『Assam』④

 私は目を見開いて席から立ち上がった。

 同時に柊一郎さんの後ろから、ひょこっと制服の女の子が顔を出す。

「ごめんなさい、杏介さん。この人、さっき駅で会って、この店を探してるって言うから連れてきたんですけど……店の外からそのお客さんが見えた途端に飛び出しちゃって」

 女の子が視線をちらりと私に向ける。この子はたぶん、写真に写っていたバイトの子だ。

 店主さんは彼女に言った。

「いや、つかおま、今日は出勤日じゃないだろ。勉強は」

 すると彼女は可愛く喚きながらカウンターに駆け寄る。

「えー! 昨日センター終わったばっかなんですよー? いいじゃないですかー、今日くらい。今日はお客さんとして来たんです。だから杏介さん、紅茶ください紅茶! 二次試験に向けて英気が養えるとびきりの紅茶を所望します!」

「なんだそりゃ……。その様子だと、センターの出来はよかったのか」

「にひひ、ぶいー! 目標より一割増しー!」

 元気よくピースをする彼女を見て、店主さんは呆れたような安心したような、そんな表情で「ほっ」と息をつく。

「運がよかったか」

「違いますー。実力ですよー。あたし、本番強いからー!」

 店主さんはひらひらと右手で彼女をあしらっている。

 その楽しげな会話を横に、私は柊一郎さんに近づいて尋ねた。

「柊一郎さん! どうしてここに!?」

「ああ、いえ、あの……家に帰っても陽凪さんの姿がなくて、何回電話をしても出ないので、探していたのですが……ふと陽凪さんが以前にこのお店のことを話していたのを、思い出して」

 電話、と言われて私が今更のようにスマホを見ると、いつの間にかバッテリーが切れていた。そしてどうやら彼は、私たちが出会ったばかりの頃に聞かせたジンクスの話を、覚えていてくれたのだろう。

「それより陽凪さん。結婚を考え直すって……どういう、ことでしょうか」

「あ……それは、その……」

 私は混乱しながら小さな声で俯く。

 でもすぐに、そうじゃないと思い直した。ついさっき、逃げずに頑張ると決めたばかりだ。

 私はすっと顔を上げ、私を見つめる柊一郎さんの瞳を見て、正直な気持ちを口にする。

 私は、自分の中に燻っていた不安に気づいてしまった。私は彼の結婚相手として相応しいのか。思い返してみれば交際も同棲も結婚も全部私が言ったことで、気持ちを押し付けてしまっていたのではないか。私は彼のことが好きで、とてもとても好きだけれど、それは自分だけだったのではないだろうか。

 ゆっくりと、でもしっかりと、彼に伝えた。

 そして彼の表情が、次の瞬間どう変わるのか、見てしまうのが怖かった。

 けれど私は目を逸らさない。

 やがて、硬直した彼の顔が色を変える。そこに浮かんだのは『愕然』だった。

「なっ……何を言っているんですか陽凪さん!」彼はたまらずといった様子で一歩踏み出し、私の両肩にその手を置く。「そんな……あなただけが僕を好きだなんて、そんなこと、あるわけがないじゃないですか! それに――」

 大人しい彼にしては珍しい、取り乱したような訴えだった。声とともに吐き切ってしまった息を再びかき込み、叫ぶことには。

「それに……先に好きになったのは、僕のほうなんです!」

 途端、私は両目を白黒させた。

 肩を上下させている彼は床に視線を落としたまま、しかし途切れないように話し続ける。

「陽凪さんも、一度お越しになったことがあると思いますが……僕の所属する研究室は、あの学内公園の、近くの建屋の上階です。実は、窓から公園のベンチがよく見えるんですよ。だから僕は、いつもあなたのことを見ていました」

 彼は言った。顔を見なくても、おそらくは恥ずかしいのだろうとわかるくらいたどたどしい声で。

「いえ、いつもというか、必ず金曜日のお昼でしたね。陽凪さんは毎週その日に、ベンチでお弁当を食べていて……僕はきっと、あなたに一目惚れしていたのだと思います。陽凪さんの、小さなお弁当を一生懸命食べている姿が好きでした。楽しそうに本を読んでいる姿が好きでした。時には眠ってしまって、寄ってくる野鳥と戯れているような姿が好きでした」

 今度は少し、気落ちした声になって。

「でも、僕はこんな性格です。下りていって声をかけるなんて……あのときは考えもしなくて。気づけば大学は春休みに入っていて、あなたは現れなくなってしまった。進級か、あるいは卒業してしまったのだと思いました。好きなら少しでも動いてみれば……勇気を出してみればよかったんじゃないか。そんなふうに後悔しながらベンチに座っていたところに、あなたが声をかけてくれたんです」

 彼は普段から、あまり自分のことを話すタイプではない。だからもちろん、こんなことは初めて聞いた。

 彼が私を……? 出会って話すよりももっと前から? そんな、ことって……。

 私は彼の手を押し戻して正面から見つめ返す。

「でも……でも私、知ってるんだから! 宝飾店で、知らない指輪、受け取ってた! 私たちの結婚指輪じゃない……じゃあ、あれは何?」

 問われた彼は信じられないものを見るような目で私を見た。

 ああ、やっぱりあれは、私の知らないはずの指輪。それを、嘘までついてこっそり受け取りにいくだなんて……。

 彼との結婚に向けてゆっくりと膨らんでいた暖かい気持ちが、私の中でみるみる萎んでいくのが感じられる。力なく、落胆し、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。

 すると目の前で、彼は観念したようにポケットから小箱を取り出す。申し訳なさそうな顔で言った。

「陽凪さんが言っているのは……きっと、これのことですよね。これは、あなたへ送る婚約指輪です」

 え……。

「婚……約……?」

 私は彼の言葉が理解できず、聞こえた音をそのまま繰り返した。

「はい。本当はこれを渡しながら、僕のほうから先に結婚を申し込みたかったんです。男らしく、格好よく。でも、その……肝心の指輪の準備が、間に合わなくて」

 彼はいったい、何を言っているのだろう。私がそう思っているうちにも、話は先へと続いていく。

「陽凪さん、覚えていますか。今から半年前の、八月のことです。同棲を始めてすぐに、あなたのほうから結婚を申し込んでくれましたね。情けない話ですが、実は僕もそのとき、まったく同じことを考えて準備をしていたんです。指輪が届いたらプロポーズしようと。けれど、あなたは思い立ったらすぐに動くことができる行動力のある人だから、恥ずかしながら、先を越されてしまいました。式の準備でも、結婚指輪を選ぶときも、あなたはいつも思いきりがよくて……その姿を見ているのは気持ちがよかった。僕だったらとてもこうはいかない。たくさん迷ってしまうだろうなって思いましたから」

 彼は、ぽかんとしている私に向かってはにかむような笑顔を見せた。

「結婚指輪まで決めたあとに婚約指輪なんて、間抜けで呆れられそうで、一度はキャンセルもしたんですけど……でもやっぱり、これだけは渡したくて。それで無理を言って、結婚指輪の納品よりも早くしてもらいました」

 彼は立派な小箱をパカっと開いた。そこにあるのは、まるで美しい金糸を集めて編んだような華奢なリング。そしてその上に乗る宝石は、まるで瑞々しい新緑の光を閉じ込めたよう。

「この石はカンラン石と言います。宝石名は、ペリドットですね。鉱物の研究者なんてやっていると、こういうものを手にする機会もあったりします。これは僕がまだ学部生だった頃、ノルウェーに出張に行った際のフィールドワークで見つけたものなのですが、元は結構、質の良い原石でして。ずっと記念にしまってあったものを、今回、つてを辿って綺麗にカットしてもらいました」

 彼は私の左手を両手で丁寧に掬い上げ、指輪を薬指にそっとあてがう。

「ペリドットの歴史はとても古く、初めて採掘したとされるエジプト人はこの宝石を、その強い輝きから『太陽の石』と呼んで崇めたと言われています」

「太陽の、石……」

 私はまたしても彼の言葉をただ呟いた。

「はい。でも僕にとって、この緑の美しい輝きは……陽凪さん、あなたです。あなたと出会って、あなたの名前を聞いたとき、僕は勝手ながら運命なんてものを感じていました。あなたは僕の太陽なんです。だからこの石を、どうしてもあなたに送りたかった」

 動かない身体。滲む視界。喉の奥から込み上げてくる何かが、熱となって私の瞼の裏を焼く。

 彼は再び柔らかく笑った。

「誤解をさせて、すみませんでした。せめて今日だけは、上手にプロポーズして驚かせたかったのですが……やはり、慣れないことは難しいですね」

「……っ!」

 言葉なんて、出るわけがなかった。出せるわけがなかった。何も言えないまま、??私は胸の中から溢れる熱い幸せに弾かれて、思いきり彼に抱きついていた。

 ああ……よかった。私はこの世界で彼に出会えて、本当によかった。

 思い込みが強いくせに、すぐ自分を信じられなくなる私は、たぶん今日彼がこういうことをしなくても、いつかまた不安に囚われていたことだろう。

 でも、大丈夫。これから先、もしそうなってしまったときは、彼のことを信じよう。いつかまた私が自分を見失っても、彼を信じることはできる。

 そしてもし、同じように彼が不安に駆られたとしたら、そのときこそ彼に私を信じてもらおう。そうなれるように強くなろう。

 ずっとずっと、彼の隣にいられるように。私も私を信じられるように。

 それから私がひとしきり謝って、柊一郎さんも同じ数だけ謝って、二人でありがとうって言い合った。

 落ち着いた頃、二人で赤くなって周りを見ると、店主さんとバイトの彼女が微笑んでいた。いつしかカウンターには、私とお揃いのカップがもう一つ、並べて用意されていて。

 私と柊一郎さんは気恥ずかしさを隠すこともなく微笑み返し、優しく迎えられて席に座った。

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