第2話 竜に捧げし高原の石華


1


 メニーベリー基地への最初のビール輸送を請け負ってから一ヶ月。トゥール・ヴェルヌ航空会社は都合八往復の輸送を成功させ、大きな利益を上げていた。連合軍の攻勢も順調に続き、前線が押し上げられたのに伴ってロイド・バーンスタイン大佐の率いる第144航空団の基地移転が決まったのもその頃だった。

 詳しいことは聞きだせなかったが、新しい基地はディーツラントの国境付近になるらしかった。しぶとく抵抗を続けるディーツラント空軍が遊弋する空域であり、ビール輸送の継続は断念せざるを得ない。頼んでいたフェルの服ができあがる頃合いでもあり、惜しまれながらも基地の面々とは別れを告げることになった。

「ユベール、ヘンテコではないだろうか」

「いや、似合ってるぞ」

「……そうか」

 軍港であるドヴァルには専門の仕立て屋もある。皇女と皇太子の水兵服姿の写真が載った新聞の切り抜きを片手にフェル用の服を注文しに行った際には、店の主人が最近は似たような注文が多いのだと苦笑しながら採寸をしてくれた。できあがった水兵服は上が二着、下は作業用にズボンが二本とスカートが一枚。ひとまずスカートに着替えさせ、大通りに出てきたところだ。

 斜めにかぶったネイビーブルーのハンチングの下でスミレ色の瞳が細められ、わずかに口元が緩んでいる。白を基調に袖口と襟に紺色のラインが走る水兵服には赤色のスカーフがよく映え、濃紺のプリーツスカートとハイソックスに挟まれた白雪のごとき肌がまぶしい。かわいくも勇ましい容姿は道行く人々の微笑ましげな視線を集めていた。

「ところでユベール」

「ん?」

「もうビールは運ばなくていいのか?」

「新しい基地はディーツラントの国境付近って話だ。リスクが高過ぎる」

「ロイドやメールマンがそこにいる。彼らは物資を必要としているのでは?」

「まあな。だが飛行距離が延びれば燃料を食うし、それだけ危険も増える。その費用を代金に上乗せするにも限界があるし、金額に折り合いがつかないのさ」

「……そうか」

「心配しなくても、ここから先はケルティシュ国内の陸運業者の仕事だ。海の安全もようやく確保されつつある。あの大佐のことだから、きっと上手くやるさ」

「適材適所、というやつだな」

「そういうこと。加えて、ディーツラントはビールとウィンナーが旨いんで有名だ。勝てばビールが待ってるとなれば、兵士たちの士気も上がるってもんだ」

「そういうものか」

「それに、こっちはこっちで次の仕事がある」

「もう決まってるのか?」

「ああ。次の目的地はエングランド王国南部、ハイランド地方だ」

 港に戻り、燃料を少しだけ補給したぺトレールに乗りこむ。相変わらずの曇天だが、波は穏やかだ。遠く海面に降りそそぐ陽光のカーテンが、薄く広がる雲の向こうに広がる天上の様子を知らせてくれる。整備を終えたエンジンは心地よく吹き上がり、キャノピに跳ねた飛沫が風にさらわれて流れていく。

「ユベール、ちょっといいか」

 離水してしばらく経つと、フェルが話しかけてきた。

「どうした?」

「燃料計がおかしい。半分以下になっている」

「いや、それで合ってる。ちょっと足しただけだからな」

「満タンにしなくていいのか?」

「しちゃダメなんだ。理由はわかるか?」

「燃料が高いから?」

「違うな。よく考えろ」

「……目的地が近いから?」

「半分正解だ。もう一歩先へ進めて考えてみろ」

 フェルはしばらく黙考してから、端的に答える。

「……燃料が重いから」

 口調や雰囲気から、答えに至ったが上手く表現できずにいるのだと判断する。

「その通りだ。機体が軽ければ軽いほど燃費はよくなり、航続距離も伸びる。余計な荷物を積まないのは商業飛行の大原則だし、燃料だって例外じゃない。積載物も併せた機体重量と目的地までの距離から必要量を計算するのも航法士の仕事だ」

「どうやって計算する?」

「向こうに着いたら教えてやる。それより見ろ、フェル」

 機体を傾け、眼下を指差す。郊外に広がる田園地帯を抜けると、なだらかな丘と森林がマーブル模様のようにどこまでも広がっている。その合間を縫い、村々を繋ぐように道が切り開かれ、線路が敷かれているのも見えた。

「空からの眺めってのはおもしろいもんでな。どこの国も同じように見えて、よく観察するとその国ごとの表情みたいなもんが見えてくる。不思議なもんで、この風景を見ないとエングランドにきたって実感が湧かないんだ」

 島国であるエングランド王国は、風景の切り替わりがはっきりしている。都市部の郊外には田園や丘陵が広がり、豊かな森林を挟んで荒涼とした山岳地帯へと続く。張り巡らされた鉄路は都市を繋ぎ、行き交う飛行機の数も多い。

「そら、あの山を越えればハイランド地方だ」

「だいぶ涼しくなってきたな」

「その名の通り、エングランドで一番標高の高い地方だからな」

 連なる山脈の尾根を横切ると、明確に雰囲気が変わる。空気は透明に冴え渡り、雲を貫いてそびえる山脈が果てもなく連なる。柔らかな草が風に揺れる高原をひとかたまりになって動く白いものは羊の群れだろう。前方にはエングランド王国の最高峰であるペン・ニヴァス山が、白雪の王冠をいただいてそそり立つ。

「あれを迂回すると湖が見えてくる。そこに降りるぞ」

「了解した」

 エングランド王国ハイランド地方、カーンゴーム国立公園。ここから見渡す全てが国立公園に指定された地域であり、過度の開発が制限されている。王国でもっとも豊かで厳しい自然の残された大地であり、そこに住む人々はハイランダーと呼ばれる。それ以外の地域に住む、いわゆるロウランダーとは気質が異なる人々だ。

 ペン・ニヴァス山から流れるネイビス川によって形作られたネイビス峡谷は、上質のウイスキーの産地として名高い。峡谷と言っても幅は数キロメートルに及び、地形がなだらかなため自然に形成された湖まである。その湖のそばにあるグレンモア村が、今回の仕事における拠点だ。鏡のように穏やかな湖はぺトレールが降りるのに十分な広さがあり、鉄道もこの村までは敷かれている。

「ところでユベール、今回はどんな仕事を?」

「うん? そうだな……」

 フェルの質問に、悪戯っ気が出る。

「神さまの視点で、遺跡の調査をするのさ」

「……神さま?」

 怪訝そうなフェルの声に頬が緩む。

 振り返らずとも、首をかしげる彼女の姿が目に浮かぶようだった。


2


 依頼人とは駅前で落ち合う約束になっている。レンガ造りの小さな駅舎の前には小さなベンチが置かれていたので、フェルと二人で腰掛けて待つことにした。母国語でログブックに書きつける彼女を横目に、マッチを擦って煙草に火をつける。数字を除けばユベールには読み取れない文字だが、先日教えた通りに出発地と目的地、日時と飛行経路を記しているのはわかる。

「わたしにも一本もらえないだろうか?」

 煙草とマッチの匂いに顔を上げたフェルが言う。

「……子供の吸うもんじゃない」

「わたしの国ではもう吸える年齢だ」

「聞き覚えのあるセリフだな?」

「本当だ」

 言うが早いか、指に挟んでいた煙草をフェルが引っこ抜く。

「あ、おい」

 止める間もなく、吸いかけの煙草をくわえるフェル。

「……けほっ」

 勢いよく吸いこんで、せきこんだ。

「言わんこっちゃない。返せ」

「大丈夫だ」

 ユベールの手から逃げるようにベンチから立ち上がると、さらに深く吸う。

「大丈夫かよ」

「慣れてきた」

 ユベールがときどき吸っているのを観察していたのだろう。ネイビーブルーのベレーを斜めにかぶり、すました顔で紫煙を吐く立ち姿は様になっていた。肩まで伸びた髪を短く切ってやれば、水兵服もあいまって、大人の流儀に憧れて背伸びをする美少年と見えなくもないだろう。

「まあ、たまにならいいだろ」

 シガレットケースからもう一本取り出し、マッチで火をつける。それが燃え尽きるころ、ようやく汽車が駅に到着した。ほどなくして駅から出てきたのは、白髪の老人と十歳くらいの少年の二人連れだ。老紳士はトラッドなハンチング帽とインバネスコートに身を包み、少年はモーニングコートに蝶ネクタイを着こなしている。

「ちょうど一年ぶりだね。会えてうれしいよ、ユベール君」

「ミスター・フィッツジェラルド。お元気そうで何よりです」

 ユベールを上回る長身を持つ老紳士と力強い握手を交わす。彼の名はジョージ・フィッツジェラルド。ハイランド地方の名家、フィッツジェラルド家の当主だ。七十歳にしてなお衰えぬ生命力がその瞳に宿り、正対する者の心を捉える。その迫力に呑まれないよう、気合を入れた笑顔で応えた。

「して、そちらのレディは?」

「ああ、こいつは……」

 フェルを紹介しようと口を開きかけると、フィッツジェラルドの隣にいた少年が一歩進みでて、ほほえみを浮かべて挨拶の言葉を口にする。

「お久しぶりです、ユベールさん。それからごきげんよう、麗しいレディ。ぼくはジョージ・フィッツジェラルド・ジュニアといいます。おじいさまと同じ名前だから、どうか愛称で、ジャック、と気軽に呼んでください。それから……よろしければ貴方のお名前を伺っても?」

「わたしはフェル・ヴェルヌだ。……ジャック?」

 差し出された手を握り返しつつ、フェルが応える。少年がにこりと笑う。

「美しい響きですね。フェルさんとお呼びしても?」

「構わない」

「フェルさん……素敵な方だ」

 普段と変わらぬフェルと比して、ジャックの態度は去年と比べてどこかおかしい。紳士としての振る舞いを身につけたとも取れるが、熱っぽい視線でフェルを見つめる様子は、まるで恋に落ちた少女のそれだ。老ジョージと顔を見合わせると、やれやれ仕方ない、と言わんばかりに片眉を上げられてしまう。

「……ジョージ・フィッツジェラルド・ジュニア!」

「はいっ!」

 老ジョージのよく通る声に、少年が反射的に背筋を伸ばす。

「レディにご迷惑をおかけしないように。彼女はユベール君の新しい相棒だろう」

「はい、おじいさま。すみません、フェルさん、ユベールさん」

 祖父に一喝されて肩を落とす様子は雨に濡れた子犬を思わせる。一方のフェルは状況を上手く理解できていないようで、わずかに不審げな表情をのぞかせている。仕方がないので、ユベールがフォローを入れる。

「あー……こいつは航法士見習いとして連れてきたんですが、共通語にまだ不慣れなもんですから、失礼を働くこともあるかと。どうか大目に見てやってください」

 自分のことを言われているのだと察したフェルが会釈する。ほほえみのひとつも浮かべてやればいいものを、と思わないでもないが、少年の目にはそうした素っ気ない態度も魅力的なものと映ったようだ。普段は絶え間なくさえずる上流階級の女性としか付き合いがない彼にとって、整った顔立ちに雪白色の髪とスミレ色の瞳という異国風の容姿と男性のような喋り方のギャップが新鮮に感じられたのだろう。

「ユベール」

 なにかに気付いたのか、フェルがユベールの服のすそを引く。

「うん?」

「フィッツジェラルドというのは……」

「ああ。ケルティシュ共和国へのビール輸送の依頼人だったジョン・フィッツジェラルド少将はミスター・フィッツジェラルドの息子さんで、ジャックの父親だ」

「その節は、息子が世話になったようだね」

 老ジョージが片眉を上げる。

「いえ、こちらこそ。私どもをいつも贔屓にしてくださってありがとうございます」

 先日のビール輸送自体、もともとフィッツジェラルド家と繋がりがあったからこそトゥール・ヴェルヌ航空へ依頼された仕事だった。毎年恒例になっている今回の仕事まで一か月ほど間があったのもちょうどよかった。

「例年通り、本格的に動き始めるのは明日からだ。ユベール君たちも、今日はゆっくり休んでくれたまえ。と言っても、君のことだからまずは機体の確認に向かいたいのだろう? フィテルマンを先に向かわせてあるから、行くといい」

「お気遣い、ありがとうございます。フェルはどうする?」

 ユベールが尋ねると、ジャックがそれに食いつく。

「よければ、ぼくが村を案内しましょうか? ここはのどかでいいところですよ」

 しかしフェルはジャックの提案には応えず、ユベールを見上げる。

「ユベールは、飛行機を見にいくのか?」

「ああ。お前さんはせっかくだから……」

「わたしも行く」

 ジャックと一緒に行ってきたらどうだ、と続ける前に遮られてしまった。

「ただ機体の調子を確認に行くだけだぞ?」

「わたしは航法士で、ユベールの相棒だ」

「あー……」

 どうもジャックと一緒に村を観光してくるのが嫌なわけではなく、本心から言っているらしい、というのが口調や雰囲気から伝わってくる。しかし、ジャックの方はそう取らなかったようだ。フェルのあの淡々とした口調では無理もない。

「あの、気にしないでください。フェルさん、また明日、お話しましょうね」

「了解した」

 ひと呼吸おいて気を取り直したようにジャックが言うと、それを言葉通りに受け取ったフェルが淡々とうなずく。それだけでぱっと顔を輝かせる彼が、傍から見ていると健気で仕方がない。一方のフェルだが、彼女はもっと仕事を楽しむことを知ってもいい。歳の近いジャックとの交流が、それを知るきっかけになってくれればいいのだが、とユベールは思う。

「では、失礼いたします」

「うむ。では行くぞ、ジャック」

「はい、おじいさま。フェルさんも、また」

「ああ、またな」

 フィッツジェラルド家の別荘へ向かう二人を見送ってから、村の外れへ足を向ける。収穫を終えた大麦畑の中心には風車が立ち、格納庫はその向こうにある。

「滑走路があるのか?」

 すれ違う村人に挨拶しながら歩いていると、フェルが尋ねてきた。

「ああ。フィッツジェラルド家の私設滑走路だから、ぺトレールが着陸できるほど整備されてはいないがな。湖に降ろしたのもそのためだ」

「上からは見えなかった」

「だろうな。ほら、着いたぞ」

 二人の目の前に広がるのは、ぺトレールは入りきらないだろう小さな格納庫と、青々とした草原のみ。フェルが不審げな表情を浮かべてユベールを見上げる。

「……格納庫しかない」

「だから、これが滑走路だ」

 ユベールが草原を指で示すと、馬鹿にしているのかと言いたげなフェルが頬を膨らませる。しかしユベールが真面目にそう言っているのだと表情から読み取ったのか、正面に向き直って草原を観察し始める。空から地面を俯瞰するように、視界を広く保っていれば、やがてそれは見えてくる。

「……こっちと、あっち。草の生え方が周りと違う」

「その通り。格納庫正面からV字型に二本の滑走路があるのがわかるか?」

「わかる。見えた」

「そこだけは石を取り除き、穴も埋めてある。脚を取られない、短くて柔らかい草だけが均一に生えるよう、きちんと整備してあるんだ。ぺトレールは無理でも、小型の連絡機ならこの程度の滑走路で十分に飛び立てる」

「レンラクキ?」

「連絡機っていうのは……まあ、見た方が早いな」

 格納庫の正面に回り、両開きの扉に手をかけて引き開ける。ブルーとイエローのツートンカラーで塗られた飛行機がそこにあった。コンパクトな胴体に巨大なパラソル翼、そしてフェルの背丈ほどもある固定脚が目を惹く、特徴的な機体だ。

「こいつの名前は『ストルク』。お前さんの国の言葉ではなんと言ったか……」

 考えこむユベールを見上げて、フェルが得意気に微笑む。

「……知っている。幸運を運ぶ鳥、コウノトリだ」


3


「誰かと思えば、ユベールか」

「なんだ、いたのかおやじさん」

 薄暗い格納庫の隅、工具棚の側から声をかけてきたのは、オイルに汚れたツナギを身にまとう初老の男性だった。明かり取りの天窓から差す陽光で『ストルク』が浮き上がって見えるせいで、声をかけられるまで彼がいることに気付かなかった。

「っと、かわいいお連れさんじゃないか。新しい女か?」

「馬鹿言え、ガキに手を出す趣味はないぜ」

 一年ぶりではあるが、顔なじみと交わす言葉は気安い。彼の名はアンディ・フィテルマン。フィッツジェラルド家のお抱え整備士だ。自転車に始まり、車から船、飛行機に至るまで、当主であるジョン・フィッツジェラルドの乗る物は全て彼が整備し、ときにはスーツに身を固めて運転士も務めるのだという。

「ユベール、彼は?」

 フェルの問いには、フィテルマンが自ら答える。

「アンディ・フィテルマンだ。よろしくな、お嬢ちゃん」

「わたしはフェル・ヴェルヌだ。よろしく頼む」

 フェルと握手するフィテルマンがにやりと笑う。

「ふむ? おもしろいお嬢ちゃんだな。どこで拾った?」

「共通語に不慣れなんだ。からかわないでやってくれ」

「なるほど、心得た。で、お前らこいつを見にきたんだろう?」

「ああ。調子はどうかな?」

 フィテルマンがストルクをあごで示す。一年を通してこの時期しか飛ばさない機体の整備はなかなか骨が折れる作業だ。ユベールも整備の心得はあるものの、エンジンの分解整備までは手が回らない。今日のうちに機体を確認しにきたのは、実際に整備を手掛けた彼の話を聞きたいからでもあった。

「調子だと? 旦那さまと坊ちゃんが乗るんだ。完璧に仕上げたさ」

「そりゃ結構。試運転は済んでるのか?」

「ペラは回した。まだ空には上げてない」

「一度上げておきたいな。燃料は?」

「入れてある。すぐ飛ぶか?」

「フェル、行けるな?」

「大丈夫だ」

 フィテルマンが黙ってうなずき、機体を外へ引き出し始めるのをユベールも手伝う。そのままエンジン始動の準備に入る彼に機外のことは任せ、一年ぶりのストルクに乗りこんだ。操縦桿の感触を確かめていると、フェルが声をかけてくる。

「わたしはどこに乗ればいい?」

「反対側に回って、俺のとなりに乗れ」

 ストルクは前席と後席を併せて最大で四人乗れる。大柄な男が並ぶと狭苦しいが、フェルなら全く問題ない。言われずともステップを見つけて、高い位置にあるコクピットまで身軽に登ってくるフェルを待ち、フィテルマンと手で合図を交わしてエンジンを始動。ブレーキはかけたまま、動翼の動きを確かめる。

「上を見ろ、フェル」

 機体上部に主翼を配置するパラソル翼の飛行機は上方視界が悪くなりがちだが、ストルクの場合それが当てはまらない。コクピット直上は主翼の骨組みを除けばガラス張りであり、まぶしいほどの陽光が降り注いでくる。

「ストルクの用途は広い。連絡機、観測機、偵察機、あるいは軽輸送機。その汎用性の高さを支えるのが、長い主脚のショックアブソーバと、主翼の前縁スラット、後縁フラップによる短距離離着陸性能……STOL性能の高さだ」

「エストール?」

「要するに、離着陸に必要な距離が短くて済むってことだ」

「ぺトレールよりも?」

「比べもんにならん。そもそも水上機ってのは滑走距離を稼げるのが特徴だしな。まあ、長々と説明するより体験した方が早いな」

 車輪止めを外す合図を送りつつ、フェルにベルトを締めるよう促す。

「航法士の仕事はいい。景色を見てろ」

「了解した」

 話しているうちにエンジンも温まっていた。ブレーキを解除すると、ストルクは軽快に前進を始める。ラダーで進行方向を調整しつつ、滑走路へ進む。スロットルを全開にして一気に速度を上げ、安全を見て長めの滑走を取る。それでも距離にして60メートルもなかっただろう。水や地面から切り離されるというぺトレールの感覚とは全く異なる、ふわりと浮き上がるような離陸にフェルが目を丸くする。

「……もう飛んでるのか?」

「飛んでるよ、ほら」

 上昇してから軽く旋回して、村を一望に収める。ストルクのエンジン音を聞きつけたのか、村でも一番立派なフィッツジェラルド家の別荘、その一室の窓からジャックが身を乗り出して、こちらに手を振っているのが見えた。フェルの肩を叩き、指で示して教えてやる。

「フェル、手を振ってやれ」

「了解した」

 手を振るフェルの姿までは見えたかどうかわからないが、大きく翼を振るストルクの姿はジャックからも見えただろう。畑や牧場で働く村人たちも、作業の手を止めて空を見上げていた。彼らはブルーとイエローに塗られたストルクが頭上を飛ぶことでフィッツジェラルド家の人々が今年も村にきたことを知るのだ。

「フェル」

「どうした?」

「気楽にしてろ。今回の仕事は雇い主の二人を乗せて、この辺を飛ぶだけだ」

「遺跡の調査をするのでは?」

「ああ、そんなことも言ったな。そうだな……明日、ジャックに聞くといい」

「ユベールではダメなのか?」

「ダメってわけじゃないが、あの二人の方が詳しいからな」

「了解した」

 会話をきっかけにフェルとジャックが仲良くなってくれればいいという思惑もあったが、そもそもフィッツジェラルド家が進める事業なのだ。詳細を説明するのは、あくまで雇われ飛行機乗りであるユベールからではなく、フィッツジェラルド家の人間である二人であるべきだった。

「それより見ろ。翼の形が離陸する前と変わってるだろ?」

「……くっついて、まっすぐになった」

「そう。前縁スラットと後縁フラップを収納したから平らになった」

「どうして変えるんだ?」

「スラットもフラップも飛行機を飛ばす力……揚力を得るためのものだから、使うのは主に離陸時と着陸時だ。使えば短距離、低速で離着陸できる。それ以外のとき、例えば空中でまっすぐ飛びたいときは必要ないから収納する。わかるか?」

 要点を押さえつつ、フェルにも分かるよう簡潔に説明する。

「出したままではダメなのか?」

「空気抵抗がかかるから、速く飛べなくなる。ゆっくり飛びたいなら別だがな」

「なるほど」

「スラットはないが、フラップならぺトレールにもついてるぞ」

「そうなのか?」

「動翼の役割についても、そのうち教えてやらないとな」

「よろしく頼む」

 前席と後席に分かれるぺトレールと違い、横に並んで座れるストルクだと説明もしやすい。フェルの場合、身長差もあってぺトレールではユベールの背に遮られて前方の視界も悪かったのだろう。操縦席の広々とした視界に、目を輝かせている。

「よし、試運転は十分だな。降りるぞ」

「……了解した」

 フェルの返事に名残惜しさが混じるが、明日からも飛ぶ機会はある。格納庫脇の草むらで腰を下ろして煙草を吸うフィテルマンの頭上をフライパス。風下に回って高度を落とし、スラットとフラップを使って低速で滑走路に進入する。

「沈むぞ。舌を噛むなよ」

 黙ってうなずくフェルを横目で確認して、主脚のタイヤを接地させる。油圧とスプリングを併用したショックアブソーバーがぐうっと縮み、土がむき出しの滑走路とは思えないほど柔らかく機体を受け止めてくれる。後輪の接地も確認してブレーキをかけてやるとがくがくと揺れるが、軽いので減速も早い。

「……止まった」

「ああ、いい調子だ」

 まるで本物の鳥のように気軽に飛んだり降りたりできる飛行機はこのストルクの他にない。そんなユベールのつぶやきを知ってか知らずか、紫煙を吐き出すフィテルマンは整備の仕上がりに満足そうな笑みを浮かべていた。


4


 豪華な調度に柔らかいベッド。ユベールからするとフィッツジェラルド家の別荘は上品すぎて落ちつかないが、フェルはよく眠れたらしい。ジャックが朝食の準備ができたと呼びにきたので続きになった隣室のドアをノックすると、すでに身支度を済ませた彼女が待ち構えていたように姿を現した。

「おはよう、フェルさん」

「おはよう、ジャック」

「朝食の準備ができたんだ。食堂へ案内するよ」

「ありがとう」

 手を差し伸べるジャックに微笑みを返し、ごく自然に手を預けてエスコートされていくフェルの姿を見ると、彼女の生まれを思い出さずにはいられない。二人の後ろを歩いていると、従者にでもなった気分がしてくる。

「諸君、おはよう。よく眠れたかね?」

 食堂には紅茶のカップを片手にくつろぐ老ジョージの姿があった。それぞれ挨拶の言葉を述べて食卓に着くと、エプロン姿の女性が紅茶を配膳してくれた。フィテルマンのようにわざわざ派遣されてきたわけではなく、この時期だけ雇われる村の女性だ。毎年のことなので、紅茶を配膳する手つきにも危なげがない。

「朝食が終わったら出発だ。しっかり腹ごしらえしたまえよ」

「はい、おじいさま」

「ええ、ミスター・フィッツジェラルド」

「了解した」

 朝食のメニューは洋ナシのコンポート、牛乳に浸したシリアル、カリカリに焼いたベーコンにしっかり火を通した完熟の目玉焼きだ。エングランド料理のお粗末さは褒められたものではないが、朝食だけは悪くない。エングランドで旨いものを食べたいのなら三食とも朝食を摂ればいい、とまで言われるほどだ。

「ときに、レディ・フェルはこのハイランドの歴史についてご存じかね?」

 ベーコンエッグを切り分けながら、老ジョージが切り出す。

「いや、よく知らない」

「興味はあるかね?」

「ああ。教えてくれ」

「おじいさま、長引くと出発が遅れます」

「うむ、では手短に。そもそも、このハイランド地方は今でこそエングランド王国の一部となっているが、古くはケルティシュの血を引くガエリグ人の土地であった。彼らはエングランド南部の山がちな土地に住み、北部の低地に住むエングル人とは互いをハイランダー、ロウランダーと呼び交わしておったのだ」

「ハイランダーとは高地に住む者、ロウランダーとは低地に住む者の意味です」

 ジャックによる補足にうなずき、老ジョージが続ける。

「そこへやってきたのが交易者であり海賊でもあったダーナ人だ。彼らはエングル人との戦争の末にロウランドを支配し、ハイランドをも侵攻した。ガエリグ人は地の利を生かしてダーナ人とその支配下に置かれたエングル人に対して抵抗を試みたが、圧倒的な武力と経済力によって切り取られ、併合されるに至ったのだよ」

「ガエリグ人はどうなったんだ?」

 フェルの問いに、老ジョージが微笑む。彼は家政婦を見て言った。

「彼女がそうだよ。この村の人々はみなガエリグ人の血を引いている」

「ジョージやジャックは?」

「我がフィッツジェラルド家は元々ダーナ系であった。初代ウィリアム・フィッツジェラルド公はハイランド地方の統治を任務として送りこまれた領主の一人だった。彼は同時代の人間にこう評されている。卑しいハイランダーの女を娶った愚かな男、誰よりも上手くハイランドを治めた賢き者、とな」

「だから、僕たちはダーナ人やガエリグ人である以前に、ハイランダーなんだ」

「『我ら高く生きる』。フィッツジェラルド家のモットーだよ」

 フィッツジェラルド家の血筋に関する話はユベールも初めて聞くものだった。固有名詞の多い複雑な話をなんとか飲みこんだフェルも、神妙な顔でうなずいている。侵略者と被侵略者の関係には、彼女も思うところがあるのだろう。重くなりかけた空気を変えるように、老ジョージが言う。

「さて。食後の紅茶をいただいたら、出かけようではないかね」

 サンドイッチと紅茶の水筒を詰めたバスケットを誰が持つかで口論になったりしつつも、八時には別荘を出ることができた。最年少ということで今日のランチの入ったバスケットを預かる権利を得たジャックがフェルと並んで意気揚々と歩を進め、その後ろをユベールと老ジョージが続く。

「こっちだよ、フェルさん」

「どこへ行くんだ?」

 分かれ道で格納庫の方へ曲がろうとしたフェルが、ジャックに呼び止められる。

「見てもらいたいものがあるんだ。おじいさま、少しだけいいでしょうか?」

「うむ、よかろう」

 ジャックが先導して向かった先は湖のそば、さらさらと風に揺れる草原の広がる、フィッツジェラルド家の私有地だ。普段は牧草地として村人に貸し出されている草原の中央には、半径20メートルほどの範囲に、光沢のある黒い石柱が林立している。高いものはユベールの腰まであるが、低いものはフェルの足首までしかなく、途中から折れたと思われる半端な高さと歪な断面の石柱も多かった。

「これは……?」

「フェルさんはなんだと思う?」

「建物の跡だろうか」

「うーん、どうだろうね?」

 ジャックと老ジョージはもちろん、ユベールもその答えは知っている。

「……ジャックは知っているんだろう?」

「鋭いね、フェルさん。でも、せっかくだから考えてみてよ」

「了解した」

「質問なら答えるから、なんでも聞いてね」

 ジャックの言葉に黙ってうなずき、石柱の間を歩き始めるフェル。ジャックはその後ろを子犬のようについて歩いている。石柱の形状は様々で、ものによっては石柱というより巨大な石板と称した方がふさわしいものもある。同じ形状のものはほとんど見当たらず、壊れているものを除けば上面は綺麗に磨かれた断面になっている。

 フェルは石柱をひとつひとつ見て回っているが、個別に見ているだけではその本質は見えてこない。しばらく時間がかかりそうだと判断して、ユベールは煙草をくわえてマッチを擦った。空気の澄んだ場所で吸う煙草は格別だ。

「火をどうぞ」

「すまんね」

 老ジョージも煙草を取り出したので、彼の煙草に火をつけたマッチの残り火で、指を火傷しそうになりながら火をつける。

「紙巻きに変えたんですね、ミスター・フィッツジェラルド」

 去年はパイプで吸っていたことを思い返して尋ねる。

「出先ではこれが便利でね。味は劣るが、手軽で悪くない」

「同感です」

 視線の先では、丹念に石柱を調べていたフェルがふと思いついたように立ち上がり、いったん距離を取って全体像を確認している。ジャックは相変わらず、フェルの後ろをにこにこしながらついて歩いている。なんとも微笑ましい光景だ。

「やはり聡明なレディだね」

「ええ、そう思います。……フェル! 肩車でもしてやろうか?」

「……大丈夫だ」

 つま先立ちで石柱群を眺める彼女に声をかけるが、笑って断られてしまった。

「フェルさん、なにか気付きましたか?」

 説明したい風情のジャックに、フェルが答える。

「石の柱ひとつひとつではなく、全部の柱でひとつなのだな」

「そう! すごいよフェルさん!」

「しかし、ときどき壊れているのでモチーフがわからない」

「それはね、これだよ」

 ジャックがしゃがんで手折ったのは、一輪のシスルの花だ。赤や紫の花弁を持つ、ハイランド地方を象徴する花で、茎には鋭い棘を持つ。石柱群は上空から見ると、シスルを意匠化した紋章を象ってあるのだ。

「シスルって名前の花なんだ」

「かわいい花だ」

「そう。棘があるから気をつけて……っ!」

 手折ったシスルを手渡そうとしたジャックが顔をしかめる。棘が指に刺さったらしく、鮮やかな赤が茎を伝い、フェルの手を汚す。

「大丈夫か?」

「あはは。これくらい平気だよ……って、ちょっと、フェルさん?」

 ジャックの手を取ったフェルが、血の滴る人差し指を躊躇なく口に含む。

「あ、あの……フェルさん、汚いよ……」

「わたしも指を切ったときは、こうしてもらっていた」

 口腔に溜まった血を吐き捨てながら、フェルが言う。

「えっと、そうなんだ……ありがとう……」

 ジャックの頬は真っ赤に染まり、フェルの顔を正視できない有り様だった。一方のフェルは全くの親切心からそうしているらしく、淡々とした態度を崩していない。ジャックは気が動転しているのか、指をくわえられたまま説明を再開する。

「そ、それでね。シスルの花にはおもしろい逸話があって。ダーナ人がハイランドのとある街に夜襲をかけようとしたとき、足音を消そうと裸足で忍び寄っていた彼らはシスルの棘を踏んで、うっかり声を上げてしまったんだ。おかげで街の人たちはダーナ人の接近に気付いて、反撃することができたんだって。だから、シスルはハイランドを象徴する花とされているんだ」

 ジャックの指から唇を放し、フェルが応える。

「だから、石の柱で?」

「そうなのかも知れないね。文献が残ってないから正確なことはわからないけど、このシスルの花がハイランドの人々に今でも愛されているのは確かだよ」

「ハイランドの象徴、か」

 魔女の治める国。おとぎ話のような現実、その象徴だった少女がシスルの花を愛でる。ジャックでなくとも、魅入られてしまいそうに美しい光景だった。


5


 前席にユベールと老ジョージ、後席にフェルとジャックを乗せてストルクは飛ぶ。高原の薄い空気に合わせてチューニングされたエンジンは快調そのもので、大人二人に子供二人、合計200キログラムの荷物を載せてするすると上昇していく。

「見て、フェルさん。あれがペン・ニヴァスだよ」

「山の名前か?」

「そう。エングランド王国の最高峰、ペン・ニヴァス。古ガエリグ語で『毒竜の住まう山』あるいは『天空へ至る山』という意味なんだ」

「意味が全然違うのでは?」

「うん、不思議だよね。語源を調べていくと、どっちとも取れるんだ。ハイランダーにとって、ペン・ニヴァスは信仰と畏怖の対象だったんだ」

 二人の会話を聞きながら、長く伸びるペン・ニヴァスの尾根筋に接近していく。急角度で切り立った斜面は緩やかに湾曲しており、山裾から吹き上がる風が上昇気流を生み出している。ストルクのような軽飛行機で山岳を飛行するときは、地形によって複雑な変化を見せる風を計算に入れて飛ばなければならない。

 機体を押し上げる風の手応えが操縦桿に伝わってくる。視界は広く、視線は前へ。風の通り道を予測し、風の力を借りて高度を上げていく。目的地は尾根筋の頂上付近だが、まっすぐ突っこむのは避けて、大きく円を描くようにいったん尾根を越える。出力には余裕を持たせ、決して山のある側へ切りこむ方向への旋回は行わない。大切なのは常に逃げ道を確保しておくことだ。

「やはり、きみの操縦は心地よいな」

 ユベールの操縦を見つめていた老ジョージが言う。

「光栄です、ミスター・フィッツジェラルド」

「君たち飛行機乗りには風が見えているのかね?」

「見えませんが、予測はできます」

「興味深いね。例えばどのように?」

「そうですね……あの山と、さらに奥にある山の頂上は見えますか?」

「うむ。ほぼ直線上に並んでいるな」

「操縦桿はニュートラルで飛ばしています。位置関係を見ていてください」

「ふむ……奥にある山が左へ流れていくな」

「ええ。この機体が右から風を受けている証拠です」

「……なるほど。つまり、視差を利用しているのだね」

「ご明察です」

 横風を受けて機体が左へ流れれば、より遠くにあるものが左へ流れる。右目で見て直線上に並んでいる二点が、左目で見ると奥側にある点の方が左へずれるのと同じ理屈だ。山の頂上に限らず、距離に差のあるふたつの目標があれば、この方法で機体が横風の影響を受けているかどうか把握できる。

「非常に興味深い話だ。いや、仕事の邪魔をしてすまなかった」

「いえ、構いませんよ。そろそろ見えてきますしね」

「うむ。ジャック、レディ・フェルに説明して差し上げなさい」

 老ジョージの言葉に、ジャックが機敏に反応する。

「はい、おじいさま」

「なにかあるのか?」

「あれを見て、フェルさん」

 ジャックが指で示したのは、鋭く切り立った尾根上に唐突に現れる平坦な地面と、そこに立つ無数の石柱だった。平坦な地形は約300メートルに渡って続き、石柱はその中央付近、もっとも横幅が広い箇所に集中している。高山植物の緑に覆われてはいるが、人為的に切り開かれた場所であることは明白だ。

「中央にあるものが見える?」

「村の近くにあった石の柱と同じだ」

「そう。これもかつてのハイランダーたちが作ったものなんだよ」

「だが、こちらは壊れていない」

「うん、村の遺跡もかつてはこんな姿だったはずなんだ」

「……そうなのか」

「……なにか気になる?」

 微妙に歯切れの悪い返答をするフェルが気になったが、今は相手をしている時間がない。着陸できるかどうかの判断に、全神経を集中させなければならなかった。いくら平坦に均されているとは言っても、数百年前のハイランダーによる工事である。去年は大丈夫だったとしても、今日までの間にどこか崩れていて、それが高山植物にカモフラージュされていないとも限らない。もしストルクが脚を折るようなことがあれば、老人と子供を連れて徒歩で下山しなければならないのだ。

「ミスター・フィッツジェラルド。着陸できます」

「よろしい。君の判断に任せよう」

 黙ってうなずいて、アプローチに入る。尾根を越えた風は渦を巻き、ときに斜面へ向かって突風のように叩きつけられる。不安定な気流にコントロールを奪われないよう、慎重かつ大胆に寄せていく。ストルク以外の飛行機で同じことをやれと言われたら、どれだけ金を積まれても拒否するだろう。

「少々揺れます。舌を噛まないようにしてください」

 機体へのダメージやトラブルのリスクを軽減するため、滑走距離はできるだけ短くしたかった。限界まで速度を落としても失速しない、ストルクの機体特性が頼もしい。前輪の接地が左右で同時になるよう、傾きに合わせてわずかなバンク角を取るよう操縦桿を操り、咲き誇るシスルの花畑へ機体を降ろしていった。

「見事な着陸だったよ、ユベール君」

 揺れの収まった機内で、老ジョージが笑みを浮かべる。

「……お褒めに預かり光栄です」

 完全に停止したストルクの操縦席に体重を預け、ユベールはいつの間にか止めていた息を大きく吐き出す。高い位置にある操縦席からは地面が見えず、まるで宙に浮いているようだった。エンジンを切り、静寂に包まれた操縦席から眺める雄大なハイランドの景色は、まるで天国のようだった。

 全員がストルクから降りたのを確認して、ユベールも機体から降りた。車止めをはめて、肌寒いほど冷たい空気を肺に取りこむ。老ジョージとジャックはさっそく石柱の間を歩き回り、去年と変化がないかを調べている。もっとも、尾根の上にあるので落石の危険性はほとんどなく、大規模な雪崩でもない限り壊れることはない。

「ジャック、聞いていいか?」

 見れば、フェルがジャックに問いかけていた。

「うん、なにかな?」

「この石の柱は、村の近くのものと同じ時代のものなのか?」

「そうだよ」

「では、なぜこんなに違うんだ?」

「えっと、なんで村の近くの石柱は壊れていたのかってこと?」

「……そうだ」

「うーん、それはね……なんて説明したらいいのかな」

「隠すことはなかろう、ジャック」

 言い淀むジャックを見て、老ジョージが会話に割って入る。

「我々の祖先が壊したのだよ、レディ・フェル」

「ダーナ人が?」

「ダーナ人だけではない。ガエリグ人、つまりハイランダーも遺跡の破壊に加担したことが過去の調査で判明している」

「遺跡はハイランダーが作ったものではないのか?」

「うむ、作ったのも壊したのもハイランダーということになるな」

「……わからない。なぜそんなことを?」

「家を建てるためだよ。礎石という言葉はわかるかね?」

「家の土台のことか?」

「左様。直接的には人口が増加したこと、間接的には信仰心が薄れつつあったことが影響したのであろう。村のそばに、誰のものでもない、手頃な大きさと形の石柱がある。遠くから石を切り出してくるより再利用した方が楽ではないか、というわけだ。村の教会の礎石など、ほとんどがそうだ」

「そうか……」

 老ジョージの言葉に考えこむ様子を見せるが、ほどなくして顔を上げるフェル。

「もうひとつ、いいだろうか」

「ふむ。なんでも聞いてくれたまえ」

「……正しい円ではないのは、なぜだろうか」

「うん? どういう意味かね?」

 上手い表現が見つからないのか、言葉に詰まるフェルだが、彼女の言いたいことは理解できた。言われてみれば、ユベールにも思い当たる節があった。

「フェルが言っているのは、こっちの遺跡はシスルを描く石柱が楕円……押し潰された円状に配置されてるってことじゃないかと思うんですが」

 フェルにもわかるよう、言葉を選んで喋る。

「その通りだ」

「楕円……ふむ、確かにそうだな」

 フェルが同意し、老ジョージも納得がいったようにうなずいている。村の遺跡とこちらの遺跡の違いは、壊れているかどうかだけではない。ほぼ正円の範囲に収まる村の遺跡に対して、こちらの遺跡は引き延ばしたような楕円状に石柱が配置されているのだ。上空から見ればそれが一目瞭然となる。

「土地に制約があったからではないでしょうか?」

 ジャックの発言に、老ジョージがうなずく。

「あるいは測量技術の未熟。従来はそう考えていたが……本当にそれだけだろうか? ふむ、一考に値するテーマかも知れんな。ユベール君はどう思うかね?」

 生き生きとした様子でユベールに話を振る老ジョージ。探求心に火がついたらしく、瞳は子供のように輝いている。

「そうですね……同時代に作られたものと言っても、並行して作ったわけではないでしょう。こちらで積んだ経験が、村の遺跡に活かされたのでは?」

「うむ、明晰な回答だ。しかし地理上の問題を加味してみたまえ。成分分析の結果から、これらの石柱は現場で切り出したものではなく、わざわざ他所から運びこんだものであると判明している。まず工事の容易な村の近くで作り、次いで本命であるこちらに着手したと考えた方が自然ではないかね?」

「確かにそうでしょうね」

 老ジョージの指摘は、実のところユベールも思いついていた。そもそも門外漢であるユベールが易々と真実に至れるとは思っていないので、あっさり引き下がる。代わりに言葉を継いだのはジャックだった。

「ユベールさんの考えを聞いて思いついたのですが、ここもまた本命ではなかった、という説はどうでしょうか」

「私もそれを考えていたところだ。そもそもユベール君に来てもらったのは、まだ発見されていない遺跡を空から探すためでもあるのだからね」

 老ジョージの言葉は、フェルのためのものだろう。ランチを食べてここを飛び立ったら、今度は空から遺跡の痕跡を探す予定になっている。これは一年でもっとも気温が高く、山頂の雪が解けるこの季節しかできない。

「他にもあるのか?」

 フェルがジャックに問いかける。

「それを探すんだよ」

「どこにあるか、推測できないのか?」

「どうだろう……なぜここなのかも、まだわかってないから」

 ジャックの答えにまた視線を伏せて考えこむ様子を見せるフェル。やがて顔を上げると、真剣な表情でこう口にした。

「シスルは、誰に捧げられたものなんだ?」

 その言葉に、全員が黙りこんでしまう。ユベールはもちろん、ジャックもその問いに対する答えは持ち合わせていないらしい。全員の視線が老ジョージに集まり、彼が雷に打たれたように硬直していることにユベールは気付いた。

「……ミスター・フィッツジェラルド?」

 ユベールが声をかけると、老ジョージはゆっくりと視線を合わせ、そして天を仰いだ。天啓を得た、と言わんばかりにその口元には笑みが浮かんでいる。

「レディ・フェル」

「なんだ」

「君の問いに答えよう。シスルは人々が竜に捧げたものだ」

「……竜?」

「より正確に言えば、ペン・ニヴァスの竜に捧げたものと言えよう。かの山に住む竜は厄災をもたらす毒竜として、また加護を授ける神竜としてハイランダーの畏敬の念を集めていた。決して枯れないシスルはそうした二面性を持つ竜へ捧げる供物であったということに、君とユベール君の言葉で気付けたのだよ」

「俺の言葉、ですか……?」

 老ジョージの言葉にユベールは困惑を隠せなかった。つい素が出てしまう。

「ここに来る途中、視差について教えてくれただろう?」

「ええ、それがどうか……ああ、もしかして」

「そう、シスルは誰に捧げたものなのかを考えれば、円が歪んでいる理由……いや、円は歪んでなどいないことがわかるのだよ」

「どういうことですか、おじいさま」

 機内でのユベールと老ジョージの会話を聞いていなかったらしいジャックとフェルはまだ理解が追いついていないようだった。そんな二人に老ジョージは愉しげに微笑みかけ、そして言うのだった。

「どういうことなのか、それをこの目で確かめに行こうではないかね?」

 詳しく教えてくれとせがむジャックを急かして再びストルクに乗りこみ、飛び立つ。咲き乱れるシスルが車輪に巻きこまれ、赤紫の花弁が風に散っていく。土が崩れないよう石垣で固められた周縁部から、そのまま飛び出した。一瞬だけ重力から解き放たれ、翼が空気を捉える。速度のついた機体はたちまち上昇に転じる。

「目指すはペン・ニヴァスの頂上、でよろしいですね」

「うむ。頼むよユベール君」

 空は晴れているが、雲が出始めている。低くたれこめると遺跡を隠してしまいかねないので、急いで高度を上げる。効率は悪いが、遺跡とペン・ニヴァスの頂上を直線で結んだルートをまっすぐ飛ばしていく。

「ミスター・フィッツジェラルド。あまり離れ過ぎてもわかりにくいかと」

「うむ。方角と角度は保っているね? ではこの場で旋回してくれたまえ」

「了解しました」

 ラダーで機体を左に振ってから、右旋回する。ペン・ニヴァスの頂上に立って見下ろしたときと同じ方向、角度で尾根上の石柱遺跡に正対する。そこには高原植物の緑にくっきりと浮かび上がる、黒のシスルの紋章があった。

「諸君、見たまえ。竜に捧げられし石の花、永遠に枯れないシスルだ」

 老ジョージの言葉に、ジャックが首をかしげる。

「……あれ? 楕円じゃない?」

「そうか、こうやって見るのか」

 理解した様子のフェルに、老ジョージが笑みを深めて言う。

「引き延ばされた円を斜めから見下ろしているから正円に見えるのだよ、ジャック。錯視と呼ばれる現象だ。緻密な計算、そして精度の高い工事によってのみ成し得る美しさと言えよう。測量技術の未熟などと、とんだ勘違いであったな」

 自らの誤りを認めつつも、老ジョージは終始楽しげだった。その脳内では、新たな発見による興奮と、それがもたらす新たな研究課題についての思考が渦巻いているのだろう。貴族でありながら学者の気質を持つ老ジョージにとって、こうしたひとときこそがもっとも楽しい時間であるに違いない。

「ユベール君、カメラはどこかね? ぜひあれを撮っておきたい」

「ここにあります、おじいさま」

 取り出したカメラを構えるジャックの前に、フェルが顔を出す。

「それはなんだ?」

「あっ……」

 ジャックが声を上げ、ストルクの機内にシャッター音が鳴る。

「えっと、これはカメラだよ、フェルさん」

「……わたしの知っている写真機はもっと大きかった」

 おそらく写真にはフェルが映りこんでしまっているだろう。彼女は自らの失敗が気恥ずかしかったのか、言い訳めいた言葉を吐いて顔をそらしてしまう。

「あはは……まだ撮れるから大丈夫だよ」

「……すまない」

「ううん、気にしないで」

 再びシャッター音が鳴り、窓越しに遺跡の姿が写真に収められる。

「撮ったな? 旋回するぞ」

 飛行機は空中には留まれない。話しているうちに角度が変わって円が歪んできたので、旋回してコースを修正する。特定の方角、特定の角度でなければ綺麗な正円には見えないので中々難しい。何度も後方を振り返って確認しつつ、ペン・ニヴァスの山頂と遺跡を結ぶ直線をイメージして、それに沿って飛ぶ。

「けど、おじいさま。昔は空なんて飛べなかったのに、なぜこんなことを?」

「やれやれ、まだわかっておらんのか?」

 納得がいかない様子のジャックに、老ジョージがため息をつく。

「空を飛ばずとも、人は雲よりも高き視点を持ち得るのだよ」

「空を飛ばなくても……?」

「ジャック」

 ジャックの隣にいるフェルが彼の肩を叩き、窓外を指差す。

「ペン・ニヴァス……? あ、ああ!」

 フェルが指で示したのは、エングランド王国の最高峰。

 雲海を突き抜けて悠然と佇む、ペン・ニヴァスの天頂だった。


6


「本当によろしいんですか?」

「うむ。今回の発見で、石柱の立つ場所には意味があると判明したからね」

 石柱遺跡の正しい見方を発見した翌日。老ジョージは今年の調査飛行の終了を宣言し、トゥール・ヴェルヌ航空会社が請け負った今回の仕事に対する報酬を、残り期間も含めて全額支払うと申し出たのだった。

「このまま無闇に周囲を飛び回るよりも、可能性の高い場所を絞りこんでから調査した方が効率よく探せるはずだ。しかし、その準備にはそれなりの時間が必要となる。その間ずっと君たちを引き留めるわけにもいかないだろう」

「では、また来年も?」

「もちろんだ。君たちでなければ今回の発見もなかったのだからね。些少ではあるが、報酬にも色を付けておいた。来年もよろしく頼むよ」

「ありがたいお言葉です。では、時期が近付いたらご連絡差し上げます」

「うむ。改めて君たちに感謝を。本当にありがとう」

 別荘にも小さな研究室はあるが、石柱が存在する可能性の高い地点の洗い出し、そして今回の発見を踏まえた既存の研究結果の再検討もするとなるとフィッツジェラルド家の屋敷に戻る必要があるらしい。一刻も早く書斎に戻りたいという風情の老ジョージやジャックと別れを告げるため、四人で駅にきたところだった。

「ユベールさん、お世話になりました。それと、フェルさん」

 ジャックが鞄から取り出したのは一葉の写真だった。

「急いで現像したんだ。よかったら持っていってください」

 手渡された写真に視線を落とすフェル。肩越しに覗きこむと、そこには雄大なハイランドの山脈と石柱遺跡を背景に、気負いのない自然な表情で写る彼女の姿があった。近距離から石柱の様子を撮影するよう設定してあったためか、ピントも綺麗に合っている。偶然撮れたにしてはいい写真だった。

「感謝する。大事にしよう」

「ううん、こんなものしか渡せなくて、ごめんなさい」

 ユベールからはフェルの表情が見えなかったが、ジャックは頬を赤く染めていた。調査が途中で切り上げられたこともあって、ジャックの片思い以上に関係は進展しなかったようだが、写真はフェルにとってもいい思い出になったことだろう。

「ジャック、そろそろ時間だ」

「はい、おじいさま。それじゃ、名残惜しいけれど……また来年会おうね」

「……ああ、また会おう」

 ジャックの言葉に一瞬だけ迷う素振りを見せるフェルだったが、その迷いに気付いたのは、彼女の事情を知るユベールだけだっただろう。彼女にとって、ジャックとの関係はあくまでユベールを通してのものであり、なにげない約束すらも交わすのがためらわれるほど先行きの見えないものなのかも知れなかった。

「フェル」

 そう思うと、なにか言わずにはいられなかった。

「来年も、必ずここに来るぞ」

 振り返ったフェルが、黙ってユベールを見つめる。

「二人で一緒にだ。いいな?」

「……ああ、そうだな」

 帽子のつばで表情を隠しながら、フェルが応える。

 その声は先ほどよりも少しだけ明るく聞こえた。

「さようなら。またね、フェルさん」

「また会おう、ジャック」

「うむ。二人とも息災でな」

「ミスター・フィッツジェラルドもお元気で」

 駅舎の中へ消える二人を見送り、ぺトレールの待つ湖へ向かう。ストルクに比べれば鈍重な機体だが、やはり愛機に乗ると心が浮き立つ。

「フェル、今回の仕事はどうだった?」

 飛び立てば伝声管越しのやり取りになる。その前に話をしておきたかった。

「戦争をしている国というのを忘れてしまいそうになる、平和な仕事だ」

「ロイド大佐たちが気になるか?」

「いや、ジョン・フィッツジェラルドについて考えていた」

 フェルの答えは、意外なものだった。ジョン・フィッツジェラルド少将は老ジョージの息子にしてジャックの父親に当たる人物だ。エングランド王国の防空という重責を担うドヴァル空軍基地の司令であり、前線の将兵に飲料水と称してビールを差し入れるなど部下への気遣いとユーモアに溢れる傑物でもあるが、先の仕事でも彼女とは挨拶を交わしただけだったからだ。

「軍人として戦う家族がいるのに、わたしには二人とも無関心に見えた」

 それはユベールに対する質問というより、老ジョージやジャックと過ごす中で抱いた疑問なのだろう。二人の前では決して口にできなかったが、問わずにはいられなかったということなのかも知れない。

「フィッツジェラルド家のモットーを憶えているか?」

「『我ら高く生きる』だったな」

「そう。この言葉には、ふたつの意味がある。わかるか?」

「ハイランダーとして生きるという自負、だけではないのか?」

「もうひとつの意味。それは、誇り高く生きる、ということだ」

「誇り高く……」

「高貴なる者の義務。そこには外敵との戦いで先頭に立つことも含まれる。フィッツジェラルド家の人間は、他国との戦争になれば一族の誰かが戦うのは当然のこととして受け入れるよう教育される。ジャックだって例外じゃない」

「では?」

「そうだ。無関心だから尋ねないんじゃない。家族である以前に貴族であり、義務を果たした結果としての死は名誉となる。貴族は命を惜しんではならないんだ」

「……高貴なる者の義務、か」

 眉根を寄せるフェルに、フォローの言葉をかけてやる。

「というのは建前でな。安心しろ。少将の近況については俺から伝えてある」

「そう、か」

「納得したなら、乗れ。出発するぞ」

「了解した」

 老ジョージの厚意で整備士のフィテルマンに調子を見てもらえたおかげか、エンジンは一発で点火した。ストルク並みとはいかないまでもスムーズな離水を果たし、愛機ぺトレールを駆ってハイランドを後にする。

「ひとつだけ言っとくぞ、フェル」

 伝声管越しに呼びかける。

「戦争中だからこそ、普段通りの日常を過ごすんだ」

「……どういう意味だ?」

「人間は余裕をなくすと視界が狭まる。視界が狭まると重要なものを見落とす。あるいは、気付いていながら無視するようになる。だから、あまり思い詰めるな。常に視界は広く、好奇心と余裕でもって事に当たれ。いいな?」

「了解した。憶えておく」

 言葉が全て伝わっているとは思わない。そう長い付き合いではないが、共通語での複雑な表現に慣れていないのも手伝ってか、彼女には思ったことを心の内に秘めておく傾向がある。共通語の表現力が、母国語の思考能力に追いついていないのだ。言いたいことが満足に言えないのは、彼女にとって大きなストレスだろう。ある程度は時間が解決してくれるだろうが、それまでは気にかけてやらねばならない。

「ユベール、次はどこへ行くんだ?」

 物思いにふけっていると、フェルからの質問が投げかけられる。

「調査飛行の切り上げで時間ができたからな。どうしたものか」

「次の当てはないのか?」

「ないことはないが、まだ一か月以上先だからな」

 ぺトレールに適した単発の仕事がそうそう転がっているわけもなく、スケジュールは空白だった。加えて、一か月程度仕事をしなかったところで問題ないほど懐も温まっている。思えば、この状況はフェルのもたらしたものと言えなくもない。

「よし、決めた」

「どうするんだ?」

 やや緊張を含んだフェルの声に、ユベールは笑って答える。

「どうもしない。次の目的地まで、のんびり旅をするぞ」

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