第2話 俺の名は


俺の名は「高戸 賢二」45歳 独身。

身長は168(公称170センチ)中肉中背のオッサンだ。

ハゲてないのが幸いだが、白髪は増えたな。

最近太り出したのは、内緒だ。


子供のころからマンガとアニメが大好きな所謂「オタク」だった。

晴海のコミケにも通ってた。

でも俺の時代のオタクは肩身が狭くてな。

漫研のくせにテニス部を掛け持ちとか、ファッション雑誌を読んだりとか「脱オタク」に必死だったような気がする。

おかげで彼女もいたし、いたって普通だった気もする。

漫画家になりたい夢は持ってたけれど。


とにかく運はなかった。


バブルがはじけて親父は失業。

俺は大学にも行けず、高卒で地元企業に就職。

最初の会社は今でいうブラックで、工場勤務と寝るだけの毎日。

彼女とも疎遠になり、自然消滅のように別れた。

マンガを描く時間もなく、いつしか漫画家への夢も消えた。

ワンマン会社で給料も安く、このままじゃ潰されると思い、10年で転職。

トラックドライバーや接客業、いろいろやってみたが、希望退職やら倒産やらで長続きはできなかった。

おかげで社会人スキルは幅が広い。


トラックドライバーをやってた頃、偶然に元カノと会った。

10歳ぐらいの息子といっしょで

「元気にやってるんだな」

なんて話をしたら

「あら、この子はあなたの子よ」

と笑顔で言われて、心臓が止まるかと思った。

冗談、と笑ってくれたけど、結局連絡先も交換せずに逃げるように去った。

その日からなんとなく結婚はあきらめた気がする。

理由はうまく言えない。


今の会社に転職したのは8年前だ。

東京近郊の化学工場。

都内にないのに「東京工場」というのはなぜなんだろう?

化学工場勤務だからと言って、化学に詳しいわけじゃないぞ。

水兵リーベがかろうじて言えるぐらいだ。

水酸化ナトリウムと苛性ソーダの違いはわかるけどな。

っていうか同じものだし。


今日は休日出勤だ。

新しい原料の濃塩酸をポリドラムに詰め替えて、サンプル出荷するんだとか。

今までと何がどう違うのかもほとんどわかっていないんだが、分析は俺の仕事じゃない。

こっちは詰め替えるのが仕事なのだから。


出勤してすぐにエアハン(空気調和機)とスクラバー(排ガス洗浄装置)とコンプレッサーのスイッチを入れて、試作品作成の準備を進める。

クリーンルームに部材やら原料やらを押し込み、あとはクリーンスーツに着替えるだけだ。

防塵着を着て、ゴム長を履き、防塵帽を被る。

ここで防毒マスクを使うか悩む。

防毒マスクは顔に跡が残るんだよな。

うちのスクラバーは故障知らずで優秀だ。

今まで漏えいなんてミスもしたことなかったし、防毒マスクは地味にめんどくさいし。

本来は安全のため二人作業なのだが、最近の若い奴は休日出勤を嫌う。

一人で十分手が足りる仕事なので、一人勤務だ。

一人ということもあり適当な言い訳をして、いつもの不織布マスクで済ませてしまおう。


ゴム手袋と面体を装着して、エアシャワーを浴びてクリーンルームに入室。


サンプルなので、詰め替えラインは自作。

ポンプのON/OFFも手動。

バルブの開閉も手動。

重量計を見ながら、タイミングよくポンプを止めて、バルブを閉める手作業。

難しくはない。


エアードポンプの「ポッコンポッコン」という間抜けな音とともに、濃塩酸がポリドラムへと注がれ、口からは白い煙がもうもうと上がる。

白い煙は口近くに設置したスクラバーに、面白いように吸い込まれていく。

当然俺のところには煙も来ないし、何の臭いもしない。

おっと濃塩酸の原料サンプル取り忘れてた。

原料サンプルを100mlの小瓶に取り、丁寧に周りを拭きとる。

素手で触らないとはいえ、塩酸の液滴がついていたらシャレにならん。


原料サンプル瓶を入れたユニパックにクリーンルーム用のペンで記入していたら、突然真っ暗になった。


停電!!


暗闇のクリーンルームの中で「ポッコンポッコン」とエアードポンプの間抜けな音だけが響く。

スクラバーが停止したので、狭いクリーンルームはあっという間に塩酸の煙が充満した

強烈な塩酸臭が鼻を突く。

猛烈な嗚咽と咳き込み。

停電してもエアードポンプは停まらない。

濃塩酸はポリドラムからあふれ出し、漏えい防止用大型パンを満たしていく。


早くポンプを止めて、バルブを閉めなければ。

いや、逃げる方が先か。

ちょっとまて。

出入り口はどっちだ?

ダメだ。

息ができない。

動けない。


油断大敵、後の祭り。

俺にミスはなくても、外部要因によるアクシデントは想定していなかった。

いや、防毒マスクをしてない時点で大きなミスだ。

まともな呼吸もできず、咳き込みながら跪く。

結婚をあきらめた頃からこの世に未練はなかったが、こんな間抜けな死に方はしたくない。

エアードポンプの間抜けな音に包まれていたから、これは間抜けな死に方だとしか思わなかった。


意識が遠くなる。

何だか視線を感じた。

死神が俺の死を待っているのか?

何かに意識を持って行かれそうになった。


「うがあぁぁっっ!!」

連れてかれてたまるか!!

俺は逆境に強い男なのだ。

不屈の精神で叫んだ。


あ、あかん・・・

今ので思いっきりガスを吸ってもうた。

(・・・やっぱりあなたは面白い)

声が聞こえた気がした。


何か温かいものに包まれているような気がした。

俺は意識を手放した。

浮遊感を感じたが、きっと気のせいだろう。


死んだことがないからよくわからないけど、死ぬときってこんな感じなのだろうか?



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る