『Darjeeling Second Flash』⑤

 チーズケーキの乗ったプレートを手に、杏介が店の奥から戻ってきた。

「お待たせしました」

 カウンター越しからそれを私の前に置き、さらに続くのは温められたカップにポット。

「チーズケーキと……それから紅茶は、ダージリンのセカンドフラッシュです。楓さんは、これが一番好きでしたよね」

「お! さすが杏介、わかってるねー」

 紅茶葉は一年のうちで何度か収穫期を迎えるが、その中で品質の最も充実する期間をクオリティーシーズンという。野菜でいうところの旬と同じだ。

 ダージリンにおいてはその期間が三つ存在し、三月から四月に収穫された春摘みをファーストフラッシュ、五月から六月にかけての夏摘みをセカンドフラッシュ、十月から十一月にかけての秋摘みをオータムナルと呼ぶ。このうちのセカンドフラッシュはまさにダージリンの中のダージリン、別名『紅茶の女王』とも称される、名実ともに最高級品だ。

 水色は艶めいた力強い輝きを放つ深い橙色。白磁に揺れるその水面を見つめながら、私はカップを口へと運ぶ。

 爽やかな青みのあるファーストフラッシュと比べて、セカンドフラッシュは円熟した果実のような甘味を持つ。これに加えて渋味、コク、香気のバランスも非常に良い。そしてなんと言っても最大の特徴は、セカンドフラッシュだけに現れるとされるマスカテルフレーバーだ。これは文字通りマスカットのような風味という意味だが、まさにフルボディの甘口ワインさながらのどっしりとした味と香りを感じさせる。

 口内から喉の奥へと伝わる味、鼻腔に残る余韻を楽しみながら、私は深く息をついた。

「んー、最高! 相変わらずいい茶葉入れてるね」

 これがもし私の教えた仕入れ法を守ってのことなら半分は自画自賛だ。だが、もう半分は確実に杏介に対しての賛辞である。

 準備の初めからずっと彼の手元を見ていたが、素早い手際のわりに慌ただしさはなく落ち着いていて、湯の温度も茶葉の抽出時間も完璧だった。母に始まり、私が継いだささやかな技術は、しっかりと彼に継承されている。それを目の当たりにすると抑えられない笑みが溢れた。

「今年のセカンドフラッシュは特に、蜜を思わせるような芳香と甘みが売りだということです。仕入れ先で試飲したんですけど、評判に相違ない品質でしたよ。しかも冷めるほどにその印象が際立っていくので、時間をかけてゆっくりと召し上がっていただきたいお茶だと感じました」

 なるほど。一般に、冷めると甘いダージリンは良質である証と言われる。この紅茶も間違いなくその一つだ。

 久しぶりに味わう杏介の紅茶が私の身体に満ちていく。まるで雫が水面に落ちて波紋となり、周りに広がっていくように。

 その満足感と、店内の暖かさに誘われた眠気で自然と両の瞼が閉じた。

 そうしていると思い出すのはいつかのあの日だ。忘れもしない。この紅茶のように満ち満ちて甘い、私が真に幸せの味を知ったあの日。


 店を一人で任せてから、杏介はそこそこうまくやっているようだった。最初のうちこそ日に四、五回電話が入るようなこともあったが、それも次第に減っていって、夏を過ぎた今となっては三日に一回あるかないかというくらいだ。そのうえ、特に火急でもない用事を見つけて私の見舞いに来る程度には余裕も出てきたらしく、なんとも甲斐甲斐しいかぎりである。

 そんな彼のめざましい成長のかたや、私の病状は悪化の一途を辿っていた。形式的に十月の終わりとされていた退院の予定日は、やはりというか当たり前に延びて、病室の窓から色づく木々を見る毎日。まあ、そもそも私の病気は基本的に改善の余地のないものだ。維持か悪化の二者択一という状態で、退院予定日などもはやあってないようなものだった。

 そうした日々の、ある昼下がり。

 窓からの微風に吹かれ廊下を歩いていた私は、ふいに、しかし鮮明に、感じてしまった。それは父が、母が、私の元にはもう帰らないだろうということを悟ってしまったあの直感と同種のものだ。

 いよいよ私にも、終わりがくる。

 そして今になってようやくわかる。きっと私は、誰かがいなくなるということに人一倍敏感だったのだろう。その危惧と恐怖こそ私の直感の根拠だった。まったく嫌な直感だ。

 契約先の民間団体から弁護士を呼んだ。多少無理を言って、その日のうちに。

 遺言、相続、身辺整理……早逝を受け入れたというほどの達観はないが、同時に最低限の後片付けは先逝く者の責務であるとも考えていた。この世は何も、病人だけが儚いわけでは決してない。誰もが唐突に消えてしまうかもしれない毎日を生きる中で、最期の準備ができること自体はむしろ幸福と言えるだろう。

 そしてその準備の中で私は、ただ一回だけ、やんちゃをした。

 木曜の定期検査を終えたあとの午前中は、外来診療があるため入院病棟から人が減る。その隙に病室を抜け出して、近くでタクシーを捕まえてこっそり自宅へ。着いたら店を素通りし、向かった先は久々の自室だ。

 その部屋の隅に、私が子供の頃から宝物入れにしていた箱がある。母が家出の際に唯一持ち出したと言っていた、白磁に銀の花柄があしらわれたヴィンテージカップの収納箱だ。空箱とはいえ美しいカップと同じ装飾の入ったそれは、幼かった私の目にはまるでおとぎ話の中に出てくる美術品のように見えたことを覚えている。ちなみに本体は今も店のほうで現役活躍中である。

 お気に入りだった文房具やおもちゃ、中学校の卒業式の写真に、初めて買ったちょっと高価なアクセサリー。そういう物をいったん箱から取り出して、一番下に今の私の気持ちを置いた。

 本当は拒絶しなければいけなかった、ただのバイトとして接しなければいけなかった杏介……でもどうしようもなく近づけすぎてしまった、彼への気持ちを。

 これは、素直に渡すのではなく、ここに隠すから意味がある。だからこれだけは誰かに頼むことはせず、自分の手で残したかった。

 そうして私は何食わぬ顔で店へと出向いた。

 ちょうどお客さんが途切れた時間帯のようで、店内にいたのは杏介一人だけだった。

 突如現れた私を見て彼は一瞬面食らったが、すぐに聡い顔になって私の無断外出を言い当てる。出会った頃と比べてだんだん勘がよくなってきているのが、面白くもあり、やりにくいところだ。

 私はバレバレの甘えた演技でそれをやり過ごしてから、食器を洗う彼の前に座って言った。

「あのさ。急で悪いんだけど、明日の夕方、見舞いに来てほしいんだよね。店は早めに閉めてもらってさ」

 え、と杏介の手が止まる。自分でも珍しいことを言っている自覚はあった。

 だから彼に気取られる前に、さっさと用件だけ伝えて席を立つ。

「店長代理に出張依頼だよ。今年仕入れたダージリンの夏摘みを、明日、私の部屋でいれて。他の持ち物は全部あんたに任せるから、試験だと思って緊張して来なね」

 そして「じゃーねー」と残してひらひら手を振り、笑顔で店の扉を開けた。

 これが自分にとって、店の敷居を跨ぐ最後の機会になるのだと、私はもう知っている。


 翌日の午後六時半。

 杏介は少し大きめの荷物とともに病室に現れた。伝えた通りに緊張丸出しの顔だったので、私は彼の肩をバンバン叩いて笑ってやった。

 食べ終えた食事を引き上げてもらうのと入れ替わりで彼を部屋に招き入れる。落ち着くなりすぐに荷物を広げようとしたが、私はいったんそれを止めた。腑に落ちない様子の彼をそのままベッドの脇に座らせ、なんでもない雑談を聞かせ始めた。

 どうにも味の薄い病院食のこと。窓から見える景色がいよいよ秋色に染まってきたこと。ロビーで顔を合わせる同じ入院仲間のこと。

 そして彼にも店や大学の近況を尋ねれば答えてくれる。しかしそんなのが一時間ほど続くと、さすがに怪訝そうな表情を向けられた。

「あの……楓さん。俺、言われた通りに紅茶いれる道具持ってきたんですよ。でも早く準備しないと、もう面会時間が……」

「あー、まあまあ、まあまあ」

 私は笑ってごまかしながら、部屋の壁掛け時計に目を向ける。

 時刻は午後八時を過ぎて三分。

 この病院の面会時間は八時までだ。杏介もそれを知っているから少し慌てているのだろう。

 口先巧みに話を伸ばして彼を引き留め、横目で部屋の入口をうかがう。いつもだいたいこの時間に、見回りの看護師さんがやってくるのだ。

 そして予想通り扉の前に人影が見えると、同時に私は、狙いすましたように杏介をベッドの中へと引き込んだ。掛け布団で彼の全身を覆い隠して両手で抱える。引き込んだ瞬間は驚いて声を上げた彼も、扉が開いたガラリという音と看護師さんの声を聞いて、ひとまず大人しくなってくれた。

「鶴里さん、こんばんわ。お変わりないですか」

「ええ、はい。特には」と私はいつも通りに笑って答える。

 看護師さんは部屋の中の備品を確かめ、私にいくつか体調面の質問をすると、壁の点検表と手元の用紙にそれぞれチェックを入れていく。それから最後に

「じゃあ、何かあったらナースコールしてくださいね」

 と残すと、軽い会釈をして部屋を去った。

 足音が遠ざかっていき、確かめるような数秒の沈黙を経て杏介が布団から首を出す。

「ちょっと何してるんですか!」

「や、だってこうしないと、あんた帰ることになっちゃうからさ」

「だからさっきから面会時間やばいですって言ってたのに」

「いーじゃん。今日は夜まで付き合ってよ」

 すると杏介は途端に顔を赤くして、恥ずかしげにベッドから立った。

「夜って……でも、これ以上は怒られますよ。夜中は警備もいるだろうから帰れなくなりますし」

「別に夜中に帰る必要はないでしょ。明日の朝になってから普通に帰ったらいいじゃん。早起きすれば店の時間にだって間に合うわけだし」

「まあそうですけど、明日の朝って……えっ! 明日の朝!?」一回飲み込みかけたのに時間差で再び慌て始める杏介。「ちょっ、駄目ですよだってそんな、この部屋には楓さんいるのに」

 私はだんだん面倒臭くなってきて、彼の肩を一回パコンと強めにはたく。

「もー、うっさいなぁ。好きな相手が初夜に誘ってんだから、男がうだうだ言うなってー」

「しょっ……え、はぁ!?」

 とか言いながら、ここは病室だから実際には何もできないけど。

 そんなこと冷静になれば彼だってわかるはずなのに、こんなにも動揺してくれるのが、なんだかちょっと嬉しかった。

「なーんかさ、さっきは修学旅行の夜みたいだったよねぇ」

 シシッと悪戯っぽく笑う私を見て、杏介はますます顔を赤くする。

 そうしてしばらくの間、何やら小言で呟いていたが、やがては十分な個室の広さと備え付けのソファなんかを見て納得したのか、ぎこちない動作でいそいそと荷物を取り出し始めた。

 出てきたのは私が気に入っている銀の装飾のカップとソーサー、杏介が自分で使うのであろう黒色のカップ、その他必要となる茶器類。持参した道具の量から、彼の意気込みは十分すぎるほどに伝わる。荷の下の方にはやかんや携帯コンロまで見えたが、さすがにそれは個室の電気コンロで代用すればと提案した。

 そしてなかなかに粋だと思わされたのは、ポットの保温に使うティーウォーマーだ。これはガラス製の台の中に平たい小さなキャンドルを置くことができるもので、ポットを下から熱して保温する。私の記憶にはないものだから、彼が購入して店に置いたのだろう。揺れる炎が幻想的で、見た目にも楽しいティーグッズだった。

 私は誘われるようにして部屋の照明を落としていく。薄暗くなった室内でオレンジ色に瞬く炎はいっそう映えた。

「ふふっ。ますます修学旅行チックかな」

「そんなこと言ってると、また見回りにきた看護師さんにバレるんじゃないですか?」

「大丈夫大丈夫。私の部屋の見回りは、いつもさっきので最後だから」

「先生の行動パターンを把握している不良生徒みたいですね」

 杏介は呆れて肩を竦めながら、いつの間にか手元に持っていたタイマーをカチッと止めた。

「お待たせしました。ご所望のダージリン、セカンドフラッシュでございます」

 自然にか、意識的にかはわからないが、ここだけ口調がお店モードだ。慣れた手つきで茶器類を取り回すその姿は、いつの間にかずいぶん様になっているように感じる。

 私は丁寧に差し出されたカップを受け取り、ゆっくりと口に紅茶を含んだ。そうして、固唾を飲んでこちらを見つめる杏介に向かって、安心を与えるように「おいしいよ」と微笑む。

 ほっと息をついた彼はそれでようやく緊張が解けたらしい。椅子に深く腰を下ろした。

 互いに一杯目を飲み終えてから、私は戯れにポットの蓋を持ち上げる。その中身を見て、ふと思ったことを口にした。

「そういえば、ポットから茶葉を出すようにしたんだね」

 一つのポットで紅茶をいれると、当然、その中には茶葉が残る。思い返せば杏介は作業の中で、茶葉を入れた一つ目のポットから、保温しておく用の二つ目のポットに紅茶を移し替えていた。

 特に言及したことはないが、私が教えたときにはポット一つでやって見せた記憶があった。

「あ、はい。最初は茶葉を入れたままにしていたんですけど、前にお客さんが『時間経ったら紅茶が渋くなっちゃった』って、残して帰ってしまうことがあって」

「あー、なるほどね。そういうときは、差し湯をしてあげるといいよ」

「差し湯……ですか?」

 そこで杏介は何やら不思議そうな顔をする。

「あれ、知らない? 全部飲みきる前に渋くなったら、お湯を足してやればいいんだよ。ミルクティーにしてもいいけどね。日本じゃコーヒーのおかわりより頼める店は少ないけど、差し湯はマナー的にも全然アリだよ」

 まさか差し湯を教えたことがなかったなんて、半ば無理やり師匠を名乗っておきながら、これは私の失態だ。

「まあ別に、茶葉を抜いてサーブするのが悪いわけじゃないけどね。そういうお店だって普通にあるし」

「そう、なんですか」

「うん。お店側がベストと決めた抽出条件でいれた紅茶は、たぶんそれなりにおいしいだろうから。でもね、紅茶にはもっと、いろんな表情があるんだよ」

「表情……」

 変わらず曖昧な返答をする彼を前に、私はだんだん楽しくなりながら先を続ける。

「例えばだけどさ。あんたさっき、タイマーで抽出時間、測ってたよね。何分だった?」

「えっと、三分です」

「ま、妥当なところかな。でもこの茶葉なら、九十度くらいの低温の湯で長めに五、六分抽出する感じだと、渋みが抑えられて、より甘みが引き立ってくると思うよ。そのほうが余韻は強く残るかもしれない」

「だけど仕入れ先の人は、沸騰した湯で三分くらいがいいって……」

「くらいでしょ。く、ら、い。別にそれ、絶対順守の決まり事ってわけじゃないし」

「えっ」

「あはは、何驚いた顔してんのー。あんた、やっぱり几帳面だねぇ」

 私は面食らっている杏介を見てクスクス笑う。

「あんね。紅茶をおいしくいれる方法って、歴史的に重ねられてきた研鑽である程度は確立されているものだけど、それが唯一の正解じゃないよ。お茶の文化はあくまで娯楽。だから、好きなように飲めばいいの。こうしなきゃダメとか、ああしなきゃいけないとか、そんなのはない」

「そ、そうなんですか?」

「そりゃそうだよ。同じ茶葉でも飲む人によって好みがあるのは当然だもの。十人いたら、十通りの飲み方があっていい。ほら、あんたにだってあるでしょ? むしゃくしゃしてキツい芋ロックで一気に飲み干したい時とか、水で薄く割ってまったりちびちび行きたい時とか!」

「い、芋って、焼酎ですか?」思わずずいっと寄った私の顔にたじろいだのか、杏介は少し視線を逸らして身体を引く。「いや俺、酒はあんまり詳しくないんで……」

「はぁー? 何それ。大学生って週三くらいで飲み会とかしてんじゃないの? 酒飲まない大学生なんて存在してんの?」

「楓さん、ちょっと大学生に偏見持ちすぎでは……」

 そんなこと言われても私の憧れた大学生ってのは、なんていうかそういう、華やかで毎日がお祭りって感じの印象だった。

 でも確かに、杏介はあまりお祭り生活って感じのガラじゃなさそう、と今更ながらに私は思う。それどころか、最近の彼は非常に多くの時間を店の営業に当ててくれているはずだ。

 私はベッドの上で居住まいを正し、揺れるキャンドルの炎に視線を移して問いかける。

「じゃあ、真面目な大学生の杏介にはこういう話のが好みかな。イギリスにはね、こんなことわざがあるんだよ。『The path to heaven passes through a teapot.』さあ、訳せる?」

「えと……天国への道はティーポットを通ってゆく……ですか?」

「お、正解。さすがやっぱし大学生」

「いやだから、大学生は関係ないですってば」

 彼は呆れたそぶりを見せながらも、私の軽口に乗って楽しげに笑みをこぼす。

「で、訳はいいけど、どういう意味なんです?」

「さぁー? 意味は私も、よくわかんない。何せ古いことわざらしくてさ」

「なんですかそれ……クイズにしては、ちょっと雑すぎやしませんか」

「ごめんごめん。まあでも、紅茶に囲まれて天国にいきたいとか、そんな感じの意味なんじゃない? ほら、イギリス人は紅茶好きが多いからね。人間みんな、死ぬときは好きなものに囲まれて死にたいでしょ」

 途端、杏介の表情にわずかな影が差すのがわかった。

 私の口から出る死という言葉は、やはりどうしても彼の注意を奪ってしまう。私はそれをわかったうえで、こんなことを言っている。

「だから、私もさ……あんたのいれた紅茶のティーポットを通って、天国にいきたいな」

 ま、死んだあとの私のいき先が天国とは限らないけど、なんて続けた冗談に、答えが返るわけもなく。

 目を向けると、薄明かりに照らされた彼の表情は少し険しくなっていた。しばらく沈黙を経て、重く咎めるような口調で尋ねてくる。

「……どうして、そんなことを言うんですか」

 彼の反応は、概ね想像通りだった。

 もう彼も、わかってしまったことだろう。今日私が、彼をここへ呼びつけたのは、こういう話をするためだ。戯れに夜を明かすためでは、断じてない。

 それでも私は、杏介と対照的にあえて声の調子を明るく保った。残された彼との貴重な時間は、少しでも暗く沈んだ雰囲気になってほしくないと思ったから。

「ねぇ杏介。もし私が死んだら、あんた、あの店続けんの? 前は、春からなら毎日とか言ってたけど……就職しないの? それか進学とかさ」

 彼の目が、そんな話はしたくないと言っている。けれど反面、答えははっきりと返ってくる。

「続けますよ」

 向けられた彼の表情は、何を言っても聞かない意固地な少年のそれを思わせた。

 私は短く息をつく。

「そ。じゃああの店と家は、ゆくゆくはあんたのものになるようにしといてあげる。まあ他に貰い手もいないし、そのときになってやっぱりあんたの気が変わったら、手放せばいいよ」

「変わりません」

「……そっか」

「はい」

「でもあんた、このままあの店続けちゃったらさ……私のこと、忘れらんなくなっちゃうんじゃない?」

「忘れないために続けるんです。何も問題ないじゃないですか」

「ダメだよそんなの。店を譲るのはいいけど、私のことは忘れなきゃ」

「どうしてですか。楓さんは、忘れてほしいんですか」

「ま、そうだね。いい女ってのは、ドライだから」

「でも俺は……楓さんが好きです」

「はは、そっか」

「好きなんです」

「うん」

「本当に、好きで……」

「うん」

「愛して、いるんです」

「愛って、そんな」

 そんな、子供が覚えたての言葉を意味もわからず使うみたいな、ただ青さという勢いに任せただけの……。

 けれど、あるいは……だからこそ彼の「愛している」は、とても純粋なのかもしれない。

 私は彼の頬に、包み込むように右手を添える。

「あんたにはそんな台詞、まだ早いよ。あんたはまだこれからも生きていくんだし、若いんだし、いい男なんだもん。私をいつまでも覚えているせいでいい出会いがなくなっちゃうんじゃあ、もったいないでしょう? だから、ここらで年上のお姉さんへの憧れは、お終いにしときなよ。んで、ちゃんといい人見つけて、その人に、私にしてくれたみたいに、優しくしてあげてほしい」

 杏介の顔がくしゃっと歪む。

 おっと泣きそう。これ以上はやめておいたほうがいいかな、と思ったところで、しかし既に遅かった。

 彼の瞳が薄く膜を張って潤み、溢れた涙が私の手まで落ちて伝う。その肌を灼く、まるで炎のように熱い一筋。

 そして次の瞬間には、彼の両腕が伸びてきていた。

「わぁ、ちょっともう。お子様が色気づいちゃってー」

 強く、首の後ろまで回された腕は、ほんのかすかに震えていた。頬と頬が擦り合うほどに近くなった彼から、必死に声を抑えたすすり泣きが聞こえる。

 それで私も、たまらず喉の奥がツンと締まった。身嗜みもそこそこのパジャマ姿に抱きつかれた恥ずかしさより、愛しさのほうが何倍も勝った。

 ぎゅっと、抱き返す腕に力がこもる。

「ねえ、杏介。泣いちゃダメだよ。ほら笑って。成功するカフェ店員の心得第三条は『いつも笑顔を忘れない!』だよ」

「なんですかそれ……初耳、なんですけど」

「まあ今咄嗟に作ったからね」

「いや、そもそも一条も二条も飛ばしてなんで三条」

「三条があると一条も二条もありそうで威厳が出るじゃん?」

「そんな、理由で……」

 いつもの杏介なら呆れ混じりの突っ込みなんてお手のものだが、おそらく今は、うまく声が出せないのだろう。涙声の短い相槌しか返ってこない。

「あのね、杏介」私は振り向き、視界いっぱいに広がる彼の顔をじっと見つめた。「人生は、いつ何が起こるかわからない。だから面白いんだって、みんなよく言うよね」

「……はい」

「でもね。もしそう言うんなら、自分にとって苦しいことが起こったときこそ、面白くなってきたって笑えるようじゃなきゃいけないんだと、私は思うよ。泣きたいとき、怒りたいとき、叫び出したいとき……それでも笑って『さあ面白くなってきたぞ!』ってね」

 抱き留める彼を諭すように囁きながら、同時に私は、ハッとしていた。自分で口にした言葉に驚いている自分自身を、この胸の中に見つけていたのだ。

 思えば私は、いつも死ぬ準備をして生きていた。あまり多くのものを持たないように生きてきていた。

 死へと臨む準備をし、生活に最低限必要なものだけを得て、そのうえで精一杯最後まで生きようと考えていた私。そしてその最後を、否応なくこの身で感じてしまっている私。

 でも、それでもきっと、私はまだもう少しだけ、生きたいのだ。

 杏介が一人前になったかどうかを確かめられるまで。春になって、彼が一人であの店を切り盛りできるのかどうか、あるいは店を出てちゃんとやっていけるのかどうか。それを確かめられるまで。

 最後の、もう少しだけ、先まで。

 ああ、私は……ずっとそう思わないためだけに、いろんなものを諦めてきたのに……それでも見限れずに拾ってしまった決して多くはないはずの幸せが、今、この手の中できらきらと眩く輝いているのだと、私は知った。

 お願い神様。せめて一日、いや一時間……一秒でも長く生きたい。彼のために。

 私は、私を追いかけてくる死の足音から懸命に逃れようと耳を塞いで、自分に言い聞かせるように笑って囁く。

「大丈夫だよ、杏介。きっと大丈夫。だからほら、今日はもう、眠りなよ」

 諦めたら笑える。受け入れたら笑える。

 でも、この瞬間の笑顔だけは、そうじゃない。心から嬉しくて溢れた笑みだとはっきり言える。

 いつからか、部屋を照らすキャンドルの炎は消えていた。

 闇の中で視界があまり利かなくなると、嗅覚のほうがより敏感になってくる。

 ポットに残るダージリンは既に冷めてしまっただろうが、その強く芳醇な香りは今も鮮明に感じられた。私の一番好きな香りだ。

 甘く、暖かく、身体が満たされていく感覚。そんな幸福に包まれて、やがては私も、杏介と一緒に深い眠りに落ちていった。

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