記憶の断片1 災厄の予言

 かつて予言があった。

 黒髪黒目の子供が生まれたら、その者はこの世界に災いをもたらす、災厄の種となる。予言者が告げたことは、北の大陸に瞬く間に広がっていった。


 新しく生まれた黒髪黒目の子供は、生まれた時点で殺された。幼い頃は淡い色の髪でも、成長して黒に近い色になると、排斥された。


 王家に生まれた黒髪の子供も、生まれ落ちたときに殺されるはずだった。

 しかし出産を終えて意識が朦朧としているはずの王妃の「殺さないで」という言葉で、産婆は子供と王妃に同情し、子供を死産ということにして魔術師に預けた。


 魔術師は城から離れた森の奥にある塔に子供を幽閉するようにして、使い魔に育てさせた。




 子供が物心ついてからは、親代わりである使い魔に言い含められていた。


「この塔から外に出てはいけません。怖い魔物がいるのですから」


 森の奥にある塔に、黒髪黒目の男の子はフィースという名の使い魔と二人で住んでいた。


 塔とその周辺の森以外の世界を知らなかった。塔の外に出られるのも朝から夕方までで、夜は外出を禁じられていた。


 獅子の頭を持つ保護者の使い魔と、たまに訪ねて来る魔術師のレヴィン以外と会ったことはなかった。時々物資を運んで来るのもレヴィンの別の使い魔だ。


 文字の読み書きはフィースが教えてくれて、掃除や食材集めなどの手伝いをしていないときは塔にあった本を読んだ。何冊読んでも本に書かれていることは、どこか遠い世界のように感じられた。


 家族、兄弟、友達、仲間、宿敵。王、姫、英雄。村、街、城、店、海、船。どれも馴染みがないものだった。

 辛うじて馬車や馬は見たことがある。物資を運んで来る使い魔が荷物を運んで来るのに使うものだ。


 知らないものについてフィースに訪ねても、彼は獅子の顔を困り顔にした。鬣が目元を隠し、どこか哀しそうにも見える。


「わたくしは魔術師に仕える使い魔ですから。人間の暮らしについてはよく知りません」

「じゃあレヴィンに訊いてみる」

「余計な知恵をつけたと思われると、本を取り上げられるかもしれませんね」

「それは困る……」


 塔での生活における数少ない情報源をなくしては大変だと、レヴィンの前では本で知った単語は口にしないようにした。


「やあ、久しぶり。子供が大きくなるのは早いものだね」


 半年ぶりに塔を訪れたレヴィンは、紫の瞳を細めてにこやかにそう言った。長い銀髪を緩い三つ編みにし、丈の長いローブをまとった魔術師の青年は、塔に住む子供の頭を撫でた。


「そうだ、土産があったんだ。新しい本だよ」

「ありがとう、ございます……」


 街に住む町人では買えないような知識が詰まった本を、レヴィンは気軽に与えてくれる。もっと幼い頃は普通だと思っていたことが、本で知識がついたことにより、違和感を覚えるようになっていた。


 フィースはそれを余計な知恵、と言った。知ることはいけないことなのだろうか。塔から出ることを禁じられている身で、外の世界の知識を得たいと願うのは、咎められるようなことなのだろうか。


「言いつけを守っていい子にしていたかい?」

「はい」

「絶対に? 神に誓って言えるかい?」


 神。この国ネグロディオスの王族は神の身体の一部から作り出され、神の血を引いているらしい。だから王も神に等しい存在だ。


 王はこの国で最も強く賢く尊い存在で、王の言葉は神の言葉として民に伝わる。王は、神だ。神への誓いは王への誓いだ。


「言えます」


 森に出るときはいつもフィースが一緒で、遠くに行こうとしてもすぐさま連れ戻される。この状態で、塔の周辺より遠くへ行けるはずもなかった。


「そう、ならよかった」


 レヴィンは訊ねて来るたびに、そう確認をしていた。


「言いつけを守って清く正しく日々を過ごしていたら、この塔での日常が続く。私が死んだ後も使い魔を残して、君が死ぬまでこの生活が続くことを保障する。それが私と君との契約だ」


 ふわりと微笑んで、レヴィンは何度も繰り返したことをまた口にした。


 塔での日常は代わり映えがないが、平穏が続いていてひとまず不満はなかった。


 フィースはこの塔の決まりには口うるさかったが、それ以外は基本的に優しく、時に厳しく保護対象の子供を見守っていた。

 獣の手足で太い指なのに手先が器用で、彼の料理はおいしく、家具や日用品などなんでも作ってくれた。


 本には人が集まると、軋轢や意見の相違で対立する、それがもとになり諍いを呼び、戦争になることもある、と書いてあった。


 街に行きたいわけではなかった。フィースとレヴィン以外の誰かに会いたいわけでもなかった。

 だけど本に書かれた情報と塔での生活との違いから、違和感は膨らんでいった。




 幼い頃から、塔の周辺の森よりも遠くへ行ってはいけないとされてきた。

 その教えを長い間律儀に守ってきていたが、子供が十代半ばの少年になった頃、使い魔が倒れた。


「ど、どうしたの!?」

「大丈夫、で……」


 息も絶え絶えにそう繰り返されても、信じられるはずがなかった。


 額に手を当てると、毛皮越しですら高い熱が伝わってきた。手足が不自然に痙攣している。身体を動かすことも難しいようで、少年は使い魔の大きな身体に肩を貸して、何度も転びそうになりながらベッドに運んだ。


「しっかりして。薬を飲めばよくなるよ。えっと……」


 薬箱を持って来てどれがいいか訊いてみるが、フィースは首を振るのみだ。そもそもこの薬は少年が体調を崩したときのもので、獅子の頭を持つ使い魔に効くかどうかはわからなかった。


 彼の主であるレヴィンでないと、詳しいことはわからない。対処法も、治るかどうかすら。

 迷った末に、決心した。罰ならいくらでも受けるから、と心の中で謝罪した。


「僕、レヴィンを呼んでくる」

「いけません……それだけは」


 静止の声を振り切り、少年は塔から飛び出した。

 言いつけを破って、王国に住むという魔術師のもとへと急いだ。森を駆けているとき、銀色に輝く蝶とすれ違ったかのように思えた。


 そういえば、魔術師の家はどこにあるのだろう。塔周辺の森より先に行ったことがない身では、レヴィンの家の場所はもとより、王国の地理すら知らなかった。


 そのことに思い至った矢先、森から抜ける前に、少年の前に見知ったローブ姿の青年が現れた。そのことに安心しつつ、懇願の叫びを上げた。


「レヴィン、フィースを助けて!」


 ひどく残念そうな表情を少年に向け、魔術師は頷いた。




 レヴィンを塔に連れて来て、その日の夜にはフィースは持ち直した。


「ありがとうございました。僕一人じゃ、どうにもできなかったから……」


 少年は心底安堵して、魔術師に礼を言った。

 けれど使い魔の寝室をランプの灯りが照らす中、レヴィンは約束を破った少年を哀しそうな目で見た。


「決まりを破ったら報いを受ける。昔からそう言っていたはずだったんだけどね」

「ば、罰なら受けます」

「死をもってしか償えないとしてもかい?」


 死。身近な人が死んだことがないから、本でしか知らない事象。生きていられなくなること。心も意識も消え去り、肉体は朽ちていく。罪を負った者が負う最も重い刑が、死刑だという。

 決まりを破ることは、そこまで重いことだったのか。


「君が外に出たせいで、塔の周りにあった結界は意味をなさなくなった。陛下は予言を恐れていた。死んだはずの息子が生きていると知ったら、処分を命じるだろう」


 陛下。そう呼ばれる人物は、この国には一人しかいないはずだ。その息子とは――。


「そして私の一番の主は、君を託した産婆ではなく陛下だ」


 塔の扉が破られる音が、塔に響き渡った。やがて塔の階段を昇って来る金属質の足音が聞こえてきた。

 フィースの部屋の扉が勢いよく開けられる。


 光を反射する金属の鎧とマントをまとった巨大な身体。そこにいるだけで威圧感を与える姿。髭を生やした彫の深い顔に怒りの形相を浮かべた男が、少年を捉えて金色の瞳で射た。


 塔の外には魔物が出る。決まりを破ったから魔物が出たのだろうか。彼の悪鬼のような形相は、魔物と言われたら信じそうだった。


「陛下」


 とレヴィンが呼ぶ。

 これが王。この国における、神に等しい存在だというのか。


「生きていたか。災厄の子供」


 一歩一歩近づいてくるたびに、脚絆が音を立てる。


「生まれたときに我が直々に手を下していたら、十数年も生き永らえることはなかっただろうに」


 鼓動がうるさいくらいに鳴り響く。確かにあれは人間ではない。罪を犯した者を粛正する、人の姿をした恐ろしい神だ。

 逃げなくては。しかしこの部屋から続く扉はなく、逃げ場所はない。


「我の罪は災厄の種を見過ごしたこと。しかし、過ちは正せる。王族の血を引く子供だからこそ、我が手を下す責任がある」


 王は腰の剣に手をかけた。


「本来の運命を受け入れよ」


 絶対的強者による、矮小な弱者に対する慈悲が垣間見えた。圧倒的な力で蹂躙し、人一人の命など一瞬の選択で左右できる。


 そんな存在に剣を向けられたら、抗うすべなどないのではないか。

 諦めが過ぎった。剣が掲げられるのを、動くこともできずに見ているしかできなかった。


 その視界が、よく知る者の大きな身体で塞がれた。


「ぐおぉおお」


 呻き声とも咆哮ともつかない声が漏れる。

 王が刃を振り下ろした瞬間、ベッドで寝ていたフィースが割って入ってきていた。


「どうして――」


 少年の黒い瞳が見開かれた。言いつけを破ったのは自分だ。フィースはいつも、外へ行ってはいけないと忠告していた。彼が刺されるいわれなどないはずなのに。


 使い魔は剣で肩を斬り裂かれても動きを止めず、少年を抱えて王の脇をすり抜け、塔を駆け上がった。獅子の脚力で、瞬く間に上へと上がっていく。けれど、金属質の足音が追いかけてきた。


 塔の頂上で少年を抱えたフィースは振り返り、王と対峙する。王は他にも兵士を引き連れてきていたのか、王の背後には鎧姿で武器を手にした者が大勢控えていた。

 彼らに毅然とした態度で向き合い、フィースは王に告げた。


「もしものときはわたくしがこの子を殺すよう、主に命じられていました。陛下の手を煩わせる必要はありません」

「ならぬ。寄越せ」

「いえ。これがこの子をこれまで育ててきた、わたくしの責任です」


 フィースは少年を抱えたまま、塔の頂上から身を投げた。塔の奥側は崖になっていて、二人は崖下へと落ちていった。




 なぜこんな森の奥の塔で、使い魔と二人きりで暮らしていたのか。外に出ることを禁じられていたのか。

 子供の頃から疑問だったことの答えは得た。その代償は、あまりにも大きかった。


 災厄の予言により、父であるこの国の王から死を望まれていた。魔術師も味方ではなかった。使い魔もいざというときは少年を殺すよう、命令を受けていた。


 しかし、だったら――なぜ崖下に叩きつけられた使い魔が死んで、頭を抱え込まれていた少年は怪我を負いながらも生きているのだろう。


 生きている意味なんてないのに。死を望まれていたのに。ずっと傍にいてくれた使い魔は、死んでしまったのに。


 やがて血の匂いに招き寄せられたのか、獣が集まってきた。暗闇の中で目を光らせているのは、もしかしたら魔物だろうか。唸り声を上げる肉食獣を前にしても、不思議と恐怖は感じられなかった。


 このままこうしていたら死ねるだろうか。使い魔が先に行ったあちら側へ行けるだろうか。

 この国の神である王に憎まれた自分は、地獄へ落ちるのだろう。あちらで再会は叶わないのかもしれない。


 そもそも逃げようにも、足は痛いを通り越して心臓がもう一つできたかのように熱く脈打っている。折れているかもしれない。走ることはおろか、立ち上がる気力も湧かない痛みだ。

 諦めて目を閉じ、獣が地を蹴ったところで。


 頭上から降ってきた者が、少年に飛び掛かろうとしていた魔物に剣を突き立てた。

 月明りに照らされたその光景は、まるで英雄譚の一幕かのようで、目を奪われた。


 近づいてきた魔物や獣を蹴散らしてから、乱入者は振り返った。屈強な戦士かと思ったが、そうではない。少年と同年代か少し上くらいの若者だ。


 髪の色は、彼が持つランプに照らされて暗い森の中で浮かび上がるような白金。オレンジの灯りに染まりきらない水色の瞳が、少年を見据えた。


「お前っ、まだ生きてるんだろ!? なにぼさっとしてるんだ!」

「……足を怪我して」

「這ってでも逃げろ!」


 彼は、生きろという。この国の王に――神に見放された存在に。血を分けた父親に殺されそうになった子供に。


「――どうして」

「俺が助けようとした人間だ。死なせてたまるか!」


 生を望まれた。そのことが、泣きそうなほどに嬉しかった。




 彼は魔物と獣をすべて倒してから、少年に向き合った。ランプの光が二人を照らし出す。相手はどこか呆れたような顔をしていた。


「ったく……お前、死にたいのか」


 魔物に襲われそうになったときに考えたことを言い当てられた。あのときは死んでもいいと思っていた。


 それに一度助けられただけで、目の前の人物を完全に信用したわけではなかった。彼がレヴィンのように裏がある人間ではない保障はない。

 幼い頃から知っていた魔術師から告げられた真意は、棘となって突き刺さっている。


「……そうだって言ったら?」

「そっか。なら俺が殺してやる。それまで生きてろ」


 さらりと彼はそう言った。


「なんだよ、それ」


 彼もまた王の従者で、少年の命を狙う者なのか。そう思いかけたが、それなら魔物から助けたことの説明がつかない。

 そして続けられた言葉は、予想の範疇を越えるものだった。


「お前の命を助けたのは俺だ。お前の命をどうこうできる権利は俺にある」


 自分を指し示しながら、彼は自信満々にそう主張した。

 そういうものなのだろうか。これまで話をしたことがあるのはフィースとレヴィン、それから塔に乗り込んできた王だけなので、いまいち判別が下せなかった。


「お前、怪我が治ったら俺の旅に付き合え」


 旅。本で知った言葉。塔の外に行ってはいけないとされていた少年にとっては、実現不可能だと思われたこと。一緒に広い世界を巡ることを、提案された。


「……でも僕は命を狙われていて」

「なんだ、俺と同じだな」


 その言葉に、ぴくりと反応した。


「俺もそうだよ。だから国を出た。国の外に出ちまえば、追っ手に見つかる可能性はぐっと下がるからな」

「そう……なのかな」

「ああ。お前が生きていることが、お前の命を狙う者に対する最大の復讐だ。なかなか面白い趣向だと思わないか?」


 そう言って、彼は手を差し出してきた。


 彼が言っていることがすべて真実とは限らない。あの魔術師のように、心地よい言葉をかけて懐柔しようとしているのかもしれない。


 だけど、それでも――彼の手を、つかんでいた。


「俺はラズ。お前は?」


 名乗ろうと口を開きかけたが、少し考えてやめた。口から出たのは名前ではなく別の提案だった。


「これまでの僕は崖に落ちて死んだ。……命を預かるってなら、君がつけてよ」

「そりゃ責任重大だ」


 そう言って、ラズは笑った。

 崖下の森に月光が差す。白金の髪の少年が、夜の闇を照らす光の印象と重なった。

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