1章 召喚(2)
常人が足を踏み入れたらいけないとされている闇が色濃い地へ、二人は入って行く。
立ち入り禁止だと示すように縄が渡してあるが、結界のようなものがあるわけではない。境界線を引いていても意味はなく、闇はじわじわとこちら側へ広がってきているように見えた。
周囲は夜になる直前のように暗くなり、地面からはこれまで住宅地にはなかったような棘がついた植物が伸びて、建物に絡みついている。
これまでプレイしてきた片手で足りるほどのRPGを思い出す。異世界に来て早々、本来なら終盤で訪れるような魔界染みた場所に来てしまったように思えるのは気のせいだろうか。
「大丈夫なのかな……」
「死にゃしねえよ。大丈夫」
不安を吐露したら、先を行くラズからそんな返事があった。なにを根拠に言っているのだろう。
「でも、こういう場所って魔物とかが出るんじゃ……」
そこまで言って、この辺りは本来街の中であることを思い出した。街は分厚い壁に囲まれていた。街の外に出没する獣や魔物が内部に侵入して来ないようにするために、壁は存在するのだろう。
ならば闇に覆われたからといって、魔物が街の中に出るとは限らないのでは――。
「ああ、闇が形を取ったやつなら出るな。ほら、噂をすれば」
建物の影から黒い豹のようなシルエットが飛び出してきて、セツナは肩を跳ねさせた。
闇が形を取った、という説明を証明するかのように、輪郭の一部がぼやけて、半透明になって空中に漂っている。普通の動物ではあり得ない状態。これがこの世界の、闇が形を取った魔物らしい。
ラズはすぐさま剣を抜き放ち、地面を蹴った。
豹のような魔物が飛び掛かって来るが、鮮やかな剣捌きによって、瞬く間に魔物は地に伏した。
「すごい……」
しかし感心してばかりもいられなかった。振り返ったラズがなにか言おうとしたところで、背後に三つ首の大きな犬が出現した。
先程乗ってきた竜よりも巨大な黒い犬は、咆哮を上げてラズに突進して来た。目の前にいた人間に噛みついたかと思うと、首を回転させて獲物を弄ぶように吹っ飛ばした。
ラズの身体はすごい速さで飛んでいき、棘のついた蔦に浸食された二階建ての建物の窓に突っ込んだ。建物は蔦のせいで壊れる寸前だった状態に衝撃を加えられたからか、音を立てて崩れていった。
「え……」
一瞬、目の前の光景が信じられず、セツナは次の行動に移れなかった。いくら魔物を瞬時に倒せる強さといっても、物量には叶わない。建物の下敷きになったら、人は大怪我をするだろうし――死んでもおかしくはない。
じわじわと絶望が広がっていく。血の気が失せて、身体が冷たくなっていく。
やはりこの場所はあの世で、いま目の前で広がっているのは、セツナが死ぬ間際に見た夢か幻。子供の頃にプレイしたRPGのイメージと、自分のことを理解して信頼してくれる友人が欲しいという願望が合わさったもの。
そう思い込み、現実逃避をしかけたが――この世界で見聞きしたものは、確かな存在感を持って目の前に広がっていたのではなかったのか。
周囲に漂う濃厚な闇の気配と、魔物の唸り声が、セツナを現実に引き戻した。
自分はなにもできない。いや、違う。まだなにもやっていない。
「――ラズっ!」
名前を呼び、ラズが吹っ飛ばされたほうへと駆け出した。建物が崩れたときに生じた土埃が漂う中、残骸をどかさなければと手をかける。
後ろから、巨大な三つ首の犬が近づいて来る足音が聞こえる。建物の残骸が手を引っかき、手のひらに血がにじむ。
死ぬつもりだった。生きていても仕方がないと思っていた。けれど、この世界で知り合った気のいい少年が死ぬのは、嫌だった。
「ラズ、死んでないよな!? 無事なら返事を――」
そう叫んだ直後。大きな音とともに、崩れた建物の一部が吹き飛んだ。その場所の土埃が晴れると、見知った人影が立っていた。
「おう。脱出に手間取ったが、無事だ」
剣に風をまとわりつかせながら、ラズはなんでもないことのように言った。
噛まれた辺りの服が引き裂かれて、肩が露出していた。服は血に染まっているが、傷は塞がっていっているかのように見えた。
「どうして……」
「話はその魔物を倒してからだな」
ラズは剣を構え直し、近づいてきた魔物に駆け寄り、高く跳躍した。垂直に落とされた剣は、三つ首の犬の首を正確に刺し貫いた。
地面に倒れた魔物が動かなくなったのを確認して振り返ったラズに、セツナは問いかけた。
「君は一体……」
「言っただろ、大丈夫だって」
痛みなど感じていないかのように、ラズはそう言って笑った。
その後もラズが魔物を倒しながら、先を目指した。人間よりも遥かに巨大な魔物が出現しても、ラズは危なげなく撃退していった。
闇を祓うなどということを生業にしているのなら、このくらい強くて普通なのだろうか。それにしたって鮮やか過ぎる腕前に思えた。
「そう、怪我は即座に治る体質なんだよ」
セツナの疑問には、ごく簡単な答えが返って来た。
進むに連れて闇は濃くなっていき、視界は悪くなっていく。
黒い霧のような、あるいは煙のような闇は、人体に悪影響が出るのなら息苦しくなりそうな空気だが、セツナは不思議と闇によって具合が悪くなることはなかった。
やがて、闇が最も濃いと思われる場所に辿り着いた。
黒い闇が渦巻くように空中を漂っている。敷地内に元々生えていたと思われる木々や植物は枯れ、太い茨のような植物に巻きつかれている。
敷地の奥にある建物は古びているが広々としていて、数人の家族が住む家というよりもなにかの施設のように思えた。建物も茨の浸食を受けて、壁があちこち崩れてきている。
「ここは……」
「孤児院だな」
「じゃあ、さっきの子の取り残された友達は……」
「この中にいるのかもな」
「早く助けないと!」
意気込むセツナを嘲笑うかのように、これまでラズが倒してきた魔物よりもさらに巨大な魔物――闇でできた竜が、建物の影から出現した。
ラズが移動するために呼び出した騎獣の竜とはまるで違う。首を伸ばせば二階建ての建物よりもさらに大きく、一歩進むたびに地響きが上がる。太い腕を振るえば、古びた建物くらい簡単に破壊できそうだった。
ラズはそれを見上げて剣を引き抜き、竜を見据えながらセツナに説明した。
「あれがこの街の闇の発生源だ。闇が集まって巨大な魔物の形を取られると、なかなかに厄介だな」
「そうだろうね……」
あの竜をラズが倒せばこの事態は解決するのか、と思いかけたが、続く言葉はセツナの予想の範疇を越えていた。
「セツナ。お前の力を引き出したって言ったよな」
「う、うん」
「お前なら、あの闇を取り込める」
「……は?」
「闇を吸い込める」
言い方が変わっただけで、意味合いはほぼ同じことを繰り返された。
「それがお前の力だ。だから、俺があの黒い竜を牽制してる間に、闇を回収してくれ」
「回収って――どうすれば」
「収集。闇の力を集める気でやればいい。これまでは闇を散らしていたが、それよりも効果的なはずなんだ」
そして詳しい説明はせずにほとんど丸投げしたような言葉を残し、ラズは闇の竜に向かって行った。
「そんな無茶な……」
しかし困惑して弱音を吐いたところで、目の前の状況は変わらない。あの竜は先程の三つ首の犬よりもさらに大きく、すぐ近くには子供が取り残されているかもしれない孤児院の建物がある。戦闘が長引けば、建物に被害が出て、中にいる者も危険だ。
ラズに関しては、怪我が即座に治るのを見た。多少の怪我では死なないのかもしれない。しかしだからといって、あの竜が体当たりをしてきて全身を潰されたら、いくら強くても人間の身体は無事では済まないのではないだろうか。
ラズに死なれるのは嫌だと思ったばかりだ。そしてこれまでは守られているばかりだったが、いまはセツナにもできることがあるという。
ならば、その信頼に応えたかった。
ラズに力を引き出されたときの感覚を思い出す。力がセツナの中に眠っているというのなら、使い方もわかるはずだ。
目を閉じて、閉ざされた扉をイメージする。鍵は外れた。いま必要な力を、扉の中から取り出せば――。
――え。
扉を開くと、黒い霧が溢れ出て来たように思えた。
霧、靄、煙――闇。
はっと目を見開くと、ラズが竜に吹っ飛ばされるのが見えた。
「ラズっ!」
怪我が即座に治るから、肉を切らせて骨を断つような戦法ができるとしても――傷つく姿を見ていたくなかった。
ラズのほうへ手を伸ばすと、足元に魔法陣が描き出された。ラズが力を引き出したときはもっと眩い光だったように思うが、暗い赤で鈍く光る魔法陣だ。
伸ばした手に反応するかのように、竜の輪郭のぼやけていた部分の闇が、セツナのほうへと引き寄せられてきた。
身体を起こして振り返ったラズが、満足そうに笑う。その瞳と目が合った。どうやらこのやり方でいいらしい。
――だったら、やるしかないじゃないか!
セツナの想いに呼応するように、足元の魔法陣が広がった。セツナに向かって風が吹いているかのように、竜を形作る闇が崩れ、集まっていく。
集まった闇は、セツナが伸ばした手をすり抜けて、心臓がある胸の辺りへ取り込まれた。
「――っ」
どくん、と鼓動が跳ねる。目が見開かれる。
しかしそれにより心身に影響が出ることはなく、痛みも大きな衝撃もなかった。
――なら、このまま全部取り込んでしまえばいい。
できることがあって、必要とされているのなら。
セツナは闇を取り込んでいき、目の前にいた巨大な黒い竜は、あれほどの巨体を誇っていたのが嘘のように形を失っていき――やがて黒い塵となって空中に溶けるように消えた。
「やったな! さすが俺が見込んだ人間だ。わざわざ別の世界から召喚した甲斐があった!」
満面の笑みを浮かべたラズに賞賛を送られ、闇を取り込み終わったセツナは戸惑いの後に微笑んだ。
空を覆っていた暗雲が晴れていく。街の中で最も濃い闇が漂っていた地から、薄暗さと闇の気配が薄れていく。
そのことに安堵しかけたが、これですべて片が付いたわけではなかった。
「孤児院の子供たちの様子を見に行こう」
「ああ。闇が晴れたなら、人体への悪影響も薄れていくはずだが――子供は抵抗力が弱いからな」
重症の子供はすぐさま連れ出してテントで介抱してもらい、二人では手が足りないなら救援の人手を呼びに行こうと次の目的が決まり、セツナとラズは孤児院の中へ入っていった。
「取り残された子がいるなら返事をしろ。闇は晴れたぞ!」
「……本当?」
一階の大部屋に集まっていた数人の子供たちが、顔を上げた。床に伏せっている子供もいた。
取り残されていた子供はみなぐったりと憔悴していた。その中でも年少で症状が重い子を二人はそれぞれ背負う。
闇が晴れてきた道を進んで行くと、セツナが背負った子供がぽつりと言った。
「……もう、駄目かと思った」
「そんなことは……」
「ぼくたちは切り捨てられてもしょうがないんだって、街の子たちは言ってた」
孤児院は親がいない、あるいは親に捨てられた子供が集められた場所だ。施設には大人だっていたはずだ。その大人は、助けられる子供だけを連れて避難したのだろうか。手に余る子供は切り捨てて。
「お前たちは助かった。俺とセツナが来たからな」
「でも……」
「助からないほうがよかった、とか思うんじゃねえぞ。闇の被害が酷い街では、死者も数多く出ている。お前たちは生き延びたんだ。それってすげえことなんだぜ」
「う……うん」
子供の声が若干明るくなったように思えた。
しかしセツナはラズの主張に心が沈むのを感じた。ラズにその気はないのだろうが、自ら死を選ぼうとしたセツナを責めているかのような言葉に思えた。
ラズはセツナが自殺しようとしたことを知ったら、どう思うだろう。
テントがあった広場に戻り、救護をしている人に子供を預けた。そしてその辺りを仕切っていると思われる大人に、ラズは闇を祓ったことを伝えた。
「おお……有難い」
「やってくれたか」
どよめきが上がり、ラズとセツナにいくつもの礼と称賛の言葉がかけられた。
「闇が魔物の形を取って襲ってくるんだろう? それを全部倒したのか?」
「さすが領主様が呼び寄せた方……」
「ああ、魔物を倒したのは俺だけど、実際に闇をどうにかしたのはこいつだから」
「ちょっと、ラズ!」
「本当のことだろ?」
悪戯っぽい仕草で片目をつぶられた。
いや確かにそうだけど、この状況でそれを言われると、ラズに集まる賛美の矛先を反らされたように思えるのは気のせいか。
案の定、街の住人たちの視線が、ラズからセツナに移動する。
「なんと、変わった服をまとった少年がか!」
「人は見かけによらないんだな!」
「街を救っていただき感謝しています!」
感嘆の言葉を言われ慣れていないセツナとしてはくすぐったくて、注目を浴びることに慣れていない身なので頬が熱くなっていった。
「じゃあ、俺たちは領主に報告に行くから」
二人を取り囲んでいた人垣からラズはセツナの腕を引っ張って器用に逃れ、次の目的を告げて、広場から立ち去ろうとした。
そこに、駆け寄ってきた子供がいた。最初に広場近くを通りかかったときに話をした子供だ。
「お兄ちゃんたち、孤児院の子を助けてくれたんだね。ありがとう!」
舌足らずな言葉で紡がれるまっすぐな礼に、心を打たれた。
いつも周囲の人間に負の感情をぶつけられてばかりだったから、こんな風に感謝されるのははじめてのことだった。
「……どういたしまして」
セツナはずっと、居場所が欲しかった。誰かに認めてもらいたかった。必要とされたかった。だからラズにお膳立てされてつかんだ成功でも、嬉しかった。
「ラズ」
「ん?」
「僕、この世界に来て、よかった」
「結論早ぇな。――でも、そっか。なら、召喚したほうとしても嬉しいもんだな」
ラズの笑顔が心地よかった。
たった一人でいいから、こんな風に一緒に無茶をやれる友達が欲しかった。いつからか叶うはずがないと考えないようにしていた望みを、ふと思い出した。
領主に報告に行くと、彼は屋敷の外に出てきていて、青空を仰いで満足そうに笑った。
「さすがかつて世界を救った勇者! そして勇者が見込んだ方だ!」
やはり私の選択は間違っていなかった、早々に勇者を呼んだから被害は最小限で抑えられたのだ、とラズを賞賛しているのか自画自賛してるのかわからない領主の言葉は、ろくにセツナの頭に入らなかった。
それ以上に、聞き捨てならない言葉を聞いてしまったから。
ぎこちない動作で隣に立つラズを見て、問いかける。
「……勇者?」
「言ってなかったっけ。一応、そんな風に呼ばれてる者だ」
自分を指し示して、ラズはさらりと言った。
確かに尋常ではない強さだったし、怪我がすぐに治るという常人にはなさそうな体質のようだが。異様に自信満々で、魔物に対して臆することなく、負ける未来など存在しないかのような態度だったが。
そういうことは、先に言っておいてもらいたかった。
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