第29話 軛を解かれた猫
フィガロの髪の毛が伸びてきた。このまま家に帰すのもかわいそうなので、切ってあげることに。
別荘の庭の木陰で、フィガロの髪にハサミを入れる。自分では上手くできたつもりなんだけど、フィガロは気に入らないみたい。メアリーに助けを求めた。
「あらあら、仕方ないですね」
フィガロに頼られたメアリーは、手際よく襟足を整えてしまった。ニコニコのフィガロ君。
お、おのれ…、あたしが切った時とは大違いだ。
「さっすが刃物の扱いは、上手いね。メアリーは」
「ありがとう。エクレールさんもやってあげましょうか。晴れの舞台が近いのでしょう?」
目だけでバチバチとやり合う。誰があんたなんかに。それにしてもメアリーだけどうして残ってるんだろう。アレンもエレナもとっくに帰ったのに。はよ帰れ。フィガロとイチャイチャさせろ。
「あたしは王室のスタイリストに頼むからいいの。それよりあんた帰らなくていいの? もしかして愛想尽かされたんじゃない」
「フィガロ君と一緒にいたいからに決まってるじゃないですか。……、下拵えは既に済みましたしね」
メアリーの言葉を真に受けるほど馬鹿じゃない。こいつはろくでもない女で、いつも何か企んでいるんだから。それでも狙いに気づくことが、この時のあたしにはできなかった。
グランリアの東に一つの島がある。そこは精霊を集めやすい性質を持つらしくて、国が管理している。
カールベルクがそこに無断で踏み行ったことが、戦争の始まりだって聞いている。
そこからは果てのない貿易闘争、私掠、軍事衝突へと拡大していった。
泥沼の戦争は五年も続き、お互い疲れが出たんだろう。カールベルク側も高級将校がやってきて調印式に参加した。
岬にある慰霊碑の前で、調印式は行われた。向かって左側に紺色の制服のグランガリア兵が居並び、右側に緑色の制服のカールベルク兵がずらりと直立している。
あたしは肩丸だしのドレスで、条約証書を運ぶ役。フィガロと一緒に一杯練習したんだ。正直あたしでいいの? って思うけど、アレンから頼まれた以上断れない。
でも岬の上は結構風が強くて寒い。鳥肌すごいかも。笑顔も強ばる。はよ終われ。
お互いの国の代表が署名し、式は滞りなく済んだ。この後は捕虜の交換が行われ、グランガリアで祝賀会が催される予定だ。
「お疲れさま」
アレンがコートを羽織らせてくれた。彼も緊張のせいか、いつもより顔が青白い。
「アレンー、めっちゃ寒い。風邪引いちゃうよ。温めてあげる」
アレンの頬を手のひらで挟んだ。くつろいだ表情にあたしの心も和む。
「僕は平気だよ。君の方こそ冷えただろう。温かいものを用意したから少し休んで」
はっ、として今更、人の目がないか確認する。つい気がゆるんで昔の調子に戻ってしまった。アレンは昔、体が弱くてよく風邪を引いたのだ。
「ごめんなさい……、殿下。お気遣い感謝します」
「水臭いね。これからは共に歩く同志じゃないか」
アレンの腕があたしの肩に回される。
「君を後宮に迎える準備ができた。僕はもう昔の僕じゃない。こうして実績もできたし、誰にも文句は言わせないよ」
そっか、演劇が好きで、体の弱かったあの男の子はもういないんだ。今のアレンはすごく立派で遠い存在になった。
「今の殿下にあたしは釣り会わないよ。もっと早ければ良かったのに」
「そんなことはない。君の父親のことは遺憾に思う。名誉の回復にも全力を注ごう。僕は君じゃないと駄目なんだ」
誰もが憧れる王子様からの熱烈な求婚。それなのにあたしの胸には届かない。アレンにはわからない。今だから駄目なんだ。世界から見放され、頼るものがいなかったあたしに、その言葉をかけて欲しかった。
「一度逃げた猫に首輪をつけるのはさ、難しいんだよ。もうその猫は違う世界を見つけてるんだから。だから、アレン、もうこの話は」
アレンは拳を握りしめ、唇を噛んでいた。こんな顔もできるんだ。ちょっと可愛いかも。
「……、わかった。僕は少し性急だったかもしれない。でも君を想う気持ちは変わらないから。いつまでも待っているよ」
どうにか流されずにすんだ。いいんだこれで。あたしにも、アレンにも、この国にとっても。
さて、民間船に救助されたことになってるフィガロといられるのも、あとわずかだ。祝賀会でも思い出作るぞ。
気持ちを入れ替えたあたしが耳にしたのは、不吉な砲声だった。
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