8章 願い
これまで見た夢の断片が、パズルのピースが合うように一つの流れを形作った。
起きてから思い返そうとしても姿がはっきりしなかった白金の髪の旅人は、セツナがよく知る少年だった。
夢に出てくる街並みや服装は、セツナが見てきたこの世界の現在よりも、古い時代のもののようだった。
魔王を倒すだけなら長い年月はいらないとしても、被害を受けた地の復興が数年程度で終わるはずがない。
そしてラズは言っていた。ずっと前から旅をしていた、と。
かつて魔王を倒した勇者。それはきっと、この世界に伝わる歴史であり、誰もが知る昔話だ。
目が覚めると、セツナの視界に見慣れない室内が映った。
薄暗い中に黒い霧が漂っているだけでなく、広い空間の壁も床も汚れが目立ち、床には埃が積もっている。天井から下がるシャンデリアには蜘蛛の巣がかかっていた。
廃墟――否、ここは。
「魔王の城……?」
上半身を起こして振り返った先には、玉座が見えた。
北の大陸。災厄の予言。王族は国を作った創造主の末裔。人智を超えた力を持った大いなる存在は、神にも悪魔にもなり得る。夢の中で聞いた言葉が浮かんでは消える。
夢で見た出来事が、この世界の過去だというのなら――。
「ああ、思い出したのか」
そんな声をかけられて、肩を跳ねさせて振り返った。
「ラズ……」
近づてくるラズはいつものように笑みを浮かべていた。そのことに安堵しかけるが、歩いてくる足音が響くとともに、セツナの鼓動が早くなっていった。
「そうだ。お前はかつてこの世界を闇で覆った魔王の転生。その昔、魔王を倒したのは俺だ」
セツナの前で立ち止まったラズは、そう告げた。
「倒した、じゃ生温い表現か。殺したんだ」
両手を広げ、ラズは念を押すように繰り返した。
「俺は世界を救うために、一緒に旅をしていた相手をこの手で殺したんだよ」
水色の瞳が爛々と輝いている。笑顔のはずの顔に威圧感を感じた。
笑顔はときに攻撃性をはらむ。強者が弱者に向ける笑顔は、相手を突き刺す刃物と同じだと、知っていたはずなのに。
「ああ、そうだ。お前がもとの世界で不幸だったのも、闇に魂を浸食されているからだ。何度転生しても、他の世界に生まれようとも、お前は幸せになんてなれなかった。そうだろう?」
胸を刺す痛みが走った。
「お前の力を引き出すために精神に干渉した際、繰り返した転生の中で辿ってきた人生を垣間見た。あるときは絶望して自殺した。あるときは障害を持って生まれ、人間扱いなんてされなかった。あるときは信頼していた相手に殺された。俺に殺されたように」
ラズはこれまでセツナを蔑むようなことは言わなかった。見下した目で見ることもなかった。いまのラズの言動が、信じられなかった。目の前の光景を信じたくなかった。
「三百年前に魔王として覚醒しなければ、こんな目には遭わなかっただろうに」
勇者は告げる。世界の敵を倒す前の前口上かのように。
そして腰に下げていた剣を抜き放った。
「さあ、魔王の転生者。ここで死んでくれ」
セツナに向けられた切っ先が、薄暗い中で鈍く光る。
「お前の魂は闇と融合し、魔王の力を受け継いでいる。お前が転生を繰り返していると、その力を欲する凶悪な存在に利用されるかもしれんからな」
受け入れたくない言葉が、じわじわと心に沁み込んでいく。
「魔王の転生を見つけ出し、二度と転生しないように完全に消滅させるのが、俺の目的だったんだよ」
この世界に来てラズと過ごした時間が、急速に色褪せていくように思えた。
ラズと逢ったことで、セツナの日々は変わった。一緒に旅をして、闇を祓って困っている人を助けられて、嬉しかった。
だけどそれはすべて、偽りだった。
――ラズは僕を魔王の転生だと知っていた。
――かつて魔王を――前世の僕を殺した。いまも僕の死を、消滅を望んでいる。
裏切られるのは慣れているはずなのに、涙が頬を伝った。
剣が振り下ろされる直前、セツナの内側にあるなにかが爆発した。
取り込んできた闇が膨らみ、暴走し、ラズを攻撃する。蠢く闇の余波で、朽ちていた玉座の間がさらに崩れていく。
人殺しの子供。そう言われ続けてきた。だがもとの世界にいる限り、人を殺すことなんてないはずだった。
けれどこれまで取り込んできた闇は、世界に悪影響を与え、人を殺せるものだ。
四方八方から伸びていった闇がラズに襲い掛かる。鋭く尖った闇の先端が、ラズの腕や肩や脇腹を切り裂き、抉っていく。
回復されても絶え間なく攻撃は続き、やがて死角から伸びた闇が剣を弾き飛ばした。
武器を手放したラズに向かってセツナは駆けた。走りながら闇でできた黒い短剣を呼び出し、強く握りしめる。
セツナをこの世界に召喚した存在。
笑いかけてくれた。手を差し伸べてくれた。友達になれたと思った。
――それなのに。
「うあああああっ!」
叫び声を上げて突進し、体当たりしてラズに馬乗りになった。刃を振り下ろそうとして、ふと気づいた。
ラズは抵抗せず、セツナを見上げている。
なぜ。勇者の力なら、簡単に振り払えるだろうに。
魔王の転生で魂に闇が融合しているとしても、これまでに取り込んだ魔王の残滓である闇がこの身に宿っているとしても――まだセツナは自分の意識を保っている。闇に飲み込まれてしまったわけではなく、魔王として覚醒などしていない。
そんな魔王の転生者よりも、勇者のほうが強いに決まっている。
裏切られて哀しかったけれど、ラズに殺される分には構わなかった。一度くらい一矢報いられたらとは思ったけれど、勝てるなんて思っていなかった。
だが、これではまるで――。
「僕を召喚した理由は、本当にさっき言ったことがすべてなのか?」
そう問いかけていた。
見上げてくるラズの表情が、自殺する前日の母親に似ていたから。セツナが屋上から飛び降りようと決めたときに感じた清々しさを、宿しているように思えたから。
見下ろした先で、切り裂かれたラズの傷が治っていく。肩の傷が塞がってから、ラズは吐き出すように言った。
「魔王を倒して人の理から外れ、不老不死になったやつを殺してもらうために、お前をこの世界に呼んだんだ」
これまでとは違い、諦観に満ちた声だった。掠れた声で、囁くように続けられる。
「ほら、そのまま刃を振り下ろすだけでいい。なに躊躇してるんだ。魔王の転生なら、規格外な存在となった勇者を殺せるはずだ」
見上げてくる水色の瞳に、セツナのシルエットが映った。
「セツナ。俺を殺してくれ」
掲げた刃に、黒い闇がまとわりつく。短剣の刃が伸び、剣の形が変わる。それを見て、ラズは薄く微笑んだ。
「そう、それでいい」
そして目を閉じた。
セツナは剣を振り下ろし、ラズの胸を貫いた。
闇でできた刃がラズの魂に触れ、勇者が魔王を倒したときの光景が、セツナの中に流れ込んできた。
魔王を倒したラズは、崩壊していく魔王の身体に手を伸ばした。
手をつかもうとして、触れた部分から崩れていく。黒い塵となって空気に解け、晴れていく闇とともに消えていく。
「……リト」
旅の連れの名前を、何度も呼んだ。それに応えはなかった。
跡を追いたかった。けれど魔王を倒した勇者に、その選択は許されなかった。
魔王を倒した後、ただの旅人だったはずの少年は、人の理から外れた存在になっていた。高い回復力と、不老不死の特性。死のうとしても死ねなかった。
そして世間は勇者がそうした行動を取ることをよしとしなかった。世界にとっての希望となること、英雄でいること、光であり続けることを強要した。
罪人の家族は全員死刑にすることを掲げていた故郷の国の者でさえ、ラズが勇者としてあり続けることを望んだ。
魔王を倒して以降、ラズは並の魔物なら楽に倒せるほどの力を有していることに気づいた。それ以上の力を求めて、魔王の残滓の闇で凶暴化した魔物を倒しながら、世界中を旅した。
魔術国家で魔術の深淵を覗き込んだ。使える者が限られる転移の魔術を身につけ、竜と契約した。これまで以上の力は得られたが、求めた力は手に入らなかった。
万能の力だ、と人々は勇者を称えた。その力を持ってしても、旅の連れを蘇らせることはできなかった。
故郷の神話に語られるような、人の願いを叶える存在の伝承にも当たった。各国の王や権力者と知り合いになり、各地の問題を解決した。その報酬に、彼らしか知らないような未知の存在と邂逅する算段をつけてもらった。
太古から存在する精霊も高位の竜も不死鳥も、ラズの願いを叶えてはくれなかった。
百年経ち、二百年経ち、リトの魂が再びこの世界に生まれてくるかとしれないと思ったが、くまなく探しても見つからなかった。
この世界に、彼の魂を持つ者はいないらしい。罪を犯した者は、魂が世界から追放される。その伝承が正しかったことを実感した。
――なら、他の世界には?
世界を越えるすべを求めた。異なる世界にいる者を召喚する力を欲した。
逢いたかった。ラズが知る旅の連れと、その転生は別人だとしても。
逢いたくて逢いたくてそして――リトの転生者の手で、終わりをもたらして欲しかった。
そしてラズの呼び声に応えたのは、一人の少年だった。
ラズはずっと、長い年月を孤独に過ごしてきたのだろう。
まっすぐで快活だった少年の心は、魔王を倒して不老不死になったことで、歪んで壊れてしまっていた。
魔王の転生を召喚して、挑発して絶望させ、自分を殺させようなどと考えるほどに。
強引で我が道を行っていて、会ったばかりのラズを彷彿として、実にラズらしい。だけど。
――魔王の力。そんなものが僕の中にあるのなら。いまだけ、応えて欲しい。
胸に埋まった剣の柄を握り締めたまま、涙が滲む瞳でかすかに微笑んで、セツナは告げた。
「……嫌だよ。君の願いなんて、叶えてやらない」
魔王と化した少年が倒される際、相手の水色の瞳と目が合った。
心を覆っていた黒い靄が晴れたかのように、思考が鮮明になっていく。
命が尽きるまでの刹那の時に、彼がかつての旅の連れだと、大切な存在だったと思い出した。
視界が滲み、涙が伝う。哀しみでも絶望でもなく、彼が生きていたことが嬉しかったから。
だから、最後の力を彼に注ぎ込んだ。
もう傷つくことがないように。死ぬことがないように。
彼が生きていてくれることが、一番の望みだった。それを彼が望んでいないとしても。
――俺はこんなの認めねえ。
――絶対にまた、お前を……。
悲痛な言葉が掠れがちに耳に届いた。
意識が薄れていく。声が遠くなっていく。
――そうだね。いつかどこかで逢えるといい。
――そのときは、また一緒に……。
目を閉じて横たわるラズに、セツナは語りかける。
「君が不死になったのは、魔王を殺して理から外れた存在になったからというだけじゃない。不死にしたのは、リトの願いだ」
ラズに生きていて欲しいというリトの願いと魔王の力が、彼を不死にしたのだとしたら。回収しきれていなかった闇の力の一端は、ラズの中にあったのかもしれない。
「リトの願いと魔王の力によって得た永遠の時間は、君を苦しめたようだね。すまない」
振り下ろした黒い刃は、ラズの不老不死の特性を破壊した。もう、彼が人の寿命よりも遥かに長い時間を生きることはない。
生きていて欲しいという、リトのエゴに振り回されることもない。
不死の勇者はこの世界の希望だっただろうから、それをなくすことは大きな損失かもしれないけれど。
セツナがラズのほうに手を伸ばした直後、ラズの目蓋が動いた。瞬きをした瞳が、見下ろしているセツナを捉えた。
「俺は……どうして」
刺されたはずの胸に手をやり、怪我も痛みもないことに驚いている様子だ。
「不老不死の特性は消したよ。死にたかったら好きにすればいい。――でも」
上半身を起こそうとしているラズから離れるように、セツナは立ち上がる。そして状況の整理ができていなさそうなラズに、話しかけた。
「君が殺してもらいたいと願ったのは、僕にじゃない。リトにだろう」
ラズの肩が跳ねた。
「もう一度逢いたかったのも、もう一度一緒に世界を旅したかったのも」
気づいてしまった。ラズが誰を求めていたのか。セツナを通して誰を見ていたのか。
リトの転生だとしても、生まれた世界も生い立ちも、名前も姿も違う。同じ魂を持っていても、同じ存在ではないのだから。
この世界に召喚されてラズとともに旅をしても、リトの代わりにはなれなかった。
セツナがどれだけラズを気に入って大切に想っていても、ラズが一番に想っているのは、セツナではない。
代わりになれていたら、ラズが死を望むことを止められたかもしれないのに――そうはならなかったのだから。
「だったら僕じゃなく、リトと話をつけてよ」
死者は蘇らない。幽霊もいない。
でも、リトの魂はここにある。
本来なら前世の記憶が蘇ることなどないはずだが、勇者の力によって闇を取り込む力を引き出された際に、魂の層に穴が開いた。閉ざされていた扉の鍵が、開いた。
記憶が流れ込んできたのなら、人格を、心を引きずり出すことだって、不可能ではないはずだ。
この世界に召喚されて、ラズと旅をして、楽しかった。
その日々は、光り輝いて見えた。
それでもう、十分だ。
ラズに笑いかけ、セツナは手にしていた黒い剣の切っ先を自分に向けた。
「じゃあね、ラズ」
「待てっ、セツナ……!」
胸を刺した黒い刃は、セツナの身体に飲み込まれるようにして消えた。
セツナの身体は崩れ落ち、ラズが伸ばした手は支えにはならなかった。
確かに最初は、セツナのことをリトの転生としてしか見ていなかった。
リトとの違いを見つけては、別の世界で生まれ育った別の人間なのだと落胆した。
リトと同じような表情で笑うのを見て、懐かしさに泣きそうになった。
でも、だからといって――セツナが消えるのを望んでいたわけじゃない。
目覚めた少年は、自分を抱えているラズを見上げた。
「セツナ、お前……」
黒髪の少年は夢から醒めた直後のような顔をしていたが、やがて問いかけを口にした。
「セツナって誰?」
ラズの顔が歪んだ。瞳に涙が滲む。
「……リト」
名前に反応して、なに、と口元が動いた。
「ごめん。俺――でも……」
雫が見下ろしている顔に落ちる中、ラズは泣き笑いの表情で、想いを吐き出した。
「お前に逢えて、嬉しいんだ」
こうして勇者は魔王に殺されることはなく、少年二人はかつての旅の続きをはじめた。
魔王の闇の残滓を回収する旅。勇者が不死の特性をなくしても、旅は続いていく。
「なあ、リト。お前、その身体の持ち主の記憶はないんだよな」
「そうだね」
前を行くリトから、即答された。
「この世界に召喚された僕の転生者が、ずっと昔に死んだはずの僕の人格を呼び出した。この世界は僕が生きていた頃から長い時間が経過している。――そんなこともあるんだね」
その身体に宿る人格は、魔王として覚醒した状態ではなく、ラズのよく知るリトだった。
夜の森で出会った少年。初対面時の自暴自棄な様子が放っておけなくて旅に誘ったら、懐いてくれた。旅をはじめてからは、知らない世界への好奇心で瞳を輝かせていた。
最初はリトが落ち着く先を見つけるまでの付き合いのつもりだったのに、いつからかずっと一緒に旅をするのも悪くないと思うようになった。そんな気の合う旅の連れ。
長い間、逢いたいと望んでいた相手だ。
ラズが旅の連れを見る瞳が、時折寂しそうに翳った。いまはそこにいない存在を見ているかのように。
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