『Earl Grey』②

 暦は十二月。第一週目の日曜日。

 店では事前に告知をし、珍しく休日に休みを取った。

 朝早く菜乃花と落ち合って新幹線に乗る。世間はクリスマスシーズンだが、かなり時間が早いためか席は十分空いていた。

 購入した指定席を探して二人で座る。車両なかほどの二人掛け席に、菜乃花が窓側で俺が通路側。

 揃ってプラットフォームのキヨスクで買ったペットボトルのお茶を飲んでいると、発進と同時に菜乃花が言った。

「あの、今更ですけどあたし、ちょっと強引でしたよね。杏介さんはこんな、楓さんとの思い出に区切りをつけるようなこと、まだしたくなかったはずなのに……」

「本当に今更だな。しかも“ちょっと”じゃなくて“かなり”だけど」

「あぅ……ごめんなさい。あたし勢いで、つい」

 菜乃花は隣で身を縮めるように肩を落とす。あんなに力いっぱい墓参りの提案をして、しかも直前の昨日まで「明日は杏介さんと旅行ー」とか騒いでたくせに。

 だから俺は彼女がこれ以上気にしないよう、あえて流すように緩く答えた。

「いや、でもまあ、これもいい機会だよ。たぶんな」

 実際、本当にそう思う。

 今日の目的地は、楓さんの墓があるという霊園だ。場所は九州地方の果ての田舎。新幹線と在来線、そしてバスまで乗り継いで向かうくらいの日帰りギリギリの遠方だった。

 そこは楓さんの母の故郷。霊園の管理者によれば、楓さんの一族の墓は随分と昔からそこにあるらしく、楓さんの母も、そして楓さん自身も、死後そこに入るよう生前から取り計らっていたらしい。

 実際に足を運んでみると、山間部に切り拓かれた、周りは田畑ばかりの小さな市だった。ほとんど始発同然で出発したはずなのに、現地に着いた頃にはゆうに正午を回っていて、既に一仕事終えたような感があったのは否めない。

 そこから気を取り直しつつ、俺と菜乃花は墓石を探してその前に立った。周囲の墓よりも一段高い立派な墓で、墓誌の端には楓さんの名前が刻まれていた。

 霊園で借りた清掃道具で墓石を磨き、それから二人並んで両手を合わせる。楓さんと話したいことはたくさんあったが、しかし結局、俺は何を思い浮かべたらよいのかわからずにただただ目を瞑っているばかりだった。

 しばらくして、隣で突然、バサッという音が聞こえる。

「菜乃花、お前何してるんだ」

 俺が目を開けて見ると、そこには可愛らしい柄の入ったオレンジ色のピクニックシートが広げられていた。

「ささ、杏介さん。座ってください。今日はあたしが、この前のお返しを兼ねて出張おもてなししますよ!」

 菜乃花の言う『この前』とは、春に彼女の部活の大会に出向いたときのことだろうか。

 俺は促されるままにシートに座る。

 同時に菜乃花のリュックサックから出てきたのは、これまた可愛らしい柄の魔法瓶だ。続いて俺の見たことのないティーカップ――おそらくは菜乃花の自宅から持ってきたものが二つ並ぶ。

「にひひ! 今日のメニューはアールグレイ! それも、この時期限定のクリスマスブレンドですよー! 杏介さん、お願いした楓さんのティーカップ、ちゃんと持ってきてくれました?」

「あ、ああ」

 俺は自分のリュックを下ろして中から丁寧に箱を取り出す。楓さんの銀の装飾の入ったティーカップ。これは今回の墓参りに来る前に、菜乃花から何度も持ってくるよう念押しされた物だった。

 まあ物が物だけに墓前に供えるのは想像がついたが、まさかちゃんと紅茶まで用意してきているとは……これではまんまピクニックではないか。

「杏介さんは、まあ、当然知っていることでしょうけど」と菜乃花が妙に控えめな枕詞を置いて話し始める。

「アールグレイのクリスマスブレンドは、いわゆるクリスマスティーの一種です。クリスマスにツリーを飾り付けて盛大に祝おうとする風習はもともとドイツにあったものみたいなんですけど、十九世紀にイギリスのヴィクトリア女王がドイツ人のアルバート公と結婚したことで、その風習がイギリスでも流行したそうです。そしてイギリス人にとってパーティーには紅茶が不可欠。ということで、クリスマス用の特別な紅茶が生まれました」

「ほう」

 なかなかに詳しいじゃないか、と素直に思う。クリスマスティーの存在はもちろん俺も知っていたが、うちの店ではまだ扱ったことがないので、正直、説明できるほど知っているわけではなかった。

「クリスマスティーは、一般の紅茶に様々なスパイスを加えて作られます。そのスパイスの中でも定番なのが、シナモン、クローブ、ナツメグの三つですね。これはイエス・キリストが生まれた際、東方の三博士が送ったとされる乳香、没薬、黄金のモチーフなんだそうです。他にも、柑橘系のドライフルーツ、オレンジやレモンの皮、花なんかが入っているものもあって、通常よりもかなり見た目や香りに重点を置いた趣向になっているのがクリスマスティーの特徴です。その点、同じく柑橘系のベルガモットで着香されたアールグレイという紅茶は、これに向いているということですね。あ、ちなみにアールグレイは、イギリスのグレイさんっていう偉い人が初めて作ったから、こういう名前なんだとか」

「……なんか、後半のアールグレイについてはやたら雑じゃないか?」

 クリスマスティーの方の説明は、普段の菜乃花からすると異常なくらい詳しかったのに。

 ただまあ、アールグレイについては俺もよく知っている。

 アールグレイはアルファベットで書くとEarl Gray。Grayは人名でEarlは伯爵。つまり『アールグレイ』という紅茶の名前は、そのまま『グレイ伯爵』という意味だ。かつてのイギリス首相チャールズ・グレイ――二台目グレイ伯爵が中国発祥の正山小種(ラプサンスーチョン)という紅茶を真似て生み出したことに由来し、こう呼ばれている。また、着香元の紅茶には同じく中国茶の祁門(キームン)が使われることが多い。

 俺は少し首を傾げて、なんとなく思いついたことを口にした。

「さてはあれだな。この茶葉の出所で教えてもらったのがクリスマスティーの知識で、アールグレイの方は自分で本でも読んだのか?」

 すると菜乃花は「うっ」とわかりやすく顔を硬直させた。「バレてる……しかも完全に……」

「いやまあ、前半と後半で口調もだいぶ違ったしな」

「うー……本は、どうも難しくて、よくわかんないんですよねー。人から聞くとすぐ覚えられるんですけどねぇ」

「そうか? 本のほうが自分に合ったものを選べるから勉強しやすいだろ」

「えー」

 彼女は「理解不能」とでも言いたげにその顔を歪めていたが、ふと何かを思い出したように再び明るい声を出した。

「あ、でも、今読んでる本にも、あたしの好きな知識はありましたよ。おいしい紅茶を入れるには二人分いれることって、その本に書いてあったんです!」

「ふーん。それが好きな知識か?」

「はい! だってあたし、それ読んでるとき一人で『あー、確かに!』って口に出して言っちゃいましたもん。紅茶も料理と同じなんだなぁって思って」

「……え?」

「あれ、知りません? 料理の一番の隠し味は愛! 自分だけのためより、相手のために作る方がおいしくなるって話。それと同じなんですよ! 紅茶も、一人で飲むより二人で飲むほうが絶対においしい。相手のことを思っていれる紅茶こそ、本当においしい紅茶なんだっていうことです!」

「素敵ー!」と黄色い声でにひひと笑う菜乃花。

 俺はそんな彼女を横目に、やや呆れて返事をする。

「それはお前……単に紅茶をいれるには、適した最低分量があるってだけの話だろ。『ティースプーン一杯分の茶葉にティーカップ一杯分の湯でいれた紅茶』と『ティースプーン二杯分の茶葉にティーカップ二杯分の湯でいれた紅茶』、たとえ比率は同じでも、後者のほうが必然的にティーポットの空間を大きく使う。より対流のある多くの湯の中で茶葉が泳ぐから自然な抽出が行われ、茶葉が潰れることもなく、したがって不必要な苦味も出ない。菜乃花が今言ったのは感情論じゃなくて、ちゃんと合理的な説明ができる話だぞ」

「え、ええっ! そうなんですか!?」

「当たり前だろ。ってか、本にもちゃんとそう書いてなかったか?」

「あ、いやぁ……どうだったかなー……。そういえばこの話を読んだとき、嬉しくなって後半読んでなかったかも……」

 またもコチンと表情を硬くする菜乃花に、俺の口からは小さく「はぁ」と溜息が漏れる。

「だからうちの店だって、どのメニューもワンカップじゃなく必ずティーポットで提供してるだろ」

「く……そういうことだったのか……」

「そうだよ。勘違いで変なオカルト話持ち込むなって」

 ガクッと菜乃花がうなだれた。

 まあ夢を壊して申し訳ないところだが、教える側としてはどんなことも正しく理解してもらいたいと思うが故だ。

 しかしこいつも懲りないもので、今度は何を思いついたのだろう、突然ぐんっと首を上げてまたもや元気な声で尋ねる。

「あれ? じゃあ、本当に正しいのが杏介さんの説明の方なら、別に二人分じゃなくてもいいってことですよね? 三人分でも四人分でも」

「まあ、そういうことになるな。要は、十分な量の湯で抽出すればいいんだから」

「……そっか」

 俺が答えると、菜乃花はふっと安心したような表情になって、手元の魔法瓶を優しく包んだ。

「実は、今日いれてきた紅茶は、三人分なんですよ。けど、そういうことなら全然心配いらないなって」

 三人分……菜乃花と、俺と……楓さん、か。

 菜乃花は俺が持ってきた楓さんのティーカップを、とてもとても大切そうに箱から取り出し、二つのティーカップの隣に並べた。

 魔法瓶から、濃いめの色のアールグレイがゆっくりと注がれていく。

「楓さんとあたしは、言ってしまえば恋敵ですけど……でも、あたしは今こうして、三人でティータイムができて幸せです。二人分じゃなくて三人分ですけど、ちゃんと、おいしくなってると思います!」

 菜乃花はまず、楓さんのカップを墓前に置く。それから一つをこちらに手渡し、残った最後の一つを両手で持った。

 受け取った紅茶からスッとする爽やかな、かつ落ち着いたベルガモットのフレーバーが立ち昇る。そこに適度に重なるスパイスの香り。クリスマスティーとは洒落たものを用意するじゃないか、と俺は今更ながらに感心しながら、目を閉じてゆっくり口へと運んだ。

「ああ、まだ見習いにしちゃあいい味だな」

 俺がそう言うと、飛び跳ねんばかりの弾んだ声で菜乃花が答える。

「ですよね! 一人でびくびくしながら慣れない百貨店に行って、茶葉を買った甲斐がありました!」

「なるほど。じゃあ立派なクリスマスティーの説明も含めて、これは百貨店の店員の手柄か」

 そんな俺の意地悪に彼女は頬を膨らませ。

「ち、違いますよ! いれたのはあたしですもん! 愛を込めたのはあたしです!」

「ははっ」

 すぐムキになるのが面白くて、俺はたまらず笑ってしまった。彼女の抗議をいなしながら、喉を通り抜けていく温かい紅茶の風味に幸せを感じる。

 そうしてカップの紅茶を最後まで大事に飲みきった俺は、自然と口の端を持ち上げて、改めて素直な感想を吐露していた。

「うん。ちゃんと、おいしかったよ」

 それはもう、菜乃花の唱えた説も、案外馬鹿にはできないのかもしれない、なんて思うほど。

 俺は立ち上がる。見上げた高い青空の下に、楓さんの眠る墓石が光って見える。

 そうして身体の中でまだ熱を持っている紅茶を意識しながら、俺はポケットの中にあるものにそっと触れた。

 昨日、荷造りの際に見つけた一通の便箋――楓さんから残された、簡素な遺書には書かれていなかった俺への最後の言葉が込められている手紙。

 そこには、かつて毎日のように伝票で見ていた彼女の少し癖のある華奢な字で、こう綴られている。


『杏介へ。


 昨日ぶり? 先週ぶり? 一年ぶり? 十年ぶり?

 それとも……もっとかな?

 手頃なところでこれを読んでいてくれたらいいんだけどな。

 きっと私がいなくなってからも、あんたの心の中にはいつも私がいたんだろうね。それはとても嬉しいことで、本当に、女冥利に尽きるってもんだよ。

 でもこれを読んでるってことは、たぶん、私のティーカップを片付けようとしたってことなんだよね。

 よかった。ちゃんと整理する気になってくれて。


 あんたが初めて私のことを好きだと言ってくれたときのこと、私は今でも覚えてるよ。下手にはぐらかしちゃったのをずっと謝りたかったんだけど、言えなかったからここに書くね。

 ごめんなさい。

 それから、私もいつの間にか、知らないうちに、気づいたときには、もうとっくに杏介のことを好きになってた。それも言えなかったから、ちょっと恥ずかしいけど、ここに書いちゃおうかな。

 杏介、大好きだよ!


 じゃあ、あんまり長々書くのも性分じゃないから、このへんで切り上げるね。

 あんたに送る最後の言葉を、実はずっと考えてたんだけど……ごめんねと好きだよってのは、もう書いちゃったし。

 ありがとう、とか

 がんばれ、とか

 幸せだったよ、とか

 さよなら、とか

 けど、どれもあんまりしっくりこなくて。

 結局私は、あんたの友達でも家族でも恋人でもなくて、師匠でいたいから、師としての言葉を送ることにする。

 あんたに課した出張試験の合否を、たぶん私は、言ってないんじゃないかな。それをここで伝えるね。


 あんたの紅茶はおいしかった。免許皆伝。

 ただし、この手紙を読み終えた今、その瞬間から!


 いい? あんたはようやく一人前だよ。

 さあ。私を忘れて、越えていきなさい。


       あなたの紅茶の師匠より』


「はは……この瞬間から一人前、か。」

 これじゃあ、偉そうに菜乃花を見習い呼ばわりするのも気が引けるな。いやはや俺の師匠は厳しい。

 ただ、忘れてと言われても、俺はきっと楓さんを忘れることはないだろう。

 それでも、これまで胸の隅で微かな痛みとなって残っていた彼女との記憶は、今日を境に、優しい思い出に変わる気がした。

 そのときふと、まるで俺の頭を撫でるような柔らかい風が吹き抜ける。

 視界の端に、靡く茶色が映っていた。

「髪、伸びたな」

「え? ああ」俺の声に菜乃花が振り向く。「そうですね。あたしが店でバイトするようになって、もう結構経ちますもんね」

 シートや荷物を片付け終えて隣に立つ彼女の髪は、今は肩下五センチといったところだろうか。初めて会ったときはショートボブくらいだったから、印象も随分と変わっている。

「もうちょっと伸びたら、楓さんみたいなポニーテールもできますよ?」

 両手で後ろ髪を握ってポニーテールのポーズをする彼女。

 それを見て俺は初めて思った。髪を結い上げた菜乃花の雰囲気が、なんとなく楓さんに似ているかもしれないと。

 いや……錯覚だろうか。まあどちらでもいい。

 俺は答える。穏やかに。

「いいよ。そんなことしなくて」

「えー」

 そして俺たちは改めて墓石を見つめ、その場をあとにした。

「で、だ。お前、明日からバイト休め」

「えー!」

 霊園の出口に向かいながら、可愛くふてくされていた菜乃花が、今度は真剣に大声を上げて俺の両肩をわしっと掴む。

 俺はゆさゆさ揺らされながら歩いて言う。

「あのな。そもそも受験生が平日も休日も毎日バイトに来るもんじゃないんだ。お前のバイトは学校にも話通してるんだぞ」

「うぐっ」

「バイトにかまけて勉強できてません、じゃ困る。それに俺だって、お前にはちゃんと大学に受かってほしいと思ってるんだ」

「ぐぬ……真面目に正論でこられると言い返せない……。でもでも、バイトはあたしの気分転換なんですよ! 定期的に杏介さん成分を摂取しないと、あたし何も手につかなくなっちゃいます!」

「なんだよそりゃ……だいたい気分転換にしても毎日は多すぎるぞ」

「じゃあ週に三回、いや二回でいいんで!」

「百歩譲って週一な。んで平日」

「くー……」

 苦渋の決断とでも言いたげな表情をした菜乃花だったが、やがて「わかりました! じゃあ金曜日ですね!」と若干投げやりな納得を示した。一応は平日のうちで一番客足の多い金曜を口にしたのは、わかっていてのことなのだろうか。

 まだ日の入りも先の時間だが、そろそろ帰らなければ今日中に帰宅できなくなる。

 俺と菜乃花は、来た時よりも足早に、そして賑やかに帰路についた。

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