04●「かわいそうだけど……」の底知れぬ恐怖、ディストピアな結末。

04●「かわいそうだけど……」の底知れぬ恐怖、ディストピアな結末。



 私もコミック二巻目まで読んで、最初はそう感じました。

「鬼はもともと人間だ。だから、かわいそうな存在だ、けれど仕方がない。死ぬ以外に救いの道はないからね」


 しかし考えてみると、ゾッとします。

 これは本当に恐ろしい、非人間的な価値判断なのだと。


 作品を読んだり見たりすることで、読者や観客が受け止める価値判断が、ここでストップし、先へ進まずに止まっているとしたら……

 そのこと自体が、背筋の凍るようなホラーを超えた、リアルな恐怖ではないかと。


 なんとなれば、一般に、なぜ、ブームという現象が発生するのか……なのです。

 ある作品が一部の知識人やマニアの支持だけではなく、全国的かつ大衆的なブームになる、すなわち万人の人気にんきを得るということは……

 世の多くの人々が、少なくとも作品の主人公の行動や価値観に共鳴し、“それでいいんだ、がんばれ!”と心の中で共感のエールを贈っている、ということですね。

 主人公の正義を圧倒的に賛美し肯定するからこそ、読者や観客は作品世界にのめり込み、現実リアルの自分の存在と虚構フィクションの作品世界を重ねて、共有しようとする、ということです。

 そこに、ブームが成立します。

 漫画本は売り切れ、人は映画館に殺到し、キャラグッズがバカ売れします。

 みんなでコスプレして、える映像がネットにわんさか投稿されます。

 リアル世界の自分を、フィクションの作品世界の中に、意図的に“溶け込ませよう”とするのです。


 “ああ、私の身も心もすべて、作品の世界に滑り込ませたい!”


 それが熱狂的なブームを作り出す、精神的な原動力になっていると思われます。

 『K滅のY刃』の場合、多くの人が心の中で、T治郎の横に並んで、邪悪な鬼たちに正義の刃を掲げ、血煙ドバーッ、生首スパーッ、とやらかしているのです。

 そうでしょう?


 T治郎とともに鬼を斬首するとき、おそらく私たちの心の中に、こんな価値判断が生まれていることでしょう。


 「かわいそうだけど、しかたがない」


 心の片隅にこの言葉が響いたとき、心なしかゾッとしませんか。

 それでいいのか?

 それは、本当はとてつもなく恐ろしい、非人間的な思考ではないのか?


 全国の動物愛護センターなる施設に持ち込まれた犬猫たちには、ガス室で生命を終える運命が待ち受けます。

 この殺処分、減らされつつあるようですが、いまだゼロとはいえません。

 しかし今どき、完全野性の野良犬や野良猫が街中に跳梁跋扈して、人間社会をおびやかすケースは、極めてまれでしょう。

 たいていは、元ペットです。人間のだれかが身勝手に繁殖させて多頭飼育崩壊に陥った、あるいは捨て猫や捨て犬に無定見にエサを与え続け……そして“見捨てた”結果です。

 だから殺処分は、人間が自ら創り出した悲劇です。

 この事実に対して、私たちは心の片隅で、たぶん、こう思っています。

 「かわいそうだけど、しかたがない」


 だって、どうしようもない、他に方法がないじゃないか? と。

 しかしじつは、自分の良心のとがめ……すなわち責任を逃れるための便法にすぎないかもしれないのです。


 これ、恐るべき思考停止です。

 「かわいそうだけど、しかたがない」の一言で、私たちは他の解決手段を探ることを一瞬で放棄して、ただ現状をあっさりと肯定してしまうのですから。


 「だから、殺すしかないじゃん」と。


 『K滅のY刃』の世界を楽しみながら、私たちは鬼に対して、この“恐怖の思考停止”に自らはまり込んではいないでしょうか?


 「だって鬼なんだから、殺すしかないじゃん」と……


 フィクションの作品世界なんだから、鬼を殺したってなにも悪くない。

 もちろん、その通りです。

 現実の世界でも、鬼殺しは人殺しではないので、無罪ですね。


 しかし、このことがフィクションでなく、ドが付くほどリアルだった時代がありました。

 今から80年ほど昔、太平洋戦争のさなかです。

 この国の人々はみな、ほぼ例外なく、こう唱えていました。

 「鬼畜米英!」と。

 敵国のあいつらは鬼畜だから、殺すべきなのだ……という、まさに思考停止の愚かな論理です。

 しかしそれが当時の常識であり、いわば国民的ブームであったと言えるでしょう。

 実際に、米英人の戦争捕虜を日本刀で“試し斬り”した……という話も聞かれます。

 それが事実かどうか、私には証明できませんが……

 ともあれ米英人に“鬼畜”のレッテルを貼ることで、問答無用、情け無用で殺すべき存在に位置付けてしまったことは事実でしょう。

 殺すことに対する、良心の呵責を麻痺させてしまう。

 「鬼畜なんだから、殺されても仕方ないんだよ」と、国民のだれもが平気で言う。

 戦争の狂気とは、こういうことだと思うのです。


 (戦時中には悪乗りが嵩じて、桃太郎の空挺部隊が“鬼ヶ島”へ鬼退治に征くアニメ映画まで制作されました。鬼って、もちろん鬼畜とされる米英の皆さんです。とはいえ鬼退治の戦闘シーンはごく一部で、大半は可愛い動物たちの“あつ森”的な楽しいミュージカル。国威発揚のタテマエとは裏腹に、当時のディズニーの向こうを張る、ハイクオリティの“漫画映画”に仕上げたスタッフたちの心意気が漲る名作です)


 『K滅のY刃』は、二巻まで読んだだけで、そういうことを考えさせてくれます。

 鬼だからといって、殺してもいいのか?

 じつはかなり、重たい作品だと思うのです。


 では、主人公のT治郎とK殺隊の“鬼狩り”は、はたして正義なのだろうか?


 否、絶対に、正義ではありません。

 限りなく正義のように見えながら、そうではない。

 T治郎とK殺隊は、鬼を斬首する以外に選択肢を持ちません。

 そもそもK殺隊は、文字通り鬼を殺す人々…鬼狩り…なのですから。

 ならば当然、鬼の側にも、「自衛のためにK殺隊を殺すしかない、そうしなければ我々が殺される。かわいそうだが、しかたがない」という正当防衛の論理が生まれ、実際にK殺隊の隊士を優先的に狙ってきます。

 この状態は、どちらにも正義のない状態、じつは双方ともに“悪”ではないか。

 鬼を悪とするならば、K殺隊も同等の“悪”でなくては、おかしいのでは?

 

 そう思わざるを得ません。

 T治郎もK殺隊も、その思いはともかく、やっていることは正義よりも悪のカテゴリーに含まれる行為なのです。


 だって、鬼狩りって、ジェノサイド禁止条約に定められた、ジェノサイド(特定の集団に対する虐殺行為)そのものなのですよ。




 さて私は『K滅のY刃』の漫画本なら二巻目まで、アニメなら20話あたりまでしか、知りません。

 結末がどうなるかは、まだ現時点では、存じておりません。

 幾つかのパターンを想像して楽しんでいますが、その中で最も恐ろしいディストピア的な終わり方というのは……


 T治郎とK殺隊が鬼を一体残らず殺戮してきれいに絶滅させ、この国の社会に平和が訪れて、人々が鬼のいない生活を、幸せと希望に満ちた明るい笑顔で楽しんでいる……という結末です。


 これこそ、「鬼だから殺すしかないじゃん、かわいそうだけど、しかたがない」という価値判断を徹底的に突き詰めた結果としてもたらされる、人工的な、楽園みたいな世界なのです。


 一見して、鬼を絶滅させることでユートピアが実現したように思えますが……


 思い返しましょう。

 鬼って、もともと人間ですよ。

 つまり、人類の一変種なのです。

 しかも悪意なく、罪もなく、無理矢理に鬼にさせられた人達です。


 それを、一人残らず血煙ドバーッ、生首スパーッ、で虐殺し、完全抹殺することで、残った人類は笑って平和と幸福を享受する……


 鬼という名の“人類の一部”を殺し尽くすことで実現する、理想の社会がそこにあるのです。


 これって相当に、不気味で恐ろしい結末ではありませんか?


 たとえばジョージ・オーウェルの『1984』とか、レイ・ブラッドベリ原作の映画『華氏451』などに描かれる、思想統制された理想社会のようなものです。いやもう、フィクションの世界ではありませんね、お近くの巨大な国家でも……いや、この国でさえも?



 そして……

 この『K滅のY刃』を楽しむ読者であり観客である私たちが、

 “鬼なんだから、殺すしかない”というテーゼに全員こぞって賛成し、

 「鬼はかわいそうだけど、しかたがない。それでいいじゃん」と、

 一切の疑問をさしはさまずに全国的に同調してしまったと仮定したら……


 私たちはもしかすると、鬼と同じ……いや、鬼を絶滅させたのですから、鬼よりも凶悪な存在に落ちている……のかもしれませんね。




 『K滅のY刃』の国民的巨大ブームの奥底に、そんな大衆心理が潜んでいたとしたら……


 やはり怖いなあ、心底、寒々としてくるなあ……

 そんな風に恐怖し、全身で戦慄するわけです。




 といいますのは……

 「かわいそうだけど、しかたがない」という価値判断は、この世にリアルに発生しているいかなる残虐行為も平然と肯定してやまない、凶悪にして強烈な魔力を秘めているからです。



 ヒトラー政権が特定の民族集団に対して実施した、あのホロコースト。

 ベトナム戦争の、あの村の虐殺事件。

 国内なら、玉砕や特攻や空襲や核兵器で殺された人々。

 戦後は、公害の犠牲者、あるいは冤罪の犠牲者。

 そして、いじめや社会的偏見、あるいは貧困の犠牲者。

 直近ですと、コロナ禍で自殺に追い込まれる人々。

 共通するのはたいてい、“社会的に弱い立場である”ことです。


 それらの悲劇に対して……

 私たちの心の根底に「かわいそうだけど、しかたがない」という価値判断がひそやかに蔓延していたとしたら、どうでしょうか?


 現実に対して何も感じることなく、「あれは終わったことだ」と片付け、結果オーライにしてしまうのでは?


 そのとき、私たちの心は、鬼よりもはるかに恐ろしい地獄へ落ちているのではありませんか。

 疫病に怯えて暮らすこの時代、私たちの社会にひそやかに忍び寄ってくる、まさに“悪魔のささやき”というべき滅びの呪文が、大ブームの旋風の合間から、ちらちらと漏れ聞こえてくるような気がするのです。


 「弱い者は死ね、かわいそうだけど、しかたがない」……と。





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