第6話 アルメアの荒れ野に咲く


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 広い水面さえあれば、そこが滑走路になる。場所に縛られず、どこへでも行ける。一般に抱かれるそうした水上機のイメージは、ほとんどが幻想に過ぎない。離水時に風にあおられ主翼を水面に打ちつけて大破したり、着水時にフロートが横波をかぶって機体ごとひっくり返される事故など珍しくもない。

 基地や空港まで帰り着けば平坦な滑走路が約束される陸上機と異なり、ひとたび天気が荒れて水面が波立てば水上機はどこにも降りられない空の牢獄と化す。ペトレールが引きこみ式の着陸脚を備えた水陸両用機として建造されたのは、川や湖のない内陸部への輸送を可能にする意図もあるが、それ以上に荒天時でも滑走路なら着陸できるようにすることが主目的だった。

「フェル、聞こえるか」

 伝声管を通じて、ユベールは後席の航法士に声をかける。

「聞こえる。どうした?」

「現在地はどこかわかるか?」

「アルメア連州国、イランド内海の上空だ」

「俺たちはカルニア州都プルーメントに向かう。進路はこのままでいいか?」

「前方の積乱雲に突っこむ前に、十時方向へ変針しよう」

「了解。十時方向に変針する」

 手元の地図に目を落とし、フェルの指示が妥当なものであることを確認して操縦桿を倒す。針路を提案する彼女の口調に迷いはない。航法士として順調に経験を積んでいる証だった。地上にいる間、航法について少しずつ教えてきた成果が形になりつつある。客ではなく、相談できる相棒が後席にいるのはやはり心強い。

 サウティカを飛び立ったペトレールは、数多の貿易船がテイダル運河を目指して行きかうリムピドゥス海を横切り、エンディア半島を超えてイランド海上空を飛んでいた。このまま北上すれば、アルメア連州国でもっとも貿易が盛んなカルニア州に着く。二人が目指しているのは、そのカルニア州の州都であるプルーメントだ。貿易で栄えるこの地なら飛行機乗りのための仕事も見つけやすい。次の仕事が決まるまでの当面の滞在地としてはうってつけの街だ。

「空から見下ろすアルメアはどうだ、フェル?」

「船が多い。飛行機もだ」

 海面と空に描かれた無数の航跡を眺めやりながらフェルが答える。

「こんなに飛行機が飛んでいるのは見たことがない」

「飛行機を発明したのはアルメア人だからな。旺盛な開拓精神も相まって、民間飛行機の数にかけちゃ世界一だ。加えてアルメアは造船大国としても知られる。今じゃ大陸向けの1万トン級輸送船を一日一隻のペースで建造してるって話だ」

「……戦争のためか?」

「そうだな。戦争ってのは兵隊や兵器も重要だが、最後にモノを言うのはやはり兵站だ。飯と燃料がなくちゃ部隊は一歩も動かんし、手元に銃弾がなくちゃ敵とは戦えない。必要なのはそれだけじゃない。衣住食に娯楽品、嗜好品。およそ人が暮らすのに必要なもの全てを兵站は要求する。輸送船や輸送機が果たす役割は、場合によっちゃでかい大砲を積んだ戦艦より重要になる」

「エングランド王国でのビール輸送のように?」

「そういうこと。つまり、商機はいくらでも転がってるってことだ」

「了解だ。気を配ろう」

「頼りにしてるぜ、相棒」

 会話をしながらも、計器盤に視線を走らせ、周囲に気を配る。先ほどから油温と油圧を示す針の位置が細かく動き続けているのが気になっていた。気温が高く砂埃の多いサウティカから飛んできた影響が大きいのか、エンジンの調子が悪くスロットルを開いても思うように回転数が上がらない。長く飛びたくはない状況だった。

 急速に発達し、夏の空にむくむくと存在感を増しつつある積乱雲を迂回し、目的地のカルニア州都プルーメントを視界に収める。どうも一雨ありそうな気配だ。風が強くなる前に着水して、できれば陸に上げてしまいたい。

 高度を下げ、海面の状態を確認する。一般に海での離着水難度は川や湖に比べて高い。風による波に加えて、潮汐やうねりによる複雑な変化があるためだ。波の方向と高さを見誤れば、足をすくわれた水上機はいとも容易に転覆してしまう。観察は疑り深く慎重に、降りると決めたら機体と操縦士に全幅の信頼を。いつか誰かに教わった訓戒を心のうちに唱えながら、海面を撫でるように機体を降ろしていった。



「補給はこれで終わりか?」

「ああ、ご苦労さん。次は俺たちの補給だな。腹が減ったろ?」

 補充した消耗品のチェックリストをフェルから受け取る。アルメア連州は飛行機大国と言われるだけあり、プルーメント港だけでも飛行機整備を請け負う民間会社がいくつも見つかった。そのうちのひとつに頼んでペトレールを陸に上げてもらう。最後にまともな整備を受けたのはハイランド地方を訪れたときなので、そろそろ本格的な整備も受けさせておきたいところだ。

「ペトレールの調子が悪いのか?」

 格納庫のペトレールを見つめるユベールにフェルが声をかけてくる。

「ちょっとな。設備の整ったアルメアにいるうちに、きちんと整備したいところだ。幸い、お前さんのおかげで金はあるしな」

「その、ユベール。わたしの勘違いかも知れないんだが……」

「気になることがあったら言ってみろ」

 口にするか迷うように目を伏せるフェルを促してやる。

「エンジンの音が、普段と違った。ここに降りる少し前からだ」

「……よく気付いたな」

 本心からの称賛をこめて言うと、フェルの口元がわずかに緩む。

「ペトレールはわたしたちの相棒だから」

「ああ、しっかり直してやらなきゃな。アルメア製の部品なら精度と信頼性も高い。交換できる部品はこの際だから一通り入れ替えるとしよう」

「この工場で頼むのか?」

「消耗品はな。エンジンの分解整備まで含めた本格的なオーバーホールは別に伝手がある。と言ってもアルメア東海岸の整備工場だから、ここからだと大陸の反対側になるな。そこまではエンジンをだましだまし行くしかない」

 ユベールの言葉に、フェルが首をかしげる。

「墜落しないのか?」

「縁起でもないこと言うなよ。致命的な故障がないかはここでも見てもらう。回転数が上がらないだけで、無理をさせなきゃ墜落したりはしないさ」

「そうか」

 フェルには航法に加えて点検整備についても手ほどきしているが、あくまで日常点検レベルのものに過ぎない。本格的なオーバーホールとなると、設備や部品の揃った本職の整備士に任せた方が確実だった。理想を言えば操縦士か航法士のどちらかが整備士も兼任できればいいのだが、それは今のフェルには高望みが過ぎる。

「それより腹が減っただろう? 飯を食いにいこう」

「了解した」

 近くにいた整備士を捕まえて近所のダイナーの場所を聞き出し、歩いて向かう。それほど長い距離を歩いたわけでもないのに、店頭や街角の至る所で同じポスターを見かける。以前この街を訪れた際にはなかった、志願兵募集のポスターだ。

 ダイナーに到着する。昼下がりで客が引けた頃合いであり、ハンバーガーとフライドポテト、コーヒーを注文するとそれほど待たされずに提供された。苦いだけのコーヒーはともかく、肉厚のパテと揚げたてのポテトは塩が利いていて旨かった。フェルも巨大なハンバーガーに目を丸くしながらかぶりついている。

「補給が済んだら、すぐに飛ぶのか?」

 口についたケチャップをぬぐってフェルが尋ねる。

「飛ばない。急ぐ話でもないしな」

「では、この街で次の仕事を探すのか?」

「そうしてもいいが、結局サウティカでも気が休まらなかったんじゃないか? 車でも借りて、しばらく観光してもいいな。アルメアは初めてなんだろう?」

「初めてだ。どんな観光地があるんだ?」

「カルニア州に限っても、プルーメント市内なら劇場や博物館、ちょっと足を延ばせば動物園や水族館もある。ビーチはサーフィンの名所だし、国立公園に指定された森林や峡谷の遊覧飛行なんて仕事も昔はしたっけな」

「国立公園……ハイランドにあったような?」

「ああ……あれをイメージしていくと肩透かしを食らうぞ。モルハ国立公園は、サボテンしか生えない砂漠と、岩の峡谷がどこまでも続く場所だ。空から見下ろす分には壮観だが、地上に降りると殺風景な場所だ。かつてはゴールドラッシュでにぎわったそうだが、金鉱脈が枯れた今ではゴーストタウンだらけだしな」

「ふうん……その認識は聞き捨てならないね」

 いきなり会話に割りこんできたのは、黒縁の眼鏡をかけた、人懐こそうな男性だった。近くの席でハンバーガーを食べていた男はどこか学者然とした雰囲気を漂わせており、ハンカチで口をぬぐうと二人に向き直って言葉を継ぐ。

「いいかい? モルハ国立公園には乾燥した環境に適応した多くの動植物が生息しているんだよ。その数は判明しているだけで哺乳類五十種、爬虫類三十五種、魚類四種、鳥類三百五十種、植物は一千種を超える。断じてサボテンだけではないんだ」

 憤然として早口で述べる男に、ユベールは肩をすくめてみせる。

「そりゃすごい。さっきの言葉は撤回しますよ」

「わかってくれればいいんだ。ところで、君たちは飛行機乗りだね?」

 一転してにこにこと笑みを浮かべる男が言う。

「仕事を探しているのなら、僕の話を聞く気はあるかい?」

 唐突な申し出に、フェルと二人で顔を見合わせるしかなかった。


2


「失敬、まだ名乗っていなかったね。僕はアーロン・アディントン。カルニア州立大学で歴史学を教えている。アーロン、もしくはドクターと呼んでくれ」

 差し出された名刺にはカルニア州立大学プルーメント校、アーロン・アディントン博士の名が記されている。専攻は歴史学。モルハ国立公園に関するユベールのいい加減な発言を聞きつけ、我慢できず声をかけたというところだろう。

「トゥール・ヴェルヌ航空会社所属、操縦士のユベール=ラ・トゥールだ。こっちは航法士のフェル・ヴェルヌ。よろしくな、ドクター」

「よろしく、アーロン」

「ユベール君にフェル君か。うん、二人ともよろしく」

 アーロンは満面の笑みを浮かべて歩み寄ってくると、二人と力強く握手を交わす。好奇心に満ちた子供のような瞳と以前からの知り合いであったかのような気さくな態度はいかにもアルメア人らしく、邪気がない。少なくとも、悪い人間ではなさそうだという印象をユベールは持った。

「実は君たちの会話が耳に入ってしまってね。聞けば君たちは飛行機乗りで、仕事を探しているんだろう? 僕はまさにそういう相手を探していたところなんだ。これは神のお引き合わせに違いないと直感して、つい話しかけてしまったというわけさ。突然のことで驚かせてしまって、すまなかったね」

「いえ、ありがたいお話です。それで、仕事とは?」

「うん、気になるのはそこだろうね。僕は歴史学者としてモルハ国立公園の研究調査を行っているんだけど、その手伝いを頼みたいんだよ。具体的には物資の輸送、可能なら空撮を含めた空からの調査も頼みたい。君たちの飛行機は? 輸送に適さないなら、こちらで手配することもできるけど」

「中型の水陸両用飛行艇だ。輸送も調査も請け負える。輸送量は物資の体積と輸送距離にもよるが、重量で六百キロまでは一度に運べる」

「へえ……空から地表の調査をした経験は?」

 アーロンの質問にフェルが答える。

「エングランド王国、ハイランド地方で遺跡の調査を手伝った」

「エングランドか。僕も学生時代はあっちの大学だったんだ。懐かしいな」

 目を細めるアーロンに、肝心なことを言い忘れていたことを思い出す。

「ドクター。俺たちの飛行機は修理中で、今週いっぱいは動かせないんだ。仕事は来週以降から請け負うということで問題ないか?」

「うん、構わないよ。それから報酬についてだけど、経費は全てこちらで負担する。ユベール君はこの辺りで遊覧飛行の仕事もしたことがあるんだよね? それと同じ水準で、拘束した日数分を払うよ。働き次第ではボーナスもつけよう」

「拘束した日数? 実際に飛行した日数ではなく?」

「もちろんだ」

 ユベールが確認すると、アーロンは当然だと言わんばかりの表情で肯定する。

「拘束期間は? あまり長期のものは困るんだが」

「予定では三ヶ月。延長する場合は再契約という形になるかな」

「三ヶ月か……」

 ペトレールの不調も、無理をしなければ凌げる期間だ。

「ユベール、どうする?」

「……いい条件だ。請けよう」

「ありがたい。よろしく頼むよ、ユベール君、フェル君」

 アーロンと改めて握手を交わす。学者は一般に飛行機乗りのような人種を見下す傾向があり、提示される報酬も渋いのが常だが、アーロンの提示した飛行した日数ではなく拘束した日数で支払うという条件なら金額的には申し分ない。流石は飛行機大国アルメアの学者といったところだろうか。

「じゃあ細部の詰めと契約書の締結をしたいけど、君たちの飛行機は修理中なんだよね。そうだな、今日はこれから予定があるのかい?」

「いや、昼前にこちらへ着いたばかりで、まだホテルも決まっていない」

「だったら、下見を兼ねてモルハ国立公園に来てみないかい? 近くにあるモルハ空港も案内するよ。時間は車で片道一時間。どうかな?」

「フェル、疲れてないか?」

 ユベールの問いに、フェルがうなずく。

「大丈夫だ」

「では、それで頼もう」

「よし、決まりだ。じゃあ行こうか」



 三十分後、混雑する市街を抜けてハイウェイに入ったアーロンのピックアップトラックは、速度計が壊れているのでなければ時速百六十キロで荒野にまっすぐ敷かれた高速道路を走行していた。確かにこれならプルーメント市街からモルハ国立公園まで一時間で到着するだろう。しかし同乗者としては生きた心地がしない。

 アーロンとユベールの間に座るフェルの表情も、心なしかこわばっている。ふと気付くと、彼女はユベールの服の裾をぎゅっと握りしめていた。

「ドクター、少しスピードを落としてくれないか?」

 ユベールが頼むと、アーロンはおもしろい冗談を聞いたように笑う。

「君たちは、普段もっと早く空を飛ぶんだろう?」

「こんな地表すれすれを飛んだりはしませんがね」

「はは、それもそうだ」

 納得したように笑うと、アーロンがアクセルを踏む足を緩める。

「だから、たまに車を運転すると緊張しますよ。地面も車も通行人も、空では危険を感じるほどの近さなのに誰もが平然としている。クレイジーだってね」

「おもしろい感性だね。確かに比較対象物がある分、車の方がスピード感はあるだろうな。僕も出張で飛行機に乗ると、自分が空に浮いているだけで前に進んでいないような感覚を覚えることがあるけれど、君たち飛行機乗りもそうなのかい?」

「よくありますよ。雲ひとつない蒼空、代わり映えのしない海面やどこまでも続く雲上を飛んでいると、速度を確認する手段が速度計しかなくなるんです。濃い霧や、夜闇に包まれたときなんて最悪ですね。ふと気付くと、進行方向どころか機体の傾きや上下もわからなくなって、墜落しかける。飛行機乗りならそんな経験は一度や二度じゃない。そのまま死んでしまったやつも含めれば、もっと増えるでしょうね」

「空間識失調というやつだね。一度体験してみたいものだけど……ああ、いや、興味本位でこんなことを言ってしまって、気を悪くしたらすまないね」

「気にしないさ、ドクター」

 車内に沈黙が落ちる。運転をおろそかにしてもらっても困るので黙っていると、雰囲気を変えるようにフェルが質問を投げる。

「質問していいだろうか、アーロン」

「どうぞ、フェル君」

 少女にしては固い口調を気にした風もなく、アーロンが先を促す。

「アルメアは飛行機大国だとユベールから聞いた。アーロンは、なぜアルメアの飛行機乗りではなくわたしたちに依頼したんだ?」

「結論から言うと、今のアルメアには飛行機はあっても飛行機乗りがいないんだよ。腕のいい飛行機乗りは大陸に渡ってしまったからね」

「なぜ?」

 フェルは首をかしげるが、ユベールには察しがついた。

「……戦争か。そういえば、街中でも志願兵募集のポスターを見たな」

「そう。連合国と帝国軍の開戦からしばらくは参戦を渋っていた議会が、数ヶ月前にようやく連合国側での参戦を承認したからね。それまで送っていた物資に加えて、兵隊や兵器も送るようになった。もちろん飛行機も。となれば飛行機乗りも大勢必要になってくるよね。創立からまだ日が浅い空軍が頭数を確保するためには、民間から飛行免許を持った人間を募るしかなかったってわけさ」

 アーロンの話は、現在のアルメアでは飛行機乗りの需要に対して供給が追いついていないことを示唆している。ユベールに対して示された好条件も、そうした背景を考えれば納得できた。この状況は戦争が続く限り変わらないので、しばらくはアルメアに留まればおいしい仕事にありつける確率が高い。

 フェルに目をやると、彼女もまた黙ってうなずく。ユベールと同じ結論に達したらしい。頭の回転が速く、察しのいい相棒ほど頼れるものは他にない。

 窓外の景色は人工的な植樹が姿を消し、赤褐色の荒野へと変わっている。単調な景色が地平線まで続き、細く開けた窓からは乾いた空気が入ってくる。農業にも牧畜にも適さない、痩せた土地だ。カルニア州はゴールドラッシュにより発展し、貿易により確固たる地位を築いた州であり、厳しい気候と土地の貧しさに加えて水の確保が困難な地勢もあって農業はあまり盛んではない。

「そろそろモルハ空港が見えてくるよ」

 アーロンの言葉で視線を前方に向けると、道路脇におびただしい数の飛行機が整列しているのが目に入った。舗装もされていない砂漠に並べられた飛行機は骨董品と呼べるものから比較的新しいものまであり、機体の状態も翼のない朽ちた機体からすぐにでも飛べそうなものまで様々だった。

「この飛行機は?」

 フェルの疑問にアーロンが答える。

「これかい? 退役した飛行機を一時保管してあるそうだよ。この辺りは極端に雨が少ないから、露天で保管しても傷みが少なくて都合がいいんだってさ。中古機として輸出したり、部品取りに使ったりするそうだよ」

「すごい数だな」

「西海岸の退役機が全て集まるからね。飛行機大国の面目躍如ってところかな」

 林立する飛行機の列を抜けると、広大ではあるが簡素な飛行場が見えてくる。看板にはモルハ空港の名が刻まれている。アルメアには大小様々の民間空港が点在しているが、このモルハ空港もそのひとつである。

「モルハ空港は国立公園の玄関口でもある。明確な区切りはないけど、この先に見える全てがモルハ国立公園の敷地だよ」

 アーロンの言う通り、境界となる柵や塀は見当たらない。赤褐色の大地と点在する植物、ゆったりと高空を旋回する猛禽類を除けば動くものもなかった。およそ人が住むのに適しているとは思えない風景がそこには広がっている。ついに舗装もなくなり、速度を落とした車の背後には盛大な砂埃が舞い上がっていた。

「もうじき僕たちのベースキャンプが見えてくるよ。ほら、あれだ」

 激しく振動する車内で、アーロンが前方を指差す。その先に白い建物が見えた。

「アーロンは、ここで何を調査しているんだ?」

「聞きたいかい?」

 フェルの問いに、アーロンが自信たっぷりに答える。

「かつて緑豊かなこの地に文明を築いた、アルメア先住民族の遺跡調査だよ」

 見渡す限りの荒野を駆ける車の中で、アルメア人の学者はそう言うのだった。


3


 遠目には白い建物と見えたのは、巨大なテントだった。アーロンに案内されて中に入ると、分厚いキャンバス地が木の支柱と鉄の金具で支持された、強固な作りであることが分かる。室内はキッチン、ダイニング、寝室、作業エリアに分かれ、かなり長期に渡って滞在していることを窺わせる生活感が漂っていた。

「サンディ、いるのかい?」

 アーロンの呼びかけに応えて、目つきの鋭い男が姿を現す。

「お前が客を連れてくるとは珍しいな、アーロン」

「いや、彼らは飛行機乗りだよ。僕らの依頼を受けてくれるそうだ。紹介するよ、彼はサンディ・マンスフィールド。モルハ国立公園のパークレンジャーなんだ」

 パークレンジャーとは、アルメア政府に指定された国立公園の管理と自然保護を任務とするアルメア政府職員のことだ。その仕事は多岐に渡り、時には希少な動植物の密猟者を逮捕することもあるという。

「トゥール・ヴェルヌ航空会社、操縦士のユベール=ラ・トゥールだ。よろしく」

 サンディはユベールが差し出した手をしばし見つめると、両手を顔の横まで上げて、手のひらをこちらに向けてきた。握手を拒否されたのかと思って面食らっていると、取りなすようにアーロンが言う。

「サンディの挨拶は僕たちと違っているんだ。握手を拒否しているわけではないよ」

「悪いな。初対面の相手とは握手をしないことにしている」

 悪びれた様子もなく言うサンディ。ユベールもうなずき、手を引っこめる。

「航法士のフェル・ヴェルヌだ」

「ユベールにフェルか。俺のことはサンドマンと呼べ」

 もう一度、両手を掲げる挨拶のポーズを取るサンディ。その様子にフェルが意外そうな顔をする。これまでのパターンから、年齢や容姿、航法士であることについて何か言われることを覚悟していたのだろう。

「何も、言わないのか?」

「なぜだ? いい仕事に年齢も性別も関係ない。ユベールが操縦士で、フェルは航法士。お前たちはそう名乗った。お互いに了解しているなら、それに俺が文句を付ける筋合いはない。だがこれだけは憶えておけ。子供だからと手加減はしないぞ。仕事の出来が悪ければ、即座に契約は打ち切るからな」

「承知した。最善を尽くそう」

 話は終わったと言わんばかりにカウボーイハットを被り、テントの外へ向かおうとするサンディ。パークレンジャーの制服から覗く肌は浅黒く、同じく日焼けしたアーロンと比べても色が濃いことから、元々茶褐色に近い肌色なのだと察せられた。瞳もとび色で、白い肌に青い目の典型的なアルメア人であるアーロンとは好対照だった。

「何か言いたいことがあるのか、ユベール?」

 視線を感じたのか、不快そうに顔をしかめてサンディが振り返る。

「いや……すまない。じろじろ見て悪かったよ」

「正直に言えばいい。白人でも黒人でもない、共通語を話すのに妙な挨拶をする、変なやつだと思っているんだろう。その通りだからな」

 自虐混じりの発言にどう返したものか思案していると、アーロンが口を挟む。

「彼は先住民の血を引いているんだ。ぶっきらぼうだけどいいやつだよ」

 あくまでマイペースで気楽な調子のアーロンに、サンディが舌打ちする。

「アーロン、このお喋りガラスめ。人の出自をべらべら喋るな」

「僕は契約書を準備しておくから、サンディはその間に二人を近場の遺跡まで案内してくれるかい? 僕らの研究について、ある程度は知っておいてもらいたいんだ」

「アホか。なぜ俺がそんなことをしなきゃならない」

「案内もパークレンジャーの仕事だろう? 君が契約書を準備してくれるなら、僕が代わりに案内してもいいんだけど、君、そういうの苦手だったよね」

「……仕方ない。おい、行くぞ」

 悪態をつかれても飄々と受け流し、言いたいことを言うアーロンを見ていると、サンディの上手いあしらい方も見えてきたような気がした。

「車で行くのか?」

「馬だ。俺は機械には乗らん」

 テントの裏側に回ると、馬小屋があった。風通しがよく、それでいて日差しを遮る作りになっている。繋がれている馬は三頭で、どの馬も手入れが行き届いていた。

「馬か……フェル、大丈夫か」

「問題ない」

「本当か? お前の問題ないはどうも信用できないんだよな」

 いざ乗ってみると、馬の扱いが一番下手なのはユベールだった。

「ユベール、大丈夫か?」

「そんな調子じゃ日が暮れるぞ」

 フェルに皮肉を言われ、サンディに呆れたような声をかけられつつ、勘を取り戻そうと悪戦苦闘する。考えてみれば、最後に馬に乗ったのが何年前か思い出せない。ようやく駆け足で進めるようになるまで、小一時間を費やす羽目になった。

「着いたぞ、ここだ」

 サンディが馬を止めたのは、一見すると何もないように思える場所だった。近くの灌木に馬を繋ぎ、彼が指差す岩をよく観察すると、それが人工的に切り出された石材であることが見て取れた。似たような石材は周囲にいくつも転がっている。風化が激しいが、どうやらこの場所には何らかの建造物があったらしい。

 コーンパイプにマッチで火を付け、几帳面に燃えがらを腰に下げた革袋に仕舞いこむサンディ。ユベールの視線に気付くと、釘を刺すように言う。

「いいか、二人とも頭に叩きこんでおけ。このモルハ国立公園では、レンジャーである俺の目が届く場所でゴミを捨てることは許さん。緊急時を除いて、だがな」

 それだけ言うと、サンディはパイプを吹かし始める。自発的に説明してくれる気はないようなので、こちらから質問を投げてみる。

「この遺跡は、アルメア先住民族のものなのか?」

「アーロンはそう言っている」

「こんな荒野に住んでいたのか?」

「家ではない。塔があったそうだ」

「塔? のろし台か何かか?」

「それを調べているそうだ」

「遺跡はここ以外にも?」

「国立公園内に点在している。奥地では、塔の形をいくらか保った遺跡も見つかっているが、残念ながらすぐには見せられん。そこまで行って帰ってくるだけで一週間はかかる。写真があるから、後でアーロンに見せてもらうといいだろう」

「荒野に点在する先住民族の塔か。どんな目的で建てたんだろうな」

 ユベールの言葉に、サンディが首を振る。

「わからんが、アーロンが言うには、アルメア先住民族がここで暮らしていた時代、ただモルハとだけ呼ばれていたこの土地は緑豊かで肥沃な土地だったらしい。五百年あまりの時を経て、今では見る影もなく砂漠化が進んでいるがな」

「にわかには信じがたい話だな」

「だが、真実だ。疑うならアーロンに言ってみろ。お喋りガラスは化石がどうの地層がこうのと、お前が納得するまで何時間でも説明してくれるだろうよ」

 サンディが砂漠化と口にした通り、モルハ国立公園に占める森林の面積は一割に満たない。極度の乾燥、それに適応した限られた生物種のみが根付く自然環境は、内陸に行くほど厳しさを増す。土地の隆起と風化の進行により形成された赤褐色の渓谷は空から眺める分には壮観だが、そこで生きる者にとっては過酷の一言に尽きる。

「というわけで、お前らに依頼する仕事は大きく分けて二種類ある。ひとつは空からの予備調査。遺跡が存在する、ないしはその可能性がある地点の洗い出しと、そこへ至るためのルート選定。もうひとつは実地調査に必要な物資の輸送と、俺たちが指定した地点への投下だ。これには正確さが求められる。できそうか?」

「可能だ。両翼で三百キロまで懸下できる。どこにだって落としてやるさ」

「たいした自信じゃないか」

 ユベールの返答に、サンディが始めて笑顔を見せる。

 モルハ国立公園は、車での移動が困難な急峻な地形と、人や馬で隈無く調査するにはあまりに広大な面積を持っている。飛行機があれば、空から予備調査を行ったり、実地調査を行う際にも適切な場所に物資を予め投下したりできる。

 加えてペトレールであれば、条件さえ揃えば着陸もしくは着水して、そこから調査地点へ向かうことも可能になる。そうなれば必要な物資の量もかなり抑えられる。アーロンたちにとっては、ユベールたちとの出会いはまさに僥倖だったことだろう。

「ただ、俺たちの乗るペトレールは中型の水陸両用飛行艇だ。空撮に正確さを期すなら、取り回しのいい小型機も併用したいところだな。当てはあるか?」

「アーロンが所有するローカストの偵察型がある。操縦経験は?」

「ローカスト? 派生元のクリケットなら飛ばしたことがあるが、アルメア空軍の制式採用機をなんで民間人のドクターが所有してるんだ?」

 クリケットはアディントン・エアクラフト社の軽飛行機で、派生機を含めれば何千機も生産されているベストセラー機だ。タンデム復座型、羽布張りのパラソル翼機は単純で洗練された構造からもたらされる堅牢さと素直な操縦特性を特徴としていて、愛称であるクリケットが軽飛行機の代名詞になっているほどだ。

 その頑丈さと整備性のよさに軍が目を付け、制式採用したのがローカストだ。基本設計そのものは十年近く前の機体とはいえ、新型機と呼んでいい。ケルティシュ共和国でビール輸送を請け負った際にも何機か見かけた記憶があった。アルメア国内で民間機として飛んでいていい飛行機ではないはずだった。

「待てよ。アディントン?」

 アディントン・エアクラフト。つい最近、耳にしたような響きだった。記憶を探るユベールの様子に、サンディが楽しげに含み笑う。

「アーロン・アディントン。あのお喋りガラスはお前にそう名乗っただろう?」

 

4


 ベースキャンプに戻って、アーロンの用意した契約書にサインする。

「よし、これで契約成立だ。契約期間中の滞在だけど、ここにはまともな宿泊施設がないから、プルーメントの街で部屋と車を借りて、そこから通うといいんじゃないかな。フェル君は女性だし、その方がいいと思うよ。ここは砂っぽいしね」

「嫌なら出ていっていいんだぞ、アーロン」

 会話を聞きつけたサンディの嫌みを聞き流し、アーロンが続ける。

「ローカストのことはサンディから聞いたかい? モルハ空港のハンガーを借りてるんだけど、やたらでかいハンガーで持て余してるんだ。整備が終わったら君たちの飛行機も持ってくるといいよ。空いてるスペースは好きに使って構わない」

「それはありがたい。願ってもない申し出だ」

 三ヶ月の契約期間中、格納庫で保管できるのは大きなメリットだった。

「他に聞きたいことはないかな? なければ、街まで送っていくよ」

 フェルに視線を向けると、黙ってうなずいた。特に質問はないようなので、再びアーロンの車に乗りこんでプルーメントまで送ってもらう。出発が昼過ぎだったので、すでに日没が迫っている。少なくとも今夜の宿は見つけなければならなかった。

 アルメアに到着した初日としては上々の滑り出しに、満足感を覚える。契約書を整える手際、こちらが欲する情報を的確に提示する気配り。金払いもよく、上手くすればアディントン・エアクラフト社との人脈も築けるかも知れない。偶然の出会いだったが、アーロンは仕事相手として申し分ない相手だった。

「君たちが乗っているのは飛行艇なんだよね。それなら港の近くがいいかな」

 アーロンと出会ったダイナーの近くで降ろしてもらう。

「何から何までありがとう、ドクター」

「気にしなくていいよ。長期間の仕事だし、お互い気持ちよく仕事がしたいからね。何か足りない物があったら遠慮なく言ってくれよ」

 握手を交わしてアーロンと別れる。ホテルはすぐに見つかり、そこで紹介してもらったレンタカー屋で車を借りてから整備工場に向かい、ペトレールと一緒に預けていた荷物を部屋へ移した。しばらくはここが拠点となる。

 アルメア連州国政府にとってはシャイア帝国の非道を宣伝する格好の材料であるフェルの出自を考え、また長期間の滞在になることも加味して、温かいシャワーと清潔なシーツがあり、プライバシーが確保される宿を選んだ。窓からは港とイランド内海を眺めることができ、それなりに値が張るだけあって快適そうな部屋だった。

「フェル、確認したいことがある」

「なんだ、ユベール」

「モルハ国立公園では異常な魔力を感じたりしなかったか?」

 アーロンとサンディの前では口にできなかった質問だった。フェルも質問されることを予期していたらしく、すらすらと答える。

「全体として希薄だ。しかし遺跡塔のある場所ではわずかに魔力を感じた」

「そこで魔法が使われてたってことか?」

「いや、人が長く使っていた遺跡ではよくあることだ」

「そういうものなのか? ふむ……つまり、現時点では魔法の気配はないってことか。そうか、ならいいんだ。この先も何か異常を感じたらすぐに教えてくれ」

「了解した」

 ブレイズランドの一件もある。警戒しておくに超したことはない。

「ただ……」

「どうした?」

「わたしの魔法を、正確には魔力の感知を仕事に役立てられるかも知れない」

「ああ、遺跡塔に魔力を感じたって言ってたな。空からでも分かりそうか?」

「おそらく。試してみないと分からないが」

「やるとしたら、ローカストで空撮する合間だろうな。お前には撮影を任せたいと考えていたんだが、両方やるとなると忙しいぞ。やれるのか?」

 自らの魔法に対して前向きな態度を取れるようになったのは好ましいが、こちらがそれを期待する素振りを見せれば、彼女はそれを察してしまうだろう。できるだけフラットに、こちらの意向は滲ませないような口調で問いかける。

「やってみたい」

「了解だ。やってみるといい」

 共通語を話し続けて慣れてきたこともあるのだろうが、問いかけに対しての返答が明らかに早くなっている。出会った頃の彼女は、自らの言葉に問題がないかを吟味するように間を置いてから言葉を発していたのだ。その頃と比べれば、表情もずいぶんと柔らかく、多彩になっている。気を許してくれている証拠だと思いたい。

「これからどうする」

「うん? そうだな、ペトレールの修理が終わるまで予定はない。車でどこか……」

 言葉を切って顔をしかめるユベールを見て、フェルが首をかしげる。

「どうかしたのか?」

「いや、さっき荷物を取りに整備工場に寄っただろう? そろそろ修理の見積もりが出ている頃合いだから、ついでに取ってくるべきだったと思ってな」

 ユベールの説明を聞いて、フェルがくすりと笑う。

「時間はあるだろう? 一緒に散歩しよう」

「……そうだな」

 本当に、表情豊かになったものだと思う。雪白の髪色は相変わらずどこに行っても目立つが、少しだけ日焼けした健康的な肌、水兵服を可憐に着こなす姿に冬枯れの魔女の雰囲気はない。航法士フェル・ヴェルヌが彼女にとって仮の姿、偽りの名前ではなくなる日が、いつか来ればいいと思う。



 渡された請求書を見て、目を疑った。

「桁がひとつ多いんじゃないか?」

 請求書を指で弾くユベールに、整備長を名乗る肥満体の男が平然と答える。

「どこも同じですよ、旦那。民間向けの部品は全てが不足してるか、劣悪なやつしか回ってこないときてる。なんだったら相見積もりを取ってもらったって構いませんぜ。うちは良心的な方だってことが一発でご理解いただけるはずだ」

「ある程度の高騰は覚悟してたが、こうも上がるか」

 舌打ちするユベールに、腕を組んだ整備長が短く答える。

「戦争ですからな」

 アルメアの工業生産力を持ってしても、東で海峡を挟んでシャイアとにらみ合い、西で対極洋を挟んだ同盟諸国への軍事援助をしている状況では民間向けの交換部品を生産する余力はないらしい。在庫があるだけ上等というものだろう。

「……仕方ない。エンジン周りを重点的にやってくれ。タイヤとブレーキは諦める。プラグがなんでこんなに高いんだ。これも交換しなくていい。艇体の塗り直しは頼む。なんだったら多少は色味が違っても構わない。これでいくらになる?」

 改めて提示された金額はなんとか許容できるものだった。当初はその額で全ての交換部品を入れ替えるつもりであったことを考えなければの話だ。

 近場のレストランで夕食を済ませて宿に戻る頃にはすっかり暗くなっていた。ベッドに腰を落ち着けると、移動と乗馬で疲れ切っていたことを自覚する。週明けまでは休暇となるが、今日は早めに休んだ方がよさそうだった。

「もう寝た方がいいぞ」

 机に向かってログブックを記入するフェルに声をかける。

「気になることでもあったか? 遠慮せず聞いていいぞ」

「ユベール。アルメアはシャイアに勝てるのか?」

 返ってきたのは、予想外に重い問いかけだった。

「どうだろうな。両国は国境に大部隊を貼り付けてにらみ合っているが、未だ開戦には至っていない。理由は色々あるだろうが……」

「例えば?」

「予想される被害があまりに大きい。割に合わないんだ」

「割に合わない?」

「ああ。同じ世界大戦と銘打たれてはいても主戦場はエウラジア大陸だった先の大戦と違って、アルメアとシャイアが戦争することになれば文字通りの世界大戦になる。勝ったところで失うものの方が多く、かといって逃げるわけにもいかない。シャイアが大陸の覇権を取ってしまえば、いかにアルメアでも巻き返しは難しいからだ」

「ユベールは、戦争になると思うか?」

「さてな。シャイア皇帝の考えなんて俺には分からんし、アルメアの議会も開戦派と融和派でまっぷたつに分かれている。ただ、今になってシャイアが不穏な動きを見せているのは確かだ。ディーツラントに対するアルメアの宣戦を非難する声明を出したり、アヴァルカ売却問題を再燃させる動きがあったりな」

「アヴァルカ売却?」

 聞き慣れない言葉に不審げな表情を見せるフェル。

「地図を出してみろ。世界地図だ」

 普段使っている航空図ではなく、市販の世界地図を広げる。日付変更線を地図の両端に置くエウロパ系の記載法であるため、シャイア帝国とアルメア連州国はそれぞれ地図の左右両端に位置する。そのため地図で見ると距離があるようなイメージを受けるが、実際にはリーリング海峡を挟んで目と鼻の先に位置している。

「アルメア連州国でも最大の面積を誇るアヴァルカ州。リーリング海峡を挟んでシャイア帝国と隣接する最前線であり、豊富な地下資源を産出する重要な州だが、ここはおよそ百年前まではシャイアの植民地だったんだ」

 アヴァルカ州は五十州から成るアルメア連州国の面積のうち、単独で五分の一を占める巨大な半島だ。北央海と南央海を繋ぐボトルネックであるリーリング海峡に面しているため、軍事的にも商業的にも価値が高い。

「シャイアの植民地を、アルメアが奪ったのか?」

「違う。シャイアは自ら手放したんだ。アヴァルカ売却問題って言ったろ?」

 貪欲に版図を広げるシャイアが領土を手放したという話が信じられなかったのか、フェルは目を丸くして問い返してくる。

「なぜシャイアはアヴァルカを手放したんだ?」

「当時のシャイアはキリム戦争の後遺症で、莫大な借金と不景気にあえいでいた。そんな中、苦肉の策として出てきたのが当時の新興国であるアルメア連州に対する植民地の売却だったんだ。当時は地下資源も発見されていなかったし、亜熱帯のジャングルに覆われたアヴァルカは利用価値の低さから二束三文の額で叩き売られた」

 アヴァルカ半島の価値がどれだけ低く見積もられていたかは、アヴァルカ購入のため大統領の命を受けて精力的に動いた国務長官ウィリアム・ドワードの当時の評判からも窺い知れる。彼は『耕作にも放牧にも適さない無価値な土地に巨額の税金を注ぎこんだ』と議会の糾弾を受け、大衆からは『ドワードの愚行』『密林王』などと揶揄されるに至り、最終的には任期半ばで辞任に追いこまれたのだ。

「アルメア国民は開拓心が旺盛だ。ジャングルを切り開き、険しい山や洞窟を踏破し、新たなフロンティアたるアヴァルカの開拓を進めていった。その過程でアヴァルカには金鉱や油田、その他の地下資源が豊富に埋まっていることが判明した。アルメアは降って湧いた幸運に喜んだが、シャイアにとってはおもしろくない。本来なら自分たちが得るべきものだったのに、ってわけだ」

「だから、取り返そうとした?」

「そう。それがアヴァルカ売却問題だ。こいつがアルメアとシャイアの関係が悪化する度に再燃する。喉に刺さった小骨みたいなもんだな」

「逆恨みでは?」

 一言で切って捨てるフェルに、ユベールは苦笑する。

「フェルの言う通り、正式に売買の契約書が交わされている以上、シャイアはアヴァルカに対する利権の主張などできない。しかし相手はシャイアだ」

「武力を背景に脅しをかけたのか」

「お決まりの手だな。契約書の細かい不備を指摘し、契約そのものの無効を主張。相手が呑まないなら開戦の口実とする。どっちに転んでもシャイアに不利はない」

「どうにかできないのか?」

「どうにかしようとして、列強各国は手を結びつつある。対ディーツラント戦争におけるケルティシュ、エングランド、アルメアの三国による連合軍の結成が象徴的だな。あれは実質的にエウラジア大陸の覇者であるシャイア帝国に対抗するための同盟だ」

「そこまで考えているのか」

「アルメアの参戦で大勢は決した。シャイアも負け戦となれば手を引くだろう。後はディーツラントがどこまで粘るか、だ。連合国の首脳間では、和平条約の締結に当たって賠償と領土割譲をどうするかって話し合いが始まっている頃合いだろうな」

 ユベールの言葉を受けて深刻そうな顔で考えこむフェル。頭にあるのは、彼女の祖国であるルーシャのことだろう。戦争、そしてフェルの魔法による影響で荒廃した国土は、シャイアによる支配と収奪で復興が遅れていると聞く。

「話が長くなったな。もう寝るぞ。明日も早いからな」

「仕事か?」

 引き締まった表情を見せるフェルに、苦笑で返す。

「観光だよ。好きなところに連れていってやるから、行きたいところを考えておけ。せっかくアルメアに来たんだ。羽を伸ばすのもいいだろう」


5


 週末はフェルとのアルメア観光に費やした。動物園や水族館で珍しい生物の数々に目を輝かせ、美術館や博物館で興味深そうに展示物を眺める姿は大人びていても年相応で、楽しんでいる様子が伝わってくる。ユベールとしても久々の休暇だった。

 十分に休息を取った週明け、整備を終えたペトレールを早朝に受け取る。スロープから海に降ろしてエンジンを始動させると、カルニア州の気候に合わせて調整されたエンジンは快調に吹き上がった。天気は上々、塗り直した艇体は海面を切ってスムーズな離水を果たす。目的地であるモルハ空港までは、小一時間の飛行だった。

「来たね。今日から三か月、よろしく頼むよユベール君、フェル君」

 アーロンと軽い握手を交わし、まずは仕事の説明を受ける。渡されたのはモルハ国立公園の地図で、縦横の線で区画分けがされていた。

「君たちには各区画の空撮を行ってもらいたい。後に行う実地調査の基礎となる資料だから、撮影箇所は正確にね。無理をして適当な撮影と報告をするよりも、正確さに重点を置いて欲しい。大丈夫、空の上で正確な位置を求める難しさは承知の上だよ。お互いに協力して、相談しながらいい仕事をしよう」

「飛行機に理解のある依頼者で助かるよ。最善を尽くすと約束するよ、ドクター」

 格納庫にはペトレールと、それより一回り小さいローカストが収まっている。鮮やかなイエローを基調に、主翼と尾翼へ黒い星が描かれた機体は新品同様で、よく整備が行き届いている。羽布張りのパラソル翼機の胴体は無骨に角張っているが、シンプルな構造なだけに堅牢性が高く、信頼が置ける。

 派生元であるクリケットと同じタンデム復座のローカストでは、観測士と操縦士は前席と後席に分かれて座ることになる。軽飛行機のカテゴリに属するローカストは機体が小さく、後席が後ろを向いて座ることもないのでペトレールよりもお互いの距離が近い。伝声管も不要なので装備していない。

「足下がガラス張りなのか」

 機体を下から覗きこんだフェルが言う。

「ローカストは軍用の偵察機だからな。全周視界がなくちゃ始まらん」

 前席の前下方、そして後席の足下に追加された風防はローカストの大きな特徴だ。視界の改善は本来の目的である偵察はもちろん、離着陸をも容易にしてくれる。

「カメラの使い方は理解したな?」

「問題ない」

「よし。なら上がるぞ」

「了解した」

「待て、フェル。お前は前だ」

 後席に乗りこもうとするフェルを引き留める。ペトレールと異なり、観測と偵察を主任務とするローカストは観測士の視界確保のため、操縦席は後席となっている。

「二人とも、行ってらっしゃい」

 気楽な調子で手を振るアーロンに見送られ、モルハ空港の滑走路を飛び立つ。

「まだ初日だ。撮影箇所はこちらで指示するから、まずカメラの操作に慣れろ」

「了解した」

 高度を上げれば撮影できる範囲は広くなるが、資料的な価値は低くなる。反対に高度を下げれば撮影範囲が狭まり、ただでさえ広いモルハ国立公園をカバーするために必要な枚数が膨れ上がる。その辺りの加減についてはアーロンから一任されているので、撮影位置に加えて撮影時の高度を地図上に記録していく。

「ここだ。高度三百。撮れ、フェル」

「……撮れた」

「了解だ。次の場所へ向かう」

 揺れ動く機内、風防越しという悪条件下でブレのない鮮明な写真を撮るのは専門家であっても至難の業だ。今回は空撮写真そのものが目的ではないが、資料として使える写真が撮れるようになるまで、フェルには数をこなしてもらう必要がある。

 地図に記された升目に従って、塗り潰すような旋回と直進を丹念に繰り返す。単調な作業ではあるが、風の影響を考慮しつつ現在位置を把握し、高度を変えつつ撮影の指示を出し、地図に記録まで行うとなるとかなり忙しい。

「こいつの扱いやすさに救われるな」

 ローカストの原型機であるクリケットは軽飛行機の代名詞だ。癖のない操縦特性から練習機としても多く用いられ、操縦桿から手を離してもまっすぐ飛べる安定性と、思った通りに動く素直な舵を持つ優等生として知られている。

 慣れてしまうとおもしろみに欠ける部分もあるが、今回のように操縦以外の仕事が多い場合、操縦に気を遣わなくてもいいのはありがたい。

「そろそろ戻るか」

「わたしはまだ大丈夫だ」

「カメラと計器を確認しろ。フィルムも燃料も残り少ないだろう」

「……その通りだな。すまなかった」

「腹も減ったろ? じきに昼飯時だ」

「了解した。空港に戻ろう」

 空港へ向けて大きく旋回しながら、ふと思いついた問いを口にする。

「飛んでいて、気になったことはあるか?」

「すまない。カメラの操作に夢中だった」

「それもそうか。じゃあ帰り道は周囲を見張っててくれ」

「了解した」

 高所から見渡しても、ユベールの目にはどこまでも単調な風景が続く荒野としか映らない。この光景が彼女にはどう見えているのか、ユベールが知ることはこれからもないだろう。しかし、考えてみればそれはフェルとの間だけに限らない。

 同じものを見て、そこに何を見出すかには個人の知識や嗜好、経験が色濃く表れる。普通の人間にとっては似たような空であっても、操縦士であるユベールにとっては国や地域、風や天候を読み取る手がかりとなる。フェルの場合、そこに魔力という要素が加わるに過ぎない。天性の才能ではあるのだろうが、それだけのことだ。

「ユベール」

 フェルの声に、思索を断ち切られる。

「どうした?」

「二時の方向に魔力を感じる」

 計器を確認する。方角的にもそれほど大きな寄り道にはならない。

「ちょっと寄り道して帰るか。近づいたら細かい指示をくれ。直上で撮影するぞ」

「了解した」

 フェルの指示に従って飛んだ先は、一見して他と変わらない荒野としか見えない場所だった。写真の撮影を済ませてから高度を落とすと、ようやく昨日も見た遺跡塔の名残らしきものが目視できた。普通に飛んでいたら見逃してしまうだろう。

「撮影できた。ありがとう、ユベール」

「礼なんていいさ。頼りにしてるぜ、相棒」

「……大したことじゃないさ」

 こちらも撮影地点と高度の記録を済ませ、改めて空港へ機首を向ける。着陸して格納庫へ機体を回すと、ちょうど十二時を回る頃合いだった。

「二人とも、おかえり。そろそろ帰ってくる頃だと思って、待ってたよ」

 格納庫でアーロンが出迎えてくれた。彼は右手に油染みのついた紙袋、左手に水滴の浮いたコーラの瓶を三本挟んでいる。食欲をそそる匂い。どうやら二人のためにわざわざ昼飯を用意してくれたようだ。

「気の利いた店を知らなくてね。ハンバーガーとポテトでよかったかな」

「助かるよ、ドクター。わざわざ街まで買いに行ってくれたんだろう?」

「ありがとう、アーロン」

「まだ温かいよ。オイル臭い場所ですまないけど、食べようか」

 ユベールはもちろん、フェルもオイルの臭いには慣れたものだった。ペンキの剥がれたベンチとテーブル代わりにできそうな木箱があったので、引っ張ってきて腰を落ち着ける。ついでなので、木箱の上に地図を広げて報告も済ませる。

「撮影地点と撮影時の高度を記録してあります。初回なので写真の質は保証しかねますが、現像結果を見て検討した上で、今後の方針を改めてご相談しようかと」

 ユベールの説明を聞きながら、食い入るように地図を見つめていたアーロンがいきなり顔を上げる。大きく見開いた目を輝かせる様子は、お気に入りの昆虫を捕らえた子供のようだった。彼はベンチから立ち上がると、ユベールの肩を叩く。

「すごいよユベール君! この調子なら調査は大いに進展すること間違いなしだ!」

「それはよかった。お役に立てそうで幸いですよ」

「ユベール」

 フェルに袖を引かれたので、黙ってうなずく。

「それから、この場所で遺跡塔らしき痕跡を発見しました」

 最後に寄り道した場所を指で示す。

「写真が現像できたら、ドクターにも確認して欲しいのですが」

「本当かい? もちろんだよ! いや、君たちは本当にすごいな!」

 興奮を隠せない様子でユベールの肩や背中を叩き続けるアーロンをそれとなく制止して、ベンチに座らせる。食事そっちのけで食い入るように地図を眺めるその姿に、今後は食事中に報告するのは止めようと誓うユベールだった。


6


 調査開始から一か月。フェルは持ち前の吸収力でカメラの扱いに習熟し、撮影場所の選定と記録を平行してこなせるようになっていた。撮影に最適な高度も判明したので、余裕ができたユベールは操縦に専念できる。空では誤差として見過ごせる差であっても、地上では大きな差となるため、正確な飛行は重要だ。

「目的地上空に到達する。準備はいいか」

「問題ない」

 現在位置を確認しつつ、撮影と移動、旋回を繰り返す。契約期間の三分の一が経過したものの、撮影を終えたのはモルハ国立公園の面積の一割に満たない。そもそも、たった一機でカバーできる範囲ではないのだ。

 アーロンもそのことは織りこみ済みで、重要度と優先度に従った調査計画を立案している。重要度の高い地点は高度を下げて細部まで鮮明な撮影を行う一方、遺跡の存在する確率が低い地域では高度を上げて撮影回数の低減を図るのだ。

「ユベール。前方五キロの地点に魔力を感知」

「了解だ。少し高度を下げる」

 フェルの魔力感知も想像以上に役立っていた。風化が進み、地上を丹念に調査しなくては発見できないほど崩壊した遺跡であっても、フェルの力があれば発見が可能となる。重要度が低いと思われていた地域にもいくつかの発見があり、アーロンは喜色の滲む悲鳴を上げながら調査計画の見直しを図っていた。

「あれか。こちらでも遺跡を確認。高度二百で上空を通過する」

「了解した」

 遺跡は荒野のあちこちに点在していて、発見した遺跡を地図上にマッピングしても、門外漢であるユベールには規則性らしきものは見えてこない。アーロンも文献や資料を漁って検討を重ねているようだが、未だ有力な仮説は見つかっていないらしい。

「準備はいいか? カウントいくぞ。三、二、一、ゼロ」

 高度を下げると、通過も一瞬となる。息を合わせて撮影を行う必要があった。

「撮影完了だ。元のコースに戻ってくれ」

「いや、これで予定していた分は終わりだ。意外と早く終わったな」

「では、空港に戻るのか?」

「燃料にはまだ余裕がある。気になる場所はなかったか?」

「そうだな……」

 前席のフェルが周囲を見回す。その視線がぴたりと一点に注がれる。内陸部の山岳地帯が広がる方角だ。ユベールの目には赤茶けた砂岩の巨塊としか見えないが、彼女には何かが見えているのかも知れない。

「気になるか?」

 フェルは後席のユベールを振り返ると、壁のように隆起する山のひとつを指差す。

「あの山の向こうに強い魔力を感じる。下ばかり向いていて気付くのが遅れた」

「ここから? 相当強い魔力ってことか」

「そうだ」

 フェルの話では、すでに発見された遺跡塔に残留している魔力はさほど強いものではないらしい。そのため、地上では数キロメートル、空中からでも十キロメートル程度の距離まで近づかなければ感知できないと聞いている。

 しかし、現在地から山岳地帯までの距離は優に五十キロメートルを超える上に、魔力を感じるのは山の向こうだとフェルは言っている。それほどまでに強い魔力となると、魔法の介在を疑わざるを得ない。トラブルに見舞われる危険を考えると、準備を万全にした上で調査したいところだった。

「山越えとなると、燃料が心許ないな。一度帰還するぞ」

「了解した。ユベールに任せる」

「任せるって言ってもな。アーロンにはどう説明したものか」

 山岳地帯は未調査の地域だ。遺跡があるかも知れないと言えば、そう考えた理由をアーロンに問われることだろう。かと言って魔法の存在を説明するわけにもいかない。どうにかそれらしい説明をつけるしかないだろう。

「悩んでる間も燃料は減る、か。予定変更だ、フェル。アーロンに説明するための材料が欲しい。ひとまず距離を詰めつつ高度を上げる。塔が残ってるなら、先端くらいは見えるかも知れん。写真が撮れそうなら頼むぞ」

「了解した」

 ローカストの上昇限度は三千五百メートル。残燃料から考えて、三千まで上がれるかどうかだろう。距離を詰めれば、稜線から遺跡塔の突端が覗く様子を写真に収められるかも知れない。アーロンに対する説得材料として、できれば写真が欲しい。

「フェル。お前の眼が頼りだ。何か変化があれば教えてくれ」

「了解した。任せろ」

 頭の中で計算を繰り返し、空港まで余裕を持って戻るために必要な燃料の量を弾き出す。借り物であるローカストを壊しでもしたら取り返しがつかない。

「思ったより低い山だな。フェル、どうだ?」

「まだ見えない。もっと高度を上げてくれ」

 上昇しながらだと、ユベールの座る後席からは前下方が確認しにくい。観測はフェルに任せて、最適な上昇率を保つことに集中する。高度が上がるにつれて上昇率を緩やかにしないと、燃料の消費が激しくなるからだ。

「まだか。そろそろ燃料が底をつく。残念だが出直すしかないな」

「待て、ユベール。塔が見えた」

「すぐに写真だ、フェル。撮ったら帰還するぞ」

 ユベールの言葉に応えるようにシャッター音が響く。

「撮れた。帰還しよう、ユベール」

「了解だ。よくやったな、フェル」

 前席に手を伸ばして軽く拳を合わせてから旋回に入る。その際、稜線から覗く人工の建造物らしき影がユベールにも確認できた。位置関係から考えて、かなりの高さがあるはずだ。アルメア先住民族の遺跡が良好な保存状態で残されている可能性は高い。アーロンに報告すれば、報酬の増額も期待できる大発見だった。



「二人とも、これはすごい発見だよ!」

 アーロンの喜びようは想像以上だった。報告を聞くや暗室に走り、大急ぎで現像を終えた写真を片手に、ユベールの背中をばんばんと叩いてはしゃいでいる。

「人が寝てるのに騒ぐな、お喋りガラスめ」

 寝室からサンディが起き出してくる。研究者であるアーロンとは異なり、サンディはパークレンジャーという本業がある。昨晩は遅くまで仕事をしていたのか、今まで眠っていたらしい。充血した眼で顔をしかめている。

「これを見るんだサンディ! 遺跡塔の先端部分だよ。ほぼ完全な保存状態を保った遺跡塔が発見されたんだ。これを歴史的快挙と呼ばずになんと呼べばいいんだ!」

 興奮した様子で喋るアーロンから受け取った写真を、サンディが睨みつける。

「落ち着けアーロン。まだ塔の先端らしきものが撮れただけだ。先端が残っているなら基部も無事だろうというのはお前の推測に過ぎない。違うか?」

「そこだよ。聞いてくれサンディ。ついに遺跡塔の配置パターンが分かったんだ! いや、まだ仮説の段階なんだけど、仮説から導き出される遺跡塔の要となる地点と、ユベール君たちの発見した新たな遺跡塔の場所が、ぴったり重なるんだよ。研究者としてこんな言葉を使いたくはないけど、僕にはこれが偶然だとは思えない!」

 アーロンが机の上に広げたのは、無数の円が描きこまれたモルハ国立公園の地図だった。地図にはすでに発見された遺跡塔の場所がマッピングされている。

「等高線か」

 ユベールの言葉に、アーロンが大きくうなずく。

「そう、遺跡塔は等高線に沿って均等に配置されている。おそらく土地の高さに意味があるんだ。理由として考えられるのは、すぐ思いつくところだと灌漑だね」

「つまり、遺跡塔はモルハ国立公園内に水を供給する施設だった?」

「その可能性がある、って段階だけどね。ともあれ、これで砂漠化の説明もつく」

「どういうことだ?」

 フェルが首をかしげる。発見に興奮しているためか、アーロンの話は前提の省略と話題の飛躍が多い。フェルの横では、サンディも難しい顔をしていた。

「ごめんごめん、説明不足だったよね。えっと……それで、どこから分からない?」

 上機嫌のアーロンは、にこにこしながらそんな質問をする。

「遺跡塔の配置パターンの話、つまり最初からだ。順を追って話せ、お喋りガラス」

「分かったよ。そうだな、まず等高線についてだ。立体模型があると分かりやすいんだけど、ハンカチで代用しようか。これを山と見立てて欲しい」

 アーロンはそう言うと、ハンカチの中央をつまんでテーブルに下ろす。くしゃりとした三角形は急峻な山と見えなくもない。複雑な形状を描くその周囲を鉛筆でなぞり、形状を紙に写し取る。それから紙を抜き取って、内部に同じ形状のより小さい円を描いていく。できたのは歪な同心円状の図形だ。

「等高線は、同じ高さとなる地点を線で繋いで、地図上に記したものだ。その性質上、必ず閉じられた円となり、標高の変化が少ない平地では線と線の間隔が広くなり、逆に山のような標高の変化が激しい場所では間隔が密になる。これによって平面上に標高を表現することが可能になるんだ。ここまではいいね?」

 ハンカチで作った山を紙に写し取った図形を示しながら、アーロンが言う。

「次にモルハ国立公園の等高線図を見て欲しい。発見された遺跡塔の場所もここに示してある。ちなみにユベール君たちが発見した新たな遺跡はここだね。分かりやすいように、補助線も引いてみようか。どうだい、何か見えてこないかい?」

 山岳地帯の遺跡を起点に、平野部に向かって扇のような放射状の線が引かれる。すると、等高線と交差して区切られた枠内に、遺跡塔が綺麗に分かれて収まっているのが明確になる様子に思わず息を呑む。不規則な配置と思われたものに確かな規則性が見出される知的な興奮が、アーロンから伝わってくるようだった。

「平野にある小高い丘のような場所に遺跡塔がないのも、これで説明がつく」

 平野に散在する多重の円が形成された場所を指差して、アーロンが続ける。

「土地が隆起した場所は、従来の仮説のように狼煙や連絡を目的とした設備であれば格好の立地だけど、灌漑が目的であれば揚水の効率が悪いから避けるべき場所となる。このことも、遺跡が給水設備であったという仮説を補強してくれるだろうね」

「遺跡塔の根元を掘り返してみれば、水路の跡が見つかるかも知れんな」

 サンディの発言に、アーロンがうなずく。

「可能性は高いだろうね。思えば僕らは地上部分に気を取られ過ぎていたんだ。これから発掘調査の準備も進めないといけないね。ああもう、忙しいな」

「ひとつずつ進めていくしかないだろう。まずは砂漠化の原因が判明しただけでも一歩前進だ。原因が分かれば対策も取れるからな」

「そうだね。給水が止まった原因が、給水設備のメンテナンス不足による停止か、水源そのものの枯渇かによって対策も違ってくるけど、まずは水源と思われる山岳遺跡の再調査をしないことには始まらない。ユベール君、頼めるかな」

「お安いご用だ、ドクター。水源があるとなればペトレールの出番もあるだろう」

 流れの穏やかで深さのある川か、ある程度の面積がある湖であればペトレールで着水できる。地上からは到達困難な山岳地帯であっても、空からなら一時間足らずで到達できる。安全性が確保できるならそうしない手はないだろう。

「助かるよ。遺跡に直接乗り付けられれば調査効率は大幅に上がるからね。もちろん、今回の発見と契約外の業務に対する追加報酬も検討させてもらうよ」

 話しているうちに落ち着いてきたらしい。持ち前の気配りや気前のよさを見せるアーロンと、改めて握手を交わした。



 その晩、ユベールとフェルはベースキャンプで開かれたささやかなパーティに招かれた。料理と言えばシリアルに牛乳をかけて混ぜるくらいしかできないらしいアーロンは街で飲み物や酒のつまみの調達を担当し、代わりにサンディが腕を振るってくれた。赤身のステーキに始まり、ヒレ肉をタマネギやピクルスと一緒に刻んで卵黄で絡めたタルタルステーキ、青唐辛子のシチューなどが供される。

 デザートにチョコレートリキュールのかかったバニラアイスを食べ、アーロンが秘蔵していた上等なバーボンが半分ほど空いたところでアーロンがうとうとし始める。フェルも目をこすり、眠そうな様子だった。

「そろそろお開きにするか」

 ユベールが言うと、サンディが寝室を指差す。

「ずいぶん呑んだだろう。今日は泊まっていくといい」

「お言葉に甘えるとするよ」

 フェルとアーロンをベッドまで送り届けると、サンディが黙って外を示す。うなずいて着いていくと、外は満天の星空だった。昼間の焼き付くような暑さは消え去り、肌寒さを感じるほど気温が下がっている。

「お前たちに礼を言いたかった」

 コーンパイプに火を付けると、サンディはそう切り出した。

「以前、あのお喋りガラスがアディントン・エアクラフトの関係者だという話はしただろう。やつはアディントン家の御曹司でな。一族からは歴史学者なんて儲からない仕事はさっさと辞めて、家業を継ぐことを期待されている」

 アディントン・エアクラフトは軽飛行機のクリケットで大成功し、最近では軍からも受注を受けるようになって業績を伸ばしている航空機メーカーだ。アーロンが創業者の息子であるならば、かけられるプレッシャーは相当なものだろう。

「やつの父親、アディントン・エアクラフトの創業者バートン・アディントンは息子の仕事を道楽だと思っている節がある。時が来れば会社を継ぎ、素晴らしい飛行機を世に送り出す価値ある仕事を継いでくれるだろうってな」

「航空機会社を起こすぐらいだ。相当な飛行機好きだろうな」

 ユベールの感想に、サンディは皮肉のこもった笑みを浮かべる。

「実際のところ、道楽で仕事をやってるのは親父の方だとアーロンは愚痴っていたな。なんとかって水上機のレースがあっただろう?」

「シュナイデル・トロフィーか」

 ケルティシュの大富豪ジャック・シュナイデルが創始したシュナイデル・トロフィーは世界最速の水上飛行機を決める、歴史あるエアレースだ。近年では国家の威信をかけて争う代理戦争の様相を帯びているとも聞く。

「アディントン・エアクラフト、というかバートン・アディントンはそのレースのスポンサーの一人だ。自社では水上機なんて作っていないのにな」

「なるほど、相当な飛行機狂いだな」

 サンディはうなずき、パイプをふかしてから続ける。

「アーロンも飛行機が嫌いなわけじゃない。あいつ自身は操縦しないが、飛ぶこと自体は好きなんだろうな。まあ、子供ってのは大抵、飛行機乗りに憧れるもんだが」

「子供が憧れるって意味では、学者もそうだな」

「違いない」

 ユベールの言葉に、サンディが笑みを見せる。会った当初こそ刺々しい雰囲気だったが、最近はこうして気安く言葉を交わせるようになってきた。

「話はそれたが、今回の発見はアーロンに歴史学者としての才能があることを証明するに足る材料になる。お前たちに礼が言いたかったってのはそういう意味だ」

 ありがとう。そう言って、サンディは手を差し出した。


7


 調査計画の立案、長期間の遠征調査に必要な物資の調達に一週間が費やされた。その間、ユベールとフェルは航空機による予備調査を重ね、湖の中心に半ばまで水没して建つ遺跡塔が外観上は完全な状態で保存されていること、ペトレールによる離着水が可能な深さと距離を確保できる湖であることを確認していた。

「湖に浮かぶ遺跡塔か。おそらく他の遺跡塔とは違って水没していたことが幸いして、風化による倒壊を免れたんだろうね。この塔を『湖上塔』と呼称しよう」

 湖上塔の上層部には放水口があり、驚くべきことに現在でも絶え間ない放水が行われていた。滝となって湖に降り注ぐ水量は豊富で、乾燥した気候のモルハ国立公園において湖が干上がらずにいるのもこれが理由と考えられる。

 一刻も早く実物が見たくてたまらないアーロンは、暇さえあればフェルの撮ってきた写真を眺めてにやついては、サンディに仕事をしろとどやされていた。

「それにしても、これほど綺麗に外輪山が形成されたカルデラ湖は珍しいね」

「カルデラ湖?」

 俯瞰で撮った湖の写真を見て感想を述べるアーロンに、フェルが首をかしげる。

「火山が噴火すると、マグマが噴出するだろう? すると噴火が収まった後に地下の空洞ができるんだ。やがてそれが崩壊すると大きな窪地になる。これがカルデラ。で、そこに水が溜まると湖になる。そうやってできた湖をカルデラ湖と呼ぶんだ」

「外輪山というのは?」

「カルデラの周囲を取り巻く尾根のことだね。ほら、カルデラ湖を囲むように、周囲が盛り上がっているだろう?」

 カルデラ湖の外縁を指で示しながら、アーロンが説明を加える。

「これほどの規模の湖と塔が発見されずにいたのは驚くべきことだけど、陸路での接近は困難、かつ通常の空路から外れた立地に加えて、遺跡塔も手前の山陰に隠れてかなり接近しないと目視できないことが原因だろうね。アルメア先住民族がこの地を発見した経緯や、湖上塔を築き上げた手法についても尋ねてみたいところだよ」

 納得したように一人うなずくアーロンに、フェルが質問する。

「アーロン、質問だ。水はどこから来ているんだ?」

「うん、やっぱり気になるのはそこだよね。流入河川はないし、年間雨量を考えると、ただ自然に溜まった水をくみ上げて流しているわけじゃない。つまり、どこかに水源があるはずなんだけど、あいにく地質学は専門外でね」

「これから調査するのか?」

「そうなるね」

「もうひとつ質問だ。モルハ国立公園で水害が起きた記録はあるだろうか」

「水害って、洪水とか? いや、僕の知る限りではないね。第一、洪水の原因となる大きな河川がこの辺りには存在しない。あるとすれば今回発見されたカルデラ湖くらいだけど、過去に洪水が起きていたなら湖はとっくに発見されていたと思うよ」

「……了解した。ありがとう、アーロン」

「どういたしまして。気になることがあったらまた質問してよ」

 フェルの態度が気にかかり、二人きりになった機を見計らって声をかける。

「遺跡について、気がかりなことでもあるのか?」

「遺跡ではない。湖だ」

「湖?」

 予想外の返答だった。離着水の可否を検討するため、水面すれすれを飛んだ際にも、ユベールには特に異常は感じられなかったのだ。

「湖に濃い魔力が満ちている。普通じゃない」

「普通じゃない?」

「そうだ」

 フェルは小さくうなずくと、言葉を探すように宙へ視線をやる。

「……渦巻き、竜巻。そんな感じだ」

「ブレイズランドの噴火と同じような事態になるのか?」

「わからない」

 魔法について言及するとき、フェルは特に慎重に言葉を選ぶ。母国語ではない共通語の表現で、互いの解釈にズレが出ることを恐れているのだろう。ユベールの方で、それを汲み取ってやらねばならない。

「つまり可能性はあるってことか。そうなると、調査も中止した方がいいかもな」

 ブレイズランドの一件では人的被害はなかったものの、それはあくまで結果論だ。今回も同じように上手くいく保証はない。アーロンには悪いが、アルメア先住民族の研究はユベールやフェルにとって命をかけるほどのものではない。

 問題は、アーロンを説得する方法だった。彼にとっては学者生命をかけた大切な研究であり、生半可な理由では決して納得してくれないだろう。魔法について触れずに上手く説明する方法を考えていると、同じく沈思していたフェルが口を開く。

「いや、ユベール。調査を中止する必要はない。そのはずだ」

「そのはず? 根拠はなんだ」

「アーロンの話では、アルメア先住民族がこの地を去ったのは数百年前だ。すなわち、魔法が行使されたのはそれ以前となる。だが、それ以後に大規模な水害は起きていない。魔力に満ちてはいるが、安定しているということだ」

 頭の中でまとめた言葉を一気に吐き出すように喋るフェル。

「なるほどな。危険がないわけじゃない。ただし、その確率は噴火や地震みたいな天災に遭う確率と同じで、今すぐどうこうなる類のものではない、と」

「その通りだ」

「了解した。俺の操縦ミスで墜落死する確率の方がよっぽど高いな」

「そんなことにはならないさ、相棒」

 ユベールの軽口に、にやりと笑って応じるフェル。会話が途切れ、話はそれで終わりと見たフェルが踵を返そうとするのを呼び止める。

「ああ、それとな、フェル」

「なんだ、ユベール」

 振り向いたフェルに向かって、続きを口にするべきか逡巡する。フェルの内面にも踏みこむ話であるだけに、魔法についての話題でどこまで踏みこんでいいのかには、未だに迷いがあった。それでも言っておくべきだと判断して、改めて口を開く。

「……アーロンとサンディは信用できる人間だ」

「ああ」

「だから、不測の事態に陥ったら魔法について彼らに説明することも視野に入れておきたい。もちろん、フェルの了解が得られればの話だが、お前はどう思う?」

 思案するような表情を見せるフェルだったが、最後にはうなずいてくれた。

「……了解した。ユベールに任せよう」

「そんな状況に陥ることはないと、願いたいがな」



 ペトレールの操縦はほぼ一か月ぶりだった。良好な操縦性、言い換えれば雑な操縦を許容するローカストからの乗り換えなので、普段より慎重な操縦を心がける。

「飛行機には乗らない主義だ」

 そう宣言したサンディは、三日前に先行して出発している。調査に必要な荷物を抱えての移動となれば片道一週間でも足りないが、パークレンジャーである彼が単身で到達するだけなら三日あれば足りるのだ。いざとなれば現地で食料調達と野営も行えるだけの技量があるからこそ取れる方法だった。

 調査に必要な器具と食料を機体に積みこみ、万が一に備えての野営道具一式を両翼に懸下。後席にはアーロンが座っているので、フェルは貨物スペースで膝を抱えて収まっている。短時間の飛行ならそれほど負担もかからない。

「フェル君の席を横取りする形になって心苦しいよ。狭くないかい?」

「大丈夫だ、アーロン」

「そろそろ目的地に近い。高度を上げるから、頭を打つなよ」

 操縦桿を引いて高度を上げていく。ペトレールはローカストよりも重いので、余裕を持って山越えするためにかなり手前から上昇しておく必要がある。

「見えたぞ、ドクター。湖上塔の先端だ」

 湖に浮かぶ四角形の石塔、その先端部分が稜線から覗いている。

「あれだね。うん、見えてるよ。いよいよだな」

「降りる前にカルデラ湖を一周する」

「分かった。僕は湖上塔を観察するから、サンディを見つけてやってよ」

 ペトレールがカルデラ湖に到着したら、彼が狼煙を上げる手はずになっている。天候は快晴で、湖面も穏やか。狼煙はすぐに見つかり、そこから湖上を旋回してアプローチに入る。安全を期して、水深が深く、可能な限り長い距離を滑水できるルートを予め選定してある。湖の透明度が高いのは幸いだった。

「着水する」

 湖を囲む外輪山があるため、高度の下げ方に工夫が要る。調査器具が破損しないよう、滑らかな着水も要求された。その分だけ伸びた滑水距離は、速度が落ちてきた頃合いを見計らって旋回、距離を稼いで吸収する。

 サンディの立つ湖岸に機体を寄せていく。溶岩で形成されているため停泊に適した砂地はなく、ぎりぎりまで寄せても十メートルが限度だった。木に繋いであった馬の手綱を解くと、サンディは胸の辺りまで水に浸かって機体に近づいてきた。

「馬は放してしまっていいのか?」

 翼の上に引き上げたサンディに尋ねる。

「あいつは賢い。自分で食べ物を探しに行くし、帰るときに呼べば戻ってくる」

「周辺の調査はどうだった?」

 後席のキャノピーを後方にスライドさせてアーロンが尋ねる。

「待っている間に湖を一周した。谷や川は見当たらなかったな」

「完全に閉じた湖なんだね。となると、やっぱり水源が気になるね。周囲の山から水が集まってくる地形なのかな。それに、これだけ水量があれば外輪山が削られて流出河川ができていてもおかしくないんだけど、それがないってことは湖自体の成立はそれほど古くないのかも。ううん、専門家の意見を聞きたいね」

 誰に聞かせるでもなく推測を述べるアーロンに声をかける。

「アーロン、湖上塔に向かうぞ」

「ああ、悪いね。頼むよユベール君」

 湖上塔の表面にはコケが付着しているが、崩壊している様子は見受けられない。アーロンの推測通り、半ばまで水没しているために風化が防がれたのだろう。放水口から流れ出る滝の水量も、全く衰える気配はない。飾り気のない塔に入り口らしきものは見当たらないが、水面近くに窓のような開口部があった。近くまで寄せればそこから内部へ入ることができそうだった。当然、桟橋などはないため大量の荷物を運びこむのは困難だが、初回調査なのでまずは内部構造が把握できればいい。

「透明度は高いけど、湖上塔の基部までは見通せないね。水没部も合わせると全高は百メートルくらいかな。まずはこの辺りで水深を測ってみよう」

 ある程度まで塔に寄せたところで、アーロンが重りをつけた紐を取り出す。重りを沈め、紐につけた目盛りで水深を測る、簡易的な道具だ。

「約五十三メートル。おおよそ中央部まで水没してる計算だね。よし、次は内部の探索だ。機体を塔に寄せてくれ。翼を当てたら元も子もないから、慎重にね」

「了解だ、ドクター」

 主翼を折って、徒歩で帰還することになったら目も当てられない。幸い、水面からすぐ上に窓があって、そこから中に入れそうだった。放水口とは逆側に位置するので滝に打たれる心配もないが、桟橋がないので寄せられる距離には限界がある。それを見て、アーロンが肩をすくめる。

「最後は水泳か。入り口があるだけ幸運だと思うしかないね。それじゃ行こうか」

「ドクター、誰かが機体に残る必要がある。すまないがフェルを頼むよ」

 ユベールがそう言うと、サンディが口を挟んできた。

「いや、それなら俺が機体に残ろう。ユベール、お前は中を見てこい」

「いいのか?」

 正直なところ、興味はあった。しかし、ここまで来て居残りを申し出るサンディの意図が読めなかった。困惑していると、アーロンがおかしそうに笑う。

「そういえばサンディ、君は泳げないんだったね」

「黙れ、お喋りガラス。人間は地を走るように定められているんだ」

 憮然として言い放つサンディに、彼以外の三人が笑いをこぼす。

「頼むよ、サンディ。何かあったら大声で呼んでくれ」

「承知した。ユベール、アーロンを頼むぞ」

 自分が一番に入ると主張するアーロンを制して、ユベールが最初に塔に入る。踊り場のような場所で、上下に階段が続いている。思った通り、塔内部も水没しているので階下には向かえない。周囲を見渡すと、おそらく松明を差していたのだろう台座が見つかった。ロープで縛り、反対側をフェルに投げ渡してペトレールと繋ぐ。これで機体が流されて遠泳をする事態は回避できるだろう。

 それからアーロンとフェルを呼び寄せ、ひとまず踊り場で落ち着く。着替えることも考えたが、どうせ帰りにはもう一度濡れることになる。汚れた水ではなく、気温も低くはないので我慢して探索を続けることにする。

「じゃあ、上を目指すんだけど……」

 珍しく言い淀むアーロン。先を促すと、フェルに視線を向ける。

「こんなこと言いたくないんだけど、何しろ数百年前の建造物だ。構造が弱くなっているかも知れない。有り体に言うと、崩落の可能性がある。というわけで、体重の軽いフェル君に命綱を付けて先頭を歩いてもらいたいんだけど、ダメかな?」

「あのな、ドクター」

 文句を付けようとするユベールを、フェルが制する。

「了解した。ユベール、わたしはそれで構わない」

「……契約外の業務だ。相応の危険手当はいただくぞ、ドクター」

「もちろんだよ。いや、本当に申し訳ないよ」

 一悶着あったものの、いよいよ調査は開始された。水没した階下の調査は潜水士でもなければ困難なので、フェルを先頭に上階を目指すことになる。

「フェル。危険を感じたらすぐ言えよ」

 声をかけると、フェルは振り向いて微笑む。

「了解した。ありがとう、ユベール」

 階段を上り始めてすぐ、内部がかなり暗いことに気付く。

「外から見たときも思ったが、窓はほとんどないんだな」

「おそらく技術上の問題だろうね。窓を設けると、それだけ構造が弱くなるから」

 明かり代わりのオイルライターに着火して、フェルに渡したアーロンが言う。

「ちょうど水面近くに窓があったのは運がよかったってことか」

 ユベールの感想に、アーロンは考える素振りを見せてから首を振る。

「いや、そうでもないんじゃないかな。人が出入りできる大きさの窓、あそこだけに設けられた踊り場、加えてコケに覆われて分かりにくかったけど、窓枠の下部にすり減ったような痕跡があった。満水時にあの辺りまで水位が上がることを想定して、木製のはしごがかけてあったんじゃないかな」

「つまり、船で出入りすることが想定されていたと?」

「推測だけどね」

 ライターの明かりを頼りに歩を進めること五分あまり。上方から光が差しこみ、そろそろ最上階に到達することを知らせてくれる。

「ようやく最上階か」

「らしいね」

 四隅の柱を除けば手すりもない、吹き抜けのような場所だった。大昔には布か木材で屋根をかけてあったのかも知れない、とアーロンが言う。放水口はすぐ足下にあり、轟音を立てて水を吐き出している。跳ね飛んだ飛沫が強い日差しを和らげ、涼しさを感じさせる中、吹き抜けの中央に設けられた台座で輝く物があった。太陽光に煌めく、混じり気のない透明な鉱物。一抱えほどもありそうだった。

「石英かな。大きいね」

 おそらく掘り出されたまま加工されていないのだろう。六角形の柱がいくつも束ねられ、溶け合うような格好でくっついている。

「中に何か入っている」

 水晶を眺めるフェルの言葉を受けて、アーロンも覗きこむ。

「ふむ、これは気泡かな。水入り水晶とは珍しい」

「水が入ってるのか?」

「そう、水晶ができるときに空洞ができて、そこに水や空気が閉じこめられることがあるんだ。この塔よりもっと古い、何千、何万年前のそれかもね。アルメア先住民族も、湖に浮かぶこの塔に水入り水晶を安置することに意味を見出していたのかな」

「アーロン、触っていいか?」

「どうぞ。尖っているから怪我をしないようにね」

 太陽光の加減か、水晶に触れる彼女の雪白色の髪が輝いているように見えた。

「ユベール」

「どうした?」

「この水晶が、全ての基点だ」

 その言葉で、フェルには湖上塔がどのような目的の施設なのか理解できたのだとユベールにも知れた。アーロンの反応を確かめたいという衝動を必死に押し殺す。

「フェル」

 続けるべき言葉に迷う。アーロンは育ちのよさからおっとりして見えるが、同時に学者としての鋭い観察眼と高い知性を持つ。ユベールが下手な発言をすれば、彼はこれまでの発言や行動から推察し、フェルの抱える秘密に至りかねない。

「そうだな。この水晶を発見したから、こんな塔を建てようと思ったのかもな」

 フェルの意図も読めなかった。なぜ、この場で魔法について言及するような真似をするのか。あるいは危険が迫っているのかとも思ったが、彼女は至って落ち着いている。結局、当たり障りのない返答をするしかなかった。

「アーロン」

「何かな、フェル君」

 フェルはアーロンに向き直って言う。

「遺跡塔は灌漑設備だという仮説を立てていたな。あれは半分だけ正解だ」

「半分だけ? どういうことだい」

「水を送るために、地下に張り巡らせた管。それがこの湖の水源でもあるんだ」

 フェルの言葉を聞いて、アーロンは口を引き結んで黙りこんでしまう。目を細め、難しい顔で考えていたかと思うと、納得したように深くうなずく。

「ああ、なるほど。水を送るだけじゃなくて、吸い上げることもできるってことだね。突飛な仮説だけど、もしそれが可能ならモルハ国立公園の急激な植生の変化や、その結果としての砂漠化にも説明がつく。フェル君、質問してもいいかな」

 一拍おいて、アーロンが続ける。

「どうして君にはそれが分かったんだい?」

 核心を突く質問だった。しかしフェルは優雅な微笑みを浮かべて答える。

「わたしは勘がいいんだ。アーロンも知っているだろう?」

 はぐらかすようなフェルの答えを、アーロンは吟味するように間を空ける。

「……わかった。それでいいよ。その上で、もうひとつ質問だ。フェル君は、この湖上塔からモルハ国立公園へ、再び水を供給できるようになると思うかい?」

「可能だ。この遺跡はまだ生きている」

 ユベールは口を挟めない。アーロンはフェルが遺跡の機能を把握しているという前提で話しているし、フェルもそれを隠そうとしていない。彼女がピンポイントで遺跡を発見することについて、彼なりに疑念を抱いていたのかも知れない。

「ところで、二人はサンディが僕の調査に協力してくれる理由を知っているかい?」

「いや、聞いていないな」

 話題を変えるアーロンにユベールが答え、フェルも黙って首肯する。

「サンディはアルメア先住民族の血を引いているって、前に話しただろう? 彼は、祖先の土地を守るためにパークレンジャーになったんだよ。僕の調査に協力してくれるのも、モルハ国立公園をかつての緑豊かな土地へ戻すための糸口を見つけるためだって話してくれたことがある。けど、フェル君の話が真実だとしたら」

 アーロンはそこで言葉を切る。少し考えて、ユベールもその言葉の真意に気付く。

「そうか、この土地を去る際にあえてそうした可能性もあるのか」

「どういうことだ?」

 首をかしげ、フェルが尋ねる。遺跡の仕組みは理解しても、そこに関わった人間の思いまでは考えが至っていなかったらしい。考えを整理しながら説明する。

「アルメア開拓時代、先住民族と移民の関係は必ずしも良好じゃなかった。いや、むしろ険悪だったと言っていいだろう。両者はアルメア大陸各地で争いを起こし、大抵は銃を持つ移民側が勝利した。このカルニア州も例外じゃない。豊かな土地は奪われ、次第に奥地へ追いやられるアルメア先住民族は、豊かな農地を侵略者に明け渡すことをよしとせず、自らの意思で土地を枯らした可能性がある」

 アーロンの前で、魔法の力を用いて、とは口にできなかった。それでもフェルには伝わったらしい。目を見開いて、信じられないという表情を浮かべる。国家を守るために魔法を行使し、結果として土地を枯らしたフェルにとって、自らの土地を自らの意思で枯死させた彼らの選択は理解も容認もできないものなのだろう。

 ユベールの言葉に同意するようにうなずいたアーロンが言う。

「僕は人の心に疎いから、君たちの考えを聞きたいんだ。この話を聞いて、サンディはどう思うだろうか。あるいは、彼には黙っている方がいいんだろうか?」

 アーロンの問いは、容易に答えの出せない問いかけだった。モルハ国立公園の緑化のためには地下水を根こそぎ吸い上げる湖上塔の魔法を解く必要があるが、それはこの地に住んでいたアルメア先住民族の意思を否定することでもある。

「サンディに全てを話して、わたしたち皆で決めるべきだ」

 迷いのない言葉は、フェルのものだ。二人の視線を受けて、ユベールも言う。

「……サンディに全てを伝えるまではいいだろう。だが俺には、この場ですぐに決めていいことだとは思えない。頭を冷やして、考える時間を取るべきだ」

 フェルとユベールの言葉を聞いて、アーロンがうなずく。

「二人とも、サンディに話すべきだという点では一致しているんだね。分かったよ。一度ペトレールまで戻って、サンディを呼んでこよう」

 水に入ることを渋るサンディをどうにか説得し、四人で塔の頂上に戻ってくる。アーロンの説明を聞き終えたサンディはしばし瞑目し、それから口を開く。

「地下水を吸い上げて湖を造っている。それが真実だとすれば、現状の在り方が自然だとは思えない。元に戻せるなら、そうするべきだ」

「それでいいのかい、サンディ」

 淡々とした言葉に、困惑したように声をかけるアーロン。

「アーロン、お前のことだ。俺の血筋がどうのこうのと気遣ったつもりなんだろう。だが、俺はアルメア先住民族の血を引くと同時に、アルメア人でもあるんだ。この土地は、かつて彼らのものだった。そして今は、俺たちのものだ」

「……そうか。僕は本当に、人の心に疎いな」

 自嘲するようにうつむくアーロンだったが、すぐに顔を上げる。

「ユベール君。頭を冷やして考えるべきだと言ってくれたけど、きっと答えは変わらないと思うんだ。僕らは、湖上塔の機能を止めようと思う。できればユベール君とフェル君にも手伝ってもらいたいんだけど、どうかな」

「俺たちは雇われの身で、雇用者は貴方だ、ドクター。貴方とサンディがそう決めたのなら、口を差し挟むつもりはないよ。フェルはどうだ?」

「同感だ」

 改めて、互いの顔を見合わせてうなずく。湖上塔の機能が止まれば、モルハ国立公園に張り巡らされた管による地下水の吸い上げも止まり、自然な状態になる。不自然な乾燥と砂漠化も解消され、次第に緑化されていくことだろう。

「問題は、どうやって機能を止めるかだね。塔の上層部には制御装置の類は見当たらなかったし、水没しているとなるとちょっと手が出せないな」

「塔を壊してしまえば、機能停止するんじゃないか?」

「こんな貴重な建造物を壊すなんてとんでもない!」

「なら方法を考えろ、お喋りガラス。俺にはこういうものは分からん」

「君のご先祖様の造ったものだろう? 伝承とか残ってないのかい?」

「残っていたら、とっくにお前が聞き出しているだろう」

「そうだろうけどさ」

「ドクター、サンディ」

 軽口を叩き合いながら最上階を調べる二人に声をかける。

「俺とフェルは階段を調べてみる。暗くて見えなかったものがあるかも知れない」

「うん、頼むよユベール君。フェル君も」

 アーロンは、ユベールとフェルが二人で話す時間を作ってくれたのだろう。フェルを連れて階段を降り、ペトレールの側で向かい合う。煙草に火を付けようとして、煙草もマッチも湿気って使い物にならないことに気付き、舌打ちする。

「怒っているのか、ユベール?」

「それが分かっているなら、どういうつもりか説明してくれるな」

 不測の事態に陥った場合、必要に応じて魔法についての情報を開示する。事前に二人で決めた線引きを断りもなく破られたことに、多少の腹立たしさはあった。

「パーティーの夜、サンディとの会話を聞いていた」

「立ち聞きとは、趣味が悪いな」

 自覚はあったのだろう。目を伏せて、フェルが言う。

「ユベールが話してくれたら、謝るつもりでいた」

「あれは俺とサンディとの話で……」

 言い訳がましい言葉は、フェルの言葉で遮られる。

「サンディは、わたしたちに感謝すると言っていた」

「……そうだな。すまなかった」

 モルハ国立公園の調査には、アーロンの学者生命が懸かっている。そのことを知れば、フェルはきっと協力したいと言い出す。だから、あえてサンディとの会話をフェルに伝えることもしなかった。隠した、と受け取られても仕方がない。

「分かった。アーロンに協力しよう。ただし、無理はするな」

 数百年前にかけられた魔法の制御。その難易度とリスクはユベールには見当もつかない。全てをフェルに任せるしかない以上、せめて釘は刺しておきたい。

「大丈夫だ。先ほど水晶に触れて、全体像は把握できた」

「安全に制御できるのか?」

「やってみなければ分からない」

「……まあ、いいだろう」

 言いたいことはあったが、飲みこむ。そもそも彼女を信頼することが前提の話だ。

「具体的にはどうやるんだ?」

「サンディが言っていた通りだ。広範囲から水を吸い上げて湖に貯めこむ、不自然な状態を解消してやればいい。後は時間をかけて元に戻っていく」

 能動的に水を送りこむのではなく、機能を停止させるだけならリスクは低いように思われた。フェルの態度も、冷静に事実を語っているように見受けられる。

「すぐにでもやれるのか?」

「水晶に触れれば」

「よし、上に戻ろう」

 最上階に戻ると、アーロンとサンディは待ち構えていたように二人を見る。

「何か分かったかい?」

 フェルはうなずいて進み出ると、中央の台座で輝く水晶に手を当てる。

「この水晶が鍵だ。わたしなら、湖上塔の機能を停止させられる」

「色々と聞きたいところだけど、きっと事情があるんだよね。それなのに、リスクを負って協力してくれることを感謝するよ。君たちに会えて本当によかった」

 方法を知りたくてたまらない。アーロンはそんな顔をしていた。しかし、彼がそれを口に出すことはなかった。サンディもまた難しい顔で黙りこんでいる。

 フェルは目蓋を閉じ、深く息を吸いこんだ。ただ目を閉じて集中しているようにしか見えない。知らない者が見れば、彼女が魔法を使っているとは分からないだろう。額にうっすらと浮かぶ汗だけが、彼女にかかる負荷を想起させる。

 しばしの間を置いて、彼女は長く息を吐き、ゆっくりと目を開けた。辺りに響いていた水流の音が小さくなっていき、やがて放水口からの水流が途絶える。

「これで終わりだ。後は自然に……」

 不意に爆発音と衝撃波が身体を打った。低く断続的な地鳴りがそれに続く。

「おい、あれを見ろ」

 サンディが示した方向に目をやると、カルデア湖の外輪山の一部が崩落を始めているのが見て取れた。大量の土砂が湖に流れこみ、続けて閉じこめられていた大量の水が流出を始める。周囲の土を削り取られ、流れは次第に勢いを増していく。

「フェル?」

 ユベールの視線に、フェルは戸惑った様子で首を振った。

「分からない。わたしは地下水を吸い上げる流れを止めただけだ」

「ああ、そうか」

 フェルの言葉を受けて、アーロンが納得したようにうなずく。

「湖上塔は数百年間もメンテナンスを受けずに稼働し続けていたんだ。水道管は老朽化して傷んでいたはず。水流が止まって、中空になったことで重みに耐えられず、崩落したんだ。方角的にも、あの辺りは管が大量に通っていたはずだし」

「呑気に分析している場合か。水位が下がり始めてるぞ」

 サンディの指摘に血の気が引く。

「まずい。ペトレールが!」

 水位が下がれば滑水距離が足りず、離水できなくなる。それ以前に、塔に係留したままでは機体が激突し、その重さと衝撃で塔そのものが崩落する恐れもあった。

「走るぞ。急げ!」

 記憶を頼りに、暗闇の中を二段飛ばしに駆け下りる。ペトレールを係留してある塔の中央部に着くまでに一分を要した。窓から外を覗きこみ、舌打ちする。すでに水位は五メートルほど下がり、ペトレールは大きく傾いていた。右の翼端が塔に当たって破損し、ロープを縛り付けた台座は今にも壁からちぎれ飛びそうになっている。

 ロープを解いている猶予はない。ナイフでロープを切ると、一気に落下したペトレールの艇体が水面を打ち、左翼の先端が水を叩いた。落差はすでに十メートル近くとなり、さらに広がっていく。仮に飛びこんだとしても、機体に乗りこみ、エンジンをかけるのにかかる時間を考えると、離水できるかは賭けとなる。

「ユベール」

 フェルが追いついてくる。

「間に合わなかった。くそ、俺のミスだ」

 ユベールが舌打ちすると、フェルの顔が蒼白となる。アーロンとサンディも追いついてくるが、流されていくペトレールを前にどうすることもできない。

「アーロン、ペトレールを助けなければ」

「ダメだ、フェル。ここで力を使うな」

 フェルの魔法でペトレールを上手く漂着させることは可能だろう。しかし湖の底に残るだろうわずかな水では、ペトレールが離水できない。再び離水できるだけの水を集めようにも、そのための水道管は崩落してしまった。

「ペトレールは……」

 苦渋の決断だった。しかし、それ以外の方法がない。モルハ国立公園の奥地で、サンディの乗ってきた一頭を除けば馬もない状態で取り残されてしまっているのだ。ペトレール以前に、この場にいる四人の命を危ぶむべきだった。

「ペトレールは、ここで捨てる」


8


 本当に大変なのは、その後だった。洪水が収まり、泥濘に埋まるような状態のペトレールから使える物資を回収。サンディの馬に積めるだけの物資を積んでから、ペースキャンプを目指して移動を開始した。

 モルハ国立公園の広大さは嫌というほど実感させられた。パークレンジャーであるサンディの助けがなかったら、ユベールを含めた三人は飢えか渇きで死んでいただろう。食料も飲料水も、その確保は彼が主導し、ユベールがそれを補佐する形で行われた。フェルとアーロンは移動するだけで精一杯だったからだ。

 溢れ出た大量の水は余すところなく大地に吸収され、思わぬ恵みを受けた動植物は洪水の後だというのに活発に活動していた。至る所で芽吹いた緑を食む草食動物と、それを狩る肉食動物の姿も見られた。

 一か月かけてベースキャンプへの帰還を果たした頃には、フェルとアーロンは動ける状態ではなくなっていた。食べ物と水を腹にたっぷり詰めこんで泥のように眠る二人を休ませ、ユベールとサンディも久々の柔らかい寝床で身体を休める。

 無事に帰還を済ませ、気がかりなのは魔法を止めた湖上塔のその後だった。ペトレールの状態確認も兼ねて、数日ほど休んで元気を取り戻したフェルと一緒にローカストで偵察に向かう。魔法についてはフェルでなければ観測できないのはもちろん、責任を感じてずっと塞ぎこんでいる彼女を連れ出してやりたかった。

 モルハ空港を飛び立ってすぐ、異変に気付く。

「これは……全て花なのか?」

「……すごい」

 広大な原野が、全て花に埋め尽くされていた。緑を下地に咲き乱れる七色の花弁が、赤茶けた大地を鮮やかに彩る。地平線まで続く花の絨毯は、圧巻の光景だった。

「フェル、写真に撮っておけよ」

「了解した」

 スーパーブルーム現象。ユベールの報告を聞いたアーロンはそう説明してくれた。大規模な干ばつが続いた後、大量の水が供給されることで休眠状態になっていた種が芽吹き、一斉に花が咲くのだそうだ。洪水がもたらした思わぬ副産物だった。

 高度を下げて花畑の遊覧飛行を楽しんだ後、目的地であるカルデラ湖へ向かう。溶岩が冷え固まってできた岩と、そこに堆積する泥濘の中にペトレールは沈んでいた。回収と修理には莫大な費用を要すると考えられ、現実的ではない。残念だが、やはり放棄するしかないとの判断を下さざるを得ない。

「フェル。塔の方はどうだ」

「異常はない。魔力を含んだ水もほとんど流れ出て、残留する魔力はわずかだ」

「了解だ。写真に撮ったら帰るぞ」

「ユベール、ペトレールはどうするんだ?」

「手の打ちようがないな。このままにしておくしかないだろう」

「どうしてもか?」

「残念だが、諦めるしかない。運び出すには莫大な金が必要だし、修理できるかどうかも分からないからな。新たに建造するか、中古を入手するかは検討中だ」

「……了解した。ペトレールの写真も撮っていいだろうか」

「ああ、頼むよ」

「ペトレール。きみがわたしを空へ連れ出してくれた。ありがとう、さようなら」

 ローカストの狭い機内に、シャッターの落ちる小さな音が響いた。



 ベースキャンプに戻って、アーロンに報告を済ませる。サンディの姿はなかった。

「サンディなら、洪水が生態に与えた影響を確認するために遠征に出ているよ。一週間は帰らないんじゃないかな。君たちによろしくって言っていたよ」

「そうか。残念だな」

 あっさりしたところは、サンディらしいとも言えた。

「君たちも、もう行くんだよね」

「ああ。そうするつもりだ」

 三か月の契約期間も残りわずか。アーロンはユベールたちの業績を高く評価し、当初提示した額の二倍に迫る報酬で二人を労ってくれた。

「君たちには本当に世話になったと思っているよ。今回の成果は、君たちの存在を抜きには語れないものだ。またいつか、一緒に仕事をしたいね」

「気前のいい依頼者は大歓迎ですよ。その時は新しい相棒もお披露目しましょう」

「楽しみにしているよ。フェル君も、元気でね」

「ああ。アーロンも」

「それからユベール君、これを」

 アーロンが差し出したのは一通の便箋だった。

「アディントン・エアクラフトのバートン・アディントン社長……つまり、僕の父へ宛てた紹介状だよ。今はどこも飛行機乗りが不足しているから、厚遇されると思う。ユベール君さえよければ、有効に活用して欲しい」

「ありがたく受け取っておくよ、ドクター」

 アディントン・エアクラフトのお抱え飛行士になる気はないが、新たな飛行機を建造するにしろ、中古の機体を手に入れるにしろ、仕事の伝手は多い方がいい。

 ペトレールの写真は現像したら送ってくれるというアーロンに別れを告げ、プルーメントの街に戻る。宿を引き払い、いつも通り港へ向かいかけたところで足を止めた。ペトレールはもうないのだ。踵を返して、駅へ向かう。

「ユベール、どこへ向かうんだ?」

「駅へ。大陸横断鉄道で東海岸へ向かう」

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