クロマノール
mee
001
卵を大切に温めるみたいに、銀食器を丁寧に磨くみたいに、毎朝おれはおれの劣等感を育てている。
◆
葡萄色をした空の中央に青い月が浮かび、ぼんやりと光っている。おれは月の中ではいっとう青が好きだった。白も悪くないし、黄月も風情がある――人気の色だ――しかし、やはりいちばんは青。濃い紫の中に埋もれるようにして輝く青の月はまるで壁画に埋め込まれた宝石のように、調和のとれた、しかしよく主張する光彩を放つ。この月の浮かぶ季節のあいだは夜風もあたたかくて、なにより獣が活発に動く。おれの稼ぎ時でもある。
一度息を吸って、おれは両手を鳥のように広げてみせた。二つの手のひらの中に風が集まっていく。一瞬バランスが崩れ、おれの下にいる生き物が機嫌を悪くしたのを感じる。空を自在に進めるようになったのは二年と少し前、それから何度も、それこそ毎日空へと向かっているが、この感覚は飽きることがない。
「まて、ほら、もうすぐおれの故郷だ」
アンバランスに揺れていた両の手を獣の首元にあてる。逆立つような毛並みの震えは数秒で収まり、おれは胸まで、身体いっぱいをこの愛しい生き物の背中とくっつけた。こいつには心臓が四つある。その、別々のリズムで鼓動を打つ四つの心臓が、複雑に脈打っていた。左の比較的小さなサイズの心臓が、獣の感情と強く同期していることをおれは学園で学んで知っている。すこし乱れているが、ひどく不整脈と言うほどでもない。ある程度落ち着いているのを確認して、おれは声かけをする。
「さぁ行け、ノール、あの光の方へ」
あの光の方へ。おれの故郷へ。
獣はおれの声の通りに空を駆けた。鋭い爪がのぞく力強い足は風を生み、滑空し、わずかばかりの淡い光を空に残す。まるで流れ星を生むようにみえるこの特性は、自然界においては目立ちすぎる。それがゆえに強い個体しか生き残れない。この種を月馬と呼ぶ。
馴らすのには骨が折れたが、飛鳥とも龍とも違う、この天翔ける感覚は悪くない。最高だ。
これがおれの、劣等感と引き換えに得た、数少ない才能の一つだった。
◆
この本が、何百年も先、すべての克服が終わった頃に読まれることを想定して(これは壮大すぎる望みだろうけれど)、おれは少しだけ当たり前の解説を加えてみようと思う。
一、この世界には魔法という、
どうにも体系立たない不思議な術があること。
二、魔法を使うには魔力が必要であること。
三、魔力はどんな生き物にも宿るが、個体差が大きいこと。
個体差があるとはいえ、生き物の種類によってある程度の魔力の幅は決まっている。たとえば小型のリスには大した魔力はない(せいぜい頑張っても胡桃を割るくらいのものだ)が、多数の人間は学園での学びを通じてそれなりの魔法を使いこなせるようになる。人間の中で最も低等の部類でも、胡桃か、ちょっとした木片ぐらいまでは、たぶん砕ける。
とはいえ、動物全体のなかでみれば、人間の持つ魔力の等級は比較的低い。にもかかわらず繁栄することができたのは、やはり人間だけが持つ「文字」や「学習」の力だろう。大型の生き物は、より魔力を多く保有する傾向にある。たとえば龍や月馬がそれだ。
四、人間の子供はかならず孤島のマルム学園で、
六歳から十八歳までを過ごす。
成人まで外には出られない。一部の例外を除いて。
門を超え、驚いたような同級生の顔にいくつか出くわす。月馬が珍しいのだ。おれはこのマルム・デトゥルーデ学園の中等部の生徒だった。
今回得た、鷲のような下半身と、梟のような翼と瞳、そして多少猫のように愛らしい顔をもつ月馬は、馴らすのが難しい。言うことを聞かせること、主従関係を結ぶこと、好かれること、その全てが難しいのだが、なによりもこの生き物はまず出会うのが難しい。だから、すぐれた獣使いのところをいくつか周っても、まったく情報がなかった。古典のような古文のような文献を探し当て、足りないところは空想で補い、粘り強い反復を経てなんとかここまで馴らした。とはいえまだまだ絆が足りない。
「ピタ! また戻ってきてたのか」
初等部のころ寮で同室になったことのあるマルカルが、おれを見て、次に月馬を見て、目を丸くした。なかなか気持ちがいい。マルカルは古代科に配属されていた。
五、マルム学園は、古代科、戦士科、楽師科、薬師科、作家科、
獣使い科の、六つの科に分かれている。
「なんとか。こいつを手に入れて、一旦はいいかなって。そっちは変わりないか?」
「ない、ない。ずっと呪文を覚えて、試してみて、の繰り返し。出来ても出来なくても、その理由が全然わからない、っていう始末でさ。戦士科か楽師科への転科も考えたんだけど……」
なかなかそうもいかなかった、とマルカルの表情が告げていた。おれは少しだけ気を良くした。転科の話を目の前でされること、昔のおれなら耐えられなかっただろう。でも今はなんともおもわないし、マルカルも気にしないでくれている。
「あ。ひょっとしてクロマノールのところ行く?」
「うん。こいつ、ノールって名付けたから」
月馬の手綱を引くと、ノールがふんと鼻を鳴らした。
「相変わらずだな」
マルクルはそばかすの浮かぶ頬を緩ませ、最後に月馬を見上げてから、いいなぁ、と声に出した。
「一生かけても、おれは触れないだろ?」
おれは何も答えずに微笑んだ。
◆
「やっと帰ってきたね」
戸を開けた瞬間に、落ち着いた中低音の声が響いた。明かりのない部屋の中は黒に満ちていた。わずかな空の光が戸口から注がれ、クロマノールの身体を照らしている。足元の青い靴紐だけが、光沢を放っていた。
「縁起悪いぞ。なにかつけろよ、青のランプとか」
背後のノールが巨体を震わせた。暗いところに入るのが怖いのだ。この馬は、図体は大きいのにどこか怖がりなところがある。
「つけないこともないけど、まぁ、黒も悪くないだろ」
クロマノールが手元のペンを一振りした。ペン、といってもただの筆記用具ではない。クロマノールは作家科の生徒だった。だからそのペンは、古代科の杖、楽師科の楽器、剣士科の剣と同じく、魔法を宿している。おれにはまったく感じられないけれど、クロマノールのペンはほかとは違い、異質で珍しく見えるそうだ。そして強い。
その、強い魔法が発動する。ランタンのような形をしたガラスたちが現れ、いっせいに発光した。淡く、柔らかく、しかしたしかに青白い光が部屋の中に満ちる。ノールが安堵したように背中を落とした。いつのまにか、巨体のノールが問題なく入れるように、戸の形が膨らんでいた。
クロマノールの属する作家科では、生徒一人に一軒の家が与えられている。単純に生徒数が少なく、また科の性質としても大きな施設が必要ないから、余らせた土地を生徒に還元しているのだ。おれの属する獣使い科も生徒数は作家科以上に少ないが、獣の寝床や遊び場のために多くの土地が割かれているから、生徒の寮室はそれほど大きくない。作家はトクだ。
「外はどう、変わりない?」
「変わりない。マルムがいちばんさ。外にいる子供は獣使いだって、どうしたって知られる」
クロマノールはわらい、木製のコートハンガーから薄い外套を抜いて左側の身体にはおった。
「ごめん、ちょっと寒くてね」
「いや、たしかに風が冷たい」
閉めよう、とおれは踵を返したが、おれの手が伸びるよりもさきに、戸はバタンと音を立てて勝手に閉じた。驚いてクロマノールの手元を見たが、ペンが振られた様子はない。
「先週戸を変えたんだ。勝手に閉まるように。あと、迷惑な客が来たときには明かりを漏らさない仕組みとか、意地でも開かない気の強さもつけた」
「相変わらず人間嫌いなんだな」
六、作家の連中はやたらと理屈っぽくてプライドが高い。
そして偏屈で人間嫌い。これもこの世界の常識だ。
「そっちだって。クロマが、きみの協調性のなさは酷いって嘆いてたよ。その子は喋るの?」
クロマノールが、獣の瞳を覗きこむ。ノールは今、多少大きな猫のサイズにおさまっていた。形がある程度変化するのも、月馬の面白い特性の一つだ。
「喋らない。けど、知能はかなり高いな。言っていることは全て通じるし、ある程度の意思疎通もできる。名前はなんだと思う?」
「クロマの次に捕まえた子だよね。なんだろうなぁ、当てたくない」
「ノールにした」
「そう、じゃあぼくはその勝手に閉まる便利なドアをきみの名からアーチピタと名付けようか」
クロマノールがわらう。その背後から、大きく曲がった角を持つ蛇が現れた。ノールがまた震えるのを感じ、おれは苦笑しながら月馬の頭を撫でた。
「ほら、ノール、これがクロマだ。何度か話しただろ?」
「クロマ、もう少し優しそうな顔をしたら?」
クロマノールがしゃがみこみ、蛇に話しかける。答えるように、隙間風のような鳴き声がしたあと、およそ蛇の喉から出ているとは思えないほど明瞭な声が響いた。
「……べつに、怖がらせるつもりはない」
蛇の姿で器用なことだ。すっと尻尾だけで立ち、中腹に生えている鷹のような足(クロマはこれを手のように使っている)を、ノールへ差し出している。
「互いに面倒なやつに飼われたな」
ノールが猫のようにおずおずと近づき、握手を交わし合う。そうか、この二匹は複種の動物がよく混ざっている獣だが、どちらも手だけは鳥の手なのだ。おれの、空への憧れが現れている。
「三年で二匹、しかもこんなに良い獣を得るなんて。さすが、アーチピタは違うね」
「そちらこそ。中等部なんてお遊びだっていいつつ、もう家をこんなに育てたうえ、クロマともそれなりによろしくやっているようで」
「きみの命令があるからだよ」
七、獣は獣使いにしか懐かない。
そして獣は、自身を馴らした主人以外には従わない。
新しい獣を得るため島外に出たかったので、先に得た蛇のクロマのほうはしばらくここに預けていた。クロマノールはクロマに何か指示を与えることはできない。懐くこともない。ただ、この蛇は人語を解し、話ができる蛇なので、同居人としてはそれなりにうまくやれていたようだ。
「クロマ、ノール、高等部は基本的にお前たち二匹だけでやっていこうと思う。ここは人間が多くてちょっと嫌かもしれないけど」
まったくだ、とクロマが言い、ノールは面倒そうに鼻を鳴らした。
「でも、おれの故郷なので」
六歳から十八歳まで、限定された期間にしかいられないこの学園を故郷と呼ぶのはすこしおかしい。しかしこの学舎の子どもは皆、この巨大な城をそう呼んでいたし、帰るべきところとして寮の色と月を掲げていた。赤の月は戦士の月、黄の月は楽師の月、青の月は作家の月、緑の月は薬師の月、白の月は古代の月。
そして獣使いの帰るところは、己の馴らした獣のところ。
「きみが生き物を馴らすなんて絶対に無理だと思ったんだけどなぁ」
「おれも、きみが物語を書くなんて、絶対に無理だと思ってたよ。あの戸はどこに式を書いてあるんだ?」
「覗き穴の淵のところ。用心深くして、人を信じてはならないという教訓を込めた、童話が書いてある」
八、魔法の発動のさせ方はさまざまだ。
楽師は音階で、剣士は剣舞で、そして作家は物語や数式など
なにかしらの記述を行うことによって、魔法を行使する。
「エピローグまで書いてあるんだ。崩れる時は美しくしてあるように。教えに逆らい戸を開いてしまった子供は、狼に食べられてしまいましたとさ、とね」
「狼ねぇ」
と、蛇が小馬鹿にした。
時間を知りたくて、おれは空を見ようとぐんねりと頭を回す。しかしこの部屋に目立つ窓はなかった。相変わらず。
「ああ、もう夜だよ。空はすっかり紫で、あの黒い染みがよく目立つ。暗いのは好きだけど、夜は嫌いなんだ」
隠されたような小窓を開き、夜空の紫を見上げて、クロマノールが言う。ペンを振るう指先はどす黒い闇の中に落ちていた。
九、夜空の色は紫色。しかし東の方に、とんでもなくどす黒い、
世界の痣が滲んでいる。空に黒い部分があったってことが、
いつか御伽噺になってほしい。
そして十。
十、この世界は、ひとつの脅威に、
始まりのころから晒され続けていて、
その世界の病の名前をニグラムと呼ぶ。
◆
クロマノールに病の兆候が訪れたのは、わずか十歳の時だった。はじまりは左足の先から。ニグラム、その黒い闇は、クロマノールの小指を豆粒ほどのみ侵食した。最初にそれに気づいたのは、おれだった。小さな影でも落ちているのかと思ったおれは、まだ細く、節々が丸くて柔らかな子供の手でその黒を指さした。声はまだかん高いままだったと思う。
「なにかついてない?」
クロマノールは少しめんどうそうに髪をかきあげてから、おれの指さしたほうを見た。そしてならぶピースの中で一つだけ真反対を向く不整合に気がついたかのように少しだけうっとうしそうな顔をした。右手に持っていた柔らかなタオルを押し付け、多少荒い手つきでこすった。おれたちは風呂上がりだった。
「とれない、な」
クロマノールはそう言っただけだった。おれは何の気もなしに、それじゃあ、と元気に声をかけた。
「これでも使えよ」
おれは作ったばかりの魔法薬を差し出した。昨日の午後の授業では、魔法で洗剤を作る課題が出た。クロマノールは手先が不器用だったので、完全に失敗していた。器用さが必要ない作家になるから良いのだと言い放って、周囲を驚かせたのは今朝のことだった。作家科は学年全体の中でわずか五人にしか許されていない特別枠で、なると言ってなれるものではない。しかし、子供の無邪気なプライドが、クロマノールにそう言わせた。おれはというと、剣士になるつもりだった。
そしてこれはその四日後に分かったことだったが、クロマノールは世界の痣に罹患していた。移る病ではないが、治る病でもない。
◆
次の悲劇はおれの方に訪れた。
学園では、初等部の最終学年にしてようやく魔法の授業が始まる。すべての魔法におれは失敗した。すがすがしいほどだった。クロマノールに渡した洗剤もとうぜん失敗作だった(とはいえあれがちゃんとした洗剤だったとしても、クロマノールの役には立たなかったわけだけど)。新学期が始まって一ヶ月が経った時点で、おれの獣使い科行きを疑うものは誰一人いなくなっていた。
十一、魔法の力がないものは、獣使い科へ進む。転科はできない。
自分で魔法を使えない以上、獣の力を借りるしかないし、
獣は魔力のある人間を嫌うから。
その少々特殊な立ち位置から、獣使いへの対応はみんなすこし遠慮がちになる。学園で六年を共にした仲間内ですら。
クロマノールも例外ではなかった。しかし、かれはおれを気遣うことを早々に辞めた、辛抱の足りない人間の一人でもあった。代わりにクロマノールにはクロマノールの、つまらない悩みがあった。
「またひっくり返しちゃったよ。洗剤、結局作れなかった」
「いいだろ、木をランプにしたり、水を沸かせたりはできるんだから」
そうかな、とクロマノールが言った。そこで、おれは病のことを思い出し、すこしだけ申し訳なくなった。しかしクロマノールの悩みは死病を抱えていることではなくて、あくまでも自分の思う通りに魔法が使えないことだった。
――とはいえ、おれとは違う。魔力がほぼ無くて、獣使いへの直行便の用意が整い始めている、おれとはまったく違う。
「おれさ、来月から魔法学なしだっていわれた」
まだ最終学年が始まってから一ヶ月とすこしだというのに、先生方も見切りの早いことだ。代わりに獣を得る修行に向けた訓練を受けろ、ということらしい。
十二、生徒は中等部から各科に分かれる。
十三、獣使い科に進んだ生徒は、中等部の三年間、
獣を探しに学園の外に出ることを、例外的に許される。
「それと、マルクルが最近話しかけてくれない」
「ほっとけばいいじゃないか、昼はぼくと食べてるんだし、特に不便ないだろ」
クロマノールは多少めんどうそうに、どこか心のこもっていない声でそう言った。かれは自分の魔法がどうにも不安定なのがお気に召さないようだった。魔力の強い人間によく見られるスランプだ。平凡な力よりも、強大な力の方が、扱いが難しい。
クロマノールの病の進みは遅かった。少なくとも二十年ほどは命に別状はないと診断されたそうだ。ほんとうに病なんだろうかと疑ってしまいそうになるほど、身体は元気にしていて、広がる痣のことより、強大な自身の魔力が少しも安定しないことのほうを思春期の悩みに選んでいた。
「どのみち来年から三年も外だ。クロマノール、なにかほしいお土産あるか?」
「派手な獣と暮らしてみたいな」
「どんな獣を得ても、またきみと暮らすことはできないだろ。科が違うし。きみは間違っても獣使いなんかにはならない」
「ぼくが作家科に行けばいい。そしたら家を貰えるから、その一室をきみの獣のための部屋にする」
「物分かりのいい獣が必要だな」
「猫がいいな、大猫」
おれはそんなの嫌だった。平凡な獣じゃなくて、どうせ飼うなら、大きくて強い獣がほしい。でも、馴らせる獣が強ければ強いほど、それはおれ自身の魔力が弱いってことだ。獣はほかの生き物の魔力を嫌がるから。
おれは膝を抱えた。おれはまだ十つだったが、よくよく思えばクロマノールだってそうだった。
◆
「今だから言えるけど、きみはあんなに転科を望んでいたから、クロマを連れてきたときは驚いたよ」
クロマノールはなにか書き物をしながら、おれにそう言った。クロマノールは元々、言いづらいことなんてこの世には一つもないみたいに飄々としゃべる。ペンが薬師の作った特別紙のうえで踊る。作家にとっては、紙に自らのペン杖で文字を書く、それだけで、魔法が発動する。
「猫じゃなくて悪かったな」
「ノールはすこし猫みたいなところがあるよね」
クロマノールは、クロマとノールを交互に見た。クロマはすでに暖炉の前で眠っている。変温動物のくせに、熱の近くにいて大丈夫なのかと心配したが、もう毎日こんなふうに寝ているそうだ。
ノールは得てから二ヶ月になるが、未だに完全に眠ったところを見たことがない。今更警戒されているわけでもないだろうから、おそらくそもそも眠らない生き物なのだろう。多頭や多足の特徴を持つ場合、一体としての眠りは浅いものだと本で読んだ。ノールの頭は一つ、手足は四つ、尾は一つ、このあたりはいたって平均的だが、心臓が四つあるのが、やはり珍しい。
「大きさが変わるときに、形も多少変わるからな。小さい時は猫に似ているけど、中くらいの時は鳥の要素が強いし、いちばん大きくなると名前の通り馬にも似てくる」
「いまこの姿だと、月馬、って名前の生き物には見えないね」
ペンを一瞬止めてから、クロマノールはインク壺にペンを浸した。インクをわざわざ毎回付けなくてはならないようなめんどうなペンには見えないが、魔法の儀式の一つなのかもしれない。痣は、クロマノールの手首から小指までを、斜めに浸したように黒に染めていた。
「クロマノール、病の具合はどうなんだ」
「悪くないよ。手に出ちゃったのは、ちょっと目立つけど、まあ、狭い学園だ。元々ぼくに痣があるのは、皆々様よくご存知のことだし。それにぼくは幸運なことに作家で、他人との共同作業ってやつはほとんどないから、気も使わない」
青い天井、青いペン、青のラインの入った外套に、青の靴紐。部屋のすべては青で覆われている。クロマノール自身が青を特別好んでいるというわけではない。どの作家科の生徒の家もこうなのだ。ついでに言えば、戦士の寮の壁色や制服は赤いし、薬師の寮の机や学帽はどれも緑色だ。科への帰属意識は強い。
「いまはどんな術を書いてるんだ?」
「空を飛ぶための装置。しばらく形について悩んでたんだけど、猫に乗るのもいいかもなって。まだ探してないけど、ぬいぐるみで空を飛ぶのってどう? 可愛くて、売れそうじゃない?」
「それいいな、おれにもくれよ」
「男が猫のぬいぐるみに乗るの?」
「なかなか悪くないだろ」
「きみにはノールもクロマもいるだろ。それにだめだよ、危ない」
「危ない?」
いつも自信家なくせに、売れそうだなんていうくせに、とおれは面白くなった。
「そうか、規則的に動く魔法のほうが得意なんだっけ。空を飛ぶのはなんていうか、スポーツチックだもんな?」
「書けないわけじゃない。でも、ぼくが死んだら使えなくなるだろ。その時にちょうどきみが可愛らしいぶち猫のぬいぐるみで空を飛んでたら……まあ、きみには獣がついてはいるけど、ちょっとした怪我は避けられないだろうな」
クロマノールの声が震えていなかったことを、おれはすこし悲しく、そして痛ましく感じた。昨今、こいつは死という言葉をよく使う。
「作家が死んだら、作った魔法は動かなくなる。これだけはどうしようもない」
そうだな、とおれは相槌を打ったが、結局ごまかしきれずに、視線はクロマノールの左足へ向かってしまった。あの日見つけた黒い痣。次の日から、クロマノールは個室を与えられて、他の子供と一緒に風呂に入ることはなくなった。学園側の配慮ということだったが、おれには隔離に見えた。当時、獣使い科への進学がほぼ決まりかけていたおれは、学園への反抗心がかなり高まっていた。今なら、必要な措置だったと理解できる。この痣を衆目に晒してはいけない。
ノールが鼻を鳴らす音が部屋のなかに響き、おれの耳にやけに大きく聞こえた。ただの寝言かもしれない。今日はすこし深めに眠っているのかも。
「たいしたことじゃないさ。きみとこうして普通に話をしていられて、ぼくの名前をもつ獣と暮らしてる。しかも学年で選ばれし五人のエリートだ。憐れまれるような人生じゃない」
「それでもおれはお前を憐れむよ」
「だろうね。きみは体力があって、成績も悪くなく、友達も多い。獣使い科に進学し、たった三年の間に複種の混ざった獣を二匹も馴らしている。しかも一匹は人語を話すし、もう一匹もかなり珍しい。引く手あまただろうね。なかなか向いてる道に進んでるみたいだ。たいしてぼくは、ただ自動で閉まるドアを作ってるだけ。それでもぼくはきみを憐れむよ」
よく喋るやつだ。クロマノールがおれのことを可哀想だと思っているのは知っている。そしておれも、この完璧な友人のことを可哀想だと思っている。
「おれが死んでも、クロマとノールは、おれの言いつけをできる限り守るそうだ」
「できる限り?」
「どのぐらい守ってくれるのかは、たぶん、絆によるんだと思う。永遠に服従する、ってわけにもいかないだろ」
「そうだね」
クロマノールは紙への書き付けを再開した。しかし物語の続きではなく、ページの隅に挿絵のようなものを描いている。
「そんな落書きしていいのか?」
「かまわないさ。とにかく物語を与えられればいいんだ。ぼくは作家だから。でも結局、なにを書いたところで、どんな素晴らしい魔法を作ったところで、褒められたところで、ぼくが死んだら全部動かなくなるんだよね。その点、獣はいい。ぼくのことを憐れむ理由がまた一つ増えたね?」
嫌味のようなその言葉を恨んだことが、おれはどうしてかなかった。爽やかな無力感、甘い敗北感、身勝手な同情。
「クロマとノールは、一度名付けた獣は、その名を決して忘れることはない。おれが死んでもきみが死んでも」
「嫌なことするなあ」
おれはわらった。
「クロマノール」
「ぼくを呼んだ? それともこの二匹を?」
ほんとうは戦士になりたかった。この世界を救う勇者になりたかった。世界の痣を封印するためには、剣での封印しか術がないといわれている。だれにも忘れられない人間になりたいと、おもっていた。
「きみのことを呼んだ」
卵を大切に温めるみたいに、銀食器を丁寧に磨くみたいに、毎朝おれはおれの劣等感を育てている。
<了>
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