第28話 誓い


 メアリーの愉しげな声は、あたしを身震いさせた。


「このナイフねぇ、とってもよく切れるのよ。血管を切っても傷口が残らないかも。自然死を装えてとーっても便利」


「や、やめろ……」


「それともあれ? 神経だけを切って体を動かせなくしてあげましょうか。アレン殿下に面倒見てもらえますよ。女子的には幸せなんじゃないかしら」


 歯の根がかみ合わず、恐怖で身動きが取れない。だって本気でやりそうなんだもの。こいつが毒婦だってこと忘れてた。


「何が望みだ?」


「前世について知ってることを洗いざらいしゃべりなさい。早くしないと酔いが回って刺してしまうわよ」


 逆に尋問される形で、あたしは夢の内容を話した。舌がからまってつっかえるたび、ナイフを揺らしてくるから、焦る。ちゃんと話せたか自信はない。


「なるほど、わかりました。ありがとう」


 メアリーが刃物を離しても、まだ安心できない。膝がガクガクしてテーブルに手をついた。


「……、わかったって何を」


「障害か、そうでないか。邪魔な存在なら始末しておこうと思ってね」


 メアリーはナイフで軽快にハムを裂いて口に運んだ。酒の肴に用意したものだろうけど、今やるか普通。


「エクレールさん、貴女と同じように私にも前世とおぼしき記憶はある。でもそれはそれ。縛られても仕方ないわ」


「あたしはあんたみたいに冷たい人間じゃない。忘れようったって思い出しちゃうんだよ。メアリーだって気になるからアイリスに同じ話をしたんじゃないの?」


「冷たいって所は否定しないけど、フィガロ君とその子を重ねるのはどちらに対しても失礼じゃないかしら。別々の人間なんですもの。ねえ? フィガロ君」


 今夜はなんてついてないんだ。


 台所の入り口にフィガロが立っていた。どの辺から聞かれてたんだろう。表情は読めないけど、息を潜めているのがわかる。


「ぼ、僕……、トイレに起きて、それで話し声がしたから」


「びっくりさせちゃったかな。一人で大丈夫? 私がついていってあげるわ」


 メアリーは落ち着いた声で返事をし、フィガロに付き添った。すれ違いざまに置きみやげを残して。


「今夜のこと忘れないでね。フィガロ君にとって何が一番良いか」


 誰もいなくなった台所の壁を殴った。余計なお世話だ。でも迷いを言い当てられた気がして、言い返せなかった。


 明くる日、フィガロは何食わぬ顔で朝食に現れた。今日の予定を楽しそうに話している。


 出かける気分じゃないけど、あたしだけ残るのも怪しまれる。用意していたピアスも忘れ、上の空で仲間に加わった。


 湖を望む丘の上に、テーブルとパラソルを持って出かけた。エレナとフィガロは離れた所で犬と戯れている。メアリーもその側で見守っていた。


 あたしはアレンとお茶を飲みながら、フィガロを眺めた。


「頃合いだ。あの子を帰してあげよう」


 アレンが口を開いた時は、ぴくんと手が震えてカップを落としそうになった。


「僕も子供の頃は体が弱くて、両親を心配させた。彼にも親がいるんだ。故郷だって恋しいはずだよ」


「やだ、そんなことない」


 あたしはアレンの肩に頭を乗せた。甘えれば許されるとは思ってない。でも昨日の今日で心の準備ができてないから。


「まだ内密ではあるが、カールベルクとの条約が決まった」


「じょー……、やく?」


「捕虜の交換に関する条約だ。これを梃子に戦争を終わらせたい。何年も前から水面下で交渉を続けていたんだよ。父上の了承を得るのが一番難しかったけどね」


「フィガロを、政治の道具にしないで!」


 あたしが大声を出したせいで、皆が一斉に振り向いた。でも、アレンが我が物顔でフィガロを扱おうとしたから、許せなくて。


「落ち着くんだ、エクレール。一体何が不満だ」


「あたしや、フィガロを無視して勝手に話を進めるから」


「僕、知ってたよ」


 丘を上がってきたフィガロが、話に入ってきた。遠ざけたくて、尖った声を出す。


「子供が聞く話じゃないから、あっち行ってなさい」


「僕の話だから、それはできない。ごめんね、エクレールさん。アレン殿下と相談してこれが一番良いって思った。帰るよ、僕」


 椅子から転がるようにして、フィガロにしがみつく。


「何で! ずっと一緒にいるって言ったのに」


「僕もそうしたい。でも僕がいると、エクレールさんは無理しちゃうからさ」


 フィガロはあたしの手の甲に触れた。そこには治っていない傷跡がある。


「それに、もう二度と会えないわけじゃないよ。戦争が終わればまた会える。そうですよね? 殿下」


 アレンが重々しく頷く。


「ああ。王家の名にかけて最善を尽くすと約束しよう」


 これが誰にとっても良い話であることは、あたしにもわかる。でも、フィガロを手放すことは、あの夢をなぞることになる。身を引き裂かれる想いだ。鼻をすすってフィガロを抱き寄せた。


「あたしの心配するなんて十年早い。言っとくけど寂しいわけじゃないんだからね。あんたがいると、海賊業再開した時、目利きの役に立つからさ」


「うん、僕もまた船に乗りたい。僕がもっと大きくなったら、海賊にしてくれますか。それまで待っててよ」


 アレンがぷっと吹き出した。


「なんだかエクレールお姉さまの方が子供みたい。フィガロ君、大人だね」


 エレナには茶化されるし、散々だ。あたしはフィガロの成長を喜ぶべきなんじゃないか。そう思えてきた。


「ちゃんと、お父さんと仲直りするんだぞ」


「やってみる」


 あたしは決意を示すべく小指を向けた。


「指切りしよう。これは誓いだよ。破ったら許さないからね」


 フィガロはおずおずと指をからめてきた。


 メアリーは前世なんて関係ないって言ったけど、違うと思う。あたしはこの子と会ったことで救われたし、多分昔のあたしも慰められた。


 子供を信じるってこんなに難しいんだね。でも、フィガロを信じるってことは自分を信じるのと同じだ。信じてみようと思う。この小さな手を。 

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