第9話 航海者の杯を満たすは幻の酒
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サファイアのように深い蒼を湛えた南央海は、極端に島が少ない海として知られる。寄港地の少なさは航海の難易度に直結し、古来より航海者は安全を取って大陸伝いの沿岸航海か、危険な賭けとなる大洋の横断かの選択を強いられていた。
南央海の中央に大型船の接岸と補給が可能な無人島が発見されたのは、ほんの二百年前のことだ。ケーフィランドと名付けられたその島は、現在では船のみならず、南央海を飛ぶ飛行機にとっても貴重な補給地点となっている。
「長距離飛行もこう連日だと厳しいな」
ルーカでの滞在は半日足らず。トルジアを発ってから三日間で五千キロ弱を飛んだ計算だが、目的地であるアウステラ連邦のルウィンダ空港は未だ二千キロの彼方だ。思わず愚痴をこぼすユベールを気遣うように、フェルが声をかけてくる。
「ユベール、もう日が暮れる。今日はここまでにしよう」
「……そうだな。居眠りして墜落するよりマシか」
眉を寄せて思案するユベールの様子を見て、フェルが問う。
「この島で一泊して問題があるのか?」
「ケーフィランドは南央海の重要拠点で、エングランド王国と関係が深い」
「シャイアが仕掛けてくる可能性があると?」
ユベールの言葉から察したフェルが後を引き取る。
「いや、あくまで可能性の話だ。急な開戦で、シャイア海軍が付近に展開していたとも思えない。この先は分からんが、早々に発ってしまえば問題ないはずだ」
「分かった。それなら早めに宿を取って、夜が明けたら飛ぼう」
ギルモットに燃料を満載し、宿へ向かう。疲労で頭が重く、シャワーを浴びてベッドに倒れこむと早々に寝入ってしまった。翌朝、窓から差しこむ陽光で寝過ごしたことに気付いて飛び起きる。眠そうなフェルをギルモットに積みこんで出発する。
しばらく飛んでいると、フェルが遠慮がちに声をかけてくる。
「すまない、ユベール。昨日はよく眠れなかった」
「疲れてたんだろ、仕方ないさ。俺も寝過ごしたしな」
「それだけじゃない。アルメアで出会った人々のことを考えていた」
「心配なのは分かるが、大丈夫さ。みんな上手くやってるよ」
「そうだといいが」
成り行きでトゥール・ヴェルヌ航空会社に所属していたアンネマリーたちのことは、フェリクスに頼んである。ああ見えて面倒見がいいので、決して悪いようにはならないはずだ。西海岸にいるアーロンやサンディがすぐ戦火に巻きこまれる可能性は低く、カーライル社のテストパイロットを務めるヴィヴィは戦争でなくとも命の危険があるという意味では変わらない。彼女については心配するだけ無駄だ。
「ユベール、シャイアは勝算があって仕掛けたのだろうか?」
「分からん。だが、大陸のディーツラント戦線が落ち着きつつあるこのタイミングで仕掛けてくるのは妙だな。もっと早く仕掛けていれば、アルメアが大陸に戦力を振り向ける余裕はなかったし、大陸での反攻作戦も大幅に遅れていたはずだ」
「ディーツラントを囮にして、アルメアの戦力を分断した可能性は?」
「それはどうかな。アルメアはシャイアに備えてアヴァルカ半島に配置した主力を温存したまま動かしていない。加えて、志願兵で編成された新規部隊も大陸戦線を経て歴戦の部隊へと成長した。彼らがディーツラントを横断して背後を突けば、シャイアは逆に広い国土の両端で戦力を二分されることになる」
東西で六千キロに及ぶシャイア帝国の領土を横断するのは並大抵のことではなく、かつては往復にその生涯を費やして莫大な富を手にした商人がいたほどだ。道路や鉄道が整備され、飛行機が行き交うようになっても遠いことには変わりなく、人員に兵器や兵站も含めた軍を移動させるためには莫大な費用と時間がかかる。
「シャイアは不利と知ってなお開戦する理由があった、ということか?」
「あるいは偶発的なものか。勘違いから開戦に至る例もないわけじゃない」
ユベールとユーシア王家の関わりについては、すでにフェリクスからフェルへ伝えられている。アルメアとシャイアの開戦にユーシアの残党が絡んでいると知ったら、彼女はどう受け取るだろうか。聡い彼女のことだ。そもそもユベールがフェルに接近した意図にまで思い至る可能性を考えると、迂闊なことは口にできなかった。
「考えて答えが出る問題じゃない。もっと情報が集まってから話そう」
「了解した。そうしよう」
話題を切り上げ、操縦に集中する。赤道を越え、外気とエンジンの排気で熱せられた空気でコクピットの中は酷く蒸し暑かった。キャノピーを細く開けて風を入れると、フェルも同じようにキャノピーを開き、指先を外に出して風を感じていた。
藍色の海は穏やかで、雲のない空は色が濃い。平衡感覚を失いそうな蒼の天球を飛んでいると、水に浮かんで揺蕩っているような気分になってくる。正しい方向へ進んでいると教えてくれるのは計器の示す数値、そして航法士の声だけだ。
「ユベール、二時方向のあれは島影か?」
フェルの示す方向を見ると、確かに島影らしきものがあった。しかし、アウステラ大陸が見えてくるにはまだ早い。あるとすれば未発見の島だが、多くの船乗りや探検家が惑わされてきたそれの正体をユベールは知っている。
「ありゃ蜃気楼だな。どれだけ飛んだって着かない、幻の陸地だよ」
「そうか。確かに魔力を感じないな」
「興味本位で聞くんだが、水平線の先にあるアウステラ大陸は感じ取れるのか?」
「どうだろうか。十二時方向にあるような気がするが、そうと知っているからそのように思えるだけかも知れない。そこは緑豊かな場所なのか?」
「いや、特に内陸部は乾燥していて砂漠が多い。そういやサウティカでも、砂漠は魔力が薄いって言ってたな。アウステラ大陸も同じってわけか」
「おそらく、そうなのだろう」
会話をして暑さを紛らわせようとする試みは、どうやら無意味なようだった。水筒からぬるい水を口に含み、ぼうっとする頭をはっきりさせる。
「それにしても、暑いな」
「そうだな」
暑さで口数が減りがちな中、無心で飛行機を飛ばし続ける。目指すアウステラ大陸が見えてきたのは日が傾き、ようやく気温が下がってきた頃だった。
「見えた。ルウィンダ空港だ」
「ユベールは以前も来たことがあるのか?」
「ルウィンダを含め、いくつかの都市を訪れただけだ」
「共通語は通じるのか?」
「エングランド王国の植民地として始まった国だから、通じると考えていい。奥地の原住民は独自の言語を喋るが、都市部にいる限り意思の疎通に問題はない」
「シャイアやアルメアとの関係は?」
「形式上、今でも女王を君主とするエングランド連邦の加盟国だから、エングランドやアルメアとは友好国だ。しかし地理的にはシャイアに近いこともあって、経済的にはシャイアとの繋がりも強い。外交では独自の立場を貫く国だ」
「独自の立場?」
「要するに、不干渉だな。どっちの陣営もアウステラ連邦を敵に回したくないから迂闊に手出しはしないし、アウステラもよその戦争に積極的に関わろうとはしない。つまり、俺たちが身を隠すにはうってつけの国ってわけだ」
「なるほど。理解した」
「降りるぞ。流石に疲れたし、今日はさっさと休みたい」
「同感だ」
南半球に位置するアウステラ連邦は、北半球の諸国とは季節が逆になる。入植者たちが最初に上陸した地でもあるルウィンダは、冬でも泳げるリゾート地として多くの外国人が訪れる。海に面した空港は大型の水上旅客機も接岸できる本格的な作りで、街の中心部とのアクセスも良好な立地だ。
針山のように海へ突き出す桟橋のひとつにギルモットを係留する。周囲には世界各国の航空会社が所有する料理人付きの大型旅客飛行艇や、近海の島巡りをするのだろう旧型の飛行艇が数多く停泊していて壮観だった。
「ユベール」
袖を引かれ、フェルが指差す方向を見ると、個人所有と思しき豪華な中型飛行艇が停められていた。彼女がその飛行艇を気にした理由はすぐに分かった。機体側面に記された円形の国籍マーク。シャイア帝国の識別だった。
「シャイアの機体か。気にするなと言ってもお前さんには難しいだろうが、見たところ危険はないはずだ。少なくとも、お前を追ってきたわけじゃないさ」
ユベールを見上げるフェルの目がすっと細められる。
「なぜ分かる?」
「機体の周りをよく見ろ」
真新しい機体の胴体には国籍マークを除けば航空会社を示すマークや文字などが見当たらず、個人所有の飛行艇であることを示していた。加えて飛行艇の周りには専属の整備士や機関士の姿があり、桟橋では料理人と思しき人間が食材などの積みこみを指図している。これだけの人間を雇っているとすれば、かなりの富豪だ。
「見ろよ、整備士に機関士、料理人まで乗せていやがる。機体も初めて目にする型だ。おそらくシャイア人の大金持ちが自家用機で遊びに来てるんだろう。当然、パイロットも専属で雇われてるはずだ。金にならんから、放っておけ」
「了解した」
心なしか不満げな返答の後、舌打ちする音が聞こえた。
「頼むから、妙なことを考えるなよ?」
「妙なこととは?」
こちらを見上げ、薄く笑う彼女の目は笑っていなかった。何を考えているのかが読めず、不安が残る。そんなユベールの微妙な心情を察してか、フェルが笑う。
「冗談だ。そんな捨てられた子犬のような顔をしなくてもいい」
「お前な……」
からかわれたことへの軽い怒りと、いつの間にか語彙や表現が豊かになって冗談まで飛ばすようになった彼女への賞賛の気持ちが心中に湧き上がる。何を口にするか迷っていると、背後から突然なれなれしく肩を叩かれた。
「ユベール、ユベールじゃないか、久しぶりに見たよ!」
シャイア訛りの共通語に気安い態度。椿油を塗ったつやのある黒髪をポニーテールにくくったラフな格好の男は、旧知のパイロット仲間であるロンだった。
「ロン。お前こんなところで何を……ああ、そういうことか」
言いかけて、途中で気付く。つまり彼がシャイア機の操縦士なのだ。
「彼は?」
シャイア系の見た目に警戒心を露わにしたフェルが問う。
「知り合いの操縦士だよ。名前はロン。ロン、こっちは俺の相棒のフェルだ」
「相棒? 娘か愛人じゃなくて?」
「笑えない冗談だな。フェルは腕のいい航法士だよ」
「ふうん。ええと、フェルだっけ、よろしくね。ユベールの親友のロンだよ」
「誰が親友だ」
握り拳をもう一方の手で包む抱拳礼をするロンに突っこんでおく。彼は飛行機乗りとしては平凡で、口も軽く信用が置けないが、他人に取り入るのが上手い。冒険や名声には興味がなく、お抱えのパイロットとして安定した生活を送りたい人種だ。
「今でもティエン・ホウに飼われてるのか?」
「おっと、雇い主の情報は迂闊に言えないよ。まあ、その通りなんだけどね」
へらへらと笑って答えるロンは放っておいて、フェルに説明する。
「ティエン・ホウはシャイア人の大富豪だ。やり手の会社社長で、何度か仕事を請けたことがある。あの機体もティエンが個人的に所有する機体のようだな」
「いい機体だろ? ハイロウって言うんだ」
自分の機体でもないのに自慢げなロンに重ねて問う。
「ルウィンダには仕事で来てるのか?」
「社長は遊びながらでも仕事する人だよ。知ってるでしょ」
「ダメ元で聞いとくが、操縦士と航法士は必要か?」
「なに? 仕事探してるの?」
「たまたま予定が空いてるだけだ」
「ふうん。それならいい話が……おっと、これは言っちゃダメだったよ」
「何だよ、言えよ」
「ご主人様に怒られちゃうからね。いくら僕とユベールの仲でも言えないよ」
にやにやと笑って肩をすくめるロン。構って欲しいという態度が透けて見える。こういう相手に食い下がるのは逆効果なので、声のトーンを落として告げる。
「そうか。ならお前に用はない。いくぞ、フェル」
そのまま踵を返すと、慌てた様子のロンが声をかけてくる。
「待ってよユベール、つれないなぁ」
「お前の無駄話に付き合ってる気分じゃないんだ」
「じゃあ、どこかのバーでカクテルでも飲んで疲れを癒やすといいよ。バウ通りのヒュプノシスって店がお勧めだ。きっといい儲け話に出会えるんじゃないかな」
「わかった、そうするよ」
ロンと別れ、街中へ向かう途中でフェルが話しかけてくる。
「あからさまだったな」
「笑っちまうよな」
フェルが言っているのは別れ際のロンの態度だ。バーに向かえと言いながら、下手なウィンクをしきりと送ってくる様子は滑稽で、思わず吹き出しそうだった。
「ヒュプノシス、だったか。あまり期待はせず、行くだけ行ってみるか」
「バウ通りと言っていたな。ここから近いのか?」
「すぐそこだ。観光客向けの店が並ぶ通りだから、危険もない」
南国風の木々が植えられた並木道には、水着に一枚だけ羽織ったような格好の人間も多い。白銀に輝く髪とセーラー服のフェルはどこの国でも人目を引いたが、国籍も人種もばらばらな観光客で賑わうこの街ではそれほど目立たずに済みそうだ。
目当ての店はほどなく見つかった。看板にはダイニングバー・ヒュプノシスとあり、昼飯は機上で簡単に済ませた身としてはありがたかった。
「腹が減ってるだろ、フェル。ついでだから飯にするか」
「そうしよう。空腹で目が回りそうだ」
開放的で浮ついた街の雰囲気に当てられたか、おどけた様子で目を回してみせるフェル。強がりとも取れるそんな態度が、どこか痛々しく見えた。
2
ダイニングバー・ヒュプノシスは観光客向けに酒と食事を提供する、気取らない雰囲気の店だった。繁盛しているらしく、テーブルは全て埋まっている。バーテンダーに目を向けると、こっちでもいいかと問うようにカウンターを指で叩く。
フェルも構わないとうなずくので、スツールに並んで座る。ベストに蝶ネクタイ、髭面の伊達男がカウンターの向こうから微笑みかける。
「ヒュプノシスへようこそ。注文は決まってるかい」
「ステーキとマッシュポテト。酒は、そうだな……」
バックバーに並ぶ酒瓶に目を向ける。予想外に充実したスピリッツと、南国らしいリキュールの数々に目を見張る。エングランド王国の植民地だったという経緯もあって、エングランド系のウイスキーやジンの品揃えが特にいいようだ。
「ネイビスクラフ十二年をストレート、ダブルでもらおうか」
ユベールの注文にバーテンダーがにやりと笑い、フェルに目を向ける。
「お嬢さんは?」
「わたしもユベールと同じものを」
「おっと、残念だが未成年にアルコールは出せないな」
「ノンアルコールのカクテルでも作ってもらうか」
ユベールの助言にフェルがうなずく。
「そうしよう」
「だったらお勧めのカクテルがある。任せてもらえるかい」
「任せる」
再びうなずくフェルにバーテンダーがウインクしてみせるが、彼女は全く意に介さず、ログブックを取り出して今日の行程と所感を書き留めていた。肩をすくめて仕事に戻るバーテンダーの姿に思わず苦笑したところをフェルに見咎められる。
「何がおかしいんだ、ユベール?」
「別に。お前がいつも通りで安心したよ」
「ユベールこそ、大丈夫なのか?」
「アルメアにいる知り合いのことなら、心配しなくていい。イスタントに残してきたアンネマリーたちの事も含めて、フェリクスが上手くやってくれるさ」
「そうじゃない。わたしは、ユベールを心配しているんだ」
フェルの言葉に、すぐ応えるのは難しかった。彼女はすでにユベールの故郷がどうなったかを知っている。同じ故郷を失った者として、第二の故郷であるアルメアをも侵略されたユベールの心中を慮って言ってくれているのだ。
深呼吸をして、できる限り心を落ち着けてから言葉を口にする。
「俺がユーシア王国の生まれだって、フェリクスから聞いただろう?」
静かにうなずくフェル。
「確かに俺はユーシアで生まれ育った。だがアルメアに渡って飛行機を知り、その後はずっと世界を渡り歩いてきた。正直に言えば、アルメアに国籍を置いている今でも、自分がどこかの国家に属してるって感覚は薄いんだ」
じっとユベールの言葉に耳を傾けるフェルに対して、続ける。
「飛行機乗りのユベール。それが俺にとって一番しっくりくる在り方なんだ。お前と一緒さ、相棒。今はそれでいいと思っている。だからあまり気を遣うな」
そう言って軽く頭を撫でてやると、まんざらでもなさそうに目を細める。
「わかった、そうしよう」
「それから、黙っていてすまなかった。本当は俺から話すべきだった」
「簡単に打ち明けられる事情ではなかったことは理解できる。わたしだって全ての過去をユベールに話したわけではないし、今だって隠しごとくらいはある」
頭を下げるユベールに、冗談めかして返すフェル。彼女はユーシア残党の暗躍を知っても同じように微笑んでくれるだろうか。事によっては、シャイアの国力を削ぐためにルーシャとの戦争を仕組んだ可能性すらある連中との繋がりを知っても。
「それよりアウステラ滞在の間、ずっと遊んでいるわけにはいかないだろう? どこかで仕事を見つけよう。ロンはここで儲け話が聞けると言っていたが」
「あいつの話は真に受けない方がいいぞ。まずは飯だ」
カウンターにグラスが置かれ、ほどなくして食べ物もサーブされる。口がすぼまったグラスを口元に近づけ、香りと味を確かめる。シェリー樽に由来する華やかな香りと、食べ物にも合わせやすいすっきりしたライトボディ。悪質なバーでは高級酒の空き瓶に安物を詰め替えてあることも珍しくないが、これは本物だった。
ステーキとマッシュポテトも腹を満たすという点では及第点だ。どのみち、エングランド王国の流れをくむアウステラ連邦の食事に質は期待していない。
「美味いか?」
フェルが飲んでいるのはオレンジ色のノンアルコールカクテルだ。グラスの縁には輪切りのオレンジが飾られ、リゾートらしさを演出している。
「美味い。ユベールも飲んでみるか?」
「お言葉に甘えて、いただくとするか」
グラスを受け取り、カクテルを口に含む。オレンジとパインの甘みに、レモンかライムの酸味が続く。鼻に抜ける香りには、何らかの隠し味も感じ取れた。
「本当に美味いな。カクテルの名前は?」
ユベールが動揺するのを期待していたのだろう。平然と飲まれて不満げなフェルは放置して、バーテンダーに尋ねる。彼は会心の笑みを浮かべて答える。
「名前はまだない。俺のオリジナルカクテルなんだ。気に入ってもらえたかな」
「わたしは好きだ」
「嬉しいね。この辺りは女性や子供連れが多いだろう? そういうお客さんにアピールするために、最近はノンアルコールカクテルの開発に力を入れてるんだ」
「そういうことなら、レシピは教えてもらえそうにないな」
ユベールの言葉に、バーテンダーが申し訳なさそうな表情になる。
「悪いね、事の次第によっては一千万に化けるレシピなんだ。舌で盗んでもらう分には構わないが、そう易々と教えるわけにはいかないね」
「一千万?」
ユベールの反応から話が噛み合っていないことを察したバーテンダーが、カウンター下から一枚のチラシを取り出す。受け取ってみると、そこにはカクテルコンペティション開催、優勝者に賞金一千万との宣伝文句があった。
「昨日から街はこの話題で持ちきりだ。一攫千金を夢見て、素人までバーテンダーの真似事を始める始末だ。まったく、シャイアとアルメアの開戦だなんて暗いニュースを一発で吹き飛ばしてくれた主催者には感謝の一言だな」
「なるほど、マスターもこれを狙ってるのか」
チラシを横から覗きこんだフェルが言うと、バーテンダーが苦笑する。
「言いたかないが俺は雇われバーテンダーでね。三十歳を迎えて、そろそろ自分の店を持ちたいんだ。この金があれば、開店資金としては十分だろ?」
一千万となると、アウステラ連邦の一般的な労働者の数年分の収入に相当する。カクテルコンペの賞金としては破格の金額であり、開戦のニュースが吹き飛んでも不思議ではない。アウステラの人々にとって、北半球の戦争は対岸の火事なのだ。
ユベールより前からアウステラ連邦に滞在していたロンもこのコンペを知っていたか、あるいはバーテンダーを通じて同じような経緯で知ったのだろう。
「そんなわけで、お任せのお客さんにはオリジナルカクテルを試してもらってるのさ。お嬢さんのようなかわいくて素敵な女性に気に入ってもらえて嬉しいよ」
バーテンダーは軽く手を振って話を切り上げると、他の客の応対に向かう。
「ロンが言っていたのはこれのことか」
「だろうな。もったいぶりやがって」
「ユベール、わたしたちも参加できるだろうか?」
「参加はできるだろうが、優勝は難しいだろうな。プロが知恵と工夫を凝らして創作したオリジナルカクテルに、素人の思いついたレシピで太刀打ちできるとは思えない。カジノでジャックポットを引き当てる方がまだ現実味があるってもんだ」
「そうか……確かにそうだな」
会話が途切れたので、ステーキが冷めて固くなる前にナイフで切り分けにかかる。フェルが再び口を開いたのは、食事が終わる頃だった。
「ユベール、聞いてくれるか?」
「なんだ」
「カクテルコンペの開催が発表されたのは昨日だとマスターは言っていた。しかも今回が初めての開催らしい。つまり、十日後のコンペに向けて参加者は一斉にスタートを切ったところだと言える。事前の準備は全くできなかったはずだ」
「ああ、異論はない。それで?」
「誰かと組んでコンペに参加しよう。具体的にはマスターと。わたしたちが他の参加者では調達できないような材料を調達し、マスターがカクテルを作る」
「なるほどな」
悪くない発想だった。材料を調達する能力と、カクテルに関する知識と技術。上手く組み合わせれば、他の参加者では実現不可能なカクテルができるだろう。
「だが、まだ提案として弱いな。言われた通りの材料を調達するだけじゃ、取り分はよくて数パーセントだろう。どうせやるなら、対等に山分けまで持ちこみたい」
「では、どうする?」
フェルの問いにうなずき、手に入れたチラシを指で弾く。
「まずは調査する。チラシ一枚からでも、色々読み取れるものさ」
3
翌朝、ホテル近くのカフェで朝食を摂りながら打ち合わせをする。
トーストにオムレツ、厚切りのハムに紅茶。雑な盛り付けと微妙なぬるさがやる気のなさを物語っていたが、作り置きで冷たくなっていないだけ上等な部類だ。フェルの不満げな視線を受け流しながら、皿の上にあるものを紅茶で流しこむ。
皿を下げに来たウェイターに二人分のコーヒーを頼み、途中で買ってきた新聞を広げる。紙面の多くはアルメアとシャイアの戦争についての話題に割かれていた。
「央海戦争?」
紙面を覗きこんだフェルが、見慣れない言葉に首をかしげる。
「誰が名付けたのか知らんが、今ではアルメアとシャイアの戦争をそう呼んでるらしい。北央海と南央海、ふたつの海を挟んだ戦争ってわけだ」
「主戦場は海になるのか?」
「おそらくな。こうなると、影響は二国間に留まらないだろう」
「そうか、海路が使えなくなるのか」
「輸出入が滞り、アルメアやシャイアの品物が入ってこなくなる。俺たちにしてみれば、商機と見ることもできるな。もちろん、ある程度の危険は伴うが」
「ケルティシュでのビール輸送のような仕事か」
「そういうこと」
「他にはどんなことが書かれている?」
フェルに促され、紙面にざっと目を走らせる。
「アルメア国内にあるシャイア人の資産は凍結。アウステラ首相は一方的な開戦に踏み切ったシャイアを非難し、アルメアを支援する声明を出したそうだ。シャイアの駐アウステラ大使は声明に抗議し、自国の正当性を主張してる」
説明を聞いて、不愉快そうな表情を見せるフェル。
「戦闘については?」
「書かれてないな。憶測だが、両軍とも大した戦果を上げてないんじゃないか」
「なぜそう言える?」
「緒戦で大戦果を挙げたなら、わざわざ隠すことはない。戦意発揚のため、誇張して発表するはずだ。逆に東海岸の重要都市が打撃を受けたなら、隠し通すのは難しい。ニュースメディアはこぞってそれを報じるだろう」
「アルメア政府が情報を規制した可能性は?」
「シャイアじゃないんだ。アルメアでそれは難しい」
アルメア国民は政府の透明性を重んじる。大統領が都合の悪い事実を隠し、それが明るみに出たなら、次の選挙で再選の可能性はほぼなくなる。
「逆に民間に大きな被害が出たら、シャイアの非道を世界各国に訴えるための材料として喧伝されるだろう。ことメディアの利用にかけてはアルメアが一枚上手だ」
「世論というやつか」
フェルが難しい顔をする。ルーシャの敗北は、アルメアが世論の反対を受けて援助を打ち切ったことも一因となっている。彼女としては複雑な気分だろう。話題を変えるために、彼女に説明しながら思いついたことを口にする。
「しかし、シャイアの動きはどうも妙だな」
「妙とは?」
「あっちから仕掛けた割に、東海岸の重要な都市や軍事拠点に攻撃を加えた様子がないんだ。もちろん、まだニュースになってないだけかも知れないが」
戦争は緒戦が肝心だ。初撃で敵の主力を叩けば、その後の展開も容易になる。その意味では、宣戦布告したにも関わらず攻撃をもたついているシャイア軍は稚拙と言ってもいい。反撃の猶予を与えられたアルメア軍も首を捻っているだろう。
もっとも、その理由をユベールは知っている。旧ユーシア王国の残党が暗躍し、シャイアがアルメアと開戦するよう仕組んだのだ。それを知りながら、とぼけた顔をしてフェルに疑問を投げかける自分の臆病さを嘲笑したくなる。
彼女には真実に気付いて欲しいが、裏事情に自分が深く関わっていると知られたくない。相反する感情が、ユベールにどっちつかずの態度を取らせていた。
「シャイアは準備不足のまま開戦した、ということか?」
「手持ちの情報ではその可能性がある、としか言えないがな」
ユベールの言葉を受けて考えこむフェルに尋ねる。
「なあ、フェル。お前はどうしたい?」
「どう、とは?」
やや戸惑った様子のフェルに、質問があまりに漠然としていたと気付く。
「フェルにとって、シャイアは故郷を奪った相手だろう。開戦の報を聞いてアウステラに逃げてきちまったが、お前はそれでよかったのかと思ってな」
フェルはしばらく考えた後、口を開く。
「分からない。だが、今のわたしがアルメアに肩入れするのは、違うと思う」
言葉を探すようにゆっくりと、彼女は続ける。
「アルメアはいい国だ。しかし、わたしの正体を知れば利用したいと考える人間もいるだろう。シャイアへの憎しみに駆られ、誰かに言われるがまま力を振るうのでは、ルーシャで元老院の言いなりになっていた頃と変わらない。わたしは航法士のフェル・ヴェルヌとして、ユベールの相棒としてここにいるんだ」
フェルは穏やかな口調でそう結ぶと、不意に妖艶な表情を見せる。
『それとも、冬枯れの魔女フェルリーヤ・ヴェールニェーバとして、一緒にシャイアを滅ぼしましょうと誘われたかったのかしら?』
心臓が跳ねる。彼女がどこまで察しているのかが読めない。
「冗談だろ。俺にそんな度胸はないよ」
「だったら、今やるべきことは決まっている」
口調を戻して、フェルが微笑む。
「わたしたちの愛機を取り戻そう。まずは建造費を稼がないといけないな、相棒」
「……そうだな。お前さんの言う通りだよ」
*
カクテルコンペに参加するための事前調査。その第一歩は、バーで手に入れたチラシの精査だ。シェーカーを振るバーテンダーのイラストに、開催日時や場所、優勝者に贈られる一千万の賞金について大きく記載されている。その下には参加資格や申し込み方法など細々した内容に加え、主催団体の名前も記されていた。
「主催はジョン・フォー・トレードか。聞いたことない会社だな」
「貿易会社か」
「名前はそれらしいな」
「なぜ貿易会社が、巨額の賞金を出してカクテルコンペを開催するんだ?」
フェルと同じ疑問をユベールも抱いていた。
「さっぱり分からん。よほど金の使い途に困っているとしか思えんな」
「うらやましい話だ」
「全くだ。いや、待てよ。ジョン・フォー? どこかで聞き覚えがあるな」
ジョン・フォー。響きはどことなく人名を思わせ、それについて熱心に語る誰かの話を聞いたような記憶があった。誰から聞いたのか、必死に思い出す。
「そうだ、ティエン・ホウ。あのシャイア人の富豪だ」
「ロンの雇い主か」
「ああ。彼に雇われたとき、尊敬する人物としてジョン・フォーの逸話を聞かされた覚えがある。内容はよく覚えてないが、確かにそうだ」
「では、その人に話を聞きにいくか?」
「……いや、やめておこう。それより図書館に行くぞ」
集まった情報を繋ぎ合わせて見えてきたものがあった。カフェを出て、タクシーを拾いルウィンダ図書館へ向かう。目指すは歴史書のコーナーだ。アウステラ史の棚を通り過ぎ、シャイア史の棚から目当ての本を見つけ出す。
「共通語訳の『南央航海記』に『シャイア人物史』と、ひとまずこれでいいな」
「ジョン・フォーはシャイア人なのか?」
「ざっと五百年前のな」
閲覧台に移り、まずは『シャイア人物史』を開く。歴代の王や皇帝、各分野で業績を残した偉人について記した本だ。ジョン・フォーは見開き二ページに渡って解説され、目立った業績のない王などよりよほど大きく扱われていた。
「これでジョン・フォーと読むのか?」
「らしいな。シャイア文字はよく分からん」
複雑な象形文字で書かれた名前に、共通語でジョン・フォーと併記されている。学術的で固い文章を、要約してフェルに説明していく。
「ジョン・フォー。一四〇五年から一四三三年にかけて活動したシャイア人の航海者。出身はクルバ島。南央海にて当時は島だと考えられていたアヴァルカ半島、ウォーロック諸島、ジウラス大陸、南極海を経由してアウステラ大陸を発見。帰国後、航海記録を『南央航海記』としてまとめた、とあるな」
「それがこっちの本だな。五百年も前に、南央海を一周したのか」
もう一方の『南央航海記』の表紙には南央海が描かれ、航路が線で示されている。フェルの言った通り、南央海を囲む各大陸を巡る大航海の記録だ。年代的にはエングランド王国を初めとするエウロパ系国家が各大陸を発見し、入植を始めるより早く、ジョン・フォーはそれらの大陸を発見、足跡を残したことになる。
「本の記述を信じるなら、そうだな。共通語訳への訳者がつけた注釈にはこうある。南央航海記の原本は現在に至るまで発見されておらず、内容には後世の創作あるいは誇張が含まれている疑いを捨てきれない、とな。エウロパ系国家としては、シャイアが自分たちよりも早く南央海を制覇していたという事実を認めたくないのさ」
「国家の威信か」
「それもあるだろうが、一番大きいのは領土権の問題だな。本の題名を見て思い出したが、アヴァルカ半島を初めとする南央海の沿岸諸国に対してシャイア帝国が領土権を主張する根拠になってるのが、この『南央航海記』なんだ」
「なるほど。そんな曰く付きの人物を社名に冠しようと考えるくらいだ。ジョン・フォー・トレードはシャイア人の所有する会社だとユベールは考えているのか」
「ああ。十中八九、ティエン・ホウがコンペのために作ったペーパーカンパニーだろうな。ケーフィランドあたりで登記した、実態のない会社の可能性が高い」
「だが、目的が分からない。なぜ、そんな回りくどいことを?」
「考えられるのは、ヒントだな。普通、こういうコンペってのはカクテルのテーマなり、使用する酒や材料を指定して行われる。だが、今回はそれがない」
「それが問題になるのか?」
合点がいかないような表情でフェルが問う。
「大ありさ。カクテルには決まったルールがないから、材料も作り方も多種多様だ。今回のように新しいカクテルレシピをコンペ形式で競い合うなら、ベースとなるテーマや材料が決まってないと、優劣の付けようがないんだ」
「ふむ、審査員の好みだけで決まってしまう、ということか」
「それじゃ参加者も観衆も納得しないだろう? だから気付く人間は気付くよう、チラシにヒントを盛りこんだ。あの変わり者のシャイア人がやりそうなことだ」
「つまり、ジョン・フォーにちなんだカクテルを作ればいいのか?」
「そういうことだな」
ティエン・ホウは察しの悪い人間を毛嫌いするタイプの人間だ。逆に、指示しなくても意を汲んで動ける人間を重用する。この分かりにくいヒントを見抜けず、ただのリゾート風トロピカルカクテルをコンペに出すような人間に勝ち目はない。
「ここから先は、専門家も交えてレシピを詰めたいところだな。ジョン・フォーの業績をまとめたら、夕方を待ってヒュプノシスに行くぞ」
メモの手を止めて顔を上げたフェルが笑みを見せる。
「了解した。勝算が見えてきたな、ユベール」
4
「で、話ってのは?」
やや疲れた様子のマスターが煙草をふかし、不機嫌そうに問う。店で長話するわけにもいかなかったので、仕事上がりの彼を人気のない海岸線に連れ出したのだ。
「単刀直入に言おう。カクテルコンペで俺たちと組まないか?」
ユベールの言葉に、マスターは疑わしげに目を細める。
「俺にメリットは?」
「コンペで求められるカクテルの傾向を掴んだ。知りたくないか?」
「ガセネタじゃないのか」
「主催者が誰かも特定できている。俺たちと組めば必ず優位に立てるぞ。独立するためにも、コンペに勝って賞金を手にしないことには始まらないだろう?」
「勝たなきゃ意味がないって点には同意だ。しかし素人のあんたたちが有力な情報を掴んだと言われても、にわかには信じられない。分かるだろ?」
「確かに、俺たちは飛行機乗りで、カクテルに関しちゃ素人だ」
マスターは、ユベールを賞金のおこぼれに預かろうとする情報屋だと思っている。まずはその誤解を解かなければならないだろう。
「俺たちがマスターに提供できるものはふたつある。ひとつは情報。主催者に関する確度の高い情報と、コンペで求められるカクテルの傾向。もうひとつは、そのカクテルの作成に必要な材料の調達能力だ。どうだ、興味はないか?」
マスターの目が真剣味を帯びる。
「で、あんたらはその情報をいくらで売りつけるつもりなんだ?」
「五百万。マスターと俺たちで賞金を山分けだ」
「おいおい、そりゃふっかけ過ぎだろ。実際にカクテルを作るのは俺なんだぜ?」
「必要な材料が揃えば、の話だな」
「ふん、飛行機屋なら開戦で輸入が滞ってるのも把握済みか」
「俺たちは情報と材料の調達。マスターは技術とセンス。利害は一致するはずだ」
マスターがため息をつき、肩をすくめる。
「分かった、ごねるのはこれくらいにしとこう。いいぜ、トリオ結成といこう」
「ありがとう、マスター」
「最後にひとつだけ。なぜ、俺と組もうと思った?」
その問いに答えたのはフェルだった。
「マスターが飲ませてくれたオリジナルカクテルが美味かったからだ」
彼女のストレートな褒め言葉に、マスターの表情がふっと緩む。
「バーテンダーの口説き方を心得たお嬢さんだ。気に入ったぜ」
マスターはくわえ煙草のまま、握手の手を差し出してくる。
「ジョン・フォリナーだ。ジョンと呼んでくれ」
思わずフェルと顔を見合わせてしまい、マスターが不審げな表情になる。
「どうした?」
「いや、何でもないさ。ユベール・ラ=トゥールだ。よろしくな」
「フェル・ヴェルヌだ。よろしく」
握手を交わし、深夜営業のダイナーに場所を移す。軽い夜食を摂りながら、調査結果を説明した。ジョン・フォーの名前が出て、ジョンが納得したようにうなずく。
「なるほど、ジョン・フォーか。学校で習った覚えがあるな。俺の名前に似てるんでよく覚えて……ああ、さっき笑ってたのはそういうことか」
「すまない、気を悪くしないでくれ」
フェルが謝罪すると、ジョンは笑って応じた。
「怒っちゃいないさ。それにしても、おもしろいところに目を付けるもんだ。テーマが設定されてないのは不思議に思っていたが、主催者名がヒントとはな」
「状況から見て、ジョン・フォー・トレードはシャイア人の富豪、ティエン・ホウが設立したペーパーカンパニーで間違いないだろう。彼の好みを踏まえて、ジョン・フォーにちなんだカクテルを作ればコンペでは優位に立てるはずだ」
「ジョン・フォーにちなんだ、ねぇ。すぐには思いつかないな」
「彼が発見した各大陸の食材を使ってはどうだろうか」
フェルの提案を聞いて、ジョンが難しい顔をする。
「それだけだと組み合わせが膨大な数になる。もう少し方向性を絞りたい」
「具体的には?」
「ユベール、あんたはティエン・ホウと面識があるんだよな。どういうカクテルを好むか、いつも頼むカクテルはあるか。知ってる限りでいい、教えてくれ」
「あくまで仕事上の付き合いで、飲み友達ってわけではないからな……だが、そうだな。冬でもモヒートを頼んでいたのは印象に残っている」
「モヒートね。常夏のアウステラならともかく、冬のシャイアで好んで飲むなら相当好きなんだろうな。なるほど、とっかかりになるかも知れんな」
「ここにジョン・フォーの航海図を写してきてある。参考になるか?」
「見せてくれ」
ユベールの差し出した航海図をしばらく眺めていたジョンが、二人にも見えるようテーブルの上に広げた地図の二点を指差す。
「アヴァルカ半島のアヴァルカンミント、クルバ島のラバンドルート蒸留所で作られたアニス入りラム。このふたつは確実に入手してくれ。他にもカクテルの材料として使えそうなものがあったら仕入れて欲しい。モヒートは案として悪くないが、シンプルなレシピだから似たものが出てくる可能性もある。代替案も用意したい」
「アヴァルカ半島にクルバ島か……」
ジョン・フォーの故郷であるクルバ島と、彼が発見したアヴァルカ半島の材料を使ったカクテルなら、コンペに出すには申し分ないだろう。だが開戦直後の二国、しかも戦場からさほど離れていない場所を訪れるリスクは決して小さくない。
特にフェルにとっては、故郷を侵略した敵国の訪問となる。彼女がそれをどう受け取るかはもちろん、シャイア側がフェルに気付く危険性が無視できない。仮に見つかった場合、よくて拘束、悪ければ警告なしでの殺害もあり得る。魔法により単独で大災害を引き起こせる冬枯れの魔女の名前は、それだけの重みを持つのだ。
「ユベール、行こう」
「いいのか?」
酷くあっさりとしたフェルの言葉に思わず問い返してしまってから、ジョンのいる場で少々迂闊だったと気付く。幸い、ジョンは気にする風もなかった。戦争中の国を訪れる危険を指しての発言だと受け取ったらしい。
「わたしは大丈夫だ」
「分かった。お前がそう言うなら、いいだろう」
この場で真意をただすわけにもいかず、そう答えるしかなかった。
「話は決まりだな」
ジョンがぱちんと手を打ち合わせる。
「俺は帰って一眠りしたら、カクテルの試作に入る。連絡先を渡しておくぜ」
「こっちも準備ができ次第、出発する。一週間ほどで戻ってこれるはずだ」
「ミントは鮮度が命だ。生きのいいやつを持ってきてくれよ」
「分かった。任せてくれ」
*
ジョンと別れ、フェルと二人で人気のない港を歩いていた。
アウステラの空は雲が少ない。見上げた先にあるのは、絵の具を塗りたくったようにのっぺりとした青空か、星々に埋め尽くされた夜空の輝きのどちらかであることがほとんどだ。例外は日に二度、日の出と日没の時間帯に訪れる。
ギルモットを係留してある桟橋に着いた。東の空は薄青に染まり、水面が煌めく。刻々と様相を変える空は、濃紺から紫を経て黄金の朝焼けに染まりつつあった。
「ユベール、怒っているのか? 難しい顔をしているぞ」
どう切り出すか迷っていると、そんな風に言われてしまった。
「別に怒ってるわけじゃないさ。ただ、分かってると思うがクルバ島はシャイア領だ。中央の支配が届きにくい辺境で、独立不羈の気風もあって外国人にも寛容な土地ではあるが、開戦した今となってはどうなってるか読み切れない部分もある」
ユベールの言葉を真剣な表情で聞いていたフェルが口を開く。
「わたしがシャイアを攻撃しないか心配なんだろう?」
問いかけられて、ぐっと言葉に詰まる。その懸念はもちろんあった。
「図書館でクルバ島について調べた。元々そこにあった王国は滅ぼされ、シャイアに併合された……ルーシャやユーシアと同じ歴史をたどった国だと」
「その通りだ。もっとも侵略と言っても五百年以上前のことだがな」
「だからこそ、興味がある」
「興味?」
「そうだ」
続く言葉が中々出てこなくてもどかしげなフェルがルーシャ語に切り替える。
『わたしはユベールと一緒に旅をして、他の国に取りこまれたり、滅ぼされたりした国や民族をいくつも知りました。ルーシャのことも、きっと歴史的な視点で考えれば珍しいことではないのでしょう。数百年後、初めからそうであったようにルーシャがシャイアの一地方となっている未来も、あるのかも知れません』
「……あるいは、そういう未来もあるんだろうな」
頭に思い浮かんだのはレジスタンス『眠れる獅子』のことだ。ユーシア王国が滅びて十年が経ち、かつての王国時代を知らない子供たちも増えている。ようやく生活を再建できた者にとっては、シャイアによる報復と弾圧を招くレジスタンスの活動を疎ましく思う者もいるだろう。このままでは彼らに未来はない。
『この先、戦争が激化すればシャイア領を訪れるのはますます難しくなるでしょう。そうなる前に、クルバ島をこの目で見ておきたいのです。わたしのわがままで、相棒である貴方まで巻きこむことになってしまって申し訳ありません。ですが、どうかお願いです。ユベール、わたしと一緒にクルバ島へ飛んでください』
フェルはそう言って頭を下げた。
「……そこまで言われて、断れるかよ」
『では、一緒に来てくれるのですか?』
フェルがぱっと顔を輝かせる。
「仕事だからな。長くは滞在しないぞ」
「了解した。ありがとう、ユベール」
釘を刺すユベールに対して、共通語に戻したフェルが不敵に微笑む。
「危険な場所だってことは忘れるなよ。いいか、目立つような真似は絶対するな」
「大丈夫だ。いざとなったら自分の身は自分で守れる」
そう言ってから、ちょっと悪戯っぽく付け加える。
「ユベールも危なくなったらわたしの後ろに隠れるといい。冬枯れの魔女フェルリーヤが、他の誰でもない貴方のために力を振るおう」
5
モヒートに使うミントは新鮮さが命だ。ジョンはアヴァルカンミントの鉢植えを望んでいたが、厳格な検疫体制を敷かれているアウステラでそれは難しい。妥協案として、容器に満たした水に差して新鮮さを保ちながら運ぶことになった。
当然、輸送期間は短いほどいい。先にクルバ島へ向かい、その後にアヴァルカ半島へ向かうルートに決まった。その際、シャイア領であるクルバ島へアルメアの国籍マークを付けたまま飛んでいくのは具合が悪い。ルウィンダ港の整備工場に機体を持ちこみ、ルーシャの国籍マークに書き換えてもらうことにした。
「ユベール、国籍はルーシャでいいのか?」
塗り替えを待つ間にフェルが尋ねる。
「よくない。そもそも国籍マークを偽るのは違法行為だ」
「……彼らはそれを知っているのか」
「アルメア人の持ち主がルーシャ人に売り渡したと説明したが、口実だってことは承知の上だろうな。急ぎの仕事だし、ずいぶん吹っかけられたよ」
「どうせ違法なら、ルーシャじゃなくてもいいのでは?」
フェルは国籍マークと自身の出自が結びつかないかを気にしているのだろう。
「真っ赤な嘘はバレやすい。その点、フェルがルーシャ人なのは本当だから誤魔化しが利くし、占領の影響で混乱が続いてるから照会でバレる可能性も低い。付け加えるなら、今のシャイアとアルメアを続けて訪れて問題ない国が思いつかなかった」
「……分かった。いいだろう」
渋々といった体でうなずくフェルに苦笑し、作業の完了を待った。完全に乾くのを待つ時間も惜しかったので、飛んでいる間に塗料が流れるのを覚悟で出発する。
昼前に飛び立って、日が沈む前にクルバ島が見えてきた。上空からでも、クルバ島でもっとも栄えるクルバ・ティエラの猥雑で密集した街並みは見て取れる。しかし降りるのはここではない。島の外周に沿って飛ぶと、十分ほどで街の灯が見える。
「ラバンドルート。ラムの醸造所があることで有名な街だ」
「ここに降りるのか?」
「そうだ。シャイア政府の監視はもっぱらクルバ・ティエラに向いてるから、トラブルに巻きこまれる危険も少ないはずだ。さっさと仕入れて、明日には発つぞ」
「了解した」
貿易港であるクルバ・ティエラと比較すると、港は寂れている。ラバンドルート醸造所のラム酒は陸路でクルバ・ティエラに運んでから出荷されるので、停泊しているのは漁船が中心だった。こういう場所で水上機は目立つ。以前の仕事でティエン・ホウから紹介された整備工場と渡りを付けて、ギルモットを預ける。明日は市場が開いたら仕入れを済ませて、すぐに飛び立たなければならない。宿を取って早めに休もうと思っていたら、フェルに袖を引かれた。
「ユベール、街を見て回れないだろうか」
「もし雲行きが怪しくなったら切り上げるぞ」
「了解した」
ラバンドルートの中心部はそこそこ賑わっていた。クルバ島の人間は総じて気性が荒く、抜け目ない性格をしている。道端で始まった殴り合いのケンカはたちまち賭けの対象となり、観衆が盛大なヤジを飛ばしていた。
「彼らは船乗りなのか?」
躍動する筋肉と日に焼けた肌を見て、フェルが質問する。
「クルバ島の歴史について調べたろ? シャイア領になる前、クルバ島は『海猫』と呼ばれる海賊が支配する海賊王国だった。漁師、商人、探検家。船を操るあらゆる人間がこの島に集い、時と場合に応じて海賊に鞍替えしたんだ。当時のシャイア水軍は弱体で、海賊に対してほとんど有効な手が打てなかったからな」
当時、シャイア水軍は陸軍を補完する位置づけでしかなく、外洋を自在に航海するクルバ島の海賊には太刀打ちできなかったとされる。
「状況が変わったのはシャイア中興の祖、ヨン・レティ帝が即位してから。彼は自前の水軍では敵わないと悟るや、臣下の反対を押し切り有力な海賊に私掠免許を与えて各地の港での補給も許可した。海賊同士で反目させ、不和を煽ったんだ」
海賊のほとんどは目先の利益で動く。クルバ島を支配する『海猫』の下、緩い連帯で繋がっていた海賊たちは互いに喰らい合い、力を削がれていった。
「もちろん、私掠免許を与えた海賊が大人しく海賊だけを襲うわけもない。無関係の商船や港町も襲われ、略奪され続けた。ヨン・レティ帝はその出血に耐えつつ、地道に海賊の力を削いでいった。そして機を見計らって、安心して帰れる母港と豊富な補給に飼い馴らされた海賊を自国の水軍に組みこんだんだ。晴れて外洋を航海する能力と、敵船舶の追跡と拿捕に関するノウハウを手に入れたシャイア水軍はクルバ島の制圧に乗り出し、あっけなく占領。今に至るってわけだ」
「だが、この島は今も独自の文化を残しているように見える」
フェルの観察は正しい。占領されて流入したシャイア文化は海賊たちが築いた文化と混じり合い、今ではクルバ風とも呼べる独特な文化となっている。ラム酒の醸造や、その原材料であるサトウキビの栽培が盛んなのもその一例だ。
「そうだな。こうなった理由はいくつかある。分かるか?」
「中央との距離、そして貿易による人と物の流入。海がもたらした恩恵か」
「加えて、その来歴から皇帝への忠誠心も皆無となれば、反乱を恐れる中央はあまり厳しく取り締まれない。討伐軍の遠征には莫大な金がかかるし、貿易でもたらされる物品と利益は中央にとって欠かせないものになっていたからだ」
話している内にケンカも収まり、殴り合っていた二人は腫れ上がった顔のまま肩を組んで酒を酌み交わしている。一方、二人の勝敗で賭けをしていた連中は判定を巡って言い争い、新たに乱闘が始まりそうな気配が漂っていた。
「こういう道も、あるのだな」
考えこんでいた様子のフェルが大きくうなずく。
「勉強になった。ありがとう、ユベール」
「もういいのか」
「少し歩いて、夕食を済ませないか?」
「分かった。クルバ島の屋台はどこも美味いぞ」
「楽しみだ」
*
翌日も綺麗に晴れ渡った天気だった。早朝から開いている市場を回り、カクテルに使えそうな材料を買い集める。最後に酒屋へ立ち寄り、本命であるラバンドルート社のアニス入りラムと、他国では手に入りにくいシャイア酒を何本か購入した。
「これもラムなのか?」
シャイア文字の記されたラベルを見て、フェルが首をかしげる。
「こいつは金華佳酒だ。香りのいい金華桂の花冠を白ワインに漬けこんだシャイアの酒で、すっきりした甘さと華やかな香りがシャイア人に好まれる」
「他にも色々あるようだが、買わなくていいのか?」
棚にずらりと並ぶ陶器の瓶を興味深そうに眺めていたフェルが尋ねた。
「酒は酒でも、シャイアの酒は漢方薬を漬けこんだ薬酒が多い。癖と主張が強過ぎて、非シャイア圏でカクテルの材料に使うのは難しいんだよ」
「アクセントとしてなら使えるのでは?」
「試してみるか?」
店主に頼んで、適当な薬酒を試飲させてもらう。彼女は強烈な臭いに怯みつつも、言い出した手前もあってか覚悟を決めた様子で液体を口に含んだ。しかし、どうしても呑みこめなかったのか、湯飲みに吐き出して顔をしかめる。
「すまない。前言を撤回する。店主に謝罪の言葉を伝えてくれ」
幸い、店主はよくあることだと笑って許してくれた。時間もないのでそのまま整備工場へ戻り、荷物を積みこむ。小型の水上フロート機であるギルモットに貨物スペースなど存在するはずもなく、フェルの足下など空いた場所にむりやり詰めこむ格好だ。分かってはいたが、やはりこの機体では輸送業務は難しい。
「狭いだろうが、我慢してくれ」
「構わない。出発してくれ」
アヴァルカ半島を目指すに当たって、ふたつのルートを検討した。クルバ島からアヴァルカ半島へ飛ぶ最短ルートと、南央海の中心に浮かぶケーフィランドを経由する迂回ルートだ。前者はアルメア軍かシャイア軍に発見されて不審機として撃墜される危険があり、後者は飛行距離がほぼ倍になって時間のロスが大きい。
「大丈夫だ。もしもの場合は、わたしに任せて欲しい」
安全を取って迂回ルートを提案したユベールに対して、フェルはそう請け合った。彼女の言葉を信頼するかどうかなど、もう考えるまでもない。
クルバ島には良港が多い。ラバンドルート港もその例に漏れず、沖合に出るまで波は穏やかだ。フロートも含めて限界まで燃料を積んだ機体にとってはありがたい条件と呼べる。ギリギリまで滑水して、何とか機体を持ち上げる。
「燃料を満載して空中戦なんて考えたくもない。索敵を頼むぞ、フェル」
「シャイア機なら迎撃しても構わないだろう?」
「頼むからやめてくれ。借り物の機体だってことを忘れるなよ」
どこまで本気なのか分からない彼女の軽口にため息をついて、長距離飛行に備える。退屈な洋上飛行において、軽口を叩ける相棒の存在は何よりも大切だ。
「のどが渇いたからって商品に手を付けるなよ、相棒」
「了解した。ユベールが秘蔵しているライフテイカーの三十年ものにしておこう」
思わず操縦桿を握る手が乱れた。
「冗談だ、ユベール。操縦に集中しろ」
「フェル、お前な……くそっ、降りたら覚えてろよ」
6
クルバ島からアヴァルカ半島へ飛ぶ間に、アルメア艦隊の影を見かけた。速度がバラバラで艦列は長く伸び、最後尾の艦に至っては黒煙を噴き上げている。おそらくリーリング海峡付近での戦闘に参加したのだろう。
「ユベール、艦隊との距離が詰まっている。回避しなくていいのか?」
伝声管を通じたフェルの声にはっとする。
「いや、空母を刺激するのはまずい。進路を変えるぞ」
戦艦の砲撃はともかく、先のディーツラント戦から実戦に投入されるようになった空母から艦載機が出てくれば空戦になりかねない。相手に気付かれる前に、あるいは見逃されている内に機首を巡らせ、雲の陰に隠れる。
しばらく飛んでいると、陸地が見えてくる。アヴァルカ半島の南岸だ。このまま陸地に沿って進めば、ギルモットが接岸できる港を備えた街に着く。
「このまま飛べば、ルーカの上空を通るな」
「寄ってはいけないが、高度を落としてフライパスしよう」
「了解した」
フェリクスを含めた飛行機乗りたちは待避しているはずだが、フェルが心配になる気持ちも理解できる。速度を落とし、砂浜を横目に見ながらフライパスする。機影はなく、取り残されたデッキチェアが物悲しさを漂わせていた。
「誰もいない、か」
「今度はゆっくり訪れたいものだ」
「ああ、そんな日が早く来るといいな」
実のところ、そうした未来が訪れるかどうかはわからない。
ルーカには小型の水上機しか離着水できないが、まともな飛行場の少ないアヴァルカ半島において、軍事的価値は決して低くない。その存在が知られれば、軍に接収されて大型の飛行艇や艦船も接岸できるよう整備されるか、少なくとも敵軍に利用させないために破壊されてしまうだろう。いずれにせよ、フェリクスが認めた者だけが知る飛行機乗りの楽園はこの地上から消え去ってしまう。
フェリクスが口を割ることはないだろうが、ルーカを知る全ての飛行機乗りが秘密を守れると信じられるほど、ユベールは彼らのことを知らない。
「さっきからどうも雲行きが怪しい。荒れる前に先を急ごう」
「了解した。このまま警戒を続ける」
「頼んだ」
アヴァルカ半島の付け根に位置するデルヒーの街に着いたのは、雨が降り始める直後だった。嵐の前触れか、海面が大きくうねっている。キャノピーを波飛沫に洗われながら着水し、潮に流されそうになりながらどうにか桟橋に寄せる。天候はすぐに回復しそうもないので、近場の整備工場と話を付けてギルモットを陸に上げた。
「ユベール、すぐに発たなくていいのか?」
生温かい雨に濡れたフェルが問いかけてくる。
「この荒れ方じゃ離水は難しい。天候が回復するのを待とう」
「だが、カクテルコンペの開催まで時間はないだろう?」
確かに時間の余裕はない。雨が長引けば、コンペの開催までにアウステラへ戻れない可能性もある。そうなればクルバ島へ飛んで仕入れた材料も無駄になる。燃料代も考えれば大幅な赤字となるだろう。フェルはそれを気にしているのだ。
「いいか、フェル」
手近な建物の軒下で雨宿りしながら、続けるべき言葉を考える。懐から出した煙草は湿気っていて、マッチで火を付けようとしてもくすぶるだけだった。
「俺たちにとって、最悪の失敗は何だと思う?」
ユベールが問いかけると、フェルはその答えにすぐ気付いたようだった。
「ギルモットが墜落して、二人とも死ぬことだ」
「その通りだ。それに比べりゃ、赤字が出るくらい大したことじゃない。ジョンには悪いが、俺たちの仕事はどうしても天候に左右される部分がある」
うなずき、深呼吸したフェルがユベールの顔を見上げる。
「すまない。少し焦っていたようだ」
「金額が金額だしな。気持ちはわかるが」
トゥール・ヴェルヌ航空会社は、ほぼユベールの個人的な伝手で仕事を得ている零細会社だ。信用の失墜に直結する失敗が恐ろしくないと言えば嘘になる。
「こいつは命を懸けるに値する仕事じゃない。俺にとっても、お前にとってもだ」
「了解した。アウステラに向かうのは天候が回復してからにしよう」
港の近くで宿を取って、一晩ぐっすり眠る時間を取れた。翌朝も雨は降り続いていたので、仕入れを済ませて宿で待機する。新鮮さが命のアヴァルカンミントは出発直前に入手するのが望ましいので、店の目星だけは付けておく。
*
「今日も波が高いな」
「ここは我慢だな」
「間に合うのか?」
「明朝に発てば、何とかな」
デルヒーに着いて三日目。空は晴れ渡ったが波が大きくうねり、水上機が飛び立てる状態ではなかった。順調にスケジュールを消化していればアウステラに到着している頃合いだ。二人の帰還を待つジョンは焦れているだろうか。ここまで晴れ続きだった分、ここにきてなぜと焦る気持ちばかりが募ってくる。
気晴らしにデルヒーの街を散歩することにした。戦火はまだここまで及んでいないが、すでに避難した者やその準備を進める者も多く、静かでありながら熱に浮かされたような奇妙な雰囲気に街全体が包まれている。客の少ないカフェに腰を落ち着け、買ってきた新聞を開いた。一面を飾るのはやはり、央海戦争と呼ばれるようになったアルメアとシャイアの戦争、その戦況だった。
「アルメアは勝っているか?」
「記事を信じるなら、両軍とも上陸作戦には成功していないな。リーリング海峡付近で激しい戦闘が繰り広げられる一方で、沿岸部の工業地帯への砲撃も行われている。被害の規模は不明だが、トルジアも攻撃を受けたらしい」
「ヴェルヌ社は大丈夫だろうか」
心配そうにフェルが言う。トルジアには航空機メーカとその工場が集中している。フェリクスが経営するヴェルヌ社も被害を受けた可能性があった。
「本社を兼ねた海岸沿いの工房とは別に、陸上機の製作を請け負う第二工房がある。内陸部にある個人所有の小さな飛行場に併設された工房だから、砲撃や爆撃の対象にもなりにくい。後継機の製造はそっちで続けてくれる手筈になってる」
「そうか。無事だといいが」
「頭金は払いこんできたんだ。無事でいてもらわなくちゃ困るさ」
電話で確認することも考えたが、戦時中であり盗聴されている可能性を捨てきれない。ユーシアやルーシャ出身のユベールやフェルは悪くすればスパイの嫌疑をかけられかねず、フェリクスに迷惑がかかることを思えばリスクは冒せなかった。
幸い、翌朝の海は穏やかだった。整備工場に無理を言って夜も明けきらない内からギルモットを海へ降ろしてもらい、摘み取ったばかりで朝露に濡れるアヴァルカンミントの束を水差しに入れて後席のフェルに持たせる。
「出発だ。しっかり抱えてろよ」
「任せろ」
連日の長距離飛行にギルモットもよく耐えてくれている。流石はヴェルヌ社の整備を受けていただけはある。快調なエンジンの吹き上がりと共に、カクテルの材料を満載した機体がふわりと水面から離れる。ここからは時間の勝負だ。
「到着予定はコンペ前夜。ジョンには悪いが、入手困難になったシャイアの材料に加えて、新鮮なミントを使えるってことで満足してもらうしかないな」
南央海中央のケーフィランドで給油して、そのままアウステラ連邦のルウィンダへ飛ぶ。道中は大きなトラブルもなく、天候も平穏そのものだった。日没を横目に見ながら高度と速度を維持、フェルの力も借りて現在地の把握に努める。
星天の瞬きと暗い海の狭間、水平線の彼方に灯台の輝きが見えた。夜間飛行を開始してから数時間が経過した頃だった。瞬きのパターンから、目指すルウィンダ灯台であることを確認する。ようやく一息付ける瞬間だった。
「着水まで気を抜くなよ」
「ユベールこそ」
半ば自分に向けた叱咤に、フェルが応じる。眼下に広がる街の灯を見ながら旋回し、港へ向けて高度を落としていく。夜間着水は難度が高いが、整備された大きな港であればある程度の光があり、波も穏やかなので着水しやすい。せっかく仕入れてきたカクテル材にダメージを与えないよう、丁寧に降ろしていく。
「ヒュプノシスに持っていくのか?」
「いや、前日はコンペの準備に当てると言っていた。ジョンのアパートだ」
急いでギルモットに積んだ荷物を降ろし、一度に全て運ぶには厳しい物量に人を雇えないか考えているところに背後から声をかけられた。
「ったく、逃げたかと思ったぜ」
腕を組み、顔をしかめつつもどこか安堵したような表情のジョンがそこにいた。
「ジョン。すまない、遅くなった」
「言われた通り、ミントは水差しにして持ってきたぞ」
「こっちもモヒートだけじゃ弱いと思って、色々と考えてた。立ち話してる時間も惜しいから、さっさと運ぶぞ。車を回すからちょっと待ってろ」
ジョンの車に荷物を積みこみ、移動する。向かった先はヒュプノシスでもアパートでもなく、規模の小さいオーセンティックなバーだった。
「友人がやってるショットバーだ。コンペの準備のために今夜は借り切ってある。無駄にならなくてほっとしたぜ。俺は着替えるから、荷物の搬入を頼む」
ジョンの友人だというマスターと挨拶を交わし、荷物を運びこむ。搬入が終わるころ、バーテンダーの格好に着替えて表情を引き締めたジョンが戻ってきた。
「仕入れのリストはあるか?」
ユベールの差し出したリストを受け取り、物品の確認を進めていくジョン。話しかけるのに躊躇するような真剣な横顔だった。そんな様子を見て、ジョンの友人というマスターが二人に声をかけ、椅子を勧めてくれた。
「ああなったら周囲の声なんて聞こえちゃいないよ。なにか飲むかい?」
「ありがたい。さっぱりしたものがいいな」
「ジントニックでいいかい? お嬢ちゃんはヴァージンモヒートなんてどうかな」
「もらおう」
手際よく作られたジントニックは、他の店のそれとは一線を画した。グラスや氷、材料に至るまで全てが選び抜かれ、さりげなくまとめ上げられている。乾いたのどを潤す一口目の爽やかさ、じっくり味わったときの甘みと酸味のバランス。シンプルでありながら、素晴らしい技術がこめられたカクテルだった。
「ジントニックをこんなにおいしいと思ったのは初めてだよ」
ユベールが賞賛を口にすると、マスターははにかむように微笑んだ。モヒートからアルコールを抜いたヴァージンモヒートを口にするフェルも満足げだ。
「君たちはジョンに頼まれて仕入れに行ってくれたんだろう?」
マスターはカクテル材を前に難しい顔をするジョンを見て続ける。
「仕入れの内容から見て、クルバ島、それからアヴァルカ半島まで足を伸ばしたのか。驚いたね、このご時世に大変だったんじゃないかい?」
「ご明察です。けど、それが仕事ですから」
「彼の友人として、僕からも感謝を。さっきのカクテルは僕のおごりだ」
「マスターは、ジョンとは長い付き合いなのか?」
のどが渇いていたのか、グラスを空にしたフェルが割って入る。
「ハイスクールを出て、バーテンダーの修行を始めたころからの付き合いだね。彼は一年だけ先輩で、同じ見習いとして色々と教えてもらったんだ」
マスターが言葉を切る。バーテンダーを志したのはジョンが先だが、未だに雇われバーテンダーのジョンと、小さいながらも自分の店を持つマスター。二人は、ただの友人という言葉でくくれるほどシンプルな間柄ではないのかも知れない。
「ユベール君と、フェル君だったよね。ジョンの面倒は見ておくから、君たちは帰って休むといい。コンペには僕も行くから、会場で会おう」
早朝からの飛行で疲れも溜まっていたので、お言葉に甘えて帰らせてもらう。眠い目を擦りながらシャワーを浴び、ホテルのベッドに倒れこむ。
飛行機乗りとしてやれることはもうない。後はジョンの腕と運次第だ。
7
重い目蓋を上げると、隣のベッドに寝ていたフェルと目が合った。彼女も目覚めたばかりらしく、猫のように丸まって不機嫌そうに目を細めている。連日の長距離飛行に加えて、一仕事終えて緊張の糸が切れたことで倦怠感が身体を包んでいた。
ぼんやりした思考のまま、サイドテーブルの腕時計へ手を伸ばす。時針の指し示す数字は、濃厚なブラックコーヒーより強烈な覚醒をもたらした。
「起きろ、フェル! もう十二時を回ってるぞ!」
「……どこか行くのか」
「寝ぼけるな! コンペはもうとっくに始まってるぞ!」
無言で起き出したフェルが、寝癖の付いた頭で洗面所へ向かう。
「くそ、決勝に間に合うかって時間だな。そもそもジョンは勝ち残ってるのか?」
慌てて着替えるユベールに、洗面所から顔を出したフェルが声をかける。
「慌てるな、ユベール。わたしたちが行っても結果は変わらない」
「朝は本当にテンション低いよな、お前」
フェルの言う通り、カクテルコンペの場においてユベールとフェルにできることはない。ジョンに材料を届けた時点で仕事は終わっているのだ。現地で見届けても、ホテルで寝ていても、結果が変わることはないだろう。
「じゃあ、俺は行くけどお前はホテルで寝てるか?」
「ユベールが行くなら、わたしも行く」
「なら寝癖くらい直してこいよ、お姫様」
「だったら早く出発するために手伝ってくれないか、相棒」
*
タクシーを拾って会場へ向かう。入場料を払って会場へ入ると、ちょうど決勝戦に勝ち残った四人のバーテンダーが紹介されているところだった。
「ジョンは?」
ステージを見ようとして人垣に阻まれ、背伸びしながらフェルが問う。
「よし、勝ち残ってるぞ」
観客たちがフェルに気付いて道を空けてくれたおかげで、審査員席が見える前列まで進めた。ジョンと視線が合い、遅刻を咎めるような表情を向けられたのも一瞬、すぐにバーテンダーとしての余裕と自信に満ちた顔つきに戻っていた。
「ユベール、彼がそうか?」
フェルが小さく指差したのは、審査員席に座る紳士然とした男だ。下品で野暮ったいという典型的なシャイア人のイメージは彼には当てはまらない。洗練されたスーツを着こなし、洒脱な雰囲気と堂々たる存在感を放っていた。
「間違いない、ティエン・ホウだ。予想は的中だな」
カクテルコンペの主催であるジョン・フォー・トレードがティエン・ホウの設立したペーパーカンパニーだという推測は裏付けられた。その予想を元にカクテルレシピを考えたジョンは、選考において優位に立てることだろう。
司会の女性は決勝に残った四人の紹介を終えると、審査方式についての説明を始めた。各自の持ち時間は十分、その中で自らの考案したカクテルについてのプレゼンテーションと、実際にカクテルを作るパフォーマンスを行うという内容だ。
「なお、優勝者へのトロフィーと賞金の授与式を執り行った後、優勝されたバーテンダーからご観覧の皆様へカクテルを振る舞わせていただきます。皆様、どうぞ最後までお楽しみいただきますようお願い申し上げます」
司会が一礼して挨拶を締めくくると、拍手が沸き起こる。
「ユベール、どう思う?」
「悪くないな。ジョンは顔がいいし、喋りも軽妙だ。上手く観衆を味方に付ければ、カクテルを実際に味わう審査員も無視できない。観衆の熱気に包まれたこの会場で冷たいモヒートが出てきたら、誰だって飲みたいと思うだろう」
くじ引きでパフォーマンスの順番が決まる。ジョンは四番目に決まった。
最初のバーテンダーがステージに設けられたバーカウンターに立つ。彼が作ったのは華やかなトロピカルカクテルだった。リゾートで味わうにはぴったりのカクテルで、特産のフルーツを用いてアウステラらしさを出していたが、それだけだ。工夫は凝らされていてもストーリーのない一杯を、ティエン・ホウは一口だけ味わってグラスを置いた。審査員の反応の悪さは観客にも伝わり、バーテンダーが一礼してステージを去る際にも拍手はまばらにしか起こらなかった。
代わってステージに上がった二人目のバーテンダーが作ったのは、フローズン・スタイルのカクテルだった。凍らせた果肉とラム酒をミキサーにかけ、ミントの葉を飾ったショートカクテルは夏にふさわしい一杯だろう。三人の審査員の内、ティエン・ホウを除く二人の反応は上々だった。
続いて三人目のバーテンダーがステージに上がる。彼がバーカウンターに並べたのはラム酒、ミント、ライム、砂糖、そして色とりどりの液体が入った七本の小瓶だった。材料から見て、彼が作ろうとしているのはモヒートだ。
「ちょっとまずい展開だな」
「どうかしたのか?」
「三人目が作ろうとしているのは、おそらくモヒートだ。その後に登場するジョンが同じモヒートを作っても、どうしてもインパクトに欠ける。ティエン・ホウはいいが、残り二人の審査員がどんな判断を下すかが読めない」
カウンターには七つのグラスが並べられ、グレナデンシロップの赤やブルーキュラソーの青をアクセントとした七色のモヒートが手際よく作られていく。味はともかく、見た目の華やかさは他の参加者と比べても飛び抜けていた。それぞれの色について説明するプレゼンテーションの口上も見事なものだった。
盛大な拍手を受けて三人目の参加者がステージを降り、最後にジョンが登場する。彼は観衆に向けて一礼すると、こう口火を切った。
「本日、私が皆さんに提案しようと考えていたのは、伝説の航海者ジョン・フォーにちなんだカクテル『アヴァルカン・モヒート』でした」
言葉を切ったジョンは、悪戯っぽく微笑んで続ける。
「とは言え、モヒートはもう見飽きた、という方も多いのでは?」
ジョンがウインクすると、会場が沸く。
「ですので、ちょっと目線を変えて珍しいカクテル……いえ、珍しくなってしまったカクテルをお集まりの皆さんにお目にかけようと思います」
ジョンがカウンターに並べたのはユベールたちが仕入れてきた金華佳酒とアルメアンウィスキー、そして何の変哲もない氷塊とオールドファッションドグラスだった。観客が興味を示す中、彼はアイスピックを手に取って氷を削り始める。歪な形の氷塊は、ジョンの手の中で綺麗な球形に整えられていく。
「氷を削る間に、今回のカクテルに用いる酒の説明をいたしましょう。まずはこちらの金華佳酒。これはシャイア帝国で生まれた酒で、輸入した白ワインに香りのいい金華佳の花冠を漬けこんだ、甘く滑らかな舌触りの酒です」
最初のロックアイスができあがり、グラスに入れられる。
「次にこちらのアルメアンウィスキー。聞き慣れない名前だという方も多いでしょう。実際、ウィスキーの多くはエングランド王国で生産され、アルメア連州国はどちらかといえばバーボンで有名です。こちらはアヴァルカ半島の蒸留所で生産された一本で、熟成年数は八年と長くありませんが、温暖な気候もあって熟成が早く、二十年ものや三十年ものにも劣らない奥深さを持っています」
ふたつ目のグラスにロックアイスが入る。
「どちらも決して珍しい酒ではありません。数は少ないながらも、ここアウステラ連邦にも輸入されていた酒です。そう、かの航海者ジョン・フォーが南央海航路を切り拓いてから数百年、央海戦争が始まって輸入が途絶えるまでは」
観客の間に理解が広がる。アルメアとシャイアの戦争は、物資の多くを輸入に頼るアウステラ連邦にとって大打撃だった。石油や鉱物はもちろん、食料や日用品の不足は市民の生活を直撃し、先行きへの不安を高めている。
「美味しい酒に国境はありません。両国の酒を用いたこのカクテルが手軽に作れるスタンダードカクテルとなる日が戻ることを願い、腕を振るわせていただきます」
みっつ目のロックアイスができあがり、よく冷やされた金華佳酒とアルメアンウィスキーがグラスに注がれていく。軽くステアして完成の、シンプルなレシピだ。
「このオリジナルカクテルは『エンカウンター』と名付けました。本来であれば出会うことのないものが、海を越えて出会ったことで生まれたカクテルであるという意味をこめています。アウステラ特産の南極氷が弾け、金華佳の花冠とシェリー樽に由来する華やかな香りが広がるのをお楽しみください」
ジョンのパフォーマンスは優雅な一礼で締めくくられた。審査員と観客、双方にアピールできる内容だったと言えるだろう。満場の拍手の中、不敵な笑みを浮かべてステージを降りるジョン。本人も手応えを感じたようだった。
審査員が別室で最終審査を行う間、歓談の時間が設けられた。決勝に残った参加者の中でもジョンは人気があり、常に人に囲まれていた。少し離れた場所で時間を潰していると、見知った顔が手を挙げて近づいてくる。
「ユベール君。ずいぶん遅かったね」
「こんにちは。ええと……」
そう言えば、ジョンの友人である彼の名前を知らないことに気付く。
「サミュエル・シーカー。親しい友人にはシェイクと呼ばれています」
「では、シェイクとお呼びしても?」
「ええ。フェル君も、こんにちは」
「こんにちは、シェイク」
ベストにタイを合わせたバーテンダーの姿でなくとも、すらりとした立ち姿と細いフレームの眼鏡をかけたシェイクは立っているだけで絵になる格好よさだ。
「自分が参加しているわけでもないのに、妙にどきどきしますね」
苦笑するシェイクに、気になっていた問いをぶつけてみる。
「シェイクは参加しなくてもよかったんですか?」
「昔からシャイな方でしてね。こういう催しは苦手なんですよ」
そう言って肩をすくめる。
「同業者として、優勝するのは誰だと思いますか?」
「友人としては、ジョンのパフォーマンスが一番よかったように思えます」
シェイクがはにかむような笑顔を見せて言った。
「シェイク、ユベール! それにフェルもこっちに来いよ!」
三人に気付いたジョンが手を振って呼んでいた。釣られて周囲の視線も集まってしまい、シェイクとお互いに顔を見合わせて苦笑する羽目になった。
*
「皆様、ご静粛に願います。これより優勝者の発表がございます。審査員長を務めたジョン・フォー・トレード代表ティエン・ホウ様、お願いいたします」
壇上にティエンが姿を現すと、ざわめいていた会場が静まる。
「審査員長のティエン・ホウです。本日はお集まりいただきありがとうございます。厳正なる審査の結果、栄えある優勝はジョン・フォリナー氏の『エンカウンター』に決定いたしました。氏にはトロフィーと賞金が贈られます。おめでとう」
拍子抜けするほどあっさりとした発表に、ティエンが拍手を始めるまで誰も反応できなかった。ぱらぱらと始まった拍手は次第に大きくなり、他の参加者と一緒にステージに並んでいたジョンは手招きされて戸惑ったように進み出る。
「おめでとう、ミスター・フォリナー」
「はあ……あの、光栄です」
ティエンは司会の女性から受け取ったトロフィーと賞金の小切手をジョンに渡し、握手を交わすとさっさとステージを降りてしまった。
「ええ、では、この後は優勝者のジョン・フォリナー氏の挨拶と、ご来場の皆様へのカクテルサービスがございますので、どうぞ最後までお楽しみを……」
司会が言い終える前に、会場の後方にある扉が乱暴に押し開けられた。雪崩れこんできたのは数名の警察官で、彼らは会場の人間に鋭い視線を走らせる。
「この中にシャイア人のティエン・ホウはいるか」
先頭に立つ警官が高圧的な調子で問いかける。
「ティエン・ホウは私だが、君たちは?」
落ち着いた様子でティエンが進み出ると、警官が書類を突きつける。
「在留シャイア人の拘束と資産凍結の執行証書だ。警察署まで同行を願おう」
警官の発言に会場がざわつく。
「ふむ。アルメアに次いで、アウステラでもこのような愚行がまかり通るとはね。私はこの国の良識を少しばかり過大評価していたようだ」
落ち着き払ったティエンの態度に、警官が憤怒の表情を見せる。
「おいおい、ちょっと待ってくれよ」
割って入ったのはジョンだった。
「彼が主催するカクテルコンペで優勝して、賞金をもらう約束なんだ。資産凍結って言ったか? その場合、俺がもらうはずの金はどうなるんだ」
「そんなもの、支払われるはずがないだろう」
「はあ? 一千万だぞ? ふざけてんじゃねえ」
にべもない警官の言葉に激昂しかかるジョンを、ユベールとシェイクが二人がかりで止めた。ここで警官を殴っても話がこじれるだけだ。
「証書を見せたまえ」
身柄の拘束と資産の凍結という事態に際して、ティエンは冷静だった。
「なるほど。即時執行、裁判もなし。法治国家とは思えないな」
ティエンはそっとため息をつくと、ジョンに向き直る。
「ミスター・フォリナー。申し訳ないが、賞金の支払いは戦争の終結まで待ってもらえるかな。このティエン・ホウの誇りにかけて、必ず支払うと約束しよう」
「あんた、それでいいのか。シャイア人ってだけでこんな理不尽が許されるのかよ」
ジョンの言葉に賛同の声が上がり、形勢不利と見た警官が大声で怒鳴る。
「シャイア人をかばうものはスパイと見做して拘束するぞ!」
その一言が火に油を注いだ。空気が張り詰め、一触即発の状態となる。
「やめたまえ!」
会場の隅々までよく通る声で一喝したのは、ティエンだった。
「私は荒事を好まない。皆が私をかばってくれる気持ちはありがたいが、誰かが傷つく事態は本意ではない。拘束でも資産凍結でも、好きにするといいだろう」
ティエン本人が警察に従う意思を見せたのでは、それ以上かばうこともできなかった。彼はむしろ警察官を付き従えるようにして、堂々と会場を去っていった。コンペ自体も続けられる空気ではなく、そのまま解散となった。
*
「得られたものは金にならないトロフィーと、換金できない小切手だけか」
シェイクのバーに戻り、やけ酒をあおりながらジョンがこぼす。
「そう落ちこむなよ。戦争が終わるまでの我慢さ」
余った材料を使って、シェイクがモヒートを作ってくれた。アヴァルカンミント、ライム、砂糖をバースプーンで潰して香りを出し、クラッシュアイスを詰めてラムとソーダを注ぐ。自分で仕入れた材料で作られたモヒートは格別だった。
「ったく、人の迷惑を考えて戦争しろってんだ」
ジョンは自分で作ったエンカウンターを飲み干し、忌々しげに小切手を指で弾く。すぐに換金できないとはいえ一千万の価値を持つ紙片をシェイクが取り上げる。
「これは君だけのものじゃないんだから、預かっておくよ」
「頼む、シェイク。俺が持ってるとなくしそうだ。ユベールもいいか?」
ジョンに問われ、フェルと顔を見合わせる。特に異存はなかった。
「構わない。短い付き合いだが、シェイクなら安心だ」
「わたしもそれでいい。戦争が一日でも早く終わることを願おう」
「よし、任された。預かり料は、そうだな……」
軽く悩んだ後、シェイクが指を鳴らす。
「君のカクテルである『エンカウンター』を店に出す許可をいただくとしようか」
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