002
「ほんとうにドラゴンを倒したの?」
呆れた、とクロマノールがわらう。こういう時に、ただわらうだけで、おれを責めたりしないところが好きだ。マルカルには、「頼むからそんな恐ろしいことはもう二度とやめてくれ」なんて言われた。この世界にはドラゴンがいる。最強の神獣ということになっていて、飼いならすことはできない。知能のある獣だが、人と話すことはできない。勇敢だが、それ故に少々無防備なところがある――だから。
「さほど難しいことでもないのさ。簡単な拘束を行う程度なら。おれの獣はどちらもドラゴンに相性がいい。クロマも、ノールも、どちらも空を飛べる。クロマはさすがにそれほど高度は出ないけど、その代わりに炎にも強いし」
「クロマは、蛇の形をしているのに、不思議だよね」
クロマノールが――おれの持つ、二匹の獣、クロマとノールの名前のもととなった友人が、そう言ってわらい、蛇の頭を撫でる。この蛇は、最初に得た獣だ。うねる流木のような角を持ち、蛇腹からはにょっきりと二本の鳥脚が生えている。わずかながら飛翔の力を持つ。
そして、この獣は人語を話すことまでできる。
「なにを言う。我々蛇は、もともと空を飛ぶのだ」
「ほんとに? ぼくが動物のこと詳しくないからって、嘘を吹き込んでいるんでしょう」
クロマノールが、クロマの耳元でわらう。蛇はすこし嫌そうに大きな角をふるわせた。
「本当だ」
「うーん、ぼくじゃあ判断がつかないなあ。ねぇ、アーチピタは?」
「おれが知るわけない。クロマがしているのは神話の話だろう」
魔力を宿す魔獣たちは、人よりもずっとずっと長生きらしい。詳しいことは、聞いてもあまり教えてもらえない。おれたちは便宜上『獣使い』と呼ばれているが、しかし、結局のところ獣との絆は『服従関係』と呼べるほど強制的ではないし、『雇用関係』と呼べるほど獣たちになにかを与えられてもいない。人が獣にしてやれることは少ない。それでも獣がどうして獣使いと一緒にいてくれるのか、アーチピタにはよく分からなかった。名前をつけることを許し、背に乗ることを許してくれる。――もしかしたら、人間に生まれながら、魔法がすこしも使えないおれのことを彼らはただ憐れんでいるのかもしれない。
彼らは、種によっては、空を飛ぶ。人語を解す。複数の動物の種が混ざったような形態をとる。臓器や生殖の仕組みはよく分かっていないことが多い。まるで生き物それ自体が、魔法で動いているみたいに、理論立たない仕組みになっている。
「我らが、空を飛べようと、炎粉に強かろうと、ドラゴンなんて二度と御免だ。ノールも堪えたらしい」
クロマが蛇尾をうねらせながら、いまは猫ほどの大きさをとるノールのほうへ頭を向ける。ノールは月馬の一種で、自分の都合で身体の大きさを変えられた。縮めば猫に、膨らめば馬に近くなる。自然界で目撃されるときには、天翔ける馬のかたちをとっていることが多いから、『月馬』の名前で知られている。
「『倒す』わけじゃない。『拘束』するだけでも?」
ノールは猫の姿のまま、ゆっくりと首を振る。いやだ、ということらしい。
「我々は、反対だ」
クロマのほうの意思も固い。まったく、よく分からない獣たちだ――とアーチピタは苦笑する。すこしドラゴンを酔わせて、近くへ寄って、その生態を観察する。可能そうなら血や鱗を多少いただく。それだけのことだ。高山の固有植物を採取したり、海上を何日も休まず飛翔したりするのには一切の文句も言わない癖に、やはりドラゴンとなると近づきがたいらしい。
「今回も、そこそこ上手くいったと思うんだけどな……べつに怪我をしたわけでもないだろう?」
「当然だ。我々は戦士ではない、戦闘になったら、只人のお前を庇いきれるはずもない」
「只人、ってねえ……」
「重ねて言おう。戦場に行くぐらいなら、まだクロマノールを連れて行ったほうがマシというものだ」
クロマの言葉に、ノールも同意するように喉を鳴らす。ノールの、ふかふかとした頭を撫でながら、クロマノールがわらった。
「ぼくは戦えないよ。それに、さすがに乗せてはくれないだろ? 自分で空を飛べっての?」
クロマノールは、作家科の学生だった。このマルム学院において、「作家である」ということは――つまりは、学年のなかで五本の指に入る逸材である、ということを示す。もちろん、空を飛ぶことも簡単だ。
作家科には、ただ魔力が強いだけでも、教科の成績が良いだけでも入れない。席は五名に限られているから、僅かながらの運も必要になる。クロマノールは正真正銘の優れた選良だった。
だからこそ、クロマノールは獣には乗れない。獣を馴らし、その背に乗って、使役することができるのは、アーチピタのような「獣使い科」の生徒だけだ。その身に魔法の力を、ひとかけらも宿していない人間だけ。
「こないだ言ってた、空飛ぶ豚のぬいぐるみは? 作ったんだろう?」
「作ったし、無事飛んださ。でも、自分で乗るのはごめんだね」
「もっと実用的なものを作れよ」
「『アーチピタ』はかなり実用的かな」
クロマノールが薄くわらう。この控えめな冷笑には慣れている。『アーチピタ』は――おれの名前をもつ魔法道具で、クロマノールの家のドアのことだ。もちろんただのドアじゃない。クロマノールが執筆した物語が、魔法のペンとインクによって綴られている。望まない来訪者をドアのほうで勝手に門前払いする機能がついている。クロマノールが望まぬ限り、学長でも開けない。
そんな身勝手そうなものにおれの名前をつけるなんて、と憤慨してみせることもできる。しかし、クロマノールのほうこそ文句を言いたいところかもしれないので黙っている。「クロマ」と「ノール」……もちろん、クロマノール本人からとった名前だ。嫌がらせのように、無断で名前を二つに分けて、獣たちに与えた。名前を分けて呼んじゃいけないんだよ、ひょっとして知らないの? とクロマノールには嫌味を言われた。しかし「名前を分けて呼んでいる」のではなく、「名前を分けて与えた」のだ。クロマノールのことをクロマと呼んではいけないが、クロマのことを「クロマ」、ノールのことを「ノール」と呼ぶのは禁忌にはあたらない。……とかとか言ってもう一度怒られたのが二年前の冬のこと。
「クロマノール……ドラゴンはな、この世界の不思議を知っている気がするんだよ。あれほど高貴な生き物なのに、ものを喋らないところも不思議だ。あ、ノール、おまえの悪口を言っているんじゃあないよ」
人語を理解はしても話すことはないノールは、またひとつ鼻を鳴らす。
「ドラゴン、ねえ……」
「クロマノールの意見は?」
「ぼく? ぼくの意見なんて―……」
と、クロマノールがわらう。ああでも、とクロマノールは足元の裾を引き上げると、そこにはどす黒い痣がある。十歳よりも前のかれにはなかったものだ。クロマノールは病に侵されていた。
「これ、ドラゴンのように見えないかい?」
まるで鉛筆で描かれた落書きのようだ。子どもが必死に悪夢を描いたみたいに、ぐちゃぐちゃで、拙いのに、迫真的だ。たしかに言われてみれば、痣は一匹の暴れるドラゴンに見えた。
「ドラゴンはなにかを知っている、とそう思う人たちはいるよね。さっきクロマも言っていたけれど、やっぱりドラゴンを一番よく知るのは戦士たちだろう。でも、獣使いのきみにとって、獣を殺すかれらは好ましくないのでは?」
「おれは、べつに。でも向こうはおれのことが好ましくないかもしれないな」
「いいねえ。作家科はどの学科からも嫌われているよ」
「羨ましがられているんだ」
「そう?」
クロマノールが裾を下ろす。おれはどこかほっとした。下半身では、もうあんなに痣の進行が進んでいるなんて知らなかった。最後にクロマノールと水浴びに行ったのはいつのことだろう。クロマノールは二年前の秋頃から、季節を問わず長袖しか着ないようになった。
*
夕飯ができたようだ。『アーチピタ』は、雑音や光は一切通さないくせに、匂いだけは無防備に通す。レースのカーテン一枚で区切ってある台所と居間のようなものだ、誰かが何かをコトコトと作っていたら、音は一切聞こえないのに香りだけがまっすぐやってくる。お腹が空いたな、とペンを置いた。これは作家科の学生にしては珍しいことだそうだが――クロマノールは料理が好きではない。家の中にまともな火釜は一つもない。飲みものぐらいはなにか作れた方がいいだろうと、自動で湯が沸く鍋を一つだけ持っているが、それ以外にほとんど調理器具はなかった。そもそも皿も数枚しかない。それでもクロマノールの生活が成り立っているのは、学園には中央食堂があり、生徒・学生・教職員はそこで食事ができるからだった。
書きかけの原稿を畳んでから立ち上がり、作家科の青の外套を探した。家の中が暑かったから、今日は軽装でいた。しかしこのまま外に出るわけにはいかない――と思ったところで外套の行方を思い出す。そうだ、あれはノールに貸したんだった。
青外套を羽織る大猫は可愛らしかった。あんなにふかふかとしているのに、あの獣は寒さに弱い。季節はまだ秋だったが、学園の外の空を駆けるのであれば何か対策が必要になる。装飾が華美だし、青色は目立つから嫌だとアーチピタは眉をひそめていたが、闇夜に紛れば青も黒も大差ないと言い含めて追い出した。本当はもう少し適切そうなボロ布が箪笥の中に入っていたような気がするが、どうしてかクロマノールはそれを探そうという気になれなかった。ノールが外套を気に入る様子を見せたからかもしれないし、単にアーチピタへの嫌がらせの一種だったかもしれない。かれらが出て行ってすでに一週間が経つ。
家を出るために着替えても良かったが、興を削がれたような気持ちになり、クロマノールは一度ソファへふかく沈んでみた。クロマもノールもアーチピタも、連れ立って『外』へ行った。今頃、外はどうなっているのだろう。両親と離れてもう六年以上になる。二人はいつも、学院の中が懐かしいと、良い思い出話ばかりをしてくれた。クロマノールが病に侵されたことについては正式の通知書が届いているはずだったが、手紙のなかではこの話をしたことはない。
ふと、料理でもしてみようかと思った。そう、たいていの作家は料理が好きなものなのだ。ものづくりとやらの一種だからだろう。ぼくは手間ばかりがかかるので嫌いだが。アーチピタだって出来なかったはずなのに、この二年間の野営続きですっかり板についたようで、先日帰ってきたときにはこの家にはまともな鍋が一つもないと愚痴をこぼしていた。
中等部に入り、作家科に進んでから、周囲と比べられたりすることは殆どなくなった。作家科の学生は成績表を受け取らない。代わりに、教授や、また『外』に住む魔法使いたちに、魔法道具を送りつけ、その物語を読んでもらう。そして六百文字程度の寸評を受け取る。それらが作家科の学生への評価の全てだった。他学科のように、成績が悪くて進級できない、という話も聞いたことがないが、そもそも小説が書けなくなったので古代科に転科することにしたという先輩の例は知っている。書けなくなった――これはクロマノールにとっても他人事とは到底思えない悩みだった。今のところ何かが書けなくなる、つまり魔法が使えなくなるようなことはない。だが、魔法道具を作るということは――物語を書く、ということはどうも、単純に呪文を覚えたり式をたてて演算したりすることとは一種違う行為であるようだ。特段難しいとは思わないが、なかなか慣れることもない。
作家科に所属するならほんとうに物語を書かなくてはならない、と知ったのは初等部四年の終わりのころだった。それまで、「作家」という肩書には多少の比喩が含まれているものだと思っていた。ほんとうに小説を書けと言われるなんて、夢物語みたいだ。
とはいえ、術式は必ずしも物語のかたちをとっている必要はない。事実、隣の家の作家は「数式」によって魔法を行使する。しかしクロマノールには生憎数学のおもしろさはよく分からなかったので、諦めて小説に取り組むしかなかった。消去法の選択ではあったものの、数式よりも、文章でものを書くほうが、より柔軟で設計しやすい魔法が使えるようになるだろうとクロマノールは信じていた。
初めての作品は、半分ノンフィクションだった。学院に入る前、ずっとずっと幼いころの記憶を小説にしたのだ。処女作ではあったが、なかなか良い成績を残した。凝縮された、やさしい記憶がある人間の書く文章だ、と褒められた。クロマノールにとって「クラスで一番だ」と称賛される経験はそれほど珍しいことでもなかったが、しかし小説を褒められるのはやけに心が躍った。初等部六年の春、クロマノールの作家科行きが僅かに現実性を増した出来事だった。
しかし講評にはこうも付け加えられていた。とても純度が高く美しい物語だが、それゆえに、この作者にひきだしがどれほどあるのか心配になる――というのだ。幸せな人間には深みとでも呼ぶべきものが足りないと言いたいらしい。さほど気にはならなかったが、しかし、作家に対してこういう指摘をしたがる人間がいるのだということは覚えておこうとクロマノールはわらった。気にしていないつもりだったが、この講評はクロマノールの胸に僅かな影を残した。
ただ、その悩みは簡単に解決された。物語を書く天才であるクロマノールは――世界の痣、ニグラムの病に侵された「かわいそうな子ども」でもあることが、すぐに明らかになったのだ。同時にアーチピタには魔術の才が殆どないことが分かった。獣使い科に進むことになるだろう――と聞いたとき、正直なところ、クロマノールは彼が羨ましかった。どうしてなのか分からない。
なんのことはない。自分が思うよりもずっとずっと強く、クロマノールは、早く外に出たいと願っていたのだ。命が長くないことが分かったから。そのことに数年してから気が付いた。
しかし魔法の力が「それほどない」人間よりは――「まったくない」人間のほうがずっとマシだ、とクロマノールは思う。アーチピタは多少感傷的になりすぎていると感じていた。勿論、自分がなにかを言える立場ではないものの――しかし、楽士の末席で重要でないパートを任されるぐらいなら、剣士として連敗続きでいなければならないぐらいなら、獣使いとして、ある意味作家科の学生と同じく、他者と比べられようがない場所で自由に生きていくほうが気楽だ。それに彼は、彼こそは、今や空だって飛べる。
――しかし、納得しないだろう。
クロマノールが自身の悩みにかまけている間に、アーチピタは外へ飛び出し、両手に成果を抱いて帰ってきた。奇妙でよく喋る蛇と、あたたかな月馬。
ぼくたちは互いを哀れんでいる、いつでもお互いを分かり切っているつもりでいる。そして彼には獣が二匹もいる。その名の通り、あの二匹はいつかクロマノールの代わりをするだろう。
*
「ああ、ようやく帰ってきたね」
転がり込むように一人と二匹がクロマノールの家へ入ってきた。旅から帰ってくるときはいつもこうだ、みんな興奮して賑やかで、ときたま怒声が飛ぶ。アーチピタは決して粗暴なほうではなかったが、必要があれば大きな声をあげて周りを牽制したりすることができた。どれだけ怒りたくなっても声の音量をまったく調整できないクロマノールとは対照的だ。
挨拶もそこそこに、アーチピタはクロマと何事かを論争していた。ノールは話ができないが言葉が通じていないわけではないので、ときたま抗議するように鳴いた。ノールのために、牛乳でも温めようかとクロマノールは鍋へ向かう。
「ああ、すまん」
気付いたようにアーチピタが鍋を取り上げた。もちろん、僕にやらせるのは不安だということなのだろう。そもそも獣の世話について詳しくもない。――しかし。
「おかえり。――喧嘩の途中じゃなかったの?」
「ああ、ただいま。いったん落ち着かせたところだ」
「――まだ話は終わっていないぞ!」
呼応するようにノールも鳴く。まったく、防音の魔法を二重にも三重にもかけている甲斐があるというものだ。
「まずは腹になにか入れよう。それからでいいだろう?」
クロマノールもその提案には賛成だったが、二匹はどうも納得していないようだった。獣がこれほど怒るようなこととはいったいなんだろう。次はドラゴンの巣にでも入ろうとしたのだろうか。
「……ああ、クロマノール、少なくとも冬になる前には、はやくこれを返さなきゃいけなかったろう。正直、ノールの臭いがかなりしみついているが」
少し獣臭い外套を、アーチピタは多少申し訳なさそうに差し出した。クロマノールはそれを受け取り、篭の方へ放った。臭いなんて、ぼくが洗えばすぐとれる。
アーチピタ、と蛇の声が響く。彼の声は蛇らしく静かなものだったが、それはやはり魔法による発話なのだろう、薪が燃える煩い暖炉の隣にいても、必ず耳に届く。
「島を出る前に、話し合いが必要だ。そうでないなら私もノールもここを一歩も動かない」
クロマの蛇の瞳が獲物を狩る直前みたいに細まった。
「分かってる」
アーチピタが返事をしたが、身が入っていないことは明らかだった。蛇がもう一度口を開くまえに、クロマノールは間に入ることにする。
「クロマ、ノール。なんの話だったのかは分からなかったんだけど、でもぼくの家に入る以上、まずは風呂に入ったり、ミルクを飲んだりしてほしいね。もうすぐ寝ようと思っていたところなんだ」
クロマがとぐろを巻いた。ノールも一段、息を吐いて小さくなる。
「……勿論、構わないさ。話をちゃんと聞けば、クロマノールだって我々の味方をするはずだ」
「それはどうかな?」
「アーチピタ……」
「はい、はい」
最近クロマノールは、人の喧嘩を『おさめなければならない』立場にいることが多い。でもほんとうはそんなの好きじゃない。誰かのためになにかをするのを好むような人間は、そもそも作家科にはいないのだ。もちろん例外もあるが――でも、作家科はやはり、傲慢で、自分本位で、偏屈な人間がいるべき場所だ。
クロマの機嫌は一度落ち着いたようだった。気に入りの椅子の中にきれいに収まっている。たぶん、アーチピタよりもクロマのほうが正しいのだろう。あの蛇には多少怖がりなところがあるが、それでも決して弱腰な生き物ではない。ある程度合理的なことしか言わない。
「冬の間はどうするの?」
話題を変えようと、アーチピタの隣に立って質問をする。ノールは、出してやったミルクのほうに夢中だ。
「うーん、そうだな。クロマのほうは冬眠したがるだろうから、ここに置いていくかもしれない。ノールともう一度出かけてみるのもいいかなと……」
「話し合いをして?」
「まあ……。すぐ取り返せるさ」
暫く沈黙が続いた。クロマノールは、アーチピタになにか追加で質問をする気にはなれなかった。そうしたほうが彼が助かるだろうということは分かってはいたが……。彼の個人的な事情に興味をもち、その好奇心のままに質問するような人間でありたくなかった。やがて、温めなおしたスープをすすりながら、アーチピタのほうが口を開いた。
「そっちは?」
「課題のこと? もう終わったよ。そこにあるのが続編だ」
「続編? 新しい課題か?」
「いいや、別にそういうわけじゃない。趣味で書いているようなものかな」
ふうん、と言ってアーチピタが原稿を手に取った。久しぶりに紙に書いた術式だ。本来は作者以外の人間が触ると魔力が揺れてしまうので控えて欲しいのだが、アーチピタに限ってはその『影響力』も殆どないはずなので注意を控えている。
「黒い闇の支配する町、世界を変えようとする少年、ヒントになるのは夢で一度会っただけの少女――なかなかロマンチックだな。そしてオーソドックスだ。こういうのが好きなのか?」
「一度振り切って書いてみようと思ったんだよ。せっかくだから獣の話を書こうかという気もしていたが、でもぼくはやっぱり童話がいちばん好きだからね。好きなものをたっぷり書いておこうと思ったんだ」
「どんな道具になるんだ?」
「探し物をする道具。願えばどんなものでも、どの方向にあるのかを教えてくれる」
「それってかなり凄いんじゃ?」
アーチピタの目が輝いた。早めに誤解を解いておこう、とクロマノールは口を開く。
「精度は術者次第だからね。つまり、おそらく大したことないだろう、ってこと」
なるほど、とすぐに苦笑されるかと思った。しかし、アーチピタは珍しく考え込んでいる。どうした、とも聞けずにクロマノールは自分のミルクを飲むのに専念することにした。
同室生だったこともある幼馴染の彼が、このように思慮深い横顔を見せるようになったのはここ数年のことだ。彼の負ったなにかがそうさせているのかもしれないし、あるいは単純に大人になりかけている、というだけのことなのかもしれない。
やがて、アーチピタが口を開いた。
「……距離は?」
「距離?」
「どれほど遠くても、微弱な反応でも、多少誤差があったとしても――とにかく道筋だけでも立ててくれるなら、おれたちにとって、とても価値のあるものになるかもしれない」
アーチピタが探したいもの。どうやらこの表情を見るに、部屋のなかで失くした鍵だとか、昔の手紙だとか、そういう平凡なものではなさそうだ。『おれたちにとって』、とても価値のあるもの。
「知っているものを探すのか?」
「え? ああ……そうか。知らないもの、になるのかもしれない」
「知らないものは探せないような気もするが……」
「そうか……。そうだよな」
でも、とアーチピタが続ける。
「もし、完成したら、一度おれに見せてくれないか?」
「それは、もちろん構わないけど……。でも、さっきも言ったけど……」
「精度は術者の力量による。それでいい。それで見つけられないなら、いまのおれにも見つけられないだろう」
そんなになにを探しているの? と、数年前のクロマノールならなんの拘りもなくそう聞けただろう。彼はなにを探そうとしているのだろう、それによってなにを得ようとしているのだろう。アーチピタが変わってしまったとは思わないが――しかし、中等部以後、それぞれの科に進んでからというもの――アーチピタの中にもともとあった何かの方向が、確定的に定められ、取返しのつかない場所へ進んでいるという気がしている。もちろん、道を選ぶというのはそもそもそういうことなのだろう。クロマノールだって、きっと自分ではそうと思わないだけで、後戻りできない変化のなかにいるのに違いない。お互いに方向が随分と違うから、その不可逆の変化がよく分かる――たったそれだけのことに違いないのに。
ひょっとするとアーチピタは、自分がもうとうの昔に諦めたことを、まだ追いかけ続けているのかもしれない。それは恐ろしい想像だったが、どこか真実味があるような気もした。
「ところでさ、どうしてぼくの魔法を信じていられる?」
「だって、凄いんだろう?」
アーチピタの横顔。以前よりも、どこか鼻筋がすこし固くなったような気がする。しばらく返事ができなかったのに、アーチピタはとくに気にしていないかのようにかまどの火を見つめている。炎が揺れ、灯台、あるいはメリーゴーランドのように、規則的に光がかれの頬を照らしている。影が一層深まっていく。
その顔を見ながら、そういえば随分と酷い質問をしたものだと気が付いた。アーチピタには、クロマノールの魔力の多寡が分からない。ある程度の能力を持っている同士でないと、相手の力量を正常に測ることはできない。だからこそクロマノールは、ある種あんなにも恐ろしい魔獣たちを相手に、ひるまず手懐けて帰ってくることができる。クロマノールにはできないことだ。獣のほうが人の魔力を嫌がる、ということもある。でもそれだけではなく単純に、心理的に、魔獣が宿す力を正確に推し量ることができる者にとっては――獣を馴らす、という行為はとんでもなく命知らずなものに思える。
そういえば、とアーチピタが呟く。
「クロマも、ノールも、よく言ってる。お前の魔力は凄いんだって」
「本当に? 直接言ってくれたらいいのにな」
「あまり人に馴れたりする生きものじゃないから」
「そんなふうに見えないんだよなあ」
「でも、そうなんだ。ふとしたときにおれは、強烈にそのことを思い出すんだよ」
たとえばどんな時に? と聞いてみたかったが、クロマノールはただ微笑んでおくだけにとどめた。
「作家にはそういうことないの?」
「どういうことかな?」
「与えられていた命題、もしくは制約、そういった前提条件について、教科書の一行目で教えてもらったはずの公理について、ちゃんと覚えていたはずなのに、ああ、すっかり、忘れていたなあなんて改めて思うようなことだよ」
「ああ、なるほどね。ある。ある、とてもあるね」
作家科の教本の一行目――すべては自分のために。
それを読んだとき、クロマノールは自分が来るべきところに来たのだと、改めて確信した。すべては自分のために。責任と実行、自分は自分しか救わない、言葉は想像のままに。作家科で繰り返し語られる哲学に、心から共感した。ひとつひとつの言葉は抽象的で説明が少なく、あきらかに理解の助けにならないはずなのに、クロマノールの心の奥底を丁寧に濡らしていった。すべては自分のために――とても、とても、よくわかる。
「自分で終わらせることのできる人間が、もっとも優しい人間なんだよなあと思うことかな。きみに分かるかい?」
「分かんないな。おれたちは仲間を探すのが使命だから」
ああ、そうだった。また酷いことを聞いてしまった――と思うし、後悔するのに、反省することができない自分をやはり愚かで傲慢だなとも思う。また少し経てば、クロマノールは同じように彼を傷つけるのだろう。
「いつだったか。ぼくが小説を書けるとは思わなかった、って言ったね」
「遠い昔のことじゃないか。でも、言ったね。正直なところ、今もすこしそう思っている。でもお前だって、おれが獣を捕まえられるとは思わなかったと言わなかったか?」
彼が戦士になりたがっていたのをクロマノールは知っていた。だから昔、意図的に、善意のつもりでそう言ったのだ。いまでは本当に愚かな発言だったと分かる。
「でもきみはクロマとノールを捕まえたね」
「お前だって『アーチピタ』も空飛ぶ豚も作ったろう? それでも満足せず……作家ってのは、いくら書いても満足しないものなのか?」
「そういうわけではないと思うよ。でも、ことにぼくの場合はね、いまのうちに書かなくてはならないんだよ。なにかに未練を感じたりする前にね」
できればやり残したことがないようにしておきたい。でも例えば、ある朝突然子どもが欲しくなったりしたら悲劇的だろうな、と思う。今はそんなもの欲しいとは思えないのに、このまま生きていると、子どもが欲しくなったり、家族に看取られながら死にたくなったりするのかもしれない。今までは思いも及ばなかったような欲望と一緒に生きていくのが恐ろしかった。できるだけその前に病の終わりが来てほしい。自分に時間がそれほどないことを忘れてはいけない。
ノールが鳴いた。もう眠たくてたまらないのだろう、長旅の疲れがノールの身体中を重たくしているようだった。猫のような鳴き声が響く。
「ぼくも眠りたくなってきたな」
カップを置いて、就寝の挨拶をしようかとアーチピタの顔を再び見て、そこでクロマノールはまた自分が失言してしまったことに気が付いた。彼はどこか呆然としていて、わずかに眉を顰めていた。
――ぼくは死ぬ。そのことを忘れず覚えているんだと、彼は思い出した。
しかし彼の混乱する精神に、丁寧に付き合ってやろうとは思えなかった。ぼくは死ぬ。しかしアーチピタだって明日空から落ちて死ぬかもしれないわけで、そうなったらぼくはきっと泣くだろう。きみが死んでもぼくが死んでも残されたほうは泣く。もちろんぼくが死ぬ確率のほうがずっとずっと高いだろう、だから彼が泣く可能性のほうが高い。そのことを少し憐れに思う。僕は僕が死ぬのが、すこしだけ怖いが、それ自体は悲しいことではない。少なくとも、今はまだ。
「おやすみ、アーチピタ」
彼は目を伏せて、うん、と頷いた。その瞳、その声、影、足、手。どこにも魔力は感じられない。ひとつもない。彼は真っ白だ。
まったく空っぽなからだ。ぼくが彼のことを好ましくおもうのは、これほどまでに近しく親しくつまりは内側の人間だという気がするのは、彼が、あたまからつま先までまるっと白く余白ばかりで、なんでも書けそうに思うからかもしれない。
<了>
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