3章 代替(2)

 寝る前に喉の渇きを覚えたセツナは、厨房で水をもらえないかと客室から出てきた。廊下の突き当たりにある窓からは雨音が響いていた。まだ雨は降り続いているようだ。


「どうかしたのかい?」


 後ろから声をかけられ、セツナは肩を跳ねさせた。振り返ると、そこにはランプを掲げたルーカスがいた。


 手元からの光が彫の深い顔に陰影を作り出しているが、怖がるほうが失礼だ。この世界に幽霊はいない。この館の住人が幽霊ということはあり得ないのだから。


「水をいただけたらと」

「なら厨房まで案内しよう」

「いえ、そんな……」


 断ろうとしたが、ルーカスは踵を返して歩き出してしまった。セツナは恐縮しながらもついて行くことにした。


 しばらく夜の廊下に二人の足音だけが響いていたが、やがて先を行くルーカスから話しかけられた。


「きみたちは、もしかしてテレジアの家に頼まれて様子を見にきたのかい?」

「え、いいえ……」

「じゃあ、街の住人が嗅ぎ回っているのかな。困ったものだ」


 噂は流れていたけれど自分たちが館に立ち寄ったのは偶然で、街の人に頼まれたからじゃない。そう反論しようとしたが、ルーカスはセツナの返事を待たずに独白のように続けた。


「それとも――白金の髪に水色の瞳の勇者が、闇の残滓を回収しているという話は本当なのか?」

「ラズのことを知っていたんですか?」

「その様子だと本物のようだな。そうか――」


 突然ルーカスが振り返って距離を詰めてきたかと思うと、肩をつかまれ壁に押し付けられた。驚く暇もなく、首に手をかけられる。


「なんでっ……」


 逃れようとするが、手は離れない。片手にランプを持ったままで両手で首を絞めているわけではないのに、とても強い力に思えた。


「勇者に勝てるとは思えないが――きみはどうやら普通の人間のようだ」


 そうだ。ただの別の世界から召喚された人間だ。ラズのように、危機に陥ってもすぐさま自力で脱出なんてできない。


「私たちを放っておいてくれたらそれでよかったのに。なぜみんなして邪魔をするんだ」

「僕たちは、邪魔なんて――」

「ならば、排除しなければ。そうですよね、お嬢様」


 ランプの光が反射したのだろうか。ルーカスの瞳が光ったように見え、不穏な色を帯びた。


 ふと思い出した。取るに足らない噂だと流してしまったが、こんな噂もあった。街外れの館に行って帰って来なかった者がいる、という話。


 口さがない噂だと思った。普通と違う者を排斥するための、悪意が混じった噂だと。いまになって、セツナは館の住人に親近感を覚えて同情してしまったことを後悔した。


 ルーカスの身体から、黒い霧が噴き出した。覚えのある気配がする。


「あなたは一体――」


 駄目だ。息ができない。気が遠くなる。


「セツナっ!」


 横から体当たりしてきたラズにより、ルーカスは床を転がった。

 床に落ちたランプの火が消えるが、ラズが灯りを手にしていたから真っ暗になることはなかった。


 首を絞めていた者が吹っ飛ばされて床に投げ出されたセツナは、ラズに助け起こされて咳き込んだ。ラズはセツナを庇うようにして、ルーカスの方を振り返る。


「人間に闇が取り憑いているのか」


 ルーカスは起き上がり、顔を覆った手の隙間から鋭い眼光でラズを射た。


「そうだとしたらどうする? 私を倒すのか」

「その様子だと、闇の影響を受けていても自分の意識まで闇に染まってるわけじゃなさそうだな」

「だったらどうだと……」

「セツナを殺そうとしたのもお前の意志だろ。それならこの国の法で裁ける」


 そう言ったかと思うと、ラズはルーカスに肉薄した。


「くっ……」


 立ち上がったルーカスは迎え撃とうとしたようだが、武器すら持っていないラズに腕をつかまれて投げ飛ばされた。廊下に打ち付けられた音と呻き声が響く。


「取り憑いた闇は、お前を化け物にはしていない。作用してるのは別のことにか」


 すぐに起き上がれない青年の腕を背後に持っていき、ラズはルーカスを拘束した。


「セツナ、闇を取り込んでくれ」

「あ、ああ……」

「やめろ! この力がないと私は――」


 この世の終わりかのように叫ぶルーカスだが、ラズに促されてセツナは手を掲げた。


 闇を取り込むと、ルーカスの姿が変わっていった。長身の背丈は若干縮んだかのように見え、いかにも貴族らしい整った彫の深い顔から素朴な顔立ちに変わる。髪の色も黒に近い色味になった。


「私は……お嬢様の亡くなった恋人でいられない……」


 打ちひしがれたように、彼は言った。


「死者は蘇らない。それがこの世界の理だ」


 ラズの言葉に、顔を伏せたルーカスはぴくりと反応した。


「死者の代わりも、誰にも務まらねえよ」




 貴族の令嬢として生まれたテレジアには、幼い頃より交流があった同年代の婚約者がいた。

 親に決められた婚約ながら二人は仲睦まじく、他の貴族の知り合いに羨ましがられるほどだった。


 年頃になって結婚式の準備を進めていたある日のこと、婚約者のルーカスが魔物に殺された。

 テレジアは哀しみに暮れた。葬儀を執り行った後も、ルーカスが死んだことを受け入れられない様子だった。


 あるとき、密かに令嬢のことを慕っていた使用人を指して、テレジアは微笑んだ。


「ルーカスは生きているわ。いまもこうしてここにいらっしゃるでしょう」


 使用人の姿は婚約者の姿を取り、彼女の目に映った。

 令嬢の歪んだ想いは闇を呼び寄せ、使用人の姿を変えた。令嬢が見ていた幻想を現実のものとしたのだ。


 令嬢の家族は娘と使用人の状態を恐れ、別邸へと移り住ませた。

 テレジアは婚約者の姿を取った使用人と、平穏な日々を送っていた。嵐の夜に旅人が訪れるまでは。


 セツナが闇を回収した翌朝、もとの姿に戻った使用人を見たテレジアは、彼を婚約者だとは思えなくなったようだ。

 しかし、婚約者が死んだことはまだ受け入れていないという。


「ルーカスは遠くへ旅に出たのよ。いつか帰ってくるわ。だから、ずっと待っているの」


 旅人が去った館で窓の外を眺めながら、テレジアはそうつぶやいた。




 夜が明けると、昨日あれほど酷かった嵐はすっかり収まって雲間から陽の光が差していた。

 館をあとにして、竜に乗って街を目指しながら、セツナはぽつりとつぶやいた。


「……闇を回収してしまってよかったのかな」

「どうして?」

「周囲に悪影響を与えていたわけじゃなかったんだし、あの二人が幸せならそれでよかったんじゃないかって……」

「闇に取り憑かれている以上、悪影響がないなんてことはねえよ」


 え、と竜に相乗りしているラズのほうを振り返った。


「ルーカスの姿を取っていた使用人が凶暴化して、自分たちに害になりそうな他者を即殺そうと判断したことを、闇のせいじゃないって言えるか?」

「それは……」


 首を絞めらえたことを思い出してしまった。あのときラズが助けに入らなかったら、どうなっていたかわからない。

 そして街で流れていた噂から、もしかしたら他にも犠牲者がいたのかもしれない。


 あの館にいたのは幽霊でも化け物でもなく、闇に取り憑かれた人間だった。歪んだ想いが闇を呼び寄せ、闇に取り憑かれてさらに心に影響が及ぼされる。


 それを断ち切ることができたのなら、セツナがやったことにも意味があったのだろうか。


「でも見たいものだけを見ていられたら、その人にとってはそれが現実だ。本物でなくても、嘘偽りでも。それが救いになるなら、それでもいいのかもな」


 まとめるように言ったラズの言葉は、どこか羨ましそうな響きがあった。

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