第19話 日常を歩む(3)

 連絡事項等を伝える終学活が終わり、放課後となる。このところ、学園生活が楽しい。前の席にはキャロンがいて、隣の席には狼さん――レオナルドがいる。

「ライラ、お前この後何か用事あるか?」

 レオナルドは、最初のころと打って変わって穏やかだ。話せば分かるのだが、面倒見が良く優しい魔族である。クラスメイトももう気付いている。

「今日は別に何もな――」

「なぁライラ! 部活訪問付き合って!」

「なっ、えっ、ちょ――」

 教室後方のドアから幼馴染であるエリックが現れ、手を掴まれて強引に連れていかれる。

 右手を宙に浮かせたままポカンとしているレオナルドに、かろうじて手を振った。苦笑しているキャロンも見えた。

「こういうこと止めてって言ってるのにぃぃぃ」

 エリックはケラケラ笑うだけだ。



「ねぇエリック。私とエリックじゃあ出来が違うし、部活だって合わないと思うの。まず私は部活動するか決めてないし、実践魔術の予習でいっぱいいっぱいだし」

「なぁ、隣の席のレオナルド・ウォーウルフとは仲良くなった?」

 エリックはたいていライラの話を聞いていない。

「うん、少しね。あとキャロンちゃん――フォレストさんとも仲良くなったよ」

「ふうん。キャロン・フォレストって言うと――情報屋かぁ。ライラ、ウォーウルフは狼だよ。それも凶暴なやつ」

「大狼族だよね。しかも超強い。知ってる」

「それもそうだけど、そうじゃなくて……あ、マズイ、ライラ隠れ――」

「やあやあそこにいるのはバーナード家の次男だね? そしてその黒髪、間違えるはずもない。箱入りお嬢、トゥーリエント家で大事に大事にしまい込まれていたライラ嬢だね? いやはや奇遇だ、今日はいい日に違いない」


 ライラたちがいる一階の外廊下の前方から、両手を広げながら大仰に話しかけてくる男がいた。煌びやかに輝く銀色の髪、聞いている者を蕩けさせようとしているのが分かる声色、その雰囲気。ライラでも分かる。淫魔族の誰かだ。

 ライラのなかの警鐘が鳴る。あまり近づかない方がいい――。

「シュタイン先輩、お久しぶりです」

 エリックがライラをかばうように前に出る。シュタインの方はそんなエリックを無視し、回り込んでライラに近づいた。

「へぇぇ。間近でちゃんと見るのは初めてかな。僕はヘルム・シュタイン。由緒正しき淫魔の家系だよ。君を見ると……そしてこの匂い、まことしやかに囁かれているあの話も、あながち間違っていないように思えるなぁ。いいねいいね、俄然食指が動くなぁ。ようこそ下界へ、箱入りの姫。君は誰に囚われるんだろうねぇ」


「……初めまして」

「では先輩、急ぎますので、失礼します」

 ライラは何でもない風を装った。エリックがライラの手をぎゅっと握り、早急に離れようと歩き出す。ヘルムは怪しく笑っていた。

「あはは。エリック君はすでにエントリーしているのかな? それではまた会いましょうか、我らが姫君。あははっ」


 エリックとライラはほぼ駆け足だ。廊下を曲がり、また曲がり、近くの空き教室に入るまで無言だった。息を整えつつ、窓の外や隣の教室の様子を伺う。ライラの背にはまだ悪寒が離れない。

「誰、あの、ヤバそうな奴」


 エリックが指をパチンと鳴らし、腕を突き出して掌を地面に向ける。ライラとエリックが立っているところを取り囲むように魔法陣が浮かび上がった。一言二言小さく唱え、もう一度指を鳴らす。青白く発光する魔法陣が、微細な粒子を上方に舞い散らせている。唇に蝶のシンボル――沈黙系の魔術だ。エリックは余程聞かれたたくない内容を話そうとしている。


「ヘルム・シュタイン、俺たちの三つ上で、アルフォードと同じ学年。シュタイン家は、前魔王の代までは伯爵の爵位持ちだった。歴史は長い一族で、広大な土地と莫大な財産を持っている。何故爵位を取り上げられたかと言うと――」

「新しい魔王様が就任したとき、過去も遡って数々の非道な行いを清算したから、だよね」

「そう。最近だと、精気を吸うために、極上の精気を持つレアタイプの人間を攫ってきては囲っていた。関わっていた者たちは粛清されたけど、そういった気風は変わっていない一族だ。歴史だけは長いから、派閥もある」


 エリックはため息をつく。

「ヘルムは確か三男。甘やかされて育っている。同じ名家出身の淫魔であるアルフォードを一方的にライバル視しているのは有名だ。アルフォードは視界にも入れてなさそうだけどね。仲間というか舎弟みたいな友人が二人ほどいたはず。あまり良い噂は聞かない」


 ライラは舐め回されるような視線を思い出した。

「私のこと、“まことしやかに囁かれているあの話”って言ってた。これだけ経っても、まだ健在なんだよ。ヘルムは、話を信じている派なんだと思う?」

 エリックは唇を噛む。「たぶん」

「……ごめん、俺が――」

「違う、エリックのせいじゃない。きっかけはエリックだったのかもしれないけど、あの場にがいた時点で詰んでた。そもそも私を見に来たって言ってたから、どちらにしろ見つかったんだよ。私が《魅惑》できないのなんていつか知れる。むしろ、あの幼少期でちょうど良かったんだよ」


 エリックは下を見たまま何も言わない。ライラは彼の顔を下から覗き込んで見上げ、人差し指で額を突いた。

「お願いだから罪悪感に囚われないで。私はエリックが友達でいてくれて良かったって、本当に思ってるんだから」

 覆いかぶさるようにエリックに抱きしめられた。ライラは腕を回してポンポンと背中を叩く。

 親愛の抱擁だった。


       〇


 ライラは七歳になり初めて、淫魔族の社交の場にお披露目へ行った。バーナード家とは親同士が親しくしていたのでエリック兄弟とは知り合っていたが、他の淫魔と会ったことはほぼなかった。

 お披露目も遅すぎる方である。通常三歳あたりで一度は連れ出されるのが淫魔族界の常だった。七歳まで待ったのは、ライラが半魔であることと、魔力量が少ないことが原因であった。

 ライラは純白のドレスに身を包み、両手を兄たちに引かれながら舞踏会に足を踏み入れた。幼子にだけ許されるたっぷりのフリル、黒い髪は結い上げて、ほんの少しの紅を差していた。


 舞踏会の会場は淫魔族の中でトップ3に入る名家の別宅だ。舞踏会用に作られたような大邸宅で、魔界でも指折りの大きな会場である。勿論参加数が多く、その数に紛れるようにお披露目を済ませようという魂胆があった。

 最初は上手くいっていた。アルフォードかファルマスが常に傍におり、父グイードも目を光らせていた。母の翠は屋敷で待機である。危険だからだ。正妻フルーレは自由な淫魔なので行方知れず。いつものことなので誰も気に留めていない。

 ライラが人間との半魔であること、淫魔として異質な黒髪、深緑の瞳は否応なく目を引いた。奇異なものを見る目、あからさまな蔑み等、悪意ある反応は想定内だった。ただ逆に、好意的なもの珍しさもあった。エリックの同年代の友達はそういう反応だった。


 舞踏会場には、まだダンスはしない子どもだけが集まっている場があった。ライラと兄たちもそこにいて、舞踏会を抜けるタイミングを見計らっていた。

 ほんの少しの隙だった。アルフォードとファルマスが断れない挨拶に呼ばれ、ライラはエリックと一緒にその場で待つことになった。すると、兄がいなくなったことで、ライラに話しかけたかった同年代の淫魔が彼女を囲んだ。今までライラの友達と言えば自分だけであったのに、急に取られそうな気がして焦ったエリックは、つい言ってしまった。一緒に遊んでいると知ってしまった秘密を。


「こいつなんてまだ《魅惑》できないんだぞ」

「――へぇ、それは本当?」

 子どもたちだけの場に、細身で背の高い男が現れた。あまりの突然さに子どもたちは固まる。その男は禍々しかった。

 笑っていない目でニコリと微笑み、ドス黒い狂気を瞳に宿して、その男はライラの手をすくい取った。


「微力も微力、そんな魔力しか感じられない。本当にトゥーリエント家の子? ああ、人間との半魔なんだっけ、それにしても無いなァ。確かに、これじゃあ未来永劫魅惑できるのかすら疑わしい」


 男の混沌とした不快な魔力の波動に、ライラは息が詰まる。

 男はライラの手の甲を強く擦るように圧迫した。びりっとした痛みが走る。振り払いたいのに振り払えない。

「妹に何をしているのですか?」

 急いで駆けつけてきたアルフォードが不吉な男の腕を跳ね上げ、ファルマスがライラの体を抱きしめてかばう。異常を察知したグイードは主要な会談相手を放置し、男のすぐ後ろで臨戦態勢になっていた。


「これはこれは、トゥーリエント家の姫君という訳か。はっは、確かに、匂いだけは上等だ。極上の精気を持つ母に似たのかな?」

 グイードが殺気を放つ。「お前、《鑑定屋》だな? こういう場に来るなんて久しぶりじゃないか。魔王からの粛清を逃れるために、もう魔界にはいないものだと思っていた」

「はっは。魔王なんて怖くはない、面倒なだけだ。それに今日ここに来たのは、君の大事な娘が来ると聞いたからね。会ってみようと思っただけさ」

 《鑑定屋》と呼ばれた男は邪悪に微笑みながら、さっきまでライラを掴んでいた手をじっと見る。

「淫魔の出来損ない、恥さらし――そういったところかなと思ったけど、これは、もしかして、《羊の姫》になるかもしれないな」


 羊の姫という言葉が出たとき、ホール内がざわついた。蔑みであった視線に、どろどろとした悪意と気持ちの悪い期待が付加される。

 グイードは無詠唱で無数の氷の槍を出現させた。《鑑定屋》を突き刺すはずだったそれは空を切る。

「はっは、残念グイード君。出来損ない――いや、僕は羊姫と呼ぼうかなァ。姫が役に立つのは餌としての価値だけだろうな」


 《鑑定屋》の姿はなく、ただ不気味な声だけがホールに響いた。

頭上には眩いばかりのシャンデリアが煌めき、その下では黒く濁った様々な思惑が渦巻き始める。

 トゥーリエント一家は主催者に礼をして早急に立ち去った。


 エリックは青褪め、立つのもやっとな程にふらついていた。異変を察したバーナード家の長男が彼を介抱しに行った。

「……俺の、せいだ」

 そう零したエリックは泣き始めた。



 《鑑定屋》を知らない淫魔はいない。非道で、狡猾で、厄介なことに魔力が強く高い。様々な悪事に手を染めているはずなのに、彼だけは証拠を残さない。捕まるのはスケープゴートだけである。通り名とおり、彼が得意とするのは《鑑定》である。対象の魔力量をはじめ、秘めた力や身体能力などを一瞬で鑑定する。

 ライラは《鑑定》されてしまった。同族たちは聞き逃さなかった。噂は広まるだろう。


 しばらくライラを外に出す訳にはいかなくなった。外堀が冷めるまで、ライラが自衛できる手段を身につけるまでは無理だ。でないと格好の餌食である。いくら相手がトゥーリエント家といっても、無防備でいれば手を出す輩はいる。

「ライラの精気が既に魔力量を上げること――奴は気付いているでしょうか」

 瞳に怜悧な炎を宿したアルフォードが問う。

「いや、《羊の姫》になり得るかもしれない、という憶測だろう。でなければ、宣言などせず隙を見て掻っ攫っていくような奴だ。まだ不確定要素だから、ただ情報をばらまいて、争いの種を植えたかったのだろう。そういう奴だ」


 険しい表情をしたグイードが言う。

 屋敷にはなかなかいない本妻のフルーレも、今回の事件を聞いて急いで帰って来た。その美貌の顔を歪めている。


「でももし捕まって、あの味を知ったなら、気づく奴もいると思うわよ。吸っても吸っても無尽蔵に精気があることも、あの美味しさも、その異常さに。今のところ、ライラちゃんが心を許した相手じゃないと魔力量は上がらないけど――そんなの関係ないぐらい、餌として魅力的」

「僕もそう思います」

 フルーレの言葉にアルフォードが同意した。母の翠は、大粒の涙をためながらじっと話を聞いている。

 皆、どうしたものかと重苦しい沈黙が落ちていた。

「みんな、ライラが」

 そこに、ファルマスの掠れた声がかかった。腕にはライラが抱かれている。黒髪はざんばらに切られ、服もところどころ千切れている。血の気がない顔で気を失ったように眠っていた。

 何があったのかと気色ばんだ四者に、ファルマスが首を振った。

「違う、これはライラがやったんだ……」



 大人たちが深刻な話し合いを始めたころ、ファルマスはライラの様子を見に行った。ここ数日部屋にこもりがちで、あまり顔も見られていない。侍女のミリアンが言うには、夕方を過ぎた頃には疲れた顔で眠っているという。あんなことがあったのだからそっとしておこうと思っていたが、今日はなんだか胸騒ぎがしていた。返答を待たずにドアを開ける。

「ライラ、入るよ――」

 部屋の中は、風の刃が無数に飛び交っていた。その中心にライラがいる。魔術は暴走し、家具は勿論、ライラもろとも襲いかかり、長かった髪はジグザクに切られ、衣服は破れ、肌から血が流れていた。ライラは虚ろな目をして突っ立っている。


「ライラ!」

コントロールを失った風魔術はライラの全身に傷を負わせていた。少ない魔力量でも、暴走した魔術であればダメージを与えるのに十分である。

 ファルマスは己の風魔術ですぐに打ち消し、ライラに駆け寄る。慌てて治癒魔術をかけた。

「ライラ、どうした! 大丈夫か?」

 ライラの目がファルマスと焦点を合わせた。じんわり涙が溢れ出し、止まらない。

「ごめんなさい、ごめんなさい兄様。いくらやっても分からないの、できないの」


 ライラが最近こもりがちだったのは、魔術の練習をしていたからだ。夕方過ぎにもう眠っていたのは、魔力切れで倒れていただけだった。

「ごめんなさい。ごめんさない。私、兄様たちの餌にはなれる? 役に立てる?」

 ファルマスはライラを抱きしめた。

「僕たちは、ライラを愛してるよ。魔術が出来なくても、精気なんてなくても、ライラがライラでそこにいてくれることに、愛を感じてるんだよ。――さあ、今はもう眠ろう」

 ファルマスは眠りの魔術をかけた。疲労困憊のライラは抗うことなく静かに目を瞑る。


 学園入学まで、ライラは箱入りで育った。屋敷のなかでぬくぬくと、守られながら、必死で鍛錬しながら。

 こんな自分を愛してくれる皆を愛していて、申し訳なくて、自分が不甲斐なくて、無意識のうちに精気を与えていた。ほんの少しの接触で、相手に自分の精気を、泉から湧き出でる水のように流し込んでいた。

 そのいじらしさと痛々しさを愛していて、たまに見ていられなくて、屋敷の皆はライラの精気を自分から奪いに行く。

 『キスは挨拶、挨拶はキス』なんていう家訓は、皆がそうしやすいように、ライラが気に留めないように、新しく作ったものだ。

 ライラは自分の価値を餌として以外に見つけられない。

 そんなものがなくても、皆は愛してくれることを分かっているから尚更に。

 ライラは屋敷の皆を――家族を、愛している。


《鑑定屋》襲撃事件のあとライラが屋敷に引きこもってからも、バーナード家との交流は続いた。自分のせいだと責め続けていたエリックがライラに会いに来たのはしばらく経ってからだった。自分の兄に背を押され、おぼつかない足取りでライラに近づき、何て言えばいいのか沢山考えたのに言葉が出ず、ただ口を開閉していたらライラが微笑んだ。「来てくれてありがとう」、と。

 エリックは嗚咽しながら「ごめん」を繰り返し、兄がその頭を撫でていた。

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