第10話 巣立ちの日を夢見て


1


 カクテルコンペから一夜が明け、ホテルのベッドで目を覚ました。ジョンに付き合い酒を過ごしたらしく、猛烈な吐き気と頭痛、全身を包む重い倦怠感に顔をしかめる。連日の長距離飛行で疲労も蓄積していたのだろう。フェルも起きてくる気配がないので、飲めるだけの水で頭痛薬を流しこんで再びベッドに倒れこんだ。

 昼過ぎには、何とか起きられそうな程度に体調が戻っていた。フェルも起き出して空腹を訴えるので、動き始めた途端にぶり返す頭痛に耐えながら近くのカフェに向かう。この店の食べ物が不味いことはもう分かっているが、遠出する気力が湧いてこなかった。遅めのブランチを食べるフェルを横目に、ぬるいコーヒーをすする。

 ちょうど隣の席に今朝の新聞が置き去りにされていたので、誰も見ていないのをいいことに拝借する。戦争のニュースは早くも話題性が薄れたのか、アウステラ国内のニュースが中心だった。さして興味を引かないローカルな内容にともすれば目が滑りそうになる中で、ユベールが目を留めたのは一枚の写真だった。

「見ろよ、フェル。俺たちが写ってるぞ」

「ティエンが逮捕された時の写真か」

 アウステラ首相が主導する特別法によるシャイア人の身柄拘束と資産凍結を報じる記事に添えられていたのは、カクテルコンペ会場でティエン・ホウが逮捕される瞬間の写真だった。逮捕に抗議するジョンを止めようとしたユベールと、未成年な上に目立つ容姿のフェルは顔まで判別できる距離で写ってしまっていた。

「せっかくアウステラまで逃げてきたのに、ちょっと迂闊だったな」

 舌打ちするユベールを慰めるように、フェルが首を振る。

「あの状況では仕方なかった」

「だが、これで俺たちがアウステラにいるとバレる可能性が……いや、バレたと考えて動いた方がいいだろうな。まったく、運がないにも程がある」

 ため息をつくユベールに、フェルが不思議そうな顔をする。

「写真一枚で、そこまで警戒する必要があるのか?」

「ああ。新聞やラジオ、政府広報。公開情報の精査は諜報の基本だ。優秀な担当官なら、俺たちの顔に気付く可能性は十分にあるだろう」

「諜報……スパイ活動のことか」

「そうだ」

「広く公開される内容に、重要な情報が隠れているものなのか?」

「これが意外とバカにできない。現に、一枚の写真から俺たちの行き先を読み取れもするんだ。誰がどんな意図を持って伝えようとした情報なのか、複数の情報を突き合わせながら、ちゃんと読み解いていけば重大な事実が見えてくることもある。一歩間違えば、真実と思えたものがただの妄想だったりもするのが怖いところだが」

「スパイとは、もっと重要な機密を盗んだりするものだと思っていた」

「物語よりずっと地味だろう? だが、現実なんてそんなものさ」

 ユベールが肩をすくめると、フェルがうなずいて話題を変える。

「ティエンの拘束の件で、ひとつ気になることがある」

「気になること?」

「ユベールは、アウステラはシャイアとアルメアに対して中立的だと言っていた。今回、急に反シャイア的な政策を打ち出してきた理由はなんだ?」

「その件か。俺も気になって、昨晩ジョンやシェイクに尋ねたんだ。どうやら、つい一ヶ月前に就任した新首相が親アルメアというか、反シャイアを標榜する人物らしい。この点については俺の調査不足、認識不足だった。すまない」

「ユベールが謝ることはない。わたしも知らなかったのだから」

「そう言ってくれると助かるよ」

 世界中を飛び回る関係上、国際情勢のニュースは可能な限り目を通すようにしているが、一国の首相とその政治信条まで把握していられないのが正直なところだ。その結果が巨額の賞金の取りっぱぐれに繋がったのだから笑えないが。

「まあ、悪いことばかりじゃないさ。少なくとも、アウステラ政府が俺たちをシャイアに売る可能性は減ったんだ。と言うか、そうとでも思わないとやってられん」

「そうだな。頭を切り替えて、次の仕事を探そう」

 新造機のために、金はいくらあっても困らない。先の仕事では整備費や燃料費で赤字を出しているので、仕事探しは喫緊の課題だった。アウステラに留まるか、あるいは別の国に移動するかと相談していると、不意に声をかけられる。

「お食事中に申し訳ありません」

 二人が座るテーブルの前に立ったのは、初夏の汗ばむような陽気の中、スーツに身を包む眼鏡の男性だった。男は愛想笑いを浮かべながら名刺を差し出す。

「このような場所でご挨拶申し上げる無礼をお許しください。私はティエン商会の顧問弁護士、ウィリアム・クレインと申します。飛行士のユベール・ラ=トゥール様とそのお連れの方でいらっしゃいますね?」

 ティエン商会は、ティエン・ホウが経営する会社の名前だ。その顧問弁護士がわざわざユベールを訪ねてくる理由は思い当たらなかった。

「そうだ。俺がユベールで間違いない」

「いや、チェックアウトの前にお会いできてよかった。新聞の不鮮明な写真と名前だけを頼りに探偵の真似事を命じられて、困っていたのですよ」

「ティエンに命じられて俺たちを探していたのか?」

「ええ、その通りです。失礼ながら、お知り合いのフォリナー様からお二人が宿泊なさっているホテルを伺って参りました。どうかご容赦くださいませ」

 おそらくティエンは逮捕時の騒動で、ユベールが会場にいると気付いたのだろう。警官に食ってかかるジョンを止める様子も見ていれば、彼の知り合いであることも予想はつく。優勝者であるジョンのプロフィールは公開されているので、ヒュプノシスを訪ねてジョンから二人の居場所を聞き出したのだろう。

「別に構わないさ。まずはかけてくれ」

 深々と頭を提げるウィリアムに椅子を勧める。恐縮する彼が腰を落ち着けるのを待って、本題へと切りこむ。お互いに世間話をする気分でも状況でもない。

「お互いに暇ではないだろう。用件を聞かせてくれ」

「話が早くて助かります。実は、ティエンはユベール様との面会を望んでおります。もしご迷惑でなければ、ルウィンダ留置場までご足労いただきたいのです」

「ティエンがなぜ俺と?」

 やや意外な内容に驚いて尋ねると、ウィリアムが困ったように眉を寄せる。

「それが、私も詳しい内容を聞かされていないんです。どうもこの件に関してティエンは私を信用していないようで、いえ、私の専門は企業法なので今回のケースではそれが正解なのですが、とにかくユベール様と面会したいの一点張りでして」

 彼が偽りを述べている様子はない。フェルも黙ってうなずいた。

「分かった、会おう。ただし面会するのは俺とフェルの二人だ。それでいいか?」

 ユベールの返答にほっとした表情を浮かべるウィリアム。

「ええ、人数は指定されておりません。車を用意いたしますので、三十分後にホテルまでお迎えに参ります。どうぞよろしくお願いいたします」

 ウィリアムはそう言って頭を下げると、急ぎ足で去っていった。いつの間にか勘定書きが消えていて、フェルと二人で肩をすくめる。

「やれやれ、逃げ道を封じられたな」

「わたしたちのような善人に対して効果的な策だ」

「拘留されているシャイア人との面会か。警察に目を付けられないといいがな」

「せめて儲け話であることを祈ろう」


2


 ルウィンダ留置場に着いて車を降りると、鋭い視線が刺さる。門前に二人、玄関脇に一人。強引な手法への反発を危惧して、普段より警備を強化しているのだろう。彼らはユベール、フェル、ウィリアムの三人がいずれもシャイア系の顔立ちではないことを確認すると警戒を解いた。ウィリアムが不愉快そうに鼻を鳴らす。

「あまり気分のいいものではありませんね」

「まったくだ」

 ウィリアムの先導で留置場に足を踏み入れ、面会の手続きを取る。ティエン・ホウの名前を告げると受付の警察官は露骨に不審げな視線を向けてくる。

「アルメア人とルーシャ人の旅行者がシャイア人の富豪に用事ねえ。どう考えても接点があるとは思えないんだが、妙なことを企んでるんじゃないだろうな」

「君、問題があるならはっきり言いたまえ。言いがかりはやめてもらおう」

 ウィリアムが鋭い剣幕で詰め寄ると、警察官は肩をすくめて応じる。

「警察官の立ち会いの下、面会を許可する。おかしな考えは起こさないことだな」

 捨て台詞を聞き流して手続きを済ませ、薄暗い照明の廊下を進む。部屋の中央を鉄格子で仕切られた面会室で待つこと数十分、嫌がらせに抗議するためウィリアムが椅子を立とうとした瞬間、格子の向こう側にある頑丈そうな鉄扉が開いた。

「やあ。よく来てくれたね、ユベール君」

 スーツ姿のティエンが、やや疲れた表情ながらも堂々と面会室に入ってくる。ネクタイを外しているのは自殺防止のためだろう。革靴も没収されたのか靴下にサンダルというちぐはぐな格好だったが、それを恥じる様子も一切ない。

 ティエンが椅子に腰掛けると、背後にある扉の前で立ち会いの警察官が仁王立ちする。視線はまっすぐに固定されているが、会話は彼に筒抜けだ。

「ウィリアム君も案内ご苦労さま。それから……」

 ティエンの視線がフェルに向かう。

「フェル・ヴェルヌだ。航法士としてユベールと組んでいる」

「ああ、そうだったね」

 二人が言葉を交わすのは初めてだが、ティエンは以前からの知り合いであったかのように答えた。警察に余計な疑念を持たせないための配慮だろう。

「そうだ。忘れるところだったよユベール君」

 当たり障りのない挨拶と世間話をいくつか交わした後だった。ティエンは立ち会い人に見えないように意味ありげなウィンクを寄越してくる。

「すでにウィリアム君から聞いていると思うが、私が捕まったことで宙に浮いた趣味の木工品があるんだ。他人から見ればガラクタ同然の品物だろうが、君は興味があるかと思ってね。価値のあるものではないが、よかったら差し上げよう」

「……そうですか。では、後ほど拝見してから決めようと思います」

「うむ、そうしてくれるとありがたい。手間をかけてすまないが、不要であれば廃棄してくれたまえ。私個人としては、そうなることを望んでいる」

「わかりました」

 あえてぼかした言葉から詳細は掴めなかったが、それがティエンの伝えたかったことなのだと推測できた。詳しい内容はウィリアムに尋ねれば判明するはずだ。

「今日は訪ねてくれてどうもありがとう。謂われのない罪で逮捕されて、どうにも気が滅入っていてね。ユベール君、フェル君、二人の友情に感謝しよう」

 鉄格子の間から差し出された手を順に握る。

「いえ、話し相手になるくらいならお安いご用ですよ」

「今度は塀の外で会おう、ティエン」

 面会時間が終わり、ティエンと別れる。

 帰りの車に乗ってしばらくすると、ウィリアムが切り出した。

「ユベール様、フェル様。本日はお忙しい中、ティエンのために時間を割いていただきありがとうございました。些少ではありますが、お納めください」

 差し出された封筒にはおそらく現金が入っている。受け取るかどうか迷っていると、気を利かせたウィリアムが付け足す。

「ご安心ください。ティエンの個人資産は凍結されましたが、アルメアやアウステラの資本も入った株式会社であるティエン商会の資産が差し押さえられたわけではありません。合法的な経費ですから、受け取っていただいても問題ありません」

 今のところはですが、と付け足してウィリアムが笑う。

「分かった。受け取っておこう」

 開戦からすでに二週間が経とうとしている。現状、出費がかさむばかりで新造機の建造費用を貯めるどころの話ではなかった。金はあるに超したことはない。

「ユベール、よく分からなかったんだが」

 フェルが質問を口にする。

「結局、ティエンはなにを伝えたかったんだ?」

「さあな。ウィリアムの話によれば会社の資産は無事なんだろう? 俺たちに渡したいものがあるなら素直に言えばよさそうなものだが、なにか事情があるのか?」

 ウィリアムに話を振ると、彼は首を振ってため息をついた。

「ティエンが言うところの木工品の件ですね。彼の道楽にも困ったものです」

「道楽? 少なくとも危険なものではないということか」

 ティエン商会は裏で非合法な品物も扱っている節がある。この非常時に危険な代物を押しつけられる可能性を危惧していたので、ひとまず胸をなでおろす。

「端的に申し上げますと、私どもの所有する木製飛行機の扱いに困っているのです。ティエンの道楽でエアレースに参加するために作ったものなのですが、このご時世ですからね。レースもなければ、そもそもパイロットも見つからない状態でして」

「なるほど。価値のない木工品、か」

 レースのレギュレーションに合わせて限界まで性能を突き詰めたエアレーサーに、それ以外の使途はない。世界的な戦争のせいでレースどころではない現状、無価値な木工品という表現はあながち間違ってもいなかった。

「ええ、ですから飛行機乗りであるユベール様に差し上げれば、有効に活用していただけるかと。書類上では廃材として扱いますので、代金は結構です」

 ずいぶん気前のいい話だった。一見、こちらに損はないように思える。だが、愛想よく笑うウィリアムの発言に裏がないとは言い切れない。

「フェルはどう思う?」

 検討する時間を稼ぐためにフェルに尋ねる。

「ウィリアムに聞きたいことがある」

「ええ。専門外ですが、答えられる範囲でお答えしましょう」

「戦争が終わって、レースが再開するまで保管してはいけないのか?」

「その保管費用が問題なのです。倉庫代はもちろん、高額な費用を注ぎこんで開発したエアレーサーは巨額の維持費を要する金食い虫ですから」

 費用面から理由を語るウィリアムの後をユベールが引き取る。

「その上、いつになるかも分からない終戦を待ったところで、その時には時代遅れの機体になってる可能性も高い。ティエンが手放したがるわけだな」

 戦争は技術革新を推し進める。この戦争で実用化された技術がフィードバックされたエアレーサーは、戦前のそれとは一線を画する機体になるだろう。

「専門外なので詳しいことは分かりかねますが、現時点においては一線級のエアレーサーであるというのが開発に携わった技術者の主張です。ティエンが身動き取れず、売却先の当てもない現状では、一日も早く手放したいのが本音でして」

「理解できた。わたしからの質問は以上だ。後はユベールの判断に任せる」

「こちらとしても、現物を確かめないことには結論が出せない。機体はどこに?」

「ニューホーン。アウステラ連邦が誇る貿易港です。昨日、無事に到着したとの連絡が入っております。保管場所として確保した工場の場所をお伝えしますね」

 ニューホーンはルウィンダから数百キロの距離にある都市だ。海岸沿いなのでギルモットでの移動にも支障はない。仕事になるかどうかは分からないが、ティエンに恩を売る意味でも確認に向かう価値はあるだろう。

「了解した。俺たちはニューホーンへ向かうから、話を通しておいてくれ」

「承知いたしました。それから、最後にひとつだけよろしいでしょうか」

「なんだ?」

 ユベールの問いに、真摯な表情でウィリアムが言う。

「私個人としては、今回の件をアルメアのために役立てていただきたいと考えております。どうか頭の隅にでも留めておいていただきますよう、お願い申し上げます」

「憶えておこう」

 その答えに満足したかのように、ウィリアムが笑みを浮かべる。

「感謝いたします。おっと、ホテルに到着しましたね。それでは失礼いたします」

 アルメア人の顧問弁護士は、深々と一礼してから去っていった。


3


 ウィリアムと別れたのが昼過ぎだったので、その日は準備と休息に費やした。ジョンやシェイクへの挨拶も済ませ、翌朝にはニューホーンへ向けて発つ。

 ルウィンダ港を飛び立ち、海岸沿いに東へと機首を向ける。相変わらずの雲ひとつない晴天で、機内の温度はみるみる上がっていく。急ぐ道行きでもないので、キャノピーを開いて風を取りこんだ。低空を巡航速度で飛ぶと、汗が引いて体温がほどよく下がっていくのを感じる。フェルも風を感じて気持ちよさそうだ。

 穏やかな海と乾いた大地の境目を飛ぶこと数時間、ニューホーンの街並みが見えてくる。低空で飛ぶと、世界各国の国旗を掲げた船が活発に往来している。

「こうして見ると、海にも道があるのだな」

「ああ。おもしろいだろ?」

 上空から眺めると、船舶がアリのように列を成して航跡を曳いていくのが分かる。

「潮流や水深を考えると、安全で確実な航路は限られてくる。外洋ならともかく、頻繁に船が行き交う場所では航路を設定しておかないと事故が起きるからな」

「水上機の扱いはどうなってるんだ?」

「そこなんだよな。海のルールを知らないまま好き勝手に飛ばすやつもいるから、はっきり言って水上機は船乗りから邪魔者扱いされてるのが現状だ。数が少ないから見逃されてるが、これから先、もっと水上機が増えたらどうなるか」

「事故が増えれば、規制が厳しくなるかも知れないな」

「かもな。さて、降りるぞ」

 水上機が並んで停泊する場所を見つけて、その近くに降りる。思った通り、航空機の整備を請け負う工場がすぐそばにあった。ギルモットを預けて、レンタカーを借りる。ウィリアムから聞いた飛行機の保管場所を目指し、そのまま出発した。

 郊外へ向かって車を走らせる途中、建設中の飛行場の脇を通り過ぎる。

「飛行場も増えたよな。昔は大都市でもなければ、石を取り除いて平らにならしただけの草っ原を飛行場にしてたもんだが、ちゃんとした舗装に加えて、管制塔まである。薄々分かっちゃいたが、水上機には厳しい時代になったもんだ」

 ユベールの言葉に、助手席のフェルがこちらを振り仰ぐ。

「そうなのか?」

「水上機の利点について、教えたことがあるだろう?」

「水面ならどこでも離着水できること、滑水距離を長く取れることだったな」

「そうだ、よく憶えてたな。だが、こいつは裏を返せば、必要な場所に飛行場が整備されて、短い滑走でも離陸できる大馬力のエンジンが開発されれば、陸上機に対する水上機の利点はほとんど消えるってことでもある」

 そして利点が消えてしまえば、水上機に残るのは制約ばかりとなる。

「水上機に未来はない、ということか?」

「完全になくなりはしないだろうが、陸上機が主流になるのは間違いないだろうな。神話にある大洪水で陸地のほとんどが海に沈みでもすれば別だが」

『では、わたしが沈めてしまいましょうか?』

 にこやかに笑って冗談を言うフェルは妙な迫力があった。

『おお、魔女様、どうかご勘弁を』

 ユベールの下手なルーシャ語に二人でひとしきり笑い合う。

 会話が途切れ、しばらく黙って車を走らせると、古い工場が見えてきた。敷地内に大きなトレーラーが停まり、人の気配もある。どうやらここが目的地らしい。門の前まで車を進めると、慌てた様子で中から出てきた男に止められる。

「えっと、どちらさまですか? 関係者以外は困るんですが」

「弁護士のウィリアム・クレインから話は通っていないか? ユベール・ラ=トゥールが飛行機の確認にきた、と責任者に伝えてくれれば分かるはずだ」

「確認しますので、少々お待ちください」

 男はそう言い残すと建物内に戻っていく。

「整備士だろうか」

 オイルに汚れたツナギの後ろ姿を見て、フェルが口にする。

「多分な。末端までは話が伝わってないんだろう」

「彼らにとっては、わたしたちは機体を奪いに来たようなものだろうな」

「ああ、そういう見方もあるか」

 五分ほど待つと、さっきの男が戻ってくる。

「お待たせしました。確認のため、お連れの方の名前を伺っても?」

「わたしはフェル・ヴェルヌだ」

 フェルが答えると男がうなずいて愛想笑いを浮かべる。

「失礼しました。車はこちらへ停めて中へどうぞ」

 男に案内されて工場に入る。元々は農作物の加工でも手がけていたのか、用途不明の機械が壁際に押しやられている。そうしてできた空間の中央、ちかちかと頼りなく光る天井灯に照らされて存在を主張する一機のエアレーサーに息を飲んだ。

 白と黒で左右に塗り分けたペイントも目を惹くが、何よりも特徴的なのは機体のシルエットだ。空気抵抗となる凹凸を廃した流線型の胴体に二重反転プロペラ。機体前方に向かって角度をつけた前進翼と優雅に広がるV字尾翼は燕を連想させる。過去に例のない、革新的な設計であることは一目瞭然だった。

「こいつが……」

「競技用単座飛行機『燕翔』です。どうですか、すごいでしょう」

 自慢げに話しかけてきたのは、案内してくれたのとは別の技術者だった。線が細く、気取った態度。わずかな訛りから、ケルティシュ系の人間だと推測できた。

「僕は開発主任のルイン・ジュードロウです。ここの責任者を任されています」

「ユベール・ラ=トゥールだ。よろしく」

「フェル・ヴェルヌだ」

 握手を交わし、改めて燕翔に向き直る。

「お二人は飛行機乗りで、こいつを見に来たとか。機体の詳細については説明を受けていますか? よければ私から説明しますが」

「頼む。革新的なエアレーサーとしか聞いてないんだ」

 説明したそうな雰囲気のルインに多少の追従も混ぜて促す。

「機体名は燕翔。軽量なバルサ材と硬材を組み合わせた複合木材による単葉単座機で、全長七メートル強、翼幅八メートルと小型ながら、四五〇馬力の五リッター直列八気筒エンジンを二基搭載して二重反転プロペラを駆動。対気速度に応じて揚力、抗力を最適なバランスに保つ自動フラップと、V字尾翼前縁のエアインテークから空気を取りこみ主翼後縁から排出することで抵抗をゼロにした冷却系の効果により、想定される最高速度の理論値は時速八〇〇キロを超えます。これはもう間違いなく、現時点で世界最速のエアレーサーであると断言できます」

「ちょっと待ってくれ」

 興奮気味にまくしたてるルインを遮る。

 彼の言葉には聞き捨てならない箇所があった。

「理論値って言ったな。実測値は? そもそもテスト飛行はしたのか?」

「あー、その」

「正直に答えてくれ。俺たちはティエンからこの機体の処遇を任されている。不誠実な回答だと判断すれば、シャイアで開発された試作機が密輸された情報をアウステラ政府に流す。あんたの大事な機体がどうなるか、予想はつくだろう?」

 開発者は時として自らの設計に過大な自身を抱く。それがテストパイロットの命を脅かす例も少なくないのだ。圧力をかけてでも、真実を聞く必要があった。

「……まだ地上滑走のみです。ですが計算では間違いなく、いえそれ以上の速度が出たとしても不思議ではありません。後は細部の微調整さえ済めばきっと」

 急に歯切れが悪くなり、言い訳がましい言葉を並べるルインの姿にため息をつきたい気分になる。どうやら想像以上に厄介な代物を押しつけられたらしい。

「要するに、まだ飛べないのか」

 フェルが切って捨てると、ルインもようやくそれを認める。

「……ええ。現状では、その通りです」

 空を知らない美しいひな鳥を前に、フェルが肩をすくめた。


4


 改めて周囲を見回す。ロクな機材もない廃工場、未完成の機体、所在なく佇む技術者たち。率直に言って、エアレーサー『燕翔』の命運は風前の灯火と思えた。

「待ってください、見切りを付けるのはまだ早い」

 士気も高いとは見えない雰囲気の中、開発主任のルインが食い下がる。

「もう少し、もう少しで完成のところまで漕ぎつけているんです。ユベールさんは飛行機乗りなんでしょう? だったらこの機体の革新性は理解できるはず。どうか、テストパイロットとして開発に協力してもらえないでしょうか」

 ルインが白黒のツートンカラーに塗られた燕翔を示す。確かにこの機体に採用された二重反転プロペラや自動フラップ、前進翼にV字尾翼というユニークなスタイルは興味深い。これらはアルメア空軍も正式採用に至っていない、最先端の技術だ。

 軍ではなく民間企業のバックアップのみでこうして形にしたことは賞賛に値する。設計開発を主導したルインが一線級の技術者であることは疑いようもない。彼がアルメアかシャイアの軍用機開発に携わっていたら、戦局を変えていた可能性すらあった。こうなると機体よりも、彼の人柄と能力に興味が湧いてくる。

「テストパイロットの件はともかく、興味深い機体であることは確かだ」

 ユベールの言葉に喜色を表すルイン。

「でしたら!」

「待ってくれ、まだ何も決めちゃいない。数日はここに滞在するから、もっと話を聞かせて欲しい。この機体を最終的にどうするのか、どこへ持っていくのか、判断材料が欲しいんだ。フェルも気になることがあったらどんどん質問しろ」

「了解した」

「ルイン、図面を見せてくれ。機体構成を詳しく知りたい」

 フェルはユベールの言葉にうなずくと、もっとよく見るために機体に近付いていく。ルインもユベールが求めた図面や資料を探すためにその場を離れた。

 ここまでの話を聞く限り、ルインはあくまで開発の継続にこだわっている。ユベールが尋ねるまで未完成であることを黙っていた一事を取っても、投げかける質問と戻ってきた回答は注意深く検証する必要があるだろう。

 思わずため息をつく。もしこの場にヴィヴィがいたら、機体性能についてルインをひたすら質問責めにしていたことだろう。こういう時ばかりは彼女の気楽さが羨ましい。彼女ならきっとふたつ返事でテストパイロットを引き受けたことだろう。

 首を振って気分を切り替えると、図面を抱えたルインが戻ってきた。

「ところで、ルインはケルティシュ共和国の生まれだろう?」

「そうです。それがどうかしましたか」

「燕翔の開発にはいつから携わってるんだ?」

「三年前からです。そんなの、どうでもいいでしょう?」

 話題を変えると、ルインは話をそらされたと感じたのか顔をしかめる。

「いや、いったいどういう経緯で、ケルティシュ人の技術者がシャイアの民間企業でエアレーサーを開発することになったのか、ちょっと気になってな」

 ルインの祖国、ケルティシュ共和国は今なおディーツラント帝国との戦争を継続している。彼がティエンに招かれて燕翔の開発を始めたのは、時期的には両国が開戦する直前だ。ディーツラントの背後にシャイアの影があるのは周知の事実であり、ルインは間接的とはいえ敵国で航空機の開発を続けていたことになる。

 それどころかアルメアとシャイアが開戦した現在、アルメアと同盟を結ぶ各国もシャイアに宣戦を布告しているのだ。ケルティシュも例外ではない。本人の自覚はどうあれ、ルインの立場は敵国で航空機を開発する技術者となる。当然、ケルティシュ政府からは危険人物としてマークされているだろう。

「みんな、同じことを聞くんですよね」

 当然の疑問を口にしたユベールに対して、ルインがため息をつく。

「研究開発のために金と場所を用意してもらえるなら、僕はどこにだって行きますよ。そんなの、技術者として当たり前でしょう?」

 それは人によるだろう、という言葉は飲みこんだ。少なくとも、ルインの人柄はそれで理解できた。彼は飛行機以外の全てがどうでもいい、という類の人間だ。

「だったら、現状には不満があるんじゃないか」

「その通りです。分かっていただけますか!」

 ユベールが水を向けると、ルインが食いついてくる。

「テストパイロットは軍に横取りされ、機体そのものもシャイア政府に接収される恐れがあるからと慌てて逃げてきた先が、まともな設備もないこんな場所だなんて聞いてませんよ。これでは僕の才能を浪費しているに等しい。人類の損失です」

「シャイア軍に接収……やっぱりそうか」

 大陸国家で陸軍が強いシャイアでは、長らく飛行機が軽視されていた。そのため、航空技術開発においてシャイアは一歩劣るという評価を受けることが多い。燕翔に採用された先進的な技術は強引な手段に訴えてでも欲しかったに違いない。

 設計図はもちろん、実機だけでもリバースエンジニアリングで多くの知見を吸収できる。そこで得た知見と技術は軍用機の開発に活かされ、アルメアやケルティシュに向けられる。いち早く機体と技術者を国外へ逃がしたティエンは慧眼だった。

「予想以上に厄介な代物だな、こいつは」

 ため息交じりにこぼすと、ルインが首をかしげる。

「なんです?」

「いや、何でもない。なあルイン。見たところ、そちらも到着してまだ時間が経っていないんだろう? 明日、落ち着いたところを見計らってまた来るよ」

「もう帰ってしまわれるんですか? まだ燕翔の素晴らしさを説明し足りないのですが……分かりました。お待ちしてますので、くれぐれもお願いしますよ」

「ああ。フェル、行くぞ」

「もう行くのか? 了解した」

 燕翔の処遇を決めるまでの数日間、滞在先を確保する必要がある。廃工場を離れ、ニューホーンの街へと車を走らせる。話題は自然と燕翔に関するものとなった。

「ユベールはどう思った?」

「燕翔か。難しい機体だな」

 眉を寄せるユベールにちらりと目をやり、それから視線を戻してフェルが言う。

「わたしは、美しいと思った」

「美しい、か。確かにそうだな。綺麗な飛行機だよ、あれは」

 美しい飛行機がいい機体だとは限らない。

 しかし、いい飛行機は例外なく美しいことを飛行機乗りは知っている。

 余分な出っ張りを極限まで削ぎ落とした流線型の胴体、一見して奇抜にも見える前進翼と、優雅に広がるV字尾翼。ただ速く飛ぶことのみを見据えた、設計者の理想を具現化したかのような飛行機。燕翔はそういうエアレーサーだ。

「ユベールは、あれに乗りたいと思ったか?」

「思わない」

 フェルの問いかけに即答する。

「あの機体は人が乗るための飛行機じゃない。速く飛ぶために仕方なく人を乗せる、そういう飛行機だ。ヴィヴィならともかく、俺はごめんだね」

 ルインが持ってきた図面を一目見て理解できた。実際に乗るまでもなく、燕翔の乗り心地は最悪だ。窮屈に身体を縮めていないとキャノピーを閉めることすらままならず、下方と後方の視界はほぼゼロなので離着陸も困難。背中はシートを通してエンジンの熱にあぶられ、飛行が長時間に及べば機内は灼熱地獄と化すだろう。

 燕翔が求めるのは操縦装置であり、人ではない。それがユベールの感想だ。

「それを聞いて安心した」

「うん?」

 運転するユベールの横顔を覗きこんで、フェルが笑う。

「燕翔にはわたしの乗る場所がなさそうだからな」

「ああ、そりゃ大問題だ」

 ラジオから低く流れる音楽と、飛行機に比べれば格段に静かな車のエンジン音に身を任せる。相棒としてのフェルの距離感は、ユベールにとって心地いい。ヴィヴィと組んでいた時は、彼女に振り回されっぱなしでケンカも少なくなかった。

「ユベール。ティエンは結局、わたしたちにどうして欲しいんだと思う?」

 しばし間を置いて、フェルが問う。ユベールも同じ疑問を抱いていた。

「ティエンとは仕事上の付き合いしかないから、伝聞と想像を交えた話になるが」

 彼の立場ならどう考えるか、思考を巡らせながら続ける。

「過去に商売の邪魔をされたとかで、ティエンは今のシャイア政府を嫌ってると聞いたことがある。だが生まれ育った祖国を愛していないわけでもないんだろう。技術者も連れて中立国のアウステラに運んできたってことは、きっと燕翔とそれに使われている技術をシャイアにもアルメアにも渡したくなかったんだろうな」

「戦争中の両国が、エアレーサーを欲しがるのか?」

「欲しがるさ。エアレーサーには最先端の技術と頭脳が注ぎこまれる。その成果を軍用機にフィードバックすれば、大幅な性能向上が見こめる可能性もあるんだ」

「戦争のためか。ティエンはそれを嫌ったのか?」

「おそらく。間接的とはいえ、自分が関わった技術が人を殺すことになるんだ。まともな神経をしたやつなら、気分がいいはずもないだろう」

「……だろうな」

 反対側の窓に一瞬だけ映った沈痛な面持ちに、彼女の心中を思う。

 冬枯れの魔女の存在は、結果として多くの人間を死に追いやった。魔法による直接的な被害はもちろん、シャイア軍による占領地での報復行為や、魔女を恐れたシャイア兵による魔女狩りなど、間接的な被害も少なくなかったと聞く。

「ユベールは、ウィリアムの言葉を憶えているか?」

「アルメアのために役立てていただきたい、だったな」

 あの時は意味が分からなかったが、今なら理解できる。彼は燕翔がアルメアの手に渡ることを望んでいるのだ。シャイア人が経営するティエン商会の顧問弁護士であるウィリアムだが、名前と容姿から見ておそらくアルメア人だ。仕事は仕事として割り切りつつ、個人としてはアルメアの勝利を望んでいるのだろう。

 関わった人々にかけられた期待ばかりか国家の思惑までもが絡みつく、未だ空を知らぬ機体。その処遇をどうするかは、ユベールとフェルの決定にかかっている。

「どうしたものかね、まったく」

 ため息をつくユベールに、相棒はあくまで真摯に答える。

「ちゃんと考えよう。納得いくまで」

「ともかく、今夜はぐっすり眠りたいところだ」

「……そうだな」

 考えるべきことは沢山あるが、疲労で頭が回らない。

 今は一刻も早く、柔らかいベッドに倒れこみたかった。


5


 翌日、朝食を摂りながら今後の方針を話し合うことにした。

「改めて状況を整理しておこう」

 トーストにかぶりついていたフェルが黙ってうなずく。

「そもそも、今回の件が仕事になるかどうかという問題がある。言い換えれば、燕翔をどう評価するかだ。フェルはあの機体をどう見た?」

「昨日も言ったとおりだ。美しい機体だと思う」

「同感だ。まだ空を飛べないひな鳥にしては、という但し書きはつくにしてもだ」

「ルインに協力して、完成させられないのか?」

「難しいな。どれだけ能力があっても、設備と資金が調達できなければどうしようもない。時間の問題も考えれば分の悪い賭けと言わざるを得ない」

 航空機どころか農作物の加工に使われていた廃工場にまともな設備があるはずもなく、金食い虫のエアレーサー開発に資金を投じる決断を下せるスポンサーは拘束されて自由に連絡が取れない。両腕をもがれたに等しい状況だ。

「時間の問題というのは?」

「あまり時間をかけ過ぎると、燕翔が価値を失うケースも考えられる。ひとつはアウステラ政府がシャイア資産の差し押さえの範囲を個人から企業に広げた場合。燕翔が接収されれば、俺たちには手出しができなくなる。その前にティエン商会と正式に譲渡の契約を結ぶか……いや、後出しで無効にされる可能性もあるな」

 最悪、商会の資産隠しを共謀したとしてシャイアのスパイの疑いをかけられかねない。悪い冗談としか思えないが、リスクは認識しておくべきだ。

「それ以外にもあるのか?」

「ああ、例えば燕翔の開発が終わる前に央海戦争が終戦した場合。戦争が終わってしまえば、敵国に先んじようと技術開発を焦る必要はなくなるだろ?」

 実用化された技術は、いずれ他の国でも実用化される。現物を手に入れれば時間の短縮が見こめるが、そうでなくとも実現可能な技術はいつか開発されるものだ。

「売り払うならその前に、ということか」

「燕翔に採用されている技術は最先端のものだ。事実、ティエンがいち早く動かなければ開発に携わった技術者もろともシャイアに接収されていた。敵国で開発された最新鋭の試作機という触れこみなら、アルメアも興味を示すだろう」

「問題は、それを望まない人間がいることだな」

「今回ばかりは、全員が満足する結末にはならないかもな」

 ティエン・ホウは金に糸目を付けない道楽者と冷徹な経営者、ふたつの側面を持っている。外国から技術者を集めてエアレーサーを開発し、それが国家に接収されそうになったら国外へ避難させる一方で、自身がいなければ開発の継続は困難であることも理解している。商売の邪魔となる戦争を憎みつつも母国を嫌いになれず、積極的にアルメアを支援するつもりもない。彼が望むのは航空機に理解のある人間の手に機体が引き渡されること、それがアルメアに引き渡されないことだ。

 ウィリアム・クレインはシャイア商会の顧問弁護士で、現在は拘束されたティエンに代わって諸事を取り仕切っている。仕事は仕事と割り切って取り組むタイプだが、アルメア人として、アルメアの勝利を願っていると推測される。彼は金食い虫の燕翔を手放し、それがアルメアの技術開発に活かされることを望んでいる。

 ルイン・ジュードロウは燕翔の設計開発主任者で、ティエンに見こまれて高額で雇われた優秀な技術者だ。ケルティシュ人でありながらシャイアで航空機開発することを意にも介していない根っからの飛行機屋で、アウステラへの避難で開発が停滞しているのを不満に思っている。彼が望むのは燕翔の完成のみ。

 燕翔に関わる各人の利害は必ずしも一致しない。ユベールとフェルがどんな決断を下すにしろ、誰かの期待を裏切ることになる。ここに先進的な技術を欲するシャイアやアルメアの思惑も絡むとなれば、正解を見出すのは容易ではない。

「確認しておくが、俺たちの目的は燕翔を完成させることでもなければ、誰かの望みを叶えることでもない。それは分かってるよな?」

 そもそも今回の案件は降って湧いたようなものだ。もし得るものがないと見れば、手を引くことも考えなくてはならない。その確認だった。

「理解している。わたしたちの目的は後継機の建造費を稼ぐことだ」

 心得顔でフェルが答える。それだけ聞ければ十分だった。

「オーケー、その上でフェルはどうしたい? シャイアに渡すのは論外として、アルメアに渡しても戦争に利用されかねないという点では同じだ。俺は金にさえなるならそれでも構わないと思っているが、お前はどう考えてるかを教えてくれ」

「わたしは……」

 考えをまとめるように、ゆっくりと瞬きするフェル。

『アルメアに引き渡すのは反対です』

 ルーシャ語に切り替えるフェルに黙ってうなずき、先を促す。

『わたしがどのように考えているかとは関係なく、わたしの言動はルーシャの冬枯れの魔女、フェルリーヤ・ヴェールニェーバのそれとして捉えられる恐れが常にあります。アルメアに燕翔を引き渡し、そこからわたしの身元を探られた場合、両政府には冬枯れの魔女がアルメアに味方しているという誤ったメッセージを伝えることにもなりかねません。ユベール、わたしの危惧は大袈裟なものでしょうか?』

 ゆったりとした語調、上品さを損なわない程度にかしげられる首。フェルリーヤとしての彼女は、雰囲気や仕草も貴種としてのそれへと一変する。

「いや、その危険は考慮されて然るべきだ。お前が正しいよ、フェル」

『シャイアを憎む気持ちはあります。しかしアルメアに味方することが、ルーシャの……今もあの地に生きる民のためになるという確信を、わたしは持てません。ましてや一時の金策のために一方へ肩入れするなど、許されることではありません』

 憂慮にまつげを伏せるフェルに返す言葉を、ユベールは持てなかった。祖国を失ったという境遇は似ていても、その後の十数年を飛行機乗りとして生きることで折り合いを付けたユベールと、今なお責任を感じ続けているフェルでは重みが違う。

「無理を言ってすまない。ペトレールを壊したのはわたしなのに……」

「それは気にするなって何度も言っただろ」

 テーブル越しに、申し訳なさそうなフェルの頭に手を伸ばす。

「お前の考えはよく分かった。燕翔はシャイアにもアルメアにも渡さない方向で調整しよう。確かに金にはならなさそうだが、少なくともティエンに恩は売れる。次の仕事に繋がるなら、まるっきり無駄ってわけじゃないさ」

「いいのか? ……っ」

 乱暴に頭を撫でられ、うっとうしそうにしながらも喜ぶフェル。

「相棒のたっての願いだ。叶えてやらないわけにはいかないだろ」

「ありがとう、ユベール」

 戦火に包まれるルーシャからフェルを救い出して半年あまり。彼女は驚くべきスピードで物事を学び、航法士としても人としても成長している。フェリクスに救い出されたユベールが飛行機の操縦に四苦八苦していたのとは大違いだ。

「ユベール?」

 物思いにふけっていたユベールを、フェルの声が引き戻す。

「ああ、いや、シャイアにもアルメアにも引き渡さないと決まったはいいが、どうしたものかと考えてたんだ。フェルはなにか思いついたか?」

「すまない、すぐには思いつかない」

 自分が言い出した手前もあるのだろう。フェルは真剣な表情で考えている。このご時世に民間の買い取り手がいるとは考えにくく、いたとしても転売で両国に流れてしまえば意味がない。自分たちで乗るにも適さないとなると、選択肢は限られる。

「こうなると問題は機体だけに留まらないしな」

「どういうことだ?」

「ルインだよ。あいつが機体の廃棄を素直に受け入れると思うか?」

 ユベールの言葉を聞いたフェルが納得の表情を浮かべる。

「絶対に抵抗するだろうな。目に浮かぶようだ」

「抵抗するだけならいいが、設計図を持ち逃げしてシャイアやアルメアに身売りでもされたら目も当てられん。なんとかあいつを説得する方法も考えないとな」

 所有者であるティエンから任せられた燕翔よりも、そちらの方が問題だった。ルインの頭脳と彼の行動について、ユベールとフェルに干渉する権利はないのだ。

『いっそ、息の根を止めてしまいましょうか……?』

 にっこり笑って物騒なことを口にするフェルにやや引いてしまう。

「スパイどころか殺人容疑かよ。勘弁してくれよ」

 額を押さえて首を振るユベールを見て、フェルがふっと笑う。

「冗談だ。その件についてはわたしに考えがある」


6


 方針は決まったので、準備を済ませてから廃工場へ向かうことにした。昼過ぎに到着してみると、何やら雰囲気が重い。技術者たちは頭を寄せ合って相談していた。

「どうかしたのか?」

「ああ、えっと、ユベールさんでしたか」

 ルインを探して声をかけると、彼は苦々しげに顔をしかめた。

「遅いじゃないですか。ウィリアムさんから連絡はありましたか?」

「聞いていないが、悪い報せか」

 ルウィンダに残ってティエンの早期解放と商会の資産保全に尽力するウィリアムがこのタイミングで連絡してくるとなると、その可能性は高かった。

「輸送船の船員による密告があったそうです。シャイアの会社が厳重に封印を施した貨物をニューホーンに陸揚げした、違法な品物を密輸したのではないかってね。当局は密告を重く見て商会の資産差し押さえに踏み切ったそうですが、商会の扱う品物に違法性は全くないから慌てずに、港にある倉庫の捜索を受ける事態になったとしても当局の指示に従い、無用な混乱を避けるようにとのことでした」

 央海戦争が始まって以来、シャイア人に向けられる視線は厳しくなっている。燕翔の機密漏洩と輸送中の破損を防ぐための過剰に丁寧な取り扱いがあらぬ疑いを呼んだのだろう。すでに個人資産の凍結を決めたアウステラ政府に、まっとうな法治主義は期待するべくもない。今この瞬間、当局に踏みこまれてもおかしくなかった。

「連絡を受けた場所と時間は分かるか」

「ええと、ニューホーンにある商会の事務所に、今朝九時ごろですね」

 腕時計に目をやる。すでに電話から三時間が経過している。

「搬出の準備は?」

「搬出、ですか?」

 オウム返しにするルインの姿に、思わずため息をつく。

「盗聴される危険を冒してウィリアムが連絡してきた理由を考えろ。資産隠しの指示をしたという言質を与えずに、燕翔を別の場所へ移すためだろうが」

「ああ、なるほど。そういうことですか」

 鈍い返答に苛立つ気持ちを抑えつける。こうした事態に慣れていない技術者たちでは仕方のないことだ。具体的な指示も付け加えてやることにした。

「理解できたら、さっさと主翼を取り外してトレーラーに積みこんでくれ」

「ううん、しょうがないですね」

 ルインが指示を出し、技術者や整備士たちが動き出す。作業が終わる前に踏みこまれる事態に備えて、念のためにニューホーン方面の道路が見通せる場所で待つことにした。車にもたれて煙草に火を付けると、隣にフェルがやってくる。

「この場所がバレる可能性はあると思うか?」

「さあな。ルインたちの迂闊さと、アウステラ警察の有能さによるだろ」

 周辺に人家はないが、地域の住人が廃工場に停まる不審なトレーラーと十数人の男たちを目撃した可能性はある。警察が港にあるシャイア商会の捜索で満足せず、郊外まで捜査の手を伸ばせば、燕翔を運びこんだ先はすぐに露見するだろう。

「作業完了まで二時間ってところか。ウィリアムの電話から数えれば五時間。もう手が伸びてきてもおかしくない頃合いだ。警官に鼻薬をかがせる手もあるが、効果がなくてあえなく逮捕されるなんて結末はなるべく避けたいところだな」

「もしアウステラにいられなくなったら、行く先はあるのか?」

「サウティカのアル殿下を頼るか、ジウラス大陸を目指すか。アルメアも西海岸なら落ち着いてるし、今までに旅した場所の様子を見に戻るのもいいかもな」

「新型機の開発状況も気になるところだ」

 ルーシャから始まったフェルとの旅も半年が経とうとしている。ニューホーンの経度は旧ルーシャ領にかかっているので、ほぼ地球を一周したと言える。まだ訪れたことのない国や場所はいくらでもあるが、ひとつの区切りではあった。

「その新型機のためにも、交渉を成功させないとな」

 当局の動きが予想外に速かったために修正を迫られたが、フェルと話した当初の計画は実行できる。事の成否はユベールの交渉力にかかっていた。

「交渉は任せる。頼んだぞ、相棒」

「丸投げかよ……」

 清々しいまでの割り切りっぷりだった。

「ルインの性格を考えても、その方が上手くいくだろう」

「仕方ないな、任されたよ」

 フェルの見立ては正しい。ここまでのルインの対応を振り返ると、彼はユベールだけを相手と見做している節がある。フェルをただの子供だと侮っているか、ああした技術者肌にありがちな女性を苦手とするタイプの人間なのだろう。



「いつでも出発できますよ、ユベールさん」

 手持ちの煙草が全て灰になるころ、作業が完了してルインが呼びに来た。

「よし、全員を集めてくれ」

 トレーラーの前に集まった人々の顔を見渡す。ユベールやフェルとは比べものにならないほど燕翔に深く関わり、少なからぬ思い入れを持つ人たちだ。ティエンの知り合いというだけで機体を横取りされて、おもしろいはずもない。トレーラーの前に立つ二人に向けられるのは、不信と敵意の視線だった。

「さて、改めて挨拶させてもらおう。トゥール・ヴェルヌ航空会社の社長を務めるユベール・ラ=トゥール、そして航法士のフェル・ヴェルヌだ」

 値踏みするような視線をものともせず、フェルが軽く頭を下げる。

「すでに聞いていると思うが、アウステラ政府はティエン氏を拘束するに飽き足らず、君たちの頭脳と技術の結晶である燕翔をも奪おうとしている。ティエン氏の友人として、また一人の飛行機乗りとして、これは私にとっても許しがたいことだ」

 数人がうなずく。ここからどう話を転がすかが重要だ。

「我々にとって最悪の事態とは、燕翔という最新鋭機を国家権力が労せずしてかすめ取っていくことだ。彼らはエアレーサーとしての燕翔に価値を見出さず、要素技術の軍事転用を画策している。燕翔は解体され、本来の開発者である君たちの功績は軍のお抱え技術者にかすめ取られることだろう。では、どうすればそのような結末を回避できるか。私から君たちに、みっつの案を提示できる」

 燕翔の開発者たちと機体を奪いにきたユベールたちという対立を、燕翔を守りたいユベールや開発者たちと燕翔を軍事利用したい国家という構造にすり替える。事を円滑に進めるため、彼らにはユベールを味方だと認識してもらう必要があった。

「ひとつは、燕翔を完成させる案。機体さえ完成すれば、空からアウステラを脱出できた。しかし、密告により燕翔の存在が露見した今、それを待つだけの時間的な余裕はもうない。もうひとつは、機体を破棄する案だ。機体は失うことになるが、少なくとも国家権力の横暴に対して一矢報いることはできる。設計図と技術者さえ第三国へ逃がせれば燕翔の再建造は不可能ではない。だが、これは最終手段だ」

 皆、じっとユベールの言葉に耳を傾けている。できれば燕翔を救いたい、という気持ちは全員に共通するものだ。理解が浸透するのを待って、続ける。

「第三の案は、隠匿だ。幸い、当局は運びこまれたのが航空機だと知らない。燕翔を隠して、トレーラーにはこの辺りの適当な産物を積んで戻れば誤魔化せる。露見するリスクはあるが、戦争の終結まで隠し通せればこちらの勝ちだ」

 ユベールが言葉を切ると、にわかに希望が出てきたことで場がざわつき、技術者たちから活発に質問が飛び始める。

「隠し場所はもう決まっているのか?」

「ここに来る前に見繕ってきた。ただし、正確な場所は教えられない。知れば、当局の尋問を受けたときに嘘をつく必要が出てくる。最悪、偽証罪に問われることも考えれば、隠し場所を知る人間は最小限に抑える必要があるんだ」

「具体的には誰が隠し場所を把握することになるんだ?」

「顧問弁護士のウィリアム、開発責任者のルイン、そして開発再開の暁にはテストパイロット候補となる私とフェルの四人を考えている」

「開発を中断して、俺たちはどうなるんだ?」

「ウィリアムとも相談して、残るにしろ出ていくにしろ各人の希望を最大限に尊重する。もちろん、開発を再開する際には優先的に声をかけることになるだろう」

 質問が落ち着くのを見計らって手を打ち鳴らす。

「さあ、あまり時間がない。残りの質問は戻ってきてからにしてくれ。ルイン、代表として同行を願いたい。残りのメンバーは撤収の準備を進めてくれ」

 ユベールの言葉に従って全員が動き出すのを確認して、トレーラーに乗りこむ。ハンドルを握り、フェルとルインが乗るのを待って出発した。

「目的地まで一時間はかかる。その間に話したいことがあるんだが」

「なんですか?」

 助手席で返事をするルインは不機嫌さを隠そうともしていない。おもちゃを取り上げられる子供のような態度に思わず苦笑が漏れる。

「ルインはこれからどうするんだ?」

「燕翔のないティエン商会に未練はありません。アルメアかシャイアに行けば軍の仕事があるでしょうから、これが終わったら船を探します」

 微塵のためらいもない口調で言い切るルイン。だが、シャイアは決して外国人の技術者を重用しないし、アルメアも敵国で航空機を開発していた人間に新型機の開発を任せるほど人材に困っていない。彼が思うほど再就職は上手くいかないだろう。

「アルメアに行く気があるなら、軍よりも自由にやれる場所がある。ヴェルヌ社の名前を聞いたことはないか? そこで今、おもしろい水上機を作ってるんだ」

「ああ、ヴェルヌ社なら名前を聞いたことがあります。知り合いなんですか?」

「社長のフェリクスとは十年来の付き合いだ。ルインほどの才能なら大歓迎だろうな。興味があるなら、今回の件の詫びも兼ねて紹介状を書かせてもらうよ」

「ふむ……おもしろい水上機、というのは?」

 ルインが徐々に興味を示し始める。もう一押しだった。

「魔法のように戦局を変えうる飛行艇だ、と言ったら信じるか?」

 ユベールの言葉を聞いたルインが吹き出す。

「これは大きく出ましたね」

 ルインを新型機の開発に引き入れるのはフェルの発案だ。もし彼が信じなければ、魔法を実演してみせる手筈になっている。代表者として彼一人を連れてきたのも、目撃者が彼だけなら魔法などという妄言を信じる者もいないからだ。

「いいでしょう、どうせアルメアには行く気でしたからね。実際の機体を確認して、貴方の言葉の真偽を確かめるとしましょう」

「決まりだ。運転中で握手もできんが、よろしくな、ルイン」

「代わりにわたしが。よろしく、ルイン」

 フェルが差し出した手を、やや挙動不審になりながらルインが握り返す。

「よ、よろしく。ええと、フェルさん……でしたっけ」

 ルイン・ジュードロウ。誘われたのが戦争中の敵国だろうと意にも介さない無節操さと、確かな才能を併せ持つ有能な技術者。彼をトゥール・ヴェルヌ航空会社の命運を握る新型機開発に関わらせるのは、一種の賭けだった。

 この選択がよき結果に繋がるかどうかが分かるのは、まだ先の話だ。


7


 すでに話を付けてあった農家の納屋に燕翔を運び入れる。農場の拡張に伴い使われなくなった場所だそうで、農家の主人は格安で貸してくれた。オイルや燃料は抜き、防水布で梱包してあるので運がよければ終戦後にレストアできるはずだ。

「どれくらいの期間、保管できるんだ?」

 帰りのトレーラーの中で、フェルが質問する。

「場所についてはひとまず三年の約束だ。その間、機体が保つかどうかは賭けだな。アウステラは乾燥した気候だから、木造飛行機でもすぐ腐りはしないだろう」

 率直に言って、楽観視はできない。当局に発見されたり、農家の主人に告発される可能性も考えれば、終戦後に燕翔をレストアできるかどうかは一種の賭けだ。

「ルインは同僚に挨拶しなくていいのか?」

「問題ありません。それより、貴方たちのいう飛行艇を早く見てみたい」

「分かった。ニューホーンに運び屋の知り合いがいるから、紹介しよう」

「ユベールさんが送ってくれるんじゃないんですか?」

「残念だが、ギルモットは二人乗りなんだ」

 ルインには言わないが、ヴェルヌ社で建造中の新型機とフェルの関係をアルメア政府に知られるリスクを避けたい、という事情もあった。燕翔と違って接収してどうこうできるものではないが、慎重に進めるに越したことはない。

「それじゃ、力を貸してくれることを祈ってるよ」

「ええ、僕が手がけるのですから最高の飛行機になりますよ」

「また会おう、ルイン」

 要人輸送を専門とし、密入国も請け負う知り合いの飛行機乗りにルインを預け、ニューホーンからルウィンダへ飛んだ。顧問弁護士のウィリアムに報告するためだ。ティエンの釈放や商会の維持のために忙しく飛び回る彼と連絡をつけ、事の顛末を説明する。彼は黙って説明を聞き終えると、事務的にうなずいた。

「燕翔の処遇と保管場所、それから開発主任の退職について、確かに承りました。廃材の処分に関する契約書類を準備しますので、少々お待ちください」

 席を外したウィリアムが、五分ほどで戻ってくる。予め準備を済ませていたらしい。燕翔を廃材として扱い、譲渡費用と処分費用で相殺する形だ。サインを済ませ、燕翔は正式にトゥール・ヴェルヌ航空会社の所有物となった。未完のエアレーサーは解体を待つ間という名目で、アウステラの田舎にある農場に一時保管される。

「すまなかったな、あんたの希望に沿えなくて」

 ユベールの言葉に、ウィリアムが苦笑する。

「こちらこそ、つい仕事に私情を挟んでしまって……お恥ずかしい限りです」

 その先を続けるか迷うような一瞬の間を置いて、ウィリアムが言う。

「ええ、誰の手にも渡らないという結果になってよかった。商会の人間ではない貴方にだから言えることですが、私はティエンのことが嫌いではないんですよ。人格の面でも、報酬の面でもね。彼を裏切ることにならなくて、本当によかった」



 ウィリアムと別れ、夕食を取ることにした。もう遅い時間なのでルウィンダで一泊するとして、明日からの動きをフェルと話し合っておきたかった。

「さて、今後の話をしておこう」

 ユベールが切り出すと、フェルがステーキを切り分ける手を止める。

「燕翔の件はこれで片付いたが、ルインと知り合えたのはともかく金にはならなかった。まったく、アウステラに来てからツキに見放されたようだな」

「次の仕事に当てはないのか?」

「今さらだが、ギルモットで請けられる仕事はどうしても限られるんだよな。燃料代もタダじゃないし、いっそ新型機が形になるまで休暇にしてもいいくらいだ」

 アルメアやシャイアといった北半球の国々が情勢の悪化で立ち寄りにくくなり、行動範囲が制限されているのも問題だ。南半球の国々では航空機の普及が進んでいないので、整備や給油を考えると費用とリスクの面で問題がある。

「フェルは行きたい場所はあるか?」

「……また、わがままを口にしても構わないか?」

「言ってみろよ、相棒。相談なら乗るぜ」

「ルーシャに行きたい。あの国の現状を、自分の目で確かめたい」

 半ば予期していた言葉だった。責任感の強い彼女が、そのことを考えていなかったはずもない。今までは、遠慮もあって言い出せなかったのだろう。

「いくつか問題はある」

「分かっている。無理を言ってすまない」

 目を伏せる彼女の頭を撫でて、前を向かせる。

「待てよ。ダメだって言いたいわけじゃない」

 いつか、フェルがルーシャに帰る日は訪れる。

 そう考えて、ルーシャの情勢には気を配っていたのだ。シャイアの統治下で外に漏れ出す情報は少ないが、それでも手に入れる手段がないわけではない。

「アルメアとの戦争で、シャイアはルーシャを気にかける余裕がなくなっている。すぐには無理でも、それを目的に動けば遠くないうちに機会は作れるはずだ」

「本当か?」

 目を輝かせるフェルだが、すぐに心配そうな表情になる。

「だが、ユベールも危険に巻きこむことになる」

「今さらだろ? それより、お前は本当にいいのか?」

「何のことだ?」

「ルーシャに戻れば、ただのフェルではいられなくなる。シャイアに狙われるのはもちろん、レジスタンスや残党軍からは反シャイアの旗印として期待をかけられるだろうし、平穏な生活を維持したい民衆から恨まれることもあるだろう」

 ユベールの言葉をじっと聞いていたフェルが、ゆっくりと瞬きする。

『覚悟の上です。場合によっては、わたしだけでなく貴方に命の危険があることも。それでも、わたしは……いつの日か、ただのフェル・ヴェルヌとして貴方の隣に在るために……フェルリーヤ・ヴェールニェーバであることに向き合わなければならないのです。こんなわたしに着いてきてくれますか、相棒?』

 親愛に満ちた笑顔で見つめられて、改めて直視させられる。

 命を懸けてもいいと思えるほど、彼女のことが好きになっていることを。

「当然だろ、相棒。お前が行きたいなら、どこにだって飛んでやるさ」

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