人間の様に自らの核に吸い寄せる事は出来ないが、春の上着に綿毛が付くように、無意識的にその身体に微量の希想が付着していることは珍しくない。




「聞こえるか、ステラ!


俺からありったけ、全部奪ってみろ!


遠慮なんかすんな、枯らし尽くせ!」




意識のおぼつかないその右手を、弾けた白い隊服のボタンには目もくれず露出した首を握らせる様にあてる。


それから十秒ほど経ち、その髪に少しばかりの輝きが戻る。




「くそっ……全快とはいかねえか!どうだ…?ステラ、目、開くか?」




その言葉は確かに彼女に届いたのだろう。


ステイリアは全体重を預けていた大椅子の背もたれから首だけを持ち上げ、弱々しくその目を開く。


握られていない方の手をゆっくりと上げ、自分に覆い被さるシュラの頬にそっとあてる。




一瞬、喜色が浮かびかけた、シュラを待ち受けていたのは、懐かしきあの地獄。








「………お前の、その瞳………おそろいだな、…私と」






心臓がどくんと大きく跳ねる。


早鐘を打ち、自らの耳朶を壊さんとばかりにやかましく叫ぶ。


再び意識を手放したステイリアの前で、脳裏を占める追想。


それはあの日聞いた、大切な姉の今際の言葉。


忘れもしない、絶望の記憶。


また、失うのか。


この手から、取り零してしまうのか。






「……………ふざけんなよ」






力が無く、逃げるように彼女の元から去ったあの日を、後悔しない日は無かった。


考えれば考えるほど出口を狭める思考の迷宮に囚われ続けてきた。


もう、沢山だろう。


弱音も、嘆きも、激憤も、全部彼女が受け止めてくれたのだから。


すべき事などとうに決まっていた。








そっと腰に手を回し、まだ熱を放つその身体を前に抱き抱える。


右腕を彼女の後ろ首の下に回し、左腕を膝裏に入れる。


背に負うよりは負担が少ないだろうと考えての事だった。




(元からこんな平和な世界に居場所なんて無い。幸せなんて、全部幻想なんだ。


だから)




楽園に、後ろ足で土をかける。


そんなもの、初めから望んでないと、言わんばかりに。




「だから……帰るぞ、ステラ」






その足は夜の海を駆け出していた。








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あの大樹を目指そう、とシュラは一も二もなく考えていた。


おそらくこの世界に存在する物がそれくらいしか無いのだから。


だが不幸なことに方角のあてなど無い。


ステイリアが元々居た場所へは急流に呑まれ捨て置かれた為、自分がどこから来たのかなど見当もつかない。


全速力で海面を踏みしめ夜を裂くように真っ直ぐ走り続けてはいるが、これが正しい方向なのかどうかはまるでわからない。それでよかった。




(これが星だってんなら何周だってしてやる。元より足を止めてちゃ着くわけねえんだ)




身体能力にものを言わせた滅茶苦茶な理論に苦言を呈する者はいない。


段々と腕に抱くその鼓動が弱まる度に、シュラは大声で語りかけていた。




それは、これからのこと。




「聞いてるか、ステラ?俺の今いるろくでもねえ国にも数少ない良い所があるんだ」




応える声が無くとも、命を繋ぎ止める様に、一方的に夜に吠える。




「まず、飯が美味い。馬鹿みたいに高い店じゃなくても、神都の郊外にあるちっぽけな屋台だって、払った金以上の価値がある」




夜空に輝く星々に哀れまれたとしても、気にすることなどありはしない。




「次に、景観が良い。無駄に歴史がある分、凝った建物だとかが溢れてやがる。退屈することなんざ絶対無い」




果てなく続く水平線には、未だかの木の影は無い。


それでもその足を止める事はない。




「そんで……。こんなカスみたいな俺でも気に掛けてくれる奴等がいるんだ。


頼んでもないのに世話を焼いてきたり、俺なんかのために立場を顧みないで上に逆らったり、


それから………」






突如、大きな揺れが海面に伝わる。


速度を緩め辺りを見回す彼の正面には、数時間前に見たそれよりも大きい、遥か高い壁のような大波。


それを見て足を止めたシュラの顔の横を何かが掠め、うっすらと切り裂かれた頬から血が滴る。


波同士が凄まじい威力でぶつかり合い、弾けるような爆音と共にその水滴が弾丸と化して四方に無差別に散らばっている。










「今喋ってる最中だろうが。


ブチ殺すぞ」








目を見開き激昂するシュラを、大波は容赦なく呑み込んだ。








━━━━━━━━━━━━━━━━━━








気付けば空が白んでいる。


どれだけ走ったのだろうか。


抱く腕には感覚がほとんど無く、どうやって力を入れているのか自分でもあやふやだ。


重りのついた棒となった足を根本から振り回すように動かすが、不恰好極まりない上に毎回激痛が走る。


白かった隊服は血で汚れ、破れ解れ所々穴が空いていた。


その髪が濡れてはいるが、ステイリアに傷一つ付いていない事に満足し、しばらく足を進めたシュラはようやくそこに辿り着く。




「生きてるか、ステラ」




満身創痍のシュラの言葉に、返ってくる音は無かった。


歯噛みしたい気持ちを抑え、朦朧とした意識を覚醒させるように大声でその大樹を怒鳴り付ける。




「返してくれ、もとの世界に!誰が何の目的で誘ったのか知らねえが。


俺にはもう……十分なんだ」




声は、無い。




「俺に出来ることなら何だってする!だから、こいつだけでもあっちの世界に連れてってやってくれよ!?


そんぐらい出来るだろ!?なあ!」




うっすらと、日が昇る。


蒼い海をありったけ輝かせ、 世界に光が満ちる。


命無き世界は、とても色鮮やかだった。


静寂を美徳とするのなら、この世界こそがその最上だろう。


限界が来たシュラの膝が崩れ、大樹に跪く格好になる。


かろうじて肩に力を込めたお陰で、腕の中の命を取り落とすことはなかった。


だが、もはや、身体は諦めていた。




「……応えろよ。神様でも何でもいい!求めるなら、何だってくれてやるよ!だから…!」




失いたくない。


その一心で、ここまで走ってきた。


ここで折れてしまえば、多分二度とその心は戻らない。




慈悲の様な朝焼けと、誰にともなく祈るシュラを、言葉なく見下ろしていた大樹がその瞬間、微かにざわめいた。








━━━━━━━━━━━━━━━━━━








その変化は微々たるものだった。


どこからともなく落ちてきて、海面に小さな音をたてた銀色の何か。


否、シュラにとって、それは"何か"などではない。


もっと見知った、古い思い出の一つ。


"あの日"無くしたはずのそれは、確かに同じ姿で目の前に存在していた。




「勿忘草の、鍵……」




取り落とさぬようゆっくりと、ステイリアの両足を自らの腿に乗せ左腕を抜く。


自由になった左手を伸ばし、なんとかそれを手に取る。


その感触は間違いなく、あの日と同じだった。




強く握りしめ、シュラは今度こそ祈った。


誰に、ではない。誰かのために。


聞き届ける者がいるかなど、関係無い。


其は原初の魔法、やがては魔導。


天も地も、あるがままに、祈り募って、想いこいねがう






「こいつは…………人の何十倍の時間を独りで生きて、それこそ俺なんかと話す為に命を捨てる程に絶望してたんだ。


まだ半分も生きてない癖に、たった数分、くだらない会話するだけで、満足したように笑いやがった。


俺の面白くない話を笑って聞いて、つまらねえ話を馬鹿真面目に受け止めて、自分のことなんかろくに話さず寝ちまいやがった。


だから……頼む。


こいつを、救ってくれ」




海が、干からびていく。


祝詞に合わせ木々がざわめき、その葉は存在しないはずの蒼をたたえ、かの地と接続を果たす。


誰に乞われるでもなく、その言葉は彼の口から自然と出た。






「『俺の命より、大切なんだ』」








蒼き極光が、世界を焼く。








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━━━━━神国領内にて、許容限界を遥かに超える希想の活動を確認。


━━━━━犠牲者不明。大規模な破壊は確認されず。


━━━━━指定魔法所持者全員の動向を確認。


━━━━━異常無し。


━━━━━希想の波形を『index』内から検索。


━━━━━検索完了。魔法の名称は、『シェラ・の方舟ラウール


━━━━━規定に基づき、各国への開示を開始する。


━━━━━…………………。失敗。


━━━━━『index』による保護を確認。


━━━━━開示を停止。


━━━━━


━━━━


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