空飛ぶ魔女の航空会社〈Flying Witch Aviation Company〉

天見ひつじ

第1話 麦酒は戦場を潤す


1


 頭上のエンジンとプロペラが奏でる轟音、操縦桿から伝わる心地よい振動。男は快調そのものの愛機『ぺトレール』の半開放式コクピットに収まり、ダークブラウンの髪を揺らし、灰色がかった青色の瞳を細めて笑みを浮かべる。

「ユベール、なにか言ったか」

 伝声管を通して響いたのは淡々とした調子の少女の声。

「別に。それとフェル、空では俺のことを機長と呼べ」

「キチョ?」

「…………呼びにくいならユベールでいい」

「了解した、ユベール」

 操縦士であるユベールが後席を振り返ると、見習い航法士のフェルが視界に入る。雪国生まれに特有の透けるような白い肌、陽光を受けて輝く雪白色の髪、その毛先が薄い肩にかかる様子は儚げな妖精を思わせ、ユベールの視線を捉えて真っ直ぐに見返してくるスミレ色の瞳には穏やかな光を宿している。物怖じしない態度は生来のものか、高貴な生まれゆえか。

「フェル、なにが見える?」

 前に向き直り、伝声管へ吹きこむ。返事はすぐに返ってきた。

「戦争が見える。大地が荒廃している」

「どこに降りればいいか、わかるか?」

「……待て。いま探す」

「遅い。言われる前に探して伝えるのが航法士であるお前の務めだ。二時方向……右前方10キロ先に滑走路がある。ここから見えるか?」

「見える」

 即答されて、かえって不安が募る。嘘をつかれても困るのだ。

「本当か? 適当なことは言うなよ」

「本当だ」

 迷いなく澄んだ声音。嘘ではない、と判断する。どうやら視力はいいらしい。

「ならいい。周囲の監視を怠るな。どっちの軍に撃たれてもおかしくないからな」

「カンシ?」

「見張りだ。この言い方ならわかるか?」

「わかる。了解した」

 もう一度後ろを振り返るが、フェルはすでに対空監視を始めていた。指示されなくても地上ではなく空へ視線を向け、ユベールから死角となる後方を重点的に気にしているのには驚いた。こうした行動や判断から、彼女が察しがよく頭の回転が速いのは見て取れる。大陸で広く用いられる共通語である〈リンガ・ケルティア〉に不慣れなため、妙に口調が堅かったり、語彙が少なかったりするのはご愛嬌だ。

 遠雷のような重低音が数回、プロペラとエンジンの立てる轟音を通してなお身体を打つ。海岸へ視線をやれば、都市への艦砲射撃を行う戦艦が二隻浮かんでいるのが見て取れた。エングランド王国海軍の戦艦が、ケルティシュ共和国の都市であるシェルールに立てこもるディーツラント帝国軍への攻撃を行っているのだ。この国は現在、多くの国を巻きこんだ熾烈な戦争の渦中にある。

 このような場所をユベールとフェルが飛んでいるのには理由がある。愛機ぺトレールの胴体にペンキの跡も新しい『T.V.A.C.』の文字。二人は社長兼操縦士のユベール=ラ・トゥール、そしてたった一人の社員にして航法士兼機銃手見習いであるフェル・ヴェルヌの二名から成る民間航空会社『トゥール・ヴェルヌ航空会社』として、請け負った仕事を遂行している最中なのだった。

「さて、そろそろ滑走路の上空だ。どう降りればいいかわかるか、フェル?」

「風上に向かって降りる、だっただろうか」

「そうだ、覚えていたな。風向きはわかるか?」

「北西から吹いている」

「……その通りだが、どうやって判断した?」

 的確な答えに感心して聞き返すと、言葉に詰まったような沈黙が返る。

「……説明が難しい」

 数秒の間を置いて、淡々とした口調でフェルが言った。

「魔女の力、ってやつか?」

 振り返って問うたユベールに、フェルが首肯する。

「そうだ。風を感じた」

「なるほどな。だが、できればそれだけに頼るな。滑走路の脇を見ろ。吹き流しは見えるな? あれを読み取れば、地上付近の風の方向と強さがわかる。高度が違えば風の方向も違うから、上空で感じられる風を過信すると足をすくわれるぞ」

「了解した、憶えておく」

 まだ見習いのフェルに航法士として一人前の仕事は期待できない。ユベールが頻繁に話しかけ、質問を投げかけているのは、フェルの勉強のためでもあった。飛行機の運用に関する知識と、意思疎通のための共通語の習熟。幸い、彼女は勘がよく、機転も利く。冷めているようで勉強熱心なところもあるので、慣れるのは早いだろう。

「ユベール」

 フェルの冷静な声が、ユベールを思索から引き戻す。

「どうした?」

「撃ってきた。地上からだ」

「なんだと?」

 機体を傾け、地上を確認。兵士の構えた小銃から銃火が閃く。

「あれはエングランド王国の兵か? 帝国軍機と勘違いしてやがるな」

 おそらくぺトレールの翼下にぶら下げた荷物が爆弾に見えたのだろう。せっかく整備した仮設飛行場の滑走路を爆撃されてはたまらない、というわけだ。対空機銃でも持ち出されない限り当たりはしないだろうが、着陸してから撃たれても困る。

「せっかく翼に王立空軍のシンボルマークを書いてきたってのに、まったく」

「ユベールの絵が下手っぴだからでは?」

 しれっと口にされた言葉に耳を疑う。

「なんだって?」

「…………」

「もしかして、冗談のつもりか」

「そうだ。すまない、失礼した」

 心なしかすねたような響きの混じる声音。思わず吹き出してしまう。

「ふっ……くくく、お前さん、思ったよりおもしろいな」

 銃で狙われているのに冗談を口にできるとは、いい度胸をしている。フェルはユベールが思う以上に、常に冷静沈着であることを求められる航法士としての適性があるのかも知れなかった。笑ったことでほどよく力も抜け、腹が決まる。

「フェル、白旗を出せ」

「待て……できた。これでいいか?」

「ああ、しっかり掴んでいろ」

「了解した」

 フェルの座る後席の搭乗員は航法士と機銃手を兼ねているので、ロックを外せば180度回転して後ろを向ける。大人が腰掛けたままでは向きを変えるのも一苦労だが、小柄な彼女なら問題ない。コクピットの開口部からフェルが手を突き出すと、風を孕んだ白布が激しくはためく。ついでに翼を振って地上の兵士に注意を促す。

「近づけば嫌でも目に入るだろう。このまま着陸するぞ」

「了解した」

 いったん風下に抜けた機体を大きく旋回させ、仮設飛行場へのアプローチに向けて速度と高度を落としていく。金網を敷いただけの急造滑走路に足を取られないよう、いつも以上にゆっくり、丁寧な操縦で機体を下ろしていった。


2


 ケルティシュ共和国領、エングランド・ケルティシュ連合軍の第138仮設飛行場、通称メニーベリー基地。ディーツラント帝国軍と対峙する最前線付近に設置された飛行場に着陸したぺトレールに対して向けられたのは、不審と警戒の視線だった。銃口こそ向けられていないものの、誰も近づいてこようとはしない。

「フェル、手を振ってみろ。愛想よくな」

「了解した」

 小さくあごを引いて了解を示したフェルが、無表情のまま手を振る。愛想よくという言葉が理解できなかったのか、無視したのか、はたまた愛想よくできないのかはわからないが、その姿を認めたのだろうエングランド王国陸軍の制服を着た兵士が一人、小走りに駆け寄ってくる。眼光の鋭い、髭面で壮年の男だ。きびきびと走る姿から飛行士だろうと見当をつけ、キャノピーを開いてユベールが対応する。

「ここが第138飛行場、メニーベリー基地で合ってるかい?」

「そうだが、かわいいお嬢ちゃんを連れての遊覧飛行なら場所を間違ってるぜ」

「いや、届け物さ。ドヴァル空軍基地司令ジョン・フィッツジェラルド少将から第144航空団司令ロイド・バーンスタイン大佐へ。できれば大佐本人に受け取りのサインを願いたいんだが、面会させてもらえるだろうか?」

「……命令書はあるのか?」

「命令書はないが、少将からの手紙を預かってる。俺たちは民間の空輸を請け負うトゥール・ヴェルヌ航空会社の者でね。少将が言うには、軍としてではなく一個人としての差し入れ、だそうだ。目録を見るかい?」

 そう言って差し出した目録に目を通した相手の顔に理解の色が広がる。

「なるほど、こいつは素敵な差し入れだ」

「荷物を降ろしたいんだが、機体をどこへ動かせばいい?」

「待て、人手を寄越す。名乗り遅れたが、俺は306飛行隊を預かるケニー・メールマン大尉だ。歓迎するぜ、クソッタレな最前線へはるばるようこそ!」

 がっちりと握手を交わす。

「ユベール=ラ・トゥールだ。後ろのこいつは……」

 親指で示すと、軽くうなずいてフェルが名乗る。

「フェル・ヴェルヌ、だ」

 物資を集めてあるのだろう粗末な倉庫の前まで誘導され、機体を降りる。興味を惹かれて集まってきた整備士や飛行士に対してメールマン大尉が的確な指示を出し、積んできた荷物が手早く降ろされていく。中でも兵士たちの注目を浴びたのは、翼下の支柱に吊り下げてきた36ガロンのオーク樽ふたつだった。

「大佐の許可が出る前に手を付けた者は営倉入りだ。いい子にしてろよ野郎ども!」

 大尉に釘を刺されたことで期待はさらに高まり、兵士たちが歓声を上げる。苦労して運んできたものが喜ばれる光景はいいものだとユベールは思う。

「フェル」

「どうした?」

「受け取りのサインをもらってくるから、ここで機体と荷物の番をしていろ」

「了解した。だが……」

 珍しく言い淀むフェル。その理由にすぐ思い至る。

「いい機会だ。俺以外の人間との会話にも慣れておけ」

 抗議したそうに口を開きかけるが、言葉が出てこなかったのか結局はうなずくフェル。人見知りとは、案外かわいいところがある。ふてくされた様子で木箱に腰掛けると、あっという間に兵士たちに囲まれて見えなくなってしまった。きっと娯楽に飢えた兵士たちのおもちゃとして質問攻めにされることだろう。

「さて、バーンスタイン大佐のところへ案内を頼めるかい?」

「ああ、いいぜ。おい貴様ら! レディの扱いは丁重にな!」

 冗談めかした大尉の命令に兵士たちが笑いで応え、大佐の下へ向かう二人を見送ってくれた。大尉に案内されて着いたのは、滑走路の脇に建てられた木造の小屋だった。倉庫と見間違えそうなそれが、このメニーベリー基地の司令室というわけだ。中に入ると机の上には作戦図が広げられている。そちらには極力目をやらないようにしながら、大佐の肩章を付けた男性の誰何の視線を受け止める。

「軍属ではないと見受けるが、どちらさまかね?」

「私はトゥール・ヴェルヌ航空会社のユベールと申します。ドヴァル空軍基地司令ジョン・フィッツジェラルド少将からの差し入れを届けに参りました」

「ほう、少将から?」

「はい、手紙とメッセージを預かって参りました」

「大尉、手紙を受け取りたまえ」

「はっ」

 手紙はメールマン大尉を経由して大佐に手渡される。

「少将からは次の言葉をお伝えするよう承っております。……祖国の自由を守るため奮戦するわが友ロイドよ。卑劣なるディーツラント人が井戸に毒を撒いたため、水が不足していると聞き及んだ。戦場に不足しがちな各種の物資とともに、樽を二つばかり贈らせていただいた。配下の兵士たちと分かち合ってくれたまえ、と」

「井戸に毒を……?」

 不思議そうに首をひねる大佐だったが、手紙と一緒に渡された目録を見てたちまち笑顔になる。エングランド人お得意の皮肉を利かせたジョークだ。

「では、こちらにサインをいただけますか?」

「よろしい……これでいいかね?」

「確かに」

 大佐は受領書をユベールに返すと、大尉に向きなおって命令を下す。

「大尉、非常呼集だ。全員を倉庫前に集めたまえ」

「はっ」

「然る後、少将からの差し入れを配給したまえ」

「はっ! 了解であります!」

「おっと。後で行くから、私にも分け前を残しておいてくれたまえよ」

「もちろんであります!」

「では、俺もこれで失礼します」

「待ちたまえ」

 くるりと踵を返して退出する大尉の後に続こうとしたところで呼び止められる。

「まだなにか?」

「ユベール君、と言ったね? この最前線まで届け物をしてくれた度胸を買って、私からも仕事の依頼がある。君も行って分け前に預かったら、私がそちらへ向かうまで待っていてもらえるかね? なに、そう時間は取らせない」

「危険に見合うお代がいただけるのであれば、我がトゥール・ヴェルヌ航空会社はどこでもなんでも、安全かつ迅速にお届けいたしますよ」

「うむ、頼もしい。では、後ほど」

 司令室を辞去して、愛機ぺトレールの側にできた人だかりを目指す。ちょうどメールマン大尉が全員を集めて配給を開始するところだった。

「よし、貴様らカップは持ってきたな? いいか、よく聞け、我らが敬愛するジョン・フィッツジェラルド少将から、なんとビールの差し入れだ!」

 その途端、歓声が爆発する。その脇で木箱に腰掛けているフェルが両耳を押さえているのが見て取れた。飛行士も整備士も関係なく、誰もが笑顔を浮かべてはしゃぎ、押し合いへし合いしながらビールの配給を受け、勢いよく飲み干していく。

「押すな押すな、樽の前に順序よく並んで配給を受けろ!」

「早くしろ、いい加減シャンパンや林檎酒も飽きてたところだ!」

「フィッツジェラルド少将に乾杯!」

「乾杯! 乾杯!」

「おい、このビール冷えてるぞ!」

 高度4000メートルを運んできたビールは氷のように冷え切っている。汗ばむ陽気に恵まれた初夏のケルティシュ共和国で汗水垂らして仮設飛行場を整備した兵士たちにとっては天上の甘露にも等しい味わいと口当たりだろうとユベールは思う。胴体内の貨物スペースに積んできた煙草と併せ、戦場ではなによりも尊ばれる物資。それは混じりもののない旨い酒なのだ。

「なあなあ、あんたらが運んできてくれたんだろ? よかったら一杯飲んでいけよ! なんだったらお嬢ちゃんもどうだ?」

 気のよさそうな兵士に背中を叩かれる。

「ああ、ありがとよ。フェル、お前も飲むか?」

「もらおう」

「……冗談だぞ?」

「わたしの国ではもう飲める年齢だ」

「そうなのか? まあ、いいだろう」

 あっという間に体積を減らしていくビール。マグカップに注いだそれを喉に流しこむと、確かに冷えていて旨かった。一仕事を終えた満足感の味だ。フェルも小さな手で水滴の浮かぶカップを傾け、こくこくと喉を鳴らしている。いい飲みっぷりだが、勢いで許可してしまったことに今さらながら不安が募ってくる。

「フェル、質問なんだが、お前さん、酒を飲んだことはあるのか?」

「ある」

「そうか、それなら……」

「いま飲んでいる」

「やっぱり初めてじゃねーか!」

 マグカップを取り上げる。しかし中身はもう空っぽだった。

「遅かったか……まあビールだし……っておい、大丈夫か?」

「問題ない」

 顔色は変わらないが、フェルの身体が前後左右にゆっくり振れている気がする。

「ユベール」

「なんだ?」

「もう一杯、飲ませてもらえないだろうか?」

「やめとけ」

「…………」

 じっとこちらを見つめていたかと思ったら、素早く立ち上がってマグカップを奪い返すフェル。見た目では分からないが、酔っぱらっているのだろう。どことなく猫っぽい仕草はかわいくもあるが、これ以上呑ませると面倒なことになると直感する。

「お前、酒癖悪いな……!」

「そんなことはない」

「いいからやめとけ。今は大丈夫でも、空に上がるとアルコールが一気に回るぞ」

「……了解した」

「仕方ないな……焦る旅じゃないし、酒が抜けるまで待っててやるよ」

「……すまない」

「まあ、何事も経験だ。会話も沢山できただろう?」

「話し方がおもしろい、と言われた」

「そうか」

「わたしの話し方はヘンテコだろうか?」

「ヘンテコ? またおかしな言葉を……いや、別におかしくはないぞ」

「…………」

 フェルはユベールの言葉にも納得いかない様子でうつむく。兵士たちも悪気はないのだろうが、フェルにとってはおもしろがられたのがよほどショックだったのか。いい機会なので、かねてよりの疑問を直接ぶつけてみることにする。

「ところでフェル。お前さん、共通語は誰に習ったんだ?」

「……家庭教師だ。彼女は軍人だった。駐在武官、と言っていた」

「駐在武官? しかも女性? 察するに、なかなかのエリートだな。そうか、その妙に硬い口調と変に偏った語彙はそのせいか」

「やっぱり、ユベールもヘンテコだと思っていたのか」

 肩を落とすフェル。失言だったと気付くが、手遅れだった。気まずい雰囲気になるが、ちょうどバーンスタイン大佐が姿を現したのでこれ幸いとその場を離れる。

「やあ、ユベール君。楽しんでいるかね?」

「ええ、おこぼれにあずかっていますよ」

「結構。それで依頼の話だが……おや、あちらのかわいらしいお嬢さんは?」

「相棒のフェルです。航法士見習いとして連れてきました」

「ふむ……」

 つかつかとフェルに歩み寄る大佐。止めることもできずに見守っていると、なんとフェルの腰掛ける木箱の前にひざまずいてうやうやしく礼を取るではないか。

「我々に生命の水を届けてくれた女神というのは君かな?」

「貴方は?」

「この基地を預かるバーンスタイン大佐だ。ロイド、と呼んでくれて構わない」

「ロイド?」

「そうだ」

 渋い笑みを浮かべてうなずいた大佐は、思慮深い面持ちで続けて口にする。

『もしやとは思うのだが、こちらの方が話しやすいかね?』

 大佐の口から流れ出たのは、フェルの母国語だった。周囲の兵士たちは耳慣れない言語に顔を見合わせるが、フェルは大きく目を見開いている。そうしてしばらく固まっていたかと思えば、うれしそうに頬を緩めて流暢に喋りだす。

『……ええ、大佐。驚きました、わたしの国の言葉がおわかりなのですね』

『やはりそうか。貴方のアクセントの付け方からそうではないかと思ってね。失礼を働かずに済んだようでほっとしている』

『失礼だなんて……お気遣い、ありがとうございます』

『貴方のような麗しい女性と話せて光栄だよ』

『お上手ですね、大佐』

『とんでもない、本心だよ。さて、相棒を少しだけお借りするが、よろしいかね』

『仕事のお話ですね? ええ、ごゆっくりどうぞ』

『名残惜しいが、またお会いできる日を楽しみにしているよ』

『わたしもです、大佐。ごきげんよう』

 すっかり機嫌の直ったフェルと微笑み交わし、握手をして戻ってくる大佐。こっそりウインクを送られて、助け舟を出されたのだと気付く。流石は紳士の国、エングランド王国。ジェントルマンの鏡のような態度には感心するしかなかった。

「……大佐。仕事の件ですが、割引させていただきます」

「そうかね? それはすまないね」

 感謝の言葉を述べるのも違うだろうと口にした言葉だったが、大佐は片眉を上げるユーモラスな表情と飄々とした口調でそれを流し、男前な微笑みを浮かべてみせる。

「だが私の実家も商売を営んでいてね。決して損はさせないと約束しよう」


3


「ユベール」

「なんだ?」

「質問がある」

 伝声管越しにフェルが切り出したのは、メニーベリー基地からの帰途だった。目的地である港湾都市ドヴァルまではまだ距離があり、またエングランド・ケルティシュ連合軍が制空権を有する空域であるためディーツラント帝国の戦闘機と遭遇する可能性も低い。軽く会話する程度の余裕はあると判断して応える。

「質問はいいが、周囲の警戒は怠るなよ」

「了解した。今日運んだ荷物のことだ」

「ビールに煙草、戦場には欠かせない兵士の燃料だな。それがどうした」

「彼らはとてもよろこんでいた」

「ああ、そうだな」

「だが、わたしたちが運んでも全員には行き渡らない」

「渡っただろ? 基地の人間は全員集まってたはずだ」

「違う、そうじゃない」

 もどかしげに言葉を切るフェル。遅れてユベールも理解が追いついた。

「なんだ、軍全体に行き渡らないことを気にしてるのか?」

「そうだ」

「仕方ないだろ? 俺たちはフィッツジェラルド少将の知己であるバーンスタイン大佐に届けろという依頼を受けただけだ。これはあくまで少将の私的な依頼であって、軍から頼まれたわけじゃない。大体だな、そもそも俺たちだけじゃ全軍の物資なんて運びきれないのはわかるだろ?」

 フェルはさらに質問を重ねる。

「軍隊にはわたしたちの役割はないのか?」

「ん? 輸送を任務とする部隊が無いのか、ってことか? そりゃあるだろ」

 彼女がなにを気にしているのかわからなかったが、続く言葉でようやく理解する。

「彼らは酒や煙草を運ばないのか?」

「ああ、なるほどな。ようやく話が見えてきたぞ」

 フェルの疑問は、なぜ必要とされる物資が必要とする人間のいる場所まで運ばれないのか、ということだ。その質問はユベールのような民間航空会社の存在意義に直結する。それに興味を持ち、疑問を感じ、自発的に質問してくるのは航法士の仕事に真面目に取り組もうとしている証だ。きちんと応えてやりたい、と思う。

「そうだな……その問いに答えるには、少し入り組んだ説明が必要だ。向こうに着いたら、飯でも食いながら教えてやる。それでいいか?」

「了解した」

 エングランド王国最大の貿易港であるドヴァル港は、軍港としての側面も備える。海峡を挟んだ対岸に位置するケルティシュ共和国の貿易港カールとは34kmしか離れておらず、未だカールの占領を続けているディーツラント帝国の攻撃に備えて街の至るところに高射砲が設置されている。また敵機と誤認されてはたまらないので、港の1kmほど手前で着水して入港することにした。幸いなことに波は穏やかだった。

「わたしは飛行機のことをよく知らないが」

「ん?」

「土でも水でも着陸できる飛行機は珍しいのでは?」

「いいところに目をつけたな。このぺトレールはたった一機だけ造られた水陸両用飛行艇でな。整備は手間だし、陸上機に比べて着陸に気を遣うが、どんな飛行機よりも多くの場所に降りて、また飛び立てる。俺たちの仕事にぴったりの相棒なのさ」

「ぺトレール。それがこの飛行機の名前か」

「教えてなかったか?」

「教えてなかった」

「そうか、そりゃ悪かったな。憶えておけ、俺とお前が命を預ける仲間の名だ」

「了解した……よろしく、ぺトレール」

 戦時中ではあるが、あるいは戦時中だからこそ、ドヴァルの港は活気づいていた。先日の上陸作戦が成功し、ディーツラント帝国が占領を続けるケルティシュ共和国内に連合軍が橋頭保を築けたことで、反撃の機運が高まっているのだろう。軍の艦艇はごく少数を残して出払っているが、徴用された民間船には上陸部隊向けの物資が続々と運びこまれている。物資ではなく、人を満載している船もあった。

「物資だけじゃないな。あれはアルメア連州国の兵隊か」

「アルメア……」

「お前さんにとっては複雑だろうな」

 フェルの祖国は他国の侵略を受けて滅んでいる。その最後のひと押しになったのが、アルメア連州国による軍事支援の打ち切りだったと聞いている。滅亡やむなしとして祖国を見捨てた一方で、勝利と利益の見込みがありそうな連合軍への支援に注力しているとなれば、心穏やかではいられないことだろう。

『知りませんでした……』

「……うん?」

『このようなこと、わたしは知らずにいました。知ろうとせずにいました。わたしが外交にきちんと目を配り、諸外国の情勢を踏まえた政策を打ち出せていたならば、祖国は滅亡せずに済んだのかも知れません。いまとなっては、詮ないことですが……』

 つたない共通語ではない、祖国の言葉でフェルがつぶやく。ユベールの返事を求めての言葉ではないだろう。仮にそうだとしても、気の利いた台詞も思いつかなければ、それを彼女の言葉で上手く言い表せる自信もない。黙っているしかなかった。

「……すまない、共通語を使えと言われたのに」

「構わないさ。たまにはな」

 上手く喋れないからか普段は言葉少ななフェルだが、なにも考えていないわけではない。受けた教育のレベルは非常に高く、この年齢の少女にしては過酷過ぎる重責を担ってきた彼女の在りようを、ユベールはまだ把握しきれてはいない。

「よし、着いたぞ。係留は本来ならお前さんの仕事だからな、よく見ておけ」

「了解した」

 浮き桟橋に寄せて機体から飛び降り、ロープの中ほどに作った輪を駐機用の棒に引っかける。反対側をフェルに投げ渡して、試しに機体に備えつけられたフックに結ばせてみる。できあがった結び目は、案の定でたらめだった。

「憶えておけ、フェル。飛行艇ってのは飛行機としては性能が低く、船としては劣悪な性能の乗り物なんだ。それを補うのは乗ってる人間の腕と知識しかない。飛行艇乗りは空と海の両方に精通してなきゃならないんだ」

「ひもの結び方もか」

 フェルが眉間にしわを寄せる。

「ロープワークだ。なんだ、苦手か?」

「ロープワークは、得意ではない」

「それを苦手って言うんだ。いいから見てろ」

「了解した」

 両手がふさがっているので、苦笑を隠すこともできない。緩む口元を上目遣いに睨み上げられてしまったので肩をすくめ、フェルにもわかりやすいようゆっくりとロープの先端を輪にくぐらせていく。不満げな声を上げた割には熱心にユベールの手元を見つめるフェルは、どことなく小動物めいた雰囲気でかわいらしい。

「よし、やってみろ」

「…………」

 結んだロープを解いて手渡すと、言葉が出ないのか口をぱくぱくさせている。

「ん? どうした?」

 なにを言いたいのか察しはつくがあえて問うてやると、フェルは不満げに頬を膨らませて母国語に切り替えて抗議する。

『わざわざ解かなくてもよいのではないでしょうか?』

『それでは貴方の練習になりません』

 フェルに合わせて彼女の母国語で返してやると、彼女は突然噴き出した。

『ふふっ……ユベールの喋り方、おもしろいですね』

「……習ったのはずいぶん昔だ。ぎこちないのは仕方ないだろ」

「拗ねてるのか?」

「拗ねてない」

「それを拗ねてるって言うんだ」

 ユベールの口真似で得意気に言い放ったフェルの額を、デコピンで弾いてやった。

『いっ……痛いです! 八つ当たりなど、恥ずかしくないのですか!』

「悔しかったら、俺と口喧嘩できるくらい共通語を上手くなるんだな」

「……っ、ちくしょうめ」

「待て、そんな捨て台詞をどこで憶えた」

「メニーベリー基地の兵士が使っていた」

「……あー、なんだ。汚い言葉だから、あんまり使うんじゃないぞ」

「では、どれが正しい?」

「改めて聞かれると答えづらいな。そうだな、憶えていろ、とかになるのか……?」

「では……憶えていろ」

「そう。いや、違う……ううん、まあ、いいか。とりあえず降りろ。飯にするぞ」

「了解した」

 噛み合わないやり取りをしていたら毒気を抜かれてしまった。よくよく考えれば、ロープワークも今すぐ教える必要はない。なまじフェルの覚えがいいものだから、ユベールの方が焦っていたのかも知れない。彼女はまだ十三歳。聡明ではあるが、まだ少女なのだ。学ぶ時間はまだこれからたっぷりある。

「どうかしたのか?」

「いや……悪かったな」

 危なっかしくも一人で機体を降り、考えこむユベールを見上げるように首をかしげるフェルの頭をくしゃくしゃと撫でてやった。髪が乱れるのを嫌がって首を振る様子は年頃の少女のものでしかない。

「さあ、行くぞ。この国は飯がまずいので有名でな。辛うじて食える店を教えてやるから、場所を憶えておけ。きっといつか、俺に感謝することになるからな」

「了解した」


4


 沈みゆく夕日がかすみ雲を橙に染めあげる。仕事を切り上げた労働者たちは馴染みのパブへと吸いこまれていき、一日の疲れをビールで癒す。愛嬌のある長毛の犬をマスコットとして看板に掲げるパブ『シェルティーズ』も例外ではなく、訛りの強い男たちの怒鳴り声のような談笑を表通りまで響かせている。

「ミートパイふたつと、ビール。それから……」

 ウェイトレスからフェルへ視線を移す。

「お茶はあるだろうか」

「紅茶でいいか?」

 それでいい、とうなずくフェル。

「では、紅茶を。ミルクと砂糖もつけてやってくれ」

 キッチンへ注文を伝えに戻るウェイトレスを見送り、テーブルの上に置いたカバンからログブックを出す。これは空域図を筆頭に、仕事で必要な書類やメモを挟みこんだバインダーだ。そこから世界地図を外して、フェルの前に広げる。

「ここがどこか、わかるか?」

「エングランド王国、ドヴァルだ」

「地図上では?」

「……わからない」

「探してみろ。字は読めるだろう?」

 素直にうなずき地図に目を落とすフェルを横目に、道中で買ってきた新聞に目を通す。アルメア連州国の武器弾薬が続々と港へ届いていること、反撃の端緒となる上陸作戦が成功したこと、皇女や皇太子が小さな水兵服姿で観艦式に参加したことなどが伝えられている。国民の戦意を煽り、海の向こうで繰り広げられる悲惨な現実は覆い隠す。絵に描いたような戦時の新聞だ。内容はともかく、シンプルな文章が並んでいるのでフェルの勉強にも丁度いいだろう。読み終わったら勉強用に彼女へあげようと決めて、さほど間を置かずに運ばれてきたビールをあおった。一方、フェルの前にはミルクティーが置かれる。ふわりと香る甘い香りに彼女の視線が上がる。

「お茶と言ったんだが……」

 非難するようなフェルの視線がユベールに向けられる。

「飲んでみろ。本場のミルクティーだ」

「お茶にミルクを入れるのか?」

「どうしてもダメなら俺が飲んでやる」

 しぶしぶ、といった感じで口をつけるフェル。顔色はすぐに晴れた。

「……悪くない」

「だろう?」

「地図も見つけた」

「どれどれ」

 フェルが指さすのは地図上では東の端、ケルティシュ共和国のあるエウラジア大陸とは狭い海峡によって分断された島国であるエングランド王国に間違いない。

「そう、ここがエングランド王国。そしてドヴァル海峡を挟んだエウラジア大陸の東端にケルティシュ共和国があり、俺たちはこの二国を行き来しているわけだ」

「では、こっちがケルティシュ共和国か」

 フェルが指をずらして確認する。ユベールはさらに隣の国を指差しながら答える。

「ああ。その隣にはディーツラント帝国がある。もう四年前になるが、帝国は突如としてケルティシュに宣戦を布告。ケルティシュとの間に挟まる小国ベルジウムを蹂躙して電撃的に侵攻、準備不足が祟って混乱に陥ったケルティシュ軍をアウルペス山脈の向こうに押しやり、太極洋に追い落としたんだ」

「なぜ戦争を?」

「それだな。エウラジア大陸の覇者であるシャイア帝国と隣接するディーツラントは、開戦前にはシャイア帝国の東進に対する防波堤としての役割を期待され、ケルティシュやエングランドとは軍事同盟を結んでいたんだ。国力の差はそれほどないのに、首都パルリッスまで一気に攻め落とされたのもそのせいだ」

 シャイア帝国の名を聞いて、フェルの顔が曇る。無理もない、とユベールは思う。彼女の国を攻め落としたのがシャイア帝国なのだ。

「パルリッスが陥落したと聞いて慌てたのがエングランドだ。ディーツラント帝国に自国領まで攻めこまれるのは避けたいから、ケルティシュの亡命政府を受け入れ連合軍を結成、それでは足りないと太極洋を挟んだアルメア連州国にも助けを求めた」

 世界地図の反対側、アルメア連州国をユベールは示す。そこから改めて東へ指を進めれば、海峡を挟んで地図の中央を占めるシャイア帝国の西端に至る。さらに帝国を横断し、東端で国境を接するディーツラントまで戻れば地球を一周する形になる。

「しかしアルメアが動いたことでシャイアも動いた。というか、ディーツラントがケルティシュへの侵攻を開始したこと自体、シャイアとの不戦協定締結に端を発したって話だ。かくしてディーツラントとケルティシュ、エングランドによる三カ国の戦いはシャイアとアルメアの代理戦争の様相を帯び、戦火は否応もなくそれ以外の国まで飛び火した。およそ二十年ぶり、二度目の世界戦争の始まりだな」

 フェルは神妙な顔つきでユベールの話に聞き入っている。慣れない外国語で複雑な情勢を説明されて聞いているだけでも疲れるだろうに、ユベールの言葉を一言も聞き逃すまいとテーブルに身を乗り出している。ウェイトレスがミートパイの皿をトレイに乗せてやってきたのはそんなときだった。

「よし、飯だ。ここのシェルティーズパイは旨いぞ」

「ミートパイ……なんの肉だ?」

「馬と羊の合い挽きだが……ああ、もしかして食べられない肉があったか?」

「いや、大丈夫だ」

「そうか? いい機会だから言っとくが、俺はお前さんがどんな文化で育ち、どんな常識を持ってるのかまだ知らん。食べられないもの、できないことがあるなら予め教えてくれると助かる。お互いに嫌な思いはしたくないしな」

「……大丈夫だ」

「それとだな、ついでと言っちゃなんだが、お前さんの魔法についての話だ。噂で聞いちゃいるが、せっかく本人がいるんだ。差し支えない範囲でいいから、どんな力で、どんなことができるのか、俺に教えてくれないか?」

 ユベールが魔法と口にした瞬間、フェルの顔色がさっと変わった。伏せ気味の瞳には警戒の光が宿り、真意を推し量るような視線がユベールを貫く。

「ユベールは、なぜ魔法を知りたいんだ?」

「そりゃ……フェルが相棒だからさ。協力してやっていくためには、相手がどんな能力を持っているのか知っておいた方がいいだろう?」

「では、ユベールの能力をわたしに全て教えてくれるか?」

「…………」

 有無を言わさぬ口調に気圧され、とっさに返答できなかった。そして、自分は失策を犯したのだと気付くのにそう時間はかからなかった。フェルはそんなユベールの反応を見定め、静かに宣言した。

「すまないが、魔法については話せない」

「……いや、こちらの方こそすまなかった」

 短いやりとりだが、フェルにとって魔法は軽々しく扱えるものではないのだということは痛いほど伝わってきた。彼女のスミレ色の瞳は、どこまで話すべきか迷うように揺れている。長い沈黙を経て、彼女は宣言するようにこう口にした。

「……ひとつだけ、言っておこう。わたしは、魔法を使う気はない」

 目を伏せ、痛みをこらえるような表情を浮かべるフェル。

「了解だ、フェル。きみを尊重しよう」

 話しているうちに、ミートパイもほどよく冷めてきている。ひとまず飯にしようと、身振りでフェルを促してから皿を手前に引き寄せた。さくさくのパイ生地にフォークを入れると肉汁が溢れだし、馬と羊の独特な匂いをたっぷり入れた香辛料でまとめた食欲をそそる香りが立ちこめる。切り分けて口へ運べば肉体労働者向けに塩を利かせた豪快な味が口中に広がり、冷たいビールともよく合う。山盛りの揚げ物とゆでただけの豆を好むエングランド人の料理とは思えないほど旨い。

「旨いか?」

 パイを吹き冷ましては口に運ぶフェルに、タイミングを見計らって問いかける。

「旨い」

「そりゃよかった。シェルティーズパイってのはシェルランド諸島原産の牧羊犬である『シェルランド・シープドッグ』が名前の由来でな。略称の『シェルティ』はそれを飼ってる羊飼いのことも指すんだが、出稼ぎにきた彼らが好んで作ったパイがこれでな。変わった味だが確かに旨い、シェルティの焼くパイだからシェルティーズパイと呼ぼう、ってなわけでエングランド人たちが名付けたんだ」

「なぜ羊だけじゃなく、馬を?」

「シェルランド諸島の特産は羊、そして固有種のポニーなんだ。これがまた頑丈な働き者でな。乗ってよし、耕してよし、衰えて死んだら食ってもよし。ただし食用じゃないから肉は固い。じゃあ羊と合い挽きにしてみちゃどうだって考えたやつがいたんだろうな。資源を無駄にできない島における生活の知恵ってわけだ」

「カクテル、だな」

 納得した風にうなずくフェルだが、その言葉の選択はどうなのか。

「確かに混ぜてはいるがな。こういうのは合い挽きって言うんだ」

「合い挽き」

「そう」

 会話が途切れたのでビールを飲もうとして、いつのまにかジョッキが空になっていることに気付く。注文しようと手を挙げて、ウェイトレスを呼ぶ。

「ビールを頼めるかい」

「ごめんなさい、ビールは一杯だけなのよ」

「うん? 金ならちゃんと持ってるぜ」

「お客さん、外国の方かしら? 出してあげたいのは山々なんだけどね、肝心のモノがないのよ。ほら、兵隊さんたちがケルティシュに戦いに行ったでしょう? ただでさえビール工場から人が取られて減産してるところに、戦地向けの需要が増えたもんだから、国内に回す分がぜんっぜん足りてないのよ」

「へえ、そりゃ災難だ。向こうへは船で運ぶのかい?」

「じゃないかしら。それでね、これは風の噂なんだけど、ビールを満載した輸送船がディーツラントの潜水艦に沈められちゃったらしいわよ」

「ふうん……」

「そういうわけで、ビールはないの。林檎酒でいいかしら」

「ああ、頼むよ」

 ウェイトレスがテーブルを離れると、フェルが口を開く。

「船が沈んだ、と聞こえた」

「ああ、いい話を聞けたな」

 情報の裏付けをどう取るか、得られた情報をどうやって金に結びつけるか、思考を巡らせる。ここに来た目的のひとつである、フェルの抱いた疑問への回答へ話を繋げるにもぴったりの話題だった。

「さっき説明した通り、この国は世界を巻きこんだ大戦争の真っ最中だ。危険は跳ね上がるが、扱う物資の値段も跳ね上がる。大きく儲けるチャンスってわけだな。それで、お前さんの疑問は『軍には輸送を任務とする部隊はないのか』だったな」

 フェルがうなずくのを待って続ける。

「結論から言えば、ある。ただし軍隊が必要とする膨大な物資を運ぶためには飛行機だけじゃ全く足りない。そこで出番となるのが船舶だ。兵隊、食料、それから武器弾薬。海を越えて大量に運ぶには船が一番。だからこそ、敵も放ってはおかない」

「潜水艦か」

「そう。潜水艦による通商破壊、水上戦力で連合軍に劣る帝国軍の切り札だ。実際に沈んだ船の被害はもちろん、影をちらつかせることでそれ以外の船にもプレッシャーを与え、輸送の効率を落とせる。そんなわけで、連合軍はビールや煙草といった嗜好品は後回しにせざるを得ない状況だったんだ。そこへきてビールを満載した船が沈められたというニュースだろう? どうなると思う?」

「戦場でビールが不足する」

「正解。そこで俺たちの出番ってわけだ」

「ケルティシュにビールはないのか?」

「向こうはワインが中心でな。特にメニーベリー基地の付近はシャンパンで有名なんだが、飲み慣れない酒ってのは悪い酔い方をするもんだ。エングランドの兵隊にとっては、ビールこそ故郷を思い出させる味なのさ」

「故郷の味か」

「ああ、お前さんにだってあるだろう?」

 こくりとうなずくフェル。

「了解した。軍を手伝うのだな」

「……まあ、間違っちゃいないな」

「納得した。がんばろう」

 満足げなフェルの表情を見る限り、表現がややおかしかっただけで意図は正しく伝わっているはずだった。やる気を出しているようでもあるし、あえて訂正する必要もないだろうと思うユベールであった。


5


 パブで食事をしつつフェルとの親交を深めた翌日。二人でドヴァル空軍基地へ出向いて依頼主であるジョン・フィッツジェラルド少将への報告を済ませた後、新たな依頼主となったロイド・バーンスタイン大佐の要望に従って各種物資の仕入れと積みこみも終えるとちょうど昼飯時になっていた。

「さて、どこで食うか」

「ユベール、シェルティーズに行こう」

「気に入ったのか?」

「ああ」

 努めて冷静を装いながら深々とうなずくフェルに悟られないよう、ユベールはこっそり苦笑する。フライトを控え、ビールではなくソーダ水でミートパイを平らげてから港へ戻り、再びケルティシュへ向かうべくエンジンに火を入れる。左右の翼間支柱にある爆弾架と胴体内に計三つのビール樽を固定し、余ったスペースに煙草やその他の物資をギリギリまで積みこんだぺトレールは普段より喫水が深い。

「波がある。離水するとき舌を噛むなよ」

「了解した」

 伝声管越しのやり取りを終え、スロットルに手をかける。プロペラが回転を早め、愛機ぺトレールの翼が海風を切り裂く。上手く離水を果たしたら、十分にスピードが乗るのを待って上昇していく。低く垂れこめ世界を鈍色に染める雲を抜ければ、蒼空と雲海、輝く太陽で構成されるシンプルな世界への帰還を果たせる。

「さて、操縦士から航法士さんへ質問だ。俺はどっちへ飛べばいい?」

「……あっちだ」

 指で示す気配が伝わってくるが、ユベールは振り返らない。

「クロック・ポジションで伝えろって言ったろ?」

 クロック・ポジションは船舶や航空機で用いられる方位の指示法だ。自身を時計盤の中心として見立て、正面なら12時、右90度の位置なら3時といった具合に水平方向の方位を示す。目的地へ向かうため、あるいは風の影響で頻繁に向きを変える船や飛行機では自分の向いている方角を見失いやすく、北や南といった表現で方角を伝えると自身の向いている方角を確認する手間がかかってしまうためだ。

「確認する。少し待て」

「了解だ。指示が出るまで真っ直ぐ飛ぶぞ」

 おそらく、魔女の力で方位を感じ取ることはできるのだろう。先日の飛行では風の吹く方向も読み取っていた。しかし彼女は昨夜、魔法を使う気はない、とも言っていた。常人よりも鋭い、あるいは常人にない感覚で自然現象を読み取ることと、積極的に魔法の行使するのでは種類が違うということだろう。彼女が祖国で用い、間接的にではあるが破滅をもたらしたとされるそれについてのうわさがどこまで真実なのか、自身の目で見るまで判断はしないとユベールは決めている。

「ユベール」

「わかったか?」

「2時方向だろうか」

「上出来だ。変針するぞ」

 計器の読み方や航法の勉強をおろそかにされてはまずいので口にしないが、魔女の力も利用できるのなら利用すればいいとユベールは考えている。飛行機乗りは通常、目視と計器を併用して飛行する。フェルの場合はそれに加えて魔女の力も利用できるのだとすれば、どれかひとつが狂ったときには力になる。目視と計器だけでは両者が食い違ったときにどちらがおかしいのかを判断しなければならないが、そこに魔女の力が加わればどれがおかしいのかを推定できるからだ。この差は大きい。

「フェル」

「どうした?」

「お前さん、航法士に向いてるかもな」

「そうか」

「……それだけか?」

「……うれしい。ありがとう」

 上手い表現を思いつかなかったのだろう。それでも伝声管越しに返された端的な言葉は心なしか弾んでいたように思える。彼女がどんな顔をしているのか見たくなって後ろを振り返ると、膝の上に視線を落として何事か書きつけているようだ。

「早速ログブックか?」

「……そうだ」

 フェルが膝に乗せているのは、真新しい革表紙の手帳だ。ユベールのログブックを目にしたとき熱心に眺めていたので、仕入れのついでにプレゼントしたらずいぶんと喜んでくれた。空色に染めた上質のシープスキンは軽くて手触りがよく、通気性もいい。値段はそれなりに張ったが、彼女の飛行機乗りとしての経歴、その全てが記されることになる手帳なのだ。それだけの金をかける価値はある。

「出発地と目的地、日時と飛行経路を記しておくといい。お前さんの母国語でな」

「共通語ではなく?」

「ああ。フェルがしたこと、考えたこと、感じたこと。正確に書くなら、その方が書きやすいだろう? たまには使わないと、いつの間にか忘れちまうしな」

「了解した」

「手早く書けよ。対空監視……見張りの仕事もあるんだ」

「対空監視で構わない。もう憶えた」

「そうか、そりゃ結構」

 勉強熱心で、記憶力もいい。フェルに物事を教えるのが楽しくなってきた自分を、ユベールは自覚する。半ばなりゆきで航法士として雇うことになった彼女が思った以上に使い物になりそうなのはうれしい誤算だった。

「日差しが強い。ゴーグルはかけておけよ」

「……黒くて見えない」

「慣れろ。せっかく目がいいんだから、大事にしておけ」

 高かったんだから文句を言うな、というセリフはなんとか飲みこんだ。

「了解した」

 ぺトレールのコクピットはキャノピーで覆われているので風除けの必要性は薄い。ユベールも普段はゴーグルを首にかけているだけだが、監視任務のある後席は太陽を見るので目をやられやすい。フェルに合う子供用のサイズはずいぶん値が張ったが、これも仕方ないと割り切って購入したものだ。

「ユベール」

 しばらく飛んでいると、伝声管からフェルの声が響いた。

「どうした」

「わたしは役に立つだろうか?」

「ん? そうだな……」

 どう答えるか、数瞬のあいだ迷う。フェルは端的でぶっきらぼうな喋り方をするが、それは彼女が共通語を不得手としているからだ。上手く言い表すことはできなくても、色々と考えているのは側にいればわかる。だからこそ、唐突な質問にもなにか意味があるのだろうと思った。きちんと答えてやらねばならない。

「お前さんも知るように、ぺトレールは荷物も運ぶが人も運ぶ。その後席は機銃手兼航法士の席であると同時に客席でもある。だから、こいつはもともと俺一人で飛ばせるように設計されてるんだ」

「…………」

「おっと、余計な気を回すなよ。客を運ぶ仕事が入ったら、お前さんの居場所は貨物スペースになるんだからな。もっとも、密入国ならその限りではないがね」

「そういう仕事も請けるのか?」

「ケースバイケースだ。わかるか?」

「是々非々、という意味だな?」

「……お前さんはまた妙な言葉を」

「間違いか?」

「合ってるよ」

「そうか、よかった」

 振り返ると、座席を回転させて後方を見張るフェルの姿が見えた。

「気にしてるのは借金のことか、フェル?」

「……そうだ」

 核心と見た話題へ切りこむと、フェルはあっさり肯定した。彼女にはユベールに対する借金がある。彼女を航法士として雇うことになったのも、借金返済がその理由のひとつだった。彼女は不平を口にしないが、天引きされた給金では日用品を買い揃えたら底をついてしまうだろうし、年頃の少女にはかなり辛いだろう。彼女の場合は、生来の責任感もあって給金に見合う仕事ができているか不安なのかも知れない。

「ぺトレールは一人でも飛ばせる。だが、それは飛ばすだけならの話だ」

「…………」

 フェルはユベールの言葉を聞き逃すまいと耳を澄ませている。

「飛んでるときにやることは山ほどあるし、操縦しながらじゃできないこともある。フェルが仕事を憶えれば、その分だけ俺は楽できるし、操縦に集中できる。だから、必要ないのにお情けで雇ってもらってるんじゃないか、なんて心配は不要だ」

「……そうか」

「お前さんがド素人ってことも承知の上だ。言葉の壁もあるだろうし、わからなかったら何度でも聞けばいい。仕事を楽にすることにかけて、俺は誰よりも真剣だ」

「わかった。がんばる」

「ああ、大いにがんばれ。期待してるぞ」

 伝声管越しではわかりにくいが、フェルの声音は少しだけ明るくなったように思える。こんなものだろうか。小娘のやる気を引き出すのも簡単ではない。眼下の雲海が途切れると、その先にケルティシュ共和国の海岸線が顔を出す。わずかに緊張を滲ませた声でフェルが警告を発したのはそんなときだった。

「ユベール。飛行機だ」

「方角と機数!」

「五時方向、二機だ」

「ほぼ真後ろか。どこの飛行機だ?」

「すまないが、わからない」

「ああ、気にするな。お前さんに言ったんじゃない」

 真後ろは尾翼で視界が遮られる。右ラダーで機体をずらし、後方を確認する。雲海から顔を出した二機編隊との彼我の距離は10キロ足らず。荷物を満載して速度が落ちている状態では、五分もあれば追いつかれてしまう距離だ。目的地のメニーベリー基地まで十数分はかかるので、敵機だとすれば非常にまずい。操縦桿を手前に引く。

「濃い青色の飛行機だ。横に白い星が描いてある」

「ネイビーブルーはアルメアの機体色だ。敵じゃないが……向こうはどう思うか」

「見つかった。加速して向かってくる」

「くそっ、参戦直後で戦意は旺盛、手柄が欲しくてたまらないってわけだ」

「どうする?」

「どうするもこうするも。逃げるしかないだろ」

「逃げ切れるのか?」

「無理だな、このままじゃ追いつかれる」

「……戦うのか?」

「ぺトレールには旋回機銃が一丁積んであるだけだ。お前さんに撃てるのか?」

「使い方を教えてくれ」

「それよりだな……」

 その先を口にするかどうか迷ったが、事は一刻を争う。

「フェル。魔法であいつらを追い払えないのか?」

「…………」

 返ってきたのは沈黙だった。

「どうなんだ? 時間が無い、できるかできないかだけでも教えてくれ」

「ダメだ。魔法は使わない」

「魔法を『使えない』ではなく『使わない』なんだな? だったら、逃げるための魔法でもいい。敵を殺すためじゃなく、俺たちが生きるためだ。何かないのか?」

 なにかを言いかけて、ためらうような息遣い。

 フェルの答えは、流麗な異国の響きで返ってきた。

『そうではないの、ユベール。魔法は『使わない』し『使えない』の。わたしの魔法は働きかける対象に触れて使うものだから、手の届かないものには力を振るえない。それにね、わたしの異名を聞いたことはあるかしら、ユベール?』

「……冬枯れの魔女、それから滅びの銀色、だったか」

『ええ、そう。滅びの銀色。わたしの呪われた在りようを的確に言い表した名前ね。憶えておいて、ユベール。わたしの魔法、その本質は吸収と放出にある。生命の輝き、大地の恵みを吸い取って、力に変えるの。その結果、どうなると思う?』

「吸われたものは、枯れて死ぬ……?」

『その通り。今のわたしはぺトレールにしか触れられない。この小さな飛行機から引き出した力で風を起こし、加速することはできるでしょうけれど』

「機体は空中分解するってか」

『察しがいいのね。そういうわけで、わたしは魔法を使わないし、使えない』

「ようやく理解できた。ありがとうな、フェル」

「……すまない、ユベール」

 最後だけ共通語に戻して、フェルは言った。魔法の専門家として誠意を持って説明してくれた小さな魔女に、今度は飛行機の専門家であるこちらが応える番だった。

「両翼のビール樽を投棄する。機体につかまって反動に備えろ」

「了解した」

 投下レバーを引くと、左右の翼間支柱に設けられた爆弾架からビール樽が外れ、眼下に広がる海面への自由落下を始める。両翼で併せて400キログラムの重荷から解放された機体はがくっと持ち上がり、速度を上げていく。

「ダメだ、ユベール。追いつかれる」

「だろうよ。仮にも戦闘機だ。輸送機より遅くちゃ話にならない」

「機銃の使い方を教えてくれ」

「必要ない。撃ってこないかだけ見張っててくれ」

「撃ってきた」

「ふん、素人だな」

 風防越しに彼我の距離を確認する。機銃の射程外、しかも見上げての射撃など命中する道理がない。落ちついて操縦桿を固定し、身体に叩きこんだ最適の上昇率を保ち続ける。実は、フェルと会話する間もずっと上昇し続けていたのだ。おかげで現在高度は4500メートル。おそらくアルメア機が爆弾と誤認したのだろうビール樽もすでに投棄した。ほどなくして、アルメア機が反転した。

「引き返していく。なぜだ?」

「機体を軽くしたから、追いつくのにかかる時間が長くなったんだ。このまま直進すれば、追いつくころにはディーツラントの勢力圏のど真ん中になる。いくら手柄が欲しいからって、そこまで深追いするバカはそうそういないさ」

 仮にそんな計算もできない愚か者がパイロットだったとしても、高度を稼いでおけばダイブで一気に引き離せる。投棄したビール樽の損害額を考えると頭痛がしてくるが、危険をダシにフェルから魔法について聞きだした代償と割り切るしかない。

「よし、降りるぞ。地形と地図を見比べて、メニーベリー基地を探してみろ」

「了解した」

 ため息が出る。なにより、待望のビールが届かなかったと知ったメニーベリー基地の兵隊たちにどんな罵声を浴びせられるかわかったものではなかった。


6


 メニーベリー基地に降り立ったぺトレールは歓喜の声で迎えられた。ユベールに向かって帽子を振る者、フェルにキスを投げる者、騒ぎを聞きつけて宿舎から駆けてくる者、パイロット仲間にはやし立てられ、取り分を残しておけと雄叫びを上げながら戦闘機を離陸させる者。その中には最初に降り立った時に二人を迎えてくれたメールマン大尉の顔もあった。

「やあ、メールマン大尉。また寄らせてもらったよ」

「よう、お二人さん。あんたらはいつでも歓迎だぜ」

 握手を交わし、機体を降りる。ついでにコクピットの側壁を乗り越えるのに手間取るフェルの両脇に手を入れて降ろしてやろうとしたら抵抗されてしまった。子供ではない、ということらしい。彼女の意思を尊重して見守る間に、知らせを受けて司令室から出てきたバーンスタイン大佐も姿を見せる。

「よく来てくれた、ユベール君。フェル嬢もごきげんよう。基地一同を代表して、君たちの再訪に感謝の言葉を述べさせてもらおう」

「またお会いできて光栄です、大佐」

「元気かい、ロイド」

「ちょっ……フェル!」

 屈託なく言ってのけるフェル。慌てるユベールだが、大佐は鷹揚に笑ってくれた。

「はっはっは、構わないさ。ああ、私は元気だよ、フェル嬢」

「よかった。わたしも元気だ」

 満足げに笑うフェルだが、これから告げなければならない内容を思うと頭が痛い。

「ところで大佐、貨物の件ですが……」

「うむ、そうだな。目録と請求書をくれたまえ」

「申し上げにくいのですが、こちらへ向かう途中、アルメア機の襲撃を受けまして。なんとか振り切ったのですが、三つ積んできたビール樽のうち、二つは投棄せざるを得ませんでした。当然、その分のお代はいただかないつもりですが、基地の全員に行き渡るだけのビールを運べなかったのが残念です」

 それを聞いたバーンスタイン大佐が顔をしかめる。

「なんと、アルメア機が? ふむ、それは申し訳ないことをした。実は我々の爆撃機がアルメア機に追い回される事件も散発しておってな。参戦したばかりで経験の浅いパイロットが多いゆえ仕方のない部分もあろうが、厳重に抗議しておこう」

「そうでしたか、そちらでも……」

「上陸作戦でアルメア軍が果たした役割は決して小さくないが、味方が撃たれているとなれば話は別だ。苦言は呈さねばならん……と、君に話すことではなかったな」

 アルメアはディーツラントの背後にいるシャイアと地球の裏側で海を挟んでにらみ合っているため、アルメアの陸海空軍の精鋭はそちらへ張りつけられていると聞く。二正面作戦を展開するに当たって、対ディーツラント連合軍に参加したのは二線級の部隊、酷ければこちらの戦線はシャイアとの最前線に投入するための事前準備、練度向上の場として捉えられているとも考えられる。驚くべきはそれでもディーツラントを圧倒するだけの物量を誇るアルメア軍の強大さだった。

「とはいえ……友軍の不始末を、民間人である君たちに押し付けるわけにもいくまい。投棄した樽の代金も支払わせてもらおうと思うのだが」

「……いえ! 我々もプロとして仕事をしています。ご厚意に甘えるわけには」

「では危険に対する報酬を上乗せ、という形ではどうかね?」

「ありがたい申し出ですが、私にも運び屋としての誇りがあります」

 そのとき、ユベールの服のすそを引く者がいた。フェルだ。

「ユベール」

「後にしろ」

「……だが」

「今は仕事の話をしている。わかるだろ?」

 大事な場面で口を挟まれて舌打ちしたくなる気持ちを押さえる。フェルとしては報酬をもらい損ねることを心配しているのだろうが、見くびらないで欲しいものだ。トゥール・ヴェルヌ航空会社の経営者として、社員の給料は絶対に保証する。しかし、そんな意気ごみも大佐の一言で制されてしまう。

「待ちたまえ、ユベール君。フェル嬢から提案があるようだ」

 黙ってうなずき、発言していいかと目で問うフェル。

「……言いたいことがあるなら言えばいい」

「カクテルだ」

 ユベールの言葉にぱっと顔を輝かせ、勢いこんでフェルが言う。

「ふむ?」

「…………ああ、そういうことか」

 バーンスタイン大佐は言葉足らずなフェルに首をかしげるが、ユベールはほどなくしてフェルと同じ着想に思い至った。その案が実現可能か数秒だけ考え、勝算は十分にあると判断を下す。

「大佐。ビール不足を補う提案があるのですが」

「ほう、おもしろそうだ。聞かせてもらおうか」

 数分後、大佐の命令を受けた整備兵たちが重そうな木箱をいくつも運んできた。中に入っているのはこの地方の名産、シャンパンだ。冷えていないのが難点だが、戦場で贅沢は言えない。手早く設置されたひとつきりのビール樽の前には、メールマン大尉の仕切りですでに大勢の兵隊が並んで列を作っていた。すぐ側には木箱の上に立たされたフェルの姿もある。口火を切ったのはメールマン大尉だ。

「よし、貴様らよく聞け。まずは悪い知らせだ。アルメア空軍の間抜けのおかげで、我々に届けられたビールはこのひと樽っきりだ!」

 その途端、アルメア軍に対するヤジが盛大に飛ぶ。フェルが耳を塞ぐほどの喧騒が収まるまで、たっぷり十数秒はかかっただろう。

「お次はいい知らせだ。ここにおわすは戦場の女神にしてビールの運び手、フェル嬢だ。彼女が貴様らにとっておきのカクテルレシピを教えてくださるとのことだ!」

 今度は先のヤジをも上回る歓声が上がる。人形のように端正なフェルの容姿は戦場の偶像としての素質に溢れている。あまりの持ち上げようにとまどいつつも自分の役割を心得て、可憐にほほえむ様子はユベールをして心を奪われそうになる。

「ロイド、こちらへ」

「うむ」

 フェルに呼ばれてバーンスタイン大佐が歩み出る。司令官の厳粛な面持ちに誰もが固唾を飲み、成り行きを見守る。メールマン大尉からコルクを抜いたシャンパンを手渡されたフェルは、大佐の持つマグカップに半分ほどのシャンパンを注いだ。

「ビールを注げばカクテル……『ブラックベルベット』だ」

「ありがとう、フェル嬢」

 にこりと笑ったバーンスタイン大佐が樽の前へ進み、取りつけられた蛇口から真っ黒なスタウトビールを注いでもらう。『ブラックベルベット』はドライなシャンパンとスタウトのような黒ビールを等分に注ぐ、ビルドスタイルのカクテルだ。仕入れたビールのうち、黄金色のピルスナーはよく冷えるようにと翼間支柱に、それほど冷やさなくてもよいスタウトは胴体に積んでいたのが幸いした。

「うむ、旨いな。諸君も順番に注いでもらいたまえ。フェル嬢、よろしく頼むよ」

「頼まれた」

 こくりとうなずくフェルの前にたちまち長蛇の列ができる。ブラックベルベットのレシピは本来ならシャンパンとビールを1:1で注ぐものなのだが、それではビールが足りない恐れがあるため、6:4でシャンパンを多めに注ぐようフェルには指示してある。これがむさ苦しい炊事兵なら注ぐ量でケンカになりかねないが、男はとかくかわいらしい少女に弱いものだ。兵隊たちは嬉々としてフェルに注がれている。

「上手くいったようだね。私の演技も捨てたものではなかったろう?」

 一仕事終えた大佐がいつの間にかユベールの隣に立っていた。

「大佐。ええ、お見事でした」

「見事と言えば、フェル嬢だよ。聡明で機転も利く、素敵なレディじゃないか」

「はい、今回はあいつに助けられました」

「……事情について深くは聞かんが、大切にしてやりたまえよ」

「……ええ、彼女が独り立ちできるまでは」

 異国の少女が運び屋として働く姿に、思うところがあったのだろう。バーンスタイン大佐はそれだけ言い残して去っていく。濃厚に立ちこめる酒気に当てられたのか、上気した顔でシャンパンを注ぎ続けるフェルと、一瞬だけ視線が合った。視線は兵隊たちの身体ですぐに遮られてしまい、背の低い彼女の姿は見えなくなってしまう。やることのないユベールはどうにも居場所がなく、仕方がないので人混みから離れて少し歩くことにする。滑走路の外れ、飛行場全体を見渡せる位置に手頃な木箱が並んでいるのを見つけて腰を下ろし、マッチで煙草に火をつけた。

「ユベール」

「フェルか。お疲れさん。今回はお手柄だったな」

「ああ。これをもらった」

 小一時間もかかっただろうか。全員のカップにシャンパンを注ぎ終えたフェルは、樽の底にわずかに残ったビールで9:1のほぼシャンパンに近いブラックベルベットを二杯作ってもらったようだ。きょろきょろとユベールを探しているので手を振ってやると、こぼさないよう慎重に歩を進めてきた。差し出されたカップを受け取り、隣の木箱に座るよう促す。どこからかハムやサラミを調達してきた兵隊がいるらしく、滑走路の脇で宴会が始まっているのがここからだとよく見える。

「飲んでもいいだろうか?」

「もちろんだ。お前さんの仕事に対する報酬なんだからな」

 前回、ビールを飲んで酔っ払ったことを気にしているのだろう。

「それより、お前さんに謝らなきゃならんな」

「謝る?」

「提案に耳を貸そうとしなかったことだ。相棒であるお前さんに対して、俺はもっと敬意を払うべきだった。許して欲しい、フェル」

 頭を下げるユベールを、珍しいものを見たという顔でフェルが見る。

「……なんだよ」

「いや。構わないさ」

 その口元には、愉しげな笑みが浮かんでいた。どうも彼女はユベールの言葉を気にもしていなかったらしい。それでも、礼を欠いたのは確かなのだ。なにか埋め合わせをしてやらなければならないだろう。

「フェル。手柄を上げたご褒美だ。欲しいものはあるか?」

「欲しいもの?」

「ああ、今回の儲けに収まる範囲ならなんでもいいぞ」

「それなら……」

 フェルが取り出したのは空色の手帳、彼女のログブックだった。開いて見せられたページには、新聞の切り抜きが挟まっている。写真に写っているのは、子供用に仕立てた水兵服を身にまとう皇女と皇太子だ。

「……服が欲しい」

 細い指が写真を指差す。白と青を基調にした水兵服は少年少女が着ると勇ましくもかわいらしい。フェルにもきっと似合うことだろう。いま彼女が着ているのは丈を詰めたツナギの作業服であり、年頃の少女としては思うところがあるのかも知れない。

「わかった。特注になるから時間はかかるが、必ず作ってやる」

「約束だ」

「ああ、約束だ」

 娘に服を買い与える父親の気持ちとは、こういうものなのかも知れない。年相応に無邪気な笑顔を見せるフェルを見て、不覚にもそんなことを考えてしまった。

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