Break Time 『Earl Grey』

『Earl Grey』①

 雨でバイト終わりの菜乃花が帰宅できなくなってしまった夜。彼女を家に泊めることになって驚いたが、もっと驚いたのは、家に招き入れた彼女があまりに当然のように

「杏介さんの前の彼女さんは、どんな人だったんですか?」

 と聞いてきたことだった。

 俺は裏返りそうになる声をすんでのところでどうにか戻し「なんのことだ」と返したが、対して菜乃花はケラケラ笑って「えー、さすがにわかりますよ」と答えた。

 彼女をして「さすがにわかる」と言わしめた根拠は、実のところ単なる勘らしいのだが、その勘を極限まで確信に近づけたのはこの家のリビングのようだった。

「京介さんみたいなかっこいい人に、付き合ってた彼女が今まで一人もいないなんて思いませんよ。それにこの部屋、杏介さんのイメージと全然違うんですもん」

 確かにこの家は楓さんがいなくなって以来、内装から家具の種類に位置、小物の配置まで、ほとんど変わっていないように思えた。それはリビングに限らず、どの場所も。

 菜乃花には自分と同じ夕食を作り、空いた部屋をあてがったが、就寝の準備ができてもなかなかリビングから出ていこうとしないので仕方なく夜話に付き合った。案の定、楓さんの話をせがまれて一瞬、渋い顔になる。

 けれど、なぜだろう。少しだけ黙ったあと、俺は、今夜くらいはあの人の話をするのも悪くないという気分になっていた。

 思えば俺は、楓さんのことを誰かに話したことなど一度もなかった。わざわざ聞いてもらう相手がいなかったというのもある。

 だから初めて、菜乃花に話す。

 ただ、実際に話してみるとだ。ソファに座る菜乃花の表情は最初こそ好奇心に弾んでいたものの、次第に真剣なそれに変わり、最後には眉をふにゃふにゃに歪ませ、目も口もぐしゅぐしゅにして大粒の涙を流した。

「うっ、うぅ……か、かぇ、がえでざぁん……うえぇ」

「いや、お前がそこまで泣くことないだろ」

「だってぇ」

「うえーん」なんてあまりにも擬音そのままの泣き声を、俺はこれまで聞いたことがあっただろうか。赤ちゃんや保育園児ならいざ知らず、普通なら女子高生から出てくるようなものではない。

「そ……そんなに大事な人の命日だったなら、ちゃんとお墓参り、しなきゃですよぉ。今日は大雨でしたけど、天気になったら、すぐにでも行ってきてくださいぃ」

 しかし彼女のわかりやすい懇願に、俺は頷くことができなかった。

「あー……まあ、その、墓参りはな……」

 かわりにやんわりと浮かべた力ない笑みは、目の前で俺の悲しみを自分のことのように受け止めてくれている菜乃花への感謝と、そして……長い時間の中でとうに色褪せてしまったような、諦めにも似た感情からくるものだった。

 俺は、楓さんがいなくなってしまったすぐあとのことを思い出す。あの人は自分の死に際して、人並以上に丁寧に処理を済ませていた。

 死亡届や金融機関関連の手続きは生前契約先であるという民間団体に一任。後々始末に苦労しそうな私物は既に手放されており、彼女の身上やその両親に関するものは一切処分されていた。

 残されたものといえば事務的な遺言状一枚で、そこには相続についての詳細な指示と、葬儀は執り行わない旨、最後に、世話になった周囲の人たちへの感謝が一筆添えられているだけであった。

 遺骨は民間団体の担当者が引き取ることになっていたので、その後どうなったのか、俺は知らない。

「墓の場所は、わからないんだ。そもそもそれが、あるのかどうかも」

 俺は誰に言うともなしに呟く。

 すると菜乃花はしゅんと肩を落として俯いてしまった。

 楓さんは元来、浪費を好まず物欲の少ない人だった。悪いとは思いつつ彼女の部屋を調べたこともあったが、出てくるのはただの衣類や店の経営に関する数冊の書籍、それと学生時代のささやかな思い出の品に過ぎなかった。

 彼女が幼い頃からこの部屋でひっそりと生きてきた時間――その残り香だけを含んで佇んでいるわずかな遺品は、一方で、彼女についての情報を何一つ与えてはくれず。

 当時の俺は、部屋を調べている途中で、はたと気づいた。きっと楓さんは、自分の素性に関するものをあえて注意深く残さなかったのだと。

 やがて俺は、彼女の部屋の扉をそっと閉じた。

 もうこれ以上調べても、楓さんのことはわからない。

 そうして、この家と店からぽっかりと穴が空いたように楓さんの姿だけが消えてしまった。

 まるで昨日のことのような気さえする。でも、もう随分と昔の話だ。

 その昔話を一通り話し終えた頃には、日付も変わろうかという時間だった。菜乃花はといえば、泣き疲れたのかそのままリビングのソファで眠ってしまっていて、俺は仕方なく毛布を持ってきてかけてやった。


 そんなことがあった日から、十日ほどが過ぎた頃だ。

 平日の夕刻。バイトに出勤するや否や、菜乃花が駆け寄ってきて声高に言った。

「杏介さん! やっぱりちゃんとお墓参り、したほうがいいと思います! あたしも一緒しますから、行きましょう!」

 俺は眉をひそめる。

「いや、だから墓は……」

 けれど菜乃花は勢いを落とすことなく先を続けた。

「お節介かもしれないけど、楓さんのこと知ってる人に聞いたんです。お墓の場所、わかりましたよ!」

 その言葉に、俺が思わず目を見開いたのは、言うまでもない。

 聞けばどうやら、菜乃花は楓さんのことについて学校で相談したそうだ。

「あ、もちろん、杏介さんのことはまったく話してないですよ。前にお店にも来てくれたあたしの先生――麻理子先生っていうんですけど、その人にちょっと聞いてみたんです。そしたら、先生の幼馴染の子のお母さんが、楓さんのお母さんのこと知ってたらしくて」

 その先生と幼馴染の子というのは記憶にある。最近でも時折、店を訪れてくれているが……そうか、今の高校生の母親の世代であれば、楓さんの母親がこの店を営んでいたときに客として訪れている可能性も十分にあるはずだ。

「で、えっと……その幼馴染の子のお母さんのママ友さんにも、楓さんのお母さんのことを知っている人が何人かいて……そのうちの一人が、出身地が近いってことで、楓さんのお母さんと故郷の話をしたことがあるみたいなんですよ。楓さんのお母さんの故郷は小さな田舎で、そこで亡くなった人のお墓は、みんな同じ霊園にあるみたいなんです。試しに電話してみたら、楓さんのお墓もありました」

 何やら友達の友達の友達が……みたいな話になっているが、そのややこしさゆえか、喋っている菜乃花本人もたどたどしい口調になっている。

 けれどそんなことより、俺の知らない楓さんの墓が本当に存在しているという事実に、この胸がざわついた。だって今更、そんなことがわかったところで……。

「あのな。楓さんは俺に、墓のことなんて教えなかったんだ。来なくていいってことだろう。だいいち、あの人は店を休んでまで自分のために墓参りに来てほしいとは思わないよ」

「それは違います! きっと楓さんは、自分と過ごした思い出に、杏介さんが囚われてしまわないようにしたかったんです」

「なっ!」囚われるという言葉に反抗して、俺は思わず眉尻を上げる。「なんでお前にそんなこと……」

「わかります! あ、いや……わかるような気がするんです!」

 いつになく、菜乃花の表情は険しかった。

「あたし、杏介さんのお話を聞いて、楓さんがどんな人か想像しました。たぶん、あたしと楓さんは、どこか似てるところがあって……楓さんの考えていたことが、まるで自分の気持ちみたいに、よくわかるんです!」

 菜乃花と楓さんが似てる? いやいやどこが、と言い返そうとするが、俺にその隙を与えないまま菜乃花は続ける。

「いいですか!? 杏介さんに紅茶のいれ方やお店のことを丁寧に教えて、続けたいっていう杏介さんにお店どころか家まであげちゃって、病気で苦しはずなのに最後の最後まで笑ってて……そんなの、恭介さんのこと好きじゃなきゃできませんよ!? 大好きじゃなきゃ、できませんよっ!」

 語気に押されて俺は一歩、足を下げる。

「誰だって普通は、いなくなったあとも自分のこと、覚えていてほしいんです。気にしていてほしいんです。なのに……自分のいなくなったあとのことまで、杏介さんのためばっかりで……」

 けれど俺があとずさるよりも速く、身体が密着するほどに詰め寄ってきて、菜乃花が言った。

「だから、楓さんのためじゃなくて、杏介さんのためのお墓参りに行きましょう! 楓さんに、会いに行くんです!」

 胸の前で両の拳を握り込む菜乃花。その顔がずいっと俺の顎の下まで迫り、数秒、ただ見つめ合っての沈黙。

 しかしやがて、接近し過ぎていたことに気づいたのか、菜乃花は恥ずかしそうにいそいそと離れてから、ついでに小さく付け加えた。

「そ、それに……もし杏介さんが楓さんとの過去を理由に周りと壁を作っているなら、あたしとしては、それもどうにかしておかないといけません。他ならぬあたしの恋のために」

「おい。そんな本音まで赤裸々に語らんでいい」

 たまらずツッコミを入れてしまった俺は「はぁ」と大きな溜息をついた。珍しくいいこと言うなと感心したのに、あまりにも裏表のなさすぎる菜乃花の言動に呆れて力が抜ける。

 しかしながら、そのときの俺は内心で、自分自身にも呆れていた。

 楓さんのことは、これ以上わからない。

 かつてそう結論づけた自分はいったいなんだったのだろうと思い知らされる。

 何がわからないだ。

 高校生の菜乃花でもちょっと知恵を巡らせればできてしまうことを、俺がずっと不可能だと思い込んでいたのは……なんのことはない、ただ俺が楓さんの死を認めたくなかっただけ。結局は俺が、彼女はまだこの店にいるのだと、往生際悪く思っていたかっただけなのだ。

 それでも、菜乃花の言った「楓さんに会いに行く」という言葉は、長く埃を被って固まっていた俺の天秤を、わずかに踏む出す方へと傾かせた。

 ――楓さんに会いに行く。

 自分が、ひどく短絡的だと、わかっている。けれどその響きは、わかっていながら抗うことのできない魅力と、行けば何かが変わるのかもしれないという小さな予感を思わせてやまなかった。

 それからまた数日。

 菜乃花から再三念押しをされ、悩みながらも荷造りをしていた俺は、楓さんのティーカップを持っていくために箱にしまおうとして、ふと気がついた。昔から楓さんが小物入れにしていたその箱の底にある、見慣れない便箋に気づいたのだ。

 困惑を露わにしながらも、俺は中身を丁寧に取り出し。

 そこから出てきた手紙を読んで、はっきりと心に決めた。

 楓さんに会いに行こう、と。

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