第5話 魔女は去りて冬ぞ来たる
1
土に触れるのが好きな子だった。
かつてのルーシャ帝国領、今はモルウルス自治区と名を変えた土地である。夏の終わりを迎え、高原には涼やかな秋風が吹き抜けていく。ただ二人と二頭の馬、流れゆく雲にそよぐ草木が視界の果てまで続く大地にしゃがみこみ、細指で土に触れる少女の名はフェルリーヤ・ヴェールニェーバ。帝国の要たる『魔女』メルリーヤ・ヴェールニェーバの娘と目される彼女が、訪れる先々で必ず大地へ手を当てていることに気付いたのは旅を始めてから一か月ほど経ったころだろうか。
『土いじりはおもしろいか?』
ウルリッカ・グレンスフォークの問いに、顔を上げたフェルリーヤは首をかしげる。青紫のスミレを思わせる瞳は十歳という年齢に似つかわしくない落ち着いた光を宿し、白雪の髪は旅塵にも侵されることのない輝きを保ち続けている。ウルリッカと同じ刺繍入りのブラウスにゆったりしたズボンを幅広の革ベルトで締める、騎行に適した旅装束でありながら、どことなく高貴さを感じさせる佇まいだった。
「共通語で、土いじりが好きなのですか、と尋ねました」
練習中の共通語から、母国語であるルーシャ語に切り替えて問い直すと、フェルリーヤは理解したようにうなずいて返す。
『いや、そうではない。ただ……』
共通語での表現に困ったのか、言葉を詰まらせてルーシャ語に切り替える。
「……お母さまはよく、こうして土に触れていらっしゃいました」
「魔女……いえ、メルリーヤ様が、ですか?」
「ええ」
魔女メルリーヤ・ヴェールニェーバの人柄について、ウルリッカはほとんど知らない。一介の軍人に過ぎないウルリッカでは、ルーシャ帝国の女王陛下である彼女の姿を肖像画や新聞の紙面で見かけることはあっても、生身の彼女と会い、言葉を交わすなど想像もつかないことだった。そう、つい一ヶ月ほど前までは。
メルリーヤとの面会の日からさかのぼること、さらに半月。ルーシャ帝国陸軍の駐在武官としてシャイア帝国に赴任していたウルリッカは、本国からの召還命令を受けて帰国を果たしていた。命令書には召還の理由は記されておらず、陸軍省で直属の上司に報告を済ませた彼女へ下された命令は、宮殿へ出向いて女王陛下メルリーヤ・ヴェールニェーバと面会せよという不可解なものだった。
「首都に足を踏み入れても憲兵どもに身柄を拘束されていない以上、いきなり処刑ということもあるまい。今日ばかりは伝統あるグレンスフォーク家の蒼き血を受けて生まれた我が身の幸運に感謝せねばなるまいな」
人気のない宮殿の歩廊を進むウルリッカが皮肉気につぶやく。ウルリッカ・グレンスフォークに与えられた陸軍中佐の階級、前線に比べれば死の危険は少ない駐在武官の役職が、彼女の生家であるグレンスフォーク家に対する軍上層部の配慮の結果であることは事情に通じた者なら誰でも知っている。
女王親衛隊に案内され、応接室に通される。親衛隊はウルリッカと同じ女性軍人のみで構成された部隊で、他国に比べて女性軍人の比率が高いルーシャ帝国軍の中でも容姿に優れた者を選抜して編成されている。軍の広告塔として華やかな任務を振られるため親衛隊になりたがる者は多いが、美しく着飾って腹を探りあう社交界に嫌気が差して軍人になったウルリッカは転属の誘いを一度ならず断っている。結果的には駐在武官としてそれに準じた任務をこなす羽目になったが、それでも見目好いお人形としての役割しか求められない親衛隊よりはマシだと彼女は考えていた。
「貴方がウルリッカ・グレンスフォークですか?」
「え?」
応接室には自分しかいないと思っていたウルリッカは、突然かけられた声に思わずソファから立ち上がって周囲を見回してしまう。宮殿には似つかわしくない幼い声音の持ち主は、最初からこの部屋にいたのだろうか。視界に収めてもなお存在の希薄さを感じさせる、淡雪のように白い少女だった。
「君は……いや、失礼。誰もいないと思っていたから、いきなり声をかけられて驚いてしまったよ。そう、私の名はウルリッカ・グレンスフォークだ。君とはどこかで会ったことがあったかな? よかったら名前を教えてもらえないかな」
「……フェルリーヤ」
さらさらと光に透ける雪白の髪、スミレの青紫を映し取ったような瞳。白を基調とした装いに負けぬほど白い肌と端正な顔立ちは少女に特有の壊れやすさを感じさせ、現実味に欠けた美しさを彼女に与えていた。年の頃は十歳前後だろうか。大人を相手にしても物怖じしない、淡々とした様子から大人びた印象を受ける。
「フェルリーヤ。響きのいい、とてもよい名だ。君は、なぜここに?」
「お母さまに、貴方とお話をするようにと言われました」
「お母上? この宮殿にいらっしゃるのか?」
フェルリーヤがこくりとうなずく。どこかの貴族の子供らしい。相手をしてやりたい気持ちはあるが、魔女との面会を控えた状況で割ける時間はそう多くなかった。五分ほど話してやったら、親衛隊を呼んで彼女たちに預けようと決める。
「フェルリーヤ、君はどこから来たんだ?」
「わたしの部屋から」
「では、生まれ故郷はどこかな? 今はどこに住んでいるんだい?」
「生まれた場所……? わたしは、ここにずっと住んでるの」
「……宮殿に?」
フェルリーヤの返答は予想外のものだった。そして、その言葉が持つ意味を考える前に応接室の扉が開き、新たな人物の到来を告げていた。幼いころから社交界に慣れ親しんできたウルリッカをして、物理的な圧力すら錯覚させる強烈な存在感。駐在武官として、国家の要職にある人間と出会う機会が多いと、たまにこうした人物に出くわすことがある。振り返れば、帝国を統べる黒き魔女がそこにいた。
「はじめまして、ウルリッカ・グレンスフォーク陸軍中尉。わたくしはメルリーヤ・ヴェールニェーバ。余人はわたくしをルーシャ帝国の女王陛下、もしくは魔女と呼びます。貴方はわたくしをどんな風に呼んでくれるのかしら?」
万年雪のごとき深い白髪を引き立てる、喪服を思わせる漆黒のドレスとヴェール。薄墨の紗からは輝きを湛えた青紫の瞳がこちらを射抜く。気取らず、気負わない態度は親しみやすさを相手に感じさせるが、こういう人物にこそ気を許してはならないのだとウルリッカは知っている。その表面的な在りようが真実であると誤解すると、言わなくてもいいこと、言ってはならなかったことを口にする羽目になる。
「……女王陛下。お目にかかれて光栄です」
ウルリッカの硬い口調に、メルリーヤはくすくすと笑う。
「どうぞ、おかけになって。飲み物はなにがお好きかしら?」
ソファを勧められ、対面に腰かける。フェルリーヤはと見れば、ごく当たり前のようにメルリーヤの座るソファの横に立ち、背もたれに手をかけていた。その表情には晴れやかさと緊張が見て取れる。彼女の口にした『お母さま』こそ魔女メルリーヤなのだと、嫌でも理解させられるほど似通った容姿の親子だった。
「士官学校で貴方が執筆した論文を読みました。タイトルは『魔法的防衛力の一時的喪失状況における国境防衛に関する論考』だったかしら。魔法に頼らない国防という、他国では当たり前のものを忘却の彼方へ追いやったこの国で、貴方のような発想を持つ軍人がいるとはおもしろい。貴方はとてもユニークです」
紅茶が配膳され、給仕が退室するのを待ってメルリーヤが切り出す。
「恐縮です。まだ士官ですらなかった小娘の描いた机上の空論を女王陛下のお目にかけるとは、汗顔の至りと言うほかなく」
「謙遜しなくともいいのよ、ウルリッカ。貴方は自分の考えが間違っているだなんて、これっぽっちも思っていないのでしょう? 貴方はそういう目をしています。でしたら、胸を張ってわたくしの顔を見てくださいな」
動揺を態度に表すことこそしなかったが、ウルリッカは内心に冷や汗をかいていた。執筆当時は上手く隠せたつもりでいたが、今見れば魔女に頼り切りの国家防衛を是とする元老院に対する軽蔑が行間からにじみ出ているような代物だ。彼女がグレンスフォーク家の人間でなければ、国家反逆罪の濡れ衣を着せられていてもおかしくない内容だったとの自覚がある。どのような経緯で論文が魔女の手に渡ったのかは不明だが、この瞬間、ウルリッカの軍人としてのキャリア、そして生死はメルリーヤが論文をどう受け取ったのかにかかっていた。
「とても興味深い内容でした」
顔を上げ、視界に入れたメルリーヤの表情には穏やかな共感があった。
「国家の礎たる国土の防衛を、たった一人の魔女に頼り切りにしている元老院の怠惰さを指弾し、暗殺や病死などの不慮の事態で魔女を失えばルーシャは諸外国に国土を侵されるという現実を丁寧にシミュレートした上で、魔法に頼らない防衛戦力の段階的な整備と構築について論じる。一介の士官候補生が書いたとは思えないほど見事な内容でした。わたくしは貴方の分析について全面的に同意いたします」
「畏れ多いお言葉です、女王陛下」
「……ねえ、ウルリッカ」
一際くだけた調子で、メルリーヤが続ける。
「わたくしの魔法にかけて、この応接室での会話に聞き耳を立てている者は一人もいないと保証するわ。ああ、フェルはいるけれど、この子は気にしないで」
「は、はあ……」
話の矛先がどこに向かうか読めず、間の抜けた返事を発してしまう。
「どうか、わたくしのことは女王陛下などと堅苦しい呼び方はせず、ただメルリーヤと。そして。貴方をこの国の在りように疑問を抱く同志と見こんでお願いしたいことがあるのです。聞いていただけますか?」
頭を下げるメルリーヤに困惑するウルリッカ。
「その……メルリーヤ様。そのような……どうか頭を上げてください」
「メルリーヤ様、ですか。ええ、仕方ありませんね。すぐ信用していただけるとは思っていませんもの。むしろ、その方が信用が置けるというもの」
肩をすくめるメルリーヤの真意が測れない。ウルリッカの失言を誘う演技としては手がこみ過ぎているが、メルリーヤと言葉を交わすのが初めてである以上、彼女がこうした趣向を好む文字通りの魔女である可能性は捨てきれなかった。
「お話をしましょう、ウルリッカ。わたくしは貴方を理解したい」
「私でよければ、話し相手を務めさせていただきます」
魔女メルリーヤが歴史の表舞台に姿を現したのは十五年前、シャイア帝国の宣戦布告により国境で戦端が開かれてから数日後のことだった。圧倒的な物量差を活かして国境の要塞を迂回、別方面から国土の奥深くまで侵攻を果たしたシャイア帝国軍は、たった一人の魔女によって全滅の憂き目に遭い、国境まで敗走。ルーシャ帝国軍に立て直しの時間を与えることとなり、そのまま戦線は膠着したのだった。
それから一年後、シャイア帝国は戦線を押し進めては魔女に押し返され、その度に甚大な被害をこうむるという泥沼のような戦いを続け、ついには休戦条約を結ぶこととなったのだった。ルーシャ帝国はこの戦争を祖国防衛戦争と位置づけ、魔女の存在を大いに国際社会へ喧伝。同時に元老院は無策と放蕩により敵国の侵攻を招いたとして玉座を追われた皇帝の代わりに、魔女メルリーヤを女帝とした。
「ウルリッカは、次の戦争の主役はどんな兵器になると考えていますか?」
切り出された話題は、前置きもなしの唐突なものだった。
「それは……飛行機でありましょう。先の戦争では偵察や小競り合いにしか用いられませんでしたが、その可能性は計り知れません。戦後もシャイアやアルメアを始めとする列強では熾烈な開発競争が進み、エアレースの名を借りた代理戦争が繰り広げられています。然るに我が国では魔法による反転攻勢を行うまでの遅滞戦術を目的とした陸軍戦力の整備のみが重視され……」
これ以上は元老院の批判になると気付いたウルリッカに、メルリーヤが促す。
「続けてちょうだい」
「……航空戦力は軽視、ないし既存の陸海軍に付帯する存在としてしか認識されていません。諸外国では材料研究の成果により航空機の大型化と積載量の増加も進んでいますが、平時は輸送機として運用されるそれらの飛行機が爆弾を積んで領土の奥深くまで直接侵攻をかけてきた場合、我が方には対抗する手段がありません」
ここまで口にすれば、腹をくくるしかない。多少投げやりな気分で続ける。
「恐れながら、記録に残るメルリーヤ様の魔法は津波や地震、地割れに雪崩といった種類のものしか記録されておらず、空を飛ぶ航空機に直接的な打撃を与えうる魔法は確認されていません。もし魔法で飛行機を撃墜できないとなれば、シャイアは大規模な航空攻撃の実施をルーシャ攻略の端緒とすることでしょう」
ルーシャ帝国にとって、魔法とは敵国に対して示威すべきものであると同時に、安全保障上の重大な機密でもある。公開されている情報も限られたものであり、過去にどこでどのような魔法が行使され、実際にどれほどの効果を発揮したのかは元老院や軍上層部の限られた人間しか知りえない。ウルリッカは個人的な伝手である程度まで調査したが、調査結果は自らの記憶にしか残していない。
「もちろん、魔法について私の知り得たことが全てであるとは思っていません。メルリーヤ様の魔法が飛行機を撃墜し得るのなら、開戦までそれを隠しておくのが最善であることも理解しています。その上で、お尋ねします」
これを逃せば機会はない。その想いが、ウルリッカに問いを口にさせていた。
「メルリーヤ様の魔法は、蒼空をすら支配し得るのでしょうか?」
応接室に沈黙が落ちる。答えによっては、あるいはその問いに思い至った時点で拘束され、二度と日の目を拝めなくなる可能性すらある問いだった。しばしの瞑目を経て、メルリーヤは静かに首を振って告げた。
「いいえ。わたくしの魔法は空に届きません。ウルリッカ、貴方の懸念は正鵠を射ている。ルーシャの空を、魔法で護ることは叶いません」
魔女メルリーヤの、女王陛下の言葉に、ウルリッカはうなずくことしかできなかった。魔法は空へ届かない。それはいずれルーシャの国土に眠る豊富な燃料資源と鉱物資源を狙うシャイアも知るところとなるだろう。戦争の火蓋は再び切って落とされ、ルーシャの諸都市は火の海に沈むことになる。
「では、私に頼みたいことというのは……?」
陸海軍に次ぐ第三の軍、空軍の創設。論文の中で可能性として触れるに留めたそれの立ち上げに関われるかも知れない、という予感に胸が高鳴る。
「はい。もうお察しの通り、フェルリーヤはわたくしの娘です」
そして、メルリーヤはこう続けたのだった。
「ウルリッカ。貴方には、彼女と一緒に旅をして欲しいのです」
2
魔女メルリーヤの娘、フェルリーヤ・ヴェールニェーバ。公には存在すら明らかにされていない彼女を連れての旅。それが魔女からウルリッカに課された任務だった。示された旅程は足元のルーシャ帝国を皮切りに、実質的にルーシャとシャイアの緩衝国であるモルウルス自治区、東方でルーシャと国境を接するウルスタン共和国、そしてエウラジア大陸最大の覇権国家たるシャイア帝国へ向かう、中央エウラジアをぐるりと一回りする長大なものだった。
国境を巡って長年に渡る争いを続けてきた各国間には必ずしも交通網が整備されておらず、困難で過酷な旅になることが予想された。燃料の確保が問題となる車や飛行機は論外であり、鉄道と馬を組み合わせて一万キロを踏破せねばならない。まずは入念に準備を整える必要があった。
「ここ、首都メルフラードからモルウルス自治区へは鉄道を使います。その先は馬での騎行となりますが、乗馬のご経験はございますか?」
多くの店舗が立ち並ぶ目抜き通りである。物珍しそうに周囲を見回しながら隣を歩む少女との距離感を未だ測りかねながら、ウルリッカは問いを口にした。
「いいえ、ありません」
「でしたら、初めは辛いでしょうが……」
「構いません。我慢します」
淡々とした態度を装っているが、口調には気負いと興奮がにじみ出ている。
「先の長い旅です。無理を押せばかえって道行きは遅れましょう。ですから、不調を感じたらすぐおっしゃってください。よろしいですね」
「わかりました。大丈夫です」
フェルリーヤは、容貌こそ白き魔女メルリーヤに似ているが、自身を大人びて見せようと背伸びした在りようは年相応の子供と言ってもいい。言葉遣いこそ丁寧だが、先ほどから店先に並ぶ商品に目を奪われて上の空になっているのがいい証拠だ。だからこそ、ただの子供である彼女を連れて旅をして欲しい、という言葉の真意がどこにあるのかをウルリッカは今なお測りかねていた。
旅の目的はなにかと尋ねるウルリッカに魔女は黙って首を振るばかりであり、おそらく国家機密なのであろうフェルリーヤの存在を否応もなく知ってしまったウルリッカとしては了承するほかなかった。そこに至るまでの話が、そこから察しろというメルリーヤの気遣いだったのだと考えるしかない。
十五年前の祖国防衛戦争以降、エウラジア大陸の覇者として軍事力の増強を推し進めてきたシャイア帝国に対して、休戦条約を結んだ際に賠償金を得られなかったルーシャ帝国は戦争が築いた莫大な借金の返済にあえいでいる。元老院はメルリーヤの存在を当てにして軍事に予算を割り振ることを厭い、国境を守る末端の部隊では装備の更新すらままならない状態に置かれているのが実情だ。
元老院が頼みとする魔法についても謎が多い。世界的に見ても詐欺や騙りではない本物の魔女はメルリーヤしか確認されていないが、彼女以外の魔法使いが世界のどこかに隠れ住んでいたり、これから生まれたりしないという保証はない。メルリーヤとの会談では航空機を脅威として挙げたが、本当に最悪なのはシャイアが魔法を入手して既存の戦力と組み合わせることだとウルリッカは考えている。
フェルリーヤがメルリーヤの娘だと聞いて最初に思い浮かんだのは、魔法は遺伝するのだろうか、という疑問だった。魔法が血筋に由来するのだとすれば、フェルリーヤの存在にはとんでもない価値がある。彼女自身が魔女の後継者として戴冠するのはもちろん、メルリーヤが健在なうちに多くの子を成せば魔法が失われるリスクを軽減できる。血縁による同盟は古くから貴族間で行われてきたことだが、そこに魔法という直接的な力まで絡んだらどんな醜態が繰り広げられるか。
「なにを買うのかしら?」
思索は、フェルリーヤの問いで中断させられる。
「ここでしか買えないものを。モルウルスは高原と山岳が広がる地方で流通網が貧弱ですから、欲しいと思ったものがあるとは限りません。物々交換も見据えて、煙草など嗜好品や換金性が高く携帯に優れた物品を揃えておきます。逆に、向こうでも手に入る服や食料は現地で調達するのがよいでしょう。かさばりますから」
「ウルリッカは、旅に慣れているのね」
「軍人ですので。加えて、モルウルスとはいささか縁もございます」
「グレンスフォーク家の領地があの辺りだったのかしら」
「……ええ、その通りです」
先回りするような言葉。彼女が非常に明晰な思考の持ち主である証だった。
「私がフェルリーヤ様くらいの年齢のとき、一年ほどでしょうか……父に連れられて、遊牧民族に混じって暮らした時期があるのです。彼らと共に過ごす中で高原での生活の知恵、馬の乗り方に羊の追い方、弓と銃の扱い方を身につけました。父からはモルウルス語やシャイア語も教わりましたね」
「ウルリッカは、外国語が話せるの?」
「これでも駐在武官を務めておりました。さほど堪能とは言えませんが、共通語、モルウルス語、シャイア語は意思の疎通に困らない程度にたしなんでおります」
「……でしたら、わたしにも教えてくださらない?」
「フェルリーヤ様に、ですか?」
「言葉だけじゃなくて、色々なことを。わたしは宮殿から出たことがほとんどありませんから、その、貴方にはわたしの……」
言葉に詰まる様子のフェルリーヤに代わって、後を引き取る。
「承りました。僭越ながら、ウルリッカ・グレンスフォークはこれよりフェルリーヤ様の教師役を務めさせていただきます」
「……はい! それから、わたしのことは」
「フェルリーヤ様さえよろしければ、フェル、と呼ばせていただきます。お生まれについては、みだりに口外されない方がよいでしょう」
「承知しています。ええ、そう呼んでいただいて構いません」
買い物を続けながら、フェルリーヤのとりとめのない質問に答える。軍人という存在が珍しいのか、軍での生活について色々と尋ねられた。ルーシャは帝国の成立以前から女性が強く、軍内に占める女性の比率は諸外国と比べても高かったこと、メルリーヤが女帝となってからその傾向はより強まったことを聞き、誇らしげにしているのが印象的だった。その様子が、ウルリッカの胸に微妙なとげを残す。
「……どうかしましたか?」
「いえ。この後は駅に向かい、鉄道でモルウルス自治区の入り口に当たるカザンスクの街に向かいます。買い忘れたものは……そうだ、これをどうぞ」
フェルリーヤの頭に、つば広の帽子をかぶせてやる。
「帽子、ですか?」
つばに触れて、不思議そうにつぶやくフェルリーヤ。
「フェルリーヤ様……フェルの髪は、この首都メルフラードでは目立ちます。列車に乗ってしまえば必要ありませんので、それまではご勘弁を」
「……いえ、気に入りました。ありがとうございます」
「そうですか、それはよかった。軍人などと無粋な仕事をしていると流行に疎くなりますから、気に入ってもらえるか少々心配だったのです」
「贈り物をいただいたら喜ぶものだと、お母さまに教わりました」
「……そう、ですか」
彼女が時々見せる、母親を絶対視するがゆえのズレた発言。それのなにが問題なのかはわからなくとも、少なからず相手の気分を害したことはウルリッカの反応から見て取ったらしい。フェルリーヤはそのまま黙りこみ、ウルリッカもどう言葉をかけるべきか考えているうちに駅に到着してしまう。
「フェルは、鉄道に乗ったことはありますか?」
「いいえ。でも、汽車はわかります。線路の上を走るのでしょう?」
「はい、その通りです」
「楽しみです。早く乗りましょう」
そう言って改札へ向かおうとするフェルを呼び止める。
「待ってください、フェル。その前に切符を買わなければ」
「きっぷ?」
「汽車に乗るための許可証です。私が先に買いますから、それをお手本に自分で買ってみるとよいでしょう。駅員のいる、あそこの窓口です」
真剣な表情でウルリッカから運賃を受け取るフェルリーヤの様子に、道行く人々も表情を緩める。可憐で身なりのよいフェルリーヤと実用重視の地味な格好をしたウルリッカを、周囲の人間はどこかのお嬢様とその使用人と見るだろう。教師役を務めるにも都合がいいので、しばらくはその設定で通そうと決める。
彼女自身に切符を買わせたのも理由がある。これから始まる旅では、多くのことを学び、自ら判断して行動できるようになってもらいたいのだ。その経験は、為政者として国家を背負うようになったときにもきっと役に立つ。
列車に乗りこみ、壁で区切られたコンパートメントに腰を落ち着ける。フェルリーヤの容姿は目立つ上に、首都メルフラードからカザンスクまで列車で三日はかかる。公にはされていないとはいえ、身分としては皇女である彼女につけられた護衛がウルリッカだけというのは、本来ならば異常なのだ。列車という閉鎖空間で不特定多数の人間との接触を持つのはあまりにもリスクが高い。
「とても、刺激的でした」
ほう、と感嘆のため息をついてフェルリーヤが言う。
「街を歩くのは楽しかったですか?」
「はい、すごく。ウルリッカ、貴方といるのは楽しいです。お母さま以外の人は、わたしのことを怖がって、あまりお話をしてくれなかったから」
「私も、フェルと話すのは楽しいですよ」
ウルリッカの言葉に、はにかんだような笑みを見せるフェルリーヤ。世間から隠された存在である彼女は、生きた国家機密と言ってもいい。使用人として彼女の周囲に配された人間が必要以上の関わりを持とうとしなかったのは賢明な判断であり、おそらくはそうした分別のつく人間を選んで集められていたのだろう。
「カザンスクに着くまで三日はあります。相手が私でよければ、好きなだけお話をなさるとよいでしょう」
「外国語も教えてもらう約束です」
「もちろんです。厳しくいきますが、覚悟はよろしいですね?」
「ええ、いいわ!」
フェルリーヤの話は、彼女自身についてのことが多かった。宮殿の限られた区画、限られた人員との接触しか持たない生活について。母メルリーヤをいかに尊敬し、また彼女がどれだけ自分を愛しているかについて。そうした話を聞きながらウルリッカが思い出したのは、努めて忘れようとしてきた自身の子供時代だった。
ウルリッカの母、アレクシア・グレンスフォークはエングランド王国から嫁いできたひとだった。夫であるエドヴァルドを粗野で教養のない田舎貴族と小馬鹿にし、ウルリッカの兄に当たるエリアスとユレルがエドヴァルドの血を濃く引いて乗馬や狩猟にのめりこむに至って、せめてウルリッカだけでもエングランドの伝統を継承させようと厳格な教育を自ら施した。ウルリッカの身体に残り今なお消えぬ傷のいくつかは、このとき母につけられたものだ。
モルウルス辺境伯であった父の領地に住むことを拒否した母と共に、今は魔女メルリーヤにちなんでメルフラードと改名されたかつての首都モルコヴァで半ば監禁に近い生活をしていたウルリッカを救い出してくれたのは、父であるエドヴァルドだった。彼は半狂乱で泣きわめくアレクシアに黙して首を振り、そのままウルリッカを連れてモルウルスの領地を巡る旅に出た。
フェルリーヤを見ていると、どうしてもかつての自分が重なってしまう。違うのは、長じるに連れて自由を手にできた自分とは異なり、彼女の自由は生涯に渡って制限され続けるだろう、ということだった。そのことを思えば、メルリーヤがウルリッカに娘を預けた意図のひとつが見えてくる気がした。
この旅はきっと、フェルリーヤ・ヴェールニェーバにとって最初で最後のモラトリアムになるだろう。短い夏の空を眺めやりながら、そんな予感を抱いた。
3
ルーシャ帝国南端の都市カザンスクは、遊牧民族を監視するために建設された城塞都市に端を発する。その後、遊牧民族の住むモルウルス地方がルーシャに編入されたことで国境を守る城塞都市としての性格は薄れたものの、先の戦争でシャイア帝国と講和を結ぶ際にモルウルス地方をモルウルス民族の自治区とする条文が入れられたため、地理的要衝として軍事的な価値が再び高まっている都市でもある。
ウルリッカの生家、グレンスフォーク辺境伯家は代々モルウルス地方を領有していたため、モルウルス自治区の独立により領地の大部分を失った。先代当主にして父であるエドヴァルドはすでに亡く、歳の離れた兄エリアスも先の戦争で戦死したため、現在はもう一人の兄であるユレルがカザンスク総督としてグレンスフォーク家に残されたわずかな領地の管理をしている。
鉄道は市街地を抜け、かつての城壁に設けられたトンネルを潜って都市の中心部へと滑りこんでいく。街に降り立てば、懐かしくもどこか緊張を孕んだ空気がウルリッカの頬をなでる。生まれ故郷ではあるが、この街で過ごした時間はそう長くない。幼少期は母と共に首都モルコヴァで過ごし、父に連れられモルウルスの草原の海で過ごした後、兄に憧れてそのまま士官学校に入ったからだ。
「フェル? いきますよ」
「はい」
重厚な石造の壁面に真剣な表情で手のひらを当てていたフェルが、小走りに駆け寄ってくる。向かう先はエドヴァルドがひいきにしていた服飾店だ。華美な礼服やドレスなど影も形もなく、騎行に適した遊牧民族の伝統衣装や馬周りの小物を取り揃えているので、旅支度を整えるのに重宝する。
「親父さん、久しぶりだね」
「……なんと、ウルリッカか。どこぞの男と娘をこさえて軍を追い出されたか?」
「ひどいな。知り合いの娘さんを預かってるだけさ」
陽に灼け、深いしわを刻んだ顔に小さな丸眼鏡をかけ、ゆったりと水煙草を吸う店主が顔を歪めるようにして笑う。カザンスクの顔役である彼に頼めば、物資でも情報でも大抵のものは調達してくれる。彼は品定めするような視線をフェルに注いだ後、納得したようにうなずいてウルリッカに言う。
「で、なにが要り用だ?」
「私と彼女に合う旅装を一式。馬も二頭、丈夫なやつが欲しい」
「馬ならお前さんの家の厩舎で見繕えばよかろう」
「父ならともかく、今はユレルの財産だ。勝手に拝借するわけにはいかないさ」
「グレンスフォークのはねっ返りが、言うようになったものだ」
「ふふ。勘弁してくれよ、親父さん」
草原の海で貨幣が果たす役割は限定的だ。準備は入念に、なおかつ野盗の気を惹かないありふれた装いがいい。刺繍入りのブラウスとゆったりしたズボンを幅の広い革ベルトで引き締め、店に預けてあった反りの強いサーベルと『ホウキの柄』を意味するブルームハンドルの自動拳銃を腰に下げる。日々の糧を手に入れるための短弓と矢筒も手入れは行き届いており、矢羽は綺麗に切り揃えられている。
「着方はわかりますか、フェル」
「……服がざらざらします」
「すぐに慣れます」
織りの粗い布地が懐かしさを呼び起こす。少女の肌には少々優しくない肌触りだが、これぐらいで音を上げていては始まらない。弓を射る邪魔にならないよう、赤毛を後ろでくくって垂らす。フェルリーヤはと見れば、悪戦苦闘しつつもウルリッカと同じ刺繍入りのブラウス、ズボンに幅広のベルトを身に着けていた。武器を持たせるかどうかは迷ったが、練習用の短弓だけ持たせてやることにした。
不測の事態に備え、ユレルには手紙を届けてもらうように頼んだ。街の外で二頭の馬を引き取り、そのまま旅立つ。つややかにきらめくクリーム色の毛色を持つモルウルス種は速度と持久力に優れ、粗食と渇きにも強い。気難しいが、懐いた人間には忠実に従う性格でもあり、旅の相棒とするにはおもしろい馬だ。
「馬を御する必要はありません。ただ落とされないようにしてください」
「はい」
「恐れずに、堂々と。しかし力で従わせようとしてはいけません」
「はい」
馬との関係は初めが肝心だ。ここでなめられてしまうと、賢い馬は認識を容易に改めようとしない。フェルリーヤの態度は、まずは合格と言っていい。鞍と鐙に上手く体重を分散し、手綱は緩く握る。馬は自然と先を行くウルリッカの馬を追い、緩やかに歩を進めている。初めてにしては上出来だ。
「10キロ先に村があります。今日はそこまで行きましょう」
「たった10キロ? まだ陽は高いわ」
「では、着いてからもう一度問います」
「……?」
並足で一時間半。村に到着するまで、ウルリッカは一度も後ろを振り返らなかった。ただ鞍にまたがっているだけではあるが、乗馬の初心者であればそれなりに消耗する。しかし、フェルリーヤは音を上げることなくついてきた。
「次の集落までは100キロほどあります。進みますか、フェル?」
「……いいえ」
「わかりました。では、この村で宿を取りましょう」
「ふとももの内側が痛いです……」
「今なら引き返せますよ?」
ウルリッカの問いに、勢いよく首を振るフェルリーヤ。教えを守り、無理をせず、不調であれば報告する素直さは昔のウルリッカにはなかったものだ。一人では降りられない様子なので、抱え上げるようにして馬から降ろしてやる。
「大事なのは、どれだけ辛くとも自身と周囲の変化に気を配り続けることです。遠慮せず、どんなことでも口にするとよいでしょう。相手も知っているはず、気付いているはずと考えるのは甘えに他なりません」
母アレクシアにしつけられていたウルリッカは、慣れない乗馬で内ももから血を流してもなお弱音が吐けなかった。エドヴァルドは彼女が鞍上に登れなくなるまで黙って旅を続けた。それからようやく、痛みと孤独に泣く彼女に対して他者に助けを求める術を教え、傷の手当てをしてくれたのだった。
「さて、今夜の宿を探しましょう」
「宿屋はどこなのでしょう」
村に視線を走らせるフェルリーヤに首を振って示す。
「これからの旅では宿泊を専門とする施設はないものと思ってください。ではどうするのか? やり方は色々ありますが、交渉が求められます」
「わたしの言葉は通じるのかしら……」
「場所によりますが、ルーシャ語を話せるのはひとつの集落につき一人いればいい方でしょう。モルウルス語はこれから少しずつ憶えていただきます」
遊牧民族は客人を歓待する慣習を持つが、この村のように街が近い場所では貨幣の価値が相対的に高いため対価を求められることも多い。そうした差異や交渉の機微についても、おいおい教えていけばよいだろう。馬に与える水と乾草も含めて相場よりやや多めの金額を提示すると、村人は快く納屋を貸してくれた。馬にくくりつけてある毛皮の寝袋を使えば一夜の宿としては十分に過ぎる。
「なにをしているのですか?」
「ここまでの旅路を記録しています」
ウルリッカが手帳に書きつけているのは、ここまでの旅路の詳細な記録だ。これから向かう先を考えればあまりに詳細な記録は危うくもあるが、メルリーヤからの厳命であれば仕方がなかった。娘の旅路を知りたいとはごく普通の母らしい願いであり、魔女にしては微笑ましいと言えなくもない。
「ウルリッカ、散歩をしてきてもいいですか?」
「構いませんよ。村人の邪魔はしないように」
「わかっています」
軽く頬をふくらませて返事をするフェルリーヤは掛け値なくかわいらしい。カザンスク総督であるユレルは定期的に巡察隊を出して野盗の類を討伐させているので、村から離れなければ危険もないだろうと判断する。柵に囲われた家畜や畑の土など、ウルリッカからすればなんでもない光景も彼女の眼には珍しく映るのか、いちいち手で触れて回っているのを確認して、再び手帳に視線を落とした。
4
カザンスクを発って二ヶ月あまり。モルウルス自治区をシャイア帝国の国境へ向けて南下する二人は直線距離で200キロほどの距離を移動していた。平均すれば一日に数キロしか進んでいないことになるが、宮廷暮らしであったフェルリーヤが草原での生活と馬での移動に慣れることへ重点を置いて、短期の滞在と数日かけての移動を繰り返した結果としての緩やかな旅程だった。
とはいえ、ウルリッカにとってはさして辛くもない旅でも、フェルリーヤには過酷な旅だっただろう。しかし彼女はウルリッカに言われるままの受け身な態度は決して見せず、初めて目にするものには強い好奇心を示し、ウルリッカの振る舞いや言動が理解できなければ後から必ずどういう意味だったのかを質問してきた。早く一人前にならなければという焦りにも似た言動を、ウルリッカはあえて指摘しなかった。彼女には、そうしなければならない立場があるからだ。
陽が沈む前に野営に適した場所を見つけ、馬の手入れをする。フェルリーヤが馬を怖がることはなく、誇り高いモルウルス種の馬もこの二ヶ月の旅を経て彼女を慕い、信頼するようになっていた。貴重な水を革袋から布に含ませて身体を拭いてやり、ナイフで削った岩塩を舐めさせてやる様子も板についてきた。
「フェル。語学の勉強を始める前に、貴方に告げておくことがあります」
「……水と食料のことですね?」
「そうです。本来はここを冬営地とする遊牧民たちに分けてもらう予定でした」
焚き火が照らす狭い範囲にも、引き払った住居の跡がいくつか見て取れる。かなり急いでいたらしく、持ち運ぶのに適さない資材や道具が打ち捨てられ、家畜を囲う柵が半ば壊れたまま放置され、その近くに食い荒らされた羊の死体がいくつも転がっているのも目にした。本来なら冬に備えて腰を落ち着けるべき晩秋になっての大移動とは尋常ではなく、明らかに獣の牙にかかって殺されたと思しい羊の死体も相まって、周囲には不穏な気配が漂っていた。
「冬営地は風雪を避けられる山すそで、牧草が豊富な場所が選ばれます。夏の間は意図的に立ち寄らず、牧草を生い茂らせておく必要があるため、そう簡単に代替地が見つかるようなものでもありません。ここを冬営地にしていた一族は、やむにやまれぬ事情があってこの地を離れたと考えるべきです」
「つまり、ここには危険があるのですね?」
「はい、その可能性があります。今夜は火を絶やさず、私が見張りをします。フェルは食事を終えたら早めに休んで、明日からに備えてください」
「ウルリッカは?」
「私は大丈夫です」
「だけど」
「推測を述べてもよろしいですか?」
言い募ろうとするフェルリーヤを制し、彼女がうなずくのを待って続ける。
「食料が想定以上に早くなくなったのは、ここ一週間ほど狩りが上手くいかなかったのも一因です。この周辺には、キツネや野ウサギがほとんどいない。そして、先ほど見かけた羊の死体。あれは人の手によるものではありません」
「人ではない……?」
首をかしげるフェルリーヤ。それに呼応するように、夜闇を切り裂く遠吠えが響き渡った。最初の遠吠えを皮切りに、月下の咆哮は次第に数を増やし、それと共に距離を縮めてくるように感じられた。ウルリッカは怯える馬をなだめつつ、右手に拳銃を、左手でサーベルの柄を握って周囲を警戒する。
「フェル、貴方はそこを動かないように。手頃な薪を手に取って、狼が寄ってきたら火で威嚇してください。できますね?」
「……わかりました」
あるだけの薪を足して炎を大きくしながら、舌打ちしたくなるのをこらえる。遠吠えから判断して、狼の群れはかなり数が多い。対するこちらはウルリッカしか戦える者がいない。馬を繋いだ杭から解き放って囮にしようかと考えたが、水と食料にも事欠く状態で移動手段を失うのは死に等しい。
草原の暗黒に瞬く二対の星。それは瞬く間に数を増やし、二人を包囲するように一定の距離を保って回遊する。夜闇に紛れ、瞳だけを爛々と輝かせる群狼の数は三十を下らないだろう。通常、雄雌のペアとその子供で群れを構成する狼の群れが十を超えることはまれである。それはつまり、この群狼が異質な存在であることを意味する。遊牧民はおそらく、この群狼から逃れるために移動したのだ。
唸りを上げて包囲を詰める狼の眉間に狙いをつける。乾いた空気に発砲音が響き、若い狼が弱々しい鳴き声を上げてうずくまる。しかし、その鳴き声と血の気配に興奮した他の狼はますます唸り声を大きくし、包囲を詰めてくる。ブルームハンドルの装弾数は十発、全弾命中させても群狼を全て屠るには足りない。フェルリーヤを守りながら、残り全ての狼とサーベルでやりあうのは現実的ではなかった。
「ウルリッカ……」
「心配ありません、フェル。自分の身を守ることにだけ集中してください」
「……うん」
父と過ごした遠い日々、今日のように群狼に囲まれた夜を思い出す。父の背中は大きく、落ち着き払って狼に対処する姿は頼もしかった。あのときの父がどんな想いを抱いていたのか、少しだけわかるような気がした。守るべき相手がいる重圧、そして一人ではないという心強さ。父が浮かべた笑みを、幼いウルリッカは余裕の表れと解釈した。その笑みが秘めた本当の意味を、ようやくわかった気がした。
銃口を狼の眉間に滑らせ、引き金にかかった指に力をこめる。一発、二発。三発目は外れて、次弾で四頭目の動きを止める。狙いをつけられたのはここまでだった。倒れる仲間に怯みそうになる前列の狼を一喝するような、冷厳たる咆哮が草原に響き渡る。この咆哮の持ち主が群狼のボスなのだと直感した。
「フェル!」
振り返れば、一頭が正面からフェルリーヤを威嚇し、もう一頭が背後から襲いかかろうとしていた。飛びかかったところをサーベルで切り払い、地に足をつける前に銃弾を叩きこむ。地に伏して動きを止めたので、補強した乗馬靴で頭蓋骨を踏み砕いた。もう一頭はフェルの肩越しに突き出した拳銃を二連射して仕留める。
背後で低い唸り声。とっさに振り向いて突き出したサーベルをかいくぐり、足首に噛みつかれる。乗馬靴を貫いた牙が肌に食いこむ感触がわかったが、不思議と痛くはなかった。柔らかい腹部を掬いあげるようにサーベルを突き刺し、内臓をかき混ぜ、それでも離れないので頭部に二連射。危うく自分の足を撃ち抜くところだった、と後から気付く。戦闘の高揚で、いつの間にか冷静さを失いつつあるのを自覚する。蹴りを入れて引きはがし、次の狼に銃口を向ける。
地を這うように駆ける一頭の鼻先を撃とうとして、弾切れに気付いた。再装填の猶予はない。狼の口に靴のつま先を叩きこみ、ブルームハンドルはホルスターに戻してサーベルを利き手に持ち替える。仕留めるか、瀕死に追いこんだ狼はまだ十頭にも満たない。腹を空かせた群狼は共喰いすら始めていた。おぞましい様相と、濃厚に漂う血と獣の匂いに顔をしかめる。
「……フェル、質問があります」
背中にかばう彼女に言葉を投げる。
「なんですか?」
続けるべき言葉は、旅の始まりからずっと心に抱いてきた質問だった。問えば、そして答えられてしまえば、ウルリッカは知ってしまう。それは、自身の運命を決定づけてしまうだろうという確信が彼女にはあった。
「フェル。魔法で狼を追い払えますか?」
「できるわ」
答えはすぐに返ってきた。同時に、大気がフェルリーヤに向かって凝集するような不思議な感覚に包まれる。焚き火のすぐそばだと言うのに空気が冷え、反対にフェルリーヤの身体が熱を持ったような体温の上昇が背中に伝わってきた。スミレ色の瞳は狼に勝るとも劣らぬ魔的な輝きを帯び、狼が怯えるような素振りを見せる。
直後、矢と銃弾が側方から降り注いだ。続いて湾刀を振りかざした騎馬が突撃をかけ、狼を蹴散らしていく。数は二騎。どこから来たのかはわからないが、ありがたい援軍だった。馬首を返して再び突撃してくる騎馬の姿に潮時と見たのか、ボスのひと吠えで群狼たちも散り散りになって退いていく。
「くそっ、逃げられた!」
「おい、二人とも無事か? もう大丈夫だ、助けが遅れてすまなかった」
「グンナ! 俺は罠を見てくる。この分だとダメそうだがな」
「頼んだぞ、ユフミル」
湾刀をベルトに差し、馬にまたがった遊牧民族の男たち。悔しそうに歯噛みして駆け去っていく一人は弓矢を、ウルリッカたちを気遣って下馬したもう一人は拳銃を手にしている。グンナとユフミル。名前と格好から、遊牧民族だと知れる。
「フェル、無事ですか?」
声をかけられたフェルは極度の精神集中が途切れたためか、呆けたような表情でウルリッカを見上げ、それからゆっくりとうなずいた。
「俺たちは仕掛けた罠を見張ってたんだが、そこにあんたらが入ってきちまったってわけだ。やつらは鼻もよければ勘もいい。気取られないよう遠くから見てたから、助けに入るのが遅くなっちまった。本当にすまなかったな」
拳銃の男は申し訳なさそうに頭をかいている。
「罠? では、ここを引き払ったのは……」
ウルリッカの言葉を、拳銃の男が引き取る。
「そうだ。あの狼どものボス……ハルハーンのせいだ」
「ハルハーン……君たちの言葉で『白き王』か」
「俺は満月の下でやつに睨まれたことがある。身震いするほど恐ろしく美しい狼だった。あれに襲われて生きてるなんて、あんたたち運がいいよ。なあ、参考までにどうやってやつを追い払ったか聞かせてくれないか?」
「いや……襲ってきたのは若い狼が中心で、白い狼は見ていない」
「そうなのか? ハルハーンは常に群れの先頭に立って狩りをするんだが……」
「なにかを警戒していたのかも知れないな」
「ふむ……?」
そこに弓矢の男が戻ってきて、舌打ちする。
「ちくしょう、毒入りの肉には全く手を付けてないぞ。ハルハーンはともかく、他のやつもだ。毒を嗅ぎ取ったのか、こいつらの方が旨そうと見たのか……」
弓矢の男が、ウルリッカとフェルリーヤに厳しい視線を投げる。
「やめろ。この人たちに罪はない。むしろ俺たちが不甲斐ないせいで迷惑をかけてるんだ。八つ当たりする暇があったら次の罠を考えるんだな」
叱責された若い男が軽く肩をすくめる。
「わかってるさ。ちょっと言ってみただけだよ」
会話と立ち居振る舞いから察するに、二人は腕の立つ狩人らしい。遊牧民族の一族を代表して群狼の長であるハルハーンを狩るための罠を仕掛けたが、ウルリッカとフェルリーヤが罠の中に迷いこんだことで失敗した、という経緯のようだ。
「ともかく、助けてくれてありがとう。ついでと言ってはなんだが、君たちの一族がどこへ避難したのか教えてもらえないだろうか。こんな状況で気が引けるのだが、水と食料がもうない。手近な街に戻るのに足りるだけを分けて欲しいんだ」
ウルリッカの言葉に、拳銃の男が同情するような笑みを見せる。
「いや、こいつは俺たち一族の事情だ。客人であるあんたが気にすることはないさ。俺たちもいったん戻って態勢を立て直すから、案内しよう。十分とは言えんだろうが、水と食料も分けてやれるように俺が口利きしてやろう。っと、暗くて気付かなかったが、あんた、怪我してないか?」
「ん? ああ……足首を噛まれていたな。骨まで達してはいないと思うが」
「見せてみろ。手持ちの薬草じゃ大したことはしてやれんが」
「すまないな」
「なに、あんたはたった一人でお嬢ちゃんと馬を守りながら、何頭も狼を屠ってみせた立派な勇者だ。俺たち一族はあんたたちを歓迎するぜ」
「そう言ってもらえると助かる」
緊張が解け、足首の傷が痛みを訴え始める中、ウルリッカは微笑んだ。
5
狩人たちに案内された仮の冬営地は、馬で約一日の距離だった。本来の冬営地とは異なり牧草はあらかた食べ尽くされていて、見通しがよくなっている。群狼が迫っても、これなら発見は容易だろう。拳銃の男、ここまでの道中でグンナと名乗った男が、ウルリッカが治療を受けている医者の天幕に入ってきた。ユフミルという名前らしい弓矢の男と一緒に、族長への報告を終えた帰りらしい。
「勇者ウルリッカ、そしてフェルリーヤ。改めて、我ら一族の仮の冬営地へようこそ。大したもてなしはできんが、ゆっくりしていってくれ」
勇者と呼ばれるのは面映ゆいが、彼らなりの敬意の表し方なので受け入れる。
「ありがとう。なるほど、この見通しのよさなら群狼の撃退も容易だろうな」
グンナはウルリッカの言葉に首を振った。
「確かにハルハーンの襲撃は止んだ。やつなら確実に臭いで羊を追えるにも関わらず、俺たちがここを離れていた三週間、襲撃は受けなかったそうだ」
「一度も?」
「そうだ。やつは恐ろしく用心深く、弓と銃の脅威を理解している。この地では接近戦に持ちこめる距離まで忍び寄れないと理解しているのだろう」
「となれば、この場所に長くは留まれないのでは? ……いや、一族の事情に立ち入るようなことを聞いてすまない。気に障ったのなら謝罪しよう」
「気にする必要はない。二重の意味であんたの推察通りだ」
「私に協力できることがあったら言ってくれ」
ウルリッカの申し出に、グンナが豪快な笑みを見せる。
「では、我ら一族に勇者を歓待する栄誉をくれるだろうか」
「ああ、お安い御用だ」
「では、夕食時にまた」
グンナが天幕を立ち去ると、大人しくしていたフェルリーヤがそばに寄ってくる。
「二重の意味でこの場所に留まれないとは、どういうことですか?」
「ひとつは家畜に食べさせる牧草の問題。この辺りの見通しがいいのは、夏の間に放牧を行って、牧草を食べ尽くしたからです。せっかく肥えさせた羊がまだ冬にもならないうちから痩せてしまえば、冬を乗り切るのはそれだけ難しくなります」
「もうひとつは?」
「民心の問題でしょうね。ここに移って三週間、ハルハーンは一度も襲ってこない。もうやつは死んだのではないか。恐れる必要はないのではないか。そう考えて、本来の冬営地に戻りたがる者が出てくる頃合いです」
「けど、あの狼はウルリッカを襲ったわ。死んでなんかいない」
「はい。飢えに耐えながら機を伺っているのでしょう。本来の冬営地に戻ろうと移動を開始すれば、その機に乗じて襲ってくる可能性は非常に高い」
「では、どうすれば……?」
眉をひそめて思案するフェルリーヤに、どう返答するべきか迷う。あくまで遊牧民の一族の問題であるハルハーンとの戦いに、ウルリッカとフェルリーヤが積極的に介入する理由はない。むしろ、名目上は自治区であるモルウルスでルーシャ帝国軍人であるウルリッカと、魔女メルリーヤの娘であるフェルリーヤの隠密行が明らかになればまずいことになりかねなかった。
ルーシャ帝国よりシャイア帝国との国境が近いこの地域では、交易などでシャイアと接点を持つ者も少なくない。金に目がくらむか、魔女によって故郷を文字通りに引き裂かれ、雪と氷に沈められた恨みを抱き、シャイアの工作員として潜伏している者が周囲にいないとは限らない。ウルリッカ一人ならともかく、フェルリーヤを連れていては逃げることもままならない。
「フェル、この件に関しては私に任せてもらえますか?」
「わかりました。ウルリッカに任せます」
日が傾くとあちこちで煮炊きする煙が上がり、畜糞の燃える独特の匂いが立ちこめる。しばらくするとグンナが迎えに現れて、族長の天幕へ案内される。米と野菜を詰めた羊の蒸し焼き、ひき肉を甘辛く味付けした餡を包んで揚げたパン、麺入りのスープや羊肉の腸詰め、香りのいいお茶などが食卓に所狭しと並べられていた。
「族長のハルミルである。ウルリッカ殿、それにフェルリーヤ殿。ここまではるばるやってこられた旅の無事を祝い、我ら一族の流儀に則りささやかながら歓待させていただく。今宵はゆるりとくつろぎ、旅の疲れを癒すがよかろう」
黒々としたひげをたくわえた族長が両手を広げて歓待の意を示す。
「怪我の手当てに加え、水と食料まで分けていただき感謝に堪えません」
「グンナから聞いておるよ。あのハルハーンの群れと戦って生き延びた勇者だとな。女にしておくには惜しいほどの弓と銃の使い手なのだとか」
「父に……エドヴァルドに教わりました」
「ほう。エドヴァルドとは、あのエドヴァルド・グレンスフォークかね?」
「父をご存知ですか?」
「おお、知っているとも。とすれば、ウルリッカ殿、貴方はあのときの娘さんか。いや、大きくなられた。もう十数年前になるか……お父上と二人で我ら一族を訪れた際に開かれた歓待の場では、わしも末席に加えてもらっていたのだよ」
「そうでしたか……これは失礼いたしました」
「いやいや、頭を下げるには及ばんよ。当時、まだ若輩者だったわしはお父上と二言三言交わしたに過ぎぬのだからな。なるほど、此度は貴方自身の娘を連れての旅というわけだな。うむ、これは中々に感慨深いものだ」
「ああ、ええ……」
一人合点する族長になんと返答したものか困惑しつつフェルリーヤに目をやると、どうするのかと伺うような視線が返ってくる。軽く顎を引いてうなずき、それから族長に向き直った。この場には狩人であるグンナとユフミルも同席しており、二人にはウルリッカはフェルリーヤの教師兼護衛であると伝えてあるので、上手く説明しなければ不審を抱かれかねなかった。
「……事情があり、そのことは隠して旅をしておりました。願わくば、この場のみのお話としていただくよう伏してお願いいたします」
「うむ、心得ておるよ。さて、積もる話は食事を終えてからにしようか」
族長の一言でそれぞれの杯にウォッカが注がれ、乾杯してから食事が始まる。料理はどれも美味だった。ウルリッカは歓待を受ける客人の義務として、それまでの旅についてユーモアを交えつつ語っていく。食後にはチーズと果実を漬けこんだブランデーが供されたが、すでにウォッカを数杯飲んでいるので一杯だけに留める。ほどよく酔いが回り、場の雰囲気も和やかであることに安堵しつつ横に目をやると、ふらふらと上体を揺らせるフェルリーヤが目蓋を落としかけていた。
「フェル?」
見れば、食卓に置かれた彼女の杯にブランデーがわずかに残っている。果実が入っているのでジュースと間違えて飲んでしまったらしい。
「……すまない。この子が酔ってしまったようだ。今晩はこれで」
遠吠えが響き、フェルリーヤを除くその場の全員が動きを止めた。牧羊犬のそれとは明らかに異なる、憎悪の咆哮には聞き覚えがあった。群狼の長、ハルハーン。白き王が、獲物である羊を追ってここまでやってきたのだ。遅れて警戒を呼びかける角笛が響き渡り、あちこちの天幕から人が出てくる気配がする。
「ユフミル、行くぞ!」
「……おう!」
「羊の柵の方角だ! 俺たちが先に行く、族長は戦える者を集めてくれ!」
「うむ。そちらは任せた」
真っ先に我に返ったのはグンナだった。ユフミルを連れて、素早く族長の天幕を後にする。残されたのは族長とその家族、ウルリッカとフェルリーヤだ。族長は男たちに武装して集まるよう触れを出す人間を走らせると、二人に向き直る。
「むう……またもや我らの事情にお二人を巻きこんでしまったようだ。すまんが危険が去るまではこの天幕に留まってくださらんじゃろうか」
「わたしたちも戦える」
そう口にしたのはウルリッカではなく、フェルリーヤだった。
「フェル、私たちがここで戦う理由は」
「理由はある。そうでしょう、ウルリッカ? だって、狼はわたしたちを追ってここまでやってきたのだから」
ウルリッカは唇を噛む。見通しのいい場所で待ち構える群狼は襲ってこないというのは楽観が過ぎただろうか。あるいは昨夜も餌にありつけなかったことで飢えが限界に達して、ハルハーンと言えども群れを押さえきれなくなったのか。
「では、私が行きます。フェルはここで待っていてください」
「わたしだって……」
「フェル!」
慌てて制止する。フェルリーヤが魔法を使うことになれば、まずいことになりかねない。いくら族長が箝口令を敷こうとも、この場にいる遊牧民の一族全員の口を塞ぐことなどできるはずもない。メルリーヤに娘がいることは瞬く間にシャイア帝国の知るところとなり、フェルリーヤの自由は大きく制限されることになる。
「……わかりました。ただし、私の指示があるまでは攻撃しないように」
それから族長に改めて向き直って言う。
「我々も加勢します。馬が心配なので、まずはそちらを確認してきます」
「かたじけない。我々もすぐ後を追おう」
フェルを連れて夕闇を駆ける。太陽はすでに地平線に沈み、戦える者はある程度の数がまとまり次第、族長の指示で各所へ向かう姿が影絵となって見える。ほどなくして視界は闇に包まれ、人の視界は火の照らす範囲まで狭められる。明かりを消して夜闇に目を慣れさせる手は、多くの人間が連携して動くのを難しくするので使えない。夜闇の戦いは狼をより多く利することだろう。
「……今なら誰も聞いていません。いいですか、フェル。魔法を使うのは、命の危険があるときだけです。それまでは絶対に使わないように」
走りながら念押しする。
「けど、わたしの魔法を使えば……」
「実戦で使ったことはありますか?」
「ない、けれど……」
「では、許可できません。仮にメルリーヤ様と同じような魔法を使う気でいるのなら、狼だけでなく人を巻きこむ恐れもあります」
「……命の危険を感じたら、いいのね?」
「はい。それまでは絶対に使わず、私から離れないよう」
弓矢は荷物と一緒に置いてきたので、十連装のブルームハンドルとサーベル、奥の手としてフェルリーヤの魔法だけが頼りだ。狼の遠吠えはあちこちから聞こえ、繋がれた牧羊犬が盛んに吠えたてている。遊牧民と言えど、狩人であるグンナやユフミル、族長であるハルミルのように即座に対応できる人間ばかりではない。どう動けばいいのかわからず、杖や棒を握って立ち尽くす者も見かけた。
「くそ、離れろ! 誰か早く!」
助けを呼ぶ人の声。まだ幼いそれに混じって、馬のいななきと狼の唸り声も聞こえてくる。そちらに向かって走るウルリッカとフェルリーヤの横を、泡を吹いて狂奔する一頭の馬が駆け抜けていった。繋いであった手綱を引き千切ったのか、切れ端を地面に引きずっていた。下手に捕まえようとすれば蹄にかけられかねず、手が出せない。追ってきた二頭の狼を射殺して、声がした方へ向かう。
棒を手に狼を威嚇する少年、狼の咆哮と獣臭で狂乱する馬たちの姿が最初に目に入る。周囲には闇に紛れる群狼の影もあった。繋がれた馬たちはかなりの興奮状態にあり、うかつに近づけば蹴られそうだった。狼たちは馬が疲れ果てるのを待っているのか、すぐには襲い掛かってこないが危険な状態だった。
「あっ、あんた、狼を追い払うのを手伝ってくれ!」
ウルリッカを認めた少年が叫ぶ。
「わかった。君は馬たちを落ち着かせて。できる?」
ウルリッカの言葉にうなずいた少年に馬を任せ、銃を構える。光源となる松明を調達してこなかったうかつさに唇を噛むが、やれることをやるしかない。反撃がないことに油断したのか不用意に距離を詰めてきた一頭に銃弾を叩きこむ。後ろに跳ね飛び、よろよろと歩いた後に倒れたその狼は、血の匂いに興奮した他の狼によって一瞬のうちにはらわたを食い破られて弱々しい鳴き声を上げる。
「共喰い……!」
嫌悪感に眉をしかめながら、新鮮な肉に夢中で無防備な横腹を晒す二頭目も射殺する。そのまま芋づる式に撃てれば楽だったが、三頭目を撃ち殺したところで狼の標的がウルリッカに向く。向かってくる狼をサーベルで牽制しながら対応するが、五頭目を仕留めたところで弾倉が空になった。幸いにもその場にいた狼はそれで最後だった。どうやら冬営地の各所に分散して襲撃をかけているらしく、あちこちで騒ぎになっている。この分では増援も期待できそうにない。
「こっちは片付いた。私も手伝おう」
少年に声をかけ、暴れる馬を落ち着かせにかかる。
「あんたすごいな、助かったよ!」
「フェルは周囲を警戒。少しでも変化があったら教えて」
「わかったわ」
フェルリーヤはウルリッカの言葉にうなずくと、その場にしゃがみこんで地面に手を当てる。目蓋を閉じ集中する様子はウルリッカの意図した周囲への警戒とは違ったものだったが、ウルリッカもまだ興奮状態にある馬の制御に手一杯で、なにをしているのかと彼女に問うている時間はなかった。
冬営地のあちこちから叫び声と銃声が聞こえてくる。馬たちの動揺はまだ収まらないながらも、互いに蹴りあって大怪我しかねない危険な状態からは脱したことを確認して、いったん離れる。銃の弾倉が空っぽであることを思い出し、再装填しておくべきだと気付いたからだった。草原を蹴りつけ疾駆する音と、フェルリーヤが警戒を促す声が聞こえたのはほぼ同時だった。
「ウルリッカ、後ろ……!」
「…………っ!」
とっさに拳銃と銃弾のクリップを手放し、振り向きざまにサーベルで払う。背後に迫りつつあった影は地を這うような急接近から弾けるように方向転換し、馬と少年に矛先を向ける。白く巨大な体躯。群狼を統べる白き王、ハルハーンだった。
「少年!」
「わあっ!」
一瞬で恐慌状態になる馬たちに弾き飛ばされ、尻餅をつく少年。しかし、それが幸いした。馬を軽々と飛び越えたハルハーンは、少年の頭があった空間でがちりと歯を噛み合わせ、そのままウルリッカとの間に馬を挟むような位置取りで駆け戻ってくる。彼女がこの場で一番の脅威であると理解しているかのような動きだった。放置すれば少年が危うい。地に落ちた拳銃と、クリップから飛び散った銃弾を一発だけ拾って弾倉に叩きこむ。これとサーベルで撃退するしかない。
だが、間に合わない。少年もまたウルリッカから見れば馬たちの陰になる位置で腰を抜かしていて、ウルリッカが回りこむよりもハルハーンが戻ってくる方が早い。彼を見捨てて、フェルリーヤの安全確保に動くべきか一瞬だけ思案する。ちらりと投げた視界の端に映ったのは、刻一刻と深くなる闇の中で燃え立つ炎のような圧を周囲に発するフェルリーヤの存在だった。
「フェル!」
ウルリッカの制止よりも、魔法の発動の方が早かった。地震かと錯覚させられる下方からの突き上げにバランスを崩され、ようやく踏み止まって前方に視界を戻したところで、自らの目を疑う光景が飛びこんできた。
フェルリーヤの足元から始まり、地の果てまで続く地割れ。一直線に走るそれは次第に広がり、最大10メートルほどの幅でまっすぐ続いている。亀裂は一頭の馬を呑みこみ、少年が倒れるすぐ脇を通り抜けている。この暗さでは見て取れないが、深さも相当なものだった。ハルハーンはこの地割れに呑まれたのだろうか。
「少年、大丈夫か!」
ウルリッカが声をかけるも、少年の返事はない。おそらく気絶しているのだろう。巨大な白狼に襲われた直後、地割れに呑まれて死にかけたのだから無理もない。ひとまず地割れに呑みこまれる危険はないことを確認して、視線を移す。
「フェル!」
地面に両手を当ててうつむく彼女も心配だった。駆け寄ると、さきほどまで感じられた空気の圧や熱は消え去り、凍えるような虚無に包まれる錯覚に襲われる。魔法を間近で目撃したのは初めてだったが、予備動作も呪文の詠唱もない、一瞬の出来事だった。このようなもので狙われれば、どんな大部隊や要塞でもひとたまりもないだろう。そして、認めざるを得なかった。フェルリーヤ・ヴェールニェーバ。彼女がメルリーヤの血を引く、紛れもない魔女であることを。
「……っ、は」
「無理しなくていい。ゆっくり息を吸うんだ」
「……まだ…………は」
フェルリーヤは、切れ切れの息でなにかを伝えようとしていた。その内容に思い至るよりも、音もなく迫る白狼の方が速かった。明確な殺意を抱き、横合いからフェルリーヤを目がけて跳躍したハルハーンに対して、ウルリッカはとっさに左腕を突き出して彼女をかばうのが精一杯だった。
布地を突き破って牙が食いこみ、骨に到達する感覚。狼としては規格外に大きい体躯、その全体重を乗せた体当たりで地面に押し倒される。鋭利な爪に服と肉が切り裂かれていく。右手に握っていた銃を心臓の辺りに向けて撃ち、弾倉が空になったそれで白狼の頭部を側面からぶっ叩いた。凄絶な痛みと、左手はもう使えないだろう、と場違いに冷静な思考が頭を支配する。
「逃げて、フェル……!」
サーベルは押し倒された拍子に手放してしまっていた。仮に握っていたとしても、こうも密着した状態ではハルハーンに致命傷は与えられなかっただろう。ウルリッカ・グレンスフォークは、おそらくここで死ぬ。それは構わない。ただ、フェルリーヤはこの場から無事に逃がさなければならない。その一心でベルトに差していた短剣を抜き、白狼の腹部を幾度も突き刺す。
「ウルリッカ!」
「フェル……離れて!」
フェルリーヤは、逃げるどころかウルリッカに向かって手を伸ばしていた。それに気付いたハルハーンが、憎悪の視線を彼女へ向ける。噛み砕かれつつあった左腕が唐突に自由になり、白狼がそれから口を離したことを知る。なぜ離したか、理由は考えるまでもない。雪白色の少女、その繊細な造形の手指が無残に噛み砕かれる光景が脳裏をかすめた瞬間、少女の指先は白狼の鼻先に触れていた。
直後、どさりと覆いかぶさってきたものに視界を奪われた。ぐったりと力の抜けたそれを残った右腕で押しのける。ぬるぬると温かい血が、ウルリッカを赤く濡らしていく。ごわごわとした毛皮の感触は、白狼ハルハーンのものだった。月明かりを照り返して神々しさすら漂わせていた白狼の毛並みは色褪せ、くすんでいるように見えた。血塗れた、というだけでは説明できないそれを目の当たりにして、白き王の命は、すでにそこには宿っていないと知れる。
「フェル、無事です、か……?」
振り返り、視界に入れたそれは。青紫色の瞳が月夜にあって強い輝きを放ち、雪白の髪は白狼の溢れんばかりの生命力を写し取ったかのように艶めいていた。射すくめられる、とはこのような状態を指すのだろう。自らの命を容易に奪い去れる相手を目前にして、その美しい在りように畏怖を覚える。
「ウルリッカ……?」
忘我の境地にあったウルリッカを呼び戻したのもまた、フェルリーヤだった。左腕の怪我を気遣うような口調と態度は、普段の彼女と変わりない。神秘的な気配も瞬きひとつの間に薄れ、痛みと失血による錯覚だったかと自らを疑う。
「フェル……無事、でしたか?」
「はい、貴方のおかげです。待っててください、すぐに医者を……」
「魔法を、使いましたね?」
ウルリッカの問いに、フェルリーヤが目を伏せる。
「なぜですか? 私の指示に従ってくださいと言ったはずです」
「けど、貴方はこうも言ったわ。命の危険を感じたら使っていい、と。あの子とウルリッカの命は危険にさらされていた。違うかしら?」
「詭弁です。私は貴方自身の命を守るためならばと……」
「ごめんなさい。でも、わたしは貴方が死ぬのを見過ごせなかった」
「それがどんな結果を招くとしても、ですか?」
詰問する口調にも怯まず、フェルリーヤはまっすぐに見返してくる。
「それが力持つ者の務めだと、お母さまならそうおっしゃるはずです」
「……わかりました、ですが……」
「ウルリッカ!」
痛みに思考が鈍り、失血で意識が薄れる。重い目蓋を開いておく余力は、満身創痍のウルリッカには残されていなかった。
6
群狼の襲撃とハルハーンの討伐から一週間。狩人のグンナやユフミルが撃ち漏らした狼の残党が遠吠えを響かせる夜もあったが、白狼の長による統制が失われた狼たちは毒入りの餌や罠にかかるようになり、次第に数を減らしていったこともあって冬営地はおおむね平穏に包まれていた。これを受けて、族長のハルミルが本来の冬営地への帰還を決定したことで、遊牧民の一族は活気に包まれていた。
「本当に大丈夫なのか? 我らに代わって白狼を打ち倒してくれたお礼もまだ十分にできていないというのに……傷が癒えるまでと言わず、ここに留まって我らと共に冬を越してもらっても構わないのだが」
見送りに訪れた人々を代表したグンナの言葉を、軽く頭を下げて断る。
「ありがたいお言葉ですが、先を急ぎますので」
「一族の恩人であるお前たちを、我らはいつでも歓迎する。必ずまた会おう」
同じく見送りに訪れた族長ハルミルと固い握手を交わす。
「約束しよう」
白狼に噛み砕かれたウルリッカの左腕は全く力が入らず、馬が歩を進めるごとに痛みが走る状態だが、片手で馬を御すること自体はそう難しくない。狩りの際は両手を離し、足と太ももで馬に意志を伝えることもあるのだ。フェルリーヤが魔法を行使して地割れを起こしてハルハーンの命を奪った以上、シャイア帝国にその情報が伝わらないとは限らない。この地に留まり続けるわけにはいかなかった。
「きゃっ」
乗り手であるフェルリーヤを落馬させようというのか、後ろ足で馬が跳ねる。
「フェル、大丈夫ですか?」
「ええ。ちょっと、この子が言うことを聞いてくれなくて……」
フェルリーヤの馬が彼女に乗られるのを嫌がるようになったのは、襲撃の翌日からだった。モルウルス種は繊細なので、白狼の恐怖がトラウマになり、雪白の髪を持つフェルリーヤにも恐怖感を抱いているのかも知れなかった。とは言え、馬に乗らずに旅はできない。なんとかなだめすかして落ち着かせ、再出発する。
ウルリッカの腕のこともあるので、並足でゆっくりと馬を進めていく。遊牧民の一族を脅かしていた白き王を討伐したお礼として、水と食料に加えて上等なカシミアも持たされていた。高い価値を持つ交易品として、また冷たい夜霧を防ぐ防寒具として、大いに役立ってくれることだろう。
「これからどこへ向かうのですか?」
「じきに冬になります。東のウルスタン共和国へ抜けて、そこで冬を越します」
「では、魔女の爪痕を見ることはできますか?」
「魔女の爪痕……魔女の鉄槌とも称されたヴェルホビーの戦い、その戦場跡ですね。メルリーヤ様がシャイア帝国の侵攻を食い止めた、先の戦争における最大の激戦区……十五年が経った今なお荒廃した山野が広がるだけの場所と聞いておりますが、それでもご覧になりたいですか?」
フェルリーヤがうなずく。ヴェルホビーとは、ルーシャ帝国、かつてはルーシャ領であったモルウルス自治区、ウルスタン共和国、シャイア帝国の四ヶ国が国境を接する土地の名であり、険しい山脈と通行に適さない原野が見渡す限り続く未開の地だ。豊富な鉱物資源が眠っているとも噂されるが、開発のコストが得られるメリットに見合わない上に、国境を接する他国との軍事的緊張を招きかねないため、暗黙の了解で開発を進めないことになっているいわくつきの土地だ。
「……いけませんか?」
考えこむウルリッカの様子に、フェルリーヤが首をかしげる。
「……時期的に厳しいですね。これ以上雪が深くなると、私たちの装備では遭難しかねません。ですが、フェルが望むのであれば来年の春から夏にかけて訪れる機会を設けましょう。どうでしょうか?」
「わかりました。ウルリッカの意見に従います」
「はい。では、ウルスタンを目指しましょう」
ウルリッカがそれの接近に気付けたのは、いくつかの要因が重なったためだった。出発したばかりで集中できていたこと、並足で静かに進んでいたこと、枯草がそれをかき分けて疾走する者の存在を音高く教えてくれたこと。
「フェル、手綱をしっかり!」
「え? はい!」
拍車をかけ、全力の襲歩に移る。フェルの馬も、ウルリッカの馬についてくる。草をかき分ける音が一際大きくなり、襲撃者の存在を確信する。左手が利かないので弓矢は使えず、サーベルではこの相手には届かない。太ももでしっかりと馬体を挟み、片手で拳銃を構えて相手の出方をうかがう。
「白い狼……!?」
枯れた草の間を抜けて追いすがるのは、たった一頭の真っ白な体毛の狼だった。あり得ない、という考えを頭から振り払う。ハルハーンの死は確かめた。ならば、もう一頭いたということだ。決して亡霊などではない。
「フェル、私の前に!」
「はい!」
フェルリーヤの馬を先に行かせ、その後ろにつける。馬上では狙いが定まらないので、振り下ろすと同時に引き金を絞る投げ撃ちで牽制に徹する。片手が使えない状態、しかも後ろ向きに撃つ不自然な態勢では、反動を殺すこの撃ち方でなければ落馬しかねなかった。
白狼は牽制射を見極め、巧みに弾道から身をかわしてみせる。かわす度に距離は開くが、大柄な狼の脚はほとんど乱れない。撒いたと思っても、ウルリッカたちが馬の脚を緩めようとする度に姿を現すので馬が興奮し、疲弊し始めていた。牽制射を一発放ってから、フェルリーヤの馬と並走する位置につける。
「このままでは逃げ切れません。馬を降りて迎え撃ちます」
意を決したウルリッカの言葉に、フェルリーヤがうなずく。
「わかりました」
「魔法の使用を許可します。連携して、確実に仕留めましょう」
「では、わたしが動きを止めます」
「ハルハーンを止めたときのように、殺す気で狙ってください」
「……はい」
「あそこの岩を壁にします!」
残弾を撃ち尽くし、拍車をかけて距離を離す。全力疾走は長く続かないと見たのか、白狼の姿が視界から消える。原野にぽつんと取り残された大岩のそばまでたどりつき、素早く下馬。手早くクリップを弾倉に叩きこみ、銃を握る右腕に外套を巻きつけた。馬とフェルリーヤをかばう位置に立って白狼を待ち構える。
「来ます。準備はいいですか?」
すぐ後ろで大地に掌を当てるフェルリーヤの返事はなかった。
「フェル? 返事を!」
白狼がいつ飛び出てくるかわからない状況では、背後の状況を確認できない。こちらが待ち構えている気配を鋭敏に感じ取ったのか、草の間に伏せてじりじりと距離を詰めてきているらしい。たった一頭とはいえ油断ならない相手だった。
「魔法が、使えない……」
信じられない、といった調子でフェルリーヤがつぶやく。
「……フェル。魔法はもう必要ありませんから、周囲の警戒を」
努めて平静を保って口にした言葉だったが、彼女の耳には入らなかった。
「なぜ? なんで、そんな……」
「フェル!」
背後に視線をやらずとも、取り乱した様子が伝わってくる。魔女メルリーヤと同じ魔法の力。それがフェルリーヤの中でどれだけ大きい存在なのかを見誤っていた。魔法が使えない理由は不明だが、今のフェルリーヤは戦力に数えられない。
がさりと音がして、反射的に銃口を向ける。草の陰から走り出て鳴き声を上げたのは、小さなネズミだった。ネズミは人間と馬を認識するや方向転換し、違う方向へと逃げ去っていく。いつの間にか止めていた息を吐き、銃口を戻した瞬間、ネズミと全く同じ場所から白狼が姿を現した。罠を仕掛けられたのだ、と直感する。
ろくに狙いもつけられないまま発砲する。それでも、白狼を怯ませる効果はあった。なまじ賢いために、銃声を無視できない。蛇行しながら速度を上げ、地を駆ける白狼を目がけて連射する。三発を撃ち放ったところで射撃を止めると、弾切れと見たのか白狼が軌道を変え、まっすぐ突っこんでくる。
その賢さが命取りだった。地を蹴り、四肢が地面から離れてしまえば、もう回避はできない。大きく開いた口腔に銃口を突きこむようにして連射する。白狼は銃ごと呑みこむよう腕に食らいつくが、巻きつけた分厚い外套が牙の貫通を妨げる。ウルリッカは生温かい感触に顔をしかめながら、全弾を白狼に叩きこんだ。
怒り狂う白狼の全身から力が抜け、それでも食らいついた牙だけは外套から抜けず、腕にだらりとぶら下がるような形になる。間近でよく見れば、白狼ハルハーンより一回り小さく、毛皮には灰色の斑が散っている。よく似てはいるが、やはりかの狼の王とは別の狼だった。
「……ようやく、死にましたか。フェル、無事ですね?」
ようやくフェルリーヤに向き直るも、彼女には白狼の死すら見えていないようだった。じっと大地に視線を注ぎ、魔法を行使しようとしている。慌てて外套ごと白狼の死骸を振り払い、彼女のもとへ駆け寄る。
「フェル、フェル! もう白狼は死にました。魔法は必要ありません」
そばにしゃがみ、肩を叩いて声をかける。
「ウルリッカ、わたし、わたし……」
「大丈夫です。大丈夫ですよ、フェル」
幼い子供のように肩を震わせるフェルリーヤを抱き寄せる。
「……魔法のことは落ち着いてから考えましょう」
実際、考えることはいくらでもあった。まずは執拗にフェルリーヤを狙ったハルハーンのこと。二頭目の白狼は身体がやや小さいことを考えれば彼のつがい、あるいは子供であり、復讐のために二人を襲ったと推測される。しかしハルハーンにはフェルリーヤ個人を狙う理由はなかったはずだ。
この疑問について、ウルリッカにはひとつの仮説があった。ヒントになったのは、ハルハーンを撃退した翌日からの馬の様子だ。フェルリーヤの馬は、明らかに彼女を乗せることを恐れていた。このことから、動物はフェルリーヤが魔法を使えることを本能的に感知できるのではないか、という仮説が立てられる。
魔法を目の当たりにしたことで、疑問はかえって増えるばかりだった。真実を知りたいという好奇心と、深入りは立場を危うくするという保身がせめぎ合う。しかし、それ以上にウルリッカの胸を満たしたのは、彼女を、フェルリーヤを守らなければならないという想いだった。
7
白狼との戦いから一年弱。フェルリーヤとの約束通り、二人はヴェルホビーの戦場跡を訪れていた。この地でメルリーヤの行使した大魔法はシャイア帝国軍に大きな打撃を与え、ルーシャ帝国軍に反撃のきっかけを与えた。大魔法が大地に刻んだ傷痕は『魔女の爪痕』とも呼ばれ、今なお目にすることができる。
十六年前の開戦当時、準備の整わないルーシャ帝国に対して有利に戦いを進めたシャイア帝国は、ルーシャ領の奥深くまで部隊を進めていた。そこに現れたのが魔女メルリーヤだった。初めて歴史の表舞台に姿を現した彼女は圧倒的な力を振るい、大地を割って敵軍の退路を断ち、雪崩と土石流で全てを呑みこんだ。
二人の立つ小高い丘からは、戦場跡が一望できる。ヴェルホビーは険しい山に挟まれた谷間であり、この地より先に侵攻していたシャイア帝国の先遣部隊は退路と補給路を断たれて壊滅した。侵攻の途上にあった村や都市は壊滅的な打撃を受けたが、ルーシャ帝国全体として見れば、魔女メルリーヤが戦局に介入したタイミングは最善だったと言えるだろう。
もっとも、直接的な被害を受けた人々には未だ割り切れない想いも残る。ゲリラ化した現地の民族、シャイア帝国に内通することで安全と金銭を得ようとする住民も数多く、ルーシャ帝国政府は手を焼いているのが現状だ。そうした帝国の内情も、この一念でフェルリーヤに包み隠さず教えてきた。
「フェルと旅を始めて、もう一年になりますね」
「そうね……色々なところへ行ったわ」
「モルウルス自治区、ウルスタン共和国、シャイア帝国。隅々まで回ったわけではありませんが、中央エウラジアを一巡りしたことになりますね」
「楽しい旅だったわ。本当にありがとう、ウルリッカ」
立ち上がり、軽く手を払ったフェルリーヤが微笑む。訪れた先で大地に掌を当てる彼女の姿もすっかり見慣れてしまった。旅塵に塗れても輝きを失わない雪白の髪が風になびき、今なお生命の気配が薄い荒涼とした大地を背景にして、その佇まいにある種の魔的な美しさを与えていた。
地図を広げれば、ウルリッカとフェルリーヤがたどった数千キロにも及ぶ旅程が一本の線として記されている。ルーシャ帝国の首都メルフラードから始まり、モルウルス自治区に入り、ウルスタン共和国の各地を巡り、ルーシャ帝国とのそれと比べれば監視の緩い国境を抜けてシャイア帝国領にも足を踏み入れた。
ウルリッカを教師としたフェルリーヤは乾いた布が水を吸うように知識と経験を身に着け、今ではルーシャ語に加えて共通語での意思疎通もできるようになっていた。少々ブロークンな発音と語彙には目をつぶるとしても、国際社会においては相手が喋る内容を通訳抜きで理解できるのは大きなアドバンテージだ。
「ねえ、ウルリッカ」
魔女の爪痕をじっと見つめるフェルリーヤが、ぽつりと言う。
「ルーシャに戻ったら、貴方はどうするの?」
「私の正式な身分はルーシャ帝国陸軍中佐です。フェルの護衛任務が終われば、通常の軍務に戻ることになるでしょう。戻れれば、の話ですが」
自らの立場のあやふやさを思い、ウルリッカは苦笑する。
「貴方が軍に戻ったら……わたしは、どうなるのかしら」
「メルリーヤ様がどうお考えになるのかはわかりません。ですので、これはあくまで私見なのですが……フェルは時期を見て、正式に魔女の後継者としてお披露目されることになるでしょう。その日までは国際社会と政治について、しかるべき教師の下で学ぶ期間が設けられるものと思います」
ウルリッカの言葉を聞いて、フェルリーヤの肩が震える。
「……ウルリッカではダメなのかしら?」
「光栄なお言葉ですが、よりふさわしい人物はいくらでもおります」
「わたしは、ウルリッカがいい。貴方と離れたくない」
彼女はウルリッカと目を合わせるのを恐れるように、背を向けたまま言葉を継ぐ。
「ウルリッカは……貴方は、もうわたしと一緒にいるのが嫌なの?」
「そうですね……」
フェルリーヤの言葉を、一時の感傷に過ぎないと切って捨てることもできる。一年余りも共に旅をした相手と離れ離れになるのだから、一抹の寂しさを抱いたとしてもおかしくはない。しかし、一国を背負って立つ人間がそのような感傷から特定の人物を引き立てることがあってはならなかった。
「フェルと一緒にいるのが嫌だというわけではありません。ですが、これからの貴方は国家を背負う者として、建前と権力を使いこなさなければなりません」
フェルリーヤが振り向き、どういうことかと問いたげに眉をひそめる。
「私はフェルの教師であり、護衛である以前に、軍人です。そして、そのことに誇りを抱いています。魔女の後継者として、フェルが私をそばに置きたいと願うのなら。取りうる手段はいくつか考えられるはずです」
ウルリッカの言葉を材料に、しばし考えたフェルリーヤが答えを出す。
「……わたしは魔女の後継者として、貴方を我が親衛隊の長として任命します。ウルリッカ・グレンスフォーク陸軍中佐。この任務、引き受けてくださいますね?」
世間知らずの儚げな少女の面影は、すでに見られない。一年の旅を経たフェルリーヤの凛とした態度、口調には指導者としての風格が確かに備わりつつあった。ひざまずいて手を取り、口付けと共に制約の言葉を述べる。
「……未来の女王陛下、心優しき白の魔女に我が忠誠を。帝国陸軍中佐ウルリッカ・グレンスフォーク、親衛隊長の任を謹んで拝命いたします」
*
ヴェルホビーの戦場跡を発ち、モルウルス自治区に入る。遊牧民の一族と交わした、また訪れるという約束を果たすためだった。しかし、冬営地に近づくにつれてどこか違和感が高まっていく。その正体に明確な定義を与えられずにいるうちに、今度は馬が怯えて先に進むことを嫌がりだした。
「……どうしたのでしょう。今まではこんなことはなかったのに」
不安そうに言うフェルリーヤに、心当たりはないと首を振って示す。
「冬営地までそう距離はありません。手綱を引いて歩きましょう」
フェルリーヤには言わなかったが、ウルリッカは去年の出来事を思い出していた。あれはハルハーンを倒し、冬営地を出発しようとしたときのことだった。あのとき、馬たちはフェルリーヤに対して怯えるような素振りを見せた。それとどう結びつくのかまではわからなかったが、胸の中に不安が渦巻く。
しばらく先に進むと、違和感は明確なものとなる。まだ秋口だというのに、草木が枯れ果てているのだ。しかも、その傾向は進むほどに強まっていく。十分も経たないうちに、周囲は静寂に包まれた枯草色の大地が見渡す限り続く景色へと変わる。秋になり、冬を前にして枯れたのではなく。春と夏を通じて草木の一本すら生えなかったのだと知れる、地平線に至るまで死に満ちた大地だった。
「…………」
蒼白な顔で辺りを見回すフェルリーヤの肩に手を置く。
「……行きましょう」
冬営地はもぬけの殻だった。生命の気配どころか、生活の痕跡すらない。打ち捨てられた道具や柵の残骸が、かえって物悲しさを漂わせている。
「これは……なに? なぜ、こんな……」
「わかりません。ただ、ここには生活の痕跡らしきものが一切見当たりません。遊牧民族の一族は、ここではないどこかへ移動したものと思われます」
「じゃあ、みんな生きているのね?」
「おそらく」
「探しましょう。なぜ、こんなことになったのかを聞かないと……」
「いけません。この大草原を移動する遊牧民族を捉えるのは至難の業です。私たちはここでなにかが起きたことを本国に報告せねばなりません。気がかりではありますが、今はルーシャへ戻りましょう、フェル」
じっと下を向いて考えこんでいたフェルリーヤだが、やがてうなずく。
「……わかりました。貴方の判断を信じます」
逃げるように冬営地を後にする二人の間で交わされる会話は途切れがちになり、やがて途絶える。重い沈黙の中でウルリッカが思い返していたのは、ヴェルホビーの戦場跡のことだった。先の戦争から十六年。人の手が全く入らなかったにも関わらず、赤茶けた剥き出しの地面が顔をのぞかせているのを見て、その時点で疑問を抱いてしかるべきだったのだと唇を噛む。
フェルリーヤに尋ねたわけではない。メルリーヤから聞かされたわけでもない。しかし、この惨状を見てウルリッカは確信する。これは、フェルリーヤがこの地で魔法を行使したことをきっかけとして引き起こされた事態なのだと。
「ウルリッカ……ウルリッカ!」
呼びかけられ、はっとなる。
「どうしましたか、フェル」
「いま、あっちでなにかが光って……」
フェルが指差した方角から、長く尾を引く破裂音が響く。続けて鋭い風切り音を立てて銃弾が二人の横を飛び抜けていく。狙撃、という単語が脳裏に浮かぶ。続けて馬のいななきが風に乗って届き、長く伸びた草の陰から数騎の騎兵が駆けてくるのを視界に捉えた。明らかに友好的な相手ではない。
「フェル、馬に乗って! すぐにここから逃げます!」
「……はい!」
四騎の騎兵はライフルを背負い、揃いの制服を身に着けている。遠目に見る限り、シャイア帝国の軍服に似ているように思えた。何らかの極秘任務、あるいは偵察任務を帯びているのだとすれば、捕まったらタダでは済まない。
「あれは? なぜわたしたちを?」
「おそらくシャイア帝国の兵です。逃げましょう、こうも平坦な場所では……」
「シャイア……そうか、あいつらが……」
「フェル? フェル!」
フェルリーヤの馬が足を止める。否、彼女が手綱を引いて止めたのだ。ウルリッカも慌てて馬首を返し、フェルリーヤの下へと引き返す。その間にフェルリーヤは下馬してしまっていた。その眼はまっすぐに騎兵を見据えている。
「シャイアは敵だと、お母さまに教わりました」
「そうだとしても、今は逃げるべきです! お早く!」
「大地を枯らしたのも、きっとシャイアの仕業です。あいつらを倒せば……」
「フェル! いけません、ここでは魔法は……」
その場でしゃがみこみ、大地に掌を当てて瞑目するフェルリーヤの姿はこの旅を通して幾度も見かけたものだ。そしてウルリッカの推測が正しければ、今この場で魔法は発動できない。思い出すのは、ハルハーンのつがいを撃退したときに魔法が使えず自失していたフェルリーヤの姿だ。あのときと同じことを繰り返せば、自失したフェルリーヤを連れてこの場から逃れるのは不可能になる。
フェルリーヤの手をつかんで立たせようと引っ張ったのと、凄まじい虚脱感に襲われたウルリッカが意識を失ったのはほぼ同時だった。
*
意識を取り戻したウルリッカが目にしたのは、大地から突き出た岩の槍で串刺しにされた四人と四頭の馬だったものと、地に伏す彼女に取りすがってすすり泣くフェルリーヤの姿だった。鉛でも詰めこまれたように重い腕を持ち上げて彼女の頭をなでてやると、一層激しく泣き出してしまう。きしむ身体を起こして周囲を見回すも、怯えたように距離を置く二人の乗ってきた馬以外に動くものの気配はなかった。
「……他にもいないとも限りません。この場を離れましょう」
喋るだけで倦怠感に襲われ、激しい頭痛が思考を苛む。鞍上に身体を引きずりあげ、カザンスクに向かうようフェルリーヤに言い含めるので精一杯だった。馬に体重を預け、意識をはっきりさせようと頭を振ったことまでは憶えている。次に意識を取り戻したのは、すっかり日も沈んでからだった。
「ウルリッカ!」
「……フェル? どうしましたか?」
「どうしたのか、ではないわ! 貴方、落馬したのよ!」
フェルリーヤに言われて、ようやく自身の状態に意識が向いた。固い地面に打ちつけた肩が酷く痛み、乗り手を失った馬が心配そうに鼻面を寄せてくる。無理を押して先に進んでも、また落馬するだけだろう。今度は打ち身だけで済む保証はなく、これ以上進むことは断念せざるを得なかった。
十日をかけてカザンスクへたどり着くまでには、身体の調子も少しはまともになっていた。それでも全身の倦怠感は抜けず、気を抜けば意識を失ってしまう状態には変わりなかった。フェルリーヤが絶えず声をかけ、支えてくれなければ、どこかでまた落馬して大怪我をしていたかも知れなかった。
鈍った思考で、あのときなにが起こったのかも考えていた。ウルリッカの推測通り、魔法とは大地が生命を育む力を破壊力へと変換するものなのだとすれば、それが生物を対象として振るえたとしてもおかしくはない。魔法の発動の瞬間、枯れた大地の代わりに彼女の手を握っていたウルリッカの生命力が吸われたのだ。
白狼や馬がフェルリーヤを恐れた理由も今ならわかる。魔女とは生きとし生けるもの全てに対する脅威であり、天敵なのだ。本能に生きる彼らには直感できたことが、立場や常識に縛られた人間には理解できなかった。結局のところ、魔法という非現実的なものに対する考察を深めようとせず、あいまいなままにしてきたツケが回ってきた、ということだった。
「もうすぐカザンスクに着くわ。がんばって……!」
「すみません、フェル」
カザンスクの城門を潜ったときには、ようやくルーシャ領内までフェルリーヤを連れ帰れた安心感から意識を失いそうになった。なんとかそうならずに済んだのは、街を包む雰囲気の異様さがウルリッカにそれを許さなかったからだった。
「街の雰囲気が慌ただしい……脱出、しようとしている……?」
ウルリッカの独り言に、フェルリーヤが不安そうな表情を浮かべる。街路を埋めるのは家財道具を詰めこんだ馬車や荷車が目立ち、市場からはすっかり活気が失われていた。辻には衛兵が立ち、騒動や犯罪に目を光らせているものの、彼らの立ち居振る舞いにも不安と動揺が見て取れる。
馬を降り、雑貨屋に立ち寄って新聞を買い求める。店主の老人は腕を組んで難しい顔をしていたが、二人に目を止めると諭すような口調で話しかけてくる。
「お嬢さんがた、早々にこの街を立ち去るがよい。ここは戦場になるよ」
「戦場……? 戦争ってことですか?」
フェルリーヤが問い返す間に、ウルリッカは新聞の紙面に急いで目を通す。シャイア帝国がルーシャ帝国に対して宣戦布告したこと、それに対して大統領が発表した談話が一面に掲載されていることに愕然とする。
「シャイアが仕掛けてきた……? なぜ今、このタイミングで……?」
「そりゃお前さん、魔女様がいなくなったからじゃろうよ」
「いなくなった……メルリーヤ様が? どういうことですか?」
問い返すウルリッカに、老人が目をしばたたかせる。
「どうもこうも……女王陛下はつい先日、この世を去られたばかりじゃろう」
「お母さま、が……?」
信じられない、といった様子でフェルリーヤがつぶやく。しかし、老人が嘘をついている様子はない。モルウルス自治区に侵入していたシャイア帝国軍の斥候たちにも説明がついてしまう。魔女メルリーヤはこの世を去った。その現実が、ウルリッカの胸中に重く現実としてのしかかってくる。
「ウルリッカ……?」
見上げてくるフェルリーヤの視線は、老人の言葉をウルリッカが否定してくれることを求めていた。しかし、その願いは叶えてやれない。
「一刻も早く、首都メルフラードに戻りましょう。ルーシャの魔女、その後継者が健在であることを一日も早く示さねば、それだけ犠牲は増えます」
そのような言葉しか吐けない自らを、これほど呪う日が来ようとは。
白雪のごとき儚げな魔女は、この日よりルーシャの全てを背負うことになる。
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