鳥の名前
川谷パルテノン
頬が赤らんだ。雪焼けがどこかで夏の肌。袖はいつだって長く、道はどうにも遠い。足を取られながらもようやく辿り着いた小屋は簡素で、不便で、埃っぽかった。ヨシュアが全身に纏わりついた溶けかけの、雪とも水ともしれないそれを振り払うと小さくくしゃみをした。犬だって凍えるだろう。
父さんに言われて小屋の掃除に来たわいいけれど、一年のうちに二、三度掃除するだけのボロ小屋に何の意味があるのかを僕は知らない。建て付けも悪く、隙間風のせいでところどころ黴の這う壁際が黒や緑の地図を作っている。僕はヨシュアの顔を見ながら「寒いね」と言った。犬は分かりきったことをと呆れる様子で黙ったままだ。僕が三歳の頃に生まれたヨシュアはすっかり老犬だった。同じように歳を重ねてきたのにね。僕が中学を卒業する頃、ヨシュアが今みたいに一緒に歩いているかはわからない。あまり考えたくはなかったけどそれだけ僕にとってヨシュアは特別で大切なのだ。兄弟のいない僕はヨシュアを弟のように思っていた。今もそうだ。顔つきがいくら凛々しくなっても、誰かがもうお爺ちゃんだねなんて言っても、僕はヨシュアの兄貴なんだ。僕はもう一度「寒いね」と言って額を撫でた。
吹雪のせいで窓は開けれなかった。帰れない時のために小屋には寝袋を置いてある。帰れない時のために一食分の食べ物も渡された。ひどい話だ。自分で行けばいいのに「この家の男」ならそれが仕事だなんて父さんは言う。何が仕事なもんか。こんなところ掃除したって誰も使いやしないのに。僕は掃除なんてする気にもならなくて旧い囲炉裏に火を焚くとヨシュアとその側から離れなかった。置きっぱなしの薪はいくらか水を吸っててなかなかいこらなかったけど一度炭になれば暖かった。勝手に火を起こすと父さんに怒られるけど知ったこっちゃない。どうせ次に来るのは半年かその後で、きっとその時も僕たち二人のはずだから。ヨシュアが天井に向かって吠えた。その声は何年か前に比べると頼りなかった。少しだけ寂しくなった。天井の方を見ると何かが動いていた。よく目を凝らすと鳥の巣が出来ていた。雛鳥の声も聞こえる。か弱いのに元気だと思う。何の鳥だろうか。僕はヨシュアに尋ねた。ヨシュアは吠えるのをやめた。締め切った小屋の中に親鳥は入ってこれないんじゃないか。僕は引き戸を見つめた。吹雪が入り込んできたらたまったもんじゃない。だけど雛鳥たちをこのままってわけにもいかないだろう。僕は魚肉ソーセージを小さく千切った。脚立を壁際に掛けて巣の近くまで登る。小さなからだだった。三羽の雛鳥は首を精一杯伸ばした。僕は手の平のソーセージを指で摘んで嘴に近づけた。食べた。思わず頬が緩む。とその瞬間だった。壁と屋根の間に隙間が出来ていたようで親鳥が身体をくぐらせて入ってきたんだ。親鳥は羽ばたいて僕を威嚇した。僕は驚いて仰け反ってしまう。脚立から落ちて背中を強く打った。意識を失うほどではなかったけれど痛みにうずくまる。ヨシュアが心配そうに周りをウロチョロしていた。引き戸が勝手に開く。父さんだった。父さんは怒った口調で何かを言った。僕は返事も出来ない。父さんは鳥の巣を見つけた。すると箒を持ってきてそれを壊したんだ。落ちた巣にはたぶん雛鳥がそのままで親鳥が高い声で鳴いた。父さんはまた戸を開けると拾い上げた鳥の巣をそのまま外に放り投げた。
「何すんだ!」
やっと声が出た。痛みは不思議と消え去って僕は小屋の外へ走り出そうと立ち上がる。助けたかった。父さんが行く手を塞いで僕の頬を打った。痛くはなかった。頬は全然痛くなかったんだ。でも胸のあたりが握り潰されるようで悔しさが目の下を伝った。ヨシュアは部屋の隅っこで僕たちを見ていた。
あの鳥はなんて名前の鳥だったんだろう。あんなに近くで見たはずなのにもう全然思い出せなかった。
鳥の名前 川谷パルテノン @pefnk
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