記憶の断片7 魔王と勇者

 固まっていたリトの腕が、つかまれた。


「逃げるぞ!」


 ラズと目が合う。


「でも、ジネットが!」

「お前が出ていったところでなんか解決するのか!? 殺されるだけだ!」


 ラズに引っ張られるようにして、リトはその場から逃げ出した。


 ジネットが捕まっていたのなら、ユーグも同様なのではないか。創作のことしか考えていない芸術家が、あの兵士に抗えるとは思えない。


 黒髪の旅人とかかわった者を殺していく、と兵士は言っていた。知り合った芸術家の若者たち、店の店員や店主の顔が頭に浮かんでは消えた。


 ――僕のせいで、また知り合いが死んだ。さらに、死ぬかもしれない。


 そのことが怖くて堪らなかった。




 火が上がっていない、人の気配がない一帯に逃げ込んだ。

 人が住んでいない放置された建物が集まる辺りで、管理されていない古びた建物の裏手に、作りかけの彫像や破れたキャンバス、経年劣化したイーゼルの類が放置されている。


 遠くの喧騒が聞こえてくるが、この辺りは静寂に包まれていた。炎の灯りも届かず、淡い月の光が照らすのみだ。


 全力疾走してきた息を整えていると、ラズに声をかけられた。


「リト、大丈夫か?」

「ああ……」

「災厄の予言の子供ってなんだよ。黒髪黒目だからって、お前は人違いだろうに――そんなことのために街に火をつけたりして」


 ラズの言葉はかえって胸を突き刺した。罪悪感で押し潰されそうになる。


「……人違いじゃなかったとしたら?」

「え」


 ラズが目を見張った。


 いまの事態は、リトがこの街に来たせいで引き起こされた。兵士が攻めてきたのも、街に火が放たれたのも、ジネットが殺されたのも、全部。

 そのことを一人で抱えているなんて、もうできなかった。


 ラズに話したら、もう一緒に旅はできなくなるかもしれない。自分の命を狙う故郷からの追っ手を警戒しているのに、もっと面倒な事情がある旅の連れと、これ以上行動をともにするとも思えない。


 それから、最初に事情を説明しなかったことに対して失望されるかもしれない。忘れていたのではなく、故意に伏せていたのだから。

 だけど、それでも――リトは震える声で話し出した。


「――すまない。君に話していなかったことがある」


 現状を説明し、過去を打ち明けた。


 街を焼いて災厄の予言の子供をあぶり出そうとしているのは、ネグロディオスの王とその従者だと。

 自分はこの街を混乱に陥れた者の血を引く、災厄を呼ぶと予言された子供だと。


 あの森でラズと会ったのは、決まりを破ったせいで居場所を知られて、乗り込んできた王に殺されそうになっていたからだと。


 語り出したら止まらずに堰を切ったように出てくる言葉を、ラズは静かに聞いていた。


「打ち明けようと思っていた。でも、言えなかった。拒絶されるんじゃないかって怖かったんだ」

「……そっか」


 続く言葉はなんだろう。死刑執行を待つ受刑者の想いで待っていたが、ラズの言葉はリトを責めるものではなかった。


「ずっと、辛かったんだな」


 その言葉に、伏せていた顔を上げる。そうだ。ラズがこういう人だから、ともに旅をしていて心が安らいだ。あの夜の出来事を引きずらずに済んだ。暗い感情に沈み込むことなく、前に進んで行けた。


 全部、ラズのおかげだ。

 瞳が潤むのを感じながら、素直な言葉が口をついた。


「君と会ってからは、楽しかったよ」


 本当に、世界がきらめいて見えた。幸せだった。


「別れの台詞みてえなこと言ってんじゃねえよ」


 強気に笑って、ラズは続けた。


「これまでの旅と同じだ。どうにかして切り抜けて、一年後くらいにあのときは大変だったなって笑い飛ばそうぜ」

「……ああ!」




 ラズが未来を語れば、それは現実のものになる気がした。いまの窮地だって、乗り越えられると信じられた。


 あの森ではじめて会ったときから、ラズは暗闇を照らす光だったのだから。


 ――だからきっと大丈夫。


 そう自分に言い聞かせて、リトはラズとともに歩き出す。二人は火事とネグロディオスの兵士によって包囲された街から脱出しようと、炎に照らされた夜の街を移動し出した。


「街の門には見張りがいるよな」

「うん……下手に動くよりも、どこかに隠れてやり過ごしたほうがいいのかな」

「兵士は虱潰しに探す気のようだぞ。王が現地に来ている以上、いい働きをしているところを見せようとするだろうな」


 小声で話しながら足を進めていると、蝶とすれ違った。暗い夜と炎の赤で構成された街で、銀色に輝く蝶は、異質な異物に思えた。

 リトは息を呑んだ。その蝶を、以前見たことがあった。


「――見つかった」

「なんだって?」


 あの蝶は、魔術師レヴィンの探索魔術だ。彼もここに来ていたのか。


「急いでここから離れよう。蝶がいないところへ――」

「もう遅い」


 重苦しい声が響き渡り、リトは身体を強張らせた。


 二度と会うことはないと思っていた存在が、鎧の金属音を響かせて近づいてきた。鎧に炎が反射し、王の権威を示すかのように光り輝く。見る者を圧倒する強大さ。現人神と呼ばれるに足る、人を支配することに長けた風格。


 多くの兵士を付き従わせて、ネグロディオスの王が現れた。


「久しいな、予言の子供。あの塔から崖に落ちて、よくぞ今日まで生きていたものだ」


 森の奥の塔での記憶が蘇る。

 殺されそうになった過去。恐怖が立ち上り、身をすくませる。威圧と迫力の前に、動けなくなる。


 しかしいまはもう、なにもわからないままに殺されるつもりなどなかった。


「あなたは――僕を探すためだけにこの街を焼いて、ジネットを殺したのか!」

「貴様をいぶり出すためだ。災厄の種をこの世から消し去るためにやったまでのこと。必要な犠牲だ」


 王の選択のために矮小な民は命を捧げよと、王は主張する。


「それに街が滅びるのも住人が死んだのも、貴様のせいだ。貴様がこの街に来たせいで、災厄となったのだ」

「お前がやったことを責任転嫁してんじゃねえよ」


 リトを責め立てる言葉に、ラズが割って入った。


「一国の王ならもっと深い事情でもあるのかと思ったが、その様子だと違うようだな。子供一人に躍起になって街に火をつけるとは――とんだ愚王がいたもんだ」

「我に向かって無礼な口を利くとはな。それが貴様の従者か」


 ラズのことを勝手に定義されるのは我慢できなかった。


「違う。旅の連れだ」


 そしてこうも思う。絶対者である王に、友などいないのだと。周囲の人間はみな、王にとっては従者か敵か支配するべき民衆でしかないのだと。


「そうか。だがその旅も、もう終わる」


 王の金の瞳が見開かれた。


「貴様の死によってな!」


 剣を抜き放った王が距離を詰めて来た。刃に炎が反射して、鈍く光る。

 まるであの塔であったことの再現かのようだった。


 ――ああ、そうか。死ぬのか。


 自分が死ぬのは諦めがついた。ラズが生き延びてくれるのなら、それでいい。


 ――僕の分も、世界を旅してくれるだろうか。

 ――短い間だったとしても、旅の連れがいたことを、時々思い出してくれるだろうか。


 異様にゆっくり感じられた一瞬。王とリトの間に、ラズが手を広げて割って入ってきた。


 ラズの肩越しに、王と目が合った。踏み込んできた勢いのままに、王の剣はラズの身体を貫いた。


「邪魔者めが。――まあいい。これでもう、お前の味方はいなくなった」


 剣が振り払われ、ラズの身体は地面に打ち捨てられた。力なく投げ出された手足。身体の下に血が広がっていく。命がこぼれ落ちていく。


 周囲で炎が燃え盛っていて暑いくらいなのに、心が冷えていった。


 ――なぜこの人は、いつもいつも、僕の大切な存在を奪っていくんだ。


 王というものは、それほどまでに偉い存在なのか。

 人を殺しても咎められないほどに。神の如く振る舞うことが許される。


 それならば、神に匹敵するほどの災厄をもたらせば、彼を殺せるだろうか。




 なにかが爆発するような、力の放出があった。

 闇が膨れ上がり、空には暗雲が広がる。


「これは、まさしく予言にあった災厄――」


 闇の刃が伸びてきて、王を滅多刺しにした。口から血が吐き出され、光り輝く鎧を赤黒く染めた。


 それを冷めた瞳で見やるリトの周囲に闇が漂う。本来なら人に悪影響を与える闇は、少年を主と定めたかのように彼に力を貸した。


「確かに僕は災厄の種だったかもしれない。だけど、それを招いたのはあなた自身だ」


 育ててくれた使い魔も、この街で知り合った人も、これまで一緒に旅をしてきた相手も、もういない。


 ならばもう、こんな世界に未練はなかった。

 すべてを黒く染め上げて、消し去ってしまえばいい。




 身体を引き裂かれるような衝撃の後、意識が途切れた。

 もう二度と浮上することはないと思ったが、不意に目が覚めた。


「いっ……」


 意識が戻るとともに、身体中が痛みを訴えてくる。ベッドに寝かされていたラズは、怪我の痛みに顔をしかめた。


「急に動かないほうがいい。治療と回復の術でぎりぎり生き永らえたんだ。動けるようになるまでしばらくかかるだろうね」


 忠告をしてきた人物が目に入る。銀髪を三つ編みにしてローブをまとった魔術師らしき青年だ。


「あいつは――リトは? あれからどうなった!?」


 魔術師が敵か味方かもわからないまま、そう問いかけていた。


「あの少年をリトと呼んでいるのかい」

「呼び名なんていまはどうでもいいだろ!」

「いやなに。神の血を引く一族の末裔に、異国の神の名をつけるとはね。予言の子供に私がつけた名前は、封印でもあったのだが」


 皮肉げな笑いを浮かべてから、彼はレヴィンと名乗った。そしてここは芸術の街近くの街だと前置きをしてから、本題に入った。


「予言は成就したよ。彼は魔王として覚醒した」

「魔王って――」

「黒髪黒目の子供のいずれかが魔王となり、この世界に災厄をもたらし、滅ぼす。そういう予言だったんだが、見事に彼がその座を引き当てたようだね」


 声をひそめ、魔術師はおごそかに続ける。


「彼の絶望が闇を引き寄せ、魔王となってしまったんだ」


 淡々と告げられた言葉は、ラズを突き刺した。


「彼はこれまでも辛い体験をしてきた。けれどとどめは今回の件、君が死んだと思ったからだよ。君は彼を生かそうとした。その結果がこれだよ。どう落とし前をつけるんだい?」

「魔王から人に戻すことは……」

「こうなってしまった以上、無理だ」


 致命傷を負ったのに助けられたのは、落とし前をつけるために生かされたとでもいうのだろうか。それから、名前をつけた責任を取るために。


 視界が滲み、怪我の痛みを無視して腕を目元に被せた。

 リトとはじめて会ったときに交わした言葉が蘇った。


 ――なら俺が殺してやる。それまで生きてろ。




 北の地に渦巻く闇の中心に、城があった。北の大陸を統一した王家の城は黒く染まり、魔王の居城となってしまった。そう、みなが噂する。

 その上空には黒い雲が広がり、地上には闇が蔓延し、瘴気が満ちている。


 このまま魔王が世界を闇で覆うなら、陽が差すことはなくなり、人の心は闇で蝕まれ、世界は滅びるだろう。

 リトとラズがはじめて会った森がある大陸は、混乱のただ中にあった。


 魔王となった者は、まず自分の故郷を闇で覆った。自分の存在を許さなかった国を、人が住めない地にした。


 闇は人や獣を魔物に変え、殺された人間は動き回る死体となって、他の人間を襲った。生きた人間がその地からいなくなるのは時間の問題だった。


 ただの旅人に、魔王を倒す力があるなんて思っていない。それでも怪我が治ったラズは、その地へ向かっていた。


 もう一度、リトに会うために。




 彼はもう、ラズが知る旅の連れではなかった。呼びかけに応えず、言葉は通じなかった。

 世界を滅ぼすために存在している魔王と化した存在が、そこにいた。


 親しかった存在が、化け物になってしまったというのなら。

 多数を助けるために、世界を維持するために、誰かを切り捨てないといけないのだとしたら。


 決断のときだった。


 守りたかった。助けたかった。はじめて会ったときのように、手を差し伸べて、闇の中から引き上げたかった。

 まだ見ていない景色を、一緒に見たかった。旅を、続けたかった。


 叶うことのない願いが、いくつも浮かんでは消えた。


 絶叫か咆哮かわからない叫びが上がる。

 死を覚悟して、いっそ彼に殺されるのならそれでいいと思っていたのに――。


 ラズの剣は、魔王の心臓を貫いていた。




 一人の旅人が、世界を闇で覆い尽くそうとしていた魔王を倒した。

 旅人は勇者と呼ばれるようになった。


 約束は果たした。

 預かっていた命は、旅人の手で砕かれた。

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