五、

 それから三日の間、実母はどこかの寂れたアパートの一室で、母のように私を育てた。ご飯を食べさせ用意していたらしい清潔な服を着せ、風呂に入れて隣で眠らせた。食事も特別豪華だったわけではない。ハンバーグやカレーもあったが、味噌汁や漬物もあった。

 実母は食事を共にしながら、母と私の話を聞きたがった。私がとてもかわいがられていると知ると、涙を流して「良かった」と嬉しそうに何度も言った。母のことが好きだ、弟達もかわいい、とそんな話も涙を流しつつ聞いた。泣く時も笑う時も、目尻を下げる同じ表情をした。笑っている時も泣いているようで、時々胸がしめつけられるように痛かった。

 子供心に両親が心配しているのは分かっていたし、まだ幼い弟達にも会いたかった。それでもその頃の私にはまだ、実母の記憶が残っていた。「帰りたい」とは、言えなかった。

 実母がいなくなったのはいつ頃だったか、今はもう思い出せない。祖母が何度となく「男が産まれて良かった」「男がおらなならんかったのに」と言っていたから、私しか産めなくて離婚させられたのだろう。家には実母の痕跡はなく、父も何も語ろうとはしない。


 三日目の朝、実母は私と並んで写真を撮った。最初の日と同じ水色のワンピースを着て寄り添うように座り、私の肩へ揃えた手を置いた。点滅を始めたデジカメに、笑って、とささやくように言った。どんな風に写ったのか見せてはもらえなかったが、きっと少し強張った顔をしていたはずだ。笑っていいのか、分からなかった。

 支度を終えて部屋を出る時、また会えるかと聞いてみた。しかし実母は頭を緩く横に振って、私のおうちはもうあそこにはないの、と寂しそうに答えた。

 もう少し大きくなったあと、集落にあったらしい実家は実母の出戻りを切っ掛けに一家離散したことを知った。祖母が追い出したと、誇らしげに話していた。隣の母は悲しそうに、抱き寄せる素振りでそっと私の耳を塞いだ。


 実母は行きと同じ服を私に着せ、あの場所へと車を走らせた。もう私を探すのを諦めたかのように、山の裏には誰もいなかった。

 車から降りる前、実母は涙を流しながら「約束ね」と言った。


――自分と会ったことは誰にも言わないこと、今のお母さんを大切にすること。


 そして白く尖った小指で、最後の指切りをした。


 私も山道は知っていたから、何も問題はなかった。車は見送らず、ランドセルを揺らしながら家を、母を目指した。やがて神籬の前へ辿り着いた時、憔悴した表情で祈る父を見つけた。青ざめた顔よりも初めて見た無精髭に驚いて、悪いことをした、と急に堪えた。それでも私には、交わしたばかりの約束があった。

 どこにおった、と父は泣きながら尋ねた。私は、なんもおぼえとらん、と頭を横に振った。そのすぐ傍には神籬があって、以来、全ては神の仕業になった。

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