第21話 帰郷


 エーデルフォイルに着くまでに、親子の鯨と出会った。


「あたし初めて見た! 大きいね」


 船と併走するように、海面すれすれを鯨が浮き沈みする。白い山みたいだ。小さい鯨はそれに寄り添っている。あたしは興奮していたけど、フィガロは横目でちらと見て船倉に戻った。機嫌が悪いんじゃなくて、体調が悪いのだ。エーデルフォイルは北にある。気温の変化に体が追いつかないのかもしれない。


 反対に聖女は素潜りで魚を捕まえて、密漁船を二隻沈めた。元気過ぎるのも考えものだね。


 エーデルフォイルは霧がかかった小さな村だった。道幅の広い道路にお年寄りがまばらに歩いている。


「村には子供が少ないんですの。そのうち地図から消えますわ」


 アイリスは自嘲気味に言った。グランガリアの支配が及ばないと聞いていたけど、時間がゆっくり流れる穏やかな村だ。漁業と交易で生計を立てているらしい。


 村の中央に時計台があり、そこを歩いていると村人に声をかけられた。


「アイリスちゃん、うちでご飯食べてって」


 老人に手を引かれたアイリスは民家に入って行き、ご飯を食べた。


「次はうちで」


 肉まんを頬張り、


「今朝はいいブリ取れたんだあ。食べてって」


 刺身を食べ、


 気づけば、村人が列をなし、いつ終わるともしれない宴になっている。


 あたしとフィガロもおこぼれにあずかってしまった。それなのにアイリスは村に着いてからずっとぶすっとした顔をしている。村の人はこんなに歓迎しているのに何でだろう。


 法螺貝の低い音がして、村人が道を開ける。そこにいたのは白クマ。


「あ、ザッハトルテだ」


 聖女の良き相棒、白クマのザッハトルテが片手を上げている。あたしも上げるとグニャリと口の端を曲げた。笑ってるのかな。


「白クマはエーデルフォイルで神聖な動物とされていますのよ。ただいま、ザッハトルテ」


 アイリスたちが抱き合っていると、なんだかフィガロが恋しくなって周囲を探す。すっかり人波ではぐれてしまった。


「……、フィガロ?」


 背筋が凍る。


 フィガロが樽の側で倒れていた。顔は真っ赤で息が荒い。まさか、病気。


 フィガロはすぐに村の診療所に運ばれた。あたしにできることは何にもないから、アイリスの自宅で待つことになった。


 アイリスの家は僧院という奴で、お坊さんが何人も暮らしている。あたしの知る教会とは宗旨が違うようで渦巻きの紋章が至る所で見られる。屋根は金ピカ、敷地も広い。


「エクレールさん、孫から話は聞いてるよ。いつも遊んでもらっとるそうで」


 渦巻きのついたキモノを着たアイリスの祖父と会った。


 歳は七十を過ぎていて、顔は日焼けして白い髭が胸近くまで伸びている。


 あたしたちは、ひんやりした板の床に靴を脱いで座っている。


「それにしても若い子の手はすべすべでええなあ。生き返る」


 あたしはフィガロのことで頭が一杯で、触られてるのかどうなのかよくわからなかった。


「じいじ! それはザッハトルテの手ですの」


 祖父が撫でていたのはクマの手だった。アイリスは祖父の隣で目くじらを立てている。


「どうりで分厚いと思った。年を取ると目が悪くていかん。お連れさんなら大丈夫。エーデルフォイルの薬草と祈祷があれば元気になるだで」


 祖父は心配ないと言ってくれるが、不安でならない。高熱で死んだ子供の話を聞いたことがある。一発で治る薬のようなものはないのだ。


「あの子といて大変じゃないかね」


「えっ?」


 一瞬、誰のことかわからなくて聞き返した。


「アイリスですよ。至る所で迷惑かけてるんじゃないかと気が気でないのです」


 当のアイリスは部屋からいなくなっていた。クマは祖父の背後で丸くなっている。


「よく喧嘩しますけど、迷惑ではないですよ」


 あたしが正直に伝えると、祖父は小さな目を瞬いた。


「あの子は不憫な子です。精霊に愛され過ぎてしまった。時に人間を憎悪してると思える時がある」


 アイリスは幼くして両親を亡くしたらしい。それ以来祖父と一緒に暮らしている。


「あの子が四歳の時に行方不明になったことがありましてな」


 その年は格別寒く、海に流氷が来たそうだ。アイリスはその氷を渡って海洋に出てしまったらしい。村の中には神隠しにあったという噂も広まった。


 行方不明になって一ヶ月後、アイリスはひょっこり戻ってきた。その傍らには小グマのザッハトルテがいた。


「このクマは自分と同じだと言っていた。親が死んだのだと。まだ歩くのもやっとの子供が、遠く離れた場所にいるクマを助けに行ったというのです」


 奇異の目で見られたのは言うまでもない。四歳の子供がどうやって極寒の地を一人生き延びられたんだろう。


「それだけならまだ良かったんですがな」


 祖父は困ったように頭をかいた。


 アイリスが十歳の時、グランガリアはエーデルフォイルに対する締め付けを強めだした。これまで歴代の長老はのらりくらりとかわしていたが、交易のうまみに目をつけた国が本気を出したのだ。


 時代の流れには逆らえないと村人の大半は諦めたが、アイリスは違った。


「先頭に立って、国の軍隊と戦ったのです。子供ばかりを矢面に立たすわけにもいかん。私らも死にものぐるいになって戦いました」


 アイリスが村の人に好かれている理由がなんとなくわかった。あいつは独立の旗頭だったのだ。


「おかげさまで年貢を納めることを条件に交易は許されるようになりました。ただ……」


 誇る様子はなく、むしろ憂えている様子だった。


「あの子がこの先どうなるかわかりません。世界の厄災になるのではないか。そんなことばかり考えます」


 アイリスと何度も戦って実感したことがある。あいつはそんなことしない。人の心をちゃんと持っているんだ。


「大丈夫だよ、おじいさん。あいつは良い奴だ。あたしとフィガロを助けてくれた。心配することないって」


「ああ、ありがたい。あんたに言ってもらえると本当のような気がするよ。手もこんなにたくましい」


「だからそれザッハトルテの手」


 祖父はクマの手を押し抱いて涙を流した。そんな彼の前でアイリスとの約束は言い出せなかった。


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