第16話 暴かれる秘密
ライラの目の前に青白い光が溢れ、きらきらしたホログラムが宙を舞う。
ぐらりと傾いだライラは、狼ではなく、狼のように野性的な男を押し倒していた。
「……え」
狼が消えて、男が現れた。ライラはその男の体をまたぎ、その顔を挟むようにして両手を地面に着いている。
「くっ……」
男が若干呻いて目を開けた。澄んだ水色の瞳がライラを射抜く。
隣の席の大狼族、レオナルド・ウォーウルフだった。
(……逃げよう)
とりあえず訳の分からない事態に対処するときは二択しかない。立ち向かうか逃げるかである。ライラは混乱する頭で後者を取ろうとした。
だがそうはいかない。
わずかな動きで逃亡を察知したのだろう、レオナルドに両手首をがっしり掴まれる。
「逃げんな」
ライラの目が泣きそうに歪む。
「ってかこの状況、どちらかと言えば逃げるのは俺の方だろ」
「そ、そっか」
「……」
「に、逃げないから、手を離してもらえませんか」
レオナルドがはっとして、急いで手を離す。ライラがそろりと体から降り、レオナルドは体を起こした。「ごめん」
「……それは、どういった意味で」
「……俺が、あの狼だってことを、黙っていて」
「……本当に、狼さんは、レオナルド君、なんだね?」
一言一言区切るようにライラが言った。教室での威圧感はどこへやら、レオナルドは今や正座をして項垂れていた。
「私のこと、からかってた?」
「違う」
「どうして、こんなことしたの?」
糾弾ではない。不思議なのだ。
初めて会ったのは、クラスメイトだと知る前だ。ライラがトゥーリエント家の令嬢だと知った後では、わざわざ狼になって会いに来なくてもよかった。嫌っているのだから。
「……ほっとけなかったから」
「なにそれ」
〇
ライラが小首を傾げた。くそ可愛い。
ほっとけなかったというのは嘘ではない。けれど本音は、単純に会いたかったからだった。ライラの匂いが、存在が、本能のレベルでレオナルドの狼を惹きつける。
こんなこと言える訳がない。
「お前は、怒ってないのか?」
「……。今は、びっくりしてる。落ち着いたら怒るかも」
もし正体がバレたなら、どんな反応や報復が待ち受けているのだろうと恐れていた。しかしこれは想定外である。あまりに軽くて気が抜ける。
そうか、馬鹿なのか。
「お前さぁ……どんだけ」
――俺を許すのか。
「このことキャロンちゃんが知ったらどうなるだろう?」
「あいつは知ってる」
「え!?」
キャロンもこのような形で早々にバレるとは思っていなかっただろう。もう少し泳がせて、いたぶろうとしていたのは分かっている。レオナルド自身も思っていなかった。まさか、変身が解けてしまうとは――ライラのキスに驚いて。不覚にも程がある。
「……騙してたような形で、ごめん」
筋は通さないと。レオナルドはライラにちゃんと向き直って頭を下げた。ライラが小さく「うん」と頷いたのを聞いて頭を上げる。お互い気まずい表情をしていた。
レオナルドは少しだけ迷った。ライラの放つ《魅惑》について追及すべきか。ライラの中で驚きが勝っているのか、怒りに振り切ってない今がチャンスかもしれない。
「なぁ、ひとついいか」
ライラは首を少し傾け、視線で先を促す。
「お前、なんで俺に《魅惑》を使ってるんだ?」
「……はい?」
腹の底から不可思議だという声がした。
「しらばっくれんな。《魅惑》使ってるだろ? それとも本当に無意識……か?」
「私が、《魅惑》を? してないよ」
ライラは訝し気にレオナルドを見る。そのライラからは変わらず甘い匂いがする。レオナルドを誘いかけてならない甘美さ。
うちなる狼は、この状況に苛立ってきた。耐え切れない。
「無意識だって言うんなら、教えてやる……!」
狼の本能に従った結果、レオナルドは華奢なライラの肩を掴み、押し倒した。そんな展開を予期していなかったライラの体は簡単に草地に転がる。先程とは攻守が逆の態勢である。
「ちょ、ちょっと待って」
「半分とは言え淫魔だろ」
「意味が分かんない」
「《魅惑》する意味くらい、分かってるだろ。誘いにのってやる」
「だから、違……!」
ライラの声に焦りが滲んだ。
ああ、俺の頭も焼ききれてんな――と思いながら、レオナルドは焦ったライラの声を満足気に聞いた。
(もう魅惑なんてしてこないように、ビビらすだけ、だ)
身を屈めてくるレオナルドにライラは必死で対抗するが、可愛いものである。キッ、と表情を変えて力強くも抵抗してきたが、なんとか制することができる。
「嘘」
ライラが呆然と呟く。信じられない、と言っているようだ。
「無自覚に《魅惑》なんぞしてたらこういう痛い目に――」
ライラの首元に顔を埋める。襟からのぞく首筋をべろりと舐めた。ライラがびくりと震える。
「っ! これはヤバイ」
レオナルドはその味に息を止めた。
「お前――、お前――」
レオナルドは別にライラの精気を頂くつもりはなかった。嘘のようだが、舐めただけで勝手に流れ込んできた。
(これは、美味すぎる)
押し倒した状態のまま、焦りか恐怖か羞恥か分からないが、顔を真っ赤にしたライラを見下ろす。
これぐらいビビらせて止めるつもりだった。
なのに、目を少しだけ潤ませて見上げてくるライラを見てしまうと、その決意が揺らぐ。
(ヤバイヤバイヤバイヤバイ誰か止めてくれ)
離れなければ、いやでも離れがたい。むしろこのまま貪ってしまう。
(俺の理性どこいった――!)
「私は、魅惑なんて、してない!」
ぎらり、とレオナルドを睨み上げたライラは、右腕を振り上げた。ドズッと重い音がし、自分の体が左側へと転ぶ。
「ぐっ……」
左脇腹を押さえながら呻く。こんなにダメージを負ったのは久しぶりだ。
「さっきのは、あんまりだよ! い、いい人だと、思ってたのに……!」
「お前、ほんとに淫魔か……?」
隙をつかれたとはいえ、ここまで損傷を与えるとは。
「半分ね! 何か勘違いしてるようだけど、本当に《魅惑》なんてしてないから!」
「いやでも、無意識にしてるぞお前」
「絶対にしてない」
「何でそう言い切れる」
「言い切れるもんは言い切れるの!」
「でも現に――」
レオナルドは一瞬で距離を詰め、臨戦態勢でいるライラの目の前に立った。ライラは拳を握り込んで臨戦態勢だが、予期していれば反応できる。
ライラの方へ身を屈め、念のため確認した。
「やっぱり。ものすごく甘い匂いがする」
ライラは可愛く震えながらレオナルドを見上げている。
「そんなのは、知らない」
「他の淫魔から感じたことない程、甘い」
「き、気のせいじゃないの」
レオナルドは面白くなってきた。さっきからぷるぷる震えているこの反応、緊張しているらしい。それに、殴ろうか迷いながら手が出せないようだ――馬鹿だな、殴ればいいのに。
手を伸ばして、白い頬を包んだ。体がびくりと揺れ、戸惑った目をレオナルドに向ける。
(どうかしている)
親指で目の下にある黒子をなぞる。無垢な顔立ちに、ここにだけ蜂蜜を落としたような、甘く幼気な色気がある。
(キスされるかもとか、危機感はないのかコイツは)
「れ、レオナルド君、あのう――」
「なに?」
レオナルドの口から信じられないくらい甘い声が出た。ライラの頬が赤く染まる。
「わ、わ、わ、私――」
「うん」
あわあわと閉口させる唇を塞いでやろう。そう思ったとき、意外な台詞を耳にした。
「私、《魅惑》ができないの。そもそも」
「……は?」
「だから、《魅惑》ができないの。よって、私が《魅惑》をすることはない。むしろ、できない」
「……半分とはいえ属性は淫魔だろ」
「出来損ないの、淫魔なの」
二人の間に一筋の風が吹いた。
「信じられないなら、兄様たちに聞いてもらったらいいよ。この黒髪も、黒い瞳も、異質でしょ」
「……あんまり他の奴に言うとマズいんじゃないか、それって」
「……緊急事態じゃん。レオナルド君、私の話聞かないし、引きさがりそうにないし。学園に来た以上、いつかはバレそうなことだし。それに言いふらしたりしないでしょ? もし言うようなら、私だって狼さんの仕打ちを言いふらすからね」
「言いふらすような趣味もない、けど」
レオナルドはライラの頬を包んだまま、呆然と見下ろした。
「……マジで?」
「マジで」
ここにきて、本当に魅惑されていたらどれだけ良かっただろうと――真っ直ぐ見返してくるライラを見つめながら、思う。
これが《魅惑》じゃないのなら、問題はレオナルド側だけということで。
(単純に、俺が、コイツに対して盛ってただけのこと……!)
こんな事実知りたくなかった。
レオナルドは全身の力が抜け、よろよろとその場にへたり込む。
甘い匂いがするのは、魅惑関係なしにライラ自身のもの。誘われてしまうのは、単にレオナルドが惹かれているだけ。苛々しながらもライラに会いに来るのは、レオナルドがそうしたいだけ。
(う、うわぁ。あいつの言うように、ただの、駄犬……)
レオナルドは自分自身に引いた。
「信じてくれた? ……ねぇ、大丈夫? 顔が青いけど」
両手に地面をついて分かりやすく項垂れているレオナルドに合わせるよう、ライラはしゃがみ込んだ。レオナルドの顔を覗き込んでくる。ちら、とレオナルドは目を上げたが、急いで下に戻した。レオナルドの位置からは、無防備にもスカートの中が見えそうだったのだ。
(ほんと、危機感のない!)
「レオナルド君?」
レオナルドは佇まいを直して――綺麗に土下座した。
「え、何してるの」
「……ほんと、もう、ごめん。ごめんなさい」
狼のことも、入学当初の暴言もあるが、今一番恥ずかしく後悔しているのは、《魅惑》だと思い込んで盛り、勝手にキスしようとしたことだ。ライラは気付いていないのかもしれない。馬鹿だから。
「俺の、勘違いだ……」
「うん。分かってくれて、良かった」
さっきは吃驚したよ、殴ってごめんね、と穏やかな声が頭上に注がれる。それでいいのかお前は。
「ね、顔上げて」
レオナルドは胡坐をかき、何を話すか考えた。とりあえず、もう一つ言うべきことがあった。
「あのさ、入学式のことだけど……初対面であんなこと言ってすまなかった」
「うん?」
「正直、淫魔は嫌いだ。トゥーリエント家も、嫌いだ。でも、あのときあの場所であんな風に言うべきことじゃなかった」
「……うん」
「トゥーリエント家については――俺がどうこうされた訳じゃないんだが、ちょっとした私怨だ。俺の個人的で一方的なもの。家同士がどうこうとかじゃない。あんまり交流もないし」
「私怨」
「そもそもお前は関係ないんだ。今更こんなこと言っても、って話だが、お前のことが嫌いな訳じゃない。今、俺がお前に言えるような台詞でもないけれど」
ただ言っておきたかった。
「ふうん、そっか」
ライラはそれ以上何も言わなかった。何を思っているのだろうと、レオナルドがライラを見つめるも、ライラは何を思っているのか分からない――むしろ何も考えていないような顔をして遠くを見つめている。
(ふわふわしていると言うか、変な奴だよな)
「その私怨っていうのは、教えてくれるようなもの?」
「……」
「あ、ごめん、言いたくなかったらいいよ」
言ってもいいが、ライラの兄に関わることだ。そしてレオナルドの姉も。あまり喋りたくないことだし、ライラも知りたくないかもしれない。
「また今度でいいか?」
「うん」
ライラはすんなりと頷く。
どうでもいいような、受け流しているように見えるかもしれない。けれどこいつは、ただ受け入れているだけなのだと、レオナルドには分かる。
――ゴーン……ゴーン……
「予鈴! 戻らないと」
「あー……そうだったな。まだ昼休みだったな」
今にも駆け出しそうなライラをちらりと見たレオナルドは、一つの提案をすることにした。
「お前が良ければひとっ跳びで送る」
「ひとっ跳び?」
拒絶の意思はなさそうだと判断したレオナルドはライラに近づき、軽々とその体を持ち上げて抱えた。いわゆるお姫様抱っこであった。
「えっ? ちょっ……?」
「しっかり掴まっておけよ。俺が絶対落としはしないけど、反動がくるかもしれない」
「反動?」
二人の周りに青白い光がパラパラと点滅した。レオナルドによる不可視の魔術だった。レオナルドはライラを強めに抱き直し、ぐっと膝を曲げると高く跳躍した。一歩、二歩、空気の層を踏むように空中で更に跳躍を重ねる。その度に白い光が煌めく。跳躍する度にライラの体にも重力がかかったのだろう。彼女は慌ててレオナルドの体にしがみついた。
そして一瞬で校舎の屋上へ到達した。不可視の魔術を消し、抱えていたライラを名残惜しくもそっと下ろす。
「いつもこうやって来てたの?」
慣れない感覚に少しふらつきながらライラが尋ねた。
「狼の姿でだけどな。あっちの方が跳びやすい」
「そうなんだ。ありがと。すごいね、空を飛んでるみたいだった」
「……レオでいい」
「うん?」
「レオナルドって長いだろ。レオって呼べばいい」
ライラはふわりと笑う。狼に向けられていたときと同じ、爛漫で綿毛のようなやわらかい笑顔だ。
「じゃあ私のことはライラでいいよ。教室に戻ろ、レオ」
「……ああ」
ライラはどことなく弾んだ足取りで階段の方へ歩いて行く。その後ろをレオナルドはついて行った。
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