リスには向かない職業

第1話 リスには向かない事務業

 今年のリス・ベガスは、絶望的な熱波が街を覆った。

 盛大な雷を孕んだ黒雲の群れが、連日太陽の光を遮断したかと思いきや、街中の水道管が破裂したかのような大豪雨が降り続き、道と言う道が水浸しになった。そしてそれからは、ぐうの音も出ない熱気である。


 図々しいばかりの太陽は容赦なく地上を焼き尽くし、陽炎であらゆる建物がアイスクリームみたいにとろとろ蕩けて見えた。そのとき私はと言うと、暑さをやり過ごせるまでもなく炎天下で雨漏りのする天井の修理と完全に壊れてしまったエアコンを片付けるのに、貴重な営業時間を費やしていたのだった。


 事務所は連日、開店休業だ。この殺人的な暑さでもカジノホテルがある目抜き通りは賑わっていたが、依頼はおろか、野ネズミ一匹通りすがりもしない。こうなれば探偵稼業を殺すのに、刃物も要らない。危うく干しリスになるところだった。


 そこで仕方なく、溜まりにたまった過去の記録の処理をしながら私は、風向きが変わるのを待っていたのだ。我が探偵事務所の貴重な事件記録をまあ、しぶしぶと。


 ちなみにこれらの書類も夏に入る前までは整理に困って人材を捜していたのだが、この分では、全部自力で整理をする羽目になるだろう。情けないことに、今の事務所にはパートタイムの事務員を雇う余裕すらないのだ。


 そんなわけで薄暗い倉庫で私は、気管支炎きかんしえんになりかかった咽喉のどをかばいつつ、ふうふう言いながら、ホコリ臭いファイルの山と格闘していたのである。


 彼女が現れたのは、ちょうどそんな日の昼下がりだった。

「ネットで求人広告を見て、来たんですけど」

 私は思わず目を見張った。


 彼女は毛並みのいい、大きな尻尾を持った若いシマリスだった。

 ふかふかとした毛に覆われた頬は、まだ餌の無い冬眠の苦労など知らないと言うように美しく波立ち、ぱっちりと見開いた黒くうるおう瞳は長い睫毛にいこわれて、興味深そうに辺りを見回していた。

 どこからどうみても、学校カレッジを出て就職活動を始めたばかり、と言う感じだ。


 さらにあまり高価ではないが仕立ての良さそうなサマースーツはいいとして、大きな旅行鞄に、我が事務所の狭い駐車場を占拠しているのは、ほどよく砂埃すなぼこりを被った中古車。恐らく田舎から出てきたばかり。棲むところを探すのも、これからかも知れない。


「ご応募ありがとう…まさか、いや、よく、来てくれたね」


 引きった顔で挨拶あいさつはしたものの、私はおおいに頭を抱えた。三か月前、リス・ベガス私立探偵協会に依頼していた求人広告をストップするのを忘れていたのを今さら、思い出したのだった。



「健康な成獣せいじゅうじょせい、地リスかシマリスに限る、給料・待遇、応相談とあったのですが」

 熱心そうにぐいぐい前に出る彼女へ、私はあわてて、言い繕った。

「そう、相談だ。出来ることなら、希望に沿いたい。沿いたいよ。もちろん、私の事務所が、あなたのような有能な人間の希望に添えれば、と言う話、なんだけどね」

 彼女のような若く、前途の期待に燃える女性を私はなるべくなら傷つけたくなかった。そのために婉曲えんきょくな断り方になってしまったのだが、遠回りな言い方過ぎて、やっぱり彼女には一向に私の本音は通じないのだった。

「履歴書を?」

 と、間髪入れずブリーフケースからそれが取り出されたので、私は手に取らざるを得ない。

「『クレア・エイントワース、二十六歳、警察学校を卒業後、ニャーオーリンズ市警に勤務、在職中に法曹資格ほうそうしかくを取得、探偵事務所での勤務経験あり』…やった!」

「やったって言いました!?」

「言ってない」

 私はそこですげなく、書類を戻した。

「なんなんですか!?」

「不採用だ。私が募集したのは事務員だ。職員は、間に合ってる」


 内心、ほっとした。断る理由が見つかってだ。危なかった。ハードボイルドだから口にしないが、今のうちは私の食い扶持ぶちだけで、かっつかつもいいところなのだ。


「ちょっ、待って下さい!納得できません、スクワーロウさん!」

 結局クレアは、バーニーのいるダイニングまでついてきた。そりゃ当然だ、他に行くところがなさそうだったし、何しろ若い彼女は前途の希望に燃えていた。

 だが、こっちは行き止まりなのだ。若い女性につれなくするのは辛いが、ここは心を鬼にしなくてはならない。

「何か仕事が欲しいなら、2ブロック北の職業紹介所で検索すればありつける。警察官がやりたいなら、知り合いの警官を紹介する。うちでなくても、ベガスで生活する手段はいくらでもある。とにかく他をあたってくれ」

「まだまだ捨てたもんじゃないな、スクワーロウ」

 隣でバーニーが場違いなジョークを言う。冗談じゃない。お金がないから雇えないなんて、こんなのハードボイルドなもんか。

「なんでそんなこと言うんですか。わたしっ、この街で真剣にスクワーロウさんと働きたいんです!」

「私も真剣だ。これは、私のためだけじゃない。誰より、君のためを思って言ってるんだよ」


 今月の私は、かつてないほど追いつめられていた。何度も言っているがすでに、パートタイムを雇う余力すらないのだ。


 あの殺人的に仕事がなくて、しかも冷房まで壊れた事務所と言う名の地獄の釜で干しリスになるのは、私だけで十分である。


「諦めきれません。せめてテストを!」

「テストね。履歴書によると、君は南部で警官をしていたらしいが」

 憤然として立ちはだかるクレアの前に立つと、私は肩をすくめてみせた。

「すぐにでも路上に出たい新人がいたとして、君の教官はなんて言った?きっとこうだ。後悔するだけだ。路上じゃ、お前の期待しているようなことは、きっと起きない」

「期待なんかしてません。わたしは何も」

 仕方ない。私は両手を拡げて、たじろぐ彼女に近づいてみせた。

「じゃあ、私を取り押さえてみろ。身体から危険な武器を押収してな。私立探偵は、警官以上にハードなんだ。ハードボイルドな展開に、君はついてこれるかな?」

 たじろぎかけたがクレアは、警官の呼吸を思い出したようだった。

「動かないで。両手を頭の後ろに。カウンターの方へ振り向いて」

 私は言われた通りに頭に両手をやった。


 だがそこで、クレアが油断しているのが分かった。次の瞬間だ。近寄ろうとしたクレアの顔を掠めて、私の頬袋のナッツが、発射されたのは。


 音もなく放たれた殻つきピスタチオはジャケット弾のように、バーニーのジューサーを撃ち抜いた。赤いキャロットジュースが威勢よく吹きこぼれる。


 呆気にとられてクレアは、破裂したジューサーに目を奪われていた。私は素早く、彼女を取り押さえた。


「テストは失格だな。それじゃあ、ハードボイルドは務まらない」

「おい!スクワーロウ、いい加減にしろよ!」

「いつものことだろう。分かったよ、バーニー」

 私は薄くなる一方の財布からジュースとジューサーの弁償代を、カウンターの上に置いた。

 やれやれだ。ハードボイルドな断り方は、お金が掛かるのだ。素直に雇うお金がないと言えばいいのだが、ハードボイルドの都合上、そう言うわけにもいかない。


「まっ、待って!待って下さいスクワーロウさん!」

「どいてくれ」


 愕然とするクレアを押しのけて、私は出て行った。夕方までここで時間つぶししようと思ったのに、最悪だ。外はまだ、とろけそうに暑かった。

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