第七十七話「暗躍」

 4月30日の午前11時頃。


 黒の賢者の乗った魔導飛空船はグリステートを出発した。

 目的地は王都ではなく、北にあるスタウセンバーグだ。


 北に向かうと聞いたオーガスト・オルドリッジ連隊長が「なぜ北に?」と質問すると、


「被害状況の確認と、王都への連絡のためだ。スタウセンバーグにある転移魔法陣を使えば、飛空船を使うより早く王都に報告できる」


 王都までの距離500キロメートルに対し、スタウセンバーグまでは直線100キロメートルしかない。魔導飛空船の速度でも2時間強で到着できる。

 ちなみに、ここグリステートにも転移魔法陣はあったが、スタンピード発生時に破壊されており、修復するまで使えない。


「それにしては出発が遅いですな」


「部下を偵察に出したからだ。君たちが取り逃がしたグレーターデーモンが襲ってくる可能性があるからな」


 その言葉にオルドリッジは不快感を覚える。噂通りならスタンピード発生の原因は黒の賢者にあるし、そうでなくてもスタンピード制圧に何の貢献もしていないからだ。


「賢者様なら、グレーターデーモンごときに後れを取ることはないのではありませんか?」


 オルドリッジの嫌味に黒の賢者は気にすることなく答える。


「もちろんだ。しかし、飛空船が奇襲を受けると面倒だ。それに他の魔物がいないとも限らぬしな」


 黒の賢者はライルたちが取り逃がした魔物に対し、警戒していた。特に北には多くの魔物が向かっており、南に比べ危険度が高い。

 また、行方が分からないグレーターデーモンだけでなく、ヴァンパイアロードなどのアンデッドにも警戒しており、そのため相手の力が最も落ちる正午前に出発した。


 偵察に出た部下たちから周囲に強力な魔物がいないと報告を受けたため、警戒しながら慎重に北に向かう。

 午後1時過ぎ、黒の賢者を載せた魔導飛空船はスタウセンバーグに到着した。


 黒の賢者は王都に伝令を送ると、モーゼスを探すよう兵士に命じた。自分の部下では警戒されると思ったためだ。


 モーゼスはアーヴィングらと一緒に避難民が収容されている軍の施設の中にいた。守備隊の兵士が呼びに行き、モーゼスは黒の賢者と対面する。


 黒の賢者の姿を見たモーゼスは自分が流した噂について問われると思った。

 しかし、黒の賢者の言葉は意外なものだった。


「君に協力してもらいたいことがある」


 モーゼスは想定外の言葉に「協力?」と聞き返すことしかできなかった。


「我々に協力するよう、ライル・ブラッドレイを説得してほしいのだ」


 その時、モーゼスは断りの言葉を口にしようとした。しかし、彼の口から出てきたのは「分かりました」という言葉だった。


 僅かな時間でモーゼスは暗黒魔術の催眠を掛けられてしまったのだ。

 更に黒の賢者はモーゼスに対し、別の暗黒魔術も施していく。


「これでよし。では、特別に魔導飛空船で家まで送ってあげよう」


 それだけ言うと、彼を伴って魔導飛空船に戻っていく。


「すぐにグリステートに戻る」


 最初からとんぼ返りするつもりであったため、飛空船はすぐに離陸した。

 あまりに短い滞在に、副連隊長が黒の賢者に顔を合わせる暇がなかったほどだ。


「何をしにきたんだ?」と副連隊長が部下に聞くと、


「王都に伝令を送ったようですが」と部下が答える。


「伝令を送るためにわざわざ飛空船で来たのか? 賢者様まで来る必要はないと思うが?」


「グレーターデーモンがいるらしいんで、それに対応するためじゃないですか?」


「なるほど」と副連隊長は納得する。


「そう言えば、流れ人を探していたという報告がありました。何のためか聞いていませんか?」


「流れ人?」と副連隊長は聞き返すが、


「初耳だが、賢者様のやることだ。我らが気にする必要はあるまい。それより、スタンピードは終息したのだ。すぐにこのことを公表しろ。そうすれば皆が安心するからな。だが、まだ魔物が残っていることはきちんと伝えるんだ」


 スタンピード終息が公表されると、スタウセンバーグは歓喜に包まれた。

 そんな中、エルフのアーヴィングとドワーフのトーマスが一緒に脱出してきたモーゼスを探していた。

 そして、守備隊の兵士に連れられて黒の賢者のところに行ったことが分かった。


「ヤバいよ。何をするつもりか知らないけど、少なくとも黒の賢者の噂をばら撒いたんだから、報復されることは間違いない。急いで戻らないと」


「そうは言っても相手は魔導飛空船じゃ。馬車ではどれほど急いでも2日は掛かる。絶対に追いつけんぞ」


「そうだね。だとしても、このまま手をこまねいているわけにはいかないし……」


 アーヴィングは翌朝、ゴーレム馬を借り、グリステートに向けて出発した。


■■■


 黒の賢者がスタウセンバーグに到着した頃、七賢者セブンワイズの筆頭、灰の賢者は王都シャンドゥで苛立っていた。


(あいつは何をしているの! すぐにでも報告を送ってくるべきでしょうに……)


 黒の賢者が出発してから7日経っているが、未だに何の報告もない。

 ただし、スタウセンバーグ駐留軍からは避難民収容完了と、スタンピードで解き放たれた魔物の数が減っているという報告を受けている。


 モーゼス・ブラウニングからの黒の賢者を告発する手紙を受け取ったが、その後の駐留軍からの報告でも、スタウセンバーグで黒の賢者が行った怪しい実験によってスタンピードが引き起こされたという噂が広がっているというものがあった。


 また、スタウセンバーグ近郊の農村が3ヶ所全滅したというものもあり、国王から状況説明を求められていた。


(国王に関しては問題ないけど、セブンワイズがスタンピードを起こしたというのはあまりよくないわね。王都ではパニックになりかけたのだし、民たちにとってスタンピードは最も身近で強い恐怖の対象なのだから……)


 スタンピードは頻繁に発生するものではないが、数十年から百年に一度は発生しており、そのいずれもが多大なる被害を出していた。

 一般市民は最も危険な災厄として認識しており、セブンワイズに対する不信感を持ちかねない。


(スタンピードが発生して既に10日。今までの例からいっても、7日前には終息しているから、もし魔物がこちらに向かっているとしたら既に現れてもおかしくない。でも、今のところその兆候は全くないわ。運よく別の方向に向かったのかもしれないわね……)


 当初、最も危険だと思われていたスタウセンバーグにも魔物が大量に現れたという報告はなく、グレーターデーモンらしき飛行型の魔物を見たという報告が1件あるだけだ。そのため、西あるいは東に向かったのではないかと灰の賢者は考えていた。


(いずれにせよ、黒の賢者が報告を送って来れば分かるのだけど、まさか自分までやられてしまったのかしら? 時空魔術はそこそこ使えるから、単独での脱出なら難しくないと思うのだけど……)


 そんなことを考えていると、部下が執務室に入ってきた。


「黒の賢者様からの伝令が到着しました。スタンピードは終息し、ほとんどの魔物は倒されたそうです」


「そう。それはよかったわ。他には何かあるのかしら?」


「黒の賢者様の研究が成功したとのことです。研究対象が神人族ハイヒュームに進化したことを確認されたそうです」


 灰の賢者は興奮気味に「それは本当のことなの!」と言い、


「すぐにその伝令を連れてきなさい」


「直ちに」と言って部下は廊下に待たせていた伝令を入室させる。


「研究のことは本当なの?」


「はい。黒の賢者様が直接鑑定なさり、ハイヒュームであることを確認されております。詳しくはこの報告書に記載してございます」


 そう言って数枚の紙を手渡す。

 灰の賢者はそれを受け取ると急いで読んでいく。


「……レベルが600を超えているですって! それは凄いわ……」


 満面の笑みを浮かべて報告書を見ていたが、最後の1枚を見たところで表情が曇る。


「我々に不信感を持っているですって……ブラウニングを使って協力させる? どういうこと?」


 その独り言に伝令が律儀に答える。


「従わねばブラウニングを殺すと脅し、隷属魔術を受け入れさせると聞いております」


 その言葉に灰の賢者は「馬鹿なの、黒の賢者は!」と叫ぶ。


「どういう意味でしょうか」と部下が聞くと、


「相手はレベル600を超えているのよ。仮に隷属魔術を受け入れさせても自力で解除されるわ」


「確かに」と部下は頷く。


「それに竜人族の娘とエルフの女も同じくらいにレベルを上げているはずよ。いずれも魔術耐性が高い種族なの。全員を隷属させられるならともかく、そんな者たちと敵対するなんて馬鹿げているわ」


 灰の賢者は黒の賢者の能力を疑っていた。

 実際、身体能力はライルら3人に大きく劣り、実戦経験も遠距離攻撃に特化している。万が一敵対してしまった場合、ライルらに勝てる見込みはない。


「ハイヒュームになったのだから、100年でも200年でも時間を掛けて説得すればいいのよ。焦っているわね、黒の賢者は」


 伝令は答えるわけにもいかず黙っているしかない。


「今からでは間に合わないわ。黒の賢者が成功することを祈るしかないわね」


 灰の賢者はそれだけ言うと、伝令を下がらせた。

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