第2話 我が懐かしきハードボイルド

「おいおい!ここは海星スターフィッシュだろう!?ボズを呼んでくれ」

「ボズ?それはあのう…」

「支配人を呼んでくれ」


 戸惑うバーテンダーに、私はすかさず耳打ちした。案の定と思っていたが、海星はもうないのだ。


「どういうことだ!?」

「クーパー、落ち着けよ。この街はもう、二十年前じゃないってことさ」


 やっぱりと思ったが的中した。クーパーが馴染みだった『海星ひとで』は、随分前に、人手に渡っていたのだ。


「ここはビアンカばあさんの店だろ?」

「ああ、ビアンカばあさんはもういないがな。今も変わらずファミリーが守ってる。が、少々勝手が違うのさ」


 やがて奥から、シェパード犬のオーナーがやってきた。私の記憶する限り、クーパーを知っているのは、この店でオーナーのジェフだけだった。


「クーパー!!懐かしいじゃねえか!」

「なんだジェフか!?どうなっちまったんだ、この店は」

「あんたがいなくなってからこっち、色々あってな。まあ、分かっていると思うが」


 老いたジェフは、言葉にならない苦笑をにじませた。無理もない。クーパーが現役時代、このすっかり目元のたるんだシェパードは無論オーナーじゃなく、駆け出しのバーテンダーに過ぎなかったのだ。


「それよりあんた、戻って来たんだな。この街もまた、昔みたいに騒がしくなるかね。一杯おごるよ、やってくれ。ほら、こいつもサービスだ」


 ジェフは精一杯の気遣いで、自分でソルティードッグを作ってくれた。それから奴が大好物だった七面鳥ターキーのアキレス腱のジャーキーを皿いっぱい出してくれたのだ。


「悪いなジェフ。おめえにはまた、借りが出来ちまったな」


 老ギャングはすっかりたるんだ顔のしわを深くして、ばか硬いジャーキーをわしわし噛んだ。


「いいってことよ。あんたには、どれだけ世話になったか分からんからな。死んだボズも言ってたよ、あんたがこの店の一番いい時代を作ってくれたって」


 黄金時代を懐かしんだ私たちはそれから無言のまま、三人で乾杯をした。くううっ、まさにこれこそハードボイルドだ。


「ドンには会ったかい?あんたが帰ってきたんだ、ヴェルデの親分もさぞ、心強いだろうよ」

「あ、ああ。それが。おれもな、そのつもりなんだが」

 と、クーパーはなぜかそこでも、言葉をにごらせた。

「ところで、エリーはどうなった?」

 ジェフはクーパーの突然の問い返しに、答える言葉なく黙り込んだ。

「エリザベス・カーラー、いただろう、白毛で、スピッツのショーガール。あれから二十年経ってる。まさかこの店にいるとは思わねえが、元気でやってるのかい」

「…エリーは結婚したよ。西海岸の、ゴールデンレトリバーの歯医者とな。この十年、この街には足を向けやしない」

「そうかい」

 クーパーは寂しそうに頷くと、ソルティードッグのお代わりを頼んだ。

「こんなこと言うのも何だが、もう金には困っていないだろう。あの子は、感謝してるはずだ。何しろ、あんたのお蔭でこの街のカジノから足抜け出来たんだからな」


 クーパーはしばらく言葉がなかった。強い酒を少し口に含むと、たるんだ皮の中から私を横目で見てきた。


「エリーのこと、知ってたのかい、スクワーロウ」

 私は少し躊躇したが、真実を告げることにした。

「…ああ、確かロニー・ラビーズって言う、羽振りのいい開業医だ。かなり前にこの街に、観光客として遊びに来たのが縁だったみたいだ。すまんな、進んで私から言うことじゃあない、そう思って黙っていたんだが」



 思えばクーパーが二十年前捕まった事件の発端は、エリーにあったのだった。


 彼女は質の悪いカジノにはまり、のべ五十万ドルもの借金を背負わされて命が危なかった。


 一説にはクーパーは二百万ドルもの金を盗んだとされるが、用意の自家用機で国境線に向けて逃走中、空軍に撃墜げきついされそうになり、金はすべて、海にばら蒔いたと言い張ったのだ。


 その金のうち、五十万ドルの在り処は当時、私だけが知っていた。クーパーに言われて私が、ギャングに監禁されていたエリーのところへ行き、身代金として直接、払ってきたのだった。



「知ってたよ。クーパー・バウリンガルっていやあ当時、なびかねえ女はいねえってくらいの出来る男ワイズ・ガイだったが、あんた、エリーしか相手にしてなかった。本気だったんだな…」


 クーパーは応えなかった。だが、私は知っていた。クーパーは、組織のためじゃなく、エリザベス・カーラーと言う女性一人のために刑務所に行ったのだと。


「バーボンはあるかい」

 ジェフがストレートで注いだそれを、クーパーは一気に干すと、深いため息をついた。

「今、幸せに暮らしてりゃあ、それでいい」


 コアヒットであった。

 これだ。これこそが、私の求めていたハードボイルドだ。天かすやくざと関わったり、小学生の依頼人に振り回されたりして、このところめっきり、こってこてになりかけていたので、私自身も男前な台詞回しをすっかり忘れていた。



「今夜は私が持つよ。出所祝いだ。どこでも、好きなだけ飲めばいい」


 とか、大きいことを言ってしまったが、次のダンスクラブで私はお金をおろす羽目になった。


 乏しいお金で、せせこましく暮らしていると、ふいにハードボイルドの必要に迫られたとき、やっぱり困る。ハードボイルドも伊達では出来ないのだ。



 だがともかく、クーパーこそハードボイルドだ。古き良き時代が帰ってきた。


 男前の時代を知ってるクーパーが帰ってきたことで、このシリーズもようやくこってこてから脱却を図れそうだ。


 ナッツで満杯の頬袋も思わず緩んでくる。だが、私は忘れていた。時代はハードボイルドじゃない、やっぱりこってこてだと言うことを。

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