5章 夢

 世界に、人生に絶望している者は、起きて活動しているよりも眠っていたいと望む。

 けれど眠りについて見る夢は、記憶を反芻して整理するもの。


 いい経験をしてこなかった者は、悪夢に苛まれる。夢の世界すら、自らを攻撃する冷たい世界だ。



 慟哭の叫び。悲痛な嘆き。

 心が凍りついていくかのような感覚。


 大切なものをなくした。もう二度ともとには戻らない。

 ずっと一緒に、と言われたのに、その願いを打ち砕いた。

 時が経てば忘れるというけれど、喪失感は胸に突き刺さったまま、消えなかった。


 しかし朧気で詳細がわからない夢も、別の悪夢に塗り替えられていった。




 小学生のとき、セツナが転校した先で妙に構ってくる子がいた。


「おまえ、セツナっていうの? 変な名前」


 そう言われて顔をしかめて不機嫌さをあらわにしても、その少年はにこにこと笑っていた。


 そのときにはもう何度も引っ越しと転校を繰り返した後で、セツナは他人に対して壁があった。

 だが少年はセツナの愛想のなさを気にすることなく、話は続けられた。


「なあ、なんでそんな名前なんだ?」

「……一瞬とか瞬間って意味の刹那ってつけたかったとか聞いた。でも反対されて字を変えたって」


 仕方なく答えると、少年はぱあっと顔を輝かせた。


「え、そっちのほうがカッコいいじゃん」

「そうかな……」

「うちの父さんが言ってた。長い時間を無意味に生きるよりも、一瞬でも輝いた者の勝ちだ、って。そういう願いが込められてるんだな」


 実の親からは一度も言われたことがないようなそれらしい説が、即座に披露された。


 ――この子の親はよくできた人間で、この子は家族に愛されているんだ。


 そう感じた。


「なあ、この学校嫌い? もとの学校のほうがよかった?」

「そうじゃないけど」

「このクラス、みんないいやつばっかだぞ」


 担任に頼まれて、クラスの人気者が周囲に馴染もうとしない転校生に声をかけに来たということだろうか。


 最初はそう思ったが、そうした話をしたのはそのときくらいだった。単純に、自分のクラスメイトや友達のことを自慢したかっただけなのかもしれない。


 少年はセツナを無理にクラスの集団のほうに引っ張っていくこともなく、ときどきふらっと声をかけに来ては、他愛ない話に花を咲かせた。


 こっそり携帯ゲーム機を持って来て、校内のひと気がない場所でその頃流行っていたゲームをやらせてくれたりした。彼の影響ではじめて母親にゲームが欲しいと頼み、誕生日に買ってもらえることになった。


 クラスで流行っていたのは現代風の世界でモンスターを収集するゲームだったが、セツナが惹かれたのは中世風の異世界を舞台にしたRPGだった。


「そういうのが好きなんだ。そのシリーズの初期のやつなら、父さんがすげえ好きでさ」


 シリーズの初期の作品はいまから二十年以上前に出たもので、現在リメイクされてプレイできるものと当時のゲームは大分違うらしい。


「チュートリアルなんてなくて、説明書に書いてない要素もあって、ヒントが少なくて色々大変で、でもそれがいいんだってさ」


 一度少年の家に呼ばれて、父親が子供の頃から集めたゲーム関連のものを見せてもらった。いまでは出回っていない当時の攻略本や関連書籍は、日に焼けて劣化が見られたが、年季を感じていいな、と思った。


「ゲームの小説版、図書室にあったやつと違う……」

「こんな文字がいっぱいある本を読んだんだ? すげえな、おまえ」


 彼は瞳を輝かせて、セツナに賞賛を送ってくれた。


「みんなおまえのこと、おれたちとは違うっていうけど。違ったっていいじゃん。おれたちにはできないことができるんだから、もっと胸張っていいと思うぞ」


 そう言われて、嬉しかった。




 少年と交流することで、父親が犯罪を犯す前はセツナにも人見知りが激しいなりに話ができる相手がいたことを思い出した。


 そしてこの小学校でなら親しい友達を作れるかもしれない、と淡い期待を抱いた。

 あの男の子となら仲良くなれるだろうか。父親のことを知られなければ、うまくやっていけるだろうか。


 そう思った矢先のこと。


「片峰!」


 校内の階段を駆け上がってくる足音とともに、すっかり耳に馴染んだ声で呼ばれた。


 セツナが振り返った先で、少年が「うわっ」と声を上げた。そして階段を踏み外してバランスを崩し、落ちていくのが見えた。


 階段や廊下にいた生徒たちから悲鳴が上がった。混乱が伝播する中、教師が駆けて来る。騒ぎの中で、セツナの背中に悪寒が這い上がってきた。


 さっきまで元気に駆け回っていた少年が落ちたのが、信じられなかった。階段の下に倒れた少年の姿は、いつもの彼よりもずっと小さく見えた。


 母親に連れられて病院に行くと、少年の母親が病室の前に立ち塞がっていた。家に遊びに行ったときはにこやかに迎えてくれた彼女は、怒りの形相になっていた。


「あなたが突き落としたんですって?」

「違……」

「なにが違うの、人殺しの子供が!」


 我を失って叫ぶ女性に、病院の看護師が落ち着かせるために集まってきた。しかし彼女は頑として病室の前からどかなかった。

 見舞いに行ったのに、少年には会えなかった。




 翌日学校に行くと、噂はすっかり広がっていた。

 転校生は人殺しの子供。だから善意から声をかけてきた子を突き飛ばして、階段から落とした。あの子に近づいたらいけない。殺されるかもしれないから。


 そうしてセツナはその学校でもまた一人になった。


 クラスメイトや上級生に取り囲まれて、暴力を振るわれることが日常となった。それを教師も他の生徒も、見て見ぬふりをした。


「お前の親、人殺しなんだって?」

「道理で陰気な顔してるわけだ」

「殺人鬼は成敗しねえとな」

「将来犯罪者になるなら、いまのうちに処刑だ」

「やり返してみろよ。そうしたら警察を呼んでやるから」

「捕まって死刑になるんだよな」

「未成年は死刑にはならねえんだろ。人を殺したいなら、いまのうちにやっとけば?」


 嘲笑とともに他人を攻撃する彼らが、鬼や悪魔に見えた。

 退院した少年が声をかけてくることは、二度となかった。



 他者に期待することはなくなった。

 心を閉ざし、目を閉じて、なにも感じないようにして生きてきた。


 生きていたいと思ったことなどないのに。生に執着などしていないのに。

 母が自殺したとき、天啓を得たように思った。


 ――そうだ。もっと早く、こうすればよかったんだ。




「セツナ!」


 肩を揺さぶられて、目を覚ました。心配そうな顔でセツナの顔を覗き込んでいる水色の瞳の少年と目が合った。


「ラズ……」


 朧気だった意識が覚醒していく。


 ――ああ、そうだ。ここは生まれ育った世界じゃない。


 ある街で闇の影響で人々が眠りにつく事態が起こっていて、闇を祓いに来たのだった。


 街の中は眠りについた住人が見ている光景が幻として浮かび上がり、夢と現実の光景が入り混じっていた。


 どこかに夢の世界につながる地点があるはずで、夢の世界の最深部に巣食っている闇を取り除けば住人は眠りから覚めるはずだと、その地点を目指していたのだが――。


「僕、夢に取り込まれていた……?」

「そのようだな。起きてくれてよかった」


 安堵したようにラズは笑った。その顔を見て、かえって胸が痛んだ。


「……すまない」

「謝るなよ。連れてきた俺が注意してなかったのが悪い」


 そう言われると、余計に申し訳なくなってくる。


「闇による眠りは、人が望む夢を見せるそうだが――お前はそうじゃなかったようだな」


 手が伸びて来たかと思うと、涙を拭われた。泣いていたらしい。驚いて、腕で強引に目元を拭った。


 なにを言われようがやられようが怒ったり泣いたりしたら相手の思うつぼだと、もとの世界では感情を表に出さず、無表情を仮面にしてきた。


 しかし忘れたいと思っていた過去の悪夢を強引に見せられては、仮面も機能しなかったらしい。


「先に進めるか? 一度戻って落ち着いてからのほうがいいか」

「大丈夫。ここまで来たんだ、最深部へ行こう」


 地面にへたり込んでいたセツナは、ラズの手を借りることなく立ち上がった。


「そっか。強いんだな」

「最強の勇者にそう評されるとはね」


 強くなんてない。でも、この力を必要とされているのなら、応えたかった。

 ラズの役に立ちたかった。それがこの世界に召喚された自分の存在意義だ。


「僕は――闇を取り込むことしかできないから」

「頑張ってくれるのはありがたいな。でも、それしかできないなんてことはねえよ。お前が一緒にいてくれて、俺は助かってる」


 妙にしみじみと、ラズは言った。




 先を急ぎながら、ふとセツナは思い出す。


 混ざり合う夢の中で、誰かが哀しみに沈んでいる悪夢に同調し、その感情を体験した。

 癒えない痛み。憤り。後悔。心が負の感情に浸食され、願いはいびつに歪んでいく。


 助けてあげたくても、声も手も、悪夢を見ている誰かには届かない。

 あれは一体、誰だったのだろう。

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