6章 変化(2)
旅人二人と別れて裏路地を歩きながら、ゲルトはナジャにぼやいた。
「ったく、おまえが妙なことを言い出さないかとひやひやしたぞ」
「おっさんも怪しい仕事してるもんね」
「この街に住んでて裏稼業に手を染めてない人間のほうが少ねえんだよ」
むしろ裏と表が逆転している。
誰もが裏をかいて楽をして他人を利用して大金を得るために躍起になって、真っ当な手段で金を稼いでいる人間を馬鹿にしている。
賭け事や闘技場目当てにやってきた旅人を狙って、油断していたから悪い、騙されたほうが悪い、こんな街で夜出歩くほうが悪い、弱い癖にこんな街に来るほうが悪い、と畳み掛ける。
自分たちもそうやって一度は痛い目を見てきたのだから、当然のように他者を貶め、攻撃する。
暴力と大声で他者を屈服させ、すべてを奪い去ることこそ、この街の住人らしい生き方とされている。悪の美学、弱肉強食、力を誇示することこそ男の本能。そうした言葉で飾り立てて、自分たちを正当化する。
この街の中では、それが普通だ。異議を唱えるような真っ当な精神を持つ者は、ここでは異分子なのだから。
「汚れた金で買った食べ物でも、最後まで生きていたほうが勝ち、なんだよね」
「そうそう。だからナジャまで小金を稼ぐ必要はねえ。二人分の食い扶持くらい十分稼いでるんだからよ」
「せっかく稼いでも一晩ですってくる人の言うことなんて、信用できないよ」
「はいはい、もうやらん」
「前もそう言ってた!」
甲高い声が頭に響く。やはり子供なんて拾うんじゃなかったと思う瞬間だ。
「あのな、おれなんてまだマシなほうだぞ。人は殺してねえし、薬漬けになってもいねえ」
「お酒呑んで酔って管を巻いてるのも、薬で廃人になってるのも似たようなもんだよ」
「全然違うっての」
実際の廃人を見たことなんてないだろう子供は気楽だな、と嘆息し、ふと先程話していた旅人を思い出した。
「薬……まさかあいつら」
人生を狂わす麻薬はこの街に古くから蔓延してきた。もはや存在しているのが当たり前の状態で、街に来たばかりの者でも少し情報を得て売人に接触すれば、対価と引き換えに入手できる。効能は様々で、軽いものから依存性が高いものまで各種ある。
あの旅人二人が、わざわざいまになって麻薬の流通経路について調べに来たとは思えなかった。
「まあとにかく、おまえは大人しくしてろ。裏路地の連中や外から来た人間には近づくな」
「子供はカモにされるから、でしょ。大丈夫!」
自信満々にそう言うが、自分は大丈夫だと思っている人間ほどこの街では標的にされやすいということを、この娘はまだ知らないのだろう。
そもそもナジャは、自分の人生は順風満帆だと思っていた部類の子供だったはずだ。親はこの街で代々受けついだ店を切り盛りしていて、その家の末っ子として生まれた。
しかし親が借金をした先が悪どい金貸しで、首が回らなくなった家族は、働き手になるにはまだ幼い末の子供を置いて、街から逃げたという。
誰もいなくなった店で借金取りに怒鳴られて縮こまっている子供を見たときは、かかわり合いになる気なんてなかった。
しかし叫び飽きた借金取りが店から出ていった後、どんな気まぐれか知らないが、ゲルトは子供に声をかけていた。
涙を必死に堪えている強情な子供を見て、別れた妻が連れていった子供を思い出した。外見はまったく似ていないし、いまはもうナジャよりも大分年上のはずなのだが――それでも。
――母さんを泣かせてばかりいる父さんなんて大嫌い!
涙を溜めて抗議する子供の言葉を、幼いわがままだと、癇癪だと切り捨てた。
金を稼いで食わせてやっているのだから、血がつながっていて愛情をかけてやっているのだから、家族にどれだけ暴言を吐こうが横暴に振舞おうが、許されると思っていた。気に入らないなら出ていけ、の一言で子供も妻も自分に従うと信じていた。
子供は殴ってしつければいい。妻は頬をはたいて力と圧で支配すればいい。
そうした家に生まれ育ったから、それが普通だと思っていた。
この街に生まれ育って荒っぽい気風に馴染んでいても、夫や父親にそうした扱いをされて平気でいられる者ばかりではなかったと、妻と子供が行き先も告げずに家からいなくなってはじめて知った。
妻と子供の言い分は極めて正当なものだった。身勝手な振る舞いをして、一番身近にいた家族を思いやれなかったのは自分のほうだった。
だからその罪滅ぼしなのだろうか。路頭に迷った子供を保護したのは。
「今回のブツはこれだ」
酒場の奥の席で落ち合った商人からゲルトが受け取ったものは、両手に乗るほどの大きさの黒い木箱に入っていた。大して重くはない。壊れ物かなにかで、落としてもいいように厳重に包まれているのかもしれない。
「……本当にこれを運べばいつもの十倍の報酬なんだろうな」
「信じられないのなら他に回すが」
「そうは言ってねえ」
「報酬が欲しいなら余計な詮索はしないことだ。ああ、これまでと同様に、中身を盗むようなことがあれば――」
「しねえよ。金のほうが大事だ」
それにこれまで何事もなくこなしてきた実績をこんなところで崩して、得意先を失う気もなかった。
「違いない。――それに中を見ようものなら」
「なんだ、脅しか? 箱を開けたら不幸になるってか」
その手の昔話はこうした街にも伝わっていて、人から人へと語られていく。しかし細部はよく覚えていなかった。
「そういや、旅人がこの街から出回ってる闇の力を秘めた品物について調べてたぞ。外部の連中が動き出したら、街の中で許されていたこともどうなることやら」
「あんたに忠告されるとはね。我々はうまくやるさ。切り捨てるのなら末端からだ」
一般的に違法とされているものを好事家に売り捌くことを生業としている商人は、手足として使っている運び屋の前で不穏な笑みを浮かべた。
木箱を鞄に入れて、酒場から出た。一晩家で保管して、明日指定された場所へ持って行く。そうすれば報酬がもらえる。
ナジャにうまい飯を食わせてやれて、適当に古着屋で買った当座の着替えではなく、女の子が喜ぶような可愛い服を揃えてやれる。
それから安いだけが取り柄の、建てられてから何年経っているのかわからない貸家から引っ越すいい機会だろうか。
残りの金を賭け事につぎ込んでうまくやれば、何倍になるだろうか。それともたまにはいい酒を買って祝杯を挙げようか。
――そんなことをしてりゃ、またあいつに怒られるんだろうな。
そんな予想すらもどこか心地よく感じて、日が傾いていく中、ゲルトは家路を急いだ。
日が落ちて来た頃、買い出しに行くと出て行ったゲルトが帰って来て、ナジャは出迎えに行った。
「おかえり! あれ、なんかいっぱい買ってきたね!」
「おう、甘い菓子もあるぞ。言いつけを守って大人しくしてるなら食わせてやる」
「守る守る!」
「本当に守ってくれるならいいんだがな……」
ぼやくゲルトを余所に、差し出された菓子を一口食べると、甘い味が口の中に広がった。
今日は昼食もおいしい料理にありつけたし、いい日だった。そもそものきっかけは、十代半ばから後半くらいの年の、二人連れの旅人と会ったことだったか。
白金の髪のほうは、自分を勇者だと言っていた。魔王を倒した勇者の話くらい、ナジャだって知っている。嘘と欺瞞が渦巻くこの街では、勇者と名乗る者がたびたび現れては住人から金を巻き上げようとするので、みな警戒しているだけだ。
――でも、あのお兄ちゃんはこれまで勇者を騙っていた偽者とは違うかも。
本物だとしたらすごいことだ。勇者と会って、昼食を奢ってもらったのだから。明日路地裏のみんなに自慢しないと。なにか証拠になるものをもらっておけばよかったと、いまになって悔やんだ。
買ってきた食材でゲルトがいつもの雑な料理をしようとしている中で、ナジャはゲルトの鞄に見慣れないものが入っているのに気づいた。
「おっさん、この箱なに?」
「触るんじゃねえぞ。明日お偉いさんに届ける大事なものなんだから」
「ふうん……」
しかしその箱に鍵はついていないようだった。
ちょっと見るだけなら。好奇心が芽生え、ナジャは箱に手を伸ばした。
午後に裏路地の店を何件か調べたが、目ぼしい手がかりは見つからなかった。
それとは別件で闇による小規模な被害を解決し、夜になる直前の空の下をセツナとラズは宿屋へと向かっていた。
「もしかしたら偽の情報だったのかもな」
道中でラズがぽつりとつぶやいた。
「あのおじさん、協力的だったように思えたけど」
「だからだよ。裏稼業に手を染めているやつが怪しい品と聞いて思い当たる節があって、それをそのまま旅人に教えると思うか? 自分が咎められるかもしれねえのに」
「そうなんだ……」
感心した反応を返すと、ラズは思わずといった様子で噴き出した。
「やっぱお前、こういう街にも住人の思考にも慣れてねえな」
「……そりゃはじめて来たからね」
この世界に召喚されてあちこちの地を訪れたと思ったが、この手の街の雰囲気や住人のやり方に慣れていなくても仕方がないではないか。
確かにこうした露悪的な街は苦手だが、それを世間知らずとか平和な世界で育った甘ちゃんとか言われるのも納得がいかない。
世界の各地に行ったことがあるラズなら、セツナとは比較にならないくらい人生経験は豊かなのだろうが、などと思いつつ続く言葉を警戒していると。
「そう不機嫌そうになるなよ。お前はやっぱりそういうやつだよな、って改めて思っただけで」
目を細めて、ラズはそう言った。
馬鹿にされるような発言はなかったものの、ラズが言う「お前」には、セツナだけでなく別の誰かも含まれているような気がした。
宿屋の手前まで来たところで、下町のほうから轟音が聞こえた。尋常ではない様子が伝わってきた。
「いまのは……」
「なにか事件か」
二人は視線を交わし合い、もと来た道を駆け足で戻り出した。
しばらく行くと、下町の一角に人々が集まっていた。人々の視線の先では地響きのような音や建物が破壊される音が絶え間なく鳴り響き、土煙が上がっている。
ラズはそこに近づき、問いかけた。
「なにがあったんだ?」
「住宅地のほうで魔物が出現したとか……」
「街の中に?」
「理由なんざ知らん。だが、この街はあちこちに厄介事の種がある。なにが起きても不思議はねえ」
そうだった。そして闇による影響がある品物がこの街から流れているから、それについて調べに来たのだった。
「ああ、わしらの家が破壊されていく……」
「あの辺に住む者は、他に行く場所も頼る者もいないというのに……」
昔は悪いことを散々してな、と酒の席で過去の武勇伝を語りそうな一癖ある老人たちも、建物を破壊する魔物には敵わないらしく、なすすべもなく項垂れていた。
こういう場面を目にすると、どんなに粋がっている人間も強大な力の前では無力なのだと改めて思った。
破壊音が響いているほうへ急ぐと、黒い霧が漂う中で、巨大な魔物が古びた家や建物を破壊していた。
魔物は恐竜図鑑で見たことがあるトリケラトプスに似た姿をしていた。太い二本の角を振り回すと、積み木が崩れるように周囲の建物はたやすく壊され崩れていく。
建物を壊しながら、魔物はじりじりと移動しているように見えた。
「進行方向、街の中心部だよね」
「ああ。あっちまで行かれたら被害が大きくなるどころじゃねえな」
カジノや闘技場には多くの人が集まっている。建物が破壊されるだけで済むとは思えなかった。
「さて。俺が魔物を倒したら闇を取り込んでくれ」
「わかった」
強敵相手でもラズとセツナのやることは変わらない。そもそも勇者にとって、家と同じくらいの大きさの魔物すら、強敵とは呼べないのかもしれない。
ラズが剣を抜き放って魔物の前に進んで行くと、その前に立ち塞がる者がいた。
「殺さないで!」
赤毛で男の子のような格好の少女。ナジャが必死の形相で両手を大きく広げ、ラズの前に立っていた。
「ナジャ、危険だ、避難してろ!」
「あの魔物はおっさんなの!」
「え……」
「あたしが悪いの! おっさんが持ってた箱を勝手に開けたから。箱から黒い霧が出てきて、おっさんはあたしを突き飛ばして霧を浴びて、そしたら……」
「ああなっちまった、ってか」
事態を理解したラズは嘆息した。
「お兄ちゃんは勇者なんでしょ? お願い、おっさんを助けて!」
ナジャの叫びに、ラズはしばしの後に首を振った。
「駄目だ。こうなったらもう、人には戻せない」
セツナは驚いて問いかけた。
「闇を取り除いても?」
「ああ。苦しまずに倒してやることがせめてもの慈悲だ」
「そんな……」
ナジャの瞳が絶望に染まり、目元に溜まっていた涙が頬を伝った。
「セツナ、ナジャを頼む」
「あ、ああ」
無理やりにでもナジャを連れて魔物から距離を取ろうとしたが、抱えられることに対してナジャは抵抗もせずに呆然としていた。
ラズとすれ違う直前、セツナは思ったことを小声で吐き出した。
「……なんか意外だな。ラズならもっとこう――どんな人でも助けてあげようとするのかと思った」
ラズの瞳がわずかに翳ったかのように見えた。しかしすぐにいつもの調子で続ける。
「あれはもう人じゃねえよ」
止めを刺す際、セツナはナジャの視界を塞ぐように小さな少女を抱きしめていた。しかし魔物の断末魔の悲鳴は、耳を塞いだところで聞こえるほど大きな咆哮だった。
ラズが魔物を倒した後、セツナは闇を取り込んだ。
以前は闇を取り込んだら悪影響があるのではないかと思った。いまはなんだか――懐かしさを覚える。
失われていたものを取り戻したかのような。闇が内にある状態が普通かのような。そんな感覚に満たされた。
そんなセツナを後方から見つめながら、
「――そろそろ頃合いか」
ラズはそうつぶやいた。
ラズは魔物を倒し、古びた住宅地の一角が破壊された程度で事態は収束した。
集まってきた自警団の者に説明するため、セツナとラズがその一団のほうへ向かっていると、
「待って!」
と声をかけられた。振り返ると、泣き腫らした顔をしたナジャが立っていた。
「勇者は世界中の人を助けてくれる人じゃなかったの? なんでこんなことをするの?」
高い声で悲痛な問いかけがなされた。
「悪いな。勇者でも、できないことがあるんだ」
そういうラズの顔は、笑顔のはずなのに哀しそうな、大切なものを諦めたかのような顔をしていた。
「あたしは絶対に許さない! 強くなっていまより大きくなったら、あんたを殺してやる!」
鋭い瞳で睨みつけて、ナジャは叫んだ。
「やってみろよ。それまで死ぬんじゃねえぞ」
挑発的に、ラズはそう言い残した。
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