『Assam』③

 久しぶりに訪れて、カフェ『TEAS 4u』は少し雰囲気が変わっていた。

 内装は変わらずダークブラウンでアンティークなイメージに統一されているが、南の窓には可愛らしいサンキャッチャーが吊るされていてキラキラと光を跳ねている。ボックス席前の本棚の上にはお店の雰囲気を崩すかどうかギリギリというくらいの賑やかなぬいぐるみたちが並んでおり、カウンターの奥には写真が二枚――真っ青で上下のシンメトリーが印象的な湖の景色と、店の前で撮った店主さんと女の子のツーショット。

 二年前は、たぶんもっと、ずっと質素だった。必要なもの以外はほとんど置いていないような、シックというか閑寂というか、そんな感じの店だった。

「お店の中、ちょっと華やかになったんじゃないですか?」

 私がカウンターに座りながら尋ねると、店主さんは何やらふっと笑みをこぼす。

「バイトを一人雇ったんですが、そいつがまあ、色々と物を増やしていくんですよ」

「へぇー、そうなんですね!」

「店の雰囲気に合わないものばっか持ってくるんで、困りものなんですけどね」

 店主さんはやれやれと憎まれ口で答えたが、相変わらず表情は柔らかかった。

 おそらくそのバイトというのは、後ろの写真の女の子なんだろうな、とすぐにわかる。

「面白い子じゃないですか」

 私がそう言うと、店主さんは洗い物から顔を上げてこちらを向き。

「まあ、そうですね。可愛いやつです」

 ともう一度小さく笑った。

 そのささやかな微笑み一つで、店主さんのその子への好意がよくわかった。

 私は同じように笑って相槌を打とうとして、しかし笑顔がわずかに歪んだ。

 ああ、嫌だな、と反射的に思う。今の私は、こういうことに敏感になりすぎている。

「少し、浮かない顔ですね」

 そして、せめてうまく隠せたと思った内心をそんなふうに言い当てられてしまい、私の表情はみるみる曇った。

「あ……えっと、実は……」

 口にしようとして一瞬迷ったが、結局のところ止まらなかった。

「二年前にこのお店に来たとき、ジンクスのお話を、してもらったじゃないですか。そのお話通りに、あれから出会った方がいて……それで、付き合うことになったんです。少し前から近くのアパートで同棲していて、今日は、その人との結婚式の打ち合わせをしてきたところで……」

「それは、お疲れ様です。それから、大変おめでとうございます」

「はい。でも……」

 私はここへ来る前に目にしてしまった柊一郎さんの指輪のことをぽつぽつと話した。私の口から落ちていく言葉たちは自分でも驚くくらいにひどく沈みきっていて、かつ要領を得ないものだった。

 店主さんは洗い物をやめてカウンターの向かいまできてくれる。

 俯いたまま先を続けた。

「結婚したいって言ったとき、彼は喜んでくれましたけど……でも今思えば、両親への挨拶のときも、式の準備を始めるときも、結婚指輪を選んでいるときも、なんだか、あんまり……乗り気じゃなかったような気がして……」

 思い返すと、何から何まで不安になってくる。

 ああ、そうだ。私の中に溢れんばかりに渦巻いているのは、きっと不安だ。私は不安で仕方がないのだ。

 私にとっての結婚は、喩えるなら、窓の明かりのようなものだった。

 夕暮れの中、小さな家の窓にふっと灯る淡い明かり。幸せな家庭を象徴するかのようなその明かり。

 こんなことを思い始めたのは、社会人として勤め出して少しの頃だ。私は毎日、慣れない環境に疲弊しつつ駅から実家へ歩いて帰っていて。

 あるときその帰り道の傍らに、こじんまりとした新居が建った。昔からずっと田畑だったその土地に現れた綺麗な家は、私の高校の同級生が結婚して建てたものなのだと母から聞いた。

 就活のさなか、無理くり予定を調整して参列した彼女の式を思い出す。そして彼女の新居からいつも必ず洩れている優しい明かりは、未だ私の知らない至上の幸福を想像させた。

 私は、それがたまらなく羨ましかった。

 いつからだろう。他人の幸せを祝う影に、ちくりと嫉妬が見え隠れするようになったのは。

 いつからだろう。ただ窓に灯る明かりなんてありふれたものが、遠くなってしまったのは。

 その暖かい、心に灯るような幸せに、私も手を伸ばしたかった。柊一郎さんと結婚すればそれが手に入るのだと思っていた。

 でも、本当にそうだろうか。彼の思い描いた幸せは、私の思い描いた幸せと重なっているのだろうか。

 私は柊一郎さんを、運命の人だと思っている。けど……彼は?

 人は誰しも出会うべき人と出会って、添い遂げて、幸せになる。現実がそんな夢物語ではないことくらい、私だってわかっている。夢見る少女のような部分だけで、私ができているわけではない。

 好きだから、結婚する。その通りだけど、それだけじゃない。

 自分のことばかりではいけない。私が甘えるばかりでは、私が支えてもらうばかりでは、私ばっかりが彼を好きじゃあ……。

 抱く『好き』の量があまりにかけ離れた二人の結婚は、はたしてうまくいくのだろうか。こんな私は、彼に相応しいだろうか。

 胸の中で小さな不安の芽が育ち、やがて恐怖の実を付けるそのさまを、私は止めることができない。

「彼との交際は、私の告白で始まりました。そもそも出会ったときに声をかけたのも私からで、同棲だって、私が一緒に住みたいって彼にお願いした結果です。そして今回の結婚も……いつもいつも、私からです。もしかして、好きなのは私ばっかりだったのかな。彼は私のこと、別にそこまで好きじゃないんじゃないかな。そんなふうに、思えてきちゃって……」

「……そうでしたか」

 しかし店主さんは、ただ一言、そう答えただけだった。

 いや、考えてみれば当たり前か。こんな話、いきなり他人にされたって困る話だ。最後のほうなんかほとんど声になっていなくて、聞き取れなかったかもしれないし。

 それから、店主さんは湯を沸かして何か作業をし始めた。

 一方私はといえば、身勝手に弱音を吐露してしまった恥ずかしさから、静かに肩を縮めていることしかできない。

 しばらくしてまた戻ってきた店主さんは、穏やかな声で言った。

「そういえば、まだご注文をお伺いしてなかったですね。どうでしょう。よければ今日は、僕のほうからおすすめをご提供しても?」

「え、あ……はい」

 私はつい反射で答えてしまった。

 それでも店主さんは嬉しそうに頷いて、既に手元に用意してあったらしきポットに気持ちよく湯を注ぐ。

 きっかり三分後、メニューが目の前に現れた。さっぱりした薄い緑色の、お洒落なデザインのカップと一緒に。

「では、どうぞ。こちらはインド産のアッサム、中でも収穫量の少ない枝先の新芽を集めた、フラワリー・オレンジ・ペコーという等級のものでございます。深い褐色が美しく、どっしりとしたコクと渋みに加え、まるで糖蜜を思わせるような香りが売りの紅茶ですね。それから――」

 続いて出てきたのはミルクピッチャーだ。手のひらサイズの可愛いピッチャーに、真っ白いミルクがたっぷりと用意されている。

「アッサムはこうした特徴から、紅茶の中でもミルクティーに非常に適した銘柄ですので、ぜひお楽しみ頂ければと思います」

「……はい、ありがとうございます」

「ところでお客さんは普段、ミルクと紅茶、どちらを先にカップに注ぎますか?」

「え?」

 出し抜けに尋ねられて私は抜けた声を出してしまった。店主さんの意図がわからなくて、またしてもただただ答えることしかできない。

「えっと……紅茶、ですかね」

「それはどうしてですか?」

 どうして、と聞かれても……正直、そんなことは一度も考えたことがなかった。みんながそうするから、流れで自分もそうしていただけだ。

 うーん、と首を捻って続ける。

「あの、だって……そう、薄める前の紅茶がどのくらい濃いのかわからないと、ミルクを入れる量は、わからないじゃないですか? そもそも私は、ミルクを入れるかどうかも、紅茶の味見をしてから決めることのほうが多いです」

「ええ、そうですよね」

 場当たり的に出た私の言葉に、店主さんは笑顔で同意を示す。そして言った。

「かつてイギリスの作家であり、紅茶にとても詳しかったジョージ・オーウェルという人物が『おいしい紅茶をいれるための十一ヶ条』なるものを提唱しているんですよ。その中で彼は『紅茶を先にカップに入れ、あとからミルクを入れる』――つまりは『ミルクインアフター』を主張しています。ですが、それ以前のイギリスの家事指南書によれば、紅茶よりも先にミルクを入れる『ミルクインファースト』が正しいとされていたんです」

「そ……そう、なんですか」

「はい。でも、やっぱりお客さんみたいに考える方だってたくさんいました。そうやってイギリスでは百五十年もの間、ミルクの後先を決める論争が続いているんです」

「ひゃ、百五十年!?」

 私は驚いてたまらず声を上げる。

 店主さんはそんな反応を予想していたのか、くすっと笑ってさらに続けた。

「ええ、ずーっとです。で、ついにはイギリス王立化学協会が出てきて『一杯の完璧な紅茶のいれ方』を決めました」

 王立化学協会って……もうなんというかスケールが違う。紅茶のためにそこまでするの?

「……すごいですね。それで、どうなったんですか?」

「会の結論は『ミルクインファースト』。理由は、熱い紅茶の中にミルクを注ぐと、初めのほうに入れたミルクが沸騰してタンパク質の変質が起こり、滑らかさを失うだけでなく、硫化水素の臭いが紅茶の香りの邪魔をするから。逆に、冷めたミルクの中に少しずつ紅茶を注ぐ場合は、これが起こらないという見解らしいです」

「はあ……じゃあ、ミルクを先に入れるのが、本当のマナーなんですね」

「まあでも、僕はいつも、あとからミルクを入れますよ。僕の知る限り、だいたいの人はあとに入れます」

「え、ええっ!?」再三、声を上げてしまう私。「それじゃあ話が違うじゃないですか」

 店主さんも面白がっているのか「ははっ」とこぼす。

「はい。でもやっぱりミルクが先だと、好みの濃さに調節するのが難しいんですよね。ミルクが少なければちょうどいい濃さのときに、紅茶はカップの半分くらいしかないかもしれない。反対にミルクが多ければ、紅茶はカップから溢れます」

「それは……そう、ですけど……」

「あと、そもそもミルクインファーストだと、ワンカップ用のティーバッグも使いにくくなりますし。なんだかんだ総合的に考えて、あんまり現実的ではないんですよ」

 そう言われてしまうと、確かにそんな気もしてくる不思議。

「なぁんだ。じゃあ結局、先でもあとでも、どっちでもいいんですねー」

 私はがくっと肩を落とし、言って――自分ではっとした。

 店主さんはそんな私を見て、いっそう柔らかい笑みを浮かべる。

「そうですね。どっちでもいいと、僕は思いますよ。好きになるのが、先でも、あとでも」

 ああ、この人は初めからこれが言いたかったんだ、とここまでこればさすがにわかる。でもこんなの、なんて回りくどいっていうか抽象的っていうか……いや、この場合は粋というのか。

 たぶん私は、あの泣き言の直後にあからさまな諭され方をされても、まともに受け止められなかっただろう。不安に取り憑かれたときというのは、とかくそういうものだから。

 店主さんがそれをわかっていてこんな話をしたのかはわからないが、少なくとも今、私の心は驚くほど軽い。

 あまりに自然に、ふわっと落ち着いた声が出た。

「そっか……好きになるのが先でもあとでも、別にいいんだ。私だって、彼を疑いたいわけじゃない。私が自分に自信がないから、不安で不安で……だけど、彼への気持ちが一方通行だって、決まったわけじゃないですよね」

「おっしゃる通りです。相手の気持ちを考えるのと、決めつけるのは違います。あまり憶測で判断しすぎず、大事なことは相手に直接訊くべきではないでしょうか。相手がまだそばにいるのであれば、その行動に隠れた真意を、あなたは尋ねることができるはずです」

 私はもう一度、店主さんの顔を見て「はい」と答える。

「私、逃げずにちゃんと話します。それで、結婚、考え直さなくていいように、頑張りたいです」

 意識的に笑みを作った、そのときだ。

 背後で大きな音がした。耳をつんざくドアベルの音。そして――

「陽凪さん!」

 と私の名前が叫ばれる。

 驚いて咄嗟に振り向いた先、そこにあったのは、これまで見たこともないほどの動揺を露わに駆け込んできた、柊一郎さんの姿だった。

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