四、

 私が「神隠し」に遭ったのは今から十年前の六月、ちょうど今頃だった。

 我が家は代々山の神を祀る役目を担っていて、特に神籬と呼ばれる古樹を大切に管理している。その役目のためか、屋敷は人を拒むかのように集落の最北にぽつりと建てられていた。

 私は山の前の道を通学路にしていたが、そこで家族以外の誰かに会うことはほとんどなかった。周囲には田畑もなかったから、農作業で賑わうこともない。道を使うのは家族と、我が家に来る用事のあるものだけだった。


 あの日は今にも雨が降りそうな分厚い雲の重なりを、ずっと眺めながら帰っていた気がする。久し振りに前を見ると、山の麓に人が立っていた。水色のロングワンピースを着て白いバッグを持った、髪の長い女性だった。驚いたあと、慌てて頭を下げて挨拶をした。この道で会う人はお客様だからきちんと挨拶するようにと、祖父に厳しく言われていたのだ。

 女性は微笑んだあと、じっと私を見つめた。お客様にしてはどこかおかしかったが、今思い出しても不思議といやな感じはなかった。

 やがて女性は足の止まった私に近づいてしゃがみ込み、懐かしいような目つきで私を見上げた。すぐそばに、庇のような長いまつげがあった。白い額はぼんやりと、影の中で浮かび上がっているように見えたあれは、なんだったのだろう。少しくぼんだ頬だけが妙に現実的で、動けなくなっているのに「幽霊ではない」と思った。

――穏子、覚えてない? お母さんよ。

 あ、と短く答えたあとが、言葉にならなかった。実母は感極まった様子で目を潤ませ、白い腕を巻きつけるようにしてランドセルごと私を抱き締めた。母とは違う粉っぽい花のような匂いを嗅ぎながら、肩越しに家を眺めたのを覚えている。門も屋敷も庭から突き出る松も全ていつも通りなのに、ここだけ違う空気が流れているようだった。

 そのあと実母は私と手を繋ぎ、山へ向かった。といっても、登ったわけではない。山道を知り尽くした様子で反対側へ抜け、そこへ停めていた車に私を寝かせ、連れ去ったのだ。

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