第11話 渡り鳥は愛を歌う


1


 シャイア帝国領ルーシャ自治区への潜入。これが当面の目標と決まった。

 ユベール一人なら、そう難しくはない。しかし旧ルーシャ帝国の君主として多くのシャイア将兵を殺めた冬枯れの魔女を連れてとなると話は別だ。多少の危険は覚悟の上だが、道中はもちろん潜入した先での安全も確保する必要がある。

 アウステラを離れ、南央海の中央に浮かぶケーフィランドに来たのもそのためだ。宿を確保して、フェルが眠ったのを確認してから街に出た。普段なら観光で賑わう一帯だが、今夜は静まりかえっている。アルメアの旗色が悪くなりつつあるのを受けて、シャイアに占領されるのではというウワサが広がっているのだ。

 先方に指定されたショットバーに着く。目的の人物はグラスに注がれた琥珀色の液体には手を付けず、煙草をくゆらせていた。酷薄さを窺わせる金髪碧眼。ユーシアのレジスタンス『眠れる獅子』の連絡役コルベオは、ちらりとユベールに視線を向けると隣に座るよう促した。ため息が出そうになるのをこらえて、それに従う。

「こんな場所でいいのか?」

「愚問ですね。問題のある場所に呼びつけるとでも?」

 店内を見渡せばコルベオとユベール以外に客の姿はなく、マスターはこちらと視線を合わせようとしない。おそらく彼も眠れる獅子の協力者なのだろう。

「魔女の懐柔は順調ですか?」

 ユベールが注文するのも待たず、コルベオが切り出す。

「ルーシャに行きたいと言っている。向こうの協力者に渡りは付けられるか?」

「目的次第ですね。いつまでも物見遊山の気分ではこちらも困ります」

 コルベオの皮肉は、フェルよりもユベールに向けられたものだ。ユーシア王国の再独立を目指すレジスタンスである彼らの中には、王族としての義務を果たそうとしないユベールを軽蔑する者も少なくない。彼もまたその一人だ。

「ユーシアで起きたことを考えれば、今のルーシャがどうなっているかは想像できる。彼女がそれを目の当たりにするのは、お前たちにとっても損じゃないだろう」

 シャイアの占領政策は、典型的な分断策だ。自らの言いなりになる傀儡を仕立てて間接的に支配することで国際社会に対する名分を立てると同時に、占領地における反シャイア勢力の矛先は傀儡へと向かうようにする。

「間違ってはいませんね。一見、もっともらしい理由だ」

 本当はおもしろがってなどいない、皮肉っぽい笑み。

「引っかかる言い方をする。魔女狩りのことくらい、こっちも知っているさ」

 冬枯れの魔女は、その気になれば個人で軍隊と渡り合える冗談のような存在だ。ルーシャが降伏した後、国内ではシャイア軍の主導による徹底した魔女狩りが行われたのはもちろん、フェルの身柄には非公式にだが莫大な懸賞金がかけられた。彼女と一緒に世界を巡るこれまでの旅で暗殺者と遭遇しなかったのは偶然に過ぎない。

「知っている、ですか。こちらに漏れ聞こえるウワサなどかわいいものです」

「知っていることがあるなら教えてくれ。危険は把握しておきたい」

 頭を下げる。フェルの安全のためなら、プライドなど安いものだった。

「貴方たちは、それを確かめにいくのでしょう? 安心してください、魔女の親衛隊長を務めたウルリッカ・グレンスフォーク大佐とは協力体制にあります。魔女の帰還が叶えば、あちらには大きな恩が売れる。できる限りの支援は行いましょう」

「後は自分の目で確かめろってことか。いいだろう」

 ウルリッカとは直接の面識はないが、そもそも降伏直前のルーシャからフェルを脱出させる依頼を出したのが彼女だと聞いている。今なおルーシャの独立のためにレジスタンス活動を続けているなら、きっとフェルの力になってくれるはずだ。


     *


「どうやらウルリッカ・グレンスフォークと連絡を付けられそうだ」

 翌朝、そろそろ習慣となりつつある朝食を兼ねた作戦会議で切り出すと、カップが皿とぶつかる音が響いた。動揺したフェルが取り落としかけたのだ。

『本当ですか! 彼女は無事なのですね?』

 勢いこんで母国語で尋ねるフェルに、落ち着けというジェスチャを送って続ける。

「彼女自身と話せたわけじゃないが、信頼できる筋からの情報だ。ルーシャに留まり、レジスタンスを率いているらしい。フェルの生存を知ればきっと喜ぶだろう」

『フェリクスからの情報ですね? 本当に、本当によかった……』

 涙ぐみ、唇を引き結ぶフェル。やはり心配だったのだろう。

「……ああ、そうだな。生きていてくれてよかった」

 真実は異なるが、情報源を伏せられるなら都合がいい。フェルが勘違いしたのは、おそらくフェリクスと約束を交わしていたからだろう。彼女の救出は、元々は親衛隊長だったウルリッカからフェリクスを通じてユベールへ回された依頼だ。ルーカでフェリクスと会った際に、そういった経緯は彼女にも伝えられたと考えられる。

「ルーシャの情報も入手できた。レジスタンスは現在、一定の支配地域を得ているそうだ。道中さえ何とかすれば、着陸した途端に逮捕されることはないだろう」

「具体的な場所を教えてくれ」

 共通語に戻し、真剣な表情をするフェルにうなずき返す。

「ああ、そうだな。細かい部分はお前の方が詳しいだろう」

 卓上に世界地図を広げる。国名と主要な都市名のみを記した簡易的なものだ。地図上にはルーシャ帝国の文字もあるが、いま新しく地図を買い求めれば出版社によってはシャイア帝国領ルーシャ自治区と記載されているだろう。

 滅びた国の名前は、そうしてゆっくりと消えていく。今ではユーシア王国の名は滅亡以前の地図と歴史書の中にしかない。人々の記憶も、徐々に薄れていく。ユベールが王国を離れて十年あまり。故郷はすでに他人のものとなって久しい。

「……シャイア軍は当初、反乱を恐れてルーシャ各地にかなりの兵力を分散させていた。しかし占領から半年が経った現在、その大部分は本国に引き揚げられ、残りの部隊も首都メルフラードやブリエスト要塞など、南部の要所に集中して配置される形となっているそうだ。理由は大きく分けてふたつあるが、分かるか?」

「ひとつは、央海戦争だな」

「正解。東ではディーツラントを戦場に連合国と戦い、西ではアルメア軍と全面戦争。ふたつの戦争を抱える最中に、いくらシャイア軍でも遊ばせておける兵力の余裕はないってわけだ。現状、首都メルフラード以北の諸都市は旧ルーシャ帝国軍の将兵を中心に編成された自治政府所属の警備隊によって守られている」

「軍はシャイアとその傀儡の言いなりなのか?」

「まあ、そういう一面もあるだろう」

 嫌悪感をあらわにするフェルをなだめる。

「だが、これはシャイアとしても苦肉の策のはずだ。旧軍の看板をかけかえたに過ぎない警備隊は、そのまま反乱軍になりかねないからな。仮に央海戦争がなければシャイア軍の占領が続き、警備隊の発足はもっと先延ばしにされていただろう」

「警備隊がレジスタンスと協力して、反乱する可能性があるのか?」

「どうかな。可能性だけなら、なんだってある。シャイアが平和主義に目覚めてルーシャの独立を無条件で認めたり、アルメアに対して無条件降伏したりな」

「あり得ない仮定では?」

「そうだな。けど、確率は限りなく低いにしても、ゼロじゃない。要するに、手持ちの情報だけじゃ確かなことは何も言えないってことだ」

「だから現地で確かめる、ということか」

「そういうこと。それで、もうひとつの理由は分かったか?」

「雪と氷だろう?」

 当然、という面持ちでフェルが言う。

「そうだ。十二月を目前にして、ルーシャの大部分は雪と氷に閉ざされる。シャイア軍は身動きが取れなくなる前に南部へと戦力を集中させ、空白となった地域でレジスタンスが支配地域を確立した、というのがここ一か月のルーシャ情勢だ」

 すでに警備隊の一部はレジスタンスと通じているという情報もある。本格的な反乱までは秒読みの段階であり、冬枯れの魔女の帰還によって一気に燃え上がるだろう、というのがコルベオの見立てだった。冬がもたらした地の利と、余所の戦争で生じた戦力の空白。これが次の冬まで続く保証はどこにもないからだ。

 隣国であるルーシャの混乱は、ユーシア王国の独立を悲願とする眠れる獅子にとっても利のある話なので、彼らの協力を取り付けるのは難しくなかった。フェルとユベールのルーシャ入りも、この機を逃せばいつになるか分からない。

「ウルリッカはどこにいるんだ?」

「残念ながら、彼女の所在は掴めなかった。シャイアに情報が漏れることを考えれば、居場所を隠すのは当然だろうな。レジスタンスはベルネスカを根拠地にしたと聞いているから、まずはそこを目指すことになる。ベルネスカは知ってるか?」

「ベルネスカはルーシャのほぼ中央、鉄道の交わる都市だ。ここを押さえれば敵を分断できるし、各地へ戦力を送りこめる。流石はウルリッカだ」

「なるほど。やはり実際に見て回ったフェルの方が詳しいな。俺じゃ訛りの強いルーシャ語は聞き取れないから、そのあたりも頼りにしてるぜ、相棒」

「任せておけ」

「さて、残った問題はどうやってルーシャに行くかだな」

「分かってはいたが、遠いな」

 頭を突き合わせて地図を覗きこむ。滞在中のケーフィランドから、かつてのルーシャ帝国まで、直線距離で六千キロに及ぶのだ。そして燃料を満載したギルモットが追い風を受けて飛び続けても、航続距離は最長三千キロにも満たない。東西南北に広がるシャイア帝国の領土は、さながら巨大で分厚い壁のようだった。

「ユベール。わたしが計算したギルモットの航続距離では、シャイアを横断できるルートがない。経由地を含めてルートを考えたので、確認して欲しい」

 自分なりに飛行ルートを考えてみたらしい。フェルの示した手帳には、計算式や各国の港を結ぶ距離、消費する燃料代などが書きこまれていた。彼女は航法士として、言われなくてもこの程度の仕事はこなせるようになっている。

「見せてみろ……ああ、なるほど。アヴァルカ半島とユーシアを経由するのか」

 フェルの考えたルートでは、アルメアとシャイアが戦争する中を横断することになる。平時ならともかく、今の情勢では現実的ではなかった。

「無理だろうな。アルメアとシャイア、両方から攻撃を受ける可能性がある」

「では、もっと大型の機体に乗り換えて一気に横断するのか?」

「半分だけ正解。俺が考えているのはギルモットでシャイアを横断するルートだ」

 ユベールの言葉に、フェルが怪訝そうな顔をする。

「だが、給油しなければ燃料が持たない。まさかシャイアに降りるのか?」

「その通り。なんだ、分かってるじゃないか」

 口元に笑みを浮かべるユベールを見て、フェルが怒ったような顔を見せる。

「ちゃんと説明しろ、相棒。冗談だったら許さないからな」


2


 アルメアが航空機による世界一周を成し遂げてから、十年が経つ。

 当時、戦争における航空機の有用性に気付いた各国は技術開発で激しく火花を散らし、自国の優位性を示す象徴的な事業として世界初の地球一周飛行の達成を狙っていた。航空機の長距離飛行能力や、それに耐える信頼性はもちろん、空における航法も未成熟な中での難事業であり、アルメアに先行して記録飛行に挑戦したエングランドやケルティシュが失敗して大きな人的犠牲を払う中での快挙であった。

 世界一周飛行に当たって、最大の問題がいわゆる『シャイア抜き』だった。かの国の広大な領土での適切な補給地点の確保は、もはや個人や一企業の手に負える範囲を超えていたのだ。世界一周飛行が国家的なプロジェクトとなるのは必然だった。

 こうした状況下で、航空機の開発レースで各国に後れを取っていたシャイアは一計を案じた。世界一周飛行に挑む外国の航空機に自国内での着陸と給油を禁じたのだ。

 これにより、シャイアを除く各国は飛行ルートを極端に制限され、逆にシャイアは自国内で手厚い補給を受けながら最短ルートで飛べる態勢が整った。そうして時間稼ぎしつつ、機体の開発とパイロットの養成を図ったのだ。

 この姑息な手段に怒ったのが、公正さを信奉するアルメアの国民だった。彼らに後押しされたアルメア政府は軍から選抜したパイロットで専属のチームを編成し、持てる政治力を駆使してシャイアを迂回するふたつのルートを開拓した。

 アヴァルカ、ユーシア、ルーシャ、ウルスタンを経由してケルティシュやディーツラントに至る北回りルート。そしてアヴァルカからケーフィランド、クルバ島、マナルナ聖教国、ピエルシナ王国、例外的に開かれた港であるシャイア領ハイレンを経由してディーツラントに至る南回りルート。各国の思惑や政治的な綱引きもあり、決して安定したルートとは呼べないながらも、かくして道は繋がった。

 本来なら大々的に行われる出発式は省略し、あえて自国ではなくケルティシュから飛び立ったアルメアチームの存在はシャイア領ハイレンに到着するまで隠し通され、慌てて妨害に動いたシャイア軍を振り切っての劇的な記録達成へと至ったのだ。

 この事例を踏まえても、国家の全面的なサポートがあってなおシャイアを出し抜くのは容易ではないと分かる。加えて、当時とは比べものにならないほど航空技術を発展させた大帝国を横断しなければならないのだ。トラブルや不測の事態が起きる可能性もある。慎重さと大胆さの両方を求められる任務と言えるだろう。

「ユベールは両方のルートを飛んだことがあるのか?」

「ああ、フェルを助けに行く時に使ったのも北回りルートだ。ルートが開拓された当初こそ大掛かりなチームを組まなきゃ無理だったが、今なら単独飛行も不可能じゃない。緊急時に着陸できる場所も、昔よりずっと増えたしな」

 国家によるサポートの代わりに、頼りにできるものもいくつかある。ひとつは純粋な機体の性能向上であり、もうひとつは飛行機乗りたちが積み上げてきた信頼と実績のネットワークだ。シャイアを迂回する大回りを嫌い、かの国を一気に横断するルートを開拓する試みはこの十年間、ずっと続けられてきたのだ。

 いま二人がいるのはクルバ島、ラバンドルートの整備工場だ。ケーフィランドからここまで一気に飛び、長距離飛行に備えて機体の確認と給油を済ませる。夕刻の街の雰囲気はカクテルの材料を調達しに訪れた際よりも浮き立っているように見えた。

「この先はシャイアの沿岸を飛んでマナルナ聖教国を目指す。なるべく人目につかないよう、日付が変わる頃に出発だ。それまで少し寝ておけ」

「ユベールもだ。昨夜も、わたしが寝た後に出かけていただろう?」

「……気付いてたのか」

「情報収集はいいが、うとうとして墜落するなよ、相棒」

「分かった。今日は大人しく身体を休めるさ」

 実際、長時間の操縦は重労働だ。シャイア国内の情報を集めたかったが、眠気を自覚してしまうと立ち上がる気力が失せていく。いつの間にかソファで眠りこみ、フェルに揺り起こされてようやく時間であることに気がつく始末だった。

「くそ、もう出発か」

「もう少し休んでいくか?」

「いや、朝の礼拝が始まる前にマナルナまで飛びたい。彼らは機械の騒音を嫌う」

 マナルナ聖教国はその名の通り、マナルナ教を国教とする宗教国家だ。シャイアが覇を唱えるエウラジア大陸において、天険の要害であるヒルム山脈を挟んで領土を保ち続けている軍事強国でもある。かの国における朝夕の礼拝は神聖視されており、その邪魔をした外国人は半殺しの目に遭っても文句は言えない。

 クルバ島からマナルナ聖教国まで七時間はかかる。九時に礼拝が始まるので、時差も考えるとすぐに出なければ間に合わない。ほとんどの荷物はギルモットに載せたままなので、シャワーを浴びたいのを我慢して機体に乗りこんだ。

 シャイアの南洋艦隊とマナルナ海軍の艦艇が遊弋する夜の南緑海を飛ぶ。月明かりに照らされた穏やかな夜で、巡航速度で飛んでいるとエンジンの騒音も次第に耳に入らなくなり、一種の静けさすら感じ取れるようになる。

「フェル、起きてるか?」

「どうした?」

「いや……最後に確認しておこうと思ってな」

「確認?」

「マナルナから飛び立てば、いよいよ後戻りできなくなる。俺もお前も、ただの操縦士と航法士ではいられなくなるだろう。フェルは、本当にそれでいいのか?」

「……ユベールは、怖いのか?」

 問い返されて、初めて気付く。フェルの覚悟を問いたいのではなく、自分自身の覚悟が決まらないから発した問いであることに。

「……くそ、情けないな。どうやら、お前の言う通りらしい。ああ、そうだ。俺はここまで来てビビってる。国を出てから十年。お前と出会って、今まで逃げ続けてきた王族の責任ってやつと、いよいよ向き合わなくなっちまったからだ」

「引き返しても、わたしは構わない」

 伝声管越しに、淡々とした調子でフェルが告げる。

「分かってる、お前ならそう言うだろう。その時はお別れだってことも」

「…………」

 彼女はユベールを信頼し、好ましく思っている。同時に、そうした個人的な感情を切り離して自らの責務を優先する芯の強さを持ち合わせている。そうした在りようを、ユベールは羨ましく思っている。彼女は、自身があるべき姿だったからだ。

 彼女を抱きしめて、一緒にいてくれと懇願しても意味はない。ルーシャに戻ってフェルリーヤ・ヴェールニェーバとしての責務を果たすと決めたなら、彼女はユベールとの別れを悲しみつつも、一人でルーシャへ向かう道を選ぶだろう。

「決めるのはユベールだ。わたしはそれを尊重する」

 フェルは、ユベールに責務を果たせとは言わない。その重みを誰よりも理解しているからだ。誰かに支えてもらうことはできても、それはそれとして一人きりでも支えるという覚悟がなければ、いつか潰されてしまうことを知っているのだ。

「……やっぱりお前はすごいよ、フェル」

「そうだろうか?」

「王族って言っても、俺の場合は親が王族の血を引いていただけだ。俺以外の人間はみんな義務を果たして死に、俺一人が最後まで生き残ったから価値を見出されてるに過ぎない。王としての教育を受けたわけじゃないし、自覚もなければ、能力もない。今でも自分のことを、ただのユベール、ただの飛行機乗りとしか思えないんだ」

「卑下する必要はない。ユベールが飛行機乗りじゃなければ、わたしとは会えなかった。わたしはルーシャから逃げ出せず、シャイアに捕まって殺されていただろう」

 慰めでも励ましでもなく、彼女が本心からそう言っているのが伝わってきた。

「そうだ。俺に価値があるとしたら、その一点に尽きる」

 国を統べる指導者として並び立つことはできそうもない。

 だが、彼女の翼で在るためにできることはある。

「俺は飛行機乗りのユベールとして、最後までフェルの味方でいると決めた。相棒、お前が飛びたい場所へ飛んでやる。だから、俺に針路を示してくれ」

 伝声管の向こうから、ふっと鼻で笑う気配が伝わってきた気がした。

「当然だ。わたしはユベールの相棒、お前の航法士なのだから」


3


 マナルナ聖教国の港町シュラトを空から俯瞰して真っ先に気付くのは、高い建物がほとんど存在しないことだ。これは高層建築の技術がないからでも、シュラトだけの特徴というわけでもない。ギルモットを着水させてエンジンを切り、キャノピーを開いてスパイスと潮の香りを吸いこむと、遠くから鐘の音が響いてきた。

「礼拝の時間だ。どうにか間に合ったな」

 鐘の音は街の中心部、シュラトの中央にある鐘楼から聞こえてくる。

「音を遮る高層建築がないから、街のどこにいても鐘の音が届く。マナルナ教徒は礼拝中の騒音を嫌うから、鐘の音を耳にしたら一時間は大人しくしといた方がいい」

「では、その間に入国審査を済ませよう。審査所はどこだ?」

「場所は分かるが、少し時間を潰してから行こう。審査官も礼拝中だろうしな」

 それらしい建物を探していたフェルが、驚いた表情を見せる。

「仕事中でも礼拝するのか?」

「聖教国は国民全員がマナルナ教徒だから、そもそも朝夕の礼拝が勤務に組みこまれてるのが当たり前なんだ。雇い入れた現地民に礼拝の時間を取らせなかった外国企業が焼き討ちに遭った例もある。タブー破りじゃ仕方ないと、警察も知らん顔だ」

「他にはどんなタブーが?」

「俺も詳しいわけじゃないし、とにかくやたらと数が多くて全部は把握できない。今回は通り抜けるだけだから、そうだな……牛と渡り鳥が神聖視されていること、妙な風習が多いから変だと思っても迂闊に口を挟まないこと、それから……」

 言い淀むユベールを不思議そうに見上げるフェル。微妙な問題なので表現に迷ったが、言わずにおくリスクの方が高いと判断して思ったままを言うことにした。

「……フェルの容姿は注目を集めるだろう。お前に向かって手を合わせたり、身体に触れようとするやつがいるかも知れない。けど相手をするな。超然としてろ」

 得心がいった様子でフェルがうなずく。

「アルビノは特別視されるのか」

「端的に言えばそうだな」

 フェルがあっさりと口にしたことで説明を続けやすくなった。

「厳密に言えば、フェルはアルビノじゃない。肌が白くて、髪色が真っ白だから勘違いされやすいだけだ。けど、そもそも外国人が珍しいこの国でそんな区別がされるかって聞かれれば、答えはノーだ。アルビノは神話に出てくる白い神ファルナの生まれ変わりとされているから、フェルがそれと同一視される確率は高い」

「危険があるのか?」

「仮にも神様だから、そう無体なことはされないと思う。けど、念のためだ。できるだけ目立たないよう、頭にスカーフでも巻いておけ。それから、もし危険を感じたら……その時は躊躇せずに力を使え。全ての責任は俺が負う」

「了解した。そうならないよう注意しよう」



 入国審査の際、スカーフを取ったフェルの容姿に周囲がざわめく一幕もあったが、それ以外は大きなトラブルもなかった。給油と機体のチェックを済ませて、手持ちの黒ゴマのビスケットで手早く腹ごしらえをしたらすぐ飛び立つ。

 マナルナ聖教国内を一気に北上。シャイアとの国境付近でギルモットが着水できる唯一の湖であるパング湖を目指す。世界有数の高さを誇り、シャイアの侵攻を退ける天然の城壁でもあるヒルム山脈が近付くと、次第に標高が高くなってくる。気温が下がってきたので、操縦しながらジャケットを着こむ。

「湖が凍っている可能性はないのか?」

 雪で覆われた地表を見たフェルが懸念を示す。

「パング湖は塩湖だから、そう簡単には凍らない。厳冬期ならともかく、この季節ならまだ表面に薄く張る程度のはずだ。フロートで割っちまえば問題ない」

「ふむ。最悪、壊れても構わないということか」

「フェリクスには怒られるだろうけどな」

「そうなったら、二人で謝ろう」

 昼過ぎという時刻も幸いして、着水に支障はなかった。キャノピーを開くと、独特の嫌な臭いが鼻を突く。不自然なほど鮮やかな青色の湖面から立ちこめる臭いだ。ギルモットを湖岸に乗り上げ、なるべく靴が濡れないように機体から降りる。

「相変わらず、見た目は良いのに臭いが酷い湖だな」

「ユベールはここに来たことがあるのか?」

「以前の仕事でな。だが、この先はフェリクスから聞いただけで実際に飛んだことのないルートになる。ここからが本番だから、気を引き締めろよ」

「了解した。それにしても、この景色は素晴らしいな」

「全くだな。こんな状況じゃなきゃ、のんびり眺めていたいところだ」

 土砂の堆積で自然に流出が止まったパング湖は、岩塩の鉱脈から溶け出した塩分が濃縮されたため、わずかな甲殻類を除いて魚の棲めない塩湖となっている。空を映し取ったような淡い青の湖は透明度が高く、周囲の雪原との対比で見た目には美しかった。背後に控えるヒルム山脈が映りこむ様子も絶景だった。

「ユベール」

 夏は観光客を受け入れているのだろう湖岸のコテージから、機材を抱えた数人の男が出てくるのに気付いたフェルが注意を促す。男たちはフェルの姿を認めて感嘆の声を漏らし、しきりに手を合わせて拝んでいる。

「大丈夫、打ち合わせ通りだ」

 ここからヒルム山脈を越えればシャイア帝国領となる。シャイアを超えてルーシャまで飛行するに当たって、最低でも一回は給油しなければ燃料が持たない。問題は、どこに降りて給油するかだ。混ざり物のない燃料を売っている規模の街には必ずシャイア軍の詰め所があり、飛行機が降りてきたら間違いなくすっ飛んでくる。

 もちろん、フェルの魔法があれば地方都市に駐屯する小部隊を吹き飛ばすくらいは造作もない。だが、例え全滅させても目撃情報などから彼女がルーシャに向かったと推測するのは容易だ。その情報は即座にルーシャに駐屯するシャイア軍に伝えられ、当初の目的であるルーシャの現況を見聞することは難しくなるに違いない。

「予定通り、ここでギルモットをフロートからスキーへ換装する」

 エウラジア大陸の南岸で唯一、公然と反シャイアを掲げる国家であるマナルナ聖教国は、シャイアへの密入国の足がかりとして各国のスパイが利用している。今回はそのために用意された人員と機材を融通してもらうよう、眠れる獅子と話を付けてあった。ギルモットを湖から雪原に引き上げて換装の手順を確認しているのは、アルメアやケルティシュで整備を学んだマナルナ人の整備士たちだ。

「作業にどれくらいかかる?」

 共通語で質問すると、周りに指示を出していた男がむっつりと答える。

「三時間」

「分かった。終わったら出発するから教えてくれ」

 ユベールの言葉を聞いて、男が不満げに鼻を鳴らす。

「死にたくないならやめとけ。夕方から霧が出る」

 男が顎をしゃくって示したヒルム山脈はくっきりと見えていて、霧の兆候はない。しかし山の天気は変わりやすく、変化が早い。その上、異国の地でもある。現地の人間の言葉には従うべきだった。山越えは晴天の昼間飛行でも危険なのだ。

「……そうか、仕方ないな。あのコテージに泊まれるのか?」

「ファルナの化身には個室を用意する。お前は俺たちと雑魚寝だ」

「贅沢は言わない。雪と風を凌げるだけでありがたいよ」

 ユベールの言葉にうなずき、整備士たちが作業を始める。しばらく見ていたが作業に迷いはなく、妙な動きもない。身体も冷えてきたので、コテージに入ることにした。中は薄暗く、ロウソクに使われる獣脂の匂いに満ちていたが文句は言えない。暖炉の火が消えかけていたので、彼らが用意したのだろう乾いた薪を追加してやる。

 新しい薪に火が移り、揺らめく炎に手をかざしていると思った以上に身体が冷えていたことに気付く。隣にいるフェルも心なしか安らいだ表情に見えた。

「ユベール、わたしたちは何もしなくていいのか?」

「夕方の礼拝までに作業は終わるだろう。その後は夕食になるから、準備でもしておくか。その前に、お湯を沸かしてお茶の準備もしないとな」

「わたしも手伝おう」

「大した仕事じゃない。お前はゆっくり火に当たってろ」

「了解した……ありがとう」

 マナルナ人はコーヒーよりも砂糖やミルクを入れたお茶を好む。ここは標高が高く、沸点が低いので、やや長めに煮出した方がいいだろう。出発前にシュラトで買った清潔な水を薬缶に入れて暖炉の上部に置き、上等な茶葉を用意する。

 整備士たちが作業を終えて片付け始めるのを見計らって茶葉を投入し、しっかりと煮出す。凍えた様子でコテージに戻ってきた男たちは馥郁とした香りに目を丸くし、それがユベールの入れた茶だと分かると相好を崩した。

 用意された砂糖とミルクを各人が思い思いに自分のカップへと投入して、暖炉を囲んで話をしながらお茶を飲む。戒律で飲酒を禁じられたマナルナ教徒はお茶の時間を重要視し、共に茶を飲みながら話をした相手を仲間と認める、という話をフェリクスから聞いたことがあった。効果はてきめんで、一仕事を終えた安堵感と暖かい室内が先ほどまでは口数の少なかった彼らを饒舌にした。

「知ってるか? 俺たちは身分によって使うべき乗り物を定められているんだ」

「けど飛行機は教えの中に存在しない。誰でも使える乗り物なんだ」

「だから俺たちは整備を学んだ。仲間には操縦を学んだやつもいる」

「今となっちゃ、高貴な人たちは自分より身分の低い俺たちや、あんたみたいな外国人に頼らなきゃ飛行機には乗れない。俺たちが先んじて操縦と整備を習って、自分たちの乗り物にしちゃった手前、飛行機が便利だと気付いても操縦を習いたいとは口にできなくなっちまったんだ。なあ、滑稽な話だろう?」

 彼らの間では鉄板のネタなのだろう。整備士たちがお互いの肩を叩いて笑い合う。そうして話している内に山脈の彼方へと日が沈み、礼拝の時間となる。厳粛な面持ちでひざまずき、聖地へ向かって祈る彼らの姿は敬虔な信仰者のそれだった。

「不思議な国だな、マナルナは」

 フェルの言葉にうなずく。信仰と技術、一見して結びつかない両者が独自の形で絡み合い、昇華されているのがマナルナ聖教国という国家だ。

「色々片付けたら、また来てみるのもいいかもな」

「そうだな。きっと、二人でまた来よう」

 礼拝の後、質素な夕食を摂るとやることもなくなってしまった。薄暗い獣脂のロウソクと暖炉の熾火では光量にも限界があるので、さっさと寝てしまうことにする。念のため、フェルのいる個室のドアを背にする形で毛布をかぶる。

「おやすみ、ユベール」

 ドア越しに伝わってきた声に、小さく応える。

「ああ。おやすみ、相棒」


4


 山嶺の向こうにある太陽が、空を明るく染める。霧が晴れ、ヒルム山脈の姿がくっきりと見えていた。風も穏やかで、こんなに天気がいいのは珍しいとマナルナ人の整備士が呟く。朝食は暗い内に済ませているので、すぐ出発することにした。

 昨日までは水上にあったギルモットが、今はフロートをスキーに履き替えて雪上にある。フェルと一緒に乗りこんで、エンジンをかける。すぐに滑り出さないよう整備士たちに機体を押さえてもらい、暖気の時間を取る。

 エンジンが十分に温まったのを確認して、整備士たちに合図を送る。彼らが手を離すとギルモットは滑走を始め、徐々に速度を上げていく。機体のブレをラダーで修正しながら離陸速度に到達するのを待ち、ゆっくり操縦桿を引き上げていった。

「雪の反射にやられないようゴーグルはかけておけよ、フェル」

「了解した」

 高度を上げていくと、稜線を超えた太陽光がコクピット内に差しこむ。雪の反射光を肉眼で見続けると一時的に視界を失うことも珍しくない。谷間を縫って飛行する最中に視力を失えば、待っているのは斜面への激突だけだ。

 旋回、そして上昇と下降を繰り返す。ヒルム山脈越えのルートはある程度まで体系化されているが、地図上でのシミュレーションと実際の三次元的な飛行では全く異なると言ってもいい。どこを向いても似たような風景の中、頼れるのは自身の空間認識能力と適切な操縦能力、そして有能な航法士のナビゲーションだけだ。

「右旋回、三十度だ」

「了解。右旋回、三十度」

 軽口は叩かず、操縦に集中する。地図を読み違えてルートを外れれば、正しいルートに戻ってくるのは容易ではない。戻れたとしても、着陸できる場所まで燃料が持たなければ墜落か不時着かの選択を迫られることになるのだ。

 幸い、天候の急変に見舞われることもなくルートの消化は進んでいった。地図上の位置と、実際の風景にも相違はない。雪や霧で視界が悪くなればこういった確認も難しくなるので、今回は本当に運に恵まれていたと言っていいだろう。

「ユベール。空が白くなってきた。雪が降るぞ」

「問題ない。前方の谷間を抜ければ平野に出る」

 逸る気持ちを抑えて谷間を抜けると、一気に視界が広がる。世界最大の面積を誇る高原地帯であるシンユー高原。歴史上、シャイア帝国とマナルナ聖教国が幾度も矛を交えてきた古戦場であり、シャイア帝国発祥の地でもある。エウラジア大陸の大半を版図に収める大帝国は、高原の遊牧民族から始まったのだ。

 ギルモットの給油はシンユー高原の北端にある小さな集落で行う手筈となっている。ヒルム山脈から流れ出る大河に沿って北上していくと、やがて巨大なダムが見えてきた。大量の水を堰き止める堤体を飛び越えると、その先には深い谷が続く。

 昼過ぎには目指す集落の上空に着いた。山裾の少し開けた場所で、飛行機が着陸できるように除雪された細長い平地が見て取れた。ローパスでさらに詳細な状態を確認すると共に、念のためにシャイア軍の待ち伏せがないかを警戒する。

「どうだ?」

「大人数が隠れている気配はない。集落に人と羊の気配があるだけだ」

 ここ最近、さらに鋭敏になったフェルの魔力感知は、身を潜める生物の存在も看破できるまでになっていた。彼女がそう言うのなら、軍の待ち伏せはないはずだ。

 スキーでの離着陸の経験は多くない。着雪の衝撃で横滑りしそうになりつつも、何とか機体を停止させる。キャノピーを開けて高原の澄んだ空気を吸いこんでいると、集落の方からのんびりと歩いてくる人影が見えた。風雪に晒され、顔に深いしわを刻んだ初老の男が一人だけ。機体を降りて、近付いてきた男に軽く会釈する。

『こんにちは』

 ユベールが慣れないシャイア語で話しかけると、向こうも挨拶を返してくる。

『こんにちは、よく来なさった。欲しいのは油だね?』

『ええ。代金はこちらに。それと、これは貴方に差し上げます』

 金と一緒に煙草の箱を差し出すと、男がにやりと笑う。

『宿は入り用かね? 代金は別に頂くが』

『宿泊ですか? いいえ。すぐに出発します』

『そうかね』

 それ以上は詮索せず、男は踵を返すとマイペースに歩んでいく。給油のためにタンクやポンプを持ってくるのだろうか。開けた場所でじっと待っていると身体が冷えてしまいそうだが、近くに休めそうな場所も見当たらない。

「どうする?」

「どうするかな……」

 フェルはもちろん、ユベールにとっても敵地と呼べる場所だ。無防備に機体を離れて休める場所を探す気にもなれず、かといって遮るものもない吹きさらしでは身体が冷えるばかりだ。男がすぐに戻ってくる気配もないので、機体に戻ってキャノピーを閉めることにする。暖房はないが、風がないだけ外よりはましだった。

「ユベール、質問がある」

「どうした?」

「この村はシャイア人の村なのに、なぜわたしたちに協力しているんだ?」

「生活のため、それからシャイア政府への意趣返しだろうな」

「意趣返し? 復讐ということか」

「昔、この村は別の場所にあったんだ」

「移住してきたのか。どこから?」

「俺たちも見てきただろう。あのダムの底だよ」

 遊牧民には部族ごと、家族ごとの縄張りがある。ダムの建設でわずかな金と引き換えに住み慣れた場所を追われた彼らに行き先はなく、流浪の末にたどり着いたのはシンユー高原の最北部、水に乏しく寒さの厳しい辺鄙な土地だった。

「故郷を奪ったシャイア政府を憎んで、ということか」

「人伝てに聞いた話だ。本当のところは分からんし、彼らには彼らの考えとやり方がある。そして俺たちにとって重要なのは、ここで給油できるってことだ」

「そう、だな」

 会話が途切れ、しばらく待っていると、男がそりに手押しポンプと燃料タンクを積んで戻ってきた。ちゃんとした燃料なのか一抹の不安がよぎるが、フェリクスの紹介を信じるしかないだろう。そもそも、他に選択肢はないのだ。

 男は作業を急ぐ様子もなく、見ていると次第にじれったくなってくる。ユベールが機体を降りて手伝いを申し出ると、男は黙って手押しポンプを指で差してみせた。少なくとも、辺りに漂う嗅ぎ慣れた匂いは航空燃料のそれだった。

 二度の往復で燃料タンクを満たすと、用は済んだと言わんばかりに男は去っていく。航空燃料の仕入れや運搬も考えれば外国機への給油は村ぐるみの事業であり、シャイア政府に知られれば村人全員が国家反逆罪に問われるだろう。ユベールたちがこの先の行程でシャイア軍に補足され、尋問を受けたとしても結果は同じだ。彼らなりのやり方でシャイアに抗う村人のためにも、無事にルーシャに着かねばならない。

「出発だ。この先は北部シャイアとモルウルス自治区を突破して、一気にベルネスカまで飛ぶ。シャイア軍に発見されないよう、くれぐれも警戒を緩めるなよ」

「了解した」

 シャイア軍の警戒線に引っかかるとこちらが危険なのはもちろん、発見された地点と飛行ルートから逆算して給油地点を割り出される可能性もある。特にモルウルス自治区の国境付近は厳重な警戒線が引かれているので注意する必要がある。

 再び離陸して、北部シャイアに侵入する。乾燥した砂漠の広がる一帯は、かつては交易で、現在は資源の発掘と輸送で人と物の往来が絶えない。逆に言えば、そのルートを外してしまえば監視の目も少ないということだ。主要な交易路とそれに寄り添う鉄道網を避け、何度か針路を変えつつ北上していく。

 主要な航空部隊が東西の戦線に引き抜かれていることもあってか、モルウルス自治区の国境まで戦闘機どころか民間の航空機の影すら目にすることはなかった。風景は砂漠から荒野へと切り替わり、地上には擱座した戦車の姿が見える。寒々しい荒野に不気味な存在感を示す不自然な隆起、うっすらと雪に包まれた大地に引かれた黒線のような地割れは、冬枯れの魔女が振るった暴威の名残だろう。

『ここはかつて、馬が駆け抜け、羊たちが草を食む草の海が広がる土地でした』

 伝声管を通じて、淡々としたフェルの声が聞こえてくる。

『遊牧の民は、彼らの暮らしをその基盤から破壊した冬枯れの魔女を恨んでいることでしょう。この光景はわたしが作り出したもの。ルーシャを守るという大義名分で、遊牧民の犠牲を容認した結果。わたしの犯した、取り返しのつかない罪悪です』

 強者が弱者から奪い取る、略奪の連鎖。見方によっては誰もが略奪者であり、被略奪者でもある。誰からも奪う力のない者は遠からず滅びることになる。

 弱者からの搾取に鈍感であることは、統治者としてのある種の資質だ。自らの罪深さに足を止めていては、人々を導くことなど叶わない。そこに対して鈍感でいられないなら、今度はそれを呑みこんでなお進む度量が求められる。

「行こう、ユベール。わたしは自らの目で今のルーシャを見定めたい」

「了解だ、相棒」

 いつの間にかキャノピーの外には雪がちらつき、空と大地の境界は次第にあいまいな白に塗り潰されていく。シャイア帝国領ルーシャ自治区。フェルにとってはほぼ一年ぶりとなる、雪と氷に閉ざされた故郷への帰還だった。


5


 ベルネスカ旧市街にそびえる中世の城塞には、旧ルーシャ帝国の旗がひるがえっていた。この都市がレジスタンスによって解放されたという情報は真実だったらしい。鹵獲されたと思しきシャイアの兵器が要所に配され、守りを固めている。

 除雪しただけの仮設飛行場にギルモットを降ろすと、不揃いな装備の男たちが駆け寄ってくる。おそらく民兵だろう。まだ若い男たちだ。彼らは先に降りたユベールに不審げな視線を向けていたが、続けて降り立ったフェルの姿に目を瞠った。

『そこのお前……いや、貴方様は……』

『下がりなさい。わたしはフェルリーヤ・ヴェールニェーバ。冬枯れの魔女です』

 冬枯れの魔女の特徴的な容姿は、レジスタンスの組織内でも共有されていたのだろう。突きつけるでもなく中途半端に揺れる銃口から、かつての皇帝を眼前にした畏怖と、偽物ではないかというわずかな疑念が見て取れる。

『貴方たちはベルネスカの解放に貢献したレジスタンスですね。出迎えに感謝します。これからウルリッカ・グレンスフォークと話をしますので、案内を頼みます』

 そう言うと、相手の返事も待たずに歩き出す。有無を言わさぬ振る舞いは意図したものだろう。ユベールも堂々とした態度を装ってフェルに続く。気圧された兵たちが思わず道を空ける間を通り過ぎると、我に返った一人が追いすがってくる。

『ちょっ、お待ちください魔女様! その、グレンスフォーク閣下の所在は機密でして、我々のような末端には知らされていないのです!』

『では、知っている者の下へ案内しなさい』

『はあ、そういうことであれば……了解しました。自分はスルコフ兵長であります。魔女様を正統ルーシャ軍ベルネスカ司令部までご案内するであります』

『正統ルーシャ軍?』

 耳慣れない単語にユベールが疑問の声を上げると、スルコフが答える。

『傀儡と成り下がった元老院に代わり、グレンスフォーク閣下が我らレジスタンスと旧軍の将兵をまとめ上げ、正統ルーシャ軍と名を改めたのであります』

「……軍閥化してるのか。要注意だな」

『何でありますか?』

 聞き返すスルコフに対して、ユベールに代わってフェルが答える。

『気にする必要はありません。それより、どこへ向かっているのですか?』

『はっ。司令部までご案内します』

 スルコフの案内に従い、飛行場の端に停められていた軍用車両に乗りこむ。彼の運転で向かった先は、街の中心部にある四階建ての建物だった。看板を読んだフェルがベルネスカ市役所だと教えてくれる。レジスタンスと警備隊の寄り合い所帯である正統ルーシャ軍は、この建物を接収して司令部にしているらしい。

『スルコフと言いましたね。ウルリッカはここにいるのですか?』

『先ほども申し上げた通り、自分には分かりません。ですが、ルルスカヤ大佐であればご存じのはずです。それから、名前を憶えていただき光栄であります』

『その方が責任者なのですね?』

『そうであります』

 スルコフは司令部に入ると、受付のカウンターに座る兵に用件を告げる。やはり冬枯れの魔女の容姿は知れ渡っているらしく、受付の兵は慌てた様子で建物の奥へと消えていった。戻ってくるまで待つしかないだろう。

『どうもありがとう、スルコフ兵長。貴方の仕事に戻って構いませんよ』

『いいえ、魔女様。お帰りの際の運転も自分が務めるであります』

『分かりました。気遣いに感謝します』

 放っておくと二人が戻ってくるまで直立不動で待っていそうなスルコフに、長椅子で座って待つよう命令する。その間に受付の兵も戻ってきた。

『お待たせいたしました。ルルスカヤ大佐の執務室までご案内します』

『頼みます』

『では、こちらへどうぞ』

 案内に従って階段を上る。四階の最奥、元は市長室と思しき場所がルルスカヤ大佐の執務室だった。案内を務めた兵がノックすると、穏やかな返事が返ってくる。扉を潜ると、そこには軍服に似合わない柔和な顔つきの男が待ち受けていた。

『お待ち申し上げておりました、フェルリーヤ・ヴェールニェーバ様。私はグレゴリ・ルルスカヤ大佐と申します。我らが正統ルーシャ軍の指導者であるグレンスフォーク将軍から、このベルネスカを預かる連隊長に任じられております。以後、お見知りおきくださいますようお願い申し上げます』

『初めてお目にかかります、大佐』

 軍人らしからぬ穏やかな口調。それでいて、軍服に着られている感じはしない。ルルスカヤはフェルと握手すると、ユベールに視線を向ける。

『そちらのお方は?』

『ユベール・ラ=トゥール。わたしの操縦士です』

『ほう。では、敗戦間際のルーシャからフェルリーヤ様を救い出したという飛行士が貴方ですね? そして此度はフェルリーヤ様の帰還にご助力いただいたと見えます。いや、貴方には感謝の言葉もありませんな。グレンスフォーク将軍に代わって、このルルスカヤがお礼を申し上げるとしましょう。本当にありがとうございます』

『どうも。ルーシャ語には不慣れで、無愛想なのはご勘弁願います』

 ユベールの返事を聞いて、ルルスカヤが大袈裟に肩をすくめる。

『おお、これは失礼。聞くところによると、フェルリーヤ様も共通語を話されるとか。差し支えなければ、ここから先は共通語で話しましょうか?』

 フェルと顔を見合わせ、互いにうなずいた。

「わたしは構わない」

「助かります。大佐は共通語に堪能でいらっしゃるのですね」

 世辞であることは承知で、ルルスカヤが苦笑する。

「予備役で引っ張り出されて大佐などと呼ばれておりますが、戦争が始まる前はベルネスカの市長を務めておりました。似合わん軍服に窮屈な思いをしております。と、これは失礼いたしました。立ち話も何ですからおかけください」

 応接用のソファに腰を落ち着け、当番兵に持ってこさせたジャム入りの紅茶を口にしてから、改めてルルスカヤが切り出す。

「まずは無事のご帰還が叶ったことをお喜び申し上げます。シャイアによる国境監視が厳しい中、帰国にはずいぶんな困難が伴ったのではありませんか?」

「ちょっとした伝手がありましてね」

 マナルナ聖教国を経由してのシャイア横断について、かいつまんで説明する。

「なるほど、シャイアの意表を突く大胆なルートですな。将軍がフェルリーヤ様を託されたのもうなずける話です。加えて、シャイアはまだフェルリーヤ様の帰還に気付いていない可能性がある。これは今後の作戦上、重要な情報です」

「……大佐、先に言っておくが、わたしはルーシャ国内で魔法を使う気はない。先の戦争と同じ轍を踏むのなら、わたしたちはここを去ることになる」

 感心しきりのルルスカヤに、フェルが釘を刺すように言う。

「……ご意向は承りました。将軍には内々にお伝えいたします」

 柔和な表情は崩さないが、ルルスカヤの返答には微妙な間があった。シャイア軍と戦う正統ルーシャ軍としては、単独で戦局をひっくり返せるフェルの協力が得られるかどうかは死活問題なので当然の反応だろう。ここは表面上だけでも協力的な態度を装っておくべき場面だったが、フェルはそれをよしとしなかった。

「ウルリッカはどこに?」

「将軍は各地でレジスタンスと旧軍の統合を進めておられます。確約はできませんが、近いうちにベルネスカに戻られる予定です。市内のホテルに部屋を取りますので、旅の疲れを癒やすためにもしばらく滞在なさってはいかがですか?」

「……了解した。そうしよう」

 フェルがうなずくと、ややあってルルスカヤが付け加える。

「それから、申し上げにくいのですが、外出はお控えくださいますよう」

「市内は危険なのか?」

「いえ、ベルネスカ市内の掃討は完了しております。ですが、シャイアのスパイや我々に反感を持つ者が潜んでいないとも限りません。万が一を考えれば、将軍が戻られるまでは安全な場所でお過ごしいただきたいのです。幸い、フェルリーヤ様を見かけた者は多くありません。彼らには口止めをして、ご帰還の事実は当面の間、対外的には伏せさせていただきます。これは作戦上の都合でもあります」

 ルルスカヤの言葉を吟味したフェルがゆっくりとうなずく。

『分かりました。この件は大佐に一任いたします』

『はっ、了解いたしました。では、ホテルまで送迎させます。飛行機もこちらでお預かりして、しっかりと整備しておきますのでご安心ください』



 ベルネスカ到着から三日が経った。

 ウルリッカ帰還の報はなく、フェルと一緒に市内の視察に行こうとしても護衛として付けられた兵に制止され、ホテルから出ることも叶わない。割り当てられたスイートルームの居心地に文句はないが、やることもなく暇を持て余していると焦りばかりが募ってくる。ホテルに泊まるためにルーシャまで来たわけではないのだ。

「体のいい軟禁では?」

 ため息交じりのフェルの言葉にうなずき返す。

「だよな」

 ラウンジでの朝食中、壁際でこちらを見守る護衛には聞こえない声量で話す。できるだけリラックスした様子を装い、傍目には談笑しているように見せかける。

「フェルも分かってると思うが、個人の心情と政治的信条が一致するとは限らない。ウルリッカの率いる正統ルーシャ軍が目指す国家の形によっては、冬枯れの魔女の存在は邪魔にならないとも限らない。最悪のケースも想定が必要だ」

 冬枯れの魔女に依存しきった元老院の醜態を、親衛隊長として間近で見てきたのがウルリッカ・グレンスフォークという人物だ。軍とレジスタンスを糾合した彼女の目指す新たなルーシャの政治形態がどのようなものか、現時点では分からない。

「その場合、ギルモットを押さえられたのが痛いな」

「荷物には手を付けないように言ってある。必要なものを取りに行くという名目で、機体の保管場所までは行けるはずだ。とは言っても行き先に当てがあるわけでもないし、逃げれば正統ルーシャ軍と袂を分かつことになる。最終手段だな」

「ウルリッカの居場所さえ分かれば会いに行けるのに……」

「望みは薄いが、俺の方でも情報屋に当たってみる。フェルと違って、俺は連中にとって運び屋に過ぎないからな。監視はつくだろうが、上手くやるさ」

「了解した。そちらは任せる」

「フェルはどうする? ルルスカヤ大佐に頼んで護衛と運転手を付けてもらえば、市内をドライブするくらい許してもらえるんじゃないか?」

「司令部に出向いて大佐に頼んでみよう。その方がユベールも動きやすいだろう」

「そうだな、頼む。また夕食の時に情報交換しよう」

 口止めも兼ねて運転手に抜擢されたスルコフ兵長と護衛を引き連れて、司令部へ向かうフェルを見送る。たっぷり時間をかけて紅茶を飲んでからホテルの玄関へ向かうと、人の出入りをチェックしていると思しき兵に声をかけられる。

『どちらへ?』

「えっと……ルーシャ語だと『買い物』だっけ? 合ってる? しばらく滞在するから、服とか靴とか見繕いたいんだ。そんなに時間はかからないさ」

 あえて共通語で押し通す。意図は伝わったらしく、兵士がうなずいた。

『お気を付けて』

 ホテルから出る際に横目で確認すると、早速カウンターから電話をかける兵士の姿が確認できた。どこかで待機している他の兵士へ連絡しているに違いない。土地勘がなく、滑りやすい氷雪で固められている中で尾行を撒くのはさぞ骨が折れることだろう。まずは服装を変え、滑り止めのついた靴を買うところからだ。

「尾行の撒き方なんて、習いはしても実践したくはなかったがな」

 滑って転ぶ無様は晒さないよう、雪のベルスカヤに慎重な一歩を踏み出した。


6


 分厚い軍用のコート、耳当ての付いた毛皮の帽子、口元まで覆うマフラー。身分を隠すための格好は、街の視察へ向かう条件としてルルスカヤ大佐に提示されたものだ。それらを身につけ、二名の護衛を従えて運転手付きの車に乗りこむ。地図を読む必要も周囲を監視する必要もなく、ただ後部座席に収まって車外の景色を眺めるフェルの脳裏に浮かぶのは、かつての戦争の記憶だった。

 戦況が不利に傾く度に出される、元老院の要請。それを受けて魔法を行使する場所は、シャイアとの国境から始まって徐々にルーシャ内陸部へと移動していった。その場にいなければ魔法を行使できないこと、連発が利かないことは敵方の行った人命軽視の瀬踏みによってすでに見抜かれており、一時的に戦線を押し返しては他の戦線で押しこまれることを繰り返していたのだ。

 もっとやりようはあった、と今になって思う。目先の脅威に怯え、安易な陽動で踊らされる元老院の要請になど従わず、軍と連携してここぞという場面で的確に魔法を使えていたら、敵軍に甚大な損害を与えて、撤退を強いることもできた。時間稼ぎに徹して冬まで長引かせれば、地の利を得ての反撃も可能だったはずだ。

 そういう意味では、ルーシャの現状は自分に責任がある。フェルがルーシャを離れて一年あまり。空から眺めた母国の大地は今なお魔力が希薄なままで、生命の気配が感じられない死んだ土地に成り果てていた。これでは作物の収穫も期待できず、冬越しの準備もままならなかったに違いない。その先に待つのは、餓死か、凍死か。戦争が残した傷跡は、今なおこの地に生きる民を苦しめている。

 凍りついた路面を、車がゆっくりと進んでいく。この街で一番の大通りだが開いている店は数えるほどで、静まりかえった街路で目につくのは市民よりも兵士の姿だ。しかも、よく観察すれば統制の取れた正規軍のそれではなく、煙草をふかし酒瓶を傾ける民兵まがいのごろつき集団であることが見て取れる。護衛の兵たちの様子を窺うと、そうした民兵の様子を苦々しげな目で見つめていた。

『彼らも正統ルーシャ軍なのですか?』

 フェルの問いかけに、護衛の一人がわずかに顔をしかめてうなずく。

『はっ、その通りです』

『彼らは民兵ですね? 市街の警備は彼らに任せているのですか?』

 問いかけに対して、隠しきれない侮蔑を滲ませた口調で護衛が答える。

『あれらに任せているのは重要度の低い、単純な哨戒任務です。正規軍はシャイアの反撃に備え、重要施設の警備に重点を置いて配置されております』

 一見、もっともらしい説明だった。しかしその論には穴がある。

『では、飛行場は重要度の低い施設という認識なのですね?』

『は? いえ、決してそのような……』

『わたしがベルネスカの飛行場に降り立ったとき、正規軍は影も形もありませんでした。出迎えに現れたのはこの車を運転するスルコフ兵長が率いるわずかな民兵のみ。貴方の説明が真実なら、飛行場を警備する正規軍の兵は任務を放棄していたということになりますが、その認識で間違いありませんね?』

 護衛が言葉に詰まり、車内の空気が凍りつく。数秒の沈黙を置いて、十分な効果を上げたと確信できてから、口調を和らげて続ける。

『誤解しないで欲しいのですが、貴方を責める意図はないのです。わたしはただ祖国の未来を憂う者の一人として、真実を知りたいだけです。どうか、この街の現状を包み隠さず教えていただけませんか。そうでなくては、視察の意味もありません』

『真実、と言われましても……』

『率直に言いましょう。ルーシャに戻ったばかりのわたしが今もっとも欲しているもの、それはあの敗戦から今日まで耐え抜いてきた貴方たちの肉声なのです。敗戦を経た今、貴方たちが何を想い、考え、望んでいるのか。それらをわたしに聴かせて欲しいのです。貴方たちだけではありません。できるだけ多くの人と会って、話をしたい。そうして、貴方たちと一緒にこの国の行く先を考えたいのです』

 フェルが言葉を切ると、隣に座って受け答えをしていた護衛が返答に迷い、助けを求めるようにもう一人の護衛に視線を送った。助手席に座るもう一人は、それを受けてかすかに首を振ってみせる。言うな、黙っていろ、そんなニュアンスだ。

『おそらくルルスカヤ大佐からわたしの扱いについて指示を受けているものと推察します。見せても当たり障りのない場所だけを回るように、といったところでしょうか。スルコフ兵長、命令です。次の交差点で右折してください』

『は……はいっ』

『フェルリーヤ様、いけません!』

 スルコフが弾かれたようにハンドルを切り、車が大きく揺れる。制止の声を上げた助手席の護衛が苦々しげにスルコフを睨むが、彼は気付いていない様子だ。

『わたしに脅されて、仕方なく従ったと証言してもらって構いません。わたしにその力があることを、ルルスカヤ大佐は知っているはずです』

『ですが……そこまでして、何をご覧になりたいのですか?』

『ありのままの全てを。この国の現状を見定めなければ、正統ルーシャ軍に力を貸すという決断はできないからです。お分かりですか? 貴方の態度、そして返答によっては、すぐさまこの地を離れることも考えねばなりません。もしそのような事態に陥れば、その原因を作った貴方も困るのではありませんか?』

 護衛である彼の任務には、フェルの護衛だけではなく、正統ルーシャ軍にとって都合の悪い情報を隠して誤魔化すことも含まれているはずだった。そんな彼がどうすれば心を開いてくれるのか、フェルには分からない。ユベールがいてくれればという弱気を押さえつけ、彼ならどう交渉するかをイメージして言葉を紡ぐ。

『あくまで任務としてわたしの護衛を務める貴方を困らせてしまったかも知れませんね。実際のところ、祖国を敗北に導いたわたしの言葉を信用して欲しいというのは無理なお願いなのかも知れません。ですが、こんなわたしにもまだやれることがあります。貴方たちと共に、ルーシャが進むべき道を見出したいのです』

 車内は沈黙に包まれ、車は道なりに進んでいく。このまま進めば駅に到着するのは事前に確認済みだ。護衛の一人、後部座席でフェルの隣に座っている男の視線から察するに、助手席でスルコフに行き先を指示していた護衛が上位者のはずだ。

『……我々が危険だと判断した場合、避難の指示に従っていただきます』

 返ってきたのは実質的な譲歩だった。内心で快哉を叫ぶ。

『分かりました。まずは駅を視察し、その後は市民の暮らしが分かる場所へ――市場や酒場がいいでしょう――向かってください。スルコフ兵長、頼めますね?』

『はっ!』

 ほどなくして、駅が見えてくる。しかしどうも様子がおかしい。違和感の原因は、停車している列車にあった。長大な車列がホームからはみ出しているのだ。それが貨物列車であれば、別におかしなところはない。しかし天蓋のない貨車の上部でうごめいているもの、そのひとつがこちらを見るのをフェルは視認した。

『あれは……人ですか……?』

 近付くに連れてはっきり見えてくる。一両だけではない。十数両もの貨車、その全てに人が乗っているのだ。それも一人や二人ではない。寒さに耐えるためかフードや毛布をかぶった人間が大勢いて、車内は立錐の余地もない様子だ。

『どういうことですか? 彼らは?』

 護衛の気まずそうな表情から察するに、彼らは事情を知っているようだ。フェルに見せたくなかったもの、少なくともその内のひとつがこれに違いない。駅のロータリーでスルコフ兵長と車を待たせ、駅舎へと足を踏み入れる。

『これは……』

 駅舎は人でごった返していた。様々な年齢、性別の人々は一様に疲れ切った表情を浮かべ、恐怖と諦観に打ちのめされたような緩慢な動きで兵士たちの指示に従っている。彼らの服装はまちまちで、使い古された毛布やコートに身を包んでいる者や、明らかに場違いな薄着の者もいたが、一様に薄汚れていた。

『彼らはカザンスクからの避難民です』

 護衛が短く告げる。カザンスクはモルウルス自治区に隣接する要所で、ユベールの情報ではシャイア軍が駐屯しているという話だった。そこから避難民が流れてきているのは、カザンスクが正統ルーシャ軍の支配下に入ったことを意味する。

『では、ウルリッカはカザンスクで戦っていたのですね』

『は……その通りです』

 フェルが確認すると、観念したように護衛が答える。

『ウルリッカは戻っているのですか』

『それは……我々では何とも』

 視線を巡らせると、いつの間にか注目を浴びていることに気付く。避難民たちはフェルを指差し、目配せし、互いにささやきを交わしている。

『おい、あの白い髪……』

『本物の魔女、なのか?』

『あれが魔女……どうしてここに?』

 不穏な空気だった。護衛の二人がとっさにフェルをかばう素振りを見せたが、それがよくなかった。ざわめきが広がり、誰かが悲鳴にも似た声で魔女がいるぞと叫ぶのが聞こえた。兵士たちが制止の声を上げるも、興奮した避難民の耳には入らない。

『魔女め! 貴様のせいで俺たちがどんな思いをしたか!』

『返して! 夫と息子を返してよ!』

『貴様が逃げたせいでこんなことになったんだ!』

『さっさと死んでればよかったんだ!』

『そうだ! ここで殺してやる!』

『銃をよこせ!』

 フェルを冬枯れの魔女と見た避難民の一人が罵声を上げると疑念は確信へと変わり、、それに追随する声が一気に膨れ上がった。興奮してフェルに詰め寄ろうとした女が兵士に腕を掴まれ、床に引き倒されて甲高い悲鳴を上げる。

『フェルリーヤ様、こちらへ!』

 護衛に手を引かれ、駅舎の外へと向かう。混乱が収まる気配はなく、フェルに向かっていくつもの手が伸ばされる。その間を抜けようとして、薄汚れた手に服をつかまれ、引っ張られた。護衛は躊躇なく銃を抜き、フェルの服を掴んだ避難民の顔面をストックで殴りつける。痩せ細った男は鼻血を吹き出し、顔を押さえてその場にうずくまった。護衛は男を蹴りつけ、フェルが逃げるための道を開く。

『フェルリーヤ様、お早く!』

『……っ』

 護衛が振るった暴力を制止しかけて、唇を噛んだ。彼らの振るう暴力は、フェルのために振るわれたものだ。この場にフェルがいなければ混乱が起きることもなく、暴力が振るわれることもなかった。怒号が飛び交う修羅場と化したこの場で自分にできるのは、一刻も早くこの場を離れることだけだった。


7


 フェルと別行動をとった翌朝、彼女の部屋を訪れようとしたユベールは、昨日までなかった人影がドアの横にあることに気付いた。小銃を携える兵士の姿だ。警護の兵は重要人物がその部屋にいると誇示しているようなものなので、昨日まではホテルの入り口に配置するに留めていたはずだが、増員されたのだろうか。

『ご苦労さまです。何かあったのでしょうか?』

『ルルスカヤ大佐の命令であります』

 丁寧に尋ねてみるも、直立不動を保って素っ気ない返答を返してくるだけだ。

『彼女を訪ねてもいいですか?』

『その前にボディチェックを受けていただきます。失礼』

 有無を言わさぬ態度だった。身体に触られながら、今さらだろうという思いが湧き上がってきたものの、口には出さずにおく。ユーシアの王族であることを明かせない以上、彼らにとってユベールはフェルの専属パイロットに過ぎないのだ。

『確認できました。どうぞ』

「ユベールだ。入るぞ」

 ノックすると、やや遅れて返答があった。

「……どうぞ」

 ドアを開けてくれた彼女の様子に、どこか違和感があった。

「おはよう、フェル……どうした、寝てないのか?」

 普段から寝起きの悪い彼女だが、今朝はいつにも増して精彩を欠く様子だ。客室のソファに腰を落ち着けてからユベールが切り出すと、深いため息が返ってくる。

「考え事をしていた」

「状況がどう動くか分からん。休息は取れるときに取っておけよ。それはともかく、悩み事なら相談に乗るぞ。話せることなら話してくれ、相棒」

「分かった。ラウンジで朝食にしよう」

 部屋では盗聴の危険がある。場所を移そうと席を立ったところで、誰かがドアをノックする音が聞こえた。思わずフェルの顔を見たが、彼女も首を振る。

『……どうぞ。開いています』

 フェルが声をかけると、ゆっくりとドアが開く。そこに立っていたのは、厳しい表情をした女性の軍人だった。フェルの知り合いかと視線を向けると、彼女は目を見開いて言葉を失っている。それを見て、その人物の正体に思い至った。

『ウルリッカ!』

『フェルリーヤ様……』

 ウルリッカ・グレンスフォーク将軍。フェルがルーシャ皇帝として即位すると同時に親衛隊長に任じられ、シャイアとの戦争で全面降伏する直前にフェルを逃がした人物だ。現在はレジスタンスと旧軍の将兵を糾合した正統ルーシャ軍の指導者として、シャイアの支配に抵抗している。現在のルーシャで一番の実力者だ。

『ウルリッカ……会えてよかった。本当によかった』

『こちらこそ、お目にかかれて光栄です』

 感極まって涙を浮かべているフェルに対して、ウルリッカの態度はどこかよそよそしく、冷ややかでさえあった。フェルもすぐそれに気付く。

『……朝食を摂りにいくところだったの。よかったら一緒にどうかしら』

『はい。では、ご一緒させていただきます』

『あまり出歩かせてもらえないので、いいお店を知らないのだけど、ウルリッカはどうかしら。久しぶりに会ったのだもの。ゆっくりお話がしたいわ』

『承知しました。ご案内します』

 三人で連れ立って部屋を出ると、廊下に鋭い視線を走らせる護衛兵は三人に増えていた。新たに増えた二人はウルリッカの警護を担当する兵だろう。彼女が短く命令すると、一人が先行して警戒、もう一人が駐車場まで一行を先導し始める。

 店に向かう間、誰も口を利かなかった。目的地のカフェに着くと、ウルリッカは運転手と護衛兵に外で待つよう命令し、フェルとユベールを連れて店に入る。カフェのマスターはウルリッカの顔を見てうなずき、ウルリッカは目礼でそれに応えて店の奥にある部屋へと進んでいく。密談に向いた、防音性の高い個室だった。

 改めて向き直ったウルリッカが、大きくため息をつく。顔を上げた彼女の態度は、先ほどまでとは打って変わって親愛に満ちたそれだった。

『お帰りなさい、フェル。貴方が生きていてくれて、本当によかった……ユベールさんも、今日まで彼女を守ってくれたこと、感謝の言葉もありません』

 ホテルで会った際の冷ややかな態度は、部下の前で対面を保つためだったのだろう。柔和な笑顔は、彼女が信頼に足る人物であることを感じさせた。

『ウルリッカ……!』

 先ほどはウルリッカに合わせて平静を取り繕っていたフェルが、その必要がなくなったと知ってウルリッカに駆け寄る。軍用の分厚いコートに顔を押しつけ、声を殺して泣くフェルの頭を、彼女は慈愛に満ちた視線で優しく撫でていた。



 フェルが落ち着いてから、改めて食卓を挟んで向かい合う。マスターが運んできた朝食を口に運びながら、まずはルーシャを離れてからの旅をかいつまんで聞かせる。ウルリッカも共通語の聞き取りは問題ないとのことなので、お互いに話しやすい言葉で話すことにした。普段は人の話に口を挟まないフェルが、はしゃいだ様子でユベールの語る内容に補足を加えていくのが微笑ましかった。

「ごく簡単にではあるが、以上がここに至るまでの経緯だ。彼女の身を守るための判断とはいえ、仮にも元皇帝陛下を零細航空会社の航法士に仕立て上げて、あまつさえ危険な仕事に従事させてしまったお叱りは謹んで受けよう」

『いいえ。敗戦後の国内の混乱を鑑みれば、適切なご判断でした。ユベール殿下におかれましては、格別のご高配を賜りましたこと改めてお礼を申し上げます』

 さらりと口にされて、一瞬だけ言葉に詰まる。

「……知ってるのか。不信と猜疑に満ちた『眠れる獅子』の連中と、よくそこまでの信頼関係を築き上げたものだ。まあ、それはいい。ともかく、格式張った物言いはやめてくれ。俺は飛行機乗りのユベールとしてここにいるんだからな」

 思い返せば、いくら専属操縦士とはいえフェルの泊まるスイートに次ぐ部屋を与えられ、彼女の部屋にフリーパスという扱いは疑って然るべきだった。それも『眠れる獅子』からユベールの出自を聞いたウルリッカの指示があったなら納得できる。

『では、そのように。ええ、実際に会うまでは半信半疑でしたが、貴方が本物のユベール殿下である――少なくともそのように自覚している――ことは理解しました。ユーシア王国の再建も、我々のできる範囲で協力するとお約束しましょう』

 ウルリッカが表情も変えずに挑発的な言葉を口にする。ルーシャ語に特有の言い回しかと思って横に座るフェルの顔を見ると、彼女も何か言いたげだった。ユベールが偽物である可能性を示唆する言葉は、どうやら聞き間違いではないらしい。

「まあ、本物だって言っても証拠はない。とりあえず冬枯れの魔女の秘密を知る者として裁判なしで幽閉や処刑、なんて目に遭わないだけでもよしとするさ」

 ユベールが意趣返しを口にすると、無言の微笑みが返ってくる。フェルと過ごす時間が長くなってすっかり失念していたが、冬枯れの魔女に関する情報は国家機密であり、外国人であるユベールが知っていていいものではない。口封じのために消されていた可能性に思い至り、今さらながら背筋が凍る思いだった。

『誤解して欲しくないのですが、シャイアの横暴に立ち向かう同盟者として王国再建への協力を惜しまないというのは本心ですし、ここに至ってはユベールさんに王族の血が流れているかどうかは大した問題ではないと私は考えています。重要なのは、貴方が今日までフェルと共に過ごし、彼女の信頼を得ているという事実です』

 そこで言葉を切ったウルリッカが、不意に組織の長としての冷徹な表情を見せる。

『その上でお二人に伺いたいことがあります。なぜ戻ってきたのですか?』

 突き放すような語調に、フェルが不満げな声を上げる。

『ウルリッカ……そんな言い方はないでしょう?』

『報告を聞きました。フェル、貴方はすでにカザンスクからの避難民を見ていますね? 彼らはシャイア軍の魔女狩りでルーシャ各地から集められ、強制収容所に囚われていた人々です。シャイア軍による囚人の扱いは酸鼻を極め、多くの同胞が殺されました。拷問や処刑はもちろん、過酷な強制労働と劣悪な環境による事故死、病死、餓死、凍死……命を落とした者は数えきれません。加えて、貴方が目にしたのはその中でも健康を保ち、長距離の移動に耐えられると判断された者だけです』

『そんな……あの人たちが……? だって、あの中には男性も混じって……』

 切れ切れに言葉を紡ぐフェルに、ウルリッカが首を振ってみせる。

『魔女狩りは大義名分に過ぎません。実際にはシャイア軍に反抗したと見なされた無辜の市民が連れ去られ、言うに堪えない凄惨な扱いを受けました。また冬枯れの魔女という呼称が欺瞞である可能性を考慮して、男性も魔女狩りの対象となりました。軍の末端では魔女狩りと称して略奪や強姦も日常的に行われていました』

 予想はしていたが、衝撃的な話だった。強引な魔女狩りに加えて、国際法を無視した収容所での拷問や処刑まで行われていたのは、裏を返せば冬枯れの魔女がシャイアに与えた打撃がどれだけ大きかったかを物語っている。

『そのような収容所が、他にもあるのですか?』

『はい。二日前のカザンスク奪還の際に得た捕虜から、シャイア軍が立てこもる首都メルフラード近郊、そして国境のブリエスト要塞に大規模な強制収容所が建設されたとの情報を得ています。他にも大小の収容所がルーシャ各地にあるものかと』

『そのような事態を許してはおけません。一刻も早く解放しましょう!』

 勢いこんで言うフェルをなだめるように、ウルリッカが首を振る。

『カザンスク解放作戦でこちらにも損害が出ました。収容所から解放した避難民への対処もあり、すぐに動ける状態ではありません。平行して首都メルフラード攻略の準備を進めてはいますが、早くとも一週間は時間を要するでしょう』

『そんなに……』

『加えて、フェル……貴方がメルフラード攻略に参加する許可は与えられません。理由は分かりますね? 私たちは、同じ轍を踏むわけにはいかないのです』

 冬枯れの魔女の魔法は、圧倒的な力の行使と引き換えに魔力の枯渇した土地が不毛の地と化す諸刃の剣だ。先の戦争での傷跡も癒えないルーシャにおいて、再び同じように力を振るったらどうなるかは想像に難くない。仮にシャイアとの戦争に勝っても、後に残されるのが人の住めない死の土地では意味がないのだ。

『ウルリッカ、わたしは……』

「フェル!」

 彼女が何を言おうとしているのかを察して、制止する。ユベールが首を振るのを見たフェルは、唇を噛んで視線を落とす。辛いだろうが、ここは我慢しなければならない。ウルリッカは二人のやりとりを不審そうに眺めた後に続ける。

『……いずれにせよ、メルフラード攻略は我々が独力で完遂します。扱いきれない力に頼って自滅した我々には、その義務があるのです。さて、先ほどの答えを聞いていませんでしたね。お二人は、なぜルーシャに戻られたのですか?』

 結局はその問いに行き着く。正統ルーシャ軍を率いるウルリッカが冬枯れの魔女に頼らずに祖国を奪還すると決めた以上、フェルとユベールにできることは多くない。戦闘機や爆撃機ならともかく、武装のない雪上機では偵察飛行が精々だ。

『わたしは……』

 気持ちを落ち着けるためか、フェルは深呼吸をしてから話し始める。

『戦禍により荒廃し、敵国の支配下に置かれたルーシャを離れて、ユベールと一緒にいくつかの国を巡ってきました。一見して平和そうな国であっても、その歴史には征服と服従の痛ましい記録があることも少なくありませんでした。その上で、かつては敵と味方に分かれていた人々が、痛みを抱えながらもそれに折り合いを付け、ひとつの国家を構成する国民として統合された様子も目にしました』

 旅をしながら、彼女はずっと考えていたのだろう。ウルリッカをまっすぐに見つめる彼女の横顔はとても凜々しく、人として美しかった。

『戦争は愚かで悲しいことだけれど、勝敗が決したのならお互いに歩み寄り、折り合いを付けていく道もあるのだと、わたしは知りました。しかし、ルーシャとシャイアはそうならなかった。わたしの……冬枯れの魔女の存在が、それを不可能にしてしまった。凄惨な魔女狩りの記憶は、両国の禍根となって残り続けるでしょう』

 たった一人で軍隊を壊滅に追いこめる冬枯れの魔女は、敵国にとって悪夢に他ならない。次の瞬間には雪崩や地割れに呑みこまれ、理不尽な死を迎えるかも知れないという恐怖の中で戦い続けたシャイア将兵の心情は敵ながら察するに余りある。

 終戦後、冬枯れの魔女が生死不明のまま行方不明となった事実が彼らを失望させたことは想像に難くない。苛烈な魔女狩りは、多くの仲間を奪われた怨恨に加え、勝ってなお消えない死の恐怖に怯える気持ちの裏返しという一面もあっただろう。

 だが、どんな事情があったにしろシャイア将兵のルーシャ国民に対する悪行の数々が免罪されるわけではない。略奪、強姦、虐待、拷問、そして裁判抜きでの処刑。いったい何人の人間が犠牲になったのか。どこにも救いのない話だった。

 自責するフェルの言葉に、聞いていられないとばかりにウルリッカが言う。

『フェル、それは違います。貴方はルーシャという国家の一員として戦ったという意味で、他の兵と変わりありません。貴方個人に責はなく、またルーシャの戦争責任とシャイア兵の下劣な犯罪行為は切り分けて考えるべき問題です』

 抗弁するウルリッカに、フェルは静かにうなずいて見せる。

『それも一面の真実です。ウルリッカ、優しい貴方がわたしのことを想ってそう言ってくれているのだということは分かります。ですが、現実問題として冬枯れの魔女とシャイア帝国は滅ぼすか滅ぼされるかの関係にあります。わたしの死を確信できない限り、いえ、わたしの力を受け継ぐ者もいないと確信できない限り、シャイアはルーシャの民を迫害し続けるでしょう。わたしの推測は的外れなものですか?』

 唇を噛んだウルリッカが、渋々といった様子でそれを認める。

『ええ、その可能性は非常に高いと言わざるを得ません。だからこそ、私は正統ルーシャ軍を組織しました。フェル一人を頼みにして堕落した国家からは生まれ変わったのだと示すために。祖国を私たち自身の手に取り戻すために。それが貴方に頼り切って破滅を招いた私たちにできる、唯一の責任の取り方だと考えたからです』

 その言葉を聞いて確信を得られた。ウルリッカは冬枯れの魔女に頼らない国家運営を行おうと本心から考えている。フェルに戻ってきた理由を尋ねたのも、ユベールと一緒に自由に生きてくれることを彼女が望んでいたからだ。

「ウルリッカ、実際的な話をしよう」

 あえて共通語に切り替えてフェルが言う。

「正統ルーシャ軍に、単独でシャイア軍を国外退去させる戦力があるのか?」

『それは……』

「ないだろうな。そんな戦力があれば、そもそも戦争に負けていない。作戦が上手くいって一時的に退却させられたとしても、シャイアが余所の戦争を終わらせて浮いた戦力を回してきたらそれまでだ。正面衝突を避けて泥沼のゲリラ戦を展開するにしても、一般の国民はシャイアの圧政に苦しみ続けることになるだろう」

 ユベールが口を挟むとウルリッカが抗議するような目を向けてくるが、反論はないようだった。フェルも一度うなずき、ルーシャ語に戻して続ける。

『そもそも、この状況そのものがわたしの存在を前提に成り立っています。冬枯れの魔女が先の戦争で死亡、あるいは戦争犯罪者としてシャイアに引き渡されていれば、当然のことながら魔女狩りも起きませんでした。その場合、シャイアは他国でそうしたように融和的な政策を取り、シャイアへの同化を進めていたはずです』

 彼女が念頭に置いているのはクルバ島だろう。ユベールにとってはユーシア王国のことも想起させられるフェルの言葉だった。侵略によって拡大を続けてきたシャイア帝国には、版図に収めた国家を自国に同化するためのノウハウがある。

『国内が反シャイアと親シャイアで割れていれば、正統ルーシャ軍がこれほど急速に力をつけることは適わず、ベルネスカもカザンスクも占領されたままだったはず。良くも悪くも、ルーシャの現状は冬枯れの魔女を抜きにしては語れません』

『だからこそ、ここでまたフェルに頼ってしまえば、ルーシャは二度と自らの足で立てなくなってしまう! それでは意味がないのです!』

 ウルリッカの懸念はもっともだった。冬枯れの魔女の力で一時的にシャイアを排除しても、ルーシャ国民は魔女への依存を深めるだけで精神的な自立には至らない。その上、ルーシャの大地に残されたわずかな魔力まで枯渇してしまえば、再侵略を防ぐための国力の回復もままならない。国内の混乱が収まらなければ、待っているのは再侵略だ。そうなったら、ルーシャは二度と立ち上がれなくなるだろう。

『誤解があるといけないので言っておきましょう』

 対立も辞さず、必死に言い募るウルリッカにフェルが言う。

『シャイア軍が退去した後、わたしはルーシャに留まる気はありません』

『では、どうなさるのですか?』

 ウルリッカに問われ、ちらりとユベールを見るフェル。その視線の意味を問う暇もなく、彼女は誤解のしようもない共通語で次のように言い放った。

「ユベールを愛している。彼と結婚し、子供を産みたい。相棒として、航法士として、彼の進むべき道を示し、どこまでも続く大空に在ることがわたしの望みだ」

「なっ……えっ……」

 唐突な愛の告白に、動揺を隠しきれなかった。これまでも似たようなことを言ったり言われたりしたような記憶もあるが、これほどストレートではなかった。ウルリッカから向けられる視線が、軽蔑をにじませたそれであったことも動揺を加速する。

「ユベール。返事は後でも構わない。考えておいて……」

「ああ、くそっ! 分かった、降参だよ!」

 フェルの言葉を途中で遮って叫ぶ。年下の、しかも女性からプロポーズされて返事を保留するなど、格好がつかないにも程があるというものだった。

「では、承諾してくれるのか?」

「頼むから、ちゃんと言わせてくれよ」

 大きく息を吸いこんで、口にするべき内容を頭の中でまとめる。席を立ち、床に膝をついて頭を垂れた。慣れないルーシャ語を噛まないよう、慎重に言葉にする。

『私、ユベール・ラ=トゥールはフェルリーヤ・ヴェールニェーバを愛しています。貴方と結婚し、その生涯における苦難も喜びも分かち合いたい。我が愛のありかよ、願わくばこの手を取って口づけを与えて欲しい』

 たどたどしいルーシャ語の告白に、ふっと笑うような気配が伝わってくる。必死の努力を笑うとは酷いなと抗議の視線を向けようとしたところで、手が取られる。柔らかで細い、少女の指先。そして、手の甲に感じる温かな吐息と感触。

『わたしも愛していますよ、ユベール』



『さて……』

 微妙に気恥ずかしい雰囲気が落ち着くのを待って、ウルリッカが切り出す。

『具体的な協力についての話をしたいのですが』

「ユベール、いいだろうか?」

 フェルが言わんとすることはすぐに分かった。彼女のスタンスが定まり、冬枯れの魔女でもルーシャ皇帝でもなく、トゥール・ヴェルヌ航空会社の航法士としてシャイアと戦うと決めたのなら、現時点でルーシャ国内においてもっとも実力のある組織である正統ルーシャ軍に対して、提案と契約を持ちかけることができる。

「了解だ。俺たちトゥール・ヴェルヌ航空会社が請け負える仕事の内容について説明しよう。ああ、分かっていると思うが、これから話す内容は他言無用で頼む」

『もちろんです。他ならぬフェルのお相手ですから』

 真面目な表情を崩したウルリッカがにやりと笑う。

「茶化すのはやめてくれよ……」

「ユベールはこう見えてシャイなんだ。からかわないでやってくれ」

 頭を抱えるユベールを見て、フェルがそう言い添えた。


8


 飛行場には雪がちらついていた。水分をほとんど含まない粉雪は滑走路に積もることなく、風に吹き散らされていく。海岸から数百キロ離れた内陸の都市であるベルネスカでは、ユベールの故郷のように人の背丈を超すような積雪は見られない。

『では、フェル。しばしのお別れです』

『ええ、ウルリッカ。貴方もどうか無事で』

 少し離れたところで、二人が抱擁を交わしている。背後に控えるギルモットの整備は万全で、長距離飛行に備えた増槽も吊してある。ユベールが出発前の最終チェックを行っていると、別れの挨拶を済ませたフェルが戻ってくる。

「もういいのか?」

「滞在は短かったが、ここで見るべきものは見た。ウルリッカにも会うことができた。今度は、わたしたちにできることをしよう」

「報酬も先払いでもらったしな」

 ルーシャの貨幣は暴落しているので、高価で軽くてかさばらない現物ということでウルリッカから手渡されたのは、希少なブルーダイヤの首飾りだった。

 敗戦国の常で、戦後ルーシャ国内の美術品や宝石の多くがシャイアに流出している。正規の手続きを踏んだものもあれば、盗難や略奪によるものも少なくなかったそうだ。このブルーダイヤの首飾りは、所蔵する美術館の学芸員がシャイアの略奪を逃れるために持ち出し、つい最近まで隠されていたのだという。

 この宝石は、これから遂行する任務の重要さを踏まえてもなお釣り合わないほど高価な代物だ。それがフェルに渡されたのは、皇帝位を放棄する彼女への手切れ金という意味合いもあると考えられる。

「行こう、ユベール」

 フェルに促されて我に返る。数日前に大胆な告白をしてきた彼女だが、その後は特に接し方を変えるわけでもなく、淡泊なものだった。さっさとギルモットに乗りこんでしまう彼女に続こうとして、ふとウルリッカの視線を感じて振り返る。

 彼女はこれから首都奪還作戦の指揮を執る身だ。すでに先発隊が進行し、後続部隊も準備を整える中、時間を捻出するのは容易なことではなかっただろう。それでもこうして見送りに来たのは、フェルの帯びた任務が作戦の鍵を握っているのに加えて、お互いに生きた姿を見る最後の機会かも知れないという予感があるからだろう。

 仮に戦争を生き延びたとしても、退位した元皇帝にして冬枯れの魔女であるフェルと、新たなルーシャ政府の首班となるだろうウルリッカの面会はそれ自体が政治的な意味を帯びてしまう。気軽に会って旧交を温めるというわけにはいかないのだ。

 視線が合ったのは時間にして一秒にも満たなかっただろう。どちらからともなく視線を切って、そのまま振り返ることなく機体に乗りこむ。整備を受けたエンジンは駄々をこねることもなく始動し、全ての計器が正常な数値を指しているのを確認し終えるころには離陸に移れる程度に温まってきていた。

「長時間の飛行になる。気楽に行こうぜ、相棒」

「了解だ」

 目的地の天候を考えて、ギルモットはスキーからタイヤへ換装してある。滑走路へタキシングして、ブレーキ。ベルネスカの滑走路は決して長くないので、徐々にスロットルを開いて、十分に回転数が上がったところでブレーキを離す。風はあつらえ向きの向かい風で、加速した機体はふわりと浮き上がるように離陸する。

「旋回して東南東へ進路を取れ」

「了解」

 その方角にあるのは首都メルフラード、そしてかつてのユーシア王国領だ。そこで『眠れる獅子』の協力を得て給油を済ませてから、季節風に乗って北央海を横断、アルメア大陸を目指す。目的はペトレールの後継となる新機体の受領だが、その前に行きがけの駄賃で正統ルーシャ軍からの依頼をこなす計画だ。

 首都メルフラード攻略の端緒となる第一撃。それがウルリッカの依頼だった。



 それから一週間後、正統ルーシャ軍の電撃的な侵攻による首都奪還の第一報が各国の新聞で伝えられた。占領下のメルフラードにおいてシャイア軍の監視を受けていた各国の記者によるスクープであり、シャイアの国営メディアや各国に駐在する外交官がその否定に躍起になったことが、かえってその情報の信憑性を高めた。

 そして、戦時にありがちな与太話としてタブロイド紙の類は次のように報じた。

 冬枯れの魔女の再来、と。

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