レイン・シェルター

楸 茉夕

序章

 そこからの景色は、期待していたほどでなかった。

 彼はペットボトルのお茶を片手にぼんやりと外を眺める。現在いるのは七階。壁一面ガラス張りなので、周囲のビル群がなければ遠くまで見渡せただろう。

 町中にある市民ギャラリーである。二階から四階が図書館になっており、彼はそこを訪れていた。本を読むのに飽いて、気分転換にと上ってきたのだ。

 空になったペットボトルをゴミ箱に放り込み、そろそろ帰ろうかと彼はエレベーターへ足を向けた。しかし、一基しかないエレベーターの前には団体客らしい人々が集まっている。春休みなので、見学のツアー客かも知れない。この建物は有名建築家が手がけたもので、竣工から随分経つというのに、今でも、時には海外からも見学者が来るという。

 時間がかかりそうなので階段で下りることにして、フロアを探すことしばし、透明な壁でできた円柱に、階段のサインがある扉を見付けた。

 扉の横には申し訳程度の小さなフォントで「7Tube」と表示がある。

(チューブ……って言うのか、この円柱)

 透明な壁を覗き込めば、確かに円柱の内部には階段が下へと続いている。重い鉄扉に鍵はかかっておらず、すんなり開いた。エレベーターも同じようにチューブの内側を通っていたし、これがこの建物の特徴なのかもしれない。

 機密性が高いようで、チューブ内に入って扉を閉めてしまうと外の音は殆ど聞こえない。奇妙な静けさの中、自分の足音だけを聞きながら階段を下りて、図書館のフロアにさしかかったところで彼はぎくりと足を止めた。

 目の前に誰かの爪先がある。思わず視線で辿ると、「両足」は今しがた彼が下りてきた階段の裏側から突き出ていた。しかし、太腿の半ばから上は見当たらない。

 またいつものかと嘆息し、彼は眼前の「両足」を払い除けた。「両足」は半ば透けているのにもかかわらず、ぶつかった手の甲にはしっかりと人の足の感触があって、彼は総毛立つ。悲鳴を堪えて階段を駆け下りようとすると、今度は突然現れた掌に顔面を掴まれかけた。

「っ……!」

 反射的に後退あとずさり、咄嗟に周囲を見回すが、図書館の利用者たちは誰一人として彼に注意を払わない。透明な板一枚で隔てられているだけなのに、絶対に届かない世界であるように思えて、彼は強く目を閉じた。

(幻覚。幻。俺は何も見てない。何も見えない)

 強く言い聞かせてから目を開けても、手は消えてくれなかった。これは駄目だと踵を返しかけたとき、耳元で声がした。

『どこ行くの?』

「あっ……」

 唐突に聞こえた囁きに驚いて、身を竦めた拍子に踵が段を踏み外した。落ちる、と思った瞬間、強い力で腕を掴まれた。

「大丈夫か?」

 反射的に閉じてしまっていた目を開けると、落ちかけた彼を支えてくれたのは同じ年頃の少年だった。少年は彼をしっかりと立たせてから手を放し、鋭い口調で言う。

「くだらない悪戯するんじゃない」

「え?」

 自分に言われたのかと思って彼は聞き返したが、少年の目はまだぶらさがっている手足に向いていた。やがて、忌々しげな舌打ちが聞こえて手足はすっと掻き消えた。

「なん……?」

 彼はわけがわからず手足があった場所と少年とを見比べる。表情を和らげた少年は低く告げた。

「ああいうのは無視した方がいいよ」

「無視、って……」

 彼の呟きには応えず、少年は階段を下りると図書館へ繋がる扉を開けてチューブから出て行った。その姿が書架の隙間に隠れるまで目で追って、我に返った彼は慌てて少年を追いかけた。しかし、目当ての姿は見つからない。

 書架の間に立ち尽くし、ようやく落ち着いてきた彼は眉を顰めた。

(……「ああいうの」って、幻覚のことか?)

 彼が度々幻覚を見たり幻聴を聞いたりするのは、幼い頃からの常だ。どんな病院を受診しても、掌一杯の薬を飲んでもなくならなかったので、生まれつき頭のどこかが修復不能なほど壊れているのだろう。だから、現実にないものを見たり聞いたりする。

(壊れ具合が酷くなって、他人にも見えるようになった……とか。まさかな)

 自嘲し、彼は軽くかぶりを振った。それ以上は考えないことにしてエレベーターへ向かう。もう一度階段を使う気にはなれなかった。

 幻覚は幻覚で、それ以上でも以下でもない。あの少年もまた幻だったのかも知れないと考えながらエレベーターを待っていると、視界の端を白い物が横切った。そちらへ視線を遣れば、どこから入り込んだのか三毛猫がのんびりと歩いている。

「猫……?」

 思わず口をついて出た言葉を理解したかのように三毛猫が振り返った。そして、何かを確かめるような足取りで近付いて来る。足下までやってきた猫は、たし、と彼の爪先に右の前足をかけた。驚いて軽く足を引くと、猫もびくりと前足を引っ込める。それから深い藍色の瞳を一杯に見開いて彼を見上げ、一度ぱたりと尻尾を動かして姿を消した。

 猫も幻覚だったらしいと、彼は片手を額に当てた。

(そりゃそうだ、猫が図書館をうろついてたら、つまみ出されるよな)

 消えたからよしとしようと手を下ろして顔を上げれば、エレベーターの扉が閉まるところだった。

「……あ」

 猫に気を取られていてエレベーターが来ていることに気付かなかった。エレベーターの乗客が怪訝そうな顔で下降していく。

 今度のため息は堪えきれず、彼はのろのろとエレベーターのボタンを押し直した。

(まずいな……酷くなってる)

 幻覚とは長い付き合いだが、白昼、しかも人の多い場所で頻発するのは珍しい。自らの故障箇所が増えているのかと思うと、暗い気分になる。

 病院にはあまりかかりたくない。数年前、こっそり総合病院に行ったときは、あらゆる診療科をたらい回しにされて、最終的に心療内科で睡眠薬を処方されただけだった。今、改めて受診したとしても、似たようなものだろう。

(……帰ろ)

 考えても結論は出ず、すべてを棚に上げることにして、彼はエレベーターに乗り込んだ。

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