第4話 出くわした事件
哀しい男の一杯だった。涙で味が変わってしまったが、美味かった。立ち食いじゃなくて、そば打ちならって本職でやれば人気出そうだ。
いやいや、そうじゃない。ハードボイルドなのだ。クーパーはあれで満足なのか。私だってまた銀行強盗しろ、と言ってるわけじゃない。だがちゃんと道を選ぶべきだろう。二十万ドル奪った男が、こおんなチェーン店で。
人生と時間の虚しさに憤っていると、誰かが店に入ってきた。もう深夜だ。結局、客の私の他は、クーパーが一人、居残ってしまっている。
「こんばんは」
来たのは見るからに愛らしい、若い女性だ。ふかふかの毛の生えた耳にピンクのリボンをした、黒いトイプードルだった。
「おじさん…ごめんなさい、あの、いつもの。まだ間に合いますか?」
どこか申し訳なさそうに彼女が声をかけるとクーパーは、途端に相好を崩した。
「ああ、大丈夫だよ。あんたが来るのは分かってるからな。ちゃあんと用意してある」
もこもこした黒毛の少女は嬉しそうに、手提げから何かを取り出す。それは両手に把手がついた、少し大きめの鍋だ。
「うち、ちっちゃい弟たちがいっぱいで。ここのモツ煮、いつも楽しみにしてて」
「モツ煮?」
「ああ、おれの手製だ。ムショ…いや、遠くに住んでたとき、一緒にいた友達から、作り方を習ってな」
前科者を告白しそうになったクーパーはあわてて繕うと、その鍋いっぱいに用意してあったモツ煮を移し入れた。
「ここはそば屋だぜ。お嬢さん、たまには一杯食べて行ったらどうだい?」
と鍋を渡しながらクーパーが言うと、どこか申し訳なさそうに彼女は答えた。
「ごめんなさい。あんまり外に出てちゃだめだって、言われてるんです…」
「あのフラットに住んでいるのかい?」
私はとっさに聞いた。
そう言えばこの店の裏通りは、どこかひと気のない住宅街だったが、ここから見ると一軒だけ明かりが灯っている家が見えた。
「はい。あ…いえ、違います。そうじゃないです」
不自然な受け答えだった。
「帰りますっ」
「いつでも来なよ。おれならこの時間、ずっと店を開けてるからよ」
彼女はクーパーにだけ会釈をすると、あわただしく去っていった。
「エマって言うんだ。中々いい子だ」
「そうだな」
少し訳ありそうに見えるが。
そう思った途端、突然事件が起こった。
エマの悲鳴は、バンの急ブレーキとエンジンの急発進の音に掻き消された。
「野郎っ!」
私とクーパーが跡を追ったが、こうしたことに手慣れているのか、バンはプレートに細工してナンバーを読み取りにくくしてあったし、ガラスはフルスモークで相手がどんな人間だったのかも見えなかった。
モツ鍋がこぼれて、散乱していた。クーパーは割烹着の帽子を叩きつけて怒り狂った。
「くそうッ!ふざけやがって!」
エマは一瞬にして、何者かに
「あれは、連邦局の証人保護用のフラットだったんだ」
十時間以内に私は、真相を突き止めた。エマはなんと、犯罪事件の証人だったのだ。ある組織が絡む犯罪事件の、唯一の目撃者が彼女だった。
「だからあんな遅い時間に、彼女はこっそりと脱け出して、あんたの店にモツ煮を買いにきてたのさ」
裁判が終わるまでは、家族ぐるみの軟禁状態だ。そして裁判が終わり、新しい身分を獲得しても、この国で生き残れる可能性は低い。彼女の命を狙っているのは、赤い狐こと、ヴォルペ・ロッソの組織だからだ。
ゆとり系マフィアであるヴェルデに比べると、北の赤い狐は執念深く、たとえ女子供でも容赦はしないそうだ。
「どうする、クーパー」
「どうするもなにもねえさ。エマはおれの大事な客だ」
やっと大物が本気になったのを、私は見た。そうこなくては。
「頼んだぜ、相棒」
それから半日が、あっという間に過ぎ去った。ヴォルペの組織にはつてがない。さすがのハードボイルドな私の伝手でも今回は、難物だった。緑の狸にも声をかけたが、裁判となるとこの男の方が情報通だ。
「いいぜ。ビアンカ祖母さんの香典代わりだ。あんたには、貸しにしておいてやるよ」
クマノビッチは敵に回すと厄介だが、こういう時は頼りになる。それからさらに一日でほぼ、調べがついてしまった。
「エマをさらったのは、ヴォルペの組織じゃねえな」
ヴォルペ側にまったく動きがないと言う。
「じゃあ、あの天かすやくざか?」
「ヴェルデの旦那は、新しい商売が忙しいんだ。裁判なんざ興味はねえだろ。それより、少し目先を変えてみるべきじゃねえのか?」
と、言うとクマノビッチは、外で待っているクーパーに向かって意味ありげにあごをしゃくってみせた。
「二十万ドルだ?そんなもん、海にばら蒔いちまったぜ」
「精確には、十五万ドルだろ。あんたが出所してきて、その行方不明になった金が出て来るんじゃないかって連中が、あんたを付け狙ってる」
私は、クーパーのいる店の監視カメラを調べた。すると多い日で五回、それも、クーパーの深夜番のシフトのときに限って現れる不審なバンを突き止めたのだ。
「あんたとエマは、夜中に時間を決めて会ってる。それ以外にあんたが、定期的に会っている人間はいない。親しいと思われたんだ」
「まさかな。でも、誰がだ?」
「あんた、携帯持ってないだろ。店のアドレスにこいつが着信してた」
と言うと私は一枚のプリントアウトを、クーパーに見せた。大物と言われた男の顔色がついに変わったのはそのときだった。
「おい、こいつはまさか…」
さすがに察しがいい。ハードボイルドは、こうでないと困る。
「ああ、そのまさかだ。すぐに分かったろ?」
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