第5話 長いお別れ

 メールは言うまでもなく、身代金の受け渡しである。

 私とクーパーが文面を見てぴんと来たのは言うまでもなく、相手側が要求してきている金額だった。


「クーパー・バウリンガルが奪った金は、公称二百万ドル、だが、そのうち五十万ドルが支払われ、差し引き百五十万ドルが残金だと知っている人間は、クーパー本人と私を除けば、あと一人しかいない」



 砂漠の廃モーテルに連中はやってきた。高級そうなツーシーターのトランクに、エマは監禁されていた。


「セレブと結婚してまだ他に金が欲しいってのかい、エリー」


 二十年ぶりに見るエリザベス・カーラーはたるんだ目尻のしわを引きらせ、銃を突きつけ、クーパー・バウリンガルを睨みつけていた。


「しょうがないでしょ?二人ともやめられないんだもの、金はいくらあったって足りないのよ!」

「旦那も揃ってギャンブル依存症か」

 ったく、どこまでも救いのない極悪人だ。

「ヴォルペ・ロッソに百万ドル借りちまってるんだ!もう、後に退けないところまで来てるんだ!」

「ロニーって言ったか。なんでも潮時ってやつがある。この辺にしとけ」

「るせえっ」

 ここでハードボイルドなら、やることは一つだ。

「舐めんなよおっさんたち!ぶっ、ぶっ殺すぞっ!」

 頬袋に詰まったピスタチオがその瞬間、火を噴くように飛び出した。

「ぎゃっ」


 今回は特別硬いピスタチオだ。トランクにいるエマを撃とうとしたロニー・ラビーズの手首にピスタチオの殻が弾け散り、銃口は跳ね上がった。


 甲高い余韻と火煎を遺して、弾丸は、砂漠の青空に消える。


 間髪入れず放った、私の渾身こんしんのストレートが、ロニーのあごを撃ち抜いた。



「よしな」


 それとほぼ同時だった。分厚い手でクーパーはエリザベスの頬を張った。銃を持ってるのにお構いなしだ。しかし、ビンタを喰らったエリーはなぜか、クーパーを撃てなかったのだ。


「結局五十万、死に金になっちまったなエリー」


 しみじみとした声でクーパーが諭すと、エリーは目に涙をいっぱいにためて、その場に泣き崩れてしまったのだ。


「あんたが…あんたのせいじゃないッ!あんたが二十年も喰らいこまなかったら、あたし…あたしはッ!」


 絹を裂くようなエリーの絶叫にも、クーパーは静かにかぶりを振っただけだった。すでにその答えは、長い時間の蓄積の中に埋もれてしまっている。


「二人で自首しろ、エリー。やくざに殺されるよりは、その方がよっぽどましだ」



「あんたはやっぱり大物だったな、クーパー」


 それからほどなくのことだ。クーパー・バウリンガルは、人知れずリス・ベガスから消えた。


 その経緯は、私とバーニーだけが知っている。なぜなら、国境線を通過する積み荷に偽装した逃走用のトラックを用意したのは、私たちだったからだ。


「パニャマに行くよ。こいつの話によると、海が綺麗だそうだ」


 大物はすっかりゆるめになった顔のしわたるませて、微笑んだ。傍らにあのエマがいる。なんだよ、ハードボイルドな店主と客、の渋い関係だと思ったら、ちゃっかり付き合ってやがったのだ。


「やっぱ女は若いのが一番だな、相棒」


 ぬわにが若いのが一番だ。突っ込みたいのは山々だが、嫉妬していると思われたら余計みっともないので、私は曖昧な笑みを浮かべていた。まあ、いいだろう。ハードボイルドも看板のおろし時だってことだ。


「さっさと逃げろよ相棒。バーニーと私で段取りはつけてきたから」

「ありがとよ。で、ところでよ、これは何の積み荷なんだ?」

「ああ、最近話題の『にょきにょき』生える天かすだそうだ。いつまでも減らないし、天かすだから特に美味くもないもんだから薄気味が悪くて、どこかに棄てて来てくれって親分に頼まれてな」


 私はコンテナを開けた。すると中からうんざりするほどの量の天かすがこぼれ出した。


「これなら途中でヴォルペ一味の検問に遭っても、切り抜けられるだろ?」


 赤い狐たちは天かすが嫌いだ。ちょっと油臭いが、この中にエマたちが潜むテントでも隠しておけば、無事、切り抜けられるだろう。


「「「「おいちゃん、おいらたち狸そば食べたい!」」」」


 またにょきにょきと、天かすの間からエマの弟たちが出てきた。うわっ、同じ顔のトイプードルが、四人もいやがる。


「馬鹿言え、お前たち、そばはな、月見が一番なんだよ」

「やっと彼のおそばが食べられます。クーパー、わたしにもそば打ち、教えてくださいね?」

「ああ、もちろんさ」


 エマと二人、クーパーはパニャマの海岸でボートでも削りながら、お蕎麦屋さんをやるつもりのようだ。


「最高の後半生だな。でもな、国境を越えるまでにあれだけ大枚はたいちまって、先立つものはあるのか?」


 バーニーと私は目を丸くすると、肩をすくめあった。するとクーパーは黙って、荷造りしてきた中から自分のバッグを取り出すと中身を開けて見せた。


「なっ」

 なんと、出てきたのは、うなるような札束だった。私たちに払った額どころじゃない。私たちは絶句し、思わず目を丸くした。


「あ、あんた、まさか消えた百五十万ドルは」


 戸惑う私たちにクーパーは、一束ずつ口止め料の札束を手渡すと、片頬だけ上げて微笑んでみせた。


「言ったろ?後はみんな、残らず海にばら蒔いちまったんだ、って」



 これでようやく、この街を飛び出す決心がついたと、男は言った。


「おれはずっともう、一人でやってきたからな」

「クーパー・バウリンガルも、年貢の納め時って言いたいのかい?」

「言ってみりゃその看板もな。おれをずっと、この街に縛りつけてた勲章だってわけだ。だがな、この街がそんなもの、何とも思わなかったみたいに、おれも二十年、ただ、生きてきたんだ。いよいよ店じまいしなきゃあな」


 クーパーは若いパートナーの肩を抱くと、私に言った。

「長いお別れだ相棒」

 それが、リス・ベガスが産んだ大物の、別れの言葉だった。



「長いお別れ、か」


 クーパー・バウリンガルは、彼として、リス・ベガスの地を踏むことはもはやないだろう。だが遠い空の向こうで、彼は生きている。そして、私は知っている。この男こそ、ハードボイルドの名に相応しい、最高にタフな生き方を置き土産に去った、と。


 私にもいつか、必ずそんなときが来る。この街で死ぬにしても、また別の生き方を見つけるにしても、在り方を迫られる時が私にもやって来るだろう。


 随分遠くから、住み慣れた街に帰ってきた。その日はそんな気がした。


 オフィスの古ぼけたサッシの向こう、今日も眠らない街が暮れていく。砂漠の街の夜風は、もう生ぬるかった。いつものクラクションとエンジンの喧騒を聞きながら、私はとっときのスコッチとナッツを取り出した。


「乾杯だ、相棒」


 遠きパニャマの空を、私は煙った夜空にグラスを掲げながら想う。


 褐色の熱い液体が、咽喉を通っていく。私は身を以て知りつつあった。


 これから先はしばしの、そして長いお別れだ。

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