第3話 銀の女神は魔女なりや
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エングランド王国南端の港町、サルソー。ハイランド地方での仕事を終えたユベールとフェルは、海を渡る前の最後の補給のため、この港町を訪れていた。街の中心を貫くサルソー川が形成した三角州は天然の良港であるため、古くから南方の島々との貿易で栄えてきた。ここなら航空燃料の入手も容易だ。
「燃料は満タンにするのか?」
「太極洋を横切るからな。備えておくに越したことはないさ」
次の目的地である砂漠の国サウティカは一国でひとつの大陸を成す広大な国家だ。サウティカとの間に横たわる太極洋にはブレイズランド諸島を始めとする多くの島が浮かんでいるが、どこも僻地であり航空燃料を入手できる確証はない。燃料補給に加えて消耗した各種物資の補充、自分たちの食事も終えて、のんびり散歩しつつぺトレールのところへ戻るところだった。
「南方は天気が荒れやすい。嵐に突っこんで洋上で位置を見失おうものなら、たちまち燃料切れで漂流する羽目になる。頼りにしてるぜ、航法士さん」
「了解した。任せておけ」
航法士としての技量はともかく、フェルの持つ魔女としての力は当てにできる。彼女の言葉によると、魔力とは生命や大地に宿り、風に乗って流れるものらしい。洋上でも魔力の流れてくる方向へ飛んでいけば、少なくとも陸地にはたどりつける可能性が高いという。どうしようもなくなったときの頼みの綱としては十分に過ぎる。
「さて、俺たちもぺトレールも腹ごしらえは済んだ。そろそろ出発するか」
「どこへ行くんだ?」
「次の仕事は砂漠の国サウティカの予定だが、一か月の猶予がある。南太極洋にはリゾート地として有名な島がいくつかあるから、のんびり夏休みを取るぞ」
「いいのか?」
「ハイランドの調査飛行に三週間かかるはずだったのが、お前さんの働きで短縮されたんだ。いい仕事をしたやつにはそれなりの報酬がなくちゃ嘘だろう?」
「わたしは役に立っているだろうか」
「立ってるさ、胸を張っていい」
「……そうか」
表情を隠すようにハンチングのつばを下げるフェルだが、口元には笑みが浮かんでいる。実際、ユベールの目から見ても、彼女の航法士としての適性は高いと評価できる。水兵服の首元にゴーグルを下ろし、革製の小振りでシンプルなメッセンジャーバッグを肩にかける格好もだいぶ板についてきた。
「ユベール」
港に着いたところで、ユベールの服のすそが引かれた。
「ん?」
「誰かいる」
フェルが指で示したのは、ぺトレールとは桟橋を挟んで反対側に泊めてある、小型のフロート水上機のそばで言い争う男女の姿だった。パイロットらしい男に対して、若い女が腰に手を当てて食ってかかっている。地面に置かれたふたつの大きな旅行鞄からすると、旅行客だろうか。男は困り切った表情で首を振っている。
「ですから、修理が終わらないことには飛び立てません」
「それじゃ、祭儀に間に合わないって言ってるでしょ!」
両手で降参を示すパイロットに、女が詰め寄る。
「そう言われましても、無理なものは無理です!」
「だったら私、泳いででも行ってやるんだから!」
「無茶を言わんでください! 何百キロあると思ってるんですか?」
「直線距離で852キロでしょ! 私を死なせたくないならなんとかしなさいよ!」
「ですから……!」
遠巻きに見ていても終わりそうにない。フェルと顔を見合わせ、軽く肩をすくめてぺトレールに歩み寄っていく。ユベールたちを視界の端に捉えた女は言い争いを中断し、軽く会釈して道を空けようとしたが、なにかに気付いたように目を見開くと再び進路を塞ぐように二人の前に立った。
「……なにか?」
ユベールの問いに、女が笑顔を浮かべて言う。
「貴方たち、こっちの飛行艇の持ち主よね?」
「ええ、そうですよ」
「私をブレイズランドまで連れてってくれないかしら?」
「リイッタ様!」
制止の声を上げたのは、パイロットの男だった。リイッタと呼ばれた女はそちらを冷ややかに一瞥し、またユベールの方へ視線を戻す。褐色の肌につややかな黒髪、輝く水晶のような碧眼が強い印象を残す、エキゾチックで芯の強い雰囲気の女性だ。砕けた口調を改め、ほほえみを浮かべて一礼する姿は育ちのよさを感じさせる。
「申し遅れました。私はリイッタ・プレンシア。突然の申し出で驚かれたことと思いますが、私はどうしてもブレイズランドへ行かねばならないのです。相応の謝礼をお約束いたしますので、どうかお力添え願えないでしょうか」
「仕事の話であれば、承りますが。それなりに値段は張りますよ?」
「急な依頼だもの、当然ね。これをどうぞ」
無造作に外したブレスレットがユベールの手に乗せられる。ずっしりとした感触は純金のそれだ。おそらく非常時に換金する目的で製造されたもので、手首の内側に当たる部分には純度と製造者を示す刻印も打たれていた。刻印の偽造は重い詐欺罪に当たるため、ある程度は信用が置ける。
「そういえば、ブレイズランドは金鉱山で有名だったか」
「ええ、その通り。お疑いでしたら、鑑定していただいても構いませんわ」
「いや、必要ない。プレンシア社の名前は知ってるよ」
リイッタ・プレンシアの名と、ブレスレットに打たれた刻印で思い出した。プレンシア家はブレイズランド諸島を実質的に統治する一族の名前だ。向こうに到着し、プレンシアの名を出して真贋の鑑定を頼めば本物かどうかはすぐにわかる。もしリイッタが詐欺師ならそんな分の悪い賭けはしないだろう。
「急ぐの。すぐに結論を出してくださるかしら」
「リイッタ様! 私は反対です!」
プレンシア家に雇われたのだろうパイロットの目にはユベールたちへの反感がある。自分の仕事を奪われようとしているのだから当然ではあるが、リイッタはパイロットに対して毅然とした口調で命令する。
「貴方は飛行機の修理が終わるまでここで待機なさい。いい? 帰りは任せるから、修理が終わり次第、私を追ってブレイズランドまで飛ぶのよ」
「……仕方ありません。おっしゃる通りにいたします」
「よろしい。それで、どうかしら?」
リイッタの提案は、正直なところ願ってもないものだった。ブレイズランドはサウティカへ向かう途上にあるし、金鉱山に加えて観光で成り立つリゾート地としての側面もある。彼女を送り届けたら、そのまま滞在してもいいだろう。
「フェル、仕事になるが構わないか?」
「わたしは構わない」
「よし、決まりだ。よろしく頼むよ、プレンシアさん」
手を差し出し、握手を交わす。
「リイッタでいいわ。貴方は?」
「ユベール=ラ・トゥール。ユベールと呼んでくれ」
「わたしはフェル・ヴェルヌだ」
「あら、かわいい。貴方の娘さん?」
「そいつは、我がトゥール・ヴェルヌ航空会社の航法士だ」
見習い、と続かなかったのを聞いて、フェルがユベールを見上げる。
「そうなの? フェルちゃん、でいいかしら」
「構わない」
うなずき、機嫌がよさそうにほほえむフェル。
「ふふっ、本当にかわいいわ。よろしくね」
リイッタとフェルも握手を交わす。
「ああ。よろしく、リイッタ」
早速出発したいというリイッタに急かされ、ぺトレールに乗りこむ。後席には彼女が座り、フェルはその膝の間に収まる。貨物スペースはかわいそうだと主張するリイッタの提案でそうなったのだが、細身の女性が二人とはいえ狭そうだった。
「ベルトはしなくていいわよね? 安全運転でお願いするわ」
「努力しますが、もし天気が荒れたら頼みますよ」
「わかったわ。大丈夫、フェルちゃんはしっかり抱いてるから」
フェルはおとなしく抱かれている。依頼人に気に入られるのは決して悪いことではないが、本人がどう思うか。舌を噛まないよう離水するまでは静かにしていたリイッタだったが、空に上がった途端にフェルを質問攻めにしている。伝声管越しに漏れ聞こえる二人の会話を聞くでもなく聞きながら方位を確かめ、操縦桿を操る。
「フェルちゃん、何歳なの?」
「13歳だ」
「私は21歳。ね、この服どこで買ったの?」
「ドヴァルだ」
「あ、大陸の方から来たの? いいな、私も行ってみたい」
「行けばいい。飛行機ならすぐだ」
フェルの返事はいつも以上にそっけないが、リイッタが気にする様子はない。
「そうなのよね。けど皆がうるさいのよ」
「みんな?」
「おじさまとか、おばさまとか、島の人たちとか。もしものことがあったら島はどうなるんだ、なんて、みんな心配性なのよね」
「リイッタは島では偉いのか?」
淡々としたフェルの問いに、リイッタが笑いを含んだ声で答える。
「そう、偉いのよ。なんたって、私はブレイズランドのお姫様なんだから!」
2
ぺトレールを水平に戻し、膝上の地図に目を落とす。ブレイズランド諸島には以前も飛んだことがある。エングランド王国最南端の港町サルソーから南東に800キロほど飛ぶと見えてくるはずだった。そういえば、リイッタが直線距離で852キロと妙に正確な数字を口にしていたと思い出す。
「リイッタはエングランドでなにをしていたんだ?」
お互いに一通りの自己紹介を済ませた後、フェルが問う。
「グラスフ大学で歴史を学んでいるの。ふふ、髪がさらさらで気持ちいい」
「……あまり指で触れないで欲しい」
「じゃあ頬ずりしちゃう。光の加減で白にも銀色にも見えて、本当に綺麗ね」
「…………」
フェルは閉口しているが、ユベールはリイッタの言葉に納得していた。グラスフ大学といえばエングランド王国でも有数の名門大学である。本人が優秀であるのはもちろん、質の高い教育を受けねばその門を潜るのも難しい。高等学校がないブレイズランドの生まれであれば、家庭教師から学ぶ以外に道はないだろう。冗談めかしてお姫様を自称していたが、彼女が裕福な家の生まれであり、なおかつ教育の重要さを理解する上流階級として育ったのは疑いようもない。
「ユベールさん、聞こえる?」
「聞こえてますよ」
「到着までどのくらいかかるのかしら」
「四時間ってとこですね」
「そう、ありがとう。たくさんお話しましょうね、フェルちゃん」
「……了解した」
「ところでフェルちゃん、貴方、生まれはルーシャでしょう?」
リイッタの発言に、ユベールは息を呑んだ。口調は全く変わっていないのに、機内の雰囲気が一変する。なにげない質問で相手の呼吸をつかみ、思い切りよく踏みこむ。会話の勘所を押さえた質問の仕方に、リイッタ・プレンシアという人間を侮っていたのでは、という後悔が生まれる。
「……そうだ。わたしはルーシャで生まれた」
ユベールは下手に口を挟めない。フェルに任せるしかなかった。
「メルリーヤ・ヴェールニェーバ。貴方は彼女によく似ている」
「リイッタは彼女を知っているのか?」
「肖像画を見たの。ルーシャの先代女王、メルリーヤ・ヴェールニェーバ。汚れなき新雪のような白銀の髪に、青紫の瞳は愛らしいスミレのごとく。救国の英雄にして絶対の支配者は、神さまの寵愛を一身に受けた人形のような美しさを誇ったとか。フェルちゃんも大人になったらあんな風になるのかしらね?」
「この髪や眼の色は、ルーシャでは珍しくない」
「そうなの? でもこちらでは珍しいわ。似ている、と思ったのはそのせいかしら」
「……似ている、とは故郷でもよく言われた」
「そうでしょう? だってフェルちゃん、すごくかわいいもの」
楽しそうに話すリイッタ、穏やかに答えるフェル。ユベールにはリイッタの真意が読めず、ただ二人の会話に耳を澄ますことしかできない。ケルティシュで出会ったロイド大佐のように、語学に堪能な者であればフェルの訛りから出身を推定できるのだということに、もっと注意を払っておくべきだった。
「私ね、シャイア帝国の歴史を学んでるの」
リイッタが続ける。
「だから、ルーシャについてもほんの少しだけ……そう、本当にちょっとだけ知っている。でも、それは本で得た知識でしかない。できたら、故郷を離れたルーシャ人であるフェルちゃんのお話を聞かせて欲しいの。もちろん無理強いはしないけれど」
「なにを聞きたいんだ?」
「なんでも。そうね、例えば、子供のころはどんな風に過ごしていたのかとか、トゥール・ヴェルヌ航空会社で航法士として働くようになった経緯とか」
「……簡単には説明できない」
「ゆっくりでいいわ。大丈夫、時間はあるもの」
リイッタの言う通り、ブレイズランドに到着するまで少なくとも四時間はある。その間、空飛ぶ密室となったぺトレールの中で密着する二人を引き離すことはできない。不慣れな共通語では真意を隠すのが難しいので、質問攻めにされたフェルがどこでボロを出すかわからなかった。上手くはぐらかすのが難しいなら、口を閉ざすのが最善なのだが、どうやったらフェルだけにそれを伝えられるかが難しい。
「……昔は、ずっと旅をしていた」
「それは、家族と一緒に?」
話し始めたフェルに、リイッタが質問を被せる。学究の徒らしい無遠慮さにいらだちを覚えながら思考を巡らせる。ルーシャに傀儡政権を樹立したシャイア帝国にとって、生死不明のフェルの存在は悩みの種となっているはずだ。彼女の生存と現在の居場所が知れれば、拉致もしくは暗殺を目的とした刺客が行く先々で待ち受けることにもなりかねない。ルーシャ人のフェル・ヴェルヌとしてならともかく、冬枯れの魔女が生存していると噂になるのは避けたかった。
「姉のような人だった。様々な場所を訪れた。ルーシャ国内の各地を巡った後は、ウルスタン、モルウルス……シャイアにも行った」
「中央エウラジアを一巡りしたのね。どんなものを見たの?」
「人の暮らしを。大地の在りようを。豊かな土地も……枯れた土地もあった」
「そう……色々なものを見てきたのね」
姉のような人、というのは以前も言っていた駐在武官の女性のことだろう。それにしても、フェルがシャイア帝国も訪れていたというのは初耳だった。彼女の身分を考えればそれなりの危険を伴う旅だったはずだが、見聞を広める以上の意味を持つ旅だったのだろうか、と考える。
「リイッタはなぜブレイズランドに戻るんだ?」
「私? 祭儀……えっと、神さまのためのお祭りって言った方がわかりやすいかしら? 色々と役割があって、年に一度は島に戻ることになってるの」
「リイッタの神さまはどんな神さまなんだ?」
「そうね……興味があるなら、きちんと説明するけど」
「ぜひ聞きたい」
「うん、じゃあ島に伝わる神話を教えてあげるね」
上手く話題を切り替えたフェルに心の中で拍手を送る。こういう手合いは説明を求められると話さずにはいられないのだ。短い期間ではあるが、同じ学究の徒であるジャックや老ジョージと過ごした経験が生かされているのかも知れない。
「火山と羊の島、ブレイズランド。緑豊かで平和な島を、ある日、魔獣が襲った」
先ほどまでの軽い口調とは打って変わった厳かな口調でリイッタが語り始める。
「黄金に輝く炎の魔獣は、森を焼き尽くし、人を喰らった。島一番の戦士も返り討ちに遭い、島は魔獣に支配され、人々は絶望に包まれた。けど、その時だった。灰色に曇った空がふたつに割れ、銀色に輝く女神が人々の前に降り立ったのは」
リイッタは言葉を切り、十分に間を置いて言葉を継ぐ。
「空から地上へ降り立った女神は人々を空飛ぶ船に乗せ、周囲の島へ逃がした。けど、小島で得られる食べ物は全員の腹を満たすにはほど遠い。ブレイズランドの人々は飢えて死ぬか、魔獣から島を取り戻すかの選択を迫られた」
再び言葉を切ったリイッタに、先を促すようにフェルが問う。
「それから、どうしたんだ?」
「人々は戦うと決めた。辛うじて持ち出せた武器を集め、女神にも助力を頼んだ。女神はそれを承諾すると自らも剣を取り、黄金の魔獣に立ち向かった」
再び言葉を切るリイッタ。フェルが問いを重ねる。
「勝ったのか?」
「悪しき魔獣の牙は女神に届くことなく、鋭き爪は腕ごと切り飛ばされた。息を合わせて戦う女神と人々によって島の中央にそびえる火山まで追い詰められた魔獣は、それでも諦めなかった。女神の剣で首を落とされ、首だけになってなお女神に噛みつくと、そのまま火口に身を投じた。女神が戻ってくることはなく、人々は彼女への感謝をこめて、毎年その時期になると祭りを開くようになった」
ジャックと老ジョージ、フィッツジェラルド家の二人が聞いたらよろこびそうな話だった。特に、黄金の魔獣というのは色々と示唆的でおもしろい。豊富な産出量を誇るブレイズランドの金鉱山と絡めて、興味深い仮説を語ってくれることだろう。
「ブレイズランドの発展は、海賊と交易を生業とするダーナ人が入植したことから始まるの。黄金の魔獣というのは金髪のダーナ人たちを指しているとも、彼らが黄金を掘ったことで流れ出した有毒物質やガスのことだとも言われているわ」
普段の口調に戻して神話の解釈を語るリイッタに、フェルが問い返す。
「では、女神は?」
「そう、そこがわからないのよね。勇気ある島の女性だったとか、島を訪れたダーナ人の女海賊だったとか、色々と説はあるんだけど、どれもしっくりこない」
すらすらとよどみなく神話を語る一方で、史学的な解釈を口にする。気さくな態度とバランスの取れた在りようは、多くの人々に親しみと好感を与えるだろう。プレンシア家におけるリイッタの位置づけがどのようなものかはわからないが、高い教育を受けていることを併せて考えても、将来のブレイズランドを背負って立つ指導者の一人として期待されているのかも知れない。
「ところでブレイズランドの食べ物はおいしいのか?」
会話が途切れるのを見計らって、フェルが質問を投げる。
「そうそう、食べ物は旅先での一番の楽しみよね。おいしいのはやっぱり魚、あとは果物かな。うん、エングランドよりおいしいものが食べられるのは保証するわ」
話題はそのまま島やリイッタの大学生活へと流れていく。フェルには悪いが、残り三時間あまり、そのまま当たり障りのない会話を続けてくれることを願った。
3
「ユベールさん、そのまま島を横切ってもらえるかしら」
「了解だ」
リイッタの指示に従い、ブレイズランドの上空をフライパスする。リイッタの話ではもともと緑豊かな島だったそうだが、金の採掘と人口増加による伐採が進んだためか、眼下に広がるのは黒い岩肌が目立つ荒涼とした風景だ。計画的に植林されたらしき一帯を除けば、中心部にいくほど黒の占める面積が大きくなる。
「あそこの桟橋につけてもらえるかしら」
「入り江の奥か。いい場所ですね」
「水深の浅い砂地が続いてるから、波も穏やかなの」
海に突き出た岬を挟んで、小さな村があるのも見える。大型船には向かないやや遠浅の海岸だが、海水浴にはぴったりだろう。並んでいる建物もコテージらしい。
「舌を噛まないよう、黙っててくださいよ」
「うん。知ってる」
旅客を乗せるときのクセで言ってから、リイッタが島とエングランドを普段から水上機で行き来していることを思い出す。どことなく硬い口調からすると、実際に舌を噛んだことがあるのかも知れない。
「フェル、どこかにつかまってるか?」
「……大丈夫だ」
「うん、わたしが抱いてる」
「了解だ。着水する」
リイッタの言う通り、水深の浅い場所は波が穏やかになる。あまり浅くても沖合で着底してしまうため具合が悪いのだが、実際にフロート水上機を運用していた場所だけあって、ぺトレールでもぎりぎり問題ないだけの水深が確保されている。
「流石ね。うちの操縦士より上手いわ」
「お褒めに預かり光栄です。今後ともごひいきに」
「それなら、プレンシア家の専属操縦士の仕事に興味はあるかしら?」
「そいつはやめときましょう。操縦士さんに恨まれたくない」
「あら、残念」
ユベールがエンジンを切る間に、フェルが機体から飛び降りて係留作業を始める。ロープを操る手つきはまだ怪しいが、航法士としてやるべきことを着実に吸収していく姿は頼もしい限りだ。ユベールは機体後部に回って、荷物を降ろしていく。リイッタも身軽に飛び降り、浮き桟橋を大きく揺らす。
「わっ……」
フェルの声にユベールが振り返ると、リイッタが悲鳴を上げる。
「危ない!」
立ち上がろうとしていたフェルが揺れでバランスを崩し、前につんのめる。その先は海だ。間に合わないが、幸いにも下は海だ。大事にはならないと判断したその瞬間、リイッタが手を伸ばす。バランスを取ろうとするフェルの腕をつかむと、引き戻す。フェルはその場で尻餅をつき、代わりにたたらを踏んだリイッタがぐるっと半回転して背中から海に落ちた。ユベールも即座に海へ飛びこむ。
「……ぷはっ! ああもう、びしょ濡れじゃない!」
「怪我はしませんでしたか?」
「ん……大丈夫」
ユベールの手をつかんで立ち上がったリイッタが顔をしかめる。
「……やはり、どこか痛めたのでは?」
「大丈夫って言ってるでしょ」
笑みを浮かべるリイッタだが、その表情は固い。フェルも心配そうな表情で見つめている。しかし本人がかたくなに大丈夫だと言い張るのではどうしようもない。
「さ、行きましょう?」
「荷物は持ちます。フェル、俺たちの分は頼んだ」
「了解した」
リイッタの荷物は大きな旅行鞄がふたつ。右足をかばって歩く彼女に持たせられる重さではない。一方、ユベールとフェルの荷物は最小限にまとめてある。リイッタは抗議するような視線をユベールに投げ、それから申し訳なさそうに目を伏せた。
「島の医者がいます。そこまでお願いいたします」
「わかりました。途中で辛くなったら言ってください」
「お気遣い、感謝します」
いつでも支えられるよう、リイッタの後ろを歩く。砂浜が切れると地形は急にせり上がり、岩肌を削った階段が続いている。不揃いな段差は負担が大きいようで、ヒールのついたサンダルを履く足首は痛々しく腫れている。それでも苦悶の声ひとつ漏らすことなく、気丈に歩みを進めるのだから大したものだった。
「村では私の従者扱いされるかも知れません。お気を悪くなされないよう」
「それくらいは構いませんよ」
コテージの建つ海岸から離れると、おそらくは島民のものだろう集落が見えてくる。村外れの畑で農作業をする人々はリイッタの姿を目にすると深々と頭を下げ、遊び回る子供たちは見慣れない格好のユベールたちを不思議そうに眺めているが、子供たちの中でも年かさの少女たちがリイッタのそばまでやってきた。
「おかえりなさい、巫女ねえさま!」
「ただいま、みんな。元気にしてた?」
「うん! あのね、お祭りの準備を手伝ってるの!」
「偉いのね。女神さまも喜んでくれるわ」
リイッタに頭をなでられ、嬉しそうに笑う少女。驚いたことに、子供たちは共通語で話している。数年前、燃料補給で立ち寄ったときは共通語が全く通じなくて困った記憶があったので、意表を突かれた。
「共通語は学校で教えてるのか?」
少女たちが子供たちの輪に戻るのを待ってリイッタに尋ねる。
「ええ、プレンシア家の方針で五年前に教師を招聘したの。さっきのコテージのいくつかには教師が住んでて、そのまま住居を兼ねた学校として使ってるのよ」
「そりゃ素晴らしい」
人命軽視の鉱山開発で諸外国から非難を受けるプレンシア家だが、教育には力を入れているらしい。豊富な産出量を誇る金鉱山もいつかは掘り尽くされることを考えればリゾート化の推進と優秀な人材の育成は王道とも呼べる政策だが、その当たり前を着実に実行できる支配者層というのは存外に少ないものだ。
「…………」
リイッタについて歩いていると、否応なく視線が突き刺さる。
「気にせず、黙ってついてきてください」
振り返ることもせず、リイッタが言う。
「まだ若い巫女である私に複雑な感情を抱く者も多いのです」
リイッタにも事情があるのだろう。フェルとうなずき交わし、黙って歩く。無邪気に話しかけてきたり、手を振っているのは子供たちばかりで、大人たちは値踏みするような視線でこちらを眺めている。リイッタが大きく息を吐き、気安い口調に戻して振り返ったのは村外れまできてからだった。
「こっちよ。森を抜けた先に医者が住んでるの」
道の途中で左に折れ、生い茂る森に足を踏み入れる。角材を埋めて整備された小道は立ち並ぶ木々に沿って曲がりくねり、集落はあっという間に見えなくなる。
「……若い森だ」
後ろを歩いていたフェルがぽつりとつぶやく。
「わかっちゃう? そう、この森はできてから二十年も経っていないの」
「言われてみれば、ほとんどの木が同じ太さだな」
「ちょうど二十年くらい前かな。鉱山開発に伴う伐採が土壌の流出を引き起こして、地盤が弱くなってたのね。当時のプレンシア家の当主が、崖崩れに巻きこまれて死んじゃったの。これはまずいってことで調べてみたら、地盤が弱くなってるのはもちろん、土地が痩せて作物の収穫が減ってることも明らかになったわけ」
人口が増えれば住む場所も食べるものも足りなくなる。森林を伐採して土地を広げ、切った木材は燃料として消費され、風雨は長い年月をかけて土を削り取っていく。痩せた土地では増えた人口を支えきれず、森林はさらに伐採される。リイッタの話はどこの国でもよく聞く、典型的な発展の弊害だ。そこで何らかの手を打てるかどうかで指導者の資質が問われる。
「だからプレンシア家は、ブレイズランドの土地を90%ほど国有化した。そして植林を行い、勝手な伐採を禁じて、違反する者を鞭打ちにしたの」
さらりと続けられたリイッタの言葉に、ユベールは絶句した。
「うん、ユベールさんの言いたいことはわかるよ。民主的な法治国家でそんなことは許されない。けど、それがブレイズランドの歴史なの」
「……いえ、それくらいしなけりゃ伐採は止まらないでしょう。驚きはしましたが、それだけです。このよみがえった森の姿が、結果が全てだ」
「ありがとう。そう言ってもらえると助かります」
立ち止まり、振り返ったリイッタが気恥ずかしそうに言う。
「それから、ごめんなさい」
頭を下げるリイッタに、ユベールは戸惑ってしまう。
「……なんのことですか?」
「私の足を気遣ってくれたのに、素っ気なくしてしまったことです。祭りを控えたこの時期に、私が怪我をしたことを島の人たちに気取られたくなかったのです。子供たちが言っていたように、私には巫女としての役目がありますから」
「いや、気にしていませんよ。なあ、フェル?」
「ああ」
「それでも、ありがとう。それから、ひとつお願いがあるのだけど」
「なんなりと」
「もう痛くて歩けないの。ここから先は肩を貸していただけるかしら?」
その場にしゃがみこんだリイッタは、脂汗を流しながら泣き笑うのだった。
4
リイッタを背負い、両手に旅行鞄を持って歩くのは骨だった。しかし、体重より重い荷物を背負って地平線の先まで続く草原を歩き、雲を貫いてそびえる山を越えて行商をした子供のころを思えば大したことではない。服を挟んで密着する身体、じっとりと汗に濡れた感触は南国なのだから仕方がないと意識の外へ追いやる。
「ついてきてるか、フェル?」
「ああ」
いつものように淡々とした返事を背中に受けて、森の小路を進む。五分ほど進むと、少し開けた場所にログハウスが建っているのが見えてきた。小さな畑もあり、井戸のそばには水をくみ上げる壮年の男性の姿もあった。
「帰ったわ、ロレンス」
リイッタの呼びかけに、男性が弾かれたように顔を上げる。
「リイッタお嬢さん? ……どうなされた、そのお方は?」
男性が喋っているのは、綺麗なアクセントの共通語だった。遠目には褐色の肌に見えたが日焼けしているだけらしく、その証拠に顔立ちはエングランド系で彫りが深く、これも日に焼けた金髪の下で理知的な光を宿す碧眼をのぞかせている。
「彼はこの島の医者、ロレンスです。こちらは飛行艇乗りのユベール=ラ・トゥールさんと、航法士のフェル・ヴェルヌさん。水上機の故障で立ち往生していたところを、助けてくださったのです」
ユベールの背中から降りながら、手早く説明をするリイッタ。
「足首を痛めたの。治療を頼むわ」
「……どうか、そこを動かれませんように」
「え?」
リイッタの足首に視線をやって厳しい表情になったロレンスは、足早に歩み寄るが早いか彼女の脇に頭を突っこみ、そのまま肩の上にかつぎ上げる。ファイヤーマンズキャリーと呼ばれる、消防や軍隊で用いられるかつぎ方だ。
「ちょっと! お客様の前なのよ!」
「知りませんな。今のお嬢さんは小生の患者です」
「だからって、こんな荷物みたいな……!」
「怪我に響きます。どうか暴れませんよう。そちらの方たちも中へどうぞ」
文句はつけても足が痛むのか、おとなしくなって運ばれていくリイッタに続いてログハウスの中へ足を踏み入れる。最初に目に付くのは、天上から吊るされた大量の薬草とその匂いだ。壁にはタペストリーやローブらしきものがかけられ、棚には薬瓶に混じって動物の頭蓋骨や粗削りな彫刻が並べられている。壁際にはそこだけエングランド風のベッドがあり、部屋の奥には扉がつけられている。おそらくその向こうがロレンス医師の居住スペースになっているのだろう。
「驚かれましたかな?」
入り口で立ち止まるユベールに、ロレンスが声をかけてくる。
「小生は故郷で医学を学び、この島で呪いを学んだ、いわば呪医なのですよ」
「呪医……呪い師であり、医者でもあると」
「左様。島の人間には医学より呪いを欲する者も多いので、方便ですな」
「なるほど」
「もっとも、薬や物資が手に入りにくいこの島で小生ができることなど、骨折や切創の治療くらいのものです。現地で採れる薬草の種類など皆目わからず、初めのころは島の人々にこちらが教わる始末でした」
「こう見えてもロレンスは大学も出てる、きちんとした医者なのよ?」
「昔の話です。お二人は椅子へかけてお待ちください」
ロレンスは手早く道具を揃え、ベッドに腰掛けるリイッタの診察を始める。医者のところへ届けるという用事は終わったとも言えるが、彼女に今夜の宿を紹介してもらいたい。長くはかからなさそうなので、座って待つことにした。
「ふむ……」
患部を圧迫して包帯を巻き終えたロレンスが、何事か思案していた。
「どうしたの? まだなにか?」
「リイッタお嬢さま」
「なに?」
「今年の祭儀への参加は、どうか諦められますよう」
「……諦める? そんなの、許されるわけないでしょう!」
「許される許されないではなく、無理だと申し上げているのです」
「こんなのなんでもないわ! 少し休めば歩けるようになるもの!」
「カトラ火山は険しい」
「貴方に言われなくたって、知ってるわよ!」
「捻挫した脚で登り切るのは困難でしょう。無理をすれば、後遺症が残る」
「それくらいがなんだって言うのよ!」
「お嬢さまの立場を考えれば、重要なことです」
「代わりはいないの。私抜きで、今年の祭儀はどうするの?」
「取りやめるべきです」
「…………!」
頬を打つ音が、ログハウスに響く。押さえ切れない怒気と傷ついたような表情を浮かべたリイッタが、無言のままサンダルを履き直し、ログハウスを出ていく。
「……その、ロレンスさん。彼女を追った方がいいでしょうか?」
ユベールの申し出に、ゆっくり振り向いたロレンスが首を振る。
「いえ、その前にお聞きしたいことがあります。ユベールさんたちは、この島の祭儀についてどこまでご存じですか?」
「いえ、黄金の魔獣と銀色の女神について、かいつまんで説明を受けただけです」
「そうですか。では、祭儀がどういったものかはご存じないのですね」
「そんなに危険なんですか?」
「丸一日かけて行われる祭儀なので途中は省略しますが、最後に行われる火投げの儀。これは小生の目から見ても極めて危険です」
「どのようなものか、お聞きしても?」
「夜のカトラ火山を登り、黄金でメッキされた山猫の頭蓋骨を火口に投げ入れるのです。先頭を行くのは巫女であるリイッタお嬢さまの責務であり、灯りは従者が捧げ持つ松明のみ。足場が不安定なのはもちろん、発生するガスも危険です」
「巫女はリイッタさんだけなんですか?」
「左様。先代の巫女が急逝なさったため、まだ若いお嬢さまが去年からその役目を引き継がれたのです。本来ならば、大学を卒業してしばらくは見習いとして経験を積むのが慣例なのですが……お嬢さまは、務めをよく果たしていらっしゃる」
「なるほど、事情はわかりました」
うなずくユベールに向かって、ロレンスが頭を下げる。
「この件については、島の人間でない貴方たちから話してもらった方がお嬢さまも冷静になれるでしょう。ご迷惑とお思いでしょうが、どうかお嬢さまを探してやっていただけないでしょうか」
「……ええ、乗りかけた船です。いいな、フェル」
「大丈夫だ」
何度も頭を下げるロレンスに見送られ、ログハウスを後にする。リイッタがいそうな場所をいくつか教えてもらったので、順番に歩いて回ることにした。あの脚では遠くに行けるとは思えないので、まずは一番近い岬へと足を向ける。
「ユベール」
「ん?」
服のすそを引かれて振り返る。
「わたしはリイッタを助けたい」
「ああ、連れ戻してやらないとな」
「怪我をしたのはわたしのせいだ」
「……なるほどな、それを気にしていたのか」
普段から口数が多い方ではないが、いつにも増して静かだったのはリイッタの怪我に責任を感じていたからだと気付く。民を導く者として、無理を押してでも普段通りに振る舞わなければならなかった経験も彼女にはあっておかしくない。
「そうだな、できる限り力になってやろう」
「……すまない」
「いや、お前のせいじゃないさ。それと、ひとつだけ約束しろ」
「なんだ?」
「責任を感じ過ぎるな。冷たい言い方になるが、お前がバランスを崩したのは彼女が不用意な降り方をして桟橋が揺れたからだ。それに、祭儀はあくまでこのブレイズランドの人たちのものだ。俺たちは余所者として、できることとできないこと、していいこととしてはいけないことの見極めをしっかりつける必要がある」
ユベールの言葉を聞いたフェルの目がすっと細められる。
「では、逃げるのか?」
あからさまな挑発に、肩をすくめる。
「ああ、いざとなったら逃げる。当初の滞在期間を過ぎると次の仕事に影響が出るし、リイッタはお前の正体に気付きかねない」
「彼女になら知られても構わない」
「なら、プレンシア家には?」
「…………」
「忘れるな、フェル。お前の首には懸賞金がかけられてもおかしくないんだぞ」
「それでも、助けてもらった恩には報いたい」
「俺たちは医者じゃないんだぞ?」
「わかっている。それでも、できることを探したい」
「……わかったよ。だが、いいか? ブレイズランドでの滞在期間は三週間、これは動かせない。それまでは、フェル、お前の好きにすればいいさ」
「ありがとう、ユベール」
「俺が礼を言われることじゃないさ」
「それでも、だ」
再び歩き出すユベールの横に並ぶフェルを見て、ひとつ疑問が浮かぶ。
「ところで、怪我を魔法で治せたりはしないのか?」
ユベールが問うた瞬間、フェルが表情を消した。
「いや、答えたくないなら答えなくてもいいんだが」
「……治せない。魔法でできるのは、魔力を直接的な力へと変換するだけだ」
「そうか……ちなみに、魔法ってのは全部そうなのか? 使い手や技量によっては破壊以外の、例えば治療の魔法が使えたりはしないのか?」
「……魔法の性質は親から子へ伝わる。少なくとも、わたしの魔法はそうだ。他の魔法使いがどうなのかは、わからない。わたし以外の魔法使いがいるのかどうか、そういう魔法があるのかどうか、わたしは知らないから」
「そうか……いや、すまなかったな」
「構わない。リイッタを助ける方法を考えてくれたのだろう?」
そう言って、フェルは微笑む。出会ったころに比べればずいぶん柔らかくなった表情を、なぜかユベールは直視できなかった。
5
ぺトレールが停泊する入り江のすぐ側にある岬、その突端にリイッタはいた。腰を下ろし、包帯を巻いた足をぶらぶらさせる姿は危うさを感じさせる。彼女を驚かせないよう、わざと足音を立てて歩み寄っていく。
「探しましたよ、リイッタさん」
「その割には早かったわ。ロレンスに居場所を聞いたのね」
「お見通しですか」
こちらを見もしないリイッタと、三歩の距離を空けて立ち止まる。
「……ごめんなさい。ロレンスの前では冷静でいられなかった」
「信頼なさっているんですね」
「信頼? ……そうね、そうなのかも。私の教師になってくれたのはあの人だから」
プレンシア家が教師を招聘したのは五年前だと言っていた。それまでは島に定住する外国人はロレンスひとりだったのかも知れない。リイッタが子供のころからの付き合いであれば、二十年来の付き合いということになる。ゆっくりと立ち上がり、気持ちを切り替えるように深呼吸をしたリイッタが続ける。
「ねえ、ユベールさん。私と島の人たちを見比べて、気付いたことはない?」
「……気付いたこと、ですか」
気付いたことは、確かにあった。しかし、それを口にしていいかどうか迷う。
「フェルちゃんはどう? 違いに気付かなかった?」
「肌の色と、瞳の色が違う」
気負いのない様子で淡々と告げるフェル。その答えにリイッタが笑みを深める。
「そう。見ての通り、私は淡い褐色の肌と蒼い瞳だけど、島の人たちはもっと濃い、茶褐色の肌と瞳を持っている。ついでに言えば、プレンシア家がそういう家系ってわけでもないわ。この肌と瞳の色は、私だけのもの」
それはつまり、リイッタがハーフであることを意味する。おそらく両親のどちらかが白い肌と蒼い瞳を持つ人種だったのだろう。ハーフの場合、髪や瞳については濃い色の形質を受け継ぐことが多いが、蒼い瞳となることもある。
「ユベールさんが察した通り、私の父は外国人です。母は私と同じ巫女でしたから、生まれた当時はプレンシア家の中でも大きな問題になったと伝え聞いています。次代の巫女は、当代の巫女が生んだ長女がなると決められているからです」
祭儀を主導する巫女の役割が重い責任を伴うものだということは、ユベールにも理解できる。閉鎖的で保守的な気質のブレイズランドでリイッタが巫女を務めるようになるまで、相当な苦労があっただろうことは想像に難くない。
「当主の決定で次代の巫女は私と決められましたが、両親の結婚は叶いませんでした。母は、義父との結婚を承諾するのと引き換えに、私の存在を認めさせたのだと聞きます。だから、私は本当の父親の名前を知らされていません」
血統を重視する人間はいつの時代、どこの国にもいる。特定の一族による統治が続くような国では特に顕著だ。このブレイズランドにおける宗教の象徴的な存在である巫女に外国人の血が入ることに嫌悪感を覚える者も多いのだろう。
「リイッタは、巫女になりたくなかったのか?」
直接的な質問を投げかけるフェルに、リイッタが苦笑で応じる。
「ううん。ハーフに巫女が務まるのかという疑念の目が集まれば集まるほど、絶対に私が巫女になってやるって決意はかえって強くなったわ。母はもちろん、義父も応援してくれたしね。ロレンスから教育を受けられたのも、大学へ行けたのも、自分自身が大学で学んだ経験を持つ義父が一族にかけあってくれたからこそよ」
リイッタの口調からは、義父への強い尊敬の念が伝わってくる。
「義父は母との間に子供を設けないことで、後継者問題に終止符を打ちました。そして一昨年、祭儀の後に母が急死したのを受けて、私は巫女になりました」
「それは……色々と大変だったのでは?」
「ええ。本当に務めを果たせるのかという疑念と好奇の視線に晒されたわ。相当な重圧を感じたし、義父は巫女など継がずに自由に生きろとまで言ってくれた。けど、ロレンスに言われたの。巫女になって、その上で自由に生きればいい、って」
「巫女として、自由に……」
フェルが繰り返すと、リイッタがうなずく。
「簡単に言ってくれるわよね。けど、その通りだと思った。そもそも、巫女は私しかいないのだもの。島の人たちは、たとえプレンシア家の当主であっても、最終的には私の意見を尊重せざるを得ない。そう思い定めたら、気が楽になったわ」
巫女の立場を盾にとって自分の意志を通す。口で言うのは簡単でも、遥かに年上で経験豊富な大人たちを相手に実行するのは並大抵のことではない。加えて、たったひとりの後継者であるリイッタに巫女を継がなくてもいいと言ってのける義父も相当に度胸がある人物と言えるだろう。血は繋がっていなくとも、義父の気質はリイッタに受け継がれていることがうかがい知れる。
「大学を中退する気はなかった。休学を取って、半年で巫女としての務めを身体と頭に叩きこんだ。これでも勉強は得意だから、難しくはなかったわ」
「そんなことはないはずだ」
思うところがあったのか、フェルが強い否定の言葉を放つ。
「……そうね。ありがとう、フェルちゃん。うん、正直すごく大変だったわ。けど、無事に祭儀をやり遂げたときの反対派の顔を見れただけでも、巫女になる価値はあったと思う。義父やロレンスが喜んでくれたのはもちろん、島の人たちも、蒼い瞳は神秘の力が宿った印だ、なんて手のひらを返すんだから現金なものよね」
「それはリイッタが巫女として正しく務めを果たしたからだ。でなければ、誰にも認められはしない。リイッタはそれを誇りに思うべきだと、わたしは思う」
「そうかな? うん、そうなのかも」
いつになく熱心に言葉を重ねるフェル。それは冬枯れの魔女としてルーシャを守り切れなかった経験と、リイッタの置かれた立場を重ね合わせて出た言葉だったのだろうか。巫女としてのリイッタを称賛する言葉は、魔女としての責務を果たせなかった自責の言葉でもあるように、ユベールには聞こえた。
「さあ、いつまでも拗ねてても仕方ないわね」
ぱちりと両頬を叩いて、リイッタが言う。
「この足で登山はできない。だったらどうするかを考えましょう」
「考えはあるのか?」
「ええ、一人で考えるためにここへ来たのだもの。けど、やっぱり一人じゃどうしようもないみたい」
「なら、一緒に考えよう」
「いいえ、アイデアはもうあるの。けど、実現するために貴方たちの助けがいる」
「わたしたちに手伝えることなら」
「待て、フェル! 安請け合いをするな」
即答するフェルを制止すると、リイッタはユベールに視線を向ける。
「ユベールさんの懸念はもっともです。私としても普段と違うことをやる以上、失敗は許されません。できないことをできると言ってもらっても困ります。ですから、私の提案と提示できる報酬を聞いて、それから判断して下さい」
「……ユベール」
「……わかった、そんな目で見るな。話ぐらいは聞くよ」
休暇を取るつもりが、結局は仕事になってしまいそうだった。そもそも休暇を取れるようになったのもフェルのおかげであることを考えれば、巡り合わせという他にない。手近な岩に腰を下ろし、リイッタのアイデアに耳を傾けることにした。
6
リイッタのアイデアを成功させるためには、ユベールとフェルの顔ができるだけ知られていない方がよかった。すでに見られてしまった分は仕方がないとして、それ以上の接触を避けるため、その日はロレンスのログハウスに泊めてもらうことにした。明日の祭儀に向けた準備があるというリイッタとは別れ、ロレンスと世間話をして時間を潰す。陽はすぐに落ち、月と星が空を埋めていく。
「フェル? ロレンスさんが呼んでるぞ。飯ができたとさ」
灯りもなく星明りの下にたたずむフェルを見つけて、声をかける。
「……ユベールか」
「なにか珍しいものでもあったか」
深い意味もなく口にした言葉に、彼女がうなずく。
「元から濃かった島の魔力が、さらに濃くなっている」
「魔力? そりゃ魔法を使うための力って意味だよな?」
「祭りの前夜だから、だろうか……?」
不思議そうに首をかしげるフェルに、ユベールも肩をすくめる。
「さてな。専門外の俺にはわからんが、そいつは危険だったりするのか?」
「……わからない。こんなことは初めてだ」
「なら、そこまで気にすることもないんじゃないか? それより飯が冷めるぞ」
「ああ、すまない」
男一人だと料理も張り合いがなくていけない、と言いつつロレンスが振る舞ってくれた料理は、シンプルでありながら素材のよさが引き出されていて、どれも美味だった。疲れていたのか、夕食の後は早々に眠ってしまったフェルをベッドまで運んでから食卓に戻る。夕食の皿は片付けられ、代わりにユベールの持ちこんだスコッチと、ロレンスの提供してくれた島で採れた珍味の数々が並べられている。
「おお、懐かしい。故郷の酒はやはりよいものです」
琥珀色の酒をグラスで揺らして、ロレンスが相好を崩す。
「そうだろうと思いました。こいつは瓶ごと差し上げます」
「やや、これはかたじけない。お返しできるものがあればよいのですが……」
「泊めてくださるだけで十分ですよ」
そうして夜は更け、いつの間にか眠りに就き、目覚めてみればロレンスの姿はすでになかった。食卓には書き置きが残されていた。几帳面な文字で、祭りで怪我人が出るのに備えて早めに現地へ向かうこと、リイッタが案内の人間を寄越すまではここで待機していて欲しい旨が記されていた。外の井戸で顔を洗い、軽く伸びをしてから屋内に戻ると、雪白色の少女が音もなく起き出してくる。
「ん、起きたかフェル」
「……おはよう。よい朝だな」
決まり文句を口にするフェルだが、まともに目が開いていない。
「全然そうは聞こえんがな。朝食は食べるか?」
「食べる」
朝食を食べながら、今日の予定を考える。ロレンスが祭りの会場にいることは皆が知っているから、ここには誰も来ない。案内役が来るまで待っていればいいはずだ。祭りは朝から始まり、夜通し騒ぐらしく、リイッタがカトラ火山に登るのは一番最後、明日の夜明け前なので、それまではやることがない。
「退屈な待機も仕事のうち、か。フェル、お前さんも体力を温存しておけ」
「了解した」
気温は高いが、湿度が低いので日陰にいれば快適だった。フェルの共通語の勉強に付き合い、紙で折った飛行機を使って動翼と機動の関係について講義をする。昼食の後は昼寝をして、目が覚めてからはロレンスの書斎にあった本を読んで過ごす。
「ユベール、人が来た」
「ん、案内人ってやつか」
雲が赤く染まるころ、慣れた感じで勝手口から入ってきたのは、中年の男性と少女の二人連れだった。どちらも民族衣装らしき服装を身にまとい、少女の方は大きな荷物を手に提げている。すっかり失念していたが、言葉は通じるのだろうかと不安になったところで、男性が優雅に一礼し、流暢に挨拶の言葉を述べる。
「初めまして。私はイルッカ・プレンシアと申します。昨日は娘が大変お世話になったそうですね」
「ユベール=ラ・トゥールです。どうぞよろしく」
「フェル・ヴェルヌだ」
イルッカはフェルに視線を移すと、彼女にも握手を求める。
「なるほど、貴方がリイッタの言っていた……女神のように美しいお嬢さんですね」
「イルッカはリイッタの父親なのか」
「ええ、そうですよ、お嬢さん」
リイッタの進学を強く推したという義父、イルッカ・プレンシア。お手本のように綺麗な発音、柔らかで洗練された物腰は高い教養を感じさせる。
「こちらは姪のエアです。早速ですが、フェルさんの衣装を合わせましょう」
イルッカの紹介に黙って頭を下げた少女が、フェルの手を引いて奥の部屋に消える。手に持っていた荷物は衣装だったのだろう。
「この度は無理な依頼をお引き受けいただき、感謝の言葉もありません」
「いえ、仕事として正当な報酬をいただいておりますので」
「お二人は休暇を兼ねてこちらの島へいらしたのでしょう? 娘の勝手で窮屈な思いをさせてしまって誠に申し訳ありません。色々とご不満もお持ちでしょうが、なにか不足しているもの、不満に思うことなどございますか?」
「滅相もない。ゆっくり休ませていただいてますよ」
礼儀正しいが、芯の強さを感じさせる口調がリイッタと似ている。一族の反対を押し切ってもリイッタを巫女の座につけ、大学に進ませた人物だけはある。感心しつつ世間話をしていると、奥の部屋から少女たちが戻ってくる。
「ほう? 似合ってるじゃないか、フェル」
「ヘンテコではないだろうか」
「似合ってるさ。お前さんは自分のかわいさにもっと自信を持て」
「……了解した」
顔を隠そうとハンチングに手をやりかけるフェルだが、今はかぶっていないと気付くと顔を背けてしまった。ともあれ準備は整った。どこからか聞こえる太鼓の音を聞きながら、イルッカと手順について確認をしていくことにする。実業家の一族であるプレンシア家の人間らしく、イルッカの言葉は非常に明晰、かつ細やかな部分にまで配慮が行き届いたものだった。話し合いは長引き、フェルがランプに火を灯すまで辺りが暗くなっているのにも気づかなかった。
7
「……ん、いつの間にか寝ちまってたか」
「そろそろ起こそうかと思っていたところです」
イルッカとの打ち合わせを済ませた後、ロッキングチェアにかけたまま、うたた寝をしていたようだった。食卓を挟んだ向こう側にはイルッカの姿があり、少し離れたベッドには並んで座ってぎこちない会話を交わすフェルとエアの姿もあった。
「では、そろそろ出発いたしましょう」
イルッカの言葉に全員がうなずき、動き出す。ロレンスのログハウスを出て、向かう先はぺトレールを停泊させてある入り江だ。衣装を機体のどこかに引っかけかねないフェルはイルッカに任せ、ユベール一人で機体に乗りこむ。エンジンをかけて、岬を挟んだ反対側の海岸までプロペラの推力で海上を移動する。イルッカの指示で新たに設置された浮き桟橋に機体を寄せれば、準備は完了だ。
「そろそろ火送りの儀が始まります。巫女に率いられた島民たちがやってきますので、私はいったんこの場を離れます。どうぞよろしくお願いします」
イルッカが桟橋を離れ、ぺトレールの操縦席に乗ったままのユベールと、桟橋に立つフェルが残される。やや緊張した面持ちの彼女に言葉をかけてやるべきかと迷ったが、後方に松明の灯りが見えたので口をつぐむ。おそらく先頭に立つのは巫女として先導するリイッタだろう。普段ならカトラ火山に向かうはずが、海岸へ向かって進んでいるため人々は動揺しているのか、風に乗ってざわめきが届く。
リイッタの掲げる松明が目くらましとなって、機首を外海に向けたぺトレールはちょうど闇に紛れている。それでも、リイッタが砂浜に足を踏み入れ、立ち止まると、一部の島民はようやくぺトレールの存在に気付く。それを待ってフェルがマッチで松明に火を灯して掲げると、人々の間に大きな動揺が広がった。
『あれなるはブレイズランドを救いし伝説の女神である』
凛とした巫女の声が、闇を切り裂く。
『女神は天翔ける船を駆り、いま再び我らの前に御姿を顕された』
ブレイズランドの言葉を、ユベールは解さない。ただ、人々がリイッタの言葉に打たれたようになり、一斉に頭を垂れるのはわかった。薄絹に金細工の装飾をふんだんにまとったフェルの姿は、松明の灯りを照り返して銀色にも見える雪白の髪と抜けるように白い肌も相まって、ただそこに佇むだけで神々しさを感じさせる。
巫女は従者に松明を渡し、代わりに妖しく輝く黄金の頭蓋骨を受け取る。山猫の頭蓋骨を金メッキしたそれは、島を襲った黄金の魔獣を象徴するのだろう。それをカトラ火山の火口に投げ入れる火送りの儀とは、女神による魔獣退治の神話を再演するものに他ならない。
従者が松明を消し、灯りはフェルの持つ松明だけになる。黄金の頭蓋骨を捧げ持つリイッタが砂浜を踏みしめて歩むのを、誰もが見つめていた。その歩みに不自然さを見て取れた者は少なかっただろう。フェルも巫女を迎えるように歩み寄り、浮き桟橋の両脇に置かれたかがり火台に松明で火を移していく。
燃え盛るかがり火の間を抜けてリイッタが進む。ユベールはぺトレールの後席に二人が乗りこんだのを確認して、エンジンに火を入れた。突然の轟音に人々が驚きの声を上げ、漕ぎ手もいないのに進み出したのを見てさらに驚愕する声が聞こえてきた。リイッタが島とエングランドの往復に使っているフロート機を見たことのある者はいても、飛行艇を見るのは初めてだったのも大きいだろう。
「後はお任せします、ユベールさん」
伝声管を通して、リイッタの声がコクピットに響く。
「任されました。が、最後は決めてもらわないと困りますよ」
「ふふっ、そうね」
速度を上げて離水、あえて低空で180度の旋回をかけ、島民の真上をフライパス。このご時世、飛行機の存在を知らない者ばかりではないだろうが、神話に謳われる女神と空飛ぶ船の登場に人々は手を打ち鳴らして盛り上がっていた。薄青に明るんできた空の下、ぺトレールはカトラ火山へ向けて真っ直ぐに飛んでいく。
「今さらだが、投げ入れるところを見せなくていいのか?」
「大丈夫、みんな目がいいから」
「なるほど、納得だ」
周囲も次第に明るくなってきている。海岸から火口までは直線距離で10キロメートル程度なので、視力のいい人間であれば太陽に煌めく黄金の頭蓋骨を目視するのも不可能ではないだろう。
「火口の周辺で旋回します。できるだけ近くに寄せはしますが……」
「わかってる。危険を感じたら離脱して」
カトラ火山は活火山とされている。ユベールとしては火口の上を飛ぶのは初めてなので、溶岩の熱で生み出される上昇気流がどれほどのものか、有毒ガスの危険はあるかなど、不安材料はいくつもある。それでも引き受けたのは提示された報酬が高額だったのに加えて、自分が甘いからだという自覚がある。
「風防を開ける。フェルちゃん、これ持ってて」
「了解した」
リイッタが風防を開けるのが、操縦桿にかかる重みのわずかな変化で伝わってくる。ユベールも風防を少しだけ開き、妙な臭いがしないことを確認する。気休めに過ぎないが、それでもやらないよりはましだ。ある程度の距離を置き、火口の周りをなぞるように緩やかな旋回に入る。
「投げるわ。せーのっ!」
ぺトレールの陰に隠れないよう、火口を挟んだ反対側に海岸がくるタイミングを見計らってリイッタが投擲する。狙いは外れず、黄金の頭蓋骨は綺麗な放物線を描いて火口へと吸いこまれていく。その瞬間、大地が鳴動し、機体が大きく揺れた。
「……離脱する!」
操縦桿を倒し、スロットルを全開に入れる。空気の振動が機体を叩いたのだと、遅れて理解が追いつく。とにかく火口から離れるべきだと直感が告げていた。
「魔力が……火と岩が溢れる……!」
伝声管からフェルの声が響き、背後で爆発が起きた。
「くそっ……!」
空高く打ち上げられた細かな噴石がばらばらと機体を打つ。
「フェル、後方監視! でかいのが飛んできたら教えろ!」
返事はない。急激な機動で態勢を崩しているのだろうと判断する。
「舌噛むなよ!」
巨大な噴石が翼を直撃したら終わりだ。頭上と後方を注視しつつ、とにかく距離を取ることを優先する。一瞬だけ見えた火口付近からは、赤熱した溶岩が流れ出しているのが見えた。溶岩の流れる方向は、人々の集まる海岸であることにも気付く。
「リイッタさん! 聞こえてるか?」
「……ええ!」
「火山が噴火した。溶岩が海岸に向かって流れ始めてる。指示をくれ」
「え? 指示って、そんなの……!」
「指示がないなら、貴方の安全確保が最優先だ。このまま島を離れる」
「待って!」
ユベールの言葉を受けて、リイッタの口調が微妙に変わる。
「……皆に避難を呼びかける必要があります」
「噴火は海岸からも見えているはずです。それでも、ですか?」
「それでも、です。巫女である私が逃げたとなれば、島民に混乱が広がります。無用の混乱と犠牲を防ぐため、彼らには私の言葉が必要です」
「了解です。しかし、申し上げにくいのですが、一度ぺトレールから降りたら、もう乗れなくなるかも知れないことは覚悟してください」
「承知の上です。お願いします」
「了解しました。海岸に向かい、機体を桟橋につけます」
ぺトレールから降りたリイッタは、おそらく戻ってこれなくなる。一人だけ再び機体に乗りこもうとすれば、島民たちの目にはリイッタが一人だけ逃げようとしているように映るからだ。そうなれば、ぺトレールが島民に襲われかねない。その覚悟があるのかどうか、ユベールには確かめておく必要があった。
「……わたしのせいだ。すまない、リイッタ」
「え?」
伝声管を通じて、フェルとリイッタの声が聞こえてきた。
「予兆を感じ取れていたのに、警告できなかった」
「フェル!」
制止の声を発するユベールに構わず、リイッタが問いを口にする。
「……フェルちゃんは、カトラが噴火するってわかってたの?」
「なにかおかしい、と感じていた。それなのに、深く考えなかった」
「うん、そっか。でも、それならフェルちゃんは悪くない」
「だが……」
「フェルちゃん、いい? この島の巫女である私が察知できなかったのに、それ以外の人間が気付けるはずがないの。だからフェルちゃんは悪くない。むしろ危険に巻きこんでしまってごめんなさいね? ユベールさんも、本当は私を降ろすのに反対なんでしょう? 無理を聞いてもらって、ありがとうございます」
フェルを危険に晒したくないというユベールの内心も、リイッタに読まれていた。伝声管越しだというのにそこまで察知できる勘のよさには驚嘆するしかない。
「降ろします。少々揺れますが、ご勘弁を」
「お願い」
ぺトレールを浮き桟橋につけると、それに気付いた人々が殺到してくる。最悪の事態に備えて座席の下に隠した拳銃に手を伸ばしかけるが、数人の男が桟橋の手前で壁を作って島民たちが殺到するのを防いでくれた。その中にイルッカの姿もあるのを見て、彼が気を利かせてくれたのだと察する。
「リイッタさん」
「ええ、私が降りたら避難してくださって結構です」
「……すみません」
「報酬は用意しておきますので、きちんと取りにきてくださいね?」
「ええ、必ず」
リイッタが機体から降りる。
それに続いて、フェルもぺトレールから飛び降りた。
「ばっ……なにやってる、フェル!」
叱責するユベールの顔を、フェルがまっすぐに見返す。
「わたしにもできることがある」
「できることって……格好を考えろ! 下手を打てば吊るし上げに遭うぞ!」
重ねての叱責に、言葉を探すような素振りを見せるフェル。島民には女神として認識されている今の彼女が出ていけば、大きな期待を寄せられることは理解しているのだろう。ようやく口にした言葉は、答えにもならない答えだった。
「……わたしに考えがある」
ユベールは天を仰ぎ、深呼吸した。それからフェルの顔を見て、答える。
「わかった、行け」
「いいのか?」
「お前さんが考えもなく動くやつじゃないのは、わかってきたさ」
「ありがとう、ユベール」
「礼を言われるようなことじゃないさ」
ケルティシュ、そしてハイランドでも、フェルの機転で事態が好転した。彼女の判断と行動に信頼を置き始めている自分に、ユベールは気付く。先に機体を降りて、衣装のせいで降りるのに手間取るフェルを助けてやる。
「お前さんだけ行かせるわけにもいかんだろう」
照れ隠しのようなユベールの言葉に、フェルが微笑む。
「わたしの騎士に任せよう」
「せめてボディガードと言ってくれ」
イルッカとその部下、そしてリイッタの声で島民は落ち着きを取り戻し、海岸に集結しつつある。刻々と迫りつつある溶岩から逃れるため高台へと避難する必要があるが、そもそもこの島におけるもっとも高い山であるカトラが噴火しているのだ。空から眺めた記憶をたどっても、ユベールには避難に適した場所が思い当たらない。
『リイッタさん、ルーシャ語はわかるかしら?』
ルーシャ語に切り替えて、フェルがリイッタに話しかける。
「フェルちゃん? え、えっと『少しだけわかる』かな?」
『返事は共通語で構いません。共通語だと子供たちに通じてしまうから』
フェルの言葉にリイッタがうなずき、巫女として女神への対応に切り替える。
「……わかりました。それで、お話とはなんでしょうか、女神さま?」
『わたしが道を開きます。貴方には皆を誘導して欲しいの』
「道、ですか……?」
困惑するリイッタにうなずきかけたフェルが、打ち寄せる波に足を踏み入れる。
彼女は上体を折ると、日に焼けない小さな手のひらで、海面をそっと撫でる。
繰り返し寄せては砕ける波が、すうっと引いていくのが当然であるように。
朝焼けに染まる蒼海は左右に分かたれ、濡れた砂の道が姿を顕していた。
『この道の果てに島があることは、地図で確認しています』
手のひらを海に浸したまま、淡々と女神の格好をした少女は告げる。
『巫女よ、道は開きました。人々を導き、進みなさい』
海を割って現れた一本の道。目の前で起きた奇跡に、その場の誰もが言葉を失う。それがフェルの持つ魔法の力だと推測できるユベール、彼女を女神だと信じる島民たちとは違い、見た目通りの少女だと思っていただろうリイッタの驚きは並々ならぬものであったはず。しかし、現実を受け入れるための時間を状況が許さない。
背後で悲鳴が上がる。振り返ると、炎と黒煙が盛大に上がっているのが見えた。距離からして、カトラ火山のふもとに広がる森林地帯のあたりだろうと見当をつける。いよいよ溶岩が迫ってきたらしい。カトラ火山は緩やかな稜線を持つ火山で、そうした火山が噴火したときに流れ出す溶岩は粘性が低く、流れるのが速いと耳にしたことがある。時間の猶予はもうないだろう。
「……女神よ、貴方にお伝えしたいこと、お聞きしたいことが沢山あります」
迫る溶岩と砂の道を見比べていたリイッタが言う。
「しかし、時間がありません。ですから、いつか……」
『ええ。落ちついたら、また会いましょう?』
「貴方にお会いできてよかった。今はただ感謝を」
『……いいえ、感謝しているのはわたしの方。貴方のおかげで、ようやくわたしはやるべきことを見つけられたのだから。さあ、行って。全員が避難を終えるまで、この命に代えても道は維持し続けるから』
「……ええ! 貴方も無事で!」
フェルとリイッタが言葉を交わす間も、イルッカが指示を出し、部下たちが列を整理している。海を割って開かれた道という奇跡を素直に受け入れやすい子供を先頭に立て、女と老人がそれに続く。男たちは手斧で伐採した樹木を組んで、後方に即席の防壁を作っている。溶岩に対してどこまで有効なのかはわからないが、黙って順番を待つよりは身体を動かしていた方がパニックも起きないという判断だろう。
『……聞け! 女神の恩寵により道は開かれた!』
ユベールには理解できない言葉で、リイッタが人々に呼びかける。
『かつて黄金の魔獣がこの島に現れたとき、我らの祖先は女神に導かれてベレン島に逃れた。カトラの噴火を予見された女神は、いま再び我らの前に御姿を顕された。我らには女神の加護がある! 幼い者から順に、私に続いて避難するのだ!』
ブレイズランド諸島を形成する島のひとつであるベレン島は、本島であるブレイズランドから5キロほどの距離にある。海水の壁に挟まれた道は大人でも五人並んで歩けるほどの幅があるので、急げば数千人の避難が一時間ほどで完了するだろう。もし全員の避難が間に合わなくても、人数のボリュームを数百人まで圧縮できれば岬などのわずかな高所に逃げ場を求められるようになる。
『……避難が終わるまで一時間かかります。それまで持ちますか?』
島民にわからないよう、ユベールもルーシャ語で問いかける。
『持たせるわ、必ず』
求めた答えとはニュアンスが異なる返答だが、集中を維持している彼女に重ねて問うのはためらわれた。もし体調に異変をきたすようなら制止するとだけ心に決めて、フェルの様子に気を配り続ける。リイッタは周囲の人々に気付かれないよう目礼をユベールに投げて、ベレン島へと続く道へと歩を進める。
「女神さま、ありがとうございます!」
「がんばって、女神さま!」
子供たちは共通語でフェルに声をかけながら、リイッタに続いていく。微笑みかえすフェルの頬骨を伝い落ちる汗が次第に上がってきた南国の気温のためか、それとも魔法の行使に伴う負荷なのか、ユベールには判断がつかない。
「よろしいですか、ユベールさん」
部下を指揮していたイルッカが、いつの間にか隣にいた。
「イルッカさん。そちらの状況は?」
「溶岩が森に阻まれて速度を緩めています。避難は間に合うかと」
「そうですか。不幸中の幸いですね」
「ですが、それはフェルさんの作ってくださった道がそれまで持てばの話です。正直なところ、娘が海の底を歩いているというのはぞっとしませんね」
「それは……ええ、本人は避難が終わるまで必ず持たせる、と」
「承知しました。引き続き、よろしくお願いいたします」
「イルッカさんは、最後までここに?」
歩き去りかけたイルッカが、人を安心させるような微笑を浮かべて振り返る。
「ええ。これでもプレンシア家の一員ですから」
それ以上の話題はないとわかると、イルッカは足早に去っていく。誰もが自分の成すべきを成すために動く中、ただ浮き桟橋に突っ立ってフェルを見ているだけの自分がとんでもない無能であるように思えてならなかった。
「ユベール」
タイミングを見計らったように、フェルから声がかけられる。
「どうした。俺にできることがあるか?」
ユベールも海に入り、フェルの側で膝をつく。
『……溶岩はどこまで来てるの?』
共通語で話す余裕がないのか、ルーシャ語での問いかけだった。
「火山と村の間に挟まる森林のあたりだと聞いている」
『もう、そんなところまで来ているのね……』
フェルが避難民に視線を投げる。海底の濡れた砂に足を取られるためか、列の進みは予想以上に遅い。地形が平坦になって溶岩の速度がさらに落ちるとしても、あとどれだけの猶予があるのかは誰にもわからない。加えて、時間が延びればフェルが道を維持し続けられるという見通しもない。先ほどはフェルの体調だけに気を取られて気付かなかったが、もしフェルが途中で魔法を解除したなら、海の底で全員が溺れ死ぬことにもなりかねないのだと、イルッカとの会話で気付いてしまった。
『ユベール。お願いがあるの』
「なんだ?」
『イルッカさんに、村の周辺から人を退避させるよう伝えて』
「なぜだ? ……そうか、魔法で溶岩を押し留める気か」
『ええ。そうすれば時間が稼げるはず』
「ダメだ。お前はこの道の維持に専念しろ」
『なぜ? わたしの魔法なら……』
なおも言い募るフェルを遮る。
「お前はすでに数千人の命を背負っていることを忘れるな。こっちは俺とイルッカに任せて、道の維持に専念するんだ。いいな?」
フェルが北方の生まれで暑さに弱いことを差し引いても、衣装が肌にぴったりと貼りつくほどの汗は異常だ。声の調子は普段と変わらないように思えるが、それが取り繕ったものであることがわかる。それだけ彼女に余裕がないということだ。
「……ユベールは、さっきから立っているだけだ」
共通語に戻して、冗談めかしてフェルが言うのにユベールも合わせる。
「上司として、部下が体調を崩さないか見張っているのさ」
『……いいわ、わかった。わたしはこちらに専念します。けど、どうか。この仕事を最後までやり遂げさせてください』
「借金を抱えた航法士に死なれちゃ困る。こっちこそ頼むぞ」
『ふふ……任せて』
祈りの言葉をつぶやき、あるいは女神を伏し拝みつつ、海底に開かれた道へと人々が吸いこまれていく。溶岩の進行を遅らせるための即席の防壁もある程度は形になったようで、イルッカが部下を連れて戻ってくる。岬の方を指差しているのを見ると、海岸まで溶岩が到達した場合に備えた指示を出しているのだろう。
「荷物、持ってきた」
「君は……エア、だったか」
肩を上下させ、ぶっきらぼうな共通語でユベールに声をかけてきたのは、ロレンスのログハウスで出会ったイルッカの姪、エアと名乗った少女だった。
「イルッカに言われた。受け取って」
「まさか、ログハウスまで取りに行ってくれたのか?」
「そう」
イルッカに言われて、とエアは言った。イルッカはこの状況下でユベールたちの荷物を気にかけ、わざわざエアに命じて危険を冒してまで取りに行かせてくれたのだ。イルッカが特別なのか、プレンシア家の人間が皆そうした訓練を受けているのかはわからないが、非常時における視野の広さが尋常ではない。
「助かった。ここは危ないから、君も避難するといい」
「あたしは伝書使だから。島で一番足が速いから、溶岩に捕まったりしない」
ちらちらと後ろを気にするエアを説得するのは難しそうだった。
「……そうか。なら、イルッカに助かったと伝えてくれ」
「わかった。……フェルも、またね」
言うが早いか、踵を返して駆け去ってしまうエア。その背をフェルの視線が追い、わずかに目が伏せられる。魔法を目の当たりにしても全く動じず、彼女を女神ではなくフェルとして扱い続けるのは、伯父であるイルッカの薫陶だろうか。
それから一時間後、ようやく最後の避難民がベレン島に上陸したとの報せがもたらされた。報せを持ち帰ってくれたのは、避難民の最後尾について、上陸を見届けてから駆け戻ってくれたエアだ。これでブレイズランドに残されたのはユベールとフェル、イルッカとエアに、ロレンスを加えた五人だけとなる。かなり消耗した様子のフェルはぺトレールの後席で休ませているので、砂浜に立つのは四人だけだ。
「本当によかったのか?」
フェルが海に浸していた手を引き上げると、道はすぐに閉じてしまっていた。
「ええ。島のどこかに取り残されている人がいるかも知れませんので」
ごく当然といった様子でうなずくロレンスに、イルッカも応じる。
「全員がこの島から避難できたと確信できるまで、プレンシア家の人間が誰か一人は残らねばなりません。ロレンス医師、貴方も含めてです」
責任感の強さにかけてはいい勝負の二人の横では、当然のような顔をしてエアも立っている。命令を待つ子犬のような風情の彼女に気付くと、イルッカはユベールに向きなおって頭を下げる。
「ユベールさん。重ねてのお願いで誠に申し訳ないのですが、彼女をベレン島まで運んでやっていただけませんか?」
「ええ、構いませんよ。代わりと言ってはなんですが、その、今回のことは」
「島の危機に女神さまが再臨なされた。そういうことにしておきましょう」
「ありがとうございます」
フェルが海を割って道を作る姿は、多くの人間に目撃されてしまった。箝口令を敷くのは現実的ではなく、かえって情報の信憑性を高めてしまいかねない。伝説にある女神が再び現れて奇跡を起こしたと真実をありのままに語った方が、かえって信じる者も少ないはずだった。
「そういうわけです、エア。ユベールさんのお世話になりなさい」
頭に手を置こうとしたイルッカから、後ろに飛んでエアが逃れる。
「……絶対、イヤ」
「エア」
「あたしはイルッカと一緒にいる。ご飯を作ったり、逃げ遅れた人を探したり、あたしの方が上手くできる。絶対に役立つから」
「エア。わがままを言うものでは……」
「なら、あたしを捕まえてみてよ」
脚力に絶対の自信を持つ伝書使が笑みを浮かべるのを見て、イルッカが首を振る。
「助けが来るまで自給自足です。耐え抜く自信はありますか?」
「はい!」
「……いいでしょう。ロレンス医師、彼女を助手として使ってやってください」
ロレンスがうなずき、話がまとまったようだった。
「必要であれば、物資の輸送を請け負いますが?」
「いえ、幸い小生のログハウスは溶岩流から外れたようです。島民の残した食料もあれば、当面の間は問題なくやっていけるはず。イルッカさんはどうですか?」
「ロレンス医師と同意見です。これで私どもからの依頼は完了です」
そう言うと、イルッカは純金の腕輪を外してユベールに差し出す。
「換金のお手間を取らせてしまって申し訳ないのですが……」
「とんでもない。報酬としては十分ですよ」
「いえいえ、フェルさんには多くの島民を救っていただいたのです。復興が成った暁にはこの島をお尋ねください。今度こそゆっくりと休暇を過ごしていただけるよう、プレンシア家の威信にかけてお二人を歓待いたしますので」
「それはありがたい。ええ、ぜひそうさせていただきます」
ロレンスとイルッカ。容姿は似ても似つかなくとも、人としての在りようでどこか共通する二人と握手を交わし、別れを告げる。ぺトレールの後席でうとうとしているフェルを起こさないよう、十分な滑走を取って丁寧に離水する。
「おつかれさん、フェル。お前はすごいやつだよ、本当に」
8
風に流れて形を変える雲、大海原にぽつりと浮かぶタンカー。刻々と位置を変える太陽は平等に照りつけ、湧き上がった雲がスコールとなって降り注ぐ。同じ飛行機乗りでも、目印のない洋上飛行を不安で退屈なものとして嫌う者と、気楽で自由なものとして好む者がいる。ユベールはどちらかといえば後者だ。
空からの景色には飽きることがない。定期航路のパイロットですら、日々の飛行に新たな発見があるのだと話す者は多い。地上の人間は空をありふれたものとして気にも留めないが、それは思いこみに過ぎない。雲ひとつない青空でさえ、土地と季節が違えばその表情を変える。空はいつだってそこに在り、そして美しい。
「……ユベール、ここはどこだ」
伝声管からフェルの声が響く。目が覚めたらしい。
「太極洋のど真ん中を、サウティカに向けて飛んでいるところだ」
「火山は、リイッタはどうなった?」
「全員が無事に避難できたさ。お前さんのおかげでな」
「そうか……よかった」
避難が終わったという報せをエアが持ってくるまでは彼女も意識があったはずだが、そのまま気を失ったためか記憶が混乱しているらしい。あるいは最後の方は気力だけで道を維持していたのか。大したやつだ、との思いを新たにする。
「ユベール、しまった」
「どうした?」
「衣装を着たままだ」
「ああ……それなら記念に差し上げます、とさ」
「いいのか?」
「薄いからアクセサリーも含めて1000グラムくらいだろ? 問題ないさ」
「……そうか」
行く先々で重量物を買いこまれると困るが、フェルの場合は所有欲が薄いのか、それともユベールに遠慮しているのか、なにかが欲しいとはほとんど言わない。流石はプレンシア家と言うべきか、上品かつ丁寧に仕立てられた女神の衣装は新品同様で、公の場でもドレスとして通りそうだった。持っていて損はない。
「なあ、フェル。ひとつ聞いていいか?」
「なんだ」
「なんで魔法を使おうと思った?」
返事がすぐに返ってこないので、問いを重ねる。
「責めてるわけじゃない。自分の身を守るために使うのも嫌がってたお前さんに、どういう心境の変化があったのか気になっただけさ」
ケルティシュでビール輸送をしていて、アルメア軍の戦闘機に追われたときのことを思い出す。彼女は魔法を『使えないし使わない』と言っていた。
「……誰かを助けるためだからだ」
「ふうん……その誰かに、俺は入れてもらえてなかったってわけだ」
「……っ、そうでは」
「わかってるさ。冗談だよ、俺が悪かった」
機内に沈黙が落ちる。翼が風を切り、プロペラとエンジンが轟音を立てるのにしばらく耳を傾けていると、伝声管からフェルの声が流れてくる。
「わたしは、言われるがままに魔法を使ってきた」
真摯な口調で、フェルが語りだす。
「その結果として、国を滅ぼした。もう魔法は使わない。そう決めた。けど、リイッタに会って、色々話して、噴火があって……わたしにできることがあった」
そのできることというのが、海を割って道を作ることなのだからとんでもない。火山の噴火という緊急事態のどさくさに紛れて受け入れてしまっていたが、物理法則を無視するような非常識な力であることはユベールにも理解できる。
「推測だが、リイッタの母親は魔法が使えたのではないだろうか」
「……そりゃどうしてだ?」
「あの島には魔力が満ち溢れていた。噴火したのも、おそらくそれが原因だ。魔力の集まりやすい場所では、誰かが定期的に魔力を消費しないと天変地異が起きる」
「一昨年まではリイッタの母親がそれをしていたと? なるほどな」
母親が急死したのは一昨年の祭儀の後だとリイッタは言っていた。彼女の母親が巫女として必要な知識や儀式をリイッタに継承する前に死んでしまったのならば、およそ二年間は魔力が使われずに貯まり続けていたことになる。
「待てよ。すると、放っておけばまた噴火するってことか?」
ユベールの懸念に、少しだけ考えてフェルが答える。
「……いや、おそらく十年は大丈夫だ」
「今回は約二年で溢れたんだろう? 再来年あたり危ないんじゃないか?」
「わたしが全ての魔力を使ってしまった。回復には長い時間がかかる」
「あの道を開くために使った、ってことか?」
「そうだ」
「じゃあ、同じことをしようと思ったら十年待たなきゃいけないのか?」
「……そうだ」
「そりゃ、なんというか……」
酷く燃費の悪い力だ、というのが素直な印象だ。
「本来と違う使い方をしたからだ」
ため息をつくように、フェルが言う。
「あれは、津波を起こす魔法の応用だ。それを二時間も連続で使ってしまった。魔力を吸い尽くされたあの島は、これから酷い不作に苦しむだろう」
吸収と放出。小さな身体の冬枯れの魔女は、自らの魔法についてそんな風に表現していた。絶大な力の行使と引き替えに、年単位で土地ごと枯らしてしまう魔法。そんなものに頼って国家を運営すればどうなるか。魔法の存在そのものが、土地と国家、そこに住まう人々の人心を荒廃させる毒薬に等しいとユベールは思う。
「答えてくれ、ユベール。わたしは、同じ過ちを犯したのだろうか?」
その問いは正解のない問いだ。肯定しても否定しても、彼女自身は納得しないだろう。だからユベールはその問いにはすぐ答えない。
「フェル。お前さんはさっき、魔法の本来の使い方って言ったよな」
「……ああ」
「津波を起こすのが本来の使い方だなんて、誰が決めた?」
「それは……」
「お前さんは魔法が使える。そこに善悪はないと俺は思う」
「だが、わたしの魔法は多くの人を殺し、土地を枯らしてきた、呪われた力だ」
「そうだな。お前さんがその気になれば、世界を滅ぼすのも難しくはないだろうさ」
「だったら……!」
「フェルは、世界を滅ぼしたいのか?」
「……そんなことは、ない」
「高貴なる者が義務を負うように、魔法を行使する者の責任は重大だ。今回、フェルの力を目の当たりにして、俺はつくづくそう思ったよ」
「……わたしは」
「あの噴火で犠牲者が一人も出なかったのは、間違いなくフェルの功績だ。たとえ土地を枯らしてしまったのだとしても、あれだけ多くの人間が無事に生き延びたんだ。差し引きでプラスになったと俺は見る」
即物的な物言いしかできない彼の言葉に、それでも彼女は耳を傾けている。
「魔法はいい結果も、悪い結果も生むだろう。だが、魔法に限らず人間がすることってのは全部そうだ。シンプルに考えろ、フェル。いい結果が出たならいいことだし、悪い結果が出たなら悪いことだ。その基準に照らせば、今回お前さんが使った魔法はいい魔法だよ、誰がどう見てもな」
「ユベール……」
「それでも、もしお前さんが悪い結果を生むような魔法を使おうとしたのなら。そのときは俺が止めてやる。たとえお前さんを殺してでも、だ」
伝声管の前で、ふっと笑ったような気配があった。
「……そうか。そのときは、よろしく頼む」
ユベールには、フェルの考えていることがおぼろげながら理解できる。彼女はおそらく、果たすべき義務に応えられなかった自分を断罪して欲しいという気持ちを心の片隅に抱えている。しかし、その期待に応えられるのは自分自身しかいないこともユベールは知っている。彼女もきっと、それがわかっているはずだ。だからこそ、殺してでも止めるなどという言葉を気遣いだと理解できる。
「さてと。休暇はフイになっちまったし、次の仕事に向かうとするか」
「どこへ行くんだ?」
「砂漠の国、サウティカ。黒い泉の湧く国だよ」
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