『Assam』②
結婚式の打ち合わせは、私にとっていつも楽しいものだった。心躍るものだった。だからだろうか、さっきまで寒さなんてまったく気にならなかったのに、気落ちした今の私に一月の北風はとてもこたえた。
素直に家に帰る気にもなれず、ふらふらと当てもなく街をさまよう。そうして二駅、いや三駅分は歩いただろうか。並ぶ景色はいつしか店から住宅へと変わっていて、やがて私が辿り着いたのは、ある一軒のカフェだった。
木造、三角屋根、洒落た看板。繁華街から離れてポツンと建つこのカフェは過去に一度訪れたきりだが、確かに見覚えのある、いや、もっと言えば思い入れのあるカフェだった。
「あ……このお店……まだ、あったんだ」
私はほとんど導かれるようにしてその店の扉を開いた。
「いらっしゃい」
記憶と同じく爽やかな風貌の男性が迎えてくれる。以前もこの店主さんが一人でお店を営んでいた。
「あれ、もしかして、前にも来ていただいたことがあるんじゃないですか?」
柔らかに尋ねられて私は驚く。
「……よく、覚えていますね」
「まあ、そういう商売なもので。確か、二年ほど前でしょうか」
「はい。茶茎のお話を聞かせてもらって……」
思いのほかにするっと口をついたその言葉で、私自身も思い出す。
そう、二年前の三月だ。
当時、私は近くの大学の文学部で卒業を控えた学生だった。今の会社への就職も決まっていて、そこへ提出するための書類を大学の事務局に取りにいったのだ。
しかし準備にいくらかかかると言われてしまい、思いがけず時間が浮いた。かといって決して近くはない実家に一度戻るのも億劫で、この辺りでうまく過ごそうと決めたら、もう足が動いていた。
スマホを取り出しながら、ずっと通学に使っていた路線の、降りたことのない駅を思い出す。周りが住宅ばかりだからこれまで用もなかったのだが、通り過ぎるたびに歩いてみたいと思わされる不思議な魅力のある場所だった。
ならばこういう機会にこそぜひ、と向かう。
そうして駅の周辺を散策していたら、このカフェ『TEAS 4u』を見つけたのだ。
入店前はその立派な佇まいに気後れしたものの、店主さんのあまりの気さくさに安心したことを覚えている。
カウンターに座ると、目の前で注文した紅茶をいれてくれた。華麗な手際はあまりに素晴らしくて見惚れてしまったほどだった。
ポットから一杯目の紅茶を注いで提供してくれようとしたところで、しかし、チャポンと小さな茶茎が立つ。まるで示し合わせたように「あ」と声が重なった。
すかさず柔和な笑みを浮かべてごまかす店主さんが、ティーピンセットでそれを取り除こうとするのを見て。
「いえ、あの、取らなくていいですよ。茶柱が立つと、縁起、いいんですよね?」
と私は言った。
「え? ああ……まあ、日本茶ではそう言われることもありますね」
「あれ、紅茶では違うんですか?」
店主さんは、若干首を捻りながら答える。
「ええと、紅茶の場合は……まあ、悪い話ではないのですが。今のこの状況で、初対面のお客さんにこういう話をしていいものかどうかは、微妙なことろで」
さっきのごまかし笑いは爽やかでとても自然だったが、どうやら口ではそううまくもいかないらしい。こんなふうに言われてしまっては、結局は気になるというものだ。
そしてのち、店主さんに聞いたところによれば「茶の茎が紅茶の表面に浮かんだら、背が高くハンサムな男性に巡り会える」というジンクスがイギリスにはあるらしかった。しかも女性限定で。
確かにこれは、実際に茶茎が立ってしまったその場でするには、ちょっとためらう話だろう。だって目の前に座る私に、既に特定の相手がいるのかどうか、その可否で意味が大きく違ってくるのだから。
けれど、そんな気遣いはまったく無用だ。すっかり恋愛なんて縁がなかったその頃の私にとって、こんな素敵なジンクスは願ってもない話だった。
嬉しいです、と素直に伝える。まあ、それでも当の店主さんに私を口説く意図が微塵も感じられなかったのは、少々残念だったけれど。
そんなささやかな幸せの種をもらって、一時間ほどで私はカフェをあとにした。ちょうど太陽の高い昼下がり。外に出ると晴れているのにパラパラと雨が降っていて、常備している折り畳み傘を差して大学へと戻った。
春休み中の大学構内は、普段と違って人が少ない。歩きやすいメインストリートを通って、途中で細い横道に逸れる。私の向かう文学部区画はこの大学の中でも比較的新しい区画で、だから古くからメインストリート沿いにある理工学系の学部の、さらに奥の方にある。もちろん最後までメインストリートを歩ききって回り込めば辿り着けるが、きっちり四年間通い慣れた私の場合は、近道も裏道も、使わない理由が一つもない。
建ち並ぶビルの合間を何度か曲がる。そこでふと私の視界に映ったのは、文学部区画と理学部区画の境目にある学内公園だ。
ここは私がまだ授業を受けていたときによく使っていた公園で、中に屋根のついた小さなベンチが一脚ある。まめに整備されていて綺麗なのだが、いかんせんどちらの区画にとっても端にあるため、使う人がほとんどいない。
その点、文学部でありながら個人的な興味で理工学系の授業を取っていた私としては、使い勝手のいい場所だった。毎週、理学部での授業のあった金曜日には必ずそのベンチでお弁当を食べていて、午後の授業が始まるまでゆっくりと本を読んだり、うたた寝なんかをしたものだ。
賑やかで騒がしい、人間のごった煮のような大学にも、なぜか人の寄り付かないところはある。普段から人の声より鳥の声のが多いような場所だから、まして春休みならばさぞ、門前雀羅を張っていることだろう。
と思ってちょっと寄り道したのだが、意外にもそこには一人、背の高い、でもやや猫背の、白衣の男性がポツンと座っているのだった。
普段なら、声をかけたかわからない。けれどその日の私は声をかけた。カフェの店主さんにあんなジンクスを聞いたからだろうか。
「あの……雨宿り、ですか?」
後ろから声をかけたので少しびっくりさせてしまったが、その勢いで振り向いた男性はぺこっと頭を低くして答えた。
「ああ、えっと……気分転換に研究室から出て散歩をしていたら、突然降られてしまいまして。戻るに戻れなくなっている次第です」
「よかったら送りましょうか? これで」
私は右手の折り畳み傘を示す。
すると男性は「本当ですか!」と、まるで子供のような柔らかい笑みを浮かべて喜んだ。
その穏やかで純真な笑顔に感じた、えも言われぬ熱い高揚が、今も私の胸の中には確かにある。
きっと、私の一目惚れだった。
ジンクスなんて聞いたばっかりで、我ながら夢見がちな、思い込みの激しい性格だなと思ってしまった。でもそんなことはどうでもよくて、私はあのとき、彼に運命さえ感じたのだ。
彼は自分のことを、高畑柊一郎という四月から大学院博士課程の三年生になる学生だと丁寧に名乗った。理学部で鉱物学の研究をしているのだと。
風貌から、おそらく年上なのだろうとは思っていたけれど、実際に聞くとそれはそれで信じられない。彼の容姿にはまだ十分に少年らしさが残っていた。
それから彼を研究室まで送り届け、お礼にお茶を出してもらった。これをきっかけに連絡先を交換し、数回の食事を経て、私のほうから付き合ってほしいと告白したのが二ヶ月後だ。彼としてはきちんと手順を踏んでくれたのかもしれないけれど、そのための数回の食事すら、私にはじれったかった。自分の運命の人はもうこの人なんだって、そのときの私は疑わなかった。
昔、何かの本で読んだことがある。人は、生まれてくる前に自分の人生のあらすじをあらかじめ決めてくるのだと。いつ、どこで、どういうふうに苦難に遭って、何を成し遂げて、どんな人に出会うのか、そういうことを。
そしてこの日の彼との出会いは、間違いなく、絶対に、確定的に、私の人生に初めから組み込まれているものだった。そう強く信じたかった。
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