『Darjeeling Second Flash』④

 いつしか強くなり出していた雨足が遠い喧騒のように耳に届く。前線が近づいているのかもしれない。

 目の前の杏介が取り回す食器類の擦れる高音。それに混じって私はぽつりと、数年越しの懺悔を吐いた。

「中途半端にしか突き放せなかった私の方がさ……よっぽど大馬鹿だったんだよね」

 なんであのときの私には、それができなかったのだろう。嬉しかったからかな。寂しかったからかな。正直今でも、あまりうまくは説明できない。

 杏介は何も答えなかった。難しそうな表情をして黙し、けれどもやがて、何かを思い出したように顔を上げる。

「そうだ、楓さん。チーズケーキとか食べます? 最近、時間があるときには午後にもう一度作るようにしたんですよ」

 気遣いのうまい彼の、しかし無邪気な、優しい提案。

「へぇ、あんたのチーズケーキか。懐かしいね。ああでも、こんな時間に食べたら太っちゃうかなぁ」

「病人やってた頃からすれば、ちょっとくらい体重が増えても別に問題ないでしょう」

 おっと、言うねぇ。

「んー……じゃあ、ここは一つ、久々にお手並み拝見といこうかな」


 おいしい紅茶のいれ方を始め、菓子類の作り方、店の事務や会計、そして商品の仕入れと卸しに至るまで、それを杏介に教えたのは全部私だ。

 一方で、病気のことについてはのらりくらりとごまかし、かわし、隠し続けることができていた。まあ、身近で笑っているこの人やあの人がもしや大病を患っているのかも、なんて考えることは普通はない。その点、私の空元気は相当なもので、杏介どころか自分さえもここまで欺いてきたのだから年季が違う。

 けれどある朝、私はついに失敗した。

 店の前で咳き込んで、心配して駆け寄ってきた杏介にいつも通り「大丈夫大丈夫」と笑うつもりが、かわりに思いきり血を吐いた。「しまった」という呟きが脳裏をよぎるのと同時に、胸と背中に走った激痛から早々に意識を失った。

 杏介は慌てて救急車を呼び、私は病院に搬送されたそうだ。患っている病種のためかその日に入院という運びとなり、大きめの個室が用意された。

 こういうとき、患者が独り身だと病院とのやり取りも一癖ある。身元保証人、入院費用、病状の説明、などなど面倒の目白押しだ。

 私の場合は生前契約を結んだ民間団体に保証人と最低限の支援を依頼する。お金のことは保険金があるからどうとでもなるだろうが、病状については親族がいなければ自分で直接聞くしかない。医者だって黙っているわけにもいかないのだ。

 意識を取り戻した私は、ベッドの上ではっきり言われた。

 もう長くないのだと。

 わかっていたことだった。来るべきときが来たというだけのことだった。

 だから別に、構わない。

 私には悲しむ家族はもういないし、死に臨む準備もそこそこしてきたつもりでいる。

 ただ、そこまで考えて、ふと思った。ああでも、あいつは泣くかもしれないな、と。

 そしてちょうど、その思考が呼び寄せたかのように彼が病室の扉を開いた。

「お、杏介」

 私はひらりと片手を上げる。軽い調子でその名を呼ぶと、彼は黙ったままベッド脇の椅子に腰を下ろした。

「どしたの、怖い顔して」

「怒っています」

 淡々と答えた彼は前傾姿勢で床を見つめる。

 その気持ちが、わからないというわけじゃない。おそらくは彼も、医者から私の病状を聞いたのだろうし。

「いや、まあ、ごめんって。ね? でもさ、そう簡単には言えないじゃん? バイトのあんたに、私もうすぐ死ぬかもー、なんて」

「違います。俺は、ずっと楓さんの病気に気づけなかった自分が、情けなくて……」

 あ、なるほど。さしずめ怒っているのは私にではなく気づけなかった自分にか。でも私は、そんなこと言ってもらえるような女じゃないよ。

「気づけなかったのは当たり前だよ。だって隠してたんだから」

「けど楓さんは、前々から体調よくなさそうだったし……俺がちゃんと見て考えてたら、わかったことかも、しれないじゃないですか」

「いやいや、仮にあんたが私の病気に感づいたとして、でもそれをどうやって確認すんのよ。私はね、直接聞かれたって絶対に本当のことは言わなかったよ。だからあんたが、勝手にお門違いな責任とか感じちゃ嫌」

 少し突っぱねるようにそう言うと、杏介はしゅんと肩を落とす。小さくなったその肩がまるで子犬のように寂しそうで、私は思わず手を置いてしまう。

「あのね。私はむしろ、あんたがそばにいてくれてよかったって思ってるの。あんたには感謝してるくらいなんだよ」

 同時に声音は優しくなった。

 彼はいくらか安心した表情を見せる。

「それは、今日は土曜で……大学、休みだから……」

「休みだからって開店前の仕込みから手伝いに来てくれるなんて、ほんとあんたは真面目だよね」

 すると、彼は思い出したようにポケットから取り出したものをベッドの上のテーブルに置いた。それは私の店の鍵だ。

 杏介は恐る恐るといった様子で尋ねた。

「あの、楓さん。店のほうは、今日は閉めてきましたけど、明日からは……」

「あー、店か。でも私、しばらく入院するからね。そうするとやっぱ、続けるのは難しいかなぁ」

 私はわざとらしいくらいあっけらかんとした笑顔で言った。

 心苦しいけれどこれも仕方のないことだ。仕方がないのなら笑うしかない。諦めて笑う。受け入れて笑う。嘆きや涙に、不幸を変える力はないから。

 けれどそのときだ。思いがけず彼が身を乗り出してくる。

「じゃあ俺がっ……俺がやります!」

「え?」

「ほら、だって、カフェって一度長期で休むと、お客さん離れちゃうかもしれないじゃないですか。俺、今年大学四年で、もう卒業単位ほとんど取ってありますから。土日と火曜と木曜、あと金曜の午後なら、店やれます。それにもうすぐ夏休みだし、卒業したら、それこそ毎日。だから、楓さんが戻ってくるまで、なんとか俺一人でも」

 おお。まさかそうくるとは予想外だ。普段は寡黙な杏介が喋る喋る。不謹慎だけど、これだけ必死になってくれるとちょっと可愛い、なんて感じるほどに。

 でも、発言内容のほうはいささか無鉄砲と言わざるをえない。大学の単位の話は詳しくないから信じるしかないとしても、完全に一人で店を回すとなったら知識はともかく経験面で不安が残る。それに何より引っかかるのは、彼の口から当たり前のように出てきた『楓さんが戻ってくるまで』。

 私にその可能性がないかもしれないことくらい、彼にも容易に想像ができるはずだ。もし、その上で言っているのだとしたら。

「ねぇ……あんたさ。自分で言ってることの意味、わかってる?」

 笑みを隠した私の追求に、しかし杏介は怯まなかった。真っ直ぐに、私の瞳を見つめ返して。

「わかってますよ。ちゃんとわかっているつもりです」

「本当かな。いや、本当だったらそのほうが重症なんだけど」

 私が店に戻れないとして、それでもあの店で私を待つということは、私とこうして、最後まで一緒にいるということだ。この先、とても前向きな道を歩めるとは思えない病床の私と一緒にいるということだ。

 そんなのおかしい。どうかしているとしか思えない。

「あのさ。こっちからこんなこと言うのは、ずるいのかもしれないけど」私は声のトーンを一つ落とす。「私は過去にあんたの気持ちを聞いたよね。でも、その時と今とでは、もう状況が違うでしょ。あんたは私の病気を知った。離れるなら、今が一番いい時だよ。これ以上一緒にいたら、あんた、絶対苦しむよ。戻れなくなるよ。やめたほうがいいよ」

「どうしてですか。店が少しでも長く続くのは、悪いことじゃないですよね」

「それはそうだけど……や、違くて。私はあんたのこと思ってさ」

「俺のことを思うならやらせてください。だって俺は、楓さんのことがす――」

「わっ! ちょっとちょっと」瞬間、私は反射的に背中の枕を彼に押し付けた。「急に何言い出すの」

 口を塞がれた杏介は枕を咥えてんぐんぐやっている。

 遮った言葉の先は、言われなくても当然わかった。

 でも今、そんな不意打ち耳にしたら、私はきっとダメになっちゃう。お腹の底から湧き上がる温かい何かに飲み込まれて、彼の身体をこの胸に抱き寄せてしまうだろう。

 そうなったらもう、おしまいだ。私たち二人はどこまでも果てなくずるずる落ちる。

 私は甘やかで破滅的な誘惑から逃れようと目を背け、観念したとばかりに右の手のひらで顔を覆った。

「はぁ……弱ってる隙に年上の女を口説こうなんて、あんたも結構、生意気だね」

「そ、そんなつもりは……」

 これ見よがしに溜息をつくと、彼は口をそっぽに向けて、小さくごにょごにょ言っている。ただ私は耳がいいから「……ないこともないですけど」というのちの呟きもちゃんと聞こえてしまったのだが、まあ、それは黙っておくか。

 半ば呆れながらテーブルの鍵を指で弾いて、彼の手元へと滑らせる。

「よし。じゃあまあ、頼むわ。今日からあんたが店長代理。けど、いい? 少しでもわかんないことがあったら、勝手にやらずにいつでも私に電話で聞くこと」

「はい」

「で、続けるとなったら妥協はなしだよ。今日も、今から戻れば午後は店が開けるだろうし、しっかり通常営業すること。土曜日は稼ぎ時だからね」

「はい!」

 元気よく答えると、杏介はさっきまでしょげていた姿とは別人のように勢いよく立ち上がった。そしてぴかぴかの一年生みたいにやる気に溢れた顔を見せると「楓さんも、何か必要なものがあったらすぐ電話してくださいね」なんて気遣いまで溢れる言葉を残して帰っていった。

 まったく、なんでそんな嬉しそうな顔で飛び出していくんだろう、と私は思う。未来の彼の幸せは、あの店には絶対にないはずなのに。

 それどころか、嬉しいのはむしろ私だ。私の方が何倍も何十倍も、何百倍も嬉しいに決まってる。私がこんな病気だと知って、それでもなお、好きと言ってくれるだなんて……。

 バカだな。ほんとバカ。バカ杏介。

 そんなに真面目でどうするのよ。若いときの恋愛なんか、自分に都合悪くなったらやめればいいのに。

 私がはぐらかして答えてもいない告白の言葉に、責任なんてあるわけないのに。

 それとも責任とかじゃなくて、あんたは今も純粋に、私のことを好きでいるの? そんなふうに、思っていいの?

 そして私の想像の中の彼は、その身勝手な質問にさえ笑顔で頷いてくれるのだ。

 ああ、だから……どうしても私は、彼を遠ざけることができない。

 離れたほうがいいのに。離れるべきなのに。離れなきゃいけないのに。でも彼が望むのなら、許されるのなら……離れたくない。

 止まらない喜びと寂しさは人の理性を狂わせるのだと私は知った。

 気づいてしまった。いつの間にか私の胸にも生まれていた彼への好意に。欲望と執着と、嫉妬までも醜く孕んだ彼への好意に。

 狡猾な自分本位の感情に負けて彼の気持ちを利用する私は、ともすれば地獄に落ちるのかもしれない。そう、考えずにはいられないほど。

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