第18話 日常を歩む(2)

 真珠を買った翌日、ファルマスは半日かけて魔術を仕込んだ。それは今、ライラの制服の下でひっそり輝いている。汗や水に弱い真珠だが、着けっぱなしにしても大丈夫なように魔力でコーティングしたと言っていた。ファルマスはとても器用に魔術を操る。


「――で、今日は催淫・媚薬系の薬草を持ってきた。その系統の魔術の補助的な役割をすることも多いな。実際に手に取って確かめてみよう」


 今日の薬学基礎は座学でなく実習形式である。葉っぱや花、根っこなどの薬草を教師が広いテーブルの上に置いていく。その周りに、ライラを含む受講生二十名程が集まっていた。五学年ぶん合わせてこの人数であるので、薬学の授業は人気が低い。属性が淫魔なのはライラ一人だけである。


「まずこれがマッカの根。だいたい粉末にする。この香りが強い花はイラムイラム。生花のまま使うこともあれば抽出してオイルにもする。これはあれだなぁ、最近、人間界でアロマテラピーが流行ってきていて――知ってるか?――調合するのに人気だな。あとこっちはカンファルム。葉や枝を乾燥させて使うことが多いな」


 講師は十種類程の薬草を一つ一つ説明していく。薬学系の講義を一手に引き受けているこのルワンダ先生は、すらりとした長身の美女だ。藍色の長い髪をポニーテールにして背中に垂らしている。きりりとした涼やかな目元、挑戦的な笑みを浮かべる唇、陰ながらファンは多い。

 生徒たちは薬草を手に取り、観察したり嗅いだりした。ライラも真剣である。


「ときにライラ。こういうことを聞いてもいいのかな――答えていけないのなら答えなくていいのだけど。君たちの家は、《魅惑》をするとき、こういったものは使うのか?」

 ルワンダが好奇心を隠しきれない目で問うてくる。

「ええっと……他家のことは知りませんが、兄たちは使っていないと思います。魅惑系の魔術をしているところ、あんまり見たことないから予想ですけど。普通は使うのですか?」

「どうだろう。使ってないと教えてくれる奴もいたけれど。そもそもこういった専門領域は、外部に教えてくれるものじゃないよな。ただ、判明している配合は数多くあるから、実際は使っていることも多いと私はふんでいる。ちゃんと答えになっているかな?」


 補助香等を使うのは淫魔にとって沽券に関わるから言わないのだろうな、と思いながらライラは頷いた。


「ハーイ先生。そもそもファルマス君やアルフォード様にこんなもの必要ないと思いマース」

 挙手して発言したのはファルマスと同学年の女生徒だ。他生徒が頷き合い、ルワンダも「そういえばそうだな」と同意した。

 薬学基礎を取っている生徒は皆、ちょっぴり変わり者である。受講理由は趣味であったり、薬草関連の店を出すのが夢であったり、雑学好きであったり。授業の雰囲気も堅苦しくなく、仲が良いと言える。

「俺、ファルマスに精気食べてもらったことある。あいつの言う通りにしたら不調治った」

 とある男子生徒の発言で、トゥーリエント兄弟についての話が広がる。

(どういうこと?)

「ファルマス君なぁ、どう見ても淫魔なのに淫魔っぽくないんだよなぁ。安心安全のファルマスと言われてるのも納得」と別の男子生徒が言う。目をぱちくりさせているライラの横で「アルフォード様なんて、別に魅惑かけられなくても見つめられたら堕ちる自信ある……むしろこっちから食べて欲しい性的な意味で……」と言う女生徒。「アルフォード様って条件付きじゃん」「そうなんだけどぉー」


(条件付き?)

 盛り上がってきた雑談を止めるように、ルワンダがパンパンと手を鳴らす。

「んじゃ、今から催淫の補助香をいくつか試してみるから嗅いでみよう。時間が余ったら作ってみるのもいいな。匂いを覚えておくと、もし自分が《魅惑》をかけられそうになっても分かるから便利だぞ。まぁ分かっても抗えないかもしれないがな、はははっ」

 ルワンダは三角錐の形をしている補助香を瓶から取り出した。朱色、青色、紫色の三つを陶器の皿の上にのせる。生徒の一人が「それ、嗅いでも大丈夫ですか?」と質問した。

「魔術は発動しないから大丈夫。だが、単に変な気分になるかもしれないな。ヤバいと思った者は部屋から出て退避しなさい。ははは」



『何だ、その、匂い』

「えっ」

 昼休み。いつもの場所で狼――実際はレオナルド――と会った開口一番にそう言われた。ライラは少し胸がキュッとして、袖や服をつまみあげて匂いを嗅ぐ。

「駄犬、言い方がサイテーです。帰ってください」

『駄犬じゃねぇ。別に嫌がらせで言ってんじゃねぇよ。匂いが朝のときと違う。詳しく言えば、いつものライラの匂いじゃなくて、ゾワッとするっつーか、変に甘ったるいというか、魔術のときに使う煙のような?』

「何ですの、いつものライラの匂いとか。その言い分も嫌ですわ」

 どちらにしろキャロンはレオナルドに対して反感しかない。

「あ……薬学基礎の授業で、催淫の補助香を焚いたの。それかなぁ。でもほんの少ししか焚かなかったんだよ、臭い?」


 狼はライラに近づき、腰のあたりに鼻面を寄せた。そこから黄緑がかった白い魔法陣が浮き上がる。幾何学模様のなかに水滴のシンボルが描かれている。浄化系統の魔術だ。それは蒸発するように小さな泡となって消えていった。

『匂いは消した』

「ありがとう」

「それほどまでに本来のライラの匂いが嗅ぎたいと……」キャロンはぼそりと加えた。

 狼はライラの隣に伏せをする。目を瞑って眠っているようにも見える。

「そうだ。薬学の講義でね、兄様たちの噂? を聞いたんだけど、知らないことだらけでびっくりした」

 狼が片目を開けてライラを見上げる。キャロンは続きを促す仕草をした。

「ファル兄が『安心安全のファルマス』って本当に言われてて、精気の味をみて不調の理由を調べてくれる? とか。アル兄は何だか条件付き? だとか」

 キャロンは大きな瞳を瞬かせた。


「有名ですわよ? ファルマス様は、どれだけ言い寄られてもペロリといきませんの。――え、どういう意味かって? えーっと、つまり、閨を共にしない、ってことですわ。精気を食べることで相手の体の不調も分かるんですって。だから男も女も彼に食べてもらおうとしているみたいですの。でも唇に口付けようとしても、かわされるんですって。それで『安心安全のファルマス』って呼ばれているんですわ」

「そ、うなんだ……。ファル兄、私には、口にキスしてくるけどな……」

 狼は物憂げに目を伏せた。

「アルフォード様は、奔放で知られていますけれど、『慰め王子』とも言われてますの。ええと……求めたら一夜を共にしてくれるのですけど、その条件というのが、本命に失恋した、または別れた、という場合に限るのですわ。それはそれは夢のような一夜で、心の傷を癒してくれると評判です。学外でどうなのかは知らないのですけど」

「アル兄は自分のこと全然教えてくれないからなぁ。今度聞いてみようかな」


『待て、アルフォードのその条件って……それ以外は本当に手を出さないのか?』

 狼は静かに問う。声音には怒りと動揺が滲んでいる。


「学内ではそのはずですわよ。学外での素行は調べてないので分かりません。私の情報を疑いますの?」

『いや……情報に関しては並ぶ者がいない、フォレスト家であるお前の情報を疑ってる訳ではないが……。そんな、はず……』

 狼は戸惑っている。

「狼さん、アル兄と何かあったの?」

 ライラは心配そうに尋ねた。狼の横っ腹にもたれかかる。狼は、苛ただしげに爪で地面を引っ掻いていたのを止めた。

『……俺じゃなく、姉貴の、問題』

 それを聞いて、キャロンはすぐに正解を導き出す。

「あなた、初対面のライラに嫌いだの何だの言ったのはそれが原因ですわね!? シスコンですわ!」

「そうなの?」

『……まぁ、そう、だ』

「レオナルド君のお姉様って私達の三つ上、アルフォード様と同学年ですよね。私の知る限り、アルフォード様は自分から食い散らかしたりしませんわ。全部、女の側からの申し込みの、来る者拒まずですわ」


『あの匂い、一度や二度じゃねぇ』

 キャロンが瞠目する。

『でも確かに、俺も詳しくは知らねぇ』

「私がアル兄引っ張ってきて、直接聞くこともできるよ?」

 狼はかぶりを振った。

『いや、まずは姉貴に聞いてみるわ。ごめんライラ、ただの八つ当たりだった。一年前な、姉貴が酷く悄然としてた時期があったんだよ。あの姉貴が。ある日、男の匂いを強く纏って帰ってきて、翌朝見ると泣き腫らした目をしてた。姉貴がだ。それから、たまーに同じ男の匂いを残して帰ってくるんだよな。あの傲慢で強い姉貴が、あれだけ心を潰して、泣いてたくせに、いいように扱われてるんだと思うと……無性にはらわたが煮えくり返る』

 そのときの感情を思い出したのか、狼の瞳に炎が燃えた。


『貴族でもないし滅多に行かないけど、出席の必要があった夜会で偶然その匂いを嗅いだ。それを辿れば、姉貴の相手はトゥーリエント家のアルフォードだった。男の俺でも分かる、恐ろしく美しい淫魔。俺の知ってる他の淫魔もろくでなしだったから、尚更淫魔が嫌いになった、って訳……』

 ライラは沈黙している。

「不思議ですわね。アルフォード様は、自分からは誘わないし、一つの失恋につき一回、と条件も決めていますわ」

『間違いなく同じ匂いだ。それにただの接触の匂いじゃない、あれだけ体に染みついてんだ、絶対やってるだろ』

 ライラは沈黙を守りながら、頬を染めた。そわそわと狼狽しているライラを、キャロンとレオナルドがまじまじと見つめてくる。


「『おそろしく純情……」』

「ううううるさーい! 兄様のこととか恥ずかしいでしょ!」

『……つまり、いかに俺の推測だけだったか分かった。聞いてみないと分からねぇよな。……この話は、終了』

「う、うん。なんだか……兄が、ごめん」

 ライラは狼にもたれながら、手持無沙汰に尻尾を撫でていた。

「ねぇライラ? さっきから私気になってたのですけど――ソレ、狼の姿をしたレオナルド・ウォーウルフなの分かってますか?」

 意訳:何でひっついてますの? だ。

 ライラは言わんとしていることを悟り、慌てて尻尾を手放して姿勢を正した。


「あっごめん。なんだかこう、狼さんとレオは別物というか、モフモフというか、同じであって同じじゃないというか、モフモフ気持ちいいというか」

「要するに駄犬にしか見えないと」

『おい……』

「ごめん、狼さ……じゃなくて、レオ」

『……別に、今まで通りでいい』

 狼は、尻尾をモフッとライラに叩きつけた。

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