第4話 砂漠の王は湖宮に望む


1


 飛行機のコクピットは、決して乗り心地のいいものではない。フェルが航法士になる以前も旅客として客席に乗ったことはあるが、キャビンとコクピットでは居心地が全く異なる。小柄なフェルでも狭さを感じる空間の中、正面の計器盤には対気速度、高度、昇降度、油圧、機体姿勢を示す計器が並び、両脇には各種のレバーが並んでいる。どこかに説明が書いてあるわけでも、説明書が置いてあるわけでもなく、知っていて当然と言わんばかりにそれらは配置されている。変なところに触れたらぺトレールが墜ちはしないかと、最初はびくびくしていたものだ。

「……暑い」

 伝声管を通してユベールに聞こえてしまわないよう、そっとつぶやく。風防で密閉されたコクピットには風が入らず、強い日差しがコクピット内の気温を刻々と上昇させている。ゴーグルを顔から離して空気を入れ替え、襟首をつまんでバタバタやってはみるものの、雪を手で溶かすようなものだった。

 見張りはしなくてもいいとユベールに言われているが、ただ座ってぼうっとしているのも落ち着かない。座席の下に手を伸ばしてロックを解除、半回転して後ろを向く。身体を締めつけるベルトを緩めて身体を乗り出し、後部機銃のためにあるキャノピのスリットから指先を出して、指に捉えた風の感触をしばし楽しむ。

「砂漠みたいな乾いた土地は、やっぱり魔力も少ないのか?」

 フェルの動く気配に気づいたのか、ユベールが話しかけてくる。

「そうだ」

 ルーシャ語の言い回しを共通語に翻訳して、言葉を継ぐ。

「冬が先か、雪が先かはわからないが」

「うん? ああ、鶏が先か、卵が先か、みたいな表現か」

「……おもしろい言い回しだ」

「それに比べてお前さんのはずいぶんと詩的だな。冬が先か、雪が先か、ねえ」

 気に入ったのか、繰り返し口にするユベール。そのまま会話が途切れたので、機外へと目を向けた。キャノピを通して見える風景は、まばらに雲の浮かぶ空、見渡す限りの砂漠、砂塵にぼやけて境界のあいまいな地平線。草木も生えぬ岩山と、風に吹かれて吹きだまった砂丘がゆるやかな傾斜と陰影を形作り、湧きだすオアシスに貼りつくようにして集落が形成されている。

 土地が枯れているから魔力が少ないのか、魔力が少ないから土地が枯れているのか。言われてみれば、考えたこともない命題だった。一般に、魔女が魔力を使い果たした土地と最初から魔力が希薄な土地では、前者が年月の経過によって自然と魔力を取り戻すのに対して、後者は何百年経ってもそのままであることが多い。緑が豊かな土地には魔力が満ちるが、では一度枯れた土地に植物が根付くかどうかの境目はどこにあるのか。暑さでぼんやりとした思考は、ユベールの言葉で断ち切られる。

「フェル、あれが見えるか?」

 ユベールが指したのは、砂丘から頭を突き出すようにして立ち並ぶ煙突だ。

「……工場か?」

「そう、この砂漠に莫大な富をもたらす黒い泉だ」

「黒い泉……?」

「石油だ。わかるか?」

「わかる。ルーシャにも油田はあった」

 言葉を交わすうちに油田の全景が見えてくる。石油をくみ上げる巨大なやぐらが立ち並び、その上部に設けられた煙突の先端では副産物である天然ガスが燃やされている。少し離れたところに精製施設が建てられ、さらにその向こうには従業員とその家族が住むための街が形成されている。オアシスの近くにあった干しレンガ積みの集落とは趣を異にする、近代的な工場施設と街並みだった。

「この国の石油産出量は世界一だ。あのシャイア帝国やアルメア連州国でさえ、サウティカの安価な石油がなければ産業が立ち行かない。サウティカが第三国を通じて、交戦状態にある帝国軍と連合国の両方に石油を売っているのは公然の秘密だが、自国への供給が絶たれるのを恐れて誰も文句をつけられない」

「…………」

「まあ、資源そのものに罪はない。サウティカはおおむね公平な商売をしてるよ」

 フェルの返答がないのに気付いたユベールが、取りつくろうように言う。

「大丈夫だ。わかっている」

 ざわつく胸の内を押し殺し、フェル・ヴェルヌとしての返答を口にする。戦争以外に使い道のない兵器ならともかく、石油を始めとする各種の資源は国家の血液に当たる。それ自体に罪はなく、ルーシャもかつては自国の油田で補えない分の石油を輸入していた。それは回り回ってルーシャの兵器、その燃料となって、多くの敵兵を殺害しただろう。石油を売ったサウティカに、その咎を負わせることはできない。

 皮肉なことに、多くの人が集まり、パイプラインで遠くのオアシスから水を引いている石油工場の周りは周囲の砂漠に比べて魔力が濃い。あそこに降り立ち、思うさま魔法を行使したらどうなるだろうかと夢想する。石油もまた大地の恵みであることに変わりはなく、巨大な砂嵐を巻き起こし続ければ油田は枯れ果てることだろう。

 大きく深呼吸をして、無意味な思考を打ち切る。石油がなくなった程度で人間は争うことを止めたりはしない。奪った土地が不毛の地と成り果てていたのなら、そこに至るために払った犠牲を穴埋めするべくさらに奥地へと侵略を続けるのが人間という存在だと、フェルは知っているからだ。だから、眼下の石油工場から視線を上げて、遠く砂丘の向こうへ意識を向ける。

 魔力をそこにあるものとして認識できるフェルにとって、普通の人間の視界がどういうものかはわからない。魔力はどのように認識されるものかと問われ、強いて他のものに例えるなら立ちこめる霧に似ているとフェルは思っている。霧は出ているかどうか、どれぐらい濃いか。時に視界を遮るほど濃くなり、その気になれば触れることもできる、という点でも魔力と霧は性質が似ている。

 そんなフェルの目で見て、サウティカの空気を満たす魔力は酷く希薄だった。しかし、魔力が希薄であるため、その濃淡はかえって鮮明に映ることもわかってきた。地平線の先に魔力を感じることがときどきあり、それはオアシスがその先にある証拠なのだ、ということも空からの観察で察せられた。

「見えてきたな。あれがサウティカの首都、ウルカンドだ」

 右前方、砂丘の向こうに姿を表した都市へ向けてぺトレールが変針する。そちらは先ほどから一際強い魔力を感じていた方向だ。そのことをユベールに伝えておけば、自分の有用性を示せていたのではないかと後悔の念が湧く。

 ユベールと過ごしていると、破壊以外にも魔法の使い道があること、魔法以外でも自分は人の役に立てることに気付かされる。それはきっと、彼がフェルを魔女としてではなく、航法士として扱ってくれているからだ。彼がフェルの正体を知ってなお、そうして接してくれていることに、どれだけ救われているかわからない。

「二本の道が合流して、三叉路になっているのがわかるだろう? タッセルとカルニヤ、この国を貫く主要な交易路が交差する地点に、首都ウルカンドはある」

 緩旋回するペトレールから地上を見下ろすと、多くの隊商やトラックが行きかう三本の道が見えてくる。それらの交差する地点を周辺に都市ができていた。道に区切られるように三分割された都市はそのまま階級で分かれているらしく、整然と整備された上流階級の区画、猥雑で活気のある商業区画、外縁部にスラムを持つ労働者の居住区に分かれているのが上空からだと残酷なほどはっきり見える。

「で、俺たちが向かうのはあっち」

 ユベールがペトレールの機首を向けたのは、タッセルと呼ばれた道だ。

「タッセルの上流側へ向かうと、宮殿が見えてくる。そこが今回の目的地、ウルマハル離宮ってわけだ。離宮の持ち主はこのサウティカの王、アルエルディア・アル・サウルカ二世。俺たちは王に招かれた賓客ってわけだ」

「ユベールは知り合いなのか?」

「ああ。何年前だったか、お忍びで街に出てたアル陛下と……まあ、色々あってな。毎年、手土産を持って訪れるようになった。お得意さんってやつだ」

 言葉を濁すユベール。こういうとき、上手く追及する言葉をフェルはまだ知らない。そのことにもどかしさを覚えると同時に、ずるい、という感情が湧き上がる。それらをどう言葉にすればいいか迷っている間にも、目的地は近づいてくる。

「見えるか? あれがウルマハル離宮だ。サウティカで一番の美しさを誇る宮殿だとされてるが……ちょっと早かったか。この季節だといまいちだな」

「……全部茶色だ」

 フェルの率直な感想に、苦笑する気配が伝わってくる。

「仕方ないさ。水で外壁を洗うなんて贅沢は、この国じゃ中々できないからな」

 砂塵に塗れた正方形の宮殿は、この国で初めて見る四階建てだった。一階は柱だけのピロティ形式で、二階も風通しのいい回廊になっているのが見て取れる。居住部は三階以上に設けられているようで、中庭があるのか建物の中央が吹き抜けになっている。宮殿から少し離れたところには円柱状の塔がふたつ建っていて、上空から眺めればこれら全てが道沿いの窪地に建てられているのがよくわかった。

「……わざわざ窪地に建ててあるのか?」

「普通の国なら、雨が降ったら水没するからやらないだろうな」

「そうか、乾燥しているからか」

 フェルが納得していると、ペトレールが大きく傾いて旋回に入る。地上ではエンジンの轟音に気付いて宮殿から出てきたらしく、真っ白な服に赤いスカーフという民族衣装に身を包んだ人物がこちらに向かって大きく手を振っている。ユベールが機体の翼を振って相手を視認していることを伝えると、今度は掲げた両手を大きく前後に振ってなにかを指示するような素振りを見せる。

「砂埃に塗れちゃいるが、滑走路がある。わかるか?」

「あれか、わかる。彼はアプローチの方向を示してくれたのか」

「そういうことだな。風向きはわかるか、フェル?」

「……三時方向、やや強い風だ」

「了解。一度パスして北側からアプローチする」

 そこでいったん言葉を切って、ユベールが続ける。

「上出来だ。航法士の仕事にも慣れてきたな」

「……褒めてもなにも出ない」

「ふふん。そうかよ」

 主脚が降ろされ、ぐっと抵抗がかかると同時に最終アプローチに入る。滑走路上に積もった砂埃を盛大に巻き上げつつ、ペトレールが着陸していく。砂粒がキャノピを叩き、滑走路上に積もった砂で車輪がスリップしかけるのには肝を冷やしたが、ユベールは声一つ上げることなく機体を操り、見事に停止してみせた。

「よう。一年ぶりか、ユベール」

 民族衣装の男がペトレールに歩み寄り、キャノピ越しに話しかける。

「元気そうだな、エルリヒ。誘導、助かったぜ」

 エンジンを切ったユベールが応える。

「こちらは……かわいいお連れさんだな」

 フェルがキャノピを開くと、エルリヒと呼ばれた男が視線を向けてくる。

「フェル・ヴェルヌだ。よろしく」

 キャノピを開いた途端に押し寄せる熱気に閉口しながら手を差し伸べる。

「エルリヒ・ジャマール。ラクダの子エルリヒ、という意味の名だ」

 握手を交わすと、エルリヒは再びユベールに向き直る。

「彼女も陛下への献上品か? 器量はいいが、五年は早いぞ」

「馬鹿を言え。こいつは俺の相棒だよ」

 即座に反論するユベール。相棒、という単語に胸が熱くなる。

「わたしはトゥール・ヴェルヌ航空会社所属、ペトレールの航法士を務めるフェル・ヴェルヌだ。よろしく、エルリヒ」

 語気を強めて言うと、エルリヒは軽く肩をすくめてみせる。長身で顔立ちは整っているが、フェルを軽く見ている気配を隠そうともしない。どうにも印象の悪い相手だと思いつつも言葉を交わすうちに、背後の宮殿からは何人もの男性が姿を見せる。一様に白い衣装に身を包んだ男たちは、エルリヒの指示でペトレールの周囲に散る。どうやらペトレールをどこかに動かすつもりらしい。機体を降りるユベールに続いて、フェルも慌ててペトレールから降りる。

「……おい、フェル!」

 切迫したユベールの声。返事をしようとした口はなぜか開かず、傾いた視界はそのまま暗転する。最後に感じたのは、誰かに抱き留められたような感触だった。


2


 葉を叩く雨音、柔らかなそよ風に誘われ目を覚ます。シーツは柔らかなリネンで、身体の位置を変えるとひんやりと心地よい。視線を上げると、壁を覆う複雑な文様のタペストリーと、大きな扇を打ち振るう褐色の少女が目に入った。少女はフェルが起きたことに気付くと、音もなく立ち上がって一礼してから退出していく。

「ユベール……?」

 石造りの部屋に、相棒の姿はなかった。寝床から離れ、中庭に面した窓際に立つと、四方を壁で囲まれた空間が水に満たされ、中央に浮かぶ四角形の島には一本の大樹と東屋が建てられているのが見えた。ぐるりと見回しても、水に浮かぶ中央の島に橋が架けられている様子はなく、あそこまで行くにはどうすればいいのかと考えていると、背後から数人分の靴音が聞こえてきた。

 おそらく人を呼んできたのだろう、褐色の少女が最初に部屋へ入り、後続の人間に目配せする。彼女に続いて、サウティカ風の衣装に着替えて居心地の悪そうなユベール、神経質そうな印象を受ける浅黒い肌で眼鏡をかけた男性、ペトレールの着陸時に話をした男性が部屋に足を踏み入れる。エルリヒ・ジャマール。彼の名前を思い出すと共に、着陸してからの記憶が途切れていることにも思い当たった。

「ようやく起きたか。ったく、到着するなりぶっ倒れるもんだから血の気が引いたぜ。エルリヒが抱き留めてくれなきゃ頭を打ってたところだ」

「……そうか。感謝しておこう」

「当然のことをしたまでですとも」

 軽く会釈するフェルに、大したことではないと言いたげに首を振って見せる。

「わたしは……気を失っていたのか?」

「気絶したというか、疲れて倒れてそのまま眠っちまったと言うか……お前さん、あれから丸一日は眠ってたんだぜ」

 大きくため息をつくユベールの言葉からすると、宮殿に到着した直後にフェルは気を失ったらしい。すると、彼女が気を失っている間に水辺にある別の宮殿へ場所を移動したのかも知れない。雨が降っていることもあって、気付けば最初に比べてずいぶん過ごしやすい気温になっている。彼女自身の服装も、いつのまにか水兵服からサウティカ風のゆったりとしたものに改められていた。

「……すまない。迷惑をかけた」

「まあ、なんだ。あれだけの仕事をした後だ。体調を崩したとしても不思議じゃないが、それならそうと倒れる前に言え。お前は俺の相棒なんだからな」

「わかった。気を付ける」

 ユベールが言っているのは、ブレイズランドで大規模な魔法を行使したことだろう。エルリヒたちがいるところで口にはできず、あいまいな言い方をしているのだと察せられた。そこにエルリヒが口を挟んでくる。

「さて、ヴェルヌ嬢に置かれましてはご機嫌麗しゅう」

 うやうやしい一礼の後、傍らに控える浅黒い肌の男性を紹介する。

「こちらの者は医者でございます。彼が診察をしたいと申しておりますので、よろしければそちらへお掛けいただき、御手に触れる許可をいただけますか?」

 慇懃な言葉遣いで口を利き、医者と紹介した眼鏡の男性や、召使らしい褐色の少女からは見えない位置でウインクしてみせるエルリヒ。出会い頭の無礼な態度とは打って変わった彼の態度を不審に思ってユベールに視線をやると、こちらはおかしそうに口角を上げている。どうやら、宮中ではこの口の利き方ということらしい。

「許可しよう」

 ふと思いつき、今のフェルが共通語で表現できる限りの高慢な態度と口調で言い放ってみる。エルリヒの眉がぴくりと動き、笑いを隠そうとユベールが顔を背けたのを見ると、どうやら意図は正しく伝わったらしい。エルリヒは音を立てずに舌打ちするような表情を作って見せ、医者に場を譲って一歩下がる。

「……特に病気というわけではなく、おそらく環境の変化で疲れが出たのだろう、と医者は申しています。陛下も、身体が癒えるまでゆっくり休んでいけばよいと仰せですので、足りないものがあればなんなり申し付けてください」

 医者と言葉を交わしたエルリヒが、それを共通語に訳しつつ話す。

「では、ユベールを残して下がってくれ」

 フェルの返答に、エルリヒが目を細めて返す。

「失礼ながら、ヴェルヌ嬢とユベール殿はご結婚を?」

「していない。なぜだ?」

 この場でそんなことを尋ねる意図がわからなかった。

「この国では、親族ではない結婚前の男女が二人きりになるのは避けるべきとされております。もし私のことが気に入らないのであれば……」

 エルリヒは褐色の少女を手で示して言葉を継ぐ。

「彼女を部屋に残して我々は退出いたします。彼女は簡単な共通語なら理解できるので、話が終わったら彼女に伝えて私を呼び戻していただければと存じます」

 魔法と身体への負荷の関係、エルリヒが口にした陛下という単語。ユベールへの相談と現状の確認をするには、言葉を理解できる人間が同席しない方が都合がいい、とは説明できるはずもなかった。上手く説明して欲しいという期待の視線をユベールに向けてはみるものの、困ったような表情をされてしまう。親族ではなく結婚していない男女を二人きりにしてはいけないという慣習、あるいは戒律はそれほどまでに強いものなのだろう、と想像する。

「よいではないか、固いことを言うなエルリヒ!」

 部屋の入り口から響く、快活で自信に満ちた声がフェルの思考を中断させる。

「しかし、陛下……」

 新たに部屋へ入ってきたのは、エルリヒがそう呼びかけずとも彼こそ『陛下』なのだろうと確信させただろう、堂々とした立ち居振る舞いに溢れんばかりの生気を放つ青年だった。衣装こそ周囲の人間と変わらない純白の民族衣装に赤いスカーフだが、スカーフを頭に留めるための輪っかが他の人間の着けているシンプルな黒いものとは異なり、複雑な細工と宝石があしらわれた白い輪となっていた。よく観察すれば、素材は象牙であることがわかる。

「よいぞ、そのまま楽にしているがいい!」

 立ち上がって挨拶しようとしたフェルを制して、自己紹介が述べられる。

「余こそはサウティカ王国の中興の祖たるアルシードの子、アルエルディア・アル・サウルカ二世である! 客人よ、余の宮殿をよくぞ訪れた!」

 アルエルディアと名乗った青年は、今度はエルリヒに向き直って言う。

「エルリヒよ、そなたは余の言葉を、不足があれば申し付けよと彼女に伝えたのであろう? そして彼女はユベールと二人きりの時間を望んでいる。ならば是非もなし、この余がそれを許すと申しているのだ! 異論があるなら述べるがよい、寛大なる余はそなたに反論の機会をも許そう!」

「恐れながら、陛下。我が国の法を、陛下御自身が犯そうと言われるのですか?」

「ふむ、法律を持ち出すのならば、話はなお簡単だ。このサウティカにおける法、それはすなわち王たる余の意向であるのだから! 必要であるならばこのアルエルディア、彼女の願いを叶えるために法を変えることもやぶさかではない!」

 あっさりと言ってのけるアルエルディアに、エルリヒが控えめに嘆息する。

「……陛下。お戯れはほどほどに」

 エルリヒの言葉を受け、アルエルディアが笑みを深める。

「うむ。そもそも法を変える必要などない。なぜなら、彼らは余の民ではないゆえな。余の民ではない異国の民が戒律を守るべきか否か、その解釈自体を法学者に禁じたのが余であることを、エルリヒ、お前とて知らぬわけではあるまい?」

「ええ、陛下。陛下の命により、異国の民に戒律を守らせるべきか否かは意図的にあいまいにされている。よって異国の民が戒律に反する行為をしても公的に咎められはしません。ただ、それは表向きの話」

 エルリヒは、アルエルディアに答える体でフェルに対して説明していた。

「戒律を遵守すべしと考える諸宗派の過激派は陛下の方針に反発しています。彼女がこの宮殿を離れ、他の街を訪れた際にも普段通り振舞ったならば、最悪の場合、過激派に襲われかねません。そのことは事前に説明しておくべきかと」

「うむ、そういうわけだ、客人よ。我が民にあらざるそなたと余は対等の存在であるがゆえに、互いの信仰と価値観を尊重することができよう。もちろん守るべきルールはいくつか存在するが、なに、そう堅苦しく考えることはない。後ほど、エルリヒから詳しい説明を受けるがよい!」

「……感謝する」

 登場した順番など関係なく、場の主導権は自分にあると信じて疑わず、実際にそれを周囲の人間に認めさせてしまう。尊大さと自然体を同居させたような喋り方に立ち居振る舞い、発言の内容から伺える開明的な在りよう。この国の発展に少なからず寄与してきたのであろう一国の君主が、フェルの眼前にいた。

「わたしはフェル・ヴェルヌという。手厚いもてなしに感謝を」

「アル陛下。その、彼女は共通語に不慣れでして……」

 慌ててフォローに入るユベールを、アルエルディアが手で制する。

「よい、言葉遣いなど構わぬ。ふむ、それにしても……」

 そこでようやくフェルを個人として認識したかのように、アルエルディアの視線がフェルに注がれる。とび色の瞳は他者の心を見透かすようにどこまでも深く、見られた者を落ち着かない気分にさせる。反射的に目をそらしたくなるのをこらえて、まっすぐに見つめ返すと、アルエルディアは口元の笑みを深くした。

「……フェル・ヴェルヌ。おお、銀色の髪を持つ美しき乙女よ。我が長き旅路の道行きにそなたのごとき同行者あらば、困難なる旅路は千の物語を諳んじる吟遊詩人を供にするよりも心安きものとなるだろう。余は望む、そなたも余と共に歩むことを望むことを。さあ、この手を取って立ち上がるがよい」

 アルエルディアの発した言葉に、エルリヒが息を飲み、ユベールの顔に緊張が走るのがわかった。召使いの少女すらも雰囲気に当てられてか息を詰めて成り行きを見守る中、どういう意味かと問い返すのはためらわれた。『共に歩む』とは『エスコートする』という意味だろうか。そう考えてユベールに視線をやると、彼はあいまいに首を振った。その間も、アルエルディアはフェルの返事を待ち続けている。やや気まずい空気がその場に流れ、早く返事をしなければ、という焦燥感にかられる。

「…………よろしく、頼む」

 サウティカの王、アルエルディア・アル・サウルカ二世。提案の内容、それが意味するところを完全に理解したわけではなかったが、彼の機嫌を損ねるのはユベールにとっても好ましくないだろうと判断しての返事だった。しかし、彼に手を預けた瞬間、ユベールとエルリヒが難しい顔をする。反対に、アルエルディアは満面の笑みでフェルの手を引くと、立ち上がらせた勢いのまま抱き寄せてしまう。

「聞いたな、エルリヒ! そなたが証人だ!」

「……ええ、確かに聞き届けました」

 喜色のにじむ声でアルエルディアが言い、呆れたようなエルリヒが受ける。

「……ユベール?」

 アルエルディアの腕の中から助けを求めると、ユベールはため息をつく。

「フェル……お前さん、自分が何を承諾したのか理解しているか?」

 失言したのでは、と血の気が引いたところに、とどめの言葉が放たれる。

「さっきの陛下の言葉は、この国の流儀で求婚の言葉に当たる。で、お前さんはたった今、それを承諾した。お前さんが言葉の意味を理解していたかどうかは関係なく、な。そういう国なんだよ、ここは……」

 結婚を承諾した。聞き間違えようもないその言葉、そしてアルエルディアの腕の中で彼の体温を間近に感じたことで顔が熱くなり、思考がまとまらなくなっていく。まだ体調の戻りきらない彼女が再び気を失うまで、そう時間はかからなかった。


3


 目が覚めて、最初に感じたのは頬に当たる寝具の柔らかさだった。つややかでありながらべたつかない感触は上質なシルクのそれであり、視線を上げれば壁に掛けられたタペストリーもより複雑で繊細な文様のそれへと置き換わっていた。

「……起きた?」

 声の方向に目をやると、褐色の少女が二人に増えていた。フェルに声をかけてきたのは、最初に目覚めたときにも部屋にいた少女らしい。次第に頭がはっきりしてくると、そもそも部屋自体が変わっていることに気付く。

「ここは?」

「客室。王様の、家族の」

 共に母国語ではない、つたない共通語で会話を試みる。どうやら通常の客室から、王族用の客室に移されたらしい。その理由が、アルエルディアの求婚に応じたからだということも思い至って顔をしかめると、少女が心配そうに首をかしげる。

「頭痛い? 医者、呼ぶ?」

「いや、ユベールを……わたしの相棒を呼んでくれ」

「わかった」

 少女がうなずいて部屋を出ていくと、もう一人も後ろについて出て行ってしまい、部屋にはフェル一人が残された。今度はそう長く眠っていなかったはずだが、雨音はさっきよりも激しくなっている。窓から中庭を見下ろすと、自分が最上階にいること、中庭に浮かぶ島が冠水しそうなほど水位が上がっていることがわかった。水面の位置を一階と仮定すると、最初に目覚めたときは二階の部屋で、今は三階にいるらしい。部屋は広くなり、調度はより上質なものが置かれている。

「入るぞ」

 背後から声をかけられて振り返ると、部屋の入り口にユベールとエルリヒが立っていた。アルエルディアが姿を現さなかったのにはほっとしたが、招かざる人物の登場に目を細める。フェルの視線に気づいたのか、肩をすくめてみせるのが余計に気に障る。もしかしたら、それも計算してやっているのかも知れなかった。

「具合はよくなったか?」

 絨毯の上に置かれたクッションのひとつに、ユベールが腰を下ろす。

「心配してくれたのか?」

「そりゃするだろ。しかし、ちょっと困ったことになったな」

「……ちょっと?」

「いや、すまん。お前さんにとっては大事だな」

「ユベールは……」

「ん?」

 彼の言葉に反感を覚えたが、上手く言葉にできなかった。エルリヒの目もあれば、感情的になるのもためらわれる。部屋の入り口に立ち、中と外へ等分に注意を向ける彼に視線をやると、おどけたような表情を向けてくる。

「ん? ああ、エルリヒは中立だ。むしろ、お前さんとアル陛下の結婚を阻止したいと考えている。あいつのことは心配しなくていいぞ」

「エルリヒが?」

 アルエルディアの配下であるエルリヒが結婚に反対というのは意外だった。彼はフェルが結婚を承諾したことの証人でもあるのだ。そんな彼が結婚に反対する理由とはなんなのだろうか、と考える。

「わたしが外国人だからか?」

「加えて、家格の問題もある」

 ユベールの端的な言葉は、ふたつの意味を孕んでいる。サウティカの国王であるアルエルディアが結婚する相手として、ただのフェルでは釣り合いが取れず、ルーシャの冬枯れの魔女フェルリーヤでは国際政治的な問題となってしまうのだ。

「アル陛下はフェルの生まれがどうだろうと気にもしないだろうが、周りがそれを認めない。諸外国も石油の産出国であるサウティカの王族がどんな婚姻関係を結ぶかは注視している。フェルの名前と姿はすぐに全世界に知れ渡るだろうな」

「……それは困る」

「だから、アル陛下の翻意を促したい。それがエルリヒの立場だ」

「今からでも、断れないのか?」

「難しいな。そもそもこの国では、求婚を受けた女性がすぐ承諾を口にしたりはしないものなんだ。求婚する側も、本人ではなく、女性の父親か叔父に話を持っていくのが本来の形だ。許可を出すのは父親もしくは叔父であって、女性には基本的に拒否権がない。一度決まった話を覆すなんてもってのほかだ」

「……不平等だ」

 フェルが語気を強めると、ユベールが嘆息する。

「わかってるよ。俺だってそれが正しいとは思っちゃいない。けど、こういう仕事をしてりゃ国ごとの戒律やしきたりに合わせていかなくちゃ仕方ないだろ?」

「ユベールは、わたしがアルエルディアと結婚してもいいのか?」

「俺は、フェルが望むならそうしてもいいと考えている」

 ユベールの返答に、言葉を失う。当然否定されるものと思っていた問いかけに対して、肯定の言葉が返ってくるとは思ってもみなかった。

「……わたしの借金はどうなる」

「仮に結婚するとなれば、アル陛下が肩代わりしてくれるだろうさ」

「航法士の仕事は?」

「ペトレールなら、お前さんが来るまでは一人で……」

 そこまで言いかけて、ユベールが何かに気付いたように言い直す。

「お前さん、もしかして俺に気兼ねしてるのか? それなら気にするな。フェルは航法士として今日まで十分な仕事をしてくれた。それに、アル陛下ならきっとお前のことも悪いようにはしないはずだ。だから、お前さんは自分にとって何が最善か、だけを考えて選択すればいい。俺はそれを尊重するよ」

 唇を噛む。伝えたいことが胸の内で上手くまとまらず、それを察してくれないユベールに理不尽な怒りが湧いてきた。

『……出て行ってください』

「ん?」

 ルーシャ語に切り替えたフェルの態度に、ユベールが戸惑う。

『出て行って、と言ったの。聞こえなかったかしら?』

「いや、話はまだ……」

「やめとけよ、ユベール」

 割って入ったのは、エルリヒの声だった。

「そんなんだから、奥さんにも逃げられるんだぜ。頭冷やしてこいよ」

「お前……!」

 エルリヒの言葉に激高しかけたユベールは、しかし深呼吸をひとつすると、黙って部屋の外へ姿を消してしまった。その姿をおかしそうに見送るエルリヒだったが、ふとなにかに気付いたような素振りを見せると、フェルに視線を向ける。

「おっと……二人きりはまずいな。俺も退散するとしようか」

「待ってくれ、エルリヒ。わたしは大丈夫だ」

「お嬢ちゃんは大丈夫でも、俺の立場ってもんがあるんだがね。まあいいさ、陛下からは希望があれば何でも叶えるようにと仰せつかっているしな」

「さっき、ユベールに言ったことについてだ」

「あいつの奥さんについてか? ユベールからは聞いてないのか?」

「聞いていない」

 指輪をしていないのは知っていた。しかし、過去に結婚していたかどうかを問うたことはなかった。もちろん、そのことをフェルに話す義理がユベールにあるかと言えば、ない。しかし、フェルの過去をユベールが知っているのに、ユベールの過去をフェルが全く知らないのは不公平だ、という理屈を思いついてしまった。

「ふうん……興味があるなら、本人から聞くべきだと思うがね」

「では、命令だ。ユベールの過去について、知る限りを教えてくれ」

 エルリヒのここまでの態度を踏まえてそう口にすると、彼は口元を歪めて応えた。

「いい性格してるな、お嬢ちゃん! 確かに、そう命令されれば俺は断れない!」

「……無駄口はいい」

「妃殿下候補の仰せのままに。では、ユベールが陛下と知り合ったときの話をしよう。あれはちょうど五年前のことだった。と言っても、俺はその場に居合わせたわけじゃないから詳しいことは知らんのだがね」

 語りつつも、エルリヒの注意は常に部屋の外へ向けられている。

「ともかく色々あって、ユベールは陛下を乗せて飛ぶことになった。そのとき、今はお嬢ちゃんが座る後席に座っていたのが彼女、ヴィヴィエーヌ=ラ・トゥールってわけだ。指輪をしていたかは覚えてないが、同じ姓を名乗ったのは覚えてるぜ」

「姉か妹ではないのか?」

「髪も肌も瞳の色も、全部違っててもか?」

「……続けてくれ」

「続けるもなにも、それで終わりさ。翌年、ユベールがサウティカを訪れたときには彼女はいなかった。理由を聞いてもやつは話さなかったしな」

「それだけしか知らず、よくああも無神経な言葉が吐けたものだ」

「無神経、ね。そりゃ的確な表現だ」

 それが習い性であるかのように、皮肉気な笑みを浮かべるエルリヒ。

「空気を読まず、周りの人間が言いにくいことを代弁し、直言する。先王の私生児、陛下とは腹違いの兄弟に当たる俺の、それが役割だからな」

「兄弟?」

「知らないようなら教えてやる。ジャマール……ラクダの子ってのは家名を持たない私生児につけられる姓なんだ。ユベールから教わらなかったか?」

「……聞いていない」

「俺が思うに、お嬢ちゃんたちはコミュニケーション不足だな」

「……余計なお世話だ」

「そうやって口ごもるのは、内心じゃ俺の言葉を正しいと認めているからだろう? ま、いいさ。それで、お嬢ちゃんはどうするんだい?」

「何の話だ?」

「陛下との結婚の話さ。ユベールとの旅を、ここで終わりにしてもいいのかい?」

「わたしは……」

「まだ気付いてないようなら教えてやる。お嬢ちゃんは、その言葉をユベールの口から聞けなかったのが不満なのさ。違うかい?」

「ユベールは、どこに……?」

「探すといいさ。付き添ってやるよ」

 差し伸べられた手を見て、こう答える。

「それはわたしへの求婚か、エルリヒ? だったら、お断りだ」

 含み笑う彼女の言葉に、エルリヒが苦笑する。

「……いい性格してるぜ、まったく」

 手を借りずに立ち上がり、一人で歩き出す。

 誰が彼の相棒なのかを、彼に教えてやるために。


4


 エルリヒを引き連れて廊下へ足を踏み出すと、宮殿と呼ぶにふさわしい天井の高さ、繊細で幾何学的な壁面装飾に目を奪われる。スリット状に設けられた窓は見上げるほどに高く、晴れた日であれば回廊に美しい陰影を投げかけるのだろう。降り続ける雨音が、青を基調とする装飾と相まって静謐な雰囲気を作り出している。

「最上階は王族のエリアだ。ユベールがいるとすれば、下の階だろうな」

 エルリヒのアドバイスに従って、階段を下りる。

「居場所に心当たりは?」

「さてね。俺はあくまで案内役でしかないからな」

 助言はしても、手助けはしないということだろう。

「一階や、外にいる可能性は?」

「頭を冷やせとは言ったが、この天気で水泳もないだろう。宮殿を出るなら船に乗る必要があるが、渡し守である俺がいなけりゃ船は出せない。やつは宮殿の中だ」

「歩いて宮殿を出る術はないのか?」

「ユベールが水面を歩けるのでない限りはな」

 エルリヒの言葉から推察すると、ここは湖に浮かぶ宮殿らしい。ならば、ペトレールもここにあるはず。ユベールは飛行機のそばにいるのではないかと思いつく。

「ペトレールはどこだ?」

「ユベールの飛行機かい? 陛下の専用機と一緒に格納してあるが、整備塔も船を出さなきゃ行けない場所にある。いるとすれば客室だと思ったんだが、いないな」

 客室を覗くが、確かに荷物だけでユベールの姿はない。

「下から順に探そう」

「仰せのままに」

 エルリヒの言葉によれば、この階には客室と使用人のための部屋があるらしい。ひとつひとつの部屋は小さく、施された装飾は最上階より簡素なものになってはいるが、それでも見事なものだった。統一感を持たせつつも変化に富んで目を飽きさせない造形の美を楽しみつつ廊下を歩んでいると、ひとつの事実に気付く。

「外に向いた部屋はないのだな」

「いいところに気が付いたな、お嬢ちゃん」

 宮殿の外周は四角形の回廊になっているらしく、部屋は全て中庭に面していた。普通は景色を眺めるために外側に部屋を作るものだが、この国では風景といっても全てが砂漠であることが影響しているのかも知れない。今は雨のおかげで涼しくなっているが、日光を遮って砂漠の暑熱を過ごしやすくするための工夫でもあるのだろう。日の光を少しでも屋内に取りこもうと天窓やステンドグラスに工夫を凝らすルーシャの建築とは真逆の発想だった。

「今でこそ雨期の離宮として飾り立てられてはいるが、この宮殿の始まりは五百年前、当時の王が水上城塞として造営したことに始まる」

「ジョーサイ?」

「城、砦。わかるかい?」

「わかった。なるほど、そういうことか」

 高く細いスリット状の窓は、敵の視線と侵入を防ぎ、なおかつ矢狭間としての機能を果たすためのものなのだろう。指先で壁に触れると、建物全体が魔力を宿しているのが感じ取れた。歴史ある建造物である証だ。

「美しい宮殿だろう?」

「そうだな」

「その割には、反応が薄いな。外からの様子を見てないんじゃ仕方ないが」

「外から?」

「砂漠に現れる水の離宮。雨期になると、外観だけでも一目見ようってサウティカを訪れる観光客や写真家が結構多いんだぜ」

「中には入れないのか?」

「王族の離宮だからな。ユベールとお嬢ちゃんはあくまで特例なんだぜ」

「そうか」

「やれやれ、物事に動じないのは、流石に生まれが生まれだからか? どうにも説明しがいのないお嬢ちゃんだぜ」

 生まれについて言及され、不審の視線を向けるとエルリヒが肩をすくめる。

「お、当たりかい? 仕事柄、各国の王族ともそれなりに接するもんでね。立ち居振る舞いや目の配り方、召使いへの態度でなんとなく分かるんだよな」

 ユベールから漏れたわけではないと分かり、ため息をひとつ吐いて視線を戻す。

「安心しな、お嬢ちゃんの生まれや、ユベールと一緒にいる理由を詮索するつもりはないさ。ただまあ、突破口になるならそのあたりだろうな」

「それはどういう……」

 エルリヒの顔を見て口を開こうとしたところで、彼が口元に指を立てているのに気づく。二人はちょうど下階へ続く階段を半分ほど降りたところだった。

「……ユベール」

 回廊の先に、柱に体重を預けて水面を眺める相棒の姿があった。

「さ、行けよ。二人で話してくるといい」

 こちらに気付いていない彼に聞こえないよう、エルリヒがささやく。

「戒律はいいのか?」

 フェルの言葉に、エルリヒが肩をすくめる。

「余人の目はなくとも、神はいかなる時も我らのそばにあり」

 エルリヒは格言めいたことを口にすると、フェルの肩を軽く叩いて去っていく。理解するのに時間を要したが、要するに誰も見ていなければ構わない、ということらしい。ずいぶん柔軟な戒律もあったものだ、と軽く噴き出す。緊張が解け、少しだけ軽くなった心とともに足を進める。

「ユベール」

「……フェルか」

 外壁はなく、天井から吊るされた絹織物と柱で外からの視線を遮る回廊にユベールはいた。中庭に視線をやると、雨粒に乱れる水面を通して無数の柱が建物を支えているのがわかる。中庭の中央にある島には船で行くしかないらしく、回廊の一部は船着き場の機能を持たされていることにも気付く。柱にもたれるユベールのそばまで歩いていくと、カヌーが二艘、並んで係留されているのが見えた。

「話をしよう、ユベール」

「……そうだな」

 柱にもたれる彼の隣で、フェルも冷たい大理石の柱に身体を預ける。

「ユベールは、どうしてわたしがアルエルディアと結婚してもいいと思うんだ?」

 直截な問いかけに、少し考えてからユベールが答える。

「飛行機乗りってのは、命を失う危険もある仕事だ。だから、フェルを航法士として雇ったときも、そう長くやらせるつもりはなかった。借金ってのも、責任感の強いお前さんが妙な罪悪感を抱かないように言っただけで、落ち着き先が見つかったら、ちょうどそこで返済が終わったことにしてやればいいと思ってた」

「ユベールにとって、わたしは重荷だったか?」

「初めはな。だが、すぐにそうじゃなくなった。ケルティシュでトラブルに巻きこまれたときの機転、ハイランドで見せた鋭い洞察。仕事の呑みこみの早さ、取り組み方の熱心さを見ても、航法士としての素質は計り知れない。お前さんが……フェル・ヴェルヌが相棒でいてくれるなら、俺はずいぶん助かる」

「だったら……」

「だが、お前にはもうひとつの名がある。フェルリーヤ・ヴェールニェーバ。冬枯れの白き魔女、ルーシャの正当な統治者であるフェルに、このまま航法士を続けさせていいのか? お前さんが倒れる姿を見て、そう考えちまったんだ」

 フェルの返事を待たず、ユベールが続ける。

「ルーシャは現在、シャイア帝国の保護下に置かれ、実質的な植民地として収奪を受けている。もしフェルがその状況を変えたいと願うなら、アル陛下との結婚は悪くない選択肢だ。フェルの持つ正当な血筋と、アル陛下の石油を背景とする豊富な資金、国際政治における発言力が合わされば、現状に一石を投じられる」

「ルーシャを……?」

「恐ろしく困難な道だ。だが可能性がないわけじゃない。だからこそ、その判断に俺への遠慮を挟んで欲しくなかった。部屋を追い出されてからずっと考えてたんだが、俺の心情としてはそんなところだ。さっきは言葉が足らず、すまなかった」

 ユベールが頭を下げる。フェルは小さく首を振って、気にしていないことを示した。それよりも、彼の述べた言葉が頭の中を駆け巡っていた。ルーシャの奪還。祖国を滅ぼした自分にその資格はないと、あえて考えないようにしていた可能性を提示されて、心が揺れ動いた。そんな自分の心の動きにこそ、動揺した。

「わたし、は……」

 祖国を取り戻したい。そう口にすれば、ユベールはフェルの下した判断を尊重してくれるだろう。しかし、それは多くの血を流す道でもあると、今のフェルにはわかる。自らの取るべき道について確信の持てない自分が下していい判断だとは、とても思えなかった。少なくとも、今はまだ。

「わたしは……フェル・ヴェルヌとして、ユベールの相棒でありたい」

 状況に迫られての選択ではない。どちらが正しいかという答えはない。思えばこれが初めてかも知れない、自由意思による選択は酷く恐ろしかった。震えそうになる手を握りしめ、それでいいのかと問うユベールの視線を、まっすぐ受け止める。

『フェルリーヤ・ヴェールニェーバ。冬枯れの魔女、白き空のフェルリーヤは、かつて魔法を正しく扱うことに失敗して、祖国を失った。わたしは、その過ちを繰り返さない。けれど、それは魔法の存在から目を背けることを意味しない』

 一度は封印すると決めた魔法の力。そんなフェルの傍らにいてくれたのが、ユベールであったことに感謝する。彼と、彼と一緒に旅をする中で出会った人々がいなければ、彼女は再び戦乱を巻き起こす存在となっていてもおかしくなかった。

『トゥール・ヴェルヌ航空会社の航法士にして、魔女。それがわたし、フェル・ヴェルヌとしてここにいるわたしが、そう在りたいと願う姿。わたしは、貴方の……ユベール=ラ・トゥールの相棒としてふさわしくあることを、ここに誓うわ』

 差し出した手を、彼女の相棒が握り返す。

「了解だ。こちらこそ、よろしく頼む。頼りにしてるぜ、相棒」


5


「おはよう! 我が花嫁フェル・ヴェルヌよ、目覚めはいかがかな? うむ、そなたの美しさたるや、まこと水面に映る太陽のようであるな!」

 これからもフェルがユベールの相棒であることを確認し、エルリヒも交えて今後の方策を話し合った翌朝。中庭の水面に反射した光線が天井で揺れるさまを見つめていると、エルリヒの予測した通りにアルエルディアが姿を現した。

「おはよう、アル」

 気安い呼びかけに、アルエルディアが笑みを深める。

「ふむ、アルか。よい、今後はそのように呼びかけることを許そう」

「わたしに用事か?」

「うむ。準備が整ったゆえ、そなたを舟遊びに誘おうと思い立ってな」

「舟遊び?」

「然り。砂漠の国ゆえ全ては砂埃にかすむのが常だが、長雨が止んだ翌朝は空が澄み渡り、景色がよいゆえな。ふむ、エルリヒからはなにも聞いておらぬか? いや、構わぬ。むしろ善い。そなたには是非見せたいものがあるのだ」

「了解した。行こう」

「それにしても、ふむ」

 普段の水兵服姿に戻ったフェルの全身に、品定めするような視線が向く。

「異国の水兵の出で立ちで舟遊びとはなんとも粋よな。余もエルリヒに命じて、揃いの服を仕立てさせるも一興か。そなた、どう思う?」

「好きにするといい」

 突き放すような言葉を気にする風もなく、アルエルディアが大きくうなずく。

「うむ、そうしよう! エルリヒ、聞いていたな!」

 部屋の入り口で控えていたエルリヒが、首肯してみせる。昨日は相談に乗ってくれた彼だが、今日はアルエルディアの臣下、宮殿の渡し守としてここにいる。アルエルディアとの駆け引き、交渉はあくまでフェル自身が行わねばならない。

 先導するエルリヒに従って階段を下りる。雨の降りしきる昨日の薄暗さとは打って変わって、水面からの反射光が揺らめく幻想的な空間となっていた。その先にある船着き場には、一艘の船が泊められている。王の座乗する船としては簡素かつ実用性に重きを置いた小振りな船であり、アルエルディアとフェル、船尾に立つエルリヒの三人だけが乗りこむ。ユベールの姿はそこにはない。

 エルリヒが器用に櫂を操り、船を出す。宮殿を貫いて中庭と湖を繋ぐアーチ状の空間を抜けて、するすると船が進んでいく。水底まで見通せそうな透明度の高さは生物が少ない証拠でもあり、感じられる魔力は砂漠ほどではないが薄い。それでも船のへりから水面に指を伸ばせば、魔力がそこに通うのを感じ取れた。

「我がサウティカならばともかく、そなたの国では水など珍しくもなかろう? 水面ではなく、周囲へ目を向けてもらいたいものだな、我が花嫁よ」

 アルエルディアの言葉に、視線を上げる。祖国ルーシャにはない強い日差しに目を細め、瞳孔が順応するのを待つ。最初に目に入るのは舳先でこちらを向いて腰かけるアルエルディアだ。健康的に灼けた肌、砂漠の宝石のように強い光を宿す瞳、泰然とした王の風格を漂わせるその姿は、自信と余裕に満ちた声音と相まってとても魅力的だった。多くの女性は、彼の王妃となることを幸せに感じるだろう。

「そうでもない。わたしの国では、すべて雪と氷になってしまうから」

「はは、左様であるか! ならば存分に水と戯れるがよい!」

 心の底からおかしそうに笑うアルエルディアが、不意に視線を移す。

「エルリヒ」

「御意」

 短いやり取りを経て、力強い櫂のひとかきで船が90度旋回する。

「我が花嫁よ、ご覧あれ。これこそは我が湖宮、その真なる姿」

 アルエルディアが示す先に視線をやって、息を呑む。

「すでにこのウルマハル宮を訪れていながらその美しさを未だ知らず、内より出でて初めて目にする者など古き歴史書を紐解いてもそなたくらいのもの! うむ、よい機会に恵まれるは天に愛されたる証、すなわち我が花嫁となる者の特権よな!」

 曇りなき空、蒼空を映す湖水よりもなお蒼い、湖に浮かぶ宮殿がそこにあった。

「これは……」

 そして、気付く。王族が住まう最上階と、ユベールが泊まる階、船着き場のある階の三階建てだと思っていた建物が、四階建てであることに。透明度の高い湖水を透かして、水没した一階が存在することに。加えて、旋回する際に目に入った塔、おそらくエルリヒが口にしていた整備塔は、どこかで見覚えのあるものだった。それがサウティカに着いて最初に着陸したときに目にしたものであると思い出すまで、そう時間はかからなかった。

「この湖は……いつ、できたんだ?」

「そなたが我が国に到着してから、今朝までにかけてだ、我が花嫁よ」

 砂塵に塗れた茶褐色の宮殿。あの宮殿の一階部分が水没し、激しい雨に砂塵が洗い流されれば、この湖に浮かぶ蒼の宮殿となるのだろう。ウルマハル宮、とユベールが呼んでいたことも今更ながら思い出す。気を失い、寝室で目覚めたときには中庭が水で満たされていたため、到着したときに見た砂漠の宮殿からは移動したものと思いこんでいた。しかし、実際はどこにも移動していなかったのだ。

 ただフェルが勘違いしていただけではある。しかし、思い返せばユベールもエルリヒもそれとなく言葉を選んで、フェルの勘違いを継続させようとしていた節もある。とはいえ、腹を立てる気にもなれなかった。これだけの光景を、砂漠に現出する湖、そこに浮かぶ蒼き宮殿を、新鮮な気持ちで眺めることができたのだから。

「……綺麗だ」

 頭に浮かぶ賛辞の言葉が、上手く言葉にならないもどかしさ。

「そうであろう」

 しかし、アルエルディアはそれで足れりとした。

「とても、綺麗だ。気に入った」

「気に入ったか。ならばよし。このウルマハル宮はそなたのものとしよう」

「わたしのもの?」

「然り。これもサウティカの慣習なれば、気を遣う必要はないぞ」

 このサウティカでもっとも美しいとされる宮殿を、気に入ったのなら、と当たり前のように差し出す鷹揚さ。生まれながらの王、持てる者たる彼ならば、ルーシャ奪還の力になってくれるかも知れないと心が揺れる。しかし、それは自らの人生を選択する権利を放棄するに等しい行いであると告げる冷静さも胸のうちにあった。

「慣習……わたしの国にも慣習はある」

「ユベールから聞いた。そなたはルーシャの生まれであったな」

「そうだ。我が名はフェルリーヤ・ヴェールニェーバ。メルリーヤ・ヴェールニェーバの娘にしてルーシャ帝国の正当なる後継者、白き空のフェルリーヤだ」

 フェルの告げた言葉にアルエルディアがおもしろげに目を細める。

「ほう! そなたは自らをルーシャの女王、かの冬枯れの魔女であると称するか! それはまた大きく出たものだ! して、証拠はどこにある? かの悪名高き国枯らしの魔法の一端を、この場で余に見せてくれるとでも言うのか?」

「アルが望むのなら、そうしよう」

 水面に指を伸ばし、湖全体に魔力の経路を通していく。生物が少ないためエルリヒの操る櫂を除けば波紋ひとつ立たなかった湖面が風もないのにさざめき、波立つ。そうして湖水の全てを掌握した上で、湖岸から中央に向けて大きな波を発生させる。すると、中央で行き場を失った水が吹き上がり、弾け、盛大に飛沫が舞う。

「美しいものを見せてもらった。返礼として、虹をかけよう」

 断続的に波を起こし、水を噴き上げ、飛沫を散らす。散った飛沫は船上にある三人の身体を濡らし、強烈な陽光を和らげ、光を乱反射させる。ほどなくして、壮麗な宮殿を彩る雨の弓、空にかかる七色のアーチが魔法のように現出していた。

「ふ、はは! 魔法! なんと、これが魔法というものか!」

 アルエルディアが眼前に広がる光景を目にして哄笑する。

「ははははは! これは愉快! うむ、このようなものを魅せられて、認めぬわけにはいかぬ。よいだろう、そなたはまさしく冬枯れの魔女、フェルリーヤ・ヴェールニェーバであると! このアルエルディア・アル・サウルカ二世が認めよう!」

「ありがとう、アル」

「風のうわさに聞くのは恐ろしげな逸話ばかりであったが、うむ、本物はこうもかわいらしく粋な計らいのできる女性であったとは! これを愉快に思わずしてなんとするか! 虹の魔法、まこと天晴れである!」

 アルエルディアの、フェルを見る視線が確実に変化していた。ただ守られるだけの女性ではなく、対等な為政者、亡国の女王に対するそれへと。

「アル、頼みがある」

「申すがよい。余は機嫌がよい!」

「わたしの国には、結婚に関する慣習がある」

「ふむ。余との結婚に当たってもそれを守りたいと? よいぞ。申してみるがよい、余に成しうることならばそれを叶えてやろうではないか!」

「では、わたしと結婚して欲しい」

 わたしと、の部分に力をこめる。

「ふむ? 余は元よりそのつもりであるが?」

「では、ルーシャの慣習に従い、アルはわたしの……ルーシャの正当なる後継者、フェルリーヤ・ヴェールニェーバの婿となることを認めるのだな?」

 フェルの言葉を聞いたアルエルディアが目を丸くし、次に思案するような表情を見せた後、理解したと言わんばかりに破顔する。

「いいや、認められぬ! はは、これは見事!」

 おかしそうにそれだけ言って大笑するアルエルディア。

「……すまない。貴方を陥れてしまった」

「はは! よい! 頭ではそなたを冬枯れの魔女と認めながら、心ではただの女と侮って気を緩めておった余が悪いのだから! 許せぬのは、そう、エルリヒ」

 フェルの背後に立つエルリヒを、アルエルディアが視線で射貫く。

「この策謀、そなたの入れ知恵か?」

 一瞬にして場の雰囲気が張り詰めたものに変わる。王の怒気に当てられたエルリヒは居住まいを正し、しかし涼しげな口調は崩さず答える。

「いいえ、陛下。彼女が冬枯れの魔女その人であると、私はたった今知りました」

「その言葉、嘘はないな?」

「陛下と血を分けた者として、誓って」

「エルリヒはアルの弟なのか?」

 フェルの問いに、アルエルディアが答える。

「左様、こやつは腹違いの弟よ。確か継承順は十八位であったか?」

「さて、忘れてしまいました」

「ふん、とぼけたやつよな」

「お褒めにあずかり恐悦至極」

 エルリヒの、アルエルディアに対しても直言を恐れない距離感の近さ、その正体は血縁であるがゆえなのだと、改めて実感が湧く。年の近い同性の血族であり、しかしアルエルディアに直接危害を加えても利のない継承順の低さから、彼の側近となるべく育てられたのがエルリヒ・ジャマールという男なのだ。

「話が逸れたな。さて、どこまで話したのだったか……」

「陛下の婿入りは認められない、と言ったところまで戻すのがよろしいかと。賢明なる陛下はすでにご理解なさったと存じますが、言葉にしておくのは重要です」

 さらりと助言するエルリヒに、アルエルディアが忌々しそうに返す。

「わかっておる。そなたは少し黙っておれ。さて……」

 アルエルディアがフェルに向き直る。

「ルーシャに伝わる結婚に関する慣習……なるほど、女が嫁ぐのではなく、婿を取るのがそなたの国のやり方であると、そういうことなのだな?」

「そうだ」

「うむ、ならば余とそなたの結婚は叶わぬ。そなたの婿となった時点で、法律に従い余はサウティカの王位を失うことになる。そなたの知恵、機転、美貌は王位と天秤にかけるに値するが……それでもなお、天秤は王位に傾くゆえな」

「それは、なぜ?」

「決まっておろう! 余がサウティカに住む民草を愛しているからだ!」

 そんな言葉を臆面もなく言えるアルエルディアは、いい君主なのだろう。いつの日か、彼と結婚しなかったことを悔いる日も来るかも知れない、と予感する。それでも、フェルはユベールの相棒であることを選んだ。その意味を噛み締める。

「……虹が綺麗だな」

「うむ、そなたには劣るがな!」

 アルエルディア・アル・サウルカ二世。

 砂漠の国を治める、太陽のごとき王との、恋の話だった。


6


 虹の魔法から一週間。ペトレールの機上から見下ろすサウティカは今日も雨に煙り、最初に訪れたときに見たよりも少しだけ優しく、生気に満ちていた。都市を貫く交易路として機能していた二本の道は、緩やかに流れる川へと変貌している。雨期を除けば水の流れない枯れ川なのだとユベールが教えてくれた。

 ウルマハル離宮がただの二夜で豊富に水を湛える湖となった理由も、上空から見れば一目瞭然だった。窪地に自然と水が貯まるのに加えて、枯れ川の水を引き入れることで上流から流れてくる水を一気に貯めたのだ。草木が少なく、保水力の低いサウティカでは、砂が吸いこみ切れない水は全て下流に流れる。一夜にして、とまではいかずとも魔法のように湖を現出せしめた自然の業には驚嘆するしかない。

「ようやく解放してもらえたな?」

 からかうようなユベールの声が伝声管から響く。

「ユベールが先に話すから……」

「仕方ないだろ? 諸外国の珍しい酒に加えて、旅する中で出会った人々や出来事についての土産話をする、ってのがアル陛下との契約なんだ。余との結婚を断るのだからおもしろい話でも聞かせよ、なんて言い出すとは思わないさ」

「おかげでずいぶん苦労した」

「お前さんと出会ってからというもの、それこそ物語みたいな落ちがつく仕事ばっかりだったからな。そりゃ話すさ、それだけ褒美も増えるしな」

 到着してからフェルが寝込んでいる間、ユベールはアルエルディアの話し相手を務めていたのだという。それを聞いて、思いついた仮説があった。

「アルがわたしに興味を持ったのも、そのせいなのでは?」

「……まあ、その可能性はなくもないな」

「……ユベール」

「悪かったよ。すまん」

「貸しひとつだ」

「わかったよ、まったく……」

 ユベールと出会ってからの話はあらかた話されてしまった後だったせいで、ずいぶん昔にさかのぼって思い出話をする羽目になってしまった。滞在が長引いたのも、フェルの昔話をおもしろがったアルエルディアがもっと話せと求めたためだ。

「ひとつ、聞いていいか?」

 ふと思いつき、ユベールに尋ねる。

「なんだ?」

「わたしがアルとの結婚を断ったとき、ユベールはどこにいたんだ?」

「ん? ああ……どうしてそんなことが気になるんだ?」

「助けてくれてもよかっただろう?」

 そんなことは無理だったと承知で、口にしてみる。

「してたさ」

 だから、気のせいか意地になったようなユベールの返答は意外だった。

「どういうことだ?」

 問いを重ねると、口を滑らせたと言わんばかりの沈黙が落ちる。

「わたしに貸しがあるだろう?」

「お前さん、ちょっとずつ素が出てきたよな……」

「ダメか?」

「いや、いいさ。その方がずっと魅力的だ」

「それより、話をそらさないで欲しい」

「ああ、くそ……話すつもりはなかったんだがな。いいか、聞いたのはお前さんだからな。俺は仕方なく言うのであって、恩に着せるつもりなんてないからな」

「前置きはいい」

「……あのときは、ペトレールで待機してたんだよ。もしフェルが交渉に失敗して、どうしてもアル陛下と結婚する羽目になったら、一緒に逃げられるようにな」

「…………」

「怒るなよ、お前さんの交渉が失敗すると思ってたわけじゃないさ。けど、こういう仕事をしてるとどうしても用心深くなる。万が一、失敗したときのことを考えたら、いざってときの備えはしとかなくちゃだろ?」

「……ありがとう、ユベール」

 フェルの沈黙を、機嫌を損ねたからだとユベールは勘違いしたようだが、その逆だった。アルエルディアの花嫁としてのフェルをさらって逃げれば、ユベールとアルエルディアの信用関係は決定的に損なわれる。つまり、ユベールは一国の王という大口の取引先であり強力なコネクションよりも、相棒であるフェルを優先してくれたということに他ならない。その事実が、じんわりと胸に染みる。

「それで、次はどこへ?」

 努めて冷静を装って、話題を変える。気を抜くと泣きそうだった。

「ああ……それなんだが、どうしたものかな」

「決まっていないのか?」

「まあな」

「去年はどこへ?」

「去年か……」

「嫌な思い出でも?」

 言いよどむユベールをからかうつもりで口にする。

「いや、去年はシャイアでの仕事をアル陛下に紹介してもらったんだがな」

 返ってきた言葉に、今度はフェルが言葉に詰まってしまう。

「……わたしのせいで行けなくなったのか?」

「そういうわけじゃないさ。どのみち、今のシャイアじゃ外国人の飛行機乗りなんてスパイ容疑であっという間に捕まっちまうだろうしな」

 ルーシャ帝国を含めた周辺諸国を併合し、同盟国であるディーツラント帝国を支援することで東方への侵略を間接的に進めるシャイア帝国に対して、列強が向ける目は厳しい。国内では厳しい情報統制が敷かれ、外国人は収容所に入ることを強制されているとのニュースも目にしたことがある。

「ま、深刻に考えるな。空はどこまでも繋がってるんだ。行く先で新たな仕事に出会うことだってあるだろうさ。というわけで、フェル、どっちに飛びたい?」

 ペトレールを緩やかに旋回させつつ、ユベールが問う。

「わたしが決めていいのか?」

「頼むぜ、航法士さん」

「それなら、わたしは……」

 最初に思い浮かんだ国の名を、口にする。

「アルメアを。世界で一番豊かな国を見てみたい」

「了解。ここからだと……そうだな。東へ飛んで、それから陸伝いに北上するルートを取るとしようか。よし、目指すはアルメア連州国西海岸だ。行くぜ、相棒」

「ああ、行こう」

 自分の行き先を、自分で決める。久しくしてこなかったことだと、ふと思った。

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