大いなる冬眠

第1話 ゴッドマザーからの依頼

 リス・ベガスがその足に熱狂したのは、たったの半世紀昔のことだ。


 白いサマードレスを着てすらりと伸びた足は、白鳥スワンのスーパーモデルもカルガモのセレブ女優もかなわなかった。


 そこからつんと盛り上がったヒップに、形のいいバスト、そして弾けるような、愛らしい笑顔。


 カジノ王と言われたノワール・タッソが当時、その足に百万ドルの保険をかけたと言うのも、無理もないと思える。


 彼女のベッドルームに飾られた、特大のピンナップさえ見上げていれば、いとも簡単にそれを納得することが出来る。


 なるほど、映画女優を引退してからも、彼女は多くの人にとって幸運の女神であり続けた。それはリス・ベガスで生業をするうだつの上がらない私立探偵にとっても、だ。


 だが私が彼女に出逢った時、百万ドルの保険をかけたと言う足は、分厚いガウンに仕舞い込まれていたし、でっぷりと肥った顔はリス以上の小顔だった往時をしのばせることは全くなかったと言っていい。


「あんたには随分世話になったねえ、スクワーロウ」


 ビアンカ・タッソは何重にもしわの寄った大きな首をひねった。


「いい客は大事にしなきゃな。何しろ忘れたい過去が多すぎる連中ばかりの街で、あんたはずっと昔の恩を忘れないでいてくれる」


 元大女優は、往年の銀幕世界に囲まれた寝室で、今、最晩年を過ごしている。私が会ったときすでに臥しがちではあったが、この頃はここに籠りきりのようだ。


「私こそ世話になったさ、ビアンカ。この街で仕事をしていくには、ルールを無視しろ、と言う輩が多いが、あんたは今でもルールを守ってくれる。ハードボイルドはこうでなくちゃ、話にならない」


 割りに合わない稼業なのだ。せめてハードボイルドなルールを守ってくれなきゃ、こっちはやってられない。


「何か嫌なことでもあったのかい、スクワーロウ」

「そんなことはないさ。ただ、あんたといるとつい昔を思い出してね」


 あの頃はまだ、良かった。タフな台詞をぶつけると、ちゃんとタフな挑発が返ってきたし、天かす売ってるせっこいやくざなんか絶対いなかった。


 美しい美女と知り合うと洒落乙シャレオツな展開に必ずなったものだ。今はどうだ。どっちかと言えば、こってこてである。からっきしにもほどがある。


「嬉しいことを言うね。あたしの話が分かる人間も、少なくなってね。スクワーロウ、あんたはその数少ない生き残りさ」


 ビアンカは瞳を細めて、昔を懐かしむ。私にとっては彼女のこの表情こそが、仕事を受けるときのビアンカの印象そのままだ。


「あんたには随分苦労させられたからな」

「あたしに、じゃない。ドン・ノワールにさ。あの人の時代も、もう遠い昔よ」


 彼女は謙遜するが、私は知っていた。ドンとまで言われたノワールが、まさかの訴追を受け、失意のうちに獄中で亡くなる三十年間、シンジケートはこのビアンカが守ってきたのだ。


「昔話は、これくらいにしよう。こっちはあんたから仕事だって聞いて、気合いを入れてきたんだ」

「パーティをしたいんだ」


 率直に、ビアンカは言った。その言葉を聞いて私は、みるみる自分の頬袋ほおぶくろ口輪筋こうりんきんが引き締まるのが分かった。


「一族を集めてか?」

「ええ、残らず。かわいい坊やたちに、あたしももう何年も逢ってないからねえ」

「何かが起きるのか?」


 私は思わず勢い込んで訊いた。ビアンカ・タッソがパーティをすると言うのは、彼女の現役時代は何か大きな事件の前触れになったのだ。


「馬鹿言っちゃいけないよ。あたしがパーティをするんじゃない。依頼人はあの子なのさ」


 老ビアンカは、肥った首を大儀そうに振った。ソファの上に、小学生くらいの、赤いリボンにストライプ柄のワンピースを着た小さな狸の女の子がちょこんと座っている。


「あたしの孫娘だ。アリシア、おじさんに協力してもらいな。この人に何でも頼みなさい。いいかい?」


 孫娘に語り掛ける優しい口調で、ビアンカは言った。アリシアは小さく頷くと、私のところへぱたぱた駆けて来た。


「よろしくね、おじ様」

「あ、ああよろしく」


 よっぽど行儀よく躾けられているのだろう、初対面の私の前でも全く物怖じすることはなく、小さなアリシアはぺこんと身体を折ってお辞儀をして見せた。


「どういうことなんだ、マダム」

「見ての通りだよ。スクワーロウ、あたしの紹介でその子があんたを雇う。どうだい、アリシアは若い頃のあたしに、一番そっくりだろう?」

「ちょっ、ちょっと待ってくれ」


 私は、悲鳴を上げそうになった。ハードボイルドな展開はどこ行った?


「パーティがしたいの」

 アリシアは、銀幕女優の時のビアンカそっくりの口調で言った。

「おじさんにはわたしの買い物のお手伝いと、招待状を届ける役をお願いしたいの。大丈夫かしら?」

「大丈夫さ。どちらも、君のばあさん…いや、ビアンカに頼まれたことがある仕事だ。喜んで引き受けさせてもらうよ」


 泣けるぜ。ハードボイルドなら、こう愚痴ぐちるところだろう。小さな令嬢と私立探偵。だがこの構図、そう言いつつも、まだハードボイルドな望みはある。


「ところで、先に聞いておきたいんだ。ビアンカが私に依頼する意味ってことなんだが…君はその、誰かに狙われているのかな?」

 アリシアは、長い睫をぱちぱちさせて首を傾げた。

「どうして?」

「いや、もういい」


 だめだ。これ以上は突っ込めなかった。アリシアが、タフな展開とは無縁の、あまりにきょとんとした顔で私を見返したからだ。


「パーティはビアンカの提案かな、君の提案なのかな?」

「わたしのよ。最近グランマ、元気がないから。よく昔の家族写真見たりして、一人で泣いたりしてるの」

「ビアンカが?」


 思わず私の声が強張った。私の知ってる彼女からは、考えられない話だった。


「わたしのうちは、お父さんもお母さんも働いてるから。よく、グランマが預かってくれるのよ。グランマ、すごく優しいの。わたしの誕生日にね、ピーカンパイ作ってくれたのよ。ママとわたしにレシピ、教えてくれたの。だからね、今度はわたしがご馳走してあげなきゃ」

「ピーカンパイか」


 私も大好物だ。まさかビアンカがそれを得意料理にしてたとは、私は初めて知ったが。


「グランマは、おじさんたち皆に会いたがってたわ。スクワーロウさん、あなたはおじさんたちを皆、知ってるのよね?」

「まあ、仕事柄、全員と会ったことはあるよ」


 タッソ家には七人の兄弟がいたが、上の兄と姉はもう他界して、一人は刑務所に入って出てこれないはずだ。


「で、本当に全員呼ぶのかい?」

「ええ」

 アリシアは、何の疑いもない笑顔で頷いた。

「だからグランマに、あなたを紹介してもらったんじゃない」

「…泣けるぜ」

「え、何か言った?」

「いや、何でもない」

 今のは本当の泣き言で、あんまりかっこいい台詞じゃなかった。

「招待状は子供たち皆で作ったのよ。おじさんには、皆にこれを直接届けてもらいたいの」


 こうして私は何も言えず、ラメでキラキラの、いかにも小学生の女の子が使いそうなピンク色の便箋の山を受け取ったのだった。


 これをマフィアのおっちゃんたちに渡せと言うのか。なんてこった。子供の使いだと思ってたら、ビアンカ本人の依頼級のハードなミッションじゃないか。


「かっ、帰れ帰れえいっ!こないなもん、こんなとこに持ってきよってからに!一体、どういう神経しとるんじゃい!」


 ヴェルデ・タッソは、むきになって私を怒鳴りつけた。


 が、姪っ子が作ったかわいい便箋を放り投げることは出来なかった。やくざもかわいい姪っ子には弱いと言うことだ。


「かわいい姪っ子の頼みだ。私ならともかく、そう無碍にすることはないだろう。それとも、ビアンカが何か企んでいるとでも?」

「そないなことは誰も言うとらん。ば、ばあさんのとこにもなあ、そろそろ顔は出さねばあかん、とは思うとった。せやけどお前、盆でも正月でもなしに、どの面下げて会いに行ったらええんじゃい」


 ったく、盆だの正月だの、って、どこまでしみったれた親玉だ。


「昔はよく、食事会してたんだろ?一族で」

「昔の話や。それになあ、知っとるやろう。わしの代になってから、そうやすやすと一族ファミリアで食事会を催すことは、ようけせんようになったんじゃい」


 理由は分かっている。ビアンカのせいだ。ドンが服役してから組織を取り仕切ったビアンカは、容赦なく危険分子となる人物を始末した。その暗黒時代を知るものにとっては、パーティと言う言葉は胃痛の種でしかないのだ。


「他の兄弟も同じ気持ちや。パーティとなるとお互い、肚の探り合いばかりして、逆に良うない結果を産むことになる」

「だからって、決まったときにしか顔を合わせないってのは、おかしな話じゃないのか?」

「色々あるんじゃい。わしだって兄弟に一生顔を合わさんとは言うてはおらん。それになあお前、ばあさんが死んだときは、せめてわしが皆に声かけるぐらいは」

「なんだ今度は葬式か。あんたつくづく、しみったれたやくざだな」

「やっ、やかましい!」


 こうなったらこっちも、仕事だ。プロの意地にかけても、アリシアのために面子を集めてやる。


「そうだ、じゃあこうしよう。他の兄弟も出席するならあんたも出席する。まさかそうなれば、あんたも出席しないわけにはいかないだろうな。一家を継いだあんたが出てこないなんて言ったら、組織の面子は丸つぶれだ」

 そこまで言うと、みるみる狸は顔を紅潮させて乗ってきた。

「あっ、ああ、ええやろう!出来るもんなら、やってもらおうやないか!その代り、全員やからな!一人でも欠けたら、わしは行かんぞ!?」

「絶対あんたを出席させてやるからな」


 私は啖呵を切って出て行った。その割に持っていくのがまた、女の子女の子したかわいい便箋だと言うのが、物悲しかった。


 しかし、そこからが難しかった。

 ヴェルデが言うように、タッソ家のパーティにまつわるトラウマは、尋常なものではなかったのだ。

 本家のファミリーを継いだヴェルデの他に、タッソ家の男たちはレストランや運送業をして表向きの生業をしているが、ボスの元にその便箋を直接持って行ったが、軒並み受け取りを拒否された。


「ばっ、ばあさんが!おれを呼んでるだって!?嫌だ!おれは行きたくない!」

「知ってるぞ!ビアンカばあさんは、十年前おれが組織を裏切ったと思ってる!パーティなんて行ってみろ!殺される、絶対殺される…!」


 みっともない連中だ。しかしこうなるとアリシアが書いたかわいい手紙が、暗殺の予告状に見えてきた。


「なんてこった」


 この私が、手に負えない仕事を引き受けるとは。プロの面目丸つぶれだ。二進も三進もいかないじゃないか。

 どいつもこいつも、いいやくざが、自分の祖母さんがそんなに怖いのか。はあ。…と、ここでどんな悪態吐いてみたって、こんなにけんもほろろでは、さすがの私もぐうの音も出ない。


 かなり落ちているところに、電話が掛かってきた。折悪しくアリシアからだ。


『おじさん、上手くいってる?』

 私は小さな依頼人に聞こえないように、重いため息をついた。

「上手く行き過ぎて、泣けてきたところさ。どうかしたか?」

『そろそろ、ピーカンパイの材料を買いに行こうと思って。後、おばあちゃんから伝言。そろそろネーロおじさんにも声をかけてほしいって』

「ネーロおじさん?」


 ネーロ・タッソは、終身刑で服役しているヴェルデのすぐ下の弟だ。まあ、どう考えてもパーティに出られるわけがない。


「ネーロおじさんは、なんて言うかその、ちょっと遠いところにいるんだ。まず、私が行って会えるのかな?」

「大丈夫よ。それにね、おじさん、パーティには出られるかも知れないんだって?」

「なんだって?」


 私は怪訝そうに眉をひそめた。

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