3話
「優希さん…優希さん…」
妻を抱いたのは、何日ぶりだろうか。結婚してから抱いたことがあっただろうか。
だけど、別に抱きたいと思って抱いているわけではない。
僕は今、現実逃避のために妻を抱いている。
「真純……さん……」
控えめに善がる妻を見て、彼からは僕がこう見えているのだろうかと最低なことを考えてしまう。
豊満で柔らかい、女性特有の胸に顔を埋めて邪な思考を掻き消す。この感触は嫌いではない。
だけどやっぱり僕は、彼に抱かれている時の方が幸せだと感じてしまうのだ。
「真純さん……」
彼女は苦しそうに——優しく笑い、僕の頭を抱き寄せた。
「愛してます。私はあなたを愛しています」
温かい言葉が、罪悪感という名の毒を作り出し僕の心を蝕み、吐き気を催す。やめてくれ。僕は、僕は君に愛されるような人間じゃないんだ。
「っ……!」
「あっ……!真純さ……ん……っ……」
彼女をベッドにうち伏せに押し付け、醜い自分を誤魔化すように激しく抱き潰す。
彼女は苦しそうに喘ぎながら震えているが、嫌だとか、やめてとか、そういう言葉は一切言わない。
ただただ、ぶつけられる僕の苛立ちに耐えていた。
行為が終わると彼女はぐったりとして、少し怯えるような目で僕を見つめた。
「……優希さん、身体大丈夫?」
「……はい。……びっくりしました。……あんなに激しいの初めてで」
「……お水持ってくるね」
「……ありがとうございます」
寝室を出て冷蔵庫を開け、水を2本持って寝室に戻る。すすり泣く声が聞こえてきた。
「……優希さん?」
「あ……真純さん。おかえりなさい」
僕が部屋に入ると、彼女はなんでもないように笑った。その笑顔を見ると心が痛むからやめてほしくて、何があったでしょと彼女を問い詰める。すると彼女は笑顔の仮面をしまって、俯いた。そしてぽつりと言葉をこぼす。
「不安なんです。あなたがいつか、壊れてしまいそうで怖いんです」
「壊れる?僕が?」
「……来てください」
手招きされ、寄るとベッドに引き込まれた。抱きしめられ、頭を撫でられる。
「ハグすると、ストレスが30%減るんですって。……でも、それだけじゃあなたのストレスは癒せていないですよね?」
「……」
「……真純さん、心療内科にお世話にならなきゃいけなくなる前に、全て吐き出しましょう。……私は全部受け止めます。どんなことでも。……私以上に愛する人がいるのなら……私は……その人があなたを幸せに出来る人なら……あなたをその人に託したいです」
それはつまり、浮気相手のところへ行けということだろう。光輝のところに。
簡単に言ってくれる。僕がどうして君と結婚したのかも知らないくせに。
相手が同性だなんて、僕がゲイだなんて、思ってもいないくせに。
「…真純さん。今日ね、私の友達が、自分はレズビアンなんだって打ち明けてくれたんです」
「な、何…?急に…」
「…私は、彼女がレズビアンだなんて思いもしませんでした。…彼女は高校生の頃、彼氏がいたから。だけどそれは…"普通"を装うために付き合った人だったそうです。…ねぇ、真純さん。…あなたは…」
その先の言葉は聞きたくなくて、咄嗟に彼女の口を塞ぐ。
「…」
「…」
彼女は真っ直ぐに僕を見つめた。曇りのない目で。優しい目で。
これ以上彼女に嘘をつくことは出来ないと諦めざるを得なかった。
手を離しても、彼女は言葉の続きを紡ごうとはせず僕を真っ直ぐに見つめたまま黙っていた。僕の方から話すのを待っているように見えた。
「…僕は…」
「…はい」
口籠ってしまうが、彼女は口を挟まずに僕の言葉を待ってくれた。
目を合わせ、息を吸い込み、言葉を放つ。
「…ごめん」
「…何に対する謝罪ですか?」
「…僕は最初から、君を騙していた。僕は…」
僕はゲイだ。その一言が言えなくて詰まってしまうと、彼女は僕の手を握って「私はあなたを否定しません」と微笑んだ。
「なんで…自分を騙していた人間にそんなことを言えるんだ…」
「…それでも私はあなたを愛しているから」
「愛してる…なんて…よく言えるな…」
「…自分でも馬鹿だと思います。…でも…私は…あなたに嘘をつかせてしまった世間には、どうしようもないくらいの怒りがありますけど…あなた個人に対する怒りは湧かないんです」
「なんでだよ…僕を責めろよ…責めてくれよ…」
「ごめんなさい」
「優しくしないでよ…こんな僕に…優しくしないでよ…」
「…わかりました。じゃあ、突き放します」
そういうと彼女は言葉通り僕を突き放した。そして、俯いてこう言う。
「…離婚しましょう。真純さん」
「…離婚…」
「…はい。…別れましょう。あなたは私以上に愛する人が居るのでしょう?その人と幸せになってください」
そういうと彼女は立ち上がり部屋を出ようとする。
「ま、待って…こんな時間に出て行く気!?」
「…いえ…リビングのソファで一夜を明かして…明日出て行きます。…今日は一人で寝たいですから」
「僕がソファで寝る。君はベッド使って」
「…はい」
「…じゃあ…おやすみ、優希さん」
「おやすみなさい」
寝室を出て、リビングのソファに横になる。
「…光輝」
妻から離婚してほしいという話をされたと、君と幸せになれと言われたと、彼に伝えたら彼はどういう顔をするのだろう。喜んで僕をもう一度恋人として迎え入れたいというのだろうか。一度は自分を捨てた僕を。そして「今度こそ守るから」というのだろうか。
いや、きっと僕はこのままでは同じ過ちを繰り返すだろう。彼との未来を望むのなら、守るなんて言わせては駄目だ。守られていては駄目だ。
覚悟は決めなければ。世間の冷たい視線を浴びながらでも彼の隣を歩く覚悟を。
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