2話
「じゃあ、行ってきます」
「はい」
「……今日も遅くなると思う。飲みにいくから、夕食は要らない」
「はい。わかりました」
「……うん。ごめんね。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
最近、夫の様子がおかしい。
残業や飲み会の頻度が以前より増えた。
疲れている顔をすることが多くなった。
謝る頻度が増えた。飲み会や残業ばかりで寂しい想いをさせていることに対する謝罪だと、私は解釈しているが…。
そのことを友人達に相談すると、友人の一人である
「浮気…」
私も疑ってなくはない。だけど、彼はあまり女性に興味が無いという。本人曰く、性欲というものがあまり無いらしい。私もそうだ。セックスというものが苦手で、あまりしたいとは思わない。だから私達は結婚した。
彼とは付き合ってから数えるほどしかしていない。子供も居ない。
彼が浮気をしている姿が想像出来ない。
「旦那は子供欲しくないって言ってるんだっけ?」
「余計に怪しいよね」
確かに夫はそう言う。しかし、それは私も同じだ。私も子供は望んでいない。
「旦那と二人で生きていく気? 辛いよー? あたしは無理だわ。あいつと二人なんて」
そう言って幸子は夫の愚痴をぽろぽろとこぼし始める。わかる分かると雪乃。
私達四人は高校の同級生で、美穂以外は既婚者だ。だけど正直集まる度にと雪乃と幸子から夫の愚痴を聞かされるのは少々しんどい。そして決まって二人はこういうのだ。『夫を好きで居られるのは新婚のうちだけ』と。
私はもう結婚して一年に経つが、彼に不満を抱いたことはない。具体的に夫への愛情が無くなるのは子供が産まれてかららしい。なら大丈夫だ。私達夫婦は子供を望まないから。
「……優希はなんで子供作りたくないの?」
美穂が私に問う。
その理由はあまり言いたくない。「妊娠とか出産が気持ち悪いから」なんて。そんなこと言ったって「私も最初は不安だった」と気休めを言われて終わりなのだろう。
私は、自分の中に命が宿ることを想像すると気持ち悪くなるのだ。妊娠出産という、生物として当たり前の機能が、気持ち悪くて仕方ないのだ。
「……ごめん。悪いこと聞いちゃったかな」
答えないでいると美穂は申し訳なさそうに謝った。彼女は優しい。あまり深くまでずけずけと踏み込んでこない。だけど代わりに、自分のこともあまり話さない。
たまに美穂は寂しそうな顔をする。何か悩みがあるなら言ってほしいが、聞いても彼女は大丈夫だよとしか言わない。昔からそうだ。私達にさえ、心を開いてくれない。
「……ちょっとトイレ」
美穂が席を外すと、話題は夫の悪口から美穂の話に変わる。
「美穂さ……マジでなんなん?言いたいことあるなら言えって感じよな」
「な。……うちら友達だと思われてないんかな」
ため息をつく二人。キツイ言い方だが、二人は美穂のことが嫌いなわけではないと思う。むしろ心配している。私も。
「嫌いだったらわざわざこないよ」
「……そうかなぁ……」
「ユキが旦那の愚痴ばかり言うからうんざりしてんじゃない?」
「はぁ?サチだって愚痴ばっかじゃん」
「まぁまぁ……。……戻ってきたら聞いてみようよ」
「どうせ『大丈夫』しか言わないよあいつは」
雪乃の言葉にうんうんと頷く幸子。すると「なんの話?」と美穂が戻ってきて、二人は気まずそうに目を逸らす。
「美穂の話だよ。……もうちょっと私達を信用してほしいって話」
私から話を切り出すと、雪乃と幸子もうんうんと頷いた。美穂はため息をついて「ごめん」と俯いてしまった。そしてそのまま「私ね」と私達を見ないまま「みんなが羨ましい」とぽつりと溢した。
その先を待ってみるが、言葉は続かない。
「……羨ましいって何が?」
痺れを切らした雪乃が、少し苛ついた様子で問う。美穂はふーと震える息を吐いて、顔を上げた。
「私、"恋人"が居るんだけど…"この国じゃ"結婚出来ないんだ。私は恋人と家族になれない」
どういうこと?と雪乃と幸子は首を傾げる。
私はなんとなく察した。だけどそれは私の口から言ってもいいのだろうか。
「……美穂、それはつまり……」
美穂を見る。こくりと頷いた。
「……美穂の恋人は、女の子なの?」
私の答えを美穂は頷いて肯定し、少しホッとしたように笑った。
「……そっか。……そうなんだ」
何を言っていいか分からず、言葉が出なくなる。雪乃と幸子も黙り込んでしまった。
「……ごめんね。こんな空気になっちゃうから…あんまり言いたくなかった。でも……隠しておくのしんどいなって、ずっと思ってたんだ。……今、言えてすっきりしてる。……ありがとね、ユウ。……ユキとサチも」
「……ごめん。……正直、想像外すぎて、どういう反応していいかわからん」
「……美穂は……つまり……レズなの?」
雪乃が問う。
「……うん。レズビアン。……勘違いしないでほしいんだけど、女なら誰でも良いわけじゃないよ。みんなのことは友達だと思ってる。私が好きなのは彼女だけ」
「……でもさ、美穂、前に男と付き合ってたじゃん?」
幸子が言う。そういえばそうだ。美穂は高校生の頃彼氏が居た。
「……うん。……彼には悪いことしたと思ってる。……私は"普通"になりたくて……彼のことを利用してたんだ。……"普通"を装うために」
「……最低じゃん」
「サチ!」
幸子を叱る雪乃。美穂は「事実だから」と少し辛そうに笑って幸子を止めた。
「……ごめん」
「ううん。下手に『美穂は悪くない』って言われるよりはマシだよ。私自身、最低なことした自覚あるから。…私ね、その最低なことを、また繰り返そうとしてたんだ。付き合った男性は、彼だけじゃないんだ。だけど、二人目の彼が本当の私に気づいてくれて……本当に好きな人のところに行きなって、私を突き放してくれたの。『俺は君に幸せになってほしい。君を縛り付けたいわけじゃない』って」
「……良い人だね」
「良い人すぎでしょ」
「うん……私には勿体ないくらいね。……彼のおかげで、私は今の彼女と付き合えたんだ。……あのさ……彼女のこと、自慢しても良い?惚気てもいい?」
恐る恐る問う美穂。「当たり前じゃん!」と雪乃が泣きながら叫んだ。幸子も「うるさ……」と耳を塞いで苦笑いしつつも、泣いていた。私ももらい泣きしてしまうと、美穂も「なんでみんな泣いてんの」と泣き始めてしまった。
「だって……あたし、美穂がそんな辛い思いしてるなんて全然気付いてやれなかった。……悔しいよ。友達なのに」
「…ユキ…」
「……気付かないっしょ普通。彼氏居たし」
「……うん。言わなくてごめんね。本当はちょっとだけ……二人は気持ち悪いって言うかなって疑っちゃってたんだ」
「言うわけないじゃん。てか、二人?三人じゃなくて?」
「えっと…」
雪乃と幸子を指さす美穂。私は指されなかった。
「…私は?」
「ユウは……打ち明けても大丈夫だと思ってた」
「ちょっとぉ!なんであたしらは疑われてんだよ!」
「いや……ごめん……ほんとに……二人ってちょっと性格キツいから……」
「うちらのことそんな風に思ってたの!?」
「ごめんなさい。本当に」
むっとする雪乃と幸子。だけど、どこか嬉しそうでもあった。美穂が初めて本音を話してくれたことが嬉しいのだろう。私も同じだ。
「美穂、もう隠しごとはないな?」
「うん。もうないよ。これからはちゃんと話す。……全部は……話せないかもしれないけど……」
「隠し事で思い出した。優希の旦那、絶対怪しいよね?」
話題は私の夫の話に戻ってしまった。
「う、うん……でも……浮気するタイプだと思えないし…」
「甘いな優希」
「徹底的に問い詰めるべきだよ」
「……私が言うのもなんだけど、ちゃんと話した方がいいと思う。浮気じゃないにしろ、何かしら抱えてると思ってるんでしょ?」
美穂の言うとおりだ。
「……そう…だよね…」
だけど今日はきっと帰ってこない。もしかしたら明日も、明後日も朝帰りかもしれない。
話す時間を取るなら休日しかない。もしくは、無理を言って早く帰ってきてもらうか。
三人は口を揃えて「話すなら早めにしなさい」と言う。
「……そうだよね……うん。私、頑張る」
その夜、彼が帰ってきたのは十時ごろ。
「お帰りなさい」
「…ただいま」
寝ててもよかったのに。と彼は疲れた顔で笑う。そしていつものように私に抱きついてきた。
「…上司から仕事のことで愚痴愚痴言われてさぁ…」
「…お疲れ様です」
最近、彼は帰ってくるとタバコの匂いがする。その香りが私の胸をざわつかせる。彼はタバコを吸わない。
一緒に飲み会に行く人がタバコを吸う人なのだろう。そうだ。きっとそうだ。
「…優希さん。…僕が浮気してるんじゃないかって疑ってるでしょ」
私の肩で彼がぽつりと呟く。彼の方からその話を切り出すとは思わなかった。
正直に疑っていることを肯定すると、彼はそうだよねと笑って私を抱きしめた。
「…不貞行為はしてないよ。…ごめんね。心配させて。ねぇ…優希さん…」
「キスしても良い?」と、彼は私の耳元で囁く。そんな流れだっただろうかと戸惑っていると、身体を離された。そして頬を撫でられる。
「あ、あの…真純さ…」
顔が近づく。
最後にキスをしたのはいつだっただろうか。もう思い出せない。
だけど別に私は不満はなかった。彼とキスをしたいとか、触れたいとか、触れられたいとか、そんなことを思うことはあまり無かったから。側にいられるだけで満足だったから。抱きしめて貰えるだけで、充分満たされるのだ。セックスやキスをしなくとも。
「んっ…真純さ…」
彼から息ができないほどの激しいキスをされるのは初めてだ。
「優希さん…今日…いい?」
誘われた。珍しい。あまり女性に対してそういう気持ちになることがないと言っていたのに。
『…私は"普通"になりたくて…彼のことを…利用してたんだ。…"普通"を装うために』
何故か不意に、美穂の言葉が蘇る。
いや、まさか。…まさかとは思うが、そうでない証拠もない。
「ねぇ、優希さん……」
切なげな声で私の名前を呼んで、彼は私の手を自身の股間へ持っていく。
「あ…」
「…ねぇ…ベッド行こう」
恐る恐る彼の顔を見上げる。辛そうな顔。その顔は、私を抱きたくて我慢している顔なのだろうか。
違う気がする。
だけど、私を求めているのは事実なのだろう。
私は誘いに応じ、彼を連れて寝室へ向かった。
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