第8話 翼持つ者の理想郷


1


 トルジアは、アルメア東海岸でもっとも航空機産業が盛んな都市だ。アルメア最大の航空機メーカーであるカーライル社もここに本社を置いている。大陸横断鉄道の終着駅であるイスタントからは列車で二時間余りとアクセスは決してよくないが、そこから先、目的地であるペトレールを製作したヴェルヌ社の工場はトルジア港に面した港湾地区にあり、タクシーですぐの距離だ。

「ここで新しい飛行機を作るのか?」

「そうだ。腕のいい設計士を抱えた馴染みの工房があってな。小さい会社だが、俺たちみたいな零細企業の細かいオーダーにも応えてくれる」

 フェルの素性を考えても、口が堅くて信用できる会社でなければならない。新造する機体は、彼女の持つ能力と組み合わせて大きな能力を発揮するからだ。

「ほら、もう見えてくるぞ。あれだ」

「ヴェルヌ社?」

 工房にかけられた看板に目を留めたフェルが、知った名前に首をかしげる。

「そう、ヴィヴィの祖父が経営する工場だ。ペトレールもここで生まれた」

「彼女はカーライル社のテストパイロットなのでは?」

「あいつは速い飛行機に乗れるなら手段を選ばないんだよ。だからって、同じトルジアに本社があるカーライルに行くことはないだろうと思うがな」

「なるほど、ヴィヴィらしいな」

 ユベールの言葉に、納得したようにうなずくフェル。短い付き合いではあるが、ヴィヴィの人となりは彼女にも把握できたらしい。

 リベットを叩くハンマーの音が響き渡る工場に足を踏み入れると、作業を監督していた年配の作業者がじろりと不機嫌そうな視線を向けてくる。ヴェルヌ社の現場作業を一手に取り仕切るベテラン、トラヴィスの変わらぬ姿だった。彼は来訪者がユベールであることに気付くと相好を崩し、親しげに歩み寄ってくる。

「よお、ユベール。久しぶりだな。ペトレールの調子はどうだ?」

「元気かい、おやっさん。ペトレールは……あー、壊しちまったんだ。詳しくは後で話すよ。ところで、フェリクスのじいさんはどこだい?」

 ユベールの問いに、トラヴィスが肩をすくめて背後を示す。

「こいつが気に入らないってんで雲隠れさ」

「フロントカウルだけ作ってるのか? えらく数が多いな」

 流れ作業で製作されるエンジンカウルは、ここにあるだけでも数十機分を数えた。小規模ながらも独立して設計と製造を行い、一機の飛行機を最初から最後まで手がけることを売りとするヴェルヌ社では珍しい光景だった。

「シーホッグ。カーライルの新型偵察爆撃機だ」

 トラヴィスの短い言葉で、おおよその事情を察する。

「カーライルの下請け仕事がおもしろくなくて逃げ出したのか。あの人らしい」

「そういうこった。クソ忙しいのに困ったもんだ。それから、新造機の相談ならベルエスが奥の事務所にいる。話を聞くといい」

「ああ、邪魔したな」

「ところでユベール、その子は誰だ? まさかヴィヴィ嬢ちゃんの子供……ではなさそうだな。いくら子供とは言え、無闇に部外者を連れこむのは感心せんな」

「おっと、紹介が遅れたな。こいつはフェル。航法士だよ」

 紹介されたフェルがトラヴィスと握手を交わす。

「フェル・ヴェルヌだ。よろしく」

「ほう、小さいのに航法士とは立派なもんだ。俺はトラヴィス。よろしくな」

 オイルに汚れた手をズボンで拭い、フェルと握手を交わして仕事に戻るトラヴィスに別れを告げ、製図室を兼ねた事務所に入る。事務員や設計士がユベールに気付いて声をかけてくるが、一番奥に配置された製図台では、線の細い青年が周囲の話し声にも気付かない様子で一心に手を動かしていた。

「ベルエス、おーい、ベルエス?」

 声をかけても気付かない眼鏡の青年の肩を叩くと、彼はようやく視線を上げた。

「おや、こんにちは。えっと、初めまして?」

「久しぶり、だな。ユベールだよ。ユベール=ラ・トゥール」

 ベルエスは目を細めて顔を眺め、ようやく合点がいったように微笑む。

「ああ、ペトレールの。今日はどうされましたか?」

「そのペトレールを事故で失ってな。仕事の依頼だよ」

 ユベールの言葉に、ベルエスが満面の笑みを浮かべる。

「では、新型機の設計ですね?」

 ヴェルヌ社の主任設計士ダーレン・ベルエス。彼もまた、飛行機のことを考えていられれば幸せな人種の一人だ。カーライル社から高給での引き抜きを持ちかけられるほどの才能を持つが、細部の設計しか任せてもらえないなら興味はない、と一蹴した逸話がある男だった。新型機の設計を彼に任せられれば心強い。

「その件で相談に乗ってもらいたくてな。場所を移せるか?」

「構いませんよ。会議室が空いていますから、どうぞ」

 紙の束とペンを携え、ベルエスがいそいそと立ち上がる。新型機について話せるのが嬉しくてたまらない、といった様子だった。



 三時間ほどかけて、新型機についてのユベールの素案、フェルのアイデアをベルエスに伝えた。軽い実演も交えた魔法の説明にベルエスは目を輝かせ、それを活用した飛行機という新機軸の機体に興奮気味の様子で追加のアイデアをまくし立てた後、絶対に口外しないことを約束してくれた。新型機を設計する好機を棒に振るくらいなら舌を噛み切って死ぬ男なので、信用していいだろう。

「楽しみですね。最高の飛行機に仕上げてみせますよ」

「期待してるよ。後は金額の話なんだが」

 ユベールの言葉に、ベルエスが肩をすくめる。

「積算はしておきますが、値引き交渉は社長じゃないと無理ですよ」

「留守にしてるって話だったな。どうせ『ルーカ』だろう?」

「おそらく、そうでしょうね。そろそろ連れ戻さないと決裁の必要な書類が溜まって仕方がないって事務の人間が頭を抱えていましたよ」

「連れ戻すなら、ついでだから俺たちで引き受けようか?」

 ユベールの提案に、ベルエスもそのつもりだったのかあっさりとうなずく。

「助かりますよ。ペトレールの後継機の設計に一枚噛めなかったら、きっと社長はへそを曲げるでしょうからね。飛行機も貸しましょうか?」

「手頃な機体はあるか?」

「トラヴィスさんに頼めば、ギルモットを出してくれますよ」

「ギルモットか。いい機体だ」

 高速水上機ギルモットはベルエスの設計によるヴェルヌ社の傑作フロート機で、片持ち式の金属製主翼と流線型のフロート支柱が特徴的な美しい機体だ。

「できれば新型機が完成するまで借りたいんだが、問題ないか」

「分かりました、話は通しておきます。レンタル代は安くしておきますよ」

 自身の作品を褒められて上機嫌なベルエスが、おもしろくもない冗談を言う。

「新型機を建造するんだから、それくらいサービスしておけよ。うちが倒産して金を取りっぱぐれても知らないからな」

「そのときは、ヴィヴィお嬢さんに取り立てを頼みますよ」

「勘弁してくれ……」

 すぐにも新型機の基礎設計を始めたいというベルエスと別れ、トラヴィスに声をかけて工場の裏手にある格納庫へ向かう。濃紺と白の塗装を施されたギルモットは、格納庫の前にあるスロープからそのまま北央海へ機体を降ろして飛び立てるようになっている。その隣にぽっかりと空いた一機分のスペースは、おそらくフェリクスが乗っていった水上機が収まっていたスペースだろう。

「後部座席に乗れ、フェル。すぐに飛べるだろう?」

 ユベールの言葉に応えて、荷物を座席に投げ入れた相棒が不敵に笑う。

「誰に向かって聞いてるんだ、ユベール?」


2


 空気より重い機体を動力で飛ばす、飛行機という乗り物がこの世に現れてはや十年。たった数十メートルの距離を飛ぶだけで興業が成立するような時代はとうに過ぎ去り、国境を越えて海をも渡る冒険飛行家が脚光を浴びる時代が訪れていた。

 フェリクス・ヴェルヌは今年で四十歳になる冒険飛行家だ。

 いち早く飛行機の将来性に目を付け、家業の紡績工場を売り払って航空機の製造を開始。自ら操縦するヴェルヌⅪでエングランド王国とケルティシュ共和国に挟まれたドヴァル海峡の横断を成し遂げたことで注目を集め、注文が殺到。初期の熱狂に当てられて開業した同業者が淘汰されていく中で着実に成功を収め、事業を軌道に乗せた。アルメアに移住した後も精力的に活動を続け、重要な航空路の開拓を手がけてきた。

 アルメア連州国とシャイア帝国を繋ぐリーリング海峡の東回り横断飛行は、その集大成と呼べる計画だった。貿易風に乗れる西回りではすでに達成されているルートだが、風に逆らって進む東回りではまだ成功者がいない。そしてこれに成功すれば、西回り、東回り共に飛行機で地球を一周できることが証明される。

 だが、一口にリーリング海峡横断飛行と言っても、百キロに満たない海峡の上だけを飛べばいいわけではない。将来は旅客機や貨物機が飛ぶことを見越して、中型機以上が着陸できる両国の空港を結ぶルートでなければならないのだ。アルメアのユスノー空港を発ち、アヴァルカ半島を横断し、リーリング海峡を越えてシャイア帝国のレンチア空港へと至る約二千キロの行程を飛んで、初めて正式な記録となる。

 同業の冒険飛行家たちも、フェリクスと同じくリーリング海峡東回り飛行の記録を狙っていた。広い空なのだから好きな場所を飛べばよさそうなものだが、飛行機の性能向上、そして世間の関心が飛行家たちを同じ時期、同じ目標へと駆り立てるのだ。経験の浅い飛行家が準備不足のまま飛んで未帰還のまま行方不明となる中、ベテランは着実に準備を進め、互いの動向を探りながら機を伺っていた。

 栄光を手にするのは最初の達成者のみ。ただしベットするのは己の命。

 経験豊富な飛行家たちは、概して慎重だ。世間的には向こう見ずな勇敢さ、無謀すれすれの大胆さを称揚される冒険飛行家だが、そういう連中は決まって短命だ。いくつかの冒険を度胸と運で切り抜け、そして不運に見舞われて墜落する。

 長く冒険飛行家を続けるベテランは、スポンサーから資金を集めるためにそうしたキャラクターを演じつつも、常に冷静沈着で見果てぬ先を見透かすような透明な瞳と、どこかで命を投げ出すような潔さを兼ね備えているものだ。

 そうしたベテラン勢の間で亜熱帯に属するアヴァルカ半島から嵐の季節が過ぎ去るのを待って記録に挑戦しようという暗黙の了解が形成される中、フェリクスは記録飛行の決行を決めた。空の濁りは雷雨に一掃され、雲ひとつない晴天の日だった。

 アヴェルカ半島の付け根にあるユスノー空港から東へ五分も飛べば、下は見渡すばかりのジャングルになる。雨が上がったのが昼過ぎだったので、順調にいけばレンチア空港には真夜中の到着となる。未開拓の航路を夜間飛行する危険性は言うまでもないが、成功すれば間違いなく一番乗りとなるだろう。

 だが、日暮れが近づくに連れて雲行きが怪しくなってきた。流れの速い雲が空を覆い、夕闇に薄く光り始めていた星々を包み隠していく。頼みにしていた月明かりも失われ、暗闇に発動機の唸りとプロペラの風切り音だけが響く。

 星々さえも雲に陰る暗夜、己の腕を頼りに空を征く者を導くのは、点々と地上に散らばる灯火のみ。人々の営みの証たるそれらも、未開のアヴァルカでは期待できない。密林を埋め尽くす木々は、槍となって木と羽布からなる機体を薙ぎ払い、高度を見誤った飛行家を刺し貫こうと待ち受けている。

 燃料計に目をやる。残量はちょうど半分。前触れもなく故障しては計算を狂わせる代物だが、飛行時間を考えても妥当な量だった。

 ポイント・オブ・ノーリターン。引き返す決断をするなら最後のチャンスとなる帰還不能点を超えて、フェリクスの胸に去来したのはどこかほっとするような気分だった。ここまで飛べば、もう先へ進むしかない。目的地のレンチア空港に着陸するか、どことも知れない場所に墜落あるいは不時着するかのいずれかだ。

 戻るべきかで頭を悩ませる必要がなくなり、操縦桿を握る両手が緊張で汗に湿っているのに気付いた。進路が変わらないよう操縦桿を保持したまま、片方ずつ順に拭い、しっかりと握り直す。平衡感覚が曖昧になる中、機体が平行に飛んでいることを保証してくれるのは、しばしば故障する計器、そして自身の夜目だ。

 吹きさらしの操縦席で風から目を守るゴーグルを少しだけ顔から離し、空気を入れ換える。夜になって少しは気温が下がったが、エンジンの熱も合わさって汗をかいていた。その汗が強烈な風により気化熱となって体温を奪っていく。マフラーを首元にかき寄せ、身体を震わせたところで水滴が風防を叩いた。

「神よ、冗談だと言いたまえ」

 思わず毒づいた言葉すら風にさらわれ、水滴は一滴、また一滴と風防を叩き、風に流れていく。雨はすぐに勢いを増し、フェリクスの上半身を濡らしていった。つい先ほどまでは渇望していた光が一瞬だけ青白く世界を染め上げ、直後に発動機の騒々しい稼働音を圧する強烈な雷鳴が鼓膜を叩いた。

 アヴァルカの気紛れな天気を侮っていたわけではなかった。この季節、嵐が連続することは珍しくない。それを覚悟で飛び立ったのだ。夜闇と豪雨で視界は最悪、雷光が切れ切れに映し出す青白い光景だけを頼りに、歯を食い縛って機体の水平を保ち続ける。強風に機体が流され、まっすぐ飛べているかすら定かではなかった。

 飛行機とは、停止どころか、速度を緩めることすら許されない乗り物だ。

 飛ぶために揚力を必要とし続け、そのためには常に速度が要求される。速度を落とし、揚力を失えばたちまち墜落する。車なら道端に停車して、必要であれば助けを呼んで修理できる些細なエンジントラブルであっても、空の上では死に直結する。低く飛べば飛ぶほど、速度を失えば失うほど、回復までの猶予は短くなる。

 不時着する場所など存在せず、嵐の直撃を受けて翻弄されるこの状況で機体のトラブルに見舞われれば、為す術もなく自分は死ぬ。そんな状況だからこそ、フェリクスは冷静であれと自分に言い聞かせ、状況を見定める。

 前方から吹き付ける強烈な雨と風。方向転換して嵐から抜けるのは不可能だ。恐らく嵐に追いつかれる。かといって嵐を突っ切って目的地へ向かうのも困難だ。すでに風で流されて現在位置を見失いつつある上、逆風で燃料消費が激しい。

 生還は難しい、と結論せざるを得ない状況だった。

「死神に足首を掴まれる気分とはこういうものか」

 きっと、自分はここで死ぬ。

 後はそれが早いか遅いか、どんな死に様かといった違いがあるに過ぎない。

 しかし、だからといって諦め、素直に死んでやるつもりはなかった。

 最後の一瞬まで、少しでも遠くへ。

 冒険飛行家フェリクス・ヴェルヌは引き際を見誤って帰路で墜落したのではなく、最後まで未開拓航路に挑戦し続けて死んだのだと人々に記憶されたかった。

 機体が捻れて軋む異音が、激しい風雨の音に混じる。長距離飛行に備えて堅牢な構造を誇るヴェルヌⅫだが、無理をすれば主翼が折れ飛びそうだった。全ての動翼を使って機体の制御を試みるが、前へ進んでいるかどうかも怪しい有り様だ。

「頼むぞ、相棒。まだ持ってくれよ」

 フェリクスがそうつぶやいた瞬間、前方で何かを噛んだような異音がした。直後、エンジンが黒煙を噴き上げて回転を落とす。いくつかのシリンダーが不発となり、出力が一気に落ちる。風に煽られて墜落しそうになり、慌てて立て直す。

「おい、冗談じゃねえぞ、ふざけんな!」

 今日はとことん不運に見舞われるらしい。もう前進は不可能で、風を上手く使ってできるだけ高度を落とさないように振る舞うだけで精一杯だった。

「不時着は……無理か。そうだよな」

 どこまでも続く密林とわずかな開拓者の集落しか存在しないアヴァルカではまともな不時着場所など期待しようもない。密集する木々にぶち当たって機体もろとも粉々にされるか、荒れ狂う海に落ちて溺れるかの二択だ。墜落して死ぬのはともかく、溺れて死ぬのは飛行機乗りとしてぞっとしない。

 最悪なことに、眼下には海らしきものが広がっていた。いつの間にかずいぶん南へ流されて海上に出ていたらしい。このまま粘れば、どんどん外洋へと押し流されるだろう。そうなれば生き残る確率はさらに低くなる。

「覚悟を決めろってことか。砂浜を狙って突っこめば、何とか……」

 自分でも期待薄だと分かっていた。だが、溺れるよりはましな選択肢だ。機体を強引に旋回させ、一気に高度を失いつつも海岸線へと機首を向ける。機体を平行に戻そうと試みるが、操縦桿とペダルは重く、酷使した手足の筋肉は言うことを聞かなかった。このままでは海面に突っこむ。そう確信して、絶叫と共に操縦桿を引く。

 憶えているのは、そこまでだった。



 じりじりと照りつける陽光で目を覚ます。

 嵐は過ぎ去り、気付けばフェリクスは砂浜に打ち上げられていた。嵐など嘘だったかのような青空と、白いビーチのコントラストが目に痛い。数羽の海鳥が優雅に空を舞う他は動くものの気配もなく、楽園のような光景だった。

 現実感に乏しい美しい光景からフェリクスを引き戻したのは、自身の肉体が訴える数々の不満だった。重い疲労、酷い空腹と喉の渇き。波間には非常用の食料と水を積んでいた機体の残骸が浮かんでいて、どうやら生き延びたらしいと実感が湧く。

 だが、このままでは遠からず渇きと飢えで死ぬ。

 軽く身体を動かして、大きな怪我をしていないことを確認する。細かい擦り傷や切り傷は無数にあるが、幸いにも痛みを我慢すれば動ける程度で済んでいた。

「まずは水、それから食い物だな。くそっ、死んでた方が楽だったな」

 悪態をついて、自分を奮い立たせる。

 水も食料も、まともな道具もなくアヴァルカの奥地にたった一人で放り出されて、生き残るために使えるものは何でも使う。手始めに、砂浜に流れ着いた尾翼の残骸を拾い上げて、機体番号が見えるよう木の根元にしっかりと突き刺した。

 フェリクス・ヴェルヌここにありという宣言であり、もし死ぬようなことがあれば発見者に自分の身元を特定してもらうための証拠となるはずだった。

「この僕がそう簡単に死ぬかよ、こんな楽園みたいなところでさ」

 打ち寄せる波音はただ穏やかで、澄んだ海と空が泣けるほど綺麗だった。


3


 目指す『ルーカ』はアルメア連州国、アヴァルカ州の南岸にあるという。トルジアから直線で三千キロの距離があるため、快速を誇るギルモットであっても八時間から九時間の行程となる。ベルエスとの新型機の打ち合わせを終えた頃には昼を回っていたので、途中で一泊して明日の昼頃に到着する予定となる。

 トルジアから飛び立ち、海岸線に沿って南東へ飛ぶ。眼下に広がるのは、一年を通じて凍らない海、地平線まで続く農場や牧場、豊富な資源の眠る山野だ。列強の中では最も歴史の浅いアルメア連州国が急速に発展し、シャイア帝国と比肩しうる国力を誇るまでになった理由が一目瞭然となる光景だった。

 視線を空へと移せば、そろそろ日没が近い。紅蓮に燃える太陽は彼方に連なる山脈にかかり、藍色に染まる空に黄金の雲を浮かべていた。描き出されるグラデーションは一時もその姿を留めず、次第に濃紺へと収斂していく。

 綺麗だと、そう思った。

「空は好きか、ユベール?」

 紡がれた問いは、感傷的になっていたせいだろう。

「好きじゃなきゃ、こんな仕事はしてないさ」

「そうだな。わたしも好きだ。いつの間にか、好きになっていた」

 トゥール・ヴェルヌ航空会社の航法士フェル・ヴェルヌ。この在り方は、自分で選んで始めたものではない。ルーシャの女帝フェルリーヤ・ヴェールニェーバは国を追われ、ユベールに救出されたものの、代金の持ち合わせがなかったのだ。

 働いて金を返す、という名目は、思えばユベールの気遣いだったのだろう。シャイア帝国から莫大な懸賞金をかけられた冬枯れの魔女は、決して安住の地を得られない。世界各国を飛び回って仕事をする航法士の身分は都合のいいものだった。

 しかし、今となってはそれだけが理由ではなかった。航法士として空を飛び、技術を身につけ、忌まわしい魔法の力を人々のために役立てられることを知った。始まりこそ違っても、今の在りようは自分で選んだものだと納得できる。

「ありがとう、ユベール」

「ん? 突然どうした」

「わたしが空を好きになれたのは、きみのおかげだ」

 ふっと笑うような気配が、前席から伝わってくる。

「……そうかよ。どういたしまして、だ」

 目的地の空港が、二人を迎えるように光を放っていた。

 翌朝、給油を済ませて再び飛び立つ。亜熱帯に属するアヴァルカ半島は温暖かつ湿潤な気候で、上空から眺めると緑の密度に圧倒される。点在する集落を除けば、人口のほとんどは海沿いに開けたわずかな平地に集中しているようだった。

「ルーカの座標は憶えてるな、フェル」

 伝声管を通じてユベールの声が耳に届く。

「ああ、憶えている」

 昨日、ギルモットに乗りこんで飛び立つ直前に、口頭で緯度と経度を伝えられたのだ。フェルがそれを書き留めようとした瞬間、ユベールはこう言ったのだった。

「メモは禁止だ。繰り返すから、頭に叩きこめ」

 その時はお互いに離陸の準備で忙しく、理由を尋ねる暇がなかった。改めて話題に上ったので、温めていた疑問を口にしてみる。

「ユベール、なぜ座標を書き留めてはいけないんだ? ルーカというのは、秘密にして隠さなくてはいけないような場所なのか?」

「向こうに着いてから説明するよ。そういうルールになってるんだ」

 楽しげな笑いを含んだユベールの声からすると、さほど深刻な事情があるという訳ではないらしい。聞き出すのは諦めて、飛行ルートの把握に努める。航法士として、再びルーカを訪れる際にはナビゲートできるようになっておきたかった。



 アヴァルカ半島の南岸、南央海の煌めきが地平線の先に見えたのは太陽が中天に差し掛かる頃合いだった。相変わらず周囲には密林が広がるばかりで、街どころか道すら見当たらないが、確信に満ちた操縦でギルモットが機首を巡らせる。

「ルーカはもう近いのか?」

「十一時の方向、海に突き出す岬は見えるな?」

「見える」

「あれが目印だ。いったん海へ出るぞ」

 ギルモットが加速し、密林の上を抜けて海上に出る。大きく旋回する途中で、海中から突き出た大岩が視界に入った。サンゴ礁の広がる美しい水色の海だが水深は浅く、およそ水上機の着水に適した場所とは思えない。ペトレールと違って降着装置を備えないギルモットでどうやって降りる気なのかと心配になる。

「岬の突端と、あそこに見える大岩を繋ぐ直線に対して、直角に進入するんだ。大岩の脇を通り抜けるように降ろせば、そこに滑水路がある。風向きが悪い場合に備えて別のルートもあるが、そっちは飛び立つときにでも教えてやる」

「これも憶えればいいのか?」

「そうだ。よく見てろよ」

 ユベールの言葉と操縦の腕前を信じて風景を頭に焼き付けることに集中する。キャノピー越しに大岩の付近を観察していると、空を映したような水色の海に色の濃い部分があった。まっすぐに浜辺まで伸びるそれが、ユベールの言う道なのだろう。旋回を終え、高度を下げていく機体が大岩の脇を通り過ぎたところでフロートが着水して水飛沫を上げ、一気に減速しながら背後に航跡を描いていく。

「あれは……水上機か? こんなにいたのか」

 上空からは木々に隠れて見えなかったが、浜辺には数機の水上機が停泊していた。一見したところ、形式やカラーリングはバラバラで統一感がない。その中の一機は二人が乗っているのと同じギルモットで、尾翼にヴェルヌ社の社章が描かれている。社長のフェリクス・ヴェルヌの乗機で間違いないだろう。

「大当たりだ。フェリクスはここにいる」

「意外と早く仕事が済みそうだな」

「そう願いたいところだな」

 来訪者に好奇の視線を向ける飛行機乗りたちがギルモットの側に寄ってくる中、憂鬱そうに言うユベールが印象に残った。フェルがその意図を聞き返す前に、彼はため息をついて気分を切り替えたように明るい語調で言うのだった。

「ともあれ、飛行機乗りの楽園ルーカへようこそ、だ。楽しんでいけよ」

「飛行機乗りの楽園……」

 ユベールの言葉は、あながち嘘でもないらしい。上空からは木々でカモフラージュされていたが、水上機が係留されている浜辺にはパラソルとデッキチェアが並び、カジュアルな格好でくつろぐ男たちの姿が見える。その奥にはコテージらしき建物と、屋根をかけただけの簡易な格納庫が並んでいる。

「おお、ユベールの坊やじゃないか、会うのは何年ぶりだ」

「ヴィヴィちゃんは一緒じゃないのか」

「フェリクスのじじいなら奥だぞ」

 飛行機乗りたちはユベールと顔見知りのようで、気楽な調子で話しかけ、スキンシップを取ろうと試みてくる。無遠慮に背中を叩かれて咳きこんだり、乱暴に頭を撫でられて嫌そうに振り払う彼の姿は新鮮で、思わず吹き出してしまう。

「笑うなよ、フェル」

「仕方ないだろう。まるで子供扱いだ」

「これだから古い知り合いは……ガキの頃のことをいつまでも憶えてやがる」

「みんな飛行機乗りなのか?」

「飛行機乗りの楽園って言ったろ? ルーカには飛行機乗りしかいないんだ」

 どこか自慢げに、ユベールが続ける。

「ルーカは最寄りの街から数百キロの距離があり、密林と低湿地で隔てられている。まともな道はなく、踏破できる車は存在しない。海路で近づこうとしても同じだ。サンゴ礁に阻まれ、大型の船は近寄れない。ここに来る手段は、たったひとつ」

「水上機か」

「そうだ。あの滑水路の存在を知る飛行機乗りしか、ルーカにはたどり着けない」

「あの距離だと、大型の飛行艇は難しいな」

 ペトレールの離水距離を念頭に置いた発言に、ユベールが大きくうなずく。

「その通り。大型の旅客飛行艇だと着水は何とかしても、離水は不可能だ。そういうわけで、一般の観光客はここを訪れない。ルーカにたどり着けるのはあの悪条件で離着水できる腕のいい飛行機乗りに限られるってわけだ。おもしろいだろう?」

 秘密基地を自慢するようなユベールの態度に、口の端が緩む。

「文字で記録するなというのは、そういう意味か」

「無闇に噂が広まって、リゾートとして開発されちゃたまらないからな」

 腕のいい飛行機乗りたちのプライベートビーチ。仕事から逃げたフェリクスが身を隠すにはうってつけの場所と言えるだろう。

「だが、どうしてこの場所なんだ?」

 先ほどユベールが言った通り、ルーカの付近にめぼしい街はなく、大都市を結ぶ航路や空路からも外れている。船で近づくにはサンゴ礁が邪魔だし、上空からは木々に覆われて隠されている。誰がどうやって発見し、なぜそこまでの熱意を持ってプライベートビーチに仕立て上げたのかが不思議だった。

「それを話すとちょっと長くなるな。先にフェリクスを訪ねよう。このコテージだ」

 ドアをノックするユベールに、通りがかった飛行機乗りが背後から告げる。

「おう、ユベールじゃないか。ひょっとしてフェリクスを探してるのかい。やっこさん、ギルモットのエンジン音を聞いてとっくに逃げたよ」

 ドアを開いたまま固まるユベールの脇から、室内を覗きこむ。つい先ほどまで人がいたらしく、優美なカーブを描く年代物のロッキングチェアはわずかに揺れ、サイドテーブルには伏せられた本と飲みかけのロックグラスが放置してあった。

「会社の追っ手だと勘違いしたか。いや、間違ってないんだが……」

「探そう」

 フェルの提案に、ユベールが首を振る。

「いや、ここで待ってろ。慣れないと迷うし、やつが戻ってくるかも知れない」

「了解した」

 舌打ちを残して走り出すユベールを見送り、どうやって時間を潰そうかとコテージの中に入ってドアを閉める。不意に人の気配を感じて振り向くと、そこには唇に指を当ててウインクする、派手なシャツに短パン姿の老人の姿があった。どうやら逃げたと見せかけて、裏手の勝手口から戻ってきたらしい。

「初めまして、お嬢ちゃん。よければ、僕と一緒にお茶でもいかがかな?」

 老いてなお引き締まった体格を気楽なシャツで包み、老人は握手のために手を差し出す。リラックスした自然な所作に、思わず手を握り返す。

「失礼、突然のことで驚かせてしまったかな? 僕の名はフェリクス・ヴェルヌ。見ての通り、といってもこの姿では分からないだろうけど、飛行機乗りだよ」

「わたしはフェル・ヴェルヌ。航法士だ」

 反射的に口にしてから、失敗に気付く。同じ名前など、偶然にしても出来過ぎだった。しかし、フェリクスの反応は予想を超えたものだった。

「ふむ、なるほど。今はそう名乗っているのだね? よろしい、ならば気楽にフェル君と呼ばせてもらうが、それで構わないね?」

 明らかにフェルの名乗りが偽名だと知っていることを匂わせる発言だった。

「……好きに呼んでもらって構わない」

 緊張を滲ませるフェルの様子に、フェリクスが場を和ませるように破顔する。そして、共通語から流暢なルーシャ語に切り替えて言う。

『そう警戒することはないよ、ルーシャの『冬枯れの魔女』フェルリーヤ・ヴェールニェーバ君。少し考えれば、僕が君の名前を知っているのは不思議でも何でもない。何しろ、君を救うという仕事をユベールに仲介したのは僕なのだからね』

『……貴方は、一体?』

 フェリクス・ヴェルヌ。ヴィヴィの祖父で、ペトレールを建造したヴェルヌ社の社長。彼とユベールが長い付き合いなのは分かるが、フェルを崩壊寸前のルーシャから助け出したこととどう繋がるのかが分からなかった。

『その様子だと、ユベールからは何も聞いていないようだね。ああ見えて彼はシャイなところがあるから仕方ないが……いや、いけないな。やはりそれは公正ではない。君は彼の相棒なのだろう? ならばその立場は対等で公正なものであるべきだ』

 公正であること。それが重要なのだと言いたげに目を見開くフェリクス。

「よろしい。ならば彼が君を救うまでの物語を、僕から聞かせよう。なに、彼が諦めて帰ってくるまで時間はある。暇潰しと思って聞いてもらえばいい』

『……分かりました。聞かせていただきます』

 座り心地のよさそうな籐椅子をフェルに勧め、自らもロッキングチェアに腰を下ろしたフェリクスがロックグラスを傾け、にっこりと微笑む。

『さて、どこから話したものか……やはり、僕とユベールの出会いからだろうね』

 そう言って、懐かしく思い出すような表情でフェリクスは語り始めた。


4


 ユーシア王国の首都サントレイスは歴史のある街だ。古くから貿易で栄え、独立不羈の気風に富む商人や船乗りが集う、活気に溢れる街だった。しかし王城の窓から望む市街の、時にうるさく感じるほどの喧噪は今はない。街並みの向こう、サントレイスの生命線たる港を封鎖する軍艦の存在がそうさせているのだ。

 シャイア帝国との開戦から三年。王国は大陸に築いた地歩を失い、首都を海上封鎖されるに至っていた。反撃のための戦力も、救援の見込みもなく、後はどういう条件で降伏するかを選択する段階まで追いこまれていた。

 王室お抱えの家庭教師ベルナルド・グレイロールにできることは少ない。ユーシア王ヴェリリス一世の友人として相談に乗ること、彼の息子であるユベールが健やかに育つよう心を砕くことくらいだ。決して口にはできないが、子供のいないベルナルドにとって幼い頃から成長を見守ってきた彼は息子のようなものだった。

「ベルナルド様、昼食の準備が整いました」

「すまない。陛下に呼ばれていてね。王子には後で向かうと伝えて欲しい」

 城のメイドが一礼して去っていく。向かう先はユベールの居室だ。ベルナルドも王の執務室へ向かうため窓から離れると、遠雷のような音が背中を叩いた。沿岸に居座るシャイア艦隊が威嚇、あるいは示威目的で不定期に砲撃しているのだ。砲弾はさほど重要ではない区画――家屋の密集する貧民街――を狙っていた。シャイアはすでに占領後を見据えて、統治に必要な王城や官庁街は温存し、市民の動揺を誘いつつも都市運営の中核たる中産階級の反感は買わないようにしているのだ。

 ベルナルドは眉根を揉んで、その場を後にする。彼は軍を指揮する立場にないし、ましてや国家の指導者でもない。ユーシア王家に仕える家庭教師として、その任を解かれる日が来るまで職務を果たす。そういう約束だった。

 警護兵と目礼を交わし、執務室に入る。

「陛下、ご機嫌麗しゅう。ベルナルド・グレイロール参上いたしました」

「うむ。他の者は下がってよい」

 心得た様子で書記官たちが退室するのを見届けてから、口調を崩す。

「お疲れのようだね、ヴェリリス。ちゃんと眠れているのかい」

 ヴェリリスもまた、椅子に体重を預けて気楽に返す。

「王の安眠を妨げるなと、港に陣取る無礼者に言ってやってくれるか」

「減らず口が叩けるなら大丈夫そうだね」

 先王レイス六世が子を為さぬまま急逝したのが三年前。すでにシャイア帝国と戦端を開いていた国家は王冠の置き場として、レイス五世の妾の子であったヴェリリスを求めた。若く有能なレイス六世の暗殺説もささやかれる中、ヴェリリス一世として戴冠した彼の敵は、王としての才気を示した今なお決して少なくない。

 ヴェリリスの支えとなること。それはヴェリリスと彼の妻マリー・ラ=トゥールの共通の友人であったベルナルドが、マリーとの間で交わした約束だった。

 砲撃による市民の動揺、不足する食糧の配給など、いくつかの問題について相談を受ける。だが、彼が話したいのがそうした類の問題ではないことは分かっていた。

「それで、何か困りごとでも?」

 ベルナルドが頃合いを見て切り出すと、ヴェリリスが苦笑する。

「ああ……ユベールはどうしているかと思ってね」

「会いに行ってやればいいじゃないか」

「友よ、笑ってくれ。情けないことに、何を話せばいいのかわからないんだ」

「構わないさ。会って、話したいと思ったことを話せばいい」

「だが、あいつは俺を恨んでいるだろう」

 ヴェリリスが執務机の写真立てに視線を落とす。マリー妃はヴェリリスの戴冠式で暗殺された。ヴェリリスを狙ったシャイア帝国が黒幕とも、ケルティシュ系のマリーが王室に入ることを嫌った純血主義者の犯行だったとも言われている。

 マリーは母として、人間として、優れた人物だった。三年が経過した今でも、彼女の死が残した傷跡は大きい。とりわけ、ヴェリリスとユベールの父子にとっては。

 ヴェリリスの戴冠がきっかけでマリーは死んだ。犯人はその場で服毒自殺し、黒幕は今に至るも判明していない。妻を、母を喪った二人の関係はぎこちないものとなり、ユーシア王とその後継者という新たな立場が彼らをさらに苦しめた。

「ベルナルド、ユベールを頼む。あれはお前によく懐いているからな」

「俺はお前の代わりにはなれんぞ。誕生日なんだ、顔ぐらい見せてやれ」

「ああ、書類が片付いたらそうしよう。ありがとう、友よ」

 そう言って、ヴェリリスは書面に目を落とす。その表情は王のそれで、それ以上は声をかけるのがためらわれた。一礼して退出しようとすると、声をかけられる。

「ベルナルド」

「何でしょうか、陛下」

「例の計画を進めておけ。お前以外に任せられる人間がいない」

「承知しました」

 王の相談役を務め終え、ユベールの居室に足を踏み入れた瞬間、ベルナルドは張り詰めた空気に気付く。険悪な雰囲気の原因は、どうやら部屋の主たるユベール・ユーシアスのようだった。この日、誕生日を迎えて十五歳になる彼は入室したベルナルドを見て、ふてくされた様子で目をそらす。不機嫌な理由を彼から聞き出すのは難しそうなので、トレイを抱えて居心地悪そうにしているメイドに説明を促す。

「その、ユベール様はケーキがお気に召さないとおっしゃって」

 テーブルにはほとんど手を付けられていない料理の皿と、食欲をそそる甘い香りのドライフルーツケーキが乗っていた。港を封鎖され、輸入に頼っていた食料――特に果実などの生鮮品――が不足する首都サントレイスで、料理長が王子のためにと腕を振るってくれた心尽くしの一品だった。

「遅かったな、ベルナルド。もう食事は終わったぞ」

「申し訳ありません、ユベール様。お父上の話し相手を務めておりました」

「……父上は、お忙しいのか?」

「はい。職務に精励されておいでです」

「僕の誕生日も忘れるほどにか?」

 ユベールの声が、わずかに震える。

「いいえ。忘れてなどおりませんよ、決して。だからこそ、こうしてケーキも」

「こんなものがケーキ? 去年はもっと大きくて豪華なケーキだった。なのに、今年はこの貧相なケーキひとつきり、寂しく一人で食事か。僕は朝から父上の顔も見ていないんだぞ。あいつは僕や母上よりも王冠が大事なんだ!」

 ベルナルドの言葉に激したユベールが立ち上がり、腕を振るう。目の前にあった皿が払われ、床に落ちたケーキが無残に潰れる。

 ばちんと肉を打つ音が響いた。ベルナルドがユベールの頬を張った音だった。痛みに驚くユベールはもちろん、とっさにそうしたベルナルド自身が動揺していた。

「……君、ケーキを片付けてくれたまえ。それからユベール様。一介の家庭教師の身でありながら、御身に危害を加えたことを謝罪いたします」

「……これぐらい、大したことはない」

 深く頭を下げるベルナルドに、ユベールがそっぽを向いて告げる。

「ユベール様、申し上げてもよろしいでしょうか」

「構わない」

「このケーキはこの後、どうなると思われますか?」

 床に落ちたケーキの欠片を丁寧に拾い集めるメイドに、ユベールが目を向ける。

「……片付けて、捨てるのだろう。せっかくの品を無駄にしてしまったな」

「いいえ、捨てません。これらは全て、使用人たちが分け合って食べるのです」

 ベルナルドの言葉に、ユベールが虚を突かれたような顔になる。

「なぜだ? 新しく作ればいいだろう」

「王都の食糧事情はそれだけ逼迫しているのです。新鮮なフルーツや上質なバターを使ったケーキも満足に作れないほどに」

「……そんなに酷い状況なら、なぜ教えてくれなかったんだ」

「できる限り普段通りの生活を送っていただくようにとの、陛下のお心遣いです」

「僕はもう子供じゃない。そのような気遣いは不要だ!」

「ええ、私も同意見です。よい機会と思い、お伝えした次第です」

 マリーの死後、ユベールには塞ぎこんでいた時期があった。その原因の一端であるシャイア帝国との戦争について、過度に刺激的な情報を伝えないようにというのがヴェリリスの命令だった。しかし、首都が包囲されるに及んではそうも言ってはいられない。家庭教師として向き合ってきたこの三年で、ユベールが事態に立ち向かうだけの強さを取り戻しつつあるという確信もあった。メイドを下がらせて、改めてユベールに向き直る。話すべき内容は決まっていた。

「ユベール様。ユーシア王国の現状について、私の知り得る限りを包み隠さずお教えします。その上で、お父上からの命令をお伝えいたします。今からお伝えする内容はくれぐれも内密にしていただかねばなりません。よろしいですね?」

「分かった」

 うなずくユベールの表情は、まだ子供のそれだ。しかし、彼を取り巻く状況が彼を子供でいることを許してくれない。王として有能であるがゆえにシャイア帝国に多大な損害を与えたヴェリリス一世の息子であるとは、そういう意味を持つのだ。

 首都サントレイスはそれから二週間の間、持ちこたえた。と言っても、大きな戦いがあったわけではない。王国の首脳部は対外的には籠城と徹底抗戦を主張しつつ、裏では降伏の条件を詰めていたのだ。ユーシア王国との戦争が終わっても次の戦争が控えているシャイア帝国としても、王国軍にゲリラ化して各地に潜伏されると継続的に戦力を貼り付けざるを得なくなるため、交渉の余地は十分にあった。

 この二週間はヴェリリスの命令を受けたベルナルドにとっても貴重な猶予だった。 友の願いは、息子のユベールを無事に国外へ逃がすこと。

 だが、これが容易ではない。ユーシア王国は島国であり、海路は封鎖されている。帝国は反乱の旗印となり得る王族の身柄をどんな手を用いてでも押さえようとするだろうから、島への潜伏も得策ではなかった。

 見つかった方法は、ひとつだけ。

 夜半、ユベールを連れて港へ向かう。カヌーに大きな板とエンジンを載せたような形状の乗り物が、出航できずフジツボを張り付かせた船の間に停泊していた。水上飛行機。新聞記事で見知ってはいるが、実物を見るのはベルナルドも初めてだった。

 飛行機の側で煙草を吸っていた男が、二人の到着に気付いて立ち上がり、気楽な様子で軽く手を振ってみせる。分厚いジャケットを着こんで飛行眼鏡を首にかけた壮年の飛行機乗りだ。男の名はフェリクス・ヴェルヌ。冒険飛行家として名を馳せる彼がユベールを国外へ脱出させてくれる手筈になっていた。

「遅かったじゃないか、待ちくたびれたよ」

「時間通りだ」

「そうか? まあいいさ。僕がフェリクス・ヴェルヌだ。よろしく」

 手袋をはめたままの手が差し出される。その無礼さにベルナルドが顔をしかめると、フェリクスはひょいと肩をすくめて手を引っこめた。

「ま、僕に任せておけよ。金さえもらえるなら、どこにだって送り届けてやるさ」

「前金はすでに振りこんだ。残りは目的地への到着を確認してからだ」

「分かってるよ。王子ってのはそっちか。さっさと乗ってくれ」

 顎をしゃくって示す態度に、ユベールが憤る。

「貴様、王族に向かって何という態度だ!」

「王子、お静かに」

「その通りだ、王子様。シャイアのスパイが聞き耳を立ててないとも限らない」

「ヴェルヌ、貴方も口を謹んでもらいたい」

 ベルナルドの苦言を意に介する様子もなく、フェリクスは肩眉を上げて応じる。

「育ちがよくないもんでね。全く、王宮の人はお堅いことで」

 短くなった煙草を海へ投げ捨てると、ふとベルナルドの両脇に置かれたトランクに目を留めたフェリクスがこれは何だと言いたげな顔をする。

「このトランクは王子の荷物だ。一緒に積みこんでもらいたい」

 ベルナルドがそう言うと、フェリクスは鼻で笑った。

「アホかあんた。そんなもの積む余裕はないし、そりゃ契約外だ」

「ならば荷物代も加算しよう。王族たる者、ふさわしい装いというものがある。このトランクは必要最低限のものしか入っていない。運んでもらわねば困るのだ」

「そうか。なら王族なんて辞めちまえよ。燃料は僕と王子を運ぶ分しか積んでいない。このクソ重そうなトランクと王子を心中させたいなら別だけどな」

「……仕方ない。了解した」

 飛行機に関してベルナルドは門外漢だ。フェリクスの言葉を信じるしかない。

「ベルナルド、ちょっといいか」

 水上飛行機に乗りこんだユベールが声を上げる。フェリクスは構わずエンジンを始動し、出発の準備にかかっている。話せる時間は残り少ないだろう。

「こんな小さなボートでシャイアの軍艦を振り切り、海を渡れるのか?」

 疑問を口にするユベールの表情は、真剣そのものだった。言われてみれば、国外へ脱出する計画のことは知らせても、方法については説明していなかった。

「お聞きください、ユベール様。これは飛行機という機械です。つまり……貴方様は空を飛んで北央海を超え、アルメア連州国へ渡られるのです」

「空を……飛ぶ……?」

 呆然とするユベールに、フェリクスが無慈悲に告げる。

「出すぞ。舌噛むなよ」

 機体が岸壁を離れ、ゆっくりと前進を始める。

「ユベール様、どうかご無事で!」

「待て、待ってくれ。こんなボートで空を飛ぶなんて、できるわけがない! 僕は鳥じゃないんだ。絶対に落ちる! 海で溺れて死ぬなんて嫌だ!」

「できるし、やるんだよ王子様。それからこいつはボートじゃねえ、飛行機だ!」

「嫌だ、やめろ! 助けてくれベルナルド!」

「黙ってろ、舌噛むぞ!」

 わめき続けるユベールをフェリクスが一喝し、速度を上げる。しばらくは滑水していた飛行機は、やがて水面を離れて宙に浮き、その姿を小さくしていった。 


5


 ユベールにとっても、ルーカの来訪は数年ぶりだった。仕事で忙しかったのもあるし、中型機のペトレールでの離着陸がおっくうだったのもある。

 久しぶりに訪れてみて、やはりいい場所だと思う。運びこまれる物資は限られているので不便さや物足りなさを感じる部分もあるが、皆が同じ飛行機乗りであるという気安さがあり、、外界と隔絶された穏やかな時間が流れている。

 どこまで逃げたのか、フェリクスの姿は見当たらなかった。アヴァルカ半島では放置された土地はすぐ緑に覆われてしまうため、ルーカも訪れる人間に必要な範囲でしか整備されていない。その範囲はそれほど広いものではなく、さらに外を目指そうと思ったら山刀で下生えを切り払って進まなければならない。外周を巡ってもそうした形跡は見当たらなかったため、フェリクスはルーカの中にいるはずだった。

「俺に見つからないよう動き続けてるのか? 体力のあるじじいだな……」

 ぼやきながらフェルの待つコテージを目指す。裏をかいたフェリクスが舞い戻っている可能性もあったからだ。しかし扉を開けようとしたところで手を止める。中から漏れ聞こえてくる声はフェルとフェリクスのものだった。切れ切れに聞こえてくる話題はユベールについてのものらしく、頻繁に自分の名前が出てくる。

 しばし迷ったが、首を突っこむのはやめておく。フェリクスを見つけるという目標は達成されたし、今のフェルにならユベールの出自――ユーシア王国の正統な後継者ユベール・ユーシアス――を知られても構わないと思えた。

 そっとコテージを離れ、海岸へ向かう。捜索で汗をかいたので、風を浴びたかった。世界各国のメーカ、多種多様なカスタムが施された機体が並ぶ中、一機の水上機が目についた。実用的だが野暮ったさのある、直線的なデザイン。復座水上機『狼星』はシャイア系のメーカ『海安飛機』の開発した機体だ。

 ルーカには政治を持ちこまない。それがフェリクスの決めたルールだ。アルメア領アヴァルカ半島に立地する関係上、アルメアと戦争状態にある国籍のパイロットが訪れることはまれだが、それでも皆無というわけではない。他の飛行機乗りたちもそれを咎めるような野暮はせず、黙認することが多い。

 そういう意味では、シャイア国籍のパイロットがここを訪れることに問題はない。だが、露骨に顔をしかめ、舌打ちする者も少なくなかった。祖国を侵略、あるいは併合された飛行機乗りたちだ。ユベールにとっても、他人事ではない。加えて、フェルのことがあった。彼女がアルメアにいるという事実は余計な憶測を呼びかねない。最悪の場合、シャイアとアルメアの開戦の理由となる可能性すらある。

 狼星の操縦席にパイロットの姿はない。白昼堂々、たった一機で乗り付けたところを見る限りフェルを誘拐が目的ではなさそうだが、鉢合わせは避けたいところだった。公式には十二歳から十五歳までの写真しか残っていないユベールと違って、その気になれば個人で戦争を起こせるフェルの顔写真は出るところには出ているからだ。

 どこかで見ているかも知れないパイロットの注意を惹かないよう、停泊する狼星の側をそのまま通り過ぎてからゆっくり引き返す。民間機の飛行はかなり制限を受けるシャイア帝国において、民間の飛行家や航空会社は少ない。所属を特定する手がかりを探してそれとなく観察していると、尾翼のエンブレムが目に入った。

 双頭の獅子。ユーシア王国の紋章だった。

 併合された旧ユーシア領においてはシャイア帝国の紋章である龍と組み合わせた『龍と獅子』の紋章が使われているので『双頭の獅子』の紋章を使う者はほとんどいない。つまり狼星の持ち主はユーシア系の人間の可能性が高いということだ。

「こんな場所でお目にかかれるとは光栄です、ユベール様」

「コルベオか。祖国の同胞が圧政に苦しんでいるのにバカンスとはいい身分だな」

 どこか酷薄さを感じさせる金髪碧眼の男の名はコルベオ。ユーシア王国の再独立を目的とするレジスタンス『眠れる獅子』の連絡役だ。彼はユベールの罵倒じみた皮肉にも表情ひとつ変えず、一方的に要件を告げる。

「フェルリーヤ・ヴェールニェーバの懐柔について、進捗を伺えますか?」

 コルベオの言葉が胸に刺さる。フェルをルーシャから救い出して以来、ユベールはずっと彼女に関する情報を『眠れる獅子』に流してきた。祖国ユーシアの再興のためと言えば聞こえはいいが、信頼に対する裏切り以外の何でもなかった。途中からは罪悪感に駆られ、重要な部分はぼかして伝えていたことなど言い訳にもならない。

「報告すべき事項はない。魔法について彼女は口を閉ざしたままだ。現状、ユーシア解放への協力は望めないだろう。下手に切り出せば信頼を失うだけだ」

 人を見透かすようなコルベオの視線に耐える。彼らにとってユベールの存在価値は、その血統にしかない。亡き父ヴェリリス一世に代わってシャイアが擁立したレイス六世よりは出自が確かでユーシアス王家の血が濃いユベールをフェルと結婚させ、魔法の力を持つ正統なユーシア王を得ようというのが彼らの計画だ。

 馬鹿げているとしか言いようがない。

 現ユーシア総督レイス六世は御年二十歳で、ユベールの曾祖父レイス四世の血を引くという触れこみだった。精力旺盛で、晩年に至るまで多くの愛妾をかこったレイス四世の落とし胤を自称する者は歴史上、定期的に現れてきた。シャイアもそこに目を付けて、操作しやすい傀儡を擁立したのだろう。

 勝手にやらせておけばいい、とユベールは思う。

 レイス五世が急死し、父がヴェリリス一世として戴冠するまで、ユベールは市井で育った。母マリー・ラ=トゥールもケルティシュ共和国で育った良家の娘で、王族や貴族というわけではない。ユベールが王子であった期間は三年余りに過ぎず、人生の大部分をユベール・ラ=トゥールとして過ごしてきた。王族だったユベールはもういない。今の自分は飛行機乗りのユベールだ。

 それでも、魔法の力を最初に知らされたときは、もしかしたらと思った。

 しかしそれは幻想だとすぐに気付いた。ユベールがユーシア王国を離れて十年余り。戦争の傷跡が完全に癒えるには短くとも、時計を後戻りさせるには長過ぎる時間が経った。魔法は万能には程遠く、世界には神話の英雄譚のように象徴たる怪物がいるわけではない。シャイア帝国を打ち倒すだけでは問題は解決しないのだ。

 失われた祖国への想いはある。祖国が侵略されたことに思うところがないわけではない。だが、言ってしまえば生まれた場所に過ぎない祖国に囚われるのも馬鹿らしかった。いつか飛び立つ日が来ることを後ろめたく思う必要はないのだ。

 冬枯れの魔女として自由を奪われ、あるいは自ら放棄してきたフェルには、選択の機会が与えられるべきだった。どう生きるか、何をするか。誰に憚ることもなく、彼女自身が自分の在りようを選び取るべきだ。ユベールがフェリクスにそうしてもらったように、その機会を彼女が手にするのを手伝いたいと今は思う。

 コルベオはじっとユベールに観察の視線を注いだ後、おもむろに口を開く。

「ユベール様。我々もただ報告を待っていたわけではありません。彼女の力が徐々に増しているのに気付いているのではありませんか?」

「どういうことだ?」

「ご存じないようでしたら、ブレイズランドの現状についてお教えしましょう」

 ブレイズランドで魔法を行使したことは彼らに報告した。疑いを持って調べればすぐに露見するからだ。無闇に情報を隠して、叛意を疑われる方が危険だった。彼らは敵対する者はもちろん、裏切り者に対しても容赦がない。

「これまでに入手した魔法の性質から考えて、土地の枯死が予見されたブレイズランドですが、現時点では特にそうした兆候は見られないとの情報が入っています。あるいはこれから起きるのかも知れませんが、もしそうではないとすれば」

 意味ありげに言葉を切り、反応を窺うコルベオ。

「魔力を効率的に使えるようになった結果、反作用である土地の枯死現象を防げるようになったと言いたいのか。だが、それでは理屈が合わない。ルーシャにいたときはもっと頻繁に魔法を使っていたのに、今になって急に上達する理由はなんだ?」

「ユベール様。貴方と過ごした日々が彼女に成長を促したのではありませんか?」

「お前らしくもない、ずいぶんロマンチックな発想だな」

 冗談めかして笑ってみせたものの、ユベールにも思い当たる節があった。

 サウティカ滞在時、アルエルディアに請われてフェルが話した旅の思い出。護衛のウルリッカとの旅で狼に襲われたフェルは、魔法を使っている。そのときは数度に渡って小規模な地割れを発生させただけで、一年後には一帯が不毛の地となったと話していた。これはあの場にいた人間しか知らない話だ。

 そして、その後のシャイア帝国との戦争ではフェルはより大規模な魔法を行使している。ルーシャの中でも温暖で農耕に適した土地は蚕食されるように地力を失っていったが、行使できる魔法の規模は確実に大きくなっていた。

 ユベールとの旅が成長を促したという与太話は措くとしても、肉体的な成長が能力の開花と関係している可能性はあった。より強力な魔法を代償なしに扱えるようになれば、それこそ個人で戦局を変える存在となりかねない。

「……それとなく話を振っているが、今のところ彼女はシャイアへの復讐を考えてはいない。下手を打てば、彼女を騙して利用しようとした俺たちに牙が向くぞ」

「復讐を考えてはいない、ですか。単に好機がなかったからでは?」

「好機とは?」

「アルメアとシャイアの間で戦争が起きます。いえ、もう起きているでしょうか」

 淡々と述べられた内容は、しかし看過できるものではなかった。

「……根拠は?」

 問われたコルベオがはぐらかすように肩をすくめる。

「根拠もなく、我々がこのようなことを口にするとでも?」

「答えになっていないな」

 喋りながら、シャイア帝国とアルメア連州国の開戦理由について考える。両国の間にはアヴァルカ半島問題があるが、それは今に始まった問題ではない。

 個別に見ても、ケルティシュ共和国やエングランド王国へ侵攻したディーツラント帝国の支援を継続しつつ、自国に併合した各地域のレジスタンスに手を焼くシャイア帝国がアルメア連州国に積極的に仕掛ける理由はない。アルメアも同様で、ディーツラントへの派兵さえ渋った議会がシャイアとの開戦を容認するはずもない。

 ひとつ、最悪の手法が頭をよぎった。

「まさか、自分で火種を作る気か? 露見したらどうなると思っている!」

「そのようなことにはなりませんとも」

 アヴァルカ半島とはリーリング海峡を挟んだ国境地帯のシャイア帝国軍には、ユーシア系の将兵も多い。その一部と『眠れる獅子』が結託すれば、戦争の火種は容易に作り出せる。アルメア側の攻撃を偽装し、それに対する反撃という形でアルメア軍への攻撃を開始すれば、なし崩しに戦争になるだろう。

 かと言ってシャイア軍に『眠れる獅子』の情報を流せば旧ユーシア領の人間がどんな目に遭うか分からない。関係者はもちろん、疑心暗鬼に陥ったシャイア軍はレジスタンスとは無関係なユーシア系の住民にまで危害を加えかねない。

「自分の正義のためなら、何をしても許されるとでも思っているのか!」

「自身の自由のため、何もしないことを選んで恥じない貴方が言うことですか」

 吐き捨てるコルベオの口調には、隠し切れない憎悪が滲んでいた。こちらも負けじとありったけの軽蔑をこめて言う。

「……行け、この場で殺されたくなければな」

「この先も、お目にかかる機会があるでしょう。そのときまでにフェルリーヤ・ヴェールニェーバを籠絡しておいていただかねば困りますよ」

 漏れ出た憎悪を綺麗に拭い去った口調でコルベオが言う。

 ここがルーカでさえなければ、迷わず射殺していたところだった。


6


 ユーシア王国を脱出し、揺れ軋む機体と発動機の轟音に耐えること半日。目的地への到着を告げられたユベールは機体から降りられないほど衰弱していた。そのまま気を失うように寝こんで、目が覚めたときにはハンモックに寝かされ、王族にふさわしい旅装からシャツにジーンズというラフな軽装に着替えさせられていた。

 風通しのいいコテージから外に出ると、穏やかな波音が耳に届く。透き通った海には飛行機が並び、祖国のそれよりも強烈な日差しと鮮やかな青に染まった空があった。照り返す太陽光がまぶしい白の砂浜に人影はなく、どこか現実味を欠いている。

 身体の芯に疲労が残っていた。まだ飛行機に揺られているような感覚があり、日差しの下に出ると立ちくらみに襲われる。砂浜には数脚のデッキチェアが並んでいたが、名札が付いていて勝手に使うのはためらわれた。少しだけ迷ってから、誰も見ていないのだからと砂浜の木陰になった場所に腰を下ろすことにした。

 フェリクスと名乗った飛行機乗りを探して事情を聞くべきだったが、立ち上がる気力が湧かなかった。父やベルナルドのことが気がかりだった。自分だけがこうして安全な場所へ逃げてきた後ろめたさに駆られて、膝に顔を埋める。

 後ろから何かが体当たりしてきたのはそんなときだった。

「こんにちは、はじめましてーっ!」

 ユベールの首に両手を回して抱きついてきたのは、白いワンピースの少女だった。

「だっ……誰だお前は」

「ぼくはヴィヴィだよ。きみの名前は?」

 健康的に日焼けした手足、屈託のない笑顔。ハニーブロンドのショートヘアは見る者に活動的な印象を与え、自分の問いかけを相手が無視するとは思ってもみない、自信に満ちたヘーゼルの瞳でユベールの答えを待っている。

「……ユベールだ」

「ユベールはどこから来たの?」

「ユーシア王国」

「ふうん、知らない」

「海の向こうだよ」

「海って、どの海?」

「えっ……いや、わからない」

「ふうん、そっか」

 ヴィヴィは納得したようにうなずくと、不意に興味をなくしたようにユベールから離れる。そのまま何も言わず、振り返りもせず、走っていってしまう。

「かわいいだろう。僕の孫だ」

 ヴィヴィと入れ替わりにフェリクスが姿を現す。

「別に聞いてない」

「今年で八歳になる」

 ユベールの言葉など聞こえなかったようにフェリクスが続ける。

「あの子の父親はレーサーでな。クラッシュや墜落を何度も経験したが、いつもかすり傷で生還するもんだから『不死身のフィリップ』と呼ばれていたんだ」

「……死んだのか?」

 言葉のニュアンスからそれを感じ取って返すと、フェリクスがうなずく。

「ヴィヴィが三歳の時だ。エアレースの最中だったよ。母親も産んですぐ行方不明になったから、あの子の肉親は僕だけだ。おかげで死ねなくなっちまった」

「まだ元気そうじゃないか」

「僕のことか? いや、冒険飛行家ってのは元気なやつから死んでいくんだ」

「……飛行機には、二度と乗らないぞ」

 思い出して苦い顔をするユベールに、笑みを含んだ声で応えるフェリクス。

「そりゃ残念。王子様はこのルーカで一生を終えることになるな」

「なっ……どういうことだ」

「アルメア連州国アヴァルカ半島に位置する飛行機乗りの楽園『ルーカ』に出入りする手段は飛行機しかない。人里まで軽く数百キロ、凶暴な獣や毒虫が闊歩する密林でサバイバルできるなら別だがな。野宿の経験はあるかい、王子様?」

「そんな辺鄙な場所に、なんでリゾートがあるんだ!」

 ハッタリとしか思えず、ユベールが怒鳴る。

「初めは、僕の話を信じなかったやつを見返すためだ」

「見返す?」

「あれは僕が四十歳の時だから、もう十年以上も前になるのか。僕はアヴァルカ半島の上空を飛行中、嵐に遭って墜落した。そしてこの砂浜に流れ着いた。飛行機は木っ端微塵で、水も食料もない。あるのは美しいビーチだけだった」

 周囲の光景を示すように両手を広げてフェリクスが続ける。

「墜落して死ぬならともかく、飢えや渇きで死ぬのは嫌だった。必死だったよ。何もないところからひとつずつ道具を揃えて、二年がかりでアヴァルカを抜けた。故郷ではとっくに葬式も終わってて、幽霊かと間違われる始末だ。誤解が解けた後は、奇跡の生還を果たした『不死身のフェリクス』として英雄扱いだったけどな」

 笑って話していたフェリクスが、そこで声のトーンを落とす。

「だが、僕の話を疑う者もいた。売名目的で冒険譚をでっちあげたんじゃないかってね。バカ言うな、二年だぞ? その間どれだけ飛べたと思ってやがる!」

 思い出すだけで悔しい、とばかりにフェリクスが吠える。

「そんなわけで、僕は証人を連れてまだ名前が付く前のルーカに戻ってきた。墜落した際、機体の一部が打ち上げられていたのは幸いだったよ」

 太い杭に釘で打ち付けられた、薄汚れた板を指で叩いてフェリクスが言う。よく見ると、何らかの番号らしきものがうっすらと残っている。

「この番号は?」

「固有の機体番号だ。僕がここで墜落した証明になる。口さがない者は上空から投げ落としたんだろうなんて食い下がってたが、野営や道具作りの跡が見つかるとようやく大人しくなってな。あの時のあいつらの顔ときたら最高だったぜ」

 子供のように歯を見せてフェリクスが笑う。

「で、すっきりした気分でふと周りを見たら、この光景だろ? 熟練の飛行機乗りじゃなきゃ降りられないこの場所を、飛行機乗りが誰にも邪魔されずに過ごせるプライベートビーチにしたら最高なんじゃないかって思ってな」

 昼寝から起き出してきたのか、ちらほらと人の姿が見えるようになったビーチを指してフェリクスが言う。人が増えたと言ってもお互いに十分な距離が空いていて、下手に有名なために混み合うリゾート地よりも快適そうだった。

 そうして散らばった飛行機乗りたちの間を、白いワンピースの少女が駆け巡っている。ヴィヴィは皆に可愛がられているようで、誰とでも楽しげに談笑していた。

「惚れるなよ、王子様」

 不意に背中を叩かれ、咳きこむ。

「だっ……誰がだ!」

「さっきヴィヴィに抱きつかれて、にやついてただろ」

「にやついてなんかない!」

 そんなやり取りをしている間に、ヴィヴィの姿が消えていた。どこへ行ったのかと視線を巡らせると、見覚えのある水上機がエンジンをかけ、動き始めていた。

「おいフェリクス、あれはあんたのボートじゃないのか?」

「ボートじゃなくて飛行機だって言ってるだろ」

 持ち主が乗っていないのに誰が操縦しているのかと操縦席に目をやる。しかし目の前を行き過ぎた水上機には誰も乗っているようには見えなかった。

「なあ、あれ勝手に動いてるけど、いいのか?」

「大丈夫だ。見てろ、飛ぶぞ」

 言葉を交わす間にも、水上機は速度を上げていく。二人の前を横切って方向転換する一瞬、小さな頭が操縦席から顔を出す。ヴィヴィだった。短い滑水の後、機体が海面を離れる。その瞬間、世界から音が失われたと錯覚するような美しい飛翔。

「波で不規則に揺れる海での離着水は難しいんだ。あれは天賦の才だよ」

 機体が傾き、旋回に入る。操縦席を覗きこむ角度になり、そこに白いワンピースの少女が半ば立つような格好で操縦桿を握っているのが見て取れた。決して広くはない操縦席がやけに広く見える。表情は見えないが、きっと笑っているのだろう。

 どれほどの時間、ヴィヴィが操縦する機体を目で追っていただろうか。心ゆくまで乗り回して気が済んだように降りてきた水上機は、こともなげに着水する。躊躇なく海に飛びこんで水飛沫を上げ、ロープで水上機を係留してから戻ってくる彼女から慌てて視線をそらした。濡れた服が身体の線に沿ってぴったり張り付いていた。

「きみ、どうかした?」

「き……着替えてきた方がいいんじゃないか」

「すぐ乾くよ?」

 ユベールの言葉に、ヴィヴィが不思議そうに返す。

「楽しかったか、ヴィヴィ」

 見れば、フェリクスが釣り竿を抱えて戻ってくるところだった。

「じいちゃん。うん、たくさん飛んだよ」

「いい子だ。なら晩飯の魚をこいつと一緒に釣ってきてくれるか」

「わかった。ほら、ユベール、行こうよ。あっちにいい場所があるんだ」

 少年のように歯を見せて笑う様子に毒気を抜かれて、呼び捨てにされたことを怒る気にもなれなかった。フェリクスに釣り竿を押しつけられ、ヴィヴィに手を引かれて釣り場へ向かう。ここは年長者として頼れるところを見せねばならなかった。



 釣果は散々だった。順調に釣り上げるヴィヴィの横で、ルアーを引っかけ、ラインを切り、針で指を刺す始末だ。心配して仕掛けを作り直すのを手伝ってくれようとしたヴィヴィを、羞恥心とプライドで邪険に扱ってしまった自己嫌悪だけが募る。

「ユベール、もういいよ」

「待ってくれ。一匹くらい……」

 ヴィヴィが黙ってバケツを指差す。種類は分からないが、大きい魚が三匹も入って暴れているのを見て、釣りではなく食材の調達が目的だったことを思い出す。

「じいちゃんにはユベールが一匹釣ったことにしようね」

「……すまない」

「王子様はボウズか。ここで釣れんとは相当だな」

 年下の子供に気遣われた上に、フェリクスには即座に看破された。

「じいちゃん、なに作るの?」

「ムニエルにするから三枚におろしといてくれ」

 ユベールも手伝おうとしたが、手際よく準備をする二人の邪魔になっただけだった。できあがったのはムニエルとパン、炭酸水という質素な食事だったが、ユベール一人では何も作れなかっただろうと考えると文句など言えるはずもなかった。

「ねえ、ユベールは王子様なの?」

 フェリクスが王子様と呼んでいたのを聞いたのだろう。興味津々といった様子のヴィヴィに問われて、思わず食べる手を止めてしまった。

「……そうだ。いや、もう違うか。元々、演じてただけだったんだ」

 ヴェリリス一世の戴冠から三年。突然与えられた王子という役割を果たすため、求められたように演じるのがユベールの務めだった。知っている者もいない異国へ逃げてきて、自分が王子であることを証すものもない。お前は何者なのかという問いに、今のユベールは答えることができない。

「じゃあ、役者さんなの?」

「似たようなものだよ」

「じゃあ、王子様をやってみてよ」

「ヴィヴィ。それくらいにしておきなさい」

 はしゃぐヴィヴィを、フェリクスが制する。思えば、彼はルーカの来歴を話したり、ヴィヴィと釣りに行かせたりと、ユベールがユーシア王国のことで考えこまないように計らってくれていたのかも知れないとふと気付く。

「……すまない。少し席を外す」

 返事は待たなかった。

 想いが溢れ、涙を流す姿を二人に見られたくはなかった。



 ルーカでの生活はこうして始まった。

 特別な技能があるわけではなく、キャンプの経験も皆無のユベールにできることは雑用程度で、釣りでも料理でもヴィヴィの方がよほど上手くこなしていた。快活で愛嬌を感じさせる彼女は誰にでも話しかけ、仲良くなっていた。見ていると、喋っている言葉も共通語だけではない。世界各国から訪れ、多種多様な言語を用いる飛行機乗りたちと、ボディランゲージを交えながら会話しているのだ。

「ユベールの得意なことってなに?」

 彼女の何気ない問いかけが耳に痛い。釣りも料理もまともにできず、ヴィヴィやフェリクス以外の飛行機乗りたちとも打ち解けられない。ユベールが答えられずにいると、彼女は次の問いかけを投げてくる。

「きみの飛行機はどれ? 飛ばないの?」

「飛行機は……ないよ。僕は飛べないんだ」

 ユベールの答えを聞いて、ヴィヴィが心底から不思議そうな顔をする。

「じゃあ、どうしてここにいるの?」

 ヴィヴィの言葉にきっと悪意はない。

 フェリクスはこのルーカが飛行機乗りの楽園だと言っていた。飛行機でしか訪れられない、飛行機乗りだけが集う場所なのだと。そのことはヴィヴィも知っているはずだ。だから彼女は、ルーカにいる人間は全員が飛行機乗りだと思っている。そこにはユベールも含まれていて、だから彼の答えを不思議に思ったのだ。

 ヴィヴィとフェリクスを除く飛行機乗りたちがユベールによそよそしい態度を取っている理由も唐突に理解できた。彼らはルーカの主であるフェリクスの顔を立てて黙認しているだけで、ユベールがここにいる資格を認めていないのだ。

 ヴィヴィは答えを待って、じっとユベールを見つめていた。その悪意なくまっすぐな視線に耐えられなくなり、立ち上がる。

「ごめん。ちょっと行くところがあるから」

 向かう先はフェリクスのところだった。デッキチェアでくつろいでいた彼は走って息切れしているユベールを見て厳しい顔つきで上半身を起こす。

「どうした。何かあったか」

「フェリクス。僕に、飛行機の操縦を教えてくれ」

 ユベールの言葉を聞いて表情を緩めるフェリクス。

「なんだ、そんなことか。で、それが人にものを頼む態度かよ、王子様?」

「僕に飛行機の操縦を教えてください。お願いします、先生!」

「どうやら本気のようだな。いいだろう、顔を上げろユベール」

 初めてユベールの名を呼び、どこか嬉しそうにフェリクスが続ける。

「ただし僕の指導は厳しいぞ。覚悟はいいな?」

「はい!」

 ヴィヴィと違って、ユベールに特別な才能はなかった。

 飛行機乗りになれたのは、それから半年後のことだった。

 

7


 シャイア軍の砲撃をかいくぐってのユーシア王国の脱出、ルーカで過ごした日々。フェルの知らないユベールの姿を、フェリクスは楽しげに語ってくれた。彼のルーシャ語は流暢で、久しぶりに交わす母国語での会話は弾んだ。

『そういうわけで、あいつの操縦技術は僕とヴィヴィが二人がかりで仕込んだのさ。航法士のフェル君から見てどうだい、あいつの操縦っぷりは?』

『とても綺麗です。まるで風が見えているよう』

 空気中を漂う魔力の流れや偏在からそれを感じ取れるフェルから見ても、ユベールの風読みは的確だった。そんな褒め言葉を、我がことのようにフェリクスが喜ぶ。

『そう言ってもらえると、仕込んだ甲斐があるね。もっとも、僕の自慢の孫と結婚したんだから、それくらいは当たり前だが』

『……離婚なさったと、伺いました』

 恐る恐る口にするフェルに、気を遣うなと言いたげに苦笑するフェリクス。

『僕が言うのも何だが、あの子は……ヴィヴィは結婚に向いているとはお世辞にも言えない。伴侶を得て落ち着いてくれることを期待しなかったわけではないが、ああなるのは時間の問題だったよ。だから、君が遠慮することはないんだ』

 意味ありげに片目をつぶるフェリクスに、何かを誤解されている気がした。

『わたしは、別に……ただ、彼の相棒というだけです』

『彼に惹かれているのでは?』

 動揺して余計なことを言いそうだった。深呼吸して、仕切り直す。

『命を救っていただいた、恩人だと思っています』

『うん、いい反応だ。君を航法士にしたユベールの判断は正しかったな』

 きちんと作った笑顔で回答するフェルを見て、フェリクスが満足そうにうなずく。

『君を救い出す依頼は当初、僕のところへ来たんだ。親衛隊長のウルリッカ君から、アルメア義勇軍のシェノールト隊長を通じてね。これが慰めになるとは思わないが、彼は結果的にルーシャを見捨てる形になったことを悔いていたよ』

 義勇軍の名には複雑な感情を抱かざるを得ない。事実上のアルメア空軍として戦い、空軍の立ち上げにも携わってくれた彼らだが、アルメア本国からの指示で撤退したことがシャイア帝国に誤ったメッセージを伝え、大規模な侵攻を招いたのだ。

 フェルの魔法は単独で大軍を押し止めるだけの力を持っているが、決して万能ではない。その場にいなければ魔法は行使できないし、魔力を絞り尽くされた土地は耕作に適さない不毛の地となる。北上する敵軍を撃退するために最初の犠牲となったのは、ルーシャの中でも温暖で農耕に適した南部の土地だった。

 思い返せば、シャイア帝国は小出しにした戦力で意図的に小競り合いを繰り返し、元老院の要請でフェルが魔法を行使するのを誘発していた節があった。会戦を避けて戦力を温存したいという思惑を見透かされ、戦力の基盤である国力を削られていったのだ。ユベールと一緒に諸国を回った今なら、それが分かる。

『ウルリッカがどうしているか、ご存じですか?』

 ルーシャを脱出する際、連日の魔法の行使で疲弊したフェルは朦朧としていた。彼女とはろくに会話もできないまま別れてしまったので、ずっと気がかりだった。

『残念ながら、連絡は取れていない。首都の陥落以後、かの国から流れてくる情報は極端に少ないんだ。帝国領では飛行士仲間のネットワークも機能しなくてね』

 シャイアは民間機の飛行を厳しく規制しているとユベールから聞いたことがあった。支配下に置かれたルーシャでも事情は変わらないらしい。

『……分かりました。あの、フェリクスさん』

『うん。情報が入ったら、ユベールを通じてフェル君にも伝えると約束しよう』

『ありがとうございます』

『ところで、まだ君たちがルーカを訪れた目的を聞いていなかったね。単に休暇で訪れたわけでもなさそうだし、僕に用事があったのかな?』

 フェリクスに問われて、本来の目的を思い出す。話に夢中で忘れていた。

『先日、ペトレールが大破しました。ルーカを訪れたのは、新しい機体の設計にフェリクスさんのお力添えをいただきたかったからです』

『そうか、ペトレールが……あの機体はヴィヴィとユベールの結婚祝いとして図面を引いたんだ。当時は世界最高の機体だったよ。ともあれ、君とユベールが無事で何よりだ。差し支えなければ、大破したときの状況を教えてもらえないかな』

『もちろんです。あれはモルハ国立公園の調査飛行をしていたときでした』

 湖上塔の発見と調査の顛末についてフェリクスに話す。

『保険金は下りることになったそうですが、機体を喪失した原因はわたしにあります。皆さんの思い出が詰まった貴重な機体を壊してしまったことを謝罪します』

 そう結んで頭を下げるフェルを励ますように、フェリクスが微笑む。

『気に病むことはないさ。この数年で設計技術は大きく進歩し、信頼性の高い高性能エンジンも民間に出回るようになってきた。次の機体はきっといい機体になる。どんな機体にしたいか、計画はあるんだろう? 僕にも聞かせてくれないか』

 大きくて透明な瞳が好奇心に輝いている。飛行機乗りの目だった。フェルから新型機の計画を聞いたフェリクスは、いくつかの質問の後、深くうなずく。

『フェル君の能力を最大限に活かす機体コンセプトか。非常に興味深いね。けど、最後にひとつだけ聞かせてくれ。君は本当にそれでいいのかい?』

『どういう意味でしょうか』

 質問の意図が分からず、聞き返したフェルの目がじっと覗きこまれる。

『君の魔法は世界に変革をもたらす力だ。その大いなる力をユベール・ラ=トゥールという個人に利用されることを、君はよしとするのかい? そこにペトレールを壊した引け目がないと、心から言い切れるのかい? あるいは君がそれを受け入れるよう、彼がわざとペトレールの大破を見過ごした可能性はないだろうか?』

『構いません。わたしはユベールを信じます』

 即答だった。そうできたことが嬉しくて、フェルは微笑みを浮かべる。

『それに、わたしが降りれば新機体はただの飛行機です。彼が力を合わせるに値する人間かどうか、相棒として後席からずっと見ていようと思います』

 フェルの答えを聞いて、フェリクスが満足そうに破顔する。

『意地悪な質問をしたことを謝罪するよ。フェル君の考えはよく理解できた。新機体の設計、僕にも協力させて欲しい。よろしくお願いするよ』

 差し出された手を握り返す。一人でフェリクスの協力を取り付けたことを、後でユベールに自慢しようと思ったその時だった。切迫した様子でコテージのドアが叩かれ、返事をする前に開け放たれる。姿を現したのはユベールだった。

「ユベール? 遅かったな」

 彼はフェルに声をかけられ、苦いものでも噛んだような表情になる。

「フェリクス、ラジオをつけてくれないか」

「どうした、いきなり」

 息を切らせるユベールの様子に眉をひそめつつも、フェリクスがラジオをつける。流れ出したのはアルメア国際放送の男性アナウンサーの声だ。落ち着いて話そうという自制心の中にも興奮が感じられる声音だった。

「……繰り返し、臨時ニュースをお伝えいたします。本日未明、アヴァルカ州イーストファー陸軍基地がシャイア帝国軍の奇襲を受けました。同基地の壊滅的な被害を受け、大統領府はシャイア帝国に宣戦を布告。我が国はシャイア帝国との戦争に突入しました。シャイア帝国領および戦闘に巻きこまれる可能性のある地域に在住するアルメア国民の皆さんは速やかに本国へ帰還してください。繰り返します……」

 思わずフェリクスと顔を見合わせる。シャイアとアルメアが開戦という報に接して、言葉が出てこなかった。ユベールが舌打ちし、床を強く踏みつけた。普段の彼には見られない、感情的で乱暴な振る舞いだった。

「本当に始めやがった! ゲームでもしてるつもりか、ふざけるな!」

「ユベール……」

 彼もまたシャイア帝国に祖国を奪われた人間だと知った今、かける言葉が容易に見つからなかった。第二の故郷として新たな人生を始めたアルメア連州国が攻撃されて、穏やかでいられない気持ちもよく理解できた。

「聞け、ユベール。フェル君もだ」

 いち早く冷静さを取り戻したのはフェリクスだった。

「戦争が始まった以上、このルーカも安全とは言い切れない。僕はトルジアに戻って新型機の設計を始めるから、君たちはアウステラ連邦へ向かえ」

 アウステラ連邦は南半球に位置するエングランド王国の旧植民地で、現在は独立主権を確立した国だ。アルメアやシャイアとの間には広大な南央海が横たわり、北半球の各国間で行われている戦争とは一線を引くような外交姿勢を見せている。

「アルメアとシャイアが開戦すれば、文字通りの世界大戦だ。北半球で安全な国はもう存在しないと言っていいだろう。仮に連合国が劣勢に追いこまれれば、フェル君を再び戦場に駆り出そうとする勢力が現れないとも限らない。会社のギルモットを借りてきたんだろう? そのまま貸しておくから、すぐに出発するんだ」

「だが、フェリクス、俺は……」

 首を振るユベールをフェリクスが抱擁する。

「積もる話もあるだろうが、今はフェル君を守ることを第一に考えるんだ。いいな? なに、こっちのことは任せておけ。新型機が完成したらいつもの方法で連絡するから、必ず取りに来い。その後どうするかは、君たち次第だ」

 しばしの葛藤の後、ユベールがうなずく。

「分かった。フェリクス、ありがとう」

「君は僕にとってもう一人の孫だ。それを忘れるなよ」

 二人は固く握手を交わし、離陸準備のためにユベールが踵を返した。その頬には涙が伝っているように見え、後を追おうとしたフェルをフェリクスが呼び止める。何を口にしようか迷う素振りを見せた後、彼は一言だけ口にした。

「フェル君。ユベールを頼んだよ」

「任せろ」

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