『Darjeeling Second Flash』⑥

 目が覚めるような上質な風味が喉の奥を流れ落ちる。その紅茶をいれてくれた彼が、目の前のカウンターに立って言う。

「楓さん。俺の紅茶、もうあなたのよりおいしくなったんじゃないですか」

「そうだねぇ。この店が今もこうして続いてるのが、その証拠だよね」

 私は彼を正面から見つめて答える。

 彼の瞳も、じっとこちらを見ているようで……しかしその実、この私を認識できてはいなかった。

「なんて……馬鹿だな、俺。あの人はもう、いないのに……」

 杏介は呟きながら、バルコニーのカエデに視線を移す。

 あの樹を植えた母さんは、私の生誕を祝うと同時に、きっと私の健康と長寿も願ったのだろう。けれどその願いを叶えてあげることはできなかった。

 杏介が俯いて、小さく呟く。

「人生、いつ何が起こるかわからない。それを面白いって言うのなら、自分にとって苦しいことが起こったときこそ、笑えるようじゃなきゃいけない。そう言って誰よりも明るく笑っていたあなたが、もういないなんて……どうかしてる、こんな世界」

 結局、私は死んでしまった。杏介と過ごした夜から三日後に意識を失い、そのまま戻らなかったらしい。

 それが今からちょうど三年前の十一月一日。今日は、私の命日だ。

 だからだろうか。私が魂だけになってなお、ここを訪れることができたのは。

 だって私の伝えたかったことは、きっとまだ、彼に伝わっていないのだ。

「ねぇ杏介。あんたのことだからさ。たぶん、私の部屋はまだあのときのままなんだよね。だとすると、このティーカップの箱に残した『アレ』も、まだ知らないわけだ。でも……もうそろそろ整理、してほしいかな」

 私を見てくれている杏介。けれどやはり、私のことを通り抜けて、雨に濡れるカエデの赤葉を眺める杏介。

 つられてそちらに視線を移す。ちょうどそのとき、したたる雨滴の重さに引かれて葉が一つポトリと地面に落ちた。

 風はなく、粒も大きくない細雨だが、こうも延々と降り続く秋霖であれば十分に大雨と呼べるだろう。店全体を包み込むような雨音が、常に均一に鼓膜を揺らす。

 それに紛れて、遠くから駆けてくる足音がかすかに聞こえた。

 しばらくしてその足音の主が、店の扉をバタッと開く。

「あー、よかったー! 杏介さんまだお店にいてくれて!」

 若い女の子だ。「ここ『OPEN』のままだったんで『CLOSED』にしときますねー」と慣れた所作でドアプレートをひっくり返している。

 杏介は驚いた表情を浮かべて彼女の方へと振り向いた。

「な、菜乃花、お前。どうしたんだ」

 彼女は傘をたたみ、服についた水気を落としながら店内に入ってくる。

「どうしたもこうしたもないですよー。いつも駅に向かう坂道下ってったら、すっかり水に浸かっちゃってて! ……って、あれ、私が帰ってから誰か来たんですか?」

 カウンターに並べられた立派な紅茶とケーキのメニューに、彼女が目敏く反応する。それらをしげしげ見つめると、やがて何かに気がついたように「あっ!」と大きな声を上げた。

「違う! このカップ、誰かの私物だって言って絶対お客さんには出さないやつ! ずるい! 私にも使わせてくれたことないのに! しかもチーズケーキまで! さては杏介さん、一人で一服してましたね!?」

「いや、別にそういうわけじゃ……」

「いいないいなー! 私もそのカップ使いたいー! しかもこんな時間からケーキなんて、いーけないんだー太るんだー!」

 彼女がカウンターに乗り出して杏介に詰め寄る。その勢いに気圧されつつ、杏介はどうにか逸れた話題を元に戻す。

「待て待て。ってか、なんでお前戻ってきたんだ。いつもの道が駄目なら他の道を使えばよかっただろ」

「他の道も沈んでました! しかも調べたら、この大雨で電車も止まっちゃってるんですよ。ほら!」

 まるで紋所のように出てきたスマホ見せられて、杏介はおもわず「うっ」と唸る。その画面には、数時間前から発令された大雨警報と、不要不急の外出を控える旨のニュースが表示されていた。

 彼女がでんっと胸を張る。

「だから帰るの諦めました! まあ明日学校休みだし、どうせバイトに来るんだから、今夜は泊めてもらおうかなって」

「泊っ……はぁ!? うちにか?」

「いいじゃないですかー。それとも、電車もないのにこの雨の中、バイト帰していいんですかー。歩いたら結構遠いのに、暗いしどこが冠水してるかもわかんないんですよー。何かあったら責任問題になりますよー」

 ぶーぶーとわかりやすく甘えて杏介を困らせる彼女の姿は、まるで生前の自分を見ているようで自然と笑えた。

 ややあって、予想通り杏介が観念の溜息をつく。

「はぁ……まあ、仕方ないか。幸い空き部屋は結構あるし、一晩だけなら、いいだろう」

「ありがとうございまーす! でも、部屋は二人一緒でいいですよー」

「んなわけにいくかっ!」

 そのやりとりがなんだか熟練のコンビみたいで、見ていてとても気持ちがいい。今更だが、彼女はこの店のバイトのようだ。

「なんだ。こんなに可愛い子がバイトに来てくれるようになったんだね。ちょっとばかし妬けちゃうな」

 私は、もうこちらを見ていない杏介に向かって柔らかく笑いかける。

「でも、すっごくいい子みたいだから、気に入ってくれたならこのティーカップは、その子にあげるよ」

 そうして私は席を立った。彼女とすれ違って、ゆっくりと店の出口に向かっていく。

 今度こそ、私がこの店に来るのはもう最後だ。

 振り返らずに笑って告げる。

「じゃあ、もうそろそろ私はいくね。天国に、あんたのいれてくれた紅茶の、ティーポットを通ってさ」

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