スマイルバーガー

@wizard-T

その客の事を私は知っている

「いらっしゃいませ」


 誰であろうが分け隔てなく、そう言わなければいけない。

 王様だろうが何だろうが、「お客様」と言う一つの単語で区切られるべき存在。もちろん、家族連れと言う名の「上客」であろうとも。


 この仕事に書き入れ時と言うのがあるとすれば、それは今この時間帯だろう。私だってほんの二年前まで、向こう側のそのまた向こう側の人間だった。

 デパートやら何やらでいろいろな物をむさぼり、その後に仲良くこういう店に入ったり、あるいは上の階のレストランで食事をしたり。そんな事ができる程度には幸福であり、裕福であった。


「すみませんチーズバーガーセット二つ、あと単品でチキンバーガー!」

「フィッシュサンドセットとキッズセット!」

「順番にお並びくださいませ」

 一応二列分のお客様に対応できるとは言え、どちらの列にも三人以上並んでいる。まったく珍しくもない話だ。

 私は接客と会計と梱包の担当で実際に作る訳ではないとは言え、この時間帯は相当に忙しい。まあ朝メニューからこのピークが終わるまではほんの少しの小休止しかなく、それこそずーっとレジ付近に張り付いていなければならない。

 そんな中でも笑顔を絶やすわけには行かない、実に厳しい職場だ。

(まったく、みんながまぶしく見えて来る……私がその手助けになっていればいいとか、そんな虫のいい事はとても言えたもんじゃないわよね……)



 私を含め、このお店のバイトは十名いる。

 六人が学生で、二人がパート主婦で、残る二人がフリーターである。


「まずは賃金労働ってのを経験しておきたくて」

「あらそういい事ね、うちの夫の会社はどう」

「すみません、実は第一希望先この会社なんです」


 その中でも学生は将来の希望を語り、主婦は家庭の事を語っている。

 学生はいずれはここから羽ばたいて立派な社会人になって行き、主婦の子どももそうなるのだろう。本当にうらやましい。


「あのすみません、羽川さんのシフトちょっと多すぎやしませんか」

「いいんです、私がそうしてるんですから」

「んな事言ったって水曜以外休みなしでしょ、もう一日か二日減らせませんか」

「先立つ物がどうしてもね」

「そうですか、体壊さないでくださいよ」


 でフリーター二人の内ひとりはいわゆるバイトリーダーで、ほどなくしてこの店の正社員になるらしい。これまた立派な道だ。


 そして、残る一人が私だ。



 このバイトが終わったら次はまた別の場所で働かねばならず、それこそ休めるのはバイトリーダーの言う通り水曜日だけだ。

 月月火水木金金ならぬ月月火日木金金の生活をして、貯金はまるで貯まらない。月に一万円の貯金ができればそれこそ上等であり、家からこの店に行くことさえも徒歩三十分かかる。肥満の権化のような店に行くたびにやせて行く自分を哀れむ人もいたが、私はまるで気にしていない。気にする余裕もないからだ。

 寝て、起きて、帰って、排せつして、風呂に入るためだけの空間。それが今の私の家だった。



 何故か知らないが、頭が少しふらつく。嗅ぎ慣れたはずの油っぽいにおいのせいにするには、あまりにも突発的な不意討ちだった。まるで生まれて初めてお酒を飲んだ時のような気分だ。制服のえりが濡れ、アラフォーと言う肩書以上になった肌が浮かぶ。

 疲れているか疲れていないかで言えば、間違いなく疲れている。とは言え黒い猫だろうが白い猫だろうがネズミを捕らえるのがいい猫でありネズミを捕らえないのがダメな猫である以上、店も客もこちらの事情など斟酌しない。少しでも手を抜けばたちまち切られるのは目に見えている以上、手を抜く事などできるはずもない。


 そんな事をしている間にも、また客が入って来る。両手に買い物を抱え込んだ男性と、その妻子らしき女性二人。律儀に列に並ぶ成人男女に対し、少女の方はやけに嬉しそうにはしゃぎまわっている。見るからに安物の洋服、それでも私には一張羅に値するそれを着てはしゃぐ少女は、まったく年相応かそれ以下に見える。


「いらっしゃいませ!ごゆっくりどうぞ!」


 いつものあいさつのはずなのに、勝手に声が甲高くなる。

 ただの国語教師と、ただの小学三年生。そしてその妻及び母。まったくありふれた存在に向けて、そんな事をする必要は何にもないのにだ。

「ダブルバーガーセットください。ここで」

「かしこまりました、はいダブルのセット」

 注文を処理して行くと同時に行列は短くなり、三人の親子は近付いてくる。まったくわざとでもないだろうが私の列に並び、笑顔で迫って来る。


「キッズセットにダブルバーガー、それからフィッシュサンドを単品で」

「お持ち帰りで」

「いえここで食べます」

「はいかしこまりました、キッズセットダブルフィッシュ!」


 やがて巡って来た彼女たちの注文に対し、隣の学生の子があからさまに嫌そうな顔をしてこっちを向いた。そりゃそうだろう、こんなにデカい声を出して復唱する必要なんか全然なかったんだから。

 全然なかったのに大声を出してしまい、後ろのビジネスマンを一瞬びくりとさせてしまった。

「やっぱり羽川さんちょっと休んだ方が」

「この後三時まででしょ、いつもの事だし」

「少しでもつらくなったらすぐ呼んでくださいよ、いつでも俺控えてますから」

 自分の子どもでもありえなくはない年齢の学生に心配される程度には打撃を受けていたらしい私はなんとか必死に笑顔を作ろうとしたが、幸いなのか不幸なのか誰も見ていない。



 その間にも次々と注文が出来上がり、持ち帰る人間は持ち帰り店内で食べる人間はトレイをもって席へと散っていく。

「ちゃんと丁寧に食べてね」

 やがてやって来たその親子連れに向けて、年かさの女性らしい事を言ってやる。おもちゃ付きのキッズセットを前にはしゃぐ少女を前にして、おばさんの分際でずいぶんと重苦しい事を言い出してしまう。どうにもならない悪癖だ。

 さて彼女は席に着くなり、いただきますの挨拶さえなくやたらと夢中になって被り付いている。


 みっともない、はしたない、恥ずかしい、お行儀が悪い、情けない。


 そのどれもが当てはまりそうな食べっぷりに、眉をひそめるような人間は一人もいなかった。

 もしこんな所に誰かそういう世界の人がいたら間違いなくマイナスとしてしか映らないだろうからやめなさい、そう言い聞かせていた人間ならばここにいたが。










 由美は、実にいい笑顔をしている。カウンターの向かいの席でこっちを向いて食べるその姿は、まさしく自分が羽ばたかせようとした天使の笑顔だった。



 かつて私はその笑顔をみんなに見せたいと言う思いに駆られ、それ以外についての視界をすべて閉じてしまった。

 芸能事務所に送り付けた由美の履歴書は私が就職希望時に送り付けたそれの枚数を上回り、そのために何十人、いや百人単位の業界人とも会った。

 しかし結果はどこまでも無残であり、残酷であり、無慈悲だった。エキストラとして二度ほど特撮ヒーローものにかかったのがほぼすべての戦果であり、ひとつとして由美を抱え込んでくれる事務所はなかった。


 何が悪い、何が悪い?その自問自答の繰り返しの中で、私は由美を歌にダンスに塾に通わせ、エンジェル係数を一気に上げた。

 食事も服も自分の分さえも惜しみ、夫のマイホームのための貯金にまで手を付けた。それでも成果は上がらず、講座の人間と芸能事務所を太らせただけだった。


「ああもう、どうしてこうなるの!」

「だって……」

「もうちょっとしゃんとしないからでしょ、だから落ちるの!この前テレビ局の人と話した時だって!」

「でもその時はそのおじさん笑っててくれたよ」

「あれは愛想笑いって言うの、内心ではこんな落ち着きがなくて礼儀のなってない子はダメだなって言ってるの!あんなに食べ散らかしてああみっともないみっともない!」


 すっかり目から輝きを失った由美、不出来な友だちを三人ほどなくした由美をしかりつけ、その上で泣きわめいた。うまくなったのは作り笑顔だけだった。




 だと言うのに今五百円のセットを満面の笑みでほおばる由美の顔は、私がどんなに求めても得られない宝石だった。

(「いい?ちゃんとしていない子は嫌われるわよ。ゆっくりと、ゆっくりと、決してがっついたりしないでちゃんと食べるのよ。あとちゃんとよく噛む事、そうしないとブクブク太ってデブになっちゃうからね」)


 業界人との会食の度にそう言い聞かせていた時の由美は、気の毒になるぐらい手を震わせていた。言うまでもなく福沢諭吉が数人いなくなるレベルの新物の洋服を着せていたため汚すのは絶対厳禁であり、それもまた由美の心と体を強く縛り付けた。目を泳がせながら私の方を向かないでお行儀よく豪奢な食べ物を嚙み砕くその姿は、まったくただただ哀れな少女でしかなかった。

 その上に私がおいしかったでしょ、ちゃんとお礼を言わなきゃと言いまくるから由美はすっかりおびえ切ってしまい、いつの間にか拒食症患者のモデル体型に近付いて行った。今と比べると七キロは軽かっただろう。



(上下四千円、下着や髪飾りも込みで五千円……それこそ実用一点張りの安物の服と安物のディナー、そして安物のおもちゃ……)


 たぶん、由美はあれからオトモダチの数も増やしている。

 転校もしたし、ほぼゼロからの再スタートができた。たかがエキストラで二度出ただけの少女など、有象無象でありその他大勢である。

 私はその彼女のために、あと九年間はこうして戦わねばならないだろう。いくら金銭的な面が終わっていようと、私には由美に対してそこまでする義務がある。

 確かに一応財産分与は受け取ったが、その大半は九年間の養育費一括払いと勝手に持ち出した夫の預金の補填で消えてしまい、私の手元に残ったのは1Kのアパート一年分の家賃とたった八万円の現金と、ほんのわずかな私物だけだった。




 そんな私とほんの十数メートルの距離を隔てた先にいるその二人と、泥棒猫とも呼称できるはずの女の顔。

 しかもよく見ればその女は太っていると言うか、十年前の私と似た腹をしていた。

 紛れもない、由美の弟か妹。

「こらこら、ちゃんと手を拭かなきゃダメじゃないか」

「ごめんごめん、お姉ちゃんがちゃんと守ってあげるから!」

 当たり構わずがなり立てる事も、手を伸ばした瞬間に叩く事もしない。

 実にみっともない夫婦に見えているのは、たぶん私だけだろう。


 三人とも、ただひたすらに笑っている。三人合わせて千円相当の物を口に入れながら、ただの店員の前で笑っていた。

 やがて三人の中で唯一私の知らない存在が笑顔で頭を下げながらトレイを返し、そして笑顔を私の視界から消しながら二人と手をつないで去って行った。


「ありがとうございましたー」


 私の声が、私の声として届いているのかどうかはわからない。



 わかろうがわからなかろうが、私の視界にあろうがなかろうが、笑顔も泣き顔もまぎれもなく存在する。

 十センチであろうが一万キロ先であろうが、真正面を向こうが真後ろを向こうが関係などない。先手だろうが後手だろうが、消しようのない存在としてあり続けるだけ。


 で、今の私に求められるのは、あくまでもちゃんと声を出し、ちゃんと注文を聞き、ちゃんと会計を間違えないと言う役目だけ。その事を忘れればたちまち放り出される。


「ああ羽川さんあと一時間半ですけど、ちょっと」

「大丈夫だから、もうピークは過ぎたし」


 たった一人に対してできなかったことを、何千人単位にしている。かつて何千人の前に笑顔のまま放り出そうとして一人も笑顔にできなかった女のリベンジかリトライかはともかく、私はもう少しだけ笑顔を作り続ける。


 今日も、明日も、明後日も。何千人と言う存在の中の、ただ一人のために。


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