一章 4-2

    *     *     *



 急須を取り出しつつ玉藍が雪を見上げてくる。今の彼女は時代錯誤な白拍子の衣装ではなく、長い髪をポニーテールに纏め、パーカーにハーフパンツという部屋着然とした姿である。服装は自在に変えられるらしいが、特に意識しないと白拍子の格好になってしまうのだという。理由は本人にもわからないらしい。

「今更ですけれど、連れて来てしまってよかったんですか? セツさま、関わり合いにならない方が、なんて仰ってませんでした?」

 雪はため息混じりに返す。

「そう思ったんだ、あのときは。でも、玉藍が言ったとおりだった。佐瀬は無防備すぎる」

「ええ。気を抜くと今も眩しいですもの」

「眩しい、か。闇夜の篝火だっけ?」

「ええ。コンビニの誘蛾灯でもいいですよ」

「……一気に情緒がなくなるな」

 玉藍のような存在や、この世ならざるモノには、「力」は光って見えるのだという。「彼ら」はその光に寄ってくるので、「力」を持つ者は、「彼ら」を追う払う方法や、気付かれないようにするすべを知らないと、大変なことになる。

 一方で、神社仏閣など、所謂パワースポットと呼ばれるような場所もやはり光って見えるらしいのだが、あまりに光が強いと「彼ら」はその身を焼かれてしまう。だから、大抵は場所ではなく人に集まる。近付いただけで存在が危うくなるような「力」を持つ人間は滅多にいない、とは玉藍の弁だ。

 雪は玉藍が淹れてくれたお茶を手に譲のもとへ向かった。

「はい、お茶」

「……ありがと」

 雪が差し出したお茶のカップを受け取り、譲は台所へ視線を遣った。その先では玉藍が夕食の支度をしている。

 しばらく玉藍を見ていた譲は、隣に腰を下ろした雪に不意に顔を向けた。

「実は妹がいるんだろ? 俺のことを驚かすために、二人で手品でもしたんだ。そうに決まってる」

「まだ言うか。どんだけ大がかりな手品だよ、しかも玄関先で。第一、俺に妹はいない」

「んなこと言ったって、猫が人間になるなんてありえねえだろ」

「なんなら、もう一回玉藍に変わって貰う?」

「やりませんよ」

 飛んできた玉藍の声にはあからさまに不機嫌が滲んでいて、雪は口を噤んだ。玉藍を本気で怒らせると、怖い上に長い。

 譲はぱっと玉藍を振り返ってから雪に向き直る。

「あの子は妹だって言ってくれ、頼むから」

「俺に妹はいないってば」

「じゃあ姉」

「じゃあって。俺のきょうだいは兄が二人だけ。姉も妹もいないの」

「わかった、従妹いとこだ」

「だーかーらー。見ただろ、玉藍が化けるとこ。自分の目を信じろって」

「自分の目ほど信じられないものがあるか」

 真顔で断言され、返す言葉に迷った雪は間をもたせるために一口お茶を飲んだ。

(これは根が深いな……)

 猫が人の言葉を話し、あまつさえ人に化けるというのが、俄には信じられないというのはわかる。己が現代の一般常識からやや外れていると自覚している雪ですら、玉藍がいなければ笑い飛ばしていたかも知れない。だが、自分の目を信じられないと躊躇いなく言い切るのは、それとはまた違う問題だ。

「こういう言いかたは安っぽくて嫌なんだけどさ」

 前置きをしつつ、雪は譲の様子を伺う。

「佐瀬は、所謂『見える』人なんだよ」

「見えるって、何が?」

 聞き返されると思わなかったので、雪は一瞬言葉に詰まる。

「……幽霊とかお化けとか、なんかそういうの」

「だから、そんなのいないって」

「なんでそう言い切れるんだ?」

「見たことないから」

「いや……それさ」

 本当に幻覚だと思い込んでいるらしい譲に納得させるには、一体どう説明したらいいのかと、雪は胸中で頭を抱えた。実際はそれほどでもないのに自分は霊感が強いと言い張る人間は多くいるが、逆のパターンに遭遇したのは初めてだ。

「……佐瀬みたいなのも珍しいよな」

「どういう意味だよ」

「つまり、佐瀬は他人には見えない『何か』が見えるんだろ? それ、幽霊みたいなものかもって思ったことなかったのか?」

 譲はテーブルに視線を落としてしばし無言で考えていたが、やがてゆるゆるとかぶりを振った。雪は重ねて問う。

「幻覚が見えるようになったのは、いつから?」

「……わからない。俺は見えるけど、他人には見えないものがあるって気付いたのは、幼稚園くらいだったかな……」

 目を伏せ、譲は続ける。

「そのくらいの頃、物凄く深刻な顔した両親に病院に連れて行かれてから、俺はどっかおかしいんだろうって……だから、他人には見えない変な物が見えるんだって思ってた」

「周りに『見える』人はいないのか? 両親は違っても、親戚とか」

「いない。少なくとも、俺が知る限りでは」

「そっか……それも珍しいな。こういうのは、家系であることが多いんだけど」

 力の強弱はあれ、雪の兄たちも父方の親戚も殆どが異能を持っているので、雪の場合は確実に遺伝だ。何事にも例外はあるらしい。

 誰にも理解されずに幼い頃に「幻覚」だと刷り込まれて、今まで訂正する機会がなかったのだとしたら、頑なにもなるはずだ。

(誰にも同じものが見えない……それで自分の方がおかしいと……)

 先程、虚言癖、妄想癖と譲は言っていた。まさに、そのように言われ続け、否定され続けてきたのだろう。分別がつくまでは特に辛かったに違いない。

「……ごめんな」

 改めて謝れば、譲は不思議そうな顔をした。雪は顔を伏せるように頭を下げる。自分が面倒だから、変に思われたくないからと言うだけで、譲をいたずらに傷つけた。

(どうして忘れてたんだろう……否定されれば、誰だって悲しいのに)

 何を言っていいのか悪いのかもわからなかった頃、雪は見えたものを口に出しては周囲に嘘つき呼ばわりされていた。脳や精神に重大な疾患があるような言われかたをしたこともある。だが、同じものを共有できる家族がいて、物わかりのいい幼馴染みもいる雪はまだ幸運だ。周囲に理解者がいなかった分、譲の方が過酷だっただろう。自分の目が信じられず、見たものすべてを幻覚だと思い込んでしまうほどに。

 雪は譲に向き直って告げる。

「佐瀬はどこもおかしくないよ。ただ、人よりちょっと感度のいい目を持ってるだけ」

 半ば俯いていた譲は、弾かれたように顔を上げて雪を見た。瞠目した彼は束の間無言で雪を凝視していたが、やがて頼りなげに瞳を揺らすと突然立ち上がった。

「……悪い、トイレ貸して」

「ああ、うん。出て右側のドア」

 雪が廊下へ続くドアを指差すと、譲は早足で出て行った。雪は手にしたままだったカップから冷めつつあるお茶を飲む。

(難しいな……)

 雪は末っ子なので、教え諭されたことは多々あるが、逆の機会はあまりなかった。今が初めてかもしれない。

 譲にしてみれば、知り合って日の浅い、しかも一度偽りを口にした相手を信じるのは難しいだろう。つくづく己の浅慮が悔やまれる。

「夕餉の支度が調いましたよ」

 降ってきた声に見上げると、いつの間にか玉藍が近くに立っていた。頷いて雪は立ち上がる。料理はいつも彼女に任せきりなので、配膳くらいは手伝いたい。

「父さんか兄さんがいれば、もう少し上手く言ってくれるんだろうけど」

 台所に向かいながらぼやけば、玉藍は不満げに唇を尖らせた。

「セツさまはお優し過ぎます。あんな分からず屋、放っておけばいいのに」

「そう言うなよ。悪気があったわけじゃないんだから」

 譲の鋭い言葉は、恐怖の裏返しだろう。他人の目には映らない異形を、自分だけが見る幻だと思い込み、誰にも相談できずに一人抱え込んできた胸中は、数は少なくとも理解者がいた雪には想像もできない。

「悪気がなければ全部許されると思ったら大間違いですよ。まったく、セツさまに向かってあんな暴言を吐くなんて、万死に値します」

「万死」

「セツさまのお気持ちも知らないで、お心を踏みにじるような真似をして」

「っつっても、最初に嘘ついたの俺だしなあ。やっぱり保身のための嘘は駄目だな」

 抗議するかのようにどすどすと足音高くカウンターキッチンに入る玉藍に、雪は小さく笑んだ。雪の十倍以上は生きているはずなのに、たまに妹のように思えるときがある。人の姿を取るときの見た目は昔から変わらず十五、六歳くらいなので、いつの間にか追い越してしまった。

 話しているうちに譲が戻ってきた。少し落ち着いたか、先ほどまでの頼りなげな、自分の感情を持て余しているような表情は消えている。

「ご飯できたから、テーブル座ってて」

「ああ……いや、手伝うよ」

 台所へやってきた譲は、不意に手を伸ばして玉藍の髪を引っ張った。予想外の行動に雪は止めることができず、一番驚いたであろう玉藍は飛び上がって猫の姿に戻ると、カウンターの上に着地した。毛並みを逆立てて譲を睨む。

「何するのよ!」

 声を上げる玉藍を物珍しげに見て、譲は己の手と三毛猫とを見比べた。

「いや……触れるのかなと思って」

「見えれば触れるわ、当たり前でしょう!」

「当たり前なのか?」

 譲に問われ、雪は首をかしげた。

「ものによるけど」

「セツさま、ご命令ください。この不届き者を今すぐつまみ出してご覧に入れます」

「落ち着け玉藍。佐瀬も、一言断ってから触ってくれ。気持ちはわかるけど」

 まだ不思議そうにしている譲は、素直に玉藍に頭を下げた。

「悪かった」

「二度目はないとお思い。わたしはセツさまほど優しくないのよ」

「玉藍」

 雪が咎める調子を強くして呼ぶと、玉藍はぷいと顔を背けてリビングを出て行ってしまった。やがて風呂掃除を始めたらしく、風呂場から微かな水音が聞こえてくる。玉藍は腹を立てると、そのエネルギーを家事にぶつける傾向がある。

 玉藍が行ってしまったので、代わりに炊飯器の蓋を開けると、良い香りと共にふわりと湯気が立ち上る。今更ながら空腹を思い出し、雪は炊きたてのご飯を掻き混ぜた。

「佐瀬、そっちの茶碗とってくれるか」

「これ?」

「ありがと」

 用意してある食器は二人分だ。玉藍は基本的にものを食べない。食べられないわけではないようで、雪が誘えば一緒の食卓についてくれるが、それ以外で彼女が食事をしているのを見たことがない。

「玉藍、だっけ。あの猫は、雪のなんなんだ?」

 名を呼ばれ、雪は思わず譲を見た。雪の表情の理由に気付いたか、譲がぱっと口元を押さえる。

「あ、悪い。玉藍のがうつった」

「別にいいよ、雪で。玉藍は……なんなんだろな。多分、近いのは使い魔とか、式神とか、そういうのなんだろうけど……別に、俺が使ってるわけじゃないしなあ」

「でも、『さま』付けで呼ばれてるじゃん。敬語だし」

「そうなんだけどさ、やめてくれっつってもやめないんだよ。畏れ多いとかなんとかって」

「前時代的だな」

「な。俺は貴族か大名かっての」

 今では見る影もないが、出会った当初の玉藍は武士かというほど固い喋りかたをしていた。幼い雪には通じず、いちいち首をかしげていたので、子供にもわかるよう言い換えているうちに今のように変化していった。

 ご飯茶碗を運んで戻ってきた譲が、躊躇いがちに問う。

「壱矢も、その……見える、のか?」

「いいや、壱矢は見えない。そういうのに物凄く鈍いんだ、あいつ」

「そうなのか……

 思わずといった様子で言い、すぐに後悔したような顔をする譲へ、雪は笑みを向ける。

「そう、見えない

「……ごめん」

「気にすんな。そう思うのは当然だ」

 これは、気休めや社交辞令などは抜きにして雪はそう思う。

 圧倒的に少数派である雪たちは異端で、見鬼けんきを持たない―――「見えない」者とわかり合うのは難しい。ゆえに雪は、長じるにつれて異能を隠して他人と付き合うことを自然と覚えた。一度も引っ越したことがないのに、幼馴染みと呼べる存在は壱矢しかいない。大人にすら遠巻きにされた雪に変わらず接してくれたのは、壱矢だけだった。

 昔のことを思い出しそうになったのを無理矢理頭から追い出し、雪は鍋の蓋を取った。豆腐と若布わかめの味噌汁におたまを突っ込みながら、声が沈まないよう注意して言う。

「壱矢のじいさん家が神社で母さんの実家が寺だから、そういうのに慣れてるのかもな」

「神社と寺のハイブリッドなのか……」

「血筋的には俺たちよりよっぽど見えそうなのにな。でも、壱矢といるとちょっと楽だろ」

「……なんで?」

「あいつ、霊的なものに敬遠されるみたいなんだ。寄ってこないし、大体逃げてく」

「へえ……」

 既に心当たりがあるのか、譲は納得したような声を出した。だが、すぐに首をかしげる。

「でも、さっきは壱矢が近くにいたのに出てきたぞ」

「たまにはそういうのもいるってこと。壱矢への苦手意識より譲への好奇心が勝っちゃったんだな。それでも、ちょっと離れた時を狙ったんだろ。今がチャンス! って」

「人間みたいだな」

「元は人間だった奴が殆どだから」

「ああ、そうか……」

 失言だったとばかりに譲は俯く。雪は小さく笑んで話を変える。

「で、実を言うとこっからが本題なんだな」

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